第13話Light My Fire
2月2週のある日。
とりあえずは、まともに歩けるようになった涼は、美浦トレセンにほど近いところにある外厩「日進ステーブル」へやってきた。
日進ステーブルは、かつてオーナーブリーダーとして名を馳せていた日進家が自家調整のため作った外厩である。
施設としては、美浦トレセンに遜色ないレベルで、特に故障馬の療養施設が充実している。
日進ステーブルに雇われている外厩のスタッフはみな中央や地方でならした元調教師たちや日進牧場から出向しているベテラン職員たちだ。
神代和尭も中央調教師退職後に誘われたが、これを固辞した。
この日進ステーブルに先月フランスからブライアンズハートが帰ってきて入厩した。
屈腱炎で療養中であり、現在は軽い引き運動しかしていない。
「日進ステーブルって、わりと近くにあるけど足向かないよなあ。新鮮だ」
職員に付き添われブライアンズハートが放牧されている放牧地へやってきた。
そこにはある人物もいて——。
「心田オーナー……」
涼に気づいた心田オーナーは、スッと襟を正し厳しい顔つきで涼に向き直った。
「やあ、神代くん。あの時以来だね。何をしにここまで来たのかな?」
「何って……ぼくが怪我をさせたブライアンズハートの様子を見に……」
「そう、君が怪我をさせた。君がブライアンズハートの未来を奪ってしまった」
「そんなことを、あの時からずっと悔やんでいるんだろう? 責任の所在が自分にあると思っているんだろう?」
「表に出て実際に馬に乗る騎手が矢面に立たされるのはしょうがないことだとは思う。しかし、思い上がりも甚だしい。未来を奪ってしまった? 違う、未来はまだある。終わっていない。君が勝手に終わったものと思っているだけだ。このくらいの屈腱炎ならあと数ヶ月もすれば追いきれるようになるだろう」
心田オーナーは柵越しにブライアンズハートの鼻面を優しく撫でる。ハートはとても安心しきっているように見えた。
「馬はとても感受性豊かだよ。乗り手がその様では馬も本気を出せないだろう。しばらくうちの馬とは離れてみてもいいかもしれない。君が完全復帰した時にまた依頼をしよう」
「勘違いしないで欲しいのは、僕は感情任せで主戦騎手を降ろしたりはしない。たった1戦の失敗くらいでは何ともない」
「レットローズバロンは残念だけど、クラシックは都築未來くんでいくことにする。今年は今週の共同通信杯から始める。きっと勝つだろう」
「……仕方ありません。皐月賞でライバルとして立つために、ぼくは全力で足を治します」
心田オーナーは首を振って、涼の顔を見つめた。
涼の瞳は動揺しているのか泳いでいる。
「落馬恐怖症……なんだろう?」
「!!」
「足の怪我どころではないね。心の病はちっとやそっとじゃ寛解しない。それを患って騎手を辞めていった者、自殺してしまった人、たくさん見送ってきたよ」
心田オーナーは遠くを見ながらそう言った。涼に言葉は無かった。
「いつか、また、僕の馬に乗ってもらう。いつでも、いつまでも待っている」
心田オーナーはそう言い残して日進ステーブルを去っていった。
ブライアンズハートの放牧地に残された涼は、放牧地の真ん中で砂浴びをしているハートを見守りながらグッと拳を握った。
何も言葉はない。
「神代さん、そろそろ見学時間いっぱいですが……」
しばらくブライアンズハートを眺めていた涼に、申し訳なさそうに外厩スタッフが言った。
「ああ……すみません。もう行きます。今日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ、神代さんの無事な姿が見られて安心しました。北海道の本場にも連絡しておきますね」
軽く会釈して、涼も日進ステーブルから離れた。
トレセンに行っても追い切りにも参加できないので、仕方なくマンションに戻ることにした。
久しぶりに、マンションの階段を使おうと試みた。
大腿骨のボルトの違和感は無い。普通に歩く分にも、階段を昇降する分にも問題はない。
