くちづけ

 どれだけ飛んだのだろうか。

 息が切れ、力尽きそうになった事で、あたしは自分が無我夢中だった事に気づいた。

 冷静に判断したつもりだったけれど、危険な捕食者カマキリから逃げたいっていう衝動はそれだけ強かったんだろう。

 もうすぐ死ぬのがわかりきってる、使い道のない生命でも「死にたくない」って恐怖からは自由になれない。

 太陽もかなり傾いているし、周囲に人工物はほとんど見えない。

 眼下には、渓流。

 故郷そのものじゃないけど、よく似た環境。このあたりなら、同族なかまがいそうだ。

 必死になったおかげでスピードが上がったのが、結果的にはよかったのかも。

 そうだ、彼女!

 不意に気づいて、振り返る。

 あたしの方がぎゅっと握りしめているから何とかつながっているけど、彼女が掴む力は弱い。

 辛うじて翅は動いているけど、手足は力なくだらりと垂れ下がって俯いている。

 いつもの、脳天気なくらい明るい笑顔は見えない。

「大丈夫? 無理させちゃった? ごめんね?」

 あたしは手を引いたまま、せせらぎのほとりに着地した。

 飛沫しぶきを被った石が冷たい。

 彼女の身体を、そっとそこへ横たえる。

「ほ、ほら。ちょっと強引だったけど、何しろ食べられないように全力で逃げないといけなかったしね」

 作り笑い気味に声をかけたけど、彼女は反応しない。

 ただ、粗い息と一緒に膨らんだ胸を上下させるだけだった。

「ちょ、ちょっと! 大丈夫?」

 白い--白すぎる頬を軽く平手で叩く。

 閉ざされていた瞼が細く開かれて、乾いた口唇が震える。

「……」

 何かを言おうとしてるのはわかったけれど、声が小さすぎて聞こえない。

 あたしは、耳を寄せる。

「はは……わたし、もう……駄目みたい……」

 弱々しい息が、辛うじて意味ある音を紡いだ。

「しっかりして! あたしが強引に引っ張ったから?」

 改めて手を握って励ます。

 夢中で飛んでいる時には気づかなかったけど、冷たい。

「……そうじゃない。あなたのせいじゃなくて……単にわたしがもう限界なだけ。ははは……」

 懸命に笑おうとしてる。

 それがかえって痛々しい。

 成熟した身体は食事できない。水も飲めない。羽化した時に残っていたエネルギーを使い切れば、それでお仕舞い。

 後は一切打つ手なんてない。

 頭の悪い創造主の、どうしようもない設計ミス。

 劇的な事件も事故もない。敵も現れない。

 ただ、自然に力尽きるだけで彼女の時間は、終わる。

「頑張って! ここまで来たのよ! あともうちょっと! ちょっと飛べば、きっと仲間に出会える!」

 あたしも、言葉で励ますだけしかできない。

「……そのもうちょっとが無理っぽい……かな?」

「男捕まえてエッチするんでしょ! 諦めないで!」

「諦めたくない……諦めたくないけど……やっぱり、限界」

 男ウケ良さそうな豊満な胸も、こどもをたくさん埋めそうな立派なお尻も、飲まず喰わずで長い距離を飛ぶのには向いていない重荷だ。

 神様の馬鹿野郎!

 自然の摂理のクソッタレ!

 どうしてあたしたちと同じ世界に、人間なんてどうしようもなく大きな力を置いたの? 勝手に連れ去られたりしなきゃ、彼女がこんな目に遭う事もなかったのに!

「神様なんか……くたばっちまえっ!」

 呪詛が、あたしから溢れ出る。

「あ、でもね。わたし、神様に感謝してるよ」

 彼女の笑みが、あたしの怒りと呪いを急激に溶かした。

「だってさ。普通に故郷で羽化してたら、あなたに出会えなかった。あなたと、こんな風にお話もできなかった」

「……あたしも、だよ」

 何十人もの、同時に羽化して群舞プロムに参加する中のひとり。彼女も、あたしも、エッチする相手の男しか目に入らなかっただろう。

「あなたがいなかったら、わたしはあっさり魚に食べられて終わりだった。ありがとうね」

「それが何よっ!」

 神様じゃない。

 あたしの無力と無思慮が憎い。許せない。

 結局彼女の願いを叶えられなかった。途中まで来た事に意味はない。ここまでの旅は、全部徒労だ。

 もっと賢いあたしなら、力強いあたしだったら、彼女を男のところまで連れていけたかもしれない。

 ありがとうって言葉は、耐えられないくらい貴重な贈り物。

 あたしの胸を突き刺す宝石の凶器だった。

「わたしね。あなたの事が好きだよ。偶然だけど、一緒にいて、旅をしたのが、あなたでよかった」

「もういい! 喋らないで!」

 見た目だけは綺麗で豊満な、でももう燃え尽きようとしている身体を、思い切り抱きしめる。

「……あは……。だって、もう飛ぶだけの力もないんだし、残った分はあなたとのお話に使ったっていいでしょ? きっとね。飲んだり食べたりできないのに口が残ってるのは、お喋りするためなんだよ」

 こっちの顔は見えているのか。ぼやけた視線で彼女は微笑む。

 ここまで弱ってさえ--弱っているからこそなお、彼女は美しい。

 男から見て魅力的だとか、そういうごまかしはもう止めだ。

 最初から、あたしが綺麗だと感じたんだ。

 命の輝きに溢れて、伸びのびと自由に生きていて、欲求に素直で。

 自分をややこしい観念ことばでぎちぎちに縛ろうとするあたしが持っていない、持つまいと拒絶していたものを全部まるごと素直に抱きしめている彼女が。

「間違いなくあなたが好きなんだけど……多分、これって愛じゃないよね? 男の子とエッチしたいとか、生まれた子供が元気に育ってほしいのが愛だっていうなら……この気持ちは何て言えばいいんだろうね?」

「あたしなら、って呼ぶよ!」

 薄れていく意識にもしっかり届くよう、ありったけの声で叫ぶ。

 愛なんて最初から本能とセットになって刻み込まれている。

 自分を愛する事、異性を愛する事、我が子を愛する事。

 具体的な対象を知る前から、あたしたちは愛に振り回される。

 我が子なんて、絶対に見る事が叶わないんだから。

 けど、恋は違う。

 誰かと出会うところからしか始まらない。

 目の前にいる誰かを、好きだって思う気持ちは、あたしにとっては愛なんかより尊いものだ。

「恋か……。うん、いいね、恋」

 もう彼女の声は、ほとんど聞き取れないくらい小さい。

「愛はみんな生まれつき持ってるけど……恋は、わたしとあなただけのものだよね」

 辛うじて言い終えた彼女の口唇が震える。

 あたしは急いで「話す」以外の使い道を実行する。

 乾いて、冷たくて、かさかさで--でもあたしにとっては何より甘い。

 食べられない口を残しておいてくれた事を、神様に感謝する。

「ありがと……」

 それが最後だった。

 ぎりぎりで、あたしのキスは、生きているうちに間に合った。

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