脱出

「魚だけ連れ帰ればよかったのにぃ。わたしたちまで巻き添えにしないでさ」

 頬を膨らませて、彼女は身体をよじった。

「愚痴ったってどうしようもないでしょ。諦める事ね」

「やだ」

 あたしの言葉に、彼女は首を振った。

「わたし、諦めるなんて嫌だもん。もうすぐ羽化なのに! 男の子とエッチもできないまま、ここであいつに喰われて死んじゃうなんて絶対嫌!」

 まあ、これが普通の反応なんだろう。

 あたしたちは、他の生き物よりも「おとなになる」って事がはっきりしている。

 身体のかたちもつくりも変化してしまうし、何よりも本能に導かれるまま子孫を残すためだけに生きる期間が「おとな」の意味。

 どうせ無駄だから楽になりたいなんて考えるあたしの方が、多分異端だ。

「ね? どうしよう? どうしたら逃げられると思う?」

 いきなり、ぎゅっとあたしの手を握る。

「はぁ?」

 何なの、この娘?

 生きたきゃ勝手に生きればいいじゃない。

 あたしは決めた。どうしようもない本能なんかには負けない。あたしとして、理性に従って死ぬ。

 どうせ誰もが同じように刻みつけられた本能なんだから、あたしがここで魚に喰われても、彼女の方が無事に生き延びれば問題なしなんだもの。

「お願い、助けて! わたし、ここから逃げたい! 男の子とダンスして、ちゃんとエッチもしたいの」

 あー、もうっ。

 エッチエッチうるさい。頭の中、それしかないのか……って、あたしたちはそういう生き物なんだよなぁ。

 喰われた方がマシって決めたのはあたしのエゴで、この娘まで巻き込んじゃいけないよね。

 生きたいヤリたいっていう方が、自然なんだし。

「見てよ。この水槽、上の方は完全に閉ざされてる訳じゃない。格子になってて隙間がある。魚を、活かすためだからね。あたしたちなら出られる」

「でもこの壁、つるつるしてるよぉ」

「どうにかして上るしかないでしょ。ほら、頑張って!」

 あたしは、彼女の尻を軽く蹴っ飛ばして壁にとりつかせた。

「う~~っ」

 半泣きになりながら、透明なプラスティックの壁面にしがみついて、どうにか昇っていく。

 やっぱりあたしより肉付きよくて出るところ出ているから、身体が重いんだろう。無様な格好でじりじり這い上がっていく。

「きゃっ!」

「っと!」

 滑ってずり落ちた彼女のお尻に、咄嗟に手を伸ばして支える。

 柔らかいお肉に、あたしの指が少しめり込んだ。

 綺麗な尻だな、ちくしょう。多分、男にすごくモテる。

 このくらい色っぽくて子作りに向いた身体してたら、そりゃエッチするため生きてやるって思えるんだろうな。

「あ、ありがと……ね」

「あたしが押すから、頑張って昇んなさい」

 とはいっても、あたしの方も一緒に昇らなきゃならないから、手で押すって訳にはいかない。いくら痩せ形で出力重量比パワーウエイトレシオ良好っていっても、相手は手がかり足がかりのないプラの壁面だ。

「構わないから、肩とか頭とか踏み台にして。もちろん、全体重かけられちゃ困るけど」

「でも……そういうのって悪いよね?」

「この期に及んで何言ってんの! あんたが生きるか死ぬか、男とエッチできるかできないかの瀬戸際でしょ?」

「う、うん。そうだよね! あたし、ここから出てエッチしなきゃいけないんだもんねっ!」

 むぎゅ。

 力強く頷いた彼女は、容赦なくあたしの頭を踏んづけた。

 それに合わせて、こっちもひたすら地味にボルダリングを続ける。

 時折頭や肩を踏まれながら、どうにか彼女をフォロー。

 どのくらい時間がかかっただろうか。

 何とか天井にたどり着く。

「うんしょ……っ、よ……っと」

 格子をつかんで懸垂して、彼女が息を切らしながら這い上がった。

 近づいてみれば隙間は広くて、あたしたちのサイズにとっては充分な余裕だ。

 夜明け前だから、人間に見つかるリスクも小さい。

 羽化した上で、隙を見て外に出れば大丈夫。

 やれやれ。

 これで、目的達成。

 あの娘は仲間たちのところへ飛んでいける。男とエッチして子孫を残すチャンスもある。

 本能サマの言う通り。

 何にも間違ったところはなし。

 めでたしめでたしのハッピーな結末になるといいね。

 けれど、エンドマークは出なかった。

「ほら」

 あたしの目の前に差し出されたのは、彼女の手。

「一緒に行こうよ」

 整った綺麗な顔で、にっこり笑う。

「だってわたし、ひとりだけじゃみんなのところまで帰れそうにないもん。あなたに助けてもらわないと」

 別に、あたしに生きてほしいとかいう理由じゃない。

 どこまでいっても彼女自身の都合。

 だからこそ、あたしは断れない。

 自分ひとりの命なら勝手に捨ててもいいけど、一度助けると決めた彼女がまだあたしを必要としてるんだから。

 不承不承、あたしはその手を取る。

 柔らかくて、優しくて、そして頼りない。

 彼女に引き上げてもらうんじゃなく、あたしは最後の一歩を自力でよじ登らなくちゃならなかった。

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