自分の部屋がある階まで問題なく上がってこられた。
突き当たりの部屋まで行こうとした時、二つ前の部屋のドアが開かれた。
「ん、遥ちゃん、トレセンに居るのだとばっかり。どうしたの?」
部屋から出てきたのは、部屋の主である遥乃だった。どこかソワソワしているようで。
「兄さん……咲良姉さんからシンザヴレイブのステイヤーズSのお祝い貰っちゃって……」
あれから色々あり、遥乃は咲良のことを姉さんと呼ぶようになっていた。
どうも、咲良に東京の街を連れまわされていたらしい。
「そっか。シンザヴレイブはやっぱり長距離が得意なんだ。じゃあ今年は天皇賞春なのかな」
「うん。咲良姉さんから貰ったネクタイを付けてパドックを周るよ……」
涼兄さんが天皇賞に乗れたら——と遥乃は言いそうになったが喉元で留めた。
(まだ、分からないものね……。落馬恐怖症が治ったら乗ってくれるかな)
そんな遥乃の気持ちを知ってか知らずか、涼は他愛ないことを言う。
「長い目で見ないとね」
人のこと、それとも馬のこと、何方だと遥乃は思った。
「ところで、涼兄さんはもう知ってるんだっけ……」
「ん? 何が?」
「中央競馬の年間表彰。最優秀三歳牡馬にブライアンズハート、年度代表馬に無敗の二冠馬としてブライアンズハート選出。兄さんは全国リーディング2位」
「ああ、その話……。うん、聞いた。リーディングジョッキーはそうそう上手くはいかないね。でもブライアンズハートをエスコート出来たのは良かったよ」
ブライアンズハートは最優秀2歳牡馬に続いての受賞である。しかも今度は、年度代表馬も付いてきた。
2018年の一年間、競馬界を引っ張ってきたのはブライアンズハートだと証明されたのだ。
両足にボルトが入った涼はいつ復帰できるか、いや、復帰そのものが出来るのか不明なため、今年からフリーになってはいるものの、予定が立っていない。
「それから、これ……咲良姉さんが兄さんに渡しておいてって」
そういって、遥乃は涼に一枚のチケットを手渡した。
チケットには「虹の彼方公演・オズの魔法使い」と銘打たれていた。
主演が驚くことに、間寺咲良。
涼は、息を飲んだ。この役は劇中挿入歌オーヴァー・ザ・レインボーを歌う役なのだ。
虹の彼方に。
涼が一番好きな映画の主題歌だ。
劇団虹の彼方はこの歌からきている、というのが一つ。もう一つは、動物が最後に行く場所からきている。
「ありがとう。咲良の舞台を観ろって言う神様のお告げかな。こういうのも」
「咲良姉さんの初めての主演……しっかり観てあげて」
「うん、分かった」
公演は今週の日曜日の回だった。
結局今週はリハビリを中心に、軽い乗り運動だけ済ませた。乗り運動といっても相手は木馬である。
木馬であっても、涼の騎乗は以前のものとはまったく違っていた。
金曜日の朝。
「ふぁああ……追い切り参加しないと朝が楽だなあ……」
起き上がろうとした時に、ふと、ベッドに手をついた。
むにゅ、不思議な触覚。柔らかい。
涼は恐る恐る、手元を見た。
シングルベッドが二つ並んでいる、隣には帰国直後から部屋に上がり込んでいる咲良が寝ている。
上がり込んでいるというのは語弊がある、言ってしまえば同棲状態である。
マスコミ各所、一般人には普通に知れ渡っていることなので、誰も何も言わない。
強いて言うなら、涼本人に自覚がないことだ。
さて、涼の手元には、咲良の自己主張がない胸があった。
サッと手をどかす。
慣れない、と一言。
「咲良、朝だよ」
危ないところにあった手を今度は咲良の体に当てて揺りうごかす。
咲良は身をよじった。
覚醒した直後に涼の顔を間近に見てしまい、少し赤面する。
「ダメじゃないか。週末舞台なんだろ? 早く起きて稽古に行けよ」
涼はトレーニングウェアに着替えながら、咲良の起床を促す。
「さて、朝ごはん作ってから、またリハビリ行きますか」
「んんーーっ、おはようございます……。って! 朝ごはん涼くんが作るんですか?! こういうのは私がやるのに」
バッと飛び起きて、急いで支度を始めようとする咲良を涼は制した。
