遡上

 外へ出て、まず周囲を見渡す。

 今までいた建物は一戸建て。庭もあって、花壇や小さな菜園が作られている。本格的な農家じゃなく、多分趣味の領分。周りの建物も似たような形で、地面は傾斜してる。周囲には緑の山が目立つ。

 あたしは、安堵した。

 最も恐れていたのは、大都市のど真ん中。集合住宅の一室という可能性だ。

 もしそうだったら、タイムリミットまでに彼女を故郷に連れて行けるチャンスはほとんどなくなってしまう。

 いや。必ずしも故郷じゃなくてもいい。

 同族が集っている渓流だったらどこでも構わない。彼女だって、特定の相手とヤリたいって訳じゃないんだろうから。

 あの水槽からしても、都会からはるばる来訪した釣り人とかじゃなく、比較的近場から親と一緒に来た子供ってところだろう。

「あの……」

 隣から声が掛かる。

「わたし、もう大丈夫だから。手、離してもいいよ。飛びづらいし」

「あ……」

 うっかりしていた。

 飛び出した時に、彼女の手を引っ張ったままだった。

 慌てて手を解く。

「やっぱり外は気持ちいいねー!」

 自由になった彼女はあたしを追い越して、ぐんぐん進んでいく。

「ちょっと待ちなさい! 行き先、わかってるの?」

「あ、そうだったね」

 どうしていいかわかんないから、あたしを誘ったんでしょうに!

 とは言っても、あたしだってアテがある訳じゃない。何しろ寝ている間に人間の速度で運ばれてきたんだから、どこからどう移動してきたのかまるっきり不明なんだもの。

 ただ、ひとつだけはっきりしている事がある。

 時間タイムリミットだ。

 あたしたちは、完全に「おとな」になってしまった訳じゃない。

 この姿は、亜成虫と呼ばれる段階だ。

 ここからもう一度脱皮して、子作り用の身体が完成する。

 亜成虫から成虫は、羽化の時みたいに大きな変質がある訳じゃない。むしろ幼虫時代の脱皮と同じで、姿形はほとんど同じささやかなマイナーチェンジ。

 あたしたちカゲロウ特有の、面倒くさい仕組みシステムだ。ただでさえ時間がもったいないのに、どうしてこんなステップを踏まなきゃいけないんだか。

 身体の仕組みの本能も、全部神様とやらが作ったのなら、そいつはよっぽど無能でいい加減で無責任に違いない。

 何にせよ、残された時間は一日か、長くても二日。

 四方のうち、その期間内にたどり着けそうな清流を目指して、そこに同族がいる事に賭けるしかない。

 少しあたりを見回して、水の流れを見つける。

 天然の川じゃない。人間が農地に導くために作った水路。コンクリートのU字ブロックを埋めた溝だ。

 故郷の渓流とは違う。流れは単調で水は濁っているし、魚や虫の気配もない。

 それでもひび割れに詰まった泥からは水草が生えて、緑色の細い身体を流れに揺らしている。

 ここにも、いのちはある。

 人間が利用するために植えて整えたんじゃない、勝手に力強く生きている生命が存在している。

 あたしの、あたしたちの故郷と無縁じゃない。見えない何かで繋がっている。

 決意を固めて、彼女の方を振り返る。

「ね、見て見て! あの花、何ていうのかな? 見た事ない植物とか、いっぱい生えてるね! すごいすごいっ!」

 呆れるくらいに楽しそうに、畝から畝へと飛び回っていた。

 珍しいものを目にしたんだからある程度は仕方ないけど、それにしたって時と場合による。

 普通に生きてる分には無駄で無意味な知識でも、変な好奇心に惑わされないですむのは利点。ほんの少しだけど、あたしは自分の生き方を肯定できたような気がした。

「……体力、無駄遣いするなって言ったよね? もう忘れたの?」

「あ、ごめん。忘れてた」

 普通ここで本当に忘れるか?

 呆れて、怒る気にもなれない。

「この水の流れを遡っていく。そうすれば山の方、川の源に近づけると思う。けど、これは単なる推測。何の保証もない。あたしの判断が間違ってれば、仲間に出会えない。ただの無駄足に終わるかも知れない。それでも、いい?」

 人間の手が加わった水流だ。途中に水門やポンプがあるかも知れない。

「うん。いいよ」

 何の迷いも悩みもなさそうな笑顔で、彼女は頷いた。

「あたし、難しい事は何にもわかんないもん。あなたを信じるよ」

「命、かかってんのよ?」

「あなたに助けられた命だもん。最後まで、つきあう」

 それを言ったらあたしはあたしで、あなたが紛れ込んでなければ今頃多分、あの水槽で魚の口に収まってたんだけどね。

 まあ、時間がないって説教したのはあたしの方だ。

 反対意見がないのなら、さっさと動くのが吉。

 あたしたちは肩を並べ、流れを遡るように飛び続けた。





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