北嶋勇の心霊事件簿13~始まりの男~

しをおう

リリス

 神は御自身に象って人を創造された。男と女に象って創造された。

 あのお方が、次の妻を御自身の肋骨から誕生させる前の出来事。

 私は夜の女神。子を成す存在。

 だが、私は支配される事を拒んだ。

 私は「下に横たわりたくない」と言い、それに対して、あのお方は「私は君の下になりたくない、上位にしかいたくない。君は下位にしかいてはならないが、私は君より上位にいるべきだ」と言った。

 私は神の名を口にして、空を飛び、エデンの園を去り、紅海沿岸に住みついた。

 私はあのお方を捨てて去ったのだ。

 私は夜に支配される事を拒んだ。

 あのお方は夜に私を支配する事を望んだ。

 ただそれだけの事。

 私達は唯一の番、決してあのお方を愛していない訳じゃない。

 寧ろ愛しい。

 あのお方が下になる事でも満足していたら、あのお方は自慰で子を成す事などしなかった筈だ。

 だが、私達は全ての始まり。

 当然、男尊女卑の始まりでもある。

 私は…本当は、上も下も無い、対等になりたかっただけかもしれかった。


 あのお方の元を去ってからの事、紅海沿岸に住みつき、知り合った悪魔達と関係を持った。

 悪魔達は優しかった。彼等は私の下になる事にも抵抗を示さず、私と交わった。

 多分この時からだろう。

 私が悪魔を統べる運命を決定付けたのは。

 あのお方は神に、私を取り戻すように願った。

 私の元に3人の天使が遣わされた。

 天使達は私に、「逃げたままだと毎日子供たちのうち100人を殺す」と脅迫した。

 思わず鼻で笑ってしまった。神の使徒が『人間』を殺すと脅してくるとは。

 ならば私も言い返した。

「永遠にあのお方と、現在の妻子供たちを餌食にするが、その子供たちはただ3人の天使たちを召喚することによってのみ護られるだろう」

 あのお方と次の妻の子を、たった3人の天使で護れるならば、受けて立とう、と。

 理を唱え、正義を名乗る神の使徒。

 しかし、言っている事は「此方に従わずば苦しみを与える」と言う強迫。

 笑わせる。

 私はこの時から嫌悪と憎悪を天使に向ける事になった。

 そして私はあのお方の元へは戻らなかった。


 …………………


「…まだこんな時間か」

 深夜、ベッドから上半身を起こして軽く頭を振る。

 古い、とても古い頃の夢を見た。

 枕元に置いてある水を一杯飲み干し、ベッドから起き上がる。

 日の光を通さぬカーテンを開けると、月と星が綺麗に輝いていた。

「…そう言えば…良人と初めて会った時に飛んだ夜も、こんな夜空だったな」

 椅子を窓際に付け、夜空を見ながら微笑する。

 私が私だと理解してから間もない、幼い日の出来事……


 幼い頃の私は、誰にも視えない友人達から手解きをして貰い、遠い場所に渡れる術を身に付けていた。

 それは庭を掃く箒に跨り、空を飛ぶと言う程度の事だが。

 その飛行は当時の私の一番の楽しみだった。尤も、昼は人目に付きやすいので、夜に限定していた楽しみだったが。

 あの日も、いつもと変わらぬ、箒での飛行を楽しむ程度だった。

 ただ、思ったよりも遠くへ飛んでしまっただけ。

 行った先が日本だっただけ。

 ただそれだけの事だった。

 特に問題は無い。来た道を戻れば済む話だから。

 そう思っていた。

 …良人に会うまでは………

 夜空を長い時間、飛行して疲れ果てた私は、行き着いた地で少しだけ眠る事にした。

 時間は既に昼過ぎ。

 多少お腹が減っていたが、お金は持っていなかった。