「まあ、いいよ。咲良は舞台があるんだし、役割分担だろ?」
そう言ってキッチンに消えていった涼だった。
咲良は改めて涼と一緒に暮らしている事実を受け止めた。どこか嬉しくて、ワクワクしてくる。
今まで袖にされていた涼との関係が詰まったのだ。
ところで涼は舞台公演当日に花束の一つや二つ送ろうと画策して、昨日花屋に注文しに行っていた。
劇団虹の彼方が送る、オズの魔法使い——元は児童文学で、アメリカで1900年に出版された。
その後1902年にミュージカル化され、1939年には「オズの魔法使」として映画放映された。
原題はザ・ワンダフル・ウィザード・オブ・オズである。
主人公はドロシーと言う名の少女。
エムおばさん、ヘンリーおじさん、下働きのハンクとともにカンザスの農場に住むドロシーは、虹の彼方のどこかにより良い場所があると信じている。
ある日、彼女はトルネードに巻き込まれ、不思議な国に運ばれてしまう。
不思議な国で彼女は知恵の無い案山子、心を持たないブリキ男、臆病なライオンと出会い、彼らの思いとともにカンザスに戻るため旅を続ける。
仲間と絆を深めながら旅をするうち、カンザス(家)に帰る方法が「家が一番いい」と願うことだと気づく。
そんなストーリーの中、ドロシーが歌を歌うシーンがある。最も有名なのが、「オーヴァーザレインボウ(虹の彼方に)」である。
涼はその映画を小さい頃、母親に見せられ、とても心に残った。
特によく覚えているのが、その虹の彼方にを歌うシーンである。
カラーの映画ではなかったが、歌の色はとてもよく出ていた。
「オズの魔法使い、一度でいいから、舞台版見てみたかったんだ」
「虹の彼方でミュージカルって久々だよな、楽しみだ」そう言いながらフライパンの目玉焼きを器用に裏返していく。
「前は、マンマミーアでしたね。私出てないけど。それにしても、涼くんに観てもらえる時が来るなんて思ってもみませんでした」
「週末はずっと仕事だったからね」
テーブルに出されたのは、ベーコンエッグだった。
「たまに競馬を離れてみてどうですか?」
「新鮮だよ。まあ何と言うか、今までおれは競馬しかないと思ってたけど、映画鑑賞や舞台鑑賞は母さんの影響で昔からやってたんだ。騎手になってその趣味をすっかり忘れていたよ」
「それほど忙しかったんですね。そういえば、私が舞台役者を目指そうとしたのは涼くんがきっかけなんですよ」
「なんで?」
「その……見て欲しいから……」
それを聞いた涼ははにかんで言い返す。
「どんだけ見て欲しかったんだよ」
炊飯ジャーから炊きたての白米を茶碗に装う。今月に入って体重管理を始めたので定量通りに装る。
咲良の茶碗には普通に普通の量の白米を装った。
「いっぱい食べて、たくさん稽古してこい!」
「涼くんも、リハビリ頑張って……って、頑張れは禁句でしたね」
朝食を共にする二人。
普段は早朝4時ごろに朝食を摂っていた涼は、怪我をしてから、医者の許しが出るまで追い切りには参加しないでいた。なんせ、両足大腿骨にはボルトが入っているのだ。こうやって日常生活ができているのが不思議なくらいなのだから。
しかし、それだけではなかった。
落馬恐怖症。
あのプレッシャーがかかる場面で落馬してから、体は馬に乗れても、心が乗れなくなってしまった。
実際の馬はおろか、乗馬マシンでさえ受け付けないのだ。
涼のエージェントを務めるマックスは相当落ち込んだ。
マックスはそれまで咲良が借りていた部屋を今度は自分が契約し入居した。アメリカから必要なものは全て送られたらしい。
潤と引き継ぎの話をしている時に、涼の落馬恐怖症を指摘した。
メンタルクリニックに赴いて心的外傷後ストレス障害(PTSD)の気があると診断された。
何分、メンタルの病気なので、簡単に診断は出ない。
結局、マックスは涼のリハビリに付き添いながら、復帰のための準備を行っていた。
いつ復帰できるかも分からないが、やれるだけのことはやる。涼もそんなマックスの為に懸命に治療リハビリに励む。
