もう何の反応も示さない彼女の抜け殻を、そっとその場に横たえる。

 あたしたちは脱皮を繰り返す生き物だ。

 身体の外側に固まった薄い「死」を置き去りにして、先に進んでいく。

 だから、あたしも感傷に囚われたりしない。

 亡骸は、ここに残していく。

 流れに浚われて魚の口に入るか。この石の上で鳥に啄まれるか。

 いずれにせよ彼女の身体は誰かの餌になるだろう。

 それで構わない。それが「自然」だ。

 望んでいたようにエッチして、子孫を残す事はできなかった彼女も誰かの飢えを癒す一助になれば、まるっきりの無駄じゃないんだから。

 さよなら。

 声には出さず心の中でだけ唱え、あたしは離陸した。

 空っぽの死体に聞かせたい訳じゃない。

 あたしの内側に刻まれた彼女の面影に、彼女の記憶に、彼女との恋に告げる言葉だ。

 音にする必要はない。

 音にするだけの力の浪費を、今のあたしは惜しむ。

 やるべき事をやるために、単なる抜け殻を抱えていく余裕もない。あたしだって、いつ力尽きるかわからないんだから。

 ただひたすら流れを遡って、あたしは飛ぶ。

 山の中だから、もう太陽そのものは見えない。ただ、空が徐々に色を変えていく事でタイムリミットが近づいているのがわかる。

 日が落ちれば、同族なかまたちの群舞プロムは終わりだ。

 それだけじゃない。

 あたし自身も、衰えている。

 翅だけは懸命に動かしてるけど、手足は少し痺れてきた。感覚が、鈍い。

 急げ、急げ!

 己を急き立て、腹の奥--本能の源から湧き上がる衝動に身を任せる。

 もう考え事をしてる余裕なんてない。

 使い勝手のいいエネルギーなら、何でもOKだ。

 空気の赤さえ薄れて薄暗くなってきた頃に、あたしは見つけた。

 故郷じゃない。けれど、よく似た風景。同じ環境。

 清流の上、川に差し掛かる屋根のように茂った歯の下で、同じ種の仲間が何十も舞い踊っている。

 交わり、を残し、命としての役目を終える。

 この世から旅立つための、卒業のダンスパーティ。

 あたしは、迷わずその中に飛び込む。

 衝動に従っただけじゃない。理性もとっくに、同じ判断を下してる。

 ひとりの男が、いきなり近寄ってくる。

 宴も終わりに近い中で、あぶれている男だ。それでも構わない。こっちにも選んでる余裕なんかない。

 いきなり抱きしめられ、つながったあたしの身体を衝撃が貫いた。

 肉体は勝手に反応し、あたしの気持ちとは無関係に、相手に合わせて腰を動かす。あの時のカマキリみたいに。

 いいよ。納得してる。

 愛なんて、本能の領分だ。

 そんなもの、あたしにとっては大した値打ちはない。絶対に従わない、受け入れないってこだわりも、一緒に捨てる。

 けれど、恋は違う。

 恋は、彼女とあたしの間だけのもの。

 誰にも見せられない。受け継がれない。

 彼女が去り、あたしが死ぬ時、この恋は何の痕跡も残さず、綺麗さっぱりこの世界から消える。

 あたしがこどもを残したって関係ない。

 けれど命がつながっていけば、誰かがあたしのように、あたしと彼女のように神様が決めたルールの裏をかいて「恋」を発見するかも知れない。

 それは多分、痛快な事だ。

 あたしだって、彼女だって、誰かから教わったんじゃない。

 本能とは無関係に、偶然に導かれ、たったひとつの宝物を発見したんだ。

 身体は、命は--愛は、運命にくれてやる。自然の中に捨ててやる。

 もう意識を保つのが辛い。

 残っているエネルギーが全部、産卵するために下腹に集まっていき、頭がぼんやりしていく。

「ざまあみろ、神様」

 最後の理性を使い切るために、あたしは呟く。

 心に刺さったダイヤのナイフだけはあたしのものだ。

 神様あんただって見つけられない、取り上げられないものなんだから。


 

                 (終)

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愛を捨てに行く 葛西 伸哉 @kasai_sinya

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