 だから取り敢えず体力回復の為、休めればどこでも構わなかった。

 箒を肩に担ぎながら、細い道をただ歩く。

 行き交う人々が私を見て振り返る。

 大人も、子供も、男女関係無く振り返って私を見た。

 異国の人間が珍しいのか、私に魅了されたのか、それとも箒を担いだ出で立ちが不気味だったのか解らないが、ただ見ていた。

 だが、誰も私に声は掛けない。

 それも特に珍しい事では無かった。

 私に声をかける人間は稀有であったから。

 両親ですら、私にはめったに声をかける事は無い。

 だからこの地でも声を駆けられる事は無かった。

 好奇か恐れか魅了か解らないが、ただ見られていただけ。

 そんな私に初めて声をかけた人間。


「ちょっとその箒貸してー」


 背後から私に向けられて発せられた言葉。

 逆に驚き、振り向いた。

 そこには、幼き日の良人が、慌てながら私を追ってくる姿があった。

 そして、私から引ったくるように箒を奪う良人。

「ダメ!これが無いと帰れないもん!」

 慌てて抵抗した。私から箒を取り上げようとする人間は、未だかつていなかったので、多少の動揺をしながら。

「バッチャンが帰ってくるまでガラス片付けなきゃ、フライパンで叩かれるー!ちょっとだけ!ちょっとだけだから!」

 良人は私の手を握り、そのまま家に引っ張って行った。

 生まれてから手を引かれた記憶が無い。

 それは初めての感覚。

 何か解らぬ感情を覚えながら、私は良人に引っ張られて行った。

「窓ガラス割っちゃってさー。流も朱美も居なかったから困っていたんだよね」

 成程、確かに箒は必要だった。

 私は仕方無く、いや、少し嬉しく思いながら箒を貸した。

 良人は小さな身体で、懸命に割れたガラスを箒で掃き集めた。

「チリトリも貸してよ」

「え?チ、チリトリは持って無いなぁ。お掃除の為に持っていた訳じゃないから…」

 いきなりの要望に戸惑いながらも、何となく申し訳無く思い、顔を伏せた。

「無いなら仕方ないから大丈夫だよ」

 そう言って、段ボールの切れ端を使い、器用に破片を拾い集めた。

「ふう、綺麗に片付けたぞ。取り敢えず証拠隠滅はできたかな」

 一仕事終えたと言った感じで額の汗を拭った。

 そして私を見てニカッと笑った。


 ドキ


 私の心臓の鼓動が高鳴った。

「箒のお礼にお菓子あげるよ。家に入って」

 そう言って私の手を取り、引っ張る。


 トクン…トクン…


 手のひらから良人の温もりを感じ、胸が高鳴っていったのが解った。心なしか顔も熱かった。

 私は、何の抵抗も見せず、ただ手を引かれて家に入っていった。

 途端に、私に向いた、強い拒絶の視線を感じ、私は立ち止まった。

「?どうしたの?」

「う、ううん、何でも…」

 拒絶の視線の主を横目にする。その主が私に話し掛けてくる。

――西洋からはるばる魔女がやって来ましたか…勇と出会ったのは偶然のようですが、これを必然としなければ良し。するのであれば…

 拒絶の視線の主、それは小さな黒い猫。

 だが、私は理解した。

 黒猫の中身は、古の神。良人と大事な人を護っている、お家憑きの神だと言う事を。

 そして私は更に理解する。

 この黒猫は敵だと。

「神に縛られぬ私に、貴女の声など届く筈も無いよ」

 幼い私は精一杯凄んで黒猫を睨み付けた。

 ゆっくり立ち上がる黒猫。思わず引き下がりそうになったが、何とか踏ん張った。

 黒猫の神気が、私に向かって敵意を持ち、放出されたからだ。

――まだ幼子とはいえ容赦はできませんえ……ギャッ!?