「やあ、クール! いい話を持ってきたよ!」
拠点にしている藤村厩舎で厩務作業の手伝いをしていた涼のところに、マックスが駆け寄ってきた。
「マックス、今日はどんな話?」
寝わらをかくフォークを立てかけて、マックスに向き直った。
「3月の中山開催3歳新馬を持ってきたよ。栗東の牝馬なんだけど」
「来月の3歳新馬かあ。どこの厩舎?」
「久弘さんのところ!」
「え!! 父さん!?」
「さらに条件として春シーズンはこの馬優先して乗ること」
「おれ、今シーズンは一応トゥザスターズの優先があるんだけどな」
「トゥザスターズは牡馬クラシック路線だろう? クールは今の所有力な3歳牝馬持ってないんだからちょうどいいと思うけど」
「有力な、って、その牝馬そんなに凄いの? デビューしてないんだろ?」
マックスはふふっと笑って、ポケットからスマートフォンを出しとある動画を涼に見せた。
「栗東の追い切り動画?」
「そう。次に走る馬、外側追走の青鹿毛馬を見てて」
そう言われて、当該の馬を見る。
身のこなしが軽い、そして、馬体全体が柔らかくしなやかに走っている。
当該の馬は、僚馬の1馬身後ろを追走して、坂路コースを駆け上がっている。僚馬は一杯に追われているが、当該の馬は調教騎手の合図とともにギアを変えたように加速し、あっという間に馬体を併せ、瞬く間に抜いていった。
「6F走って最後1F、一一秒出てるか……。マックス、この馬は?」
「この馬こそ、涼に紹介したい久弘さん管理の3歳牝馬セタブルーコートだよ」
「セタのオーナーさんって地方の人じゃないの?」
セタグリーングラスのことを思い出す。
「大井デビューの予定が、久弘さんの懇願で栗東に移籍して当該厩舎にって感じかな」
「セタのオーナーさんは何て言ってる?」
普通ならセタグリーングラスで結果を出している未來に依頼が来ようものだ。
涼の余地ができたのはなぜだろうか。
「この馬で、神代涼にオークスと秋華賞を勝たせる。そう言ってるよ」
「クールは去年悔しい思いをしたんだね」
「あー、思い出したくない。オークス前週の落馬のことはもういいよ」
「ともあれ、こうしてできたご縁は大切にしないとね。ジャパニーズは縁を大事にするんだろう?」
「……そうだね。そうなんだ。よーしっ、復帰に向けてやるぞっ!」
そうして共同通信杯の週末となった。
土曜日、涼はクイーンカップに乗鞍があるアルスの付き添いで、東京競馬場にきていた。
クイーンカップは3歳牝馬限定の重賞競争であり、牝馬クラシックに直結する重要な一戦である。
アルス・ローマンは今年の牝馬戦線で有力馬を持っていた。
前年の2歳牝馬G1阪神ジュベナイルフィリーズ2着馬であり、優勝馬とマッチレースを展開した馬ということで年初のこの一戦は注目されていた。
藤村厩舎の明け3歳馬の中では一番馬と言われていて、展開さえ許せばダービーを狙えるほどと言われている。
涼は関係者席スタンドから本日の東京メインG3・クイーンカップを観戦していた。
本馬場入場となり、出走馬10頭がターフに現れた。
その中で、アルスは緑地に赤の二本輪、白地袖に緑の二本輪の勝負服を着ていた。
アクアオーラとゼッケンに書かれている。
あの勝負服は新進気鋭の一口クラブ・ラディッシュレーシングホースのものだ。
府中のマイル戦。
向正面のゲートに続々と出走馬が集結する。
アクアオーラは青毛で、一目でそれとわかる。血統的にはサンデー直系だ。額の流星がサンデーそっくりである。
涼はスマートフォンで直前のオッズを確認した。
アクアオーラは二番人気。こういう時のアルス・ローマンは来る。そう直感した。
「追い込み脚質、前走阪神JFは出遅れたものの最後の直線で馬体を併せてマッチレースを演じたがハナ差及ばず2着。成長期待……かあ」
府中重賞ファンファーレが鳴り響く。
「オークス向きだと思うんだよね。セタブルーコートと走りそうだ」
アクアオーラにマイル戦は短い、馬体と脚質をみてそう感じた。
