愛を捨てに行く
葛西 伸哉
目覚め
目を覚ました時、そこは透明な壁に囲まれた見知らぬ牢獄だった。
しかも、巨大な怪物も一緒に。
あたしは息を呑み、怪物を見下ろした。
手も足もない。夜の闇の中、微かな光を映してぬめぬめと光る不気味な巨体。
奴は目を見開いたまま眠っていて、動かない。多分、充分に餌を与えられて満腹しているんだろう。
胸の強張りが、ほんの少し和らぐ。
化物より先に目覚めたのは、多分幸運なんだろう。
何倍もある怪物に襲われたら、あたしは簡単に丸呑みにされてしまうだろう。武器もなければ、檻の中では逃げる事もできない。
この状況を作った奴は、多分あたしを殺したい訳じゃない。
ただ、最初からあたしの存在なんか目に入っていないだけだろう。
捕らえたかったのは、怪物。
あたしは、ついでに紛れ込んだだけ。
「ふう……」
小さく溜息をついて、ぬるい水を掻く。
身体が、重い。
変化が近いんだ。大きな変化が。
けど、ここで変わってどうなるの?
変われば、檻からは逃げられるかも知れない。
けれど故郷から--仲間たちからは遠く離れてしまった。
変わったところで、生きている目的は果たせない。
逃げろ、変われ、生きろと本能は急き立てる。
頭の中をじりじり炙るような焦燥。
今はまだマシだけど、肉体が完全に変化してしまえば、もっと耐えがたい火照りと疼きに襲われるんだろう。
交われ、子を作れという熱に。
あたしは、そういう風にできている。
けれど理性は、別の結論をはじき出す。
もうあたしの「生」は、本来の目的を果たせない。
だったら無駄なあがきなんか止めて、怪物に喰われてしまった方がいい。
奴の栄養になれば、まるっきりの無駄、無意味ではなくなるのだから。
本能は、あたしだけのものじゃない。
誰もが同じように仕込まれ、縛られている。
あたしが死んでも、他の誰かが本能の命令は達成してくれる。
そんな風に考えて、手足の力を抜こうとした時--。
「ここ、どこ?」
緊張感のない、甘ったるい声が聞こえた。
振り返ると、寝ぼけ顔の仲間が漂っていた。
捕らえられたのは、あたしひとりじゃなかった。
同じ仲間が、他にも紛れていたんだ。
「わっ! な、何っ? わわわわわっ!」
ようやく怪物に気づいて、彼女はいきなり大声を上げた。
「静かにして。慌てて、水音を立てると奴が気づくかも知れないでしょ」
あたしはその娘に泳ぎ寄った。
「あ! そ、そうだね、うん」
あたしみたいに痩せてない。柔らかそうな曲線でほどよく膨らんだ体つき。
それが、いきなりあたしに抱きついてきた。
「あんなのがいて、わたし、ひとりぼっちだったらどうしようって思った。あなたがいてくれてよかったぁ」
あたしよりよっぽど大人っぽい身体つきなのに、子供みたいにぐりぐり頬を押しつけてくる。
「落ち着きなさい」
意識的に抑えた声を出して、彼女を押し剥がす。
「ごめん」
すぐ素直に謝るのも、子供みたいだった。
「わたしたち、どうしてこんなとこにいるの? どうしてあんなのと一緒に……」
不安そうに声を潜め、眼下に眠る怪物を指し示す。
「あたしにだってわかんないわよ。でも、だいたいの見当はつくわ」
透明な檻の上部を塞ぐ格子状の蓋、そこから透かして見える暗い天井を見上げて呟く。
「人間の子供が川遊びで魚を捕まえた。そこで水を汲んだ時に、あたしたちが紛れ込んだってところでしょ」
水底で眠る怪物--魚に視線を落とす。
あたしたちカゲロウは、終齢幼虫でも数ミリ。
人間にとっては、川の水に混じるゴミのような存在でしかない。
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