 今にも私に飛び掛かろうとしていた黒猫の小さな身体が、真横に吹っ飛んだ。

「あ、クロごめん」

 お盆にお菓子を山積みにして来た良人に蹴られて飛んだのだ。

 助かった、と安堵するも、それを超えて驚く。

「な、何にも感じないの?」

 私に向けた敵意とは言え、その神気は人間にも畏怖として感じられる筈。

 それ程の神気を放出させていた黒猫を、何のストレスも感じた風も無く、普通に蹴飛ばしたのだから。

「何が?はい、食べて食べて。今ジュースも持って来るからさ」

 良人はお盆を私の前にドンと置き、振り返ると再び歩き出した。

「ニギャッ!!」

「あ、クロごめん」

 今度は黒猫の尻尾を思い切り踏みながら。

 そう言えばお腹が空いていたんだ。と思い、お菓子を手に取る。

 見た事も無い、既製品のスナック菓子の山。それに恐る恐る口にする。

「……美味しい」

 顔が綻んだ。

 ポテトのしょっぱいお菓子、パイを模した甘いお菓子、その全てのお菓子を美味しいと感じた。

 お腹が空いていたからそう感じたのか。それとも良人の優しさに触れたからか。

――それを食べたら帰りなさい。そして二度とこの地に足を踏み入れる事の無いようミギァア!!!

「何だよクロ?さっきから足元で邪魔だなぁ」

 ジュースを持ってきた良人に、今度は頭を踏まれた黒猫。ギャッギャッ喚いて転がった。

「オレンジジュースでいいよね」

 缶ジュースを私に伸べる。

「う、うん。ありがとう」

 これも飲んだ事が無い、既製品のジュース。

 プルトップを開けたのは、この日が生まれてから初めてだった。

 オレンジと銘打っていた割には、合成着色料で色を付け、風味を加えただけの炭酸飲料水だったが、この日の甘いジュースは、私の生涯の中で一番美味しい飲み物となって、成人した今でもたまに欲して飲むようになった。

 お菓子でお腹が満たされ、ジュースで喉が潤い、私の体力は幾分回復できた。

「ありがとう。ご馳走様でした」

 キチンとお礼が言えたのもこの日が初めてだった。

 顔を上げると、良人が私をじっと見ていた。

 顔が火照る。

「な、何かな?」

「綺麗な銀色の髪だなーって思って」

 火照りが顔どころが全身に回った。

「あ、ありがとう。初めて言われた…」

 両親は栗色と黒髪。

 銀の髪を気味悪がっていた両親。そんな私の銀の髪を綺麗だと。そんな事を言われたのは初めてだった。

 そしてその時気が付いた。

 この人には初めてを沢山貰った。と。

 私は人類最初の女。全ての事柄の初めてを体験した女。

 転生した今、この人はかつての私も知らなかった『初めて』を沢山くれた。

 もしかして『あの人』も転生して『初めて』をくれた?

 有り得る事だ。

『あの人』は自身から妻を生み出した後でも、私を欲していた。

 だが、私はそれを拒んだ。

 愛していた。だけど男尊女卑は許せなかった。

『あの人』もそれをどこかで知り、悔い、私を捜して転生して来たのでは?そして罪滅ぼしの為に、私に沢山の『初めて』をくれたのでは?

 何より、極東の島国で沢山『初めて』をくれた偶然が怪しい。

 私を日本に導いたのか?

 そう思い、私は良人を霊視してみた。良人の前世を視る為に。だが…

「え!?そんな!?」

 大きな声を出して驚く。

「ん?どうしたの?」

「う、ううん!!な、何でも!!」

 慌てながら手と首を振る。

 しかし、信じられなかった。

 輪廻転生。

 今、人は神が定義した数を遥かに上回っている。

 器たる肉体が在るが故に、それに入れる魂も同数必要だ。

 だが、先程も言った通り、取り決めた数を遥かに上回った人。魂も、人以外から調達しなければならなくなってしまったのだ。

 それは、以前は獣だったり、草花だったりと様々。

 その人外の前世や、転生する人の魂を集めて、初めて肉体と同じ数になるのだ。

 つまりは、どんな人間にも前世はある。

 ところが、目の前に居る良人には前世が視えない。

 人外の前世を持っている訳でも無い。

 本当に『無い』。

 私はてっきり、あのお方だと思っていたのだが。

 ならば、と、今度は良人の魂そのものを『感じてみる』。

 もしかしたら、前世が無いのではなく、あらゆる旅を経て別物に変わってしまい、あのお方と識別できないだけでは無いか、と思ったのだ。

 微かに、本当に微かだが感じた。

 懐かしい匂いを、良人から感じ取った。

 やはりあらゆる旅を経て、別物となったあのお方の魂なのだ、と確信したのだ。

 私の下になる事を頑なに拒んだあのお方は、私とつがいと成る為に、本当に色々な旅をして別物となったのか!!