勝つならオークスかエリザベス女王杯。少なくとも2000以上で活躍しそうな雰囲気だった。
「まあ、ダービーも狙えるってんだから、ここは勝たないとな」
そうこうしているうちに、全馬体制完了、そしてゲートが開かれた。
まあまあ揃った良いスタートからアクアオーラは後方に下がる。
こういったのは、大体が馬込みが苦手な馬が多い。
かの無敗三冠馬ディープインパクトも馬込みが苦手で、併せられると弱かった。
アルスは冷静に先団を眺めて、仕掛けを伺っている。
府中の大ケヤキを回って、第3コーナーから第4コーナーに差し掛かる。
残り600mの直線で、アルスは馬群の間を縫って追い出しにかかった。
先頭を捉える、瞬く間にアクアオーラが先頭に躍り出てさらに突き放していく。
一発のみの鞭でもの凄い切れ味の末脚を繰り出した。
アクアオーラ、初の重賞制覇である。
涼は検量室へ急いで向かった。
「アルス! 良かったね!」
「リョー! 見てた? 凄い脚だったでショ?」
「うん。おれも来月素質ある牝馬に乗るから、待ってろよ?」
ガシッと腕を組む二人。
その横で、検量室内がなぜかざわつき始めた。何事かとアルスと涼は周囲を見渡す。
涼もアルスもわかっていなかったが、このレースは審議のランプが点灯していた。
アルスは覚えがなく、普通に後検量も済ませていた。
審議に該当しているのは。
「最後の直線で5番スーパーイーグル号の進路が狭くなった件について審議しましたが、7番ゴーマイウェイ号が進路を妨害しており降着といたします。したがってスーパーイーグル号は3着となります」
スーパーイーグルに乗っていたのは都築未來だった。そしてゴーマイウェイに乗っていたのは天照歩稀であった。
歩稀には開催5日の騎乗停止処分が降った。必然、明日の騎乗はおじゃんである。
明日は我が身、とアルスと涼は冷や汗を流したが、その裁定が下った直後にとんでもない事態が舞い込んできた。
久弘が歩稀を連れ立って、涼とアルスの元へやってきた。
「涼、アルス、明日の歩稀の乗鞍代わってくれないか」
二人は驚愕した。
あの久弘が直々に涼の元に騎乗依頼をしにきたのだ。
マックスが持ってきた訳でもなく、歩稀が進言した訳でもなく久弘自らである。
「明日の共同通信杯と平場、未來は藤村のレットローズバロンがいるから無理だからお前たちに頼んでいる。涼……乗ることができるな?」
「久弘センセイ、リョーはまだ……」
アルスが一言言おうとしたが涼が制止する。
「いい、アルス。父さん、おれで良いなら乗るよ。馬に乗りたくてうずうずしてきたところだったんだ」
「大丈夫か? 聞くところによるとお前は心の——」
「大丈夫。ショック療法だと思って乗る」
「そうか。本来ならばお前に頼むべきではないと分かっているが、近いところで信頼できるのがお前たちしかいないのが事実だ」
久弘の口から信頼という言葉が垣間見えた。
その言葉に涼の心はほのかに熱くなる。
「涼先輩、アルス先輩、これ明日の勝負服です」
歩稀がそれぞれ明日騎乗予定だった馬の勝負服を渡す。
勝負服から察するに、2頭の馬はそれぞれ、涼にサトミの馬、アルスにサウザンバレーの馬だろう。
涼はそのまま府中の調整ルームに入ることにった。
その日の夜、涼のスマホに咲良から着信が入った。
「ごめん、咲良、明日、観劇行けない。でも花は送ったから。それにブルーレイ買うから。ごめん」
絶妙に要点を言っていない涼の言に咲良は困惑した。
『どうかしたんですか? まだ帰ってきてもないし……。まだ府中にいるんですか?』
「うん。明日、共同通信杯に乗ることになったんだ。……父さんからの依頼で」
それを聞いた咲良は途端に声色が変わった。声が震えている。
「心配しないで。おれは大丈夫。体重もちゃんと『あの時』並みに戻ってるし騎乗だって……大丈夫」
『私、心配なんです。あなたが遠くに行ってしまいそうで』
涼のことを心底心配しているのだろう、陣一との約束のこともあるのだろう、言葉の節々で咲良は涼の身を案じていた。
