離陸
薄暗い人間の住まいは、あたしたちにとっては広大すぎる異界だった。
それでも少し歩いているうちに、だんだん身体もしっかりしてきた。
目指すは、外へ続くドア。その近くに潜んで、人間が開けた隙に素早く飛び出す。
そう、文字通り飛び出すのだ。
いつまでもだらだら歩いてちゃスピードが足りない。
「もうそろそろいいかな?」
あたしは、いい加減乾いた背の翅に軽く力を込める。
ふわりと羽ばたいて空気を掻く。足が、自然と床から離れる。
まだ下腹の奥でべたつくやっかいな本能だけど、こういう時は助かる。
変化した肉体に相応しい動かし方は、ちゃんと前もって染みついているのだから。
飛ぶように作られているものが、飛ぶ。
堪えきれない快感で、あたしは吐息を漏らした。
頭でどれだけ否定しても、気持ちいいっていう事実からは逃げられない。
けど--。
「ちょ、ちょっと待ってっ!」
後ろから慌てふためいた声がかかった。
振り返ると、あのポンコツは大きな翅を無様にはためかせながら、よろよろ歩いている。
「飛び方、わかんないよぉ」
半泣き声で訴えてくる。
あー、もうっ!
どうして素直に本能に従って生きてるくせに、こっちはできない訳?
「肩と脚の力を抜いて、背中の真ん中あたりにちょっと力を込める。それだけよ」
「うん。力抜けばいいんだね?」
こくりと頷くと、彼女はいきなりその場にへなへな座り込んだ。
「……何やってのよ?」
「え? だって、脚の力抜いたから……」
「そうじゃないでしょ! 立って!」
きょとんとして立ち上がった彼女に向けて、両手を差し伸べる。
「あたしの手を掴んで。それで、もう一度脚の力を抜いて羽ばたく。やってみて」
「う、うん」
ぎゅっ。
水槽から出る時とは逆に、あたしが上で彼女が下。でも今度は、きっちり引っ張り上げる役割だ。
柔らかい両手を引っ張りながら、そろりそろりと後ろ向きに飛ぶ。
あたしに導かれて、初めは覚束なかった彼女の足取りも徐々に滑らかになり、翅の動きも大きくなっていく。
ふわっ。
足が浮かび上がった。
「わっ! きゃっ!」
「気を逸らさないで。そのまま!」
嬌声を上げる彼女に警告する。まだ手は離さない。
羽ばたきが大きく、力強くなっていき、飛翔速度を増し--いきなりあたしを追い越す。
繋いでいた手が解ける。
咄嗟に指先を伸ばしたけど、届く訳がない。
「あははははっ! 気ー持ちいいーっ!」
あたしを無視して、頭上をくるくる旋回する。
やっぱりこの娘は、本能の申し子だった。
一度コツさえ掴めば、身体を乗りこなす操縦テクニックはあたしなんかよりずっと上。
「これで、男の子たちの
故郷--みんなの住処に行けば、あたしたち同様に羽化した若い男たちがまとまって飛び、踊っているはずだ。
女子がそこにいけば、相手は選びたい放題。
というより、実際には手近な相手と即ヤっちゃうって形が大半なんだろうけど。
何しろあたしたちの身体は完全にそれ用になって他の事は考えられなくなるし、何より迷ったり選んだりしてる時間がもったないない。
「飛び方わかったなら、体力の無駄遣いはしないで。あたしたちは、もうご飯とか食べられないんだから」
この身体じゃ、もう栄養補給もできない。
今蓄えているエネルギーだけで、あと一日。長くても二日乗り切らなきゃいけない。
あたしはともかく、そっちには男とセックスして子作りするって崇高なご指命があるんでしょ!
「あ、そうだね」
納得した彼女を誘導して見つけたドアの近く、靴箱の陰に隠れる。ここなら人間の目には止まらないし、開いたらすぐ外へ出られる。
「こういうのって、何だかワクワクするね」
肩が触れるほどの位置で、彼女が声を弾ませる。
「楽しいはずないでしょ。見つかったら、あたしたちなんて一撃よ」
「え? 人間って、別にあたしたちを食べたりしないよね?」
「食べない。でも、目についたら潰される事もある」
「どうして? 蚊と間違えるとか? あたしたち、人間に何も悪い事しないのに」
「人間は、他の生き物より本能の領分が小さいの。だから食用や自衛とは別に、ただ気に入らない、目障り、何となく嫌ってだけで殺す」
「何よ、それぇ!」
これは、彼女を無知で脳天気と責める訳にもいかない。
魚に丸呑みにされるのは、それこそ本能に染みついた恐怖だけど、普通に故郷で暮らしていたら生きている本物の人間なんかと遭遇する機会なんか滅多にない。それこそ里から釣りや渓流遊びにでも来ない限り。
それに、説明して自分でも思い知らされる。
本能から遠ざかるっていうのは別にいい事ばかりじゃない。
生き物として無意味で非効率で、簡単に言えば「間違った」行動をやらかしてしまうリスクも増えてしまう。
あたしたちみたいな仕組みになっている生き物には、迷ったり間違ったりしている余裕はない。
だから、彼女の方が圧倒的に正しい。
あたしは間違っている。
そんな事を考えている間に、頭上で轟音が聞こえた。
彼女が驚いて、小さな悲鳴を漏らす。
見上げると、バネ仕掛けの小さな蓋を押し開けて紙の塊がねじ込まれていた。確か新聞という奴だ。
「隙間が空いてる。あたしたちなら、あそこから出られる。行くよ!」
家人が起きてきて新聞を抜いたら、あの蓋は閉じる。その後、すぐに扉が開くという保証もない。
今こそチャンスだ。
あたしは彼女の手を引いて、離陸した。
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