 目頭が熱くなる。

「?どうしたの?頭でも痛いの?」

 良人が心配そうに、私の顔を覗き込んだ。

 笑いながら、しかし、瞳に涙をうっすらと溜めながら立ち上がる。

「私とあなたは遥か古から繋がっていました。私はあなたを憎んでいました。でも、愛してもいました」

「いきなり何を言ってるのさ?」

 訳が解らないとキョトンとしている良人。

「今は解らなくてもいいのです。いずれ解る日が来る。あなたの私への想い、私に伝わりました。だから私も応えただけです」

 そして良人の手をそっと取る。

「必ず迎えに来ます。それまで、健やかにお育ち下さい。私の良人…」

 それは私の決意。

 私と再び逢う為に、別物になる程に転生を繰り返したあのお方の想い。

 それに感激し、私は再びあのお方…良人と番になる決心をした。感動と感激を覚えて。

――魔女の番にさせると思っていますの!?

 黒猫が私に飛び掛かってくる。

 私は良人の手を、名残惜しそうに離して、それを回避した。

「いずれまた。黒猫、それまで良人をあらゆる厄から護り、良人を健やかに育てて貰おう」

 今の私じゃ黒猫には到底及ばない。ここで争っても無駄だ。

――ウチが幼い魔女をこのまま逃がすと?

 攻撃的な神気を放出し、黒猫の姿が変わった。

 小さな黒猫は、巨大な体躯となり、化粧に緑の隈取りをし、スフィンクスのようなヘルメットを装着して私の前を塞ぐ。本気で私を殺すつもりだった。

「く!」

 庭まで逃げ出せば、箒がある。それに跨り、全力で飛べば逃げ切れるか?

――庭まで逃げ出せば何とかなる、と思ってますな!!!

 読まれた!!

 そう思うと同時に、黒猫が爪を薙ぐ。

――鼠退治は猫の得意としますんえ!!

 巨大な爪が私に襲い掛かかり、私を切り裂こうとした時の事だった。

「何を騒いでるのクロ?お客さん帰るってさ。ほら、バイバイって」

 黒猫をひょいと抱き上げ、前脚を取り、それをブンブン振った。

 安堵するも、やはり驚いた。

「そ、そんな大きな猫を抱っこできるの!?」

「?クロは小さいよ?」

 そう言いながら、巨大になった黒猫、バステトの頭をグリグリと撫でた。

――勇!!勇っ!!本当のウチを感じる事ができないのは仕方ありませんが、今は離しなはれ!!

 バステトはバタバタ暴れて良人から逃れようとしていた。

 本当のウチを感じない?つまり、良人はペットの小さな黒猫を抱いているだけに過ぎない?