「身勝手だと思う。でもおれは、おれはやっぱりこれが無いと生きていけない。なあに、復帰が1ヶ月早まったと思えば大丈夫だよ。さっき外科の先生に許可をもらったよ。とにかく、明日だけだから。頑張るよ」
『涼くんは本当に、本っ当に……。でも今のあなたの気持ちを考えると、やっぱり応援したくなっちゃいますよ……頑張って』
「うん」
調整ルームのベッドの中で二人の会話は続く。
翌日、午後三時。
パドックの観客はその者の姿に喫驚した。
神代涼がサトミの勝負服を着て、待機所に立っている。
勿論、歩稀が制裁点を食らったその日に乗り代わりのニュースが流れ代打として神代涼の名前が踊った。
中央からの公式発表もあり、現地にいた観衆は本当に本物の神代涼なのか確認するために共同通信杯観戦に来たのだった。
医者の指示通り、昼食で安定剤を服用した。当たり前だが、認可されている薬である。
不安な時はのみなさいと言われている、別個の薬も待機所に来る前に服用した。
準備は万端であった。
観衆が次に気にしたのは乗る馬の厩舎が神代久弘厩舎であることだ。
競馬ファンはナチュラルに神代涼は父親の厩舎の馬には乗らないと勝手に思っていた。
お互いの心境の変化と捉えられていた。
両足にボルトを入れて、懸命のリハビリに臨んだ涼が、再びターフに帰ってきた。
乗り代わりのニュースが報じられた直後、掲示板の神代一家で買うスレッドは祭りが起きたという。
さて共同通信杯の涼の乗り馬は朝日杯3着のサトミシーファイア。シーファイア産駒である。
シーファイア産駒は昨年の夏、2歳新馬でゴールドファイアに乗って勝っている。
内国産三代目でサンデー系牡馬である。
涼が待機所にいるときに、マックスと潤がやってきた。
「アニキ……いや、涼、本当に大丈夫か?」
「クール、あまり無理はしない方向で」
「潤、マックスも、心配してくれてありがとう。準備はしたし後はどうにかなるよ。もう時間だし……行くよ」
パドックから「止まれ」の号令がかかった。騎手たちが各馬に散ってゆく。
涼はちらりとレットローズバロンに跨がろうとしている未來の姿を見た。
おそらく彼らは一番人気だ。
図らずも、涼がもともと所属していた藤村厩舎との対決になった。
しかも自分の乗り馬は父親の厩舎の馬だ。
厩務員にアシストしてもらって、サトミシーファイアに跨る。
久しぶりの馬上からの景色だ。それも地下馬道から今まさに東京競馬場の芝に出ようとしている。
リハビリの最中は乗馬マシンで慣らす程度であったが、ぶっつけ本番でしかも一度も追い切りに乗っていない関西の馬だ。
しかし競馬場は涼の庭とも言える関東だ。
あらかじめ父親と歩稀からサトミシーファイアの脚質と癖を聞いておいた。どうやら、直線向いてもズブいところがあるらしく追い出しは早めないといけないらしい。
「先行して……後ろには何もさせない」
ポツリと一言つぶやいた。
数えて4ヶ月ぶりの実戦である。
本来なら、涼は騎手に戻れないかもしれなかった。無理してさらに悪化させるかもしれない。
そんな不安が押し寄せるが、馬上で大きく深呼吸をする。
共同通信杯——府中1800、毎日王冠と同じ距離で3歳限定の別定G3。
トキノミノル記念という複称がつく。
このレース、涼は過去一勝だけしている。府中1800自体は数度勝利していた。
経験はあると自負している。
サトミシーファイアの鬣を撫でて落ち着かせる。
東京競馬場重賞のファンファーレが鳴った。
厩務員に引かれて1枠にゲートインした。
本命の1番人気馬、レットローズバロンは隣の2枠。
ちょうど8頭の出走なので、1枠ずつのゲートとなる。
奇数馬番がゲートインし終わり、偶数馬番が入り始めた。
レットローズバロンが冷静に2枠に入る。
芦毛のこの馬はやけに目立つ、と、改めて思った。去年の夏頃は自分が乗っていたのにと、女々しい思いが沸き起こる。
「集中……」
もう一度深呼吸をする。しかし仄かに心臓の鼓動が早くなる。
全馬ゲートインから数秒の静寂。そして、スタート。
押して、押して、押して、先頭で2馬身のリードを取る。
