襲撃
本来あたしたちは夜行性だ。
初秋でも昼間の日差しはキツい。熱が、じりじりと容赦なく体力を削り取っていく。
しかももう、水も食べ物も補給できない。
それでも目的地へたどり着く可能性を高めるためには、多少の無理をしてでも飛び続けるしかない。
せめてもの幸運は、微かな追い風だ。
軽量で翅が広いあたしたちは、空気の流れを利用した方が距離を稼げる。
「ねえ? 大丈夫?」
少し先を行く彼女が、あたしを振り返る。
飛び方もすっかり上手くなったし、体力もあたしより上だ。
「構わないから、先に行ってもいいよ」
水の流れに沿って行くだけだ。あたしの道案内は必要ない。生きて、男の子とエッチしたいと思ってるのは彼女だけ。
余力があるなら、あたしを見捨ててどんどん進むのが合理的。
「だってぇ。もし水路が枝分かれとかしてたら、あたしひとりだとどうしたらいいかわかなんないもん」
……どこまでもポンコツなの、こいつは。
生きて、ヤリたくて必死なんだから、そこのくらい自分でどうにかしようとか思わないわけ?
「それに」
彼女が向けた柔らかな笑顔で、膨らみかけたあたしの怒気が逸らされる。
「長旅だもん。ひとりぼっちより、一緒の方が絶対に楽しいよね?」
同意を求められても、困る。
もうひとつの目的しか残されていない。それが果たされようと果たされまいと、遠からず死ぬ。
そういうものになってしまったあたしに--あたしたちにとって「楽しい」という事に何の価値があるのか。
わかってる。
こんなのは無駄な言葉遊びみたいなものだ。
本能の自然な欲求に逆らって、屁理屈をぐだぐだ考えるのは「楽しい」。
あたしだけが、あたしだからやってる行為だ。
この充実も、命が尽きる時に終わる。
そんな事を考えながら、彼女の尻を追いかけて飛んでいると、また下腹の辺りがしこってきた。
抑えられない軽い痛みと、甘く熱い疼き。
来た!
亜成虫から成虫への、最後の脱皮。
あたしたちカゲロウだけの、特異な現象。
お腹からその少し下のあたり、肉体のいちばん敏感な部分をそっと擦ると、ほんの少しだけ高ぶりが鎮まるような気がする。
また、身体が重くなる。
距離が、少しずつ離れていく。
「あれ? ちょ、ちょっと! 大丈夫? 病気なの?」
Uターンして戻ってきた彼女が、あたしの手を掴んだ。
「……そんなはずないでしょ。最後の脱皮よ。あなたは、まだなの?」
彼女はこくんと頷いた。
羽化のタイミングが一緒だったからって、最終脱皮まで一緒とは限らない。たまたま、あたしの方が早かったってだけだ。
身体の変化は、自分自身の意志ではどうしようもない。
「……構わないから、先に行って。時間がもったいない」
「言ったよね? あたしひとりじゃ不安だし、一緒の方が楽しいって」
「……そのうちあなたも脱皮するでしょ。そこで、追いつくから」
だんだん飛びながら喋るのが辛くなってきた。
じわじわと、高度が下がっていく。
「嘘でしょ、そんなの」
彼女らしくもない、真顔。
「あたしが羽化してるのをあなたが見落としちゃうかも知れないし、道がわかれてるかも知れない。合図や印を送る手段がないんだから、こうなっちゃったら、一度離ればなれになったらお終いだよ?」
残念だけど、その通りだった。
匂いなんかで仲間にサインを残す生き物もいるけど、あたしたちはそうじゃない。そもそも本来、住処を遠く離れたりはしないんだから。
アホでポンコツなくせに、どうしてこういうところだけはしっかり気づくんだか。
「だからさ、まずそっちが羽化してよ。ちゃんと待ってるから。そんでもって、あたしが羽化する時は置いてかないでね」
「……うん」
体調のせいで気弱になっていたんだろう。
あたしは彼女の笑顔に頷いて、そのまま高度を落とした。今度は、意図的に。
まだ周囲は飛びとびに民家が並んでいる。手近な生け垣に両手両脚でつかまる。
羽化が始まると、完了するまで動けない。まるっきりの無防備だ。
「あたしがついてるからね。安心して!」
「まあ……素直に感謝はするわ」
側に彼女がいてくれるのは、悔しいけれど心強い。
もちろん単なる気分の問題。外敵に襲われても、あたしたちは戦う力は何ひとつ備わっていないのだから。
はぁ……と長く熱い息を吐く。
身体の芯から熱が広がっていくのに、指先ひとつ自分の意志では動かせない。
「大丈夫だよ。ただの羽化だもん。みんな、自然にする事だもんね」
熱く凍り付いたあたしを気遣って、彼女が明るい声で励ます。
みんなが自然にする事だから、あたしは不安なんだ--そいう思ったけど、もう声も出ない。
幼虫から羽化した時には、あんなな強烈な衝動が来た。
頭の中がヤリたいって思いだけでいっぱいになって、ぐちゃぐちゃに熟れて煮立った肉体の中から甘酸っぱく爛れた匂いが立ちのぼってくるような、あのくらくらした感覚。
最後の脱皮をしてしまったら。
セックスするための存在に完全に変化してしまったら。
この不安には、誰も答えてくれない。
あたしたちは、産んだ
羽化も、セックスも、出産も、親から教わる手段はない。
誰もが一度だけ経験して、誰にも伝えずに死んでいく。
ひとりひとりが、向かい合うしかない。
ん、ん、んん……。
声にならない呻きが、零れる。
固くなった外皮の背中が割れ、新しい翅が飛び出し、ゆっくりと解け広がる。
背を逸らすと、抜け殻から新しい頭が抜ける。
羽化の時と手順は同じ。形の変化が小さいから、むしろ姿勢は楽だ。
ただ、頭の内側に熱い何かが張り詰めてるような感覚。
「大丈夫?」
心配そうな声がかかる。
答えたいけど、まだ声が出ない。
じりじりと新しく柔らかい肌が、殻から抜け出していく。
火照りが徐々に収まっていき、頭の圧力も消えていくかと思ったその時。
視界の片隅に、動くものが映った。
「わわっ!」
まだ言葉がままならないあたしの代わりに、気づいた彼女が声を上げた。
生け垣の根元から、群れが一列になって昇ってくる。
あたしたちと同じくらいの体格だけど、数が圧倒的に多い。
二十か、三十か……ううん。もっと多い。
揃いの黒い軍服に身を包んだ、容赦のない捕食者の集団。
「ど、どうしよ……っ?」
「……に・げ・て……」
辛うじて絞り出せた声は、その三文字。
まだ脱皮中だし、翅が濡れて柔らかいままだから、あたしは絶対に動けない。
けど、あなたは違う。
飛べば奴らから逃げられる。
「逃げないよ! 約束したもんっ!」
精一杯の期待をあっさり裏切って、彼女は宣言する。
言葉だけは勇ましいけれど声は震えているし、ファイティングポーズのつもりなんだろうけど姿勢もくねくねしてる。
逃げて。お願いだから逃げてよ。くだらない約束なんか忘れて。
あたしのままならない身体のせいで何もかも無駄にするくらいなら、ひとりだけでも生き伸びた方が有意義なのに。
そんなあたしの願いを嘲うかのように、黒い隊列はじりじりと近づいてきた。
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