 良く解らないが、今は考えている暇は無い。

 黒猫が私に敵意を向けているのには変わらないのだから。

 しかし、収穫はあった。

「勇って言う名前なんだね」

「うん。北嶋 勇っていうんだ」

 良人の名前が知れたのだから。嬉しくなる、私も名乗った。

「そう、私はリリス…リリス・ロックフォード」

 にっこり笑って初めて挨拶をした。

 そして箒を担ぎ、良人に向かって再び微笑んだ。

「私の名前、覚えていてね。いや、忘れちゃうかな、まだ小さいからね。でも、絶対にまた逢いに来るから」

「?うん、バイバーイ」

 私はクスクスと笑って庭から駆け出した。

 箒に跨るのは、良人の目から離れてから。

 そう思いながら、バステトから逃げるように駆け出した。

 途中何度も、何度も振り返る。

 最後まで良人の姿を見る為に…


 次に良人と会った、いや、会いに行ったのはそれから十年後の事だった。

 あれからかなりの努力をして、私は上級悪魔と契約できるまで、その実力を伸ばしていた。

 そしてある日、日課の如く、良人を遠視で眺めていたのだが、遂に我慢できなくなり、どうしても会いたくなった。いや、手に入れたくなった。

 ファウストには止められたが、この程度の輩に私を止められる筈も無く、もう一人の指導者からには呆れられて。だが、十年ぶりに良い人の家に赴いた。

 沢山の悪魔を引き連れて。

 良人にはお爺様とお婆様の存在があったし、あの黒猫の事もあるが、どうしても手に入れたくなった。

 いつも傍でうろちょろしていた、身体の弱い友人の妹の存在が、私をいつも苛立たせていたからだ。

 皆殺しにして、身寄りが無くなった良人を迎え入れる。

 今から考えれば随分浅はかだったが、当時の私にはこれ以上の妙案は無かった。

 当然ながら、黒猫の神格に及ぶ悪魔は手札にはおらず、惨敗して敗走する羽目になった。

 悔しかったが、心が晴れる出来事もあった。

 あの小娘が強姦されて死んだと知ったからだ。

 喜びに震えながらも、やはり確信した。

 私と良人の間には、他の者など立ち入る隙間が無いのだと。

 あの小娘の死は必然だったのだ。無い隙間に無理やり入ろうとしたのだから、その身体は潰されて無くなるのだ。

 この考えが私の心に余裕を持たせた。

 だから私はそれから良人の情事を見過ごせる事が出来た。

 あんなもの、些細な浮気だ。所詮肉だけの繋がり。魂まで繋がっている私達の間には、誰にも割り込めない。

 だからあの魔人に利用された女との情事も、寛大な心で見逃す事が出来た。

 だから私は、黒猫を殺す力を得るべく、今日こんにちまで邁進できた。


「…あれから長い月日が経ったな………」


 ブルッ


 冷たい空気が私の身体に纏わり付き、私の身体が少し震えた。

 無理も無い。私は今、一糸纏わぬ姿のまま、窓から夜空を眺めているのだから。

「良人…あなたは一体何者なのか……」

 ガウンを羽織り、ベッドの前まで歩く。

 だが、私はベッドに潜り込む事を拒絶していた。

 ベッドには、金の髪の逞しい身体をした男が、私と同じように一糸纏わぬ姿で寝ているのだから。

 寝顔も美しいその男は、私がベッドから離れた事も知らずに、ぐっすりと寝入っていた。

 先程まで私が横になっていた場所、すなわち男の横に目を向ける。

 途端に私は膝から床に崩れ落ちた。

「違った…違ったよ良人…あなたはあのお方…アダムの生まれ変わりじゃなかった…!!」

 天井を仰ぎながら涙する。

 ベッドに目を向けると、それを見てしまうから天井を見たのだ。

 あの男の横には、二滴ばかりの私の純潔の証が付着しているから。

 息を吸うのも本当は嫌だった。情事の後の匂いが部屋を支配していたから。

「純潔に拘りは無い筈だったが、何故か涙が止まらないよ良人…はははははは…魔女の私が純潔を失って涙するなんて、滑稽な話だね…はははははは…」

 嬉しくも無いのに笑っていた。その笑い声は渇いていた。

「……何だ…目が覚めたのかい、お姫様…」

 男が目を擦りながら起き上がった。慌てながら顔を背けた。

「…生憎と眠ってなんかいなかったからね。クリスティアーノ」

「クリスティアーノ・スカルラッティは確かに僕の名だ。だけど、僕の事はアダム、と呼ぶ約束だよ」

 吐き気がする…

 クリスティアーノ・スカルラッティ…いきなり訪ねてきたこの男は、自身をアダムと名乗った。