府中千八展開いらずとは言うが、このコース、2コーナーのポケットからのスタートであるから、外枠が若干の不利で先行馬が若干有利である。
しかし、このコースは広く、直線も長いため実力にフェアなコースとされている。
故に展開を必要としない実力を試される、コースなのだ。
心の中で秒を刻んだ。8のハロン棒を見やる。58秒。
「よし。上げてくぞ……っく」
ペースも鼓動も早くなる。
ドクン、ドクン——。
直線向いて、残り600m。
体感11秒弱の1ハロンが続いていた。
仕掛け時だ。
景気付けに一発、ズブいとされるサトミシーファイアに鞭を打つ。
「反応悪っ!」
「あ、いや、回転上がった?」
馬上で困惑する涼を他所に、サトミシーファイアはストライドを広く、ピッチを早く、残り二ハロンを驀進していく。
ポツンと先頭、突き放していくか。しかし、最後方から白い影。
「やっぱり来るか、バロン! けど、抜かせない」
2馬身差が——詰まらない。
サトミシーファイアが粘っている。
「この粘り腰は……」
追撃するバロンに目もくれず、鞭を何発も打つ。
残り100m。
「いけっ! いけえええ!!!」
首を精一杯押す。
バロンに迫られて、そのままゴール板を駆け抜けた。
サトミシーファイア、共同通信杯勝利、鞍上神代涼が帰ってきた。場内実況が叫んだ。
ウイニングランを終えてなんとか引き揚げようとする。
ドクン、ドクン、ドクンッ——。
「うっ……ゴホッ」
後検量、後検量、独り言を息絶え絶えに言いながら検量室に戻ってきた。
レースは確定した。
勝利ジョッキーインタビューへ行こうとしたその時、涼はその場に倒れ込み嘔吐してしまった。
意識は薄れていく。遠くの方でマックスや潤やアルスの声が聞こえる。
勝ったのに——早く、行かないと。
ここで涼の意識は途切れた。
///
東京都内、某大学病院にて涼は覚醒した。
「……病院?」
「よう、アニキ。一応言っとくがまだ共同通信杯が終わって、2時間しか経ってないぜ」
「はあ……やっぱ無理だったかな。いきなりの騎乗は」
「確かにね。クールはレース中は気を張ってたみたいだけど、終わったら一気に来たね。でもボクも来月の3歳新馬と弥生賞に向けていい勉強になった」
「潤、今日のラップタイムは?」
「ラスト4ハロンから11秒8、11秒7、11秒5、11秒5。勝ったからいいものの、これは少し暴走気味だな。馬の素質が良いのもあるが、若い馬にはちゃんと競馬を教え込まないとダメだぞ」
「いやあ、脈拍と一緒に時計測ってたらそうなった。めっちゃ、心拍数高い」
「え! おい大丈夫かよ! 不整脈とか無かったよな?」
「無いよ。そんなことより、父さんなんて言ってた?」
「概ね、俺と同じことを言ってたぞ」
大部屋の病室で反省会じみたことをやっていたら、隣のベッドの主から声をかけられた。
「あなたらはもしかして、さっきの競馬見てた人?」
30代〜40代程度の年齢の男性だった。
ラジオを聴いているのか、キー局の番組のジングルが聞こえる。
「えっと、自分、今日の東京メインRでサトミシーファイアに単勝100万入れてたんだけど、あなたらの話が聞こえてきて、やけに業界じみた話してるなあと思って」
男性は、カーテンの隙間からスマートフォンを覗かせて画面を見せてきた。
中央競馬のネット投票の画面だ。馬番1番単勝100万、的中、と表示されている。
「えーっと何倍でしたっけ?」
「あれ? そういうことは知らないんだ。サトミシーファイアは6番人気で10・5倍だったよ」
「じっ……へええ、すごい大当たりじゃないですか」
涼は感心した。
「おめでとうございます」
「へへっ、退院したら口座から引き出すんですよ。あなたはどの馬に賭けてたんです?」
「いやあ、ぼくらは見る専ですよ」
何か言おうとした涼を制止して潤が先に口を開いた。
「勿体ないなあ、サトミシーファイアは今回、天才騎手の復帰レースでいわゆる銀行レースだったのに」
「勝てるとは思ってなかったんですけどね」