 鼻で笑いながら男を追い払おうと、主水やジルに申し付けたが、彼等は怯えて一歩も動けなかった。

 男は笑いながら言った。

「父に逆らうような愚か者は君の配下にはいないだろう?僕は人類の始祖、アダム。全ての人類の父だよ。子が父を恐れるのは当然の事さ」

 当然私は反論した。

「アダムは日本に居る!!君は…本当は何者だ?名前もカトリックから取った名だね。本当に不愉快だよ」

 再び笑う男は促した。ならば視てくれ。と。視れば全てが解るだろう。と。

 挑発に乗るつもりは無かったが、私は男を『視』た。

 膝が笑い、立っていられないほどの動悸を感じ、私は地に手を付いた。

「納得したみたいだね。僕が君の本当の伴侶だよ」

 声が全く出なかった。視た結果、男は確かにアダムの生まれ変わりだったのだから。

 転生に転生を繰り返し、私を捜していたのだから。

「そ、そんな!!」

 男は私の肩にそっと手を添え、耳元で呟いた。

「『僕の為』に七王を揃えてくれてありがとう」

「『僕達のエデン』を復興する為に力を付けたんだね」

「『君の為』に僕は夜に下になるよ。下になる事も快楽の一部だからね」

 頭がグルグル回り、男の放った言葉が私の身体を捕らえる。

 反論したかった。

 そうじゃない、七王は良人を神崎から、黒猫から奪い返す為に。

 そうじゃない、私はエデンに還りたくない。

 そうじゃない、快楽じゃない。あれは子を成す為の行為だ。

 だが、気が付くと、私は男の上にいた。

 私はアダムを本当は愛していた。

 だがアダムは愛していたが、この男は愛してはいない。

 私が愛しているのは良人なのに……

 私は涙を流しながら、男の上にいたのだ…


「ふむ、やはり君も不安なのかい?エデンの復興などできる筈も無い、と」

 男は私の後ろから手を回して私を抱き締めた。

 振り払いたかったが、身体が動けなかった。

「…私はエデンに興味は無いよ」

 顔を合わせずに答える。

「はっはっは!!君はエデンから逃げ出した女だからな!!」

 違う。逃げ出したのはエデンからじゃなく、君からだ。

 何故か解らないが、アダムを否定する言葉を発せられなかった。

「…エデンを創る…世界を掌握すると言う意味かい?」

 抱き締めた腕に力が入ったのが解った。

「僕もエデンを追放された身。故郷に還りたいと願うのは人間の性。だが、エデンに『人間』は入れない。ならば創るだけさ。僕が欲しいのは自由だよ。神に縛られていた僕が欲するのは、自由と君だけだ」

「世界掌握が望みじゃないと。だけどそれは、結局『そうなる』と言う事。そんな事、できる訳が無いよ。霊的な意味合いで世界戦争を起こすとなれば、必ず良人が出てくる……ぐっ!!」

 抱き締めた腕に、更に力を込められる。

「君の言う良人と戦う為に、七王を揃えたんじゃないのかい?」

「あ、あれは…くぅ…神崎を倒す為に…ぐっっ!!」

 不意に身体に自由が戻る。抱き締めた腕を放したのだ。

「僕は人間には負けない。僕は人類の父。父に逆らう人間は居ないんだよ。そして夫に逆らう妻も居ない…」

 刺すような視線を私に向けているのが解る。

 やはりこの男はアダム。

 幾度も転生した筈だが、変わっていなかった。

 男尊女卑。それが嫌だから、アダムの元を去った、と言うのに…!!

「…ならば証拠が見たい。良人を凌駕できる証拠が」

 人間ならばアダムに逆らう事ができない。

 父に逆らう事はできない。

 それは、主水達で立証済みだ。

 身体が畏怖の念に駆られて動けなくなる、と主水達が言っていた。

 良人も人間。ならば例外無く逆らう事はできない。

 だが、『あの』良人だ。

 どう転ぶのか、全く予想ができない。

「良人を超えると言う証拠を見せてくれたら…私はあなたに従うだろう」

「…妻の機嫌を取るのも夫の役目、か。少し待っていてくれ。とびっきりの物を取ってくるからね」

 アダムはガウンを羽織り、部屋から出て行った。

 気配を探る。

 屋敷から外。そのまま車に乗り、飛行場まで移動したのが解った。

 遠く離れた事を確信した直後。

「…私は…私は…ああぁぁ~っ……!!」

 悲しくて、苦しくて、切なくて……

 私はその場で泣き崩れた………

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