「そうかなあ。ネット掲示板じゃあ一番人気のバロンは来ないって言われてたのに」
「2着に来たじゃないですか。面目は保ったのでは?」
「自分は、鞍上の神代ジョッキーのファンでして、それだけで買い要素だったんですよ!」
カーテン越しに熱く語る男性。涼の顔は見ていない。
「若いのに頑張ってるなあ〜とか、プレッシャーとか無いのかなとか、彼を見ていたら自分も頑張れる気がするんです。今は胃潰瘍で入院してるんですけど、家に帰ると、嫁がうるさくて、ろくに競馬中継も見させてくれない。やれ娘や息子の相手をしろだとかなんだとか」
「ご主人、既婚者なんですか」
「7年前、25の時に今の嫁と出逢いまして……東京競馬場でした。シンザフラッシュと神代涼ジョッキーが勝ったジャパンカップで自分はシンザフラッシュの単勝を50万買ってたんです。馬券売り場で、買い方に迷っている嫁を見つけてアドバイスをしてあげたのが出逢いです。当時、嫁は初の現地観戦だったみたいで、マークシートのやり方が分からなかったみたいです」
男性の話に耳を傾ける涼たち。
「それで、後ろが詰まっているんで自分が声をかけて……ってすみません、自分の身の上話はともかくとして、嫁と自分を結びつけてくれた神代涼ジョッキーには感謝してもしきれないんです。その嫁も、今じゃあ子育て疲れなのかどこかトゲトゲしくて」
「去年の凱旋門賞は夫婦で見ていたんですけど、あんな事があったでしょう? 二人揃って落ち込んでしまって、その後すぐに嫁が2人目を産んで、まあお互いがストレスを溜めてたから、胃潰瘍なんてなったのかもしれませんね」
「結婚生活は幸せですか?」
涼はひょんなことを聞いた。
「ええ勿論。子供にも恵まれましたし、胃潰瘍も名誉の負傷ですな」
男性はハハハっと笑った後、イテテと言った。
そんな談笑をしていたところに、病室へある人物が勢いよく入ってきた。
「涼くん! 共同通信杯のあと倒れったって聞いて……。大丈夫ですか?!」
なんだなんだと大部屋の病人たちが仕切りのカーテンを開けて確認しだした。隣の男性もだ。
病人たちは一様に、間寺咲良の姿を認めると、目が点になった。
そして咲良が寄り添っているベッドの主人を見て、更に驚愕した。
「じ……神代涼ジョッキー???!!」
隣の男性は驚きのあまり口をあんぐりと開けたままでいる。
ども、と言って病人たちに会釈する涼。
「すみません、ご主人。別に隠してたわけではないですよ」
「ああああ、握手してください!!」
「ご主人、落ち着いて、お腹の傷に障りますよ」
苦笑しながら男性の手をとり固く握手を交わした。
状況を理解していない咲良は疑問符を飛ばした。
「ん、おれは大丈夫、少しめまいして倒れただけだから。それにレースは勝ったし」
「あんまり無理しないでください。潤くん、なんですぐ連絡してくれないんですか!!」
なぜか、咲良の怒りが潤に向く。
「だあって、お前、今日大事な舞台の初日だってアニキから聞いたから」
一部始終を見ていた隣の男性は潤におずおずと問う。
「あの、やっぱり本当なんですね。神代涼ジョッキーと舞台役者の間寺咲良さんが婚約しているというのは」
「まあ、そうですね」
「昔から、我々ファンの間では有名な話でしたが、本当にこうなるとは。いや、やっとここまできたと言うべきでしょうか」
「本当。やっと新しいスタートが切れそうですよ」
なぜか潤が相槌を打った。ウンウンと首を縦に振っている。
「それで神代ジョッキー次は何に乗るんですか? 着いていきますよ」
男性の声援に涼はバツが悪そうに切り出した。
「いやそれが、今日は一鞍だけの特別復帰みたいなものでして、本格復帰はまだ先なんですよ。でもそう遠くない頃には表に出ていると思うので、その時はよろしくお願いします」
「そうなんですか。いやいや、応援しますよ! トゥザスターズ、凄いって評判ですから」
「弥生賞でトゥザに乗るのが楽しみになりました。早いとこ病気も良くしないといけませんね」
「あとっ! ブライアンズハートの復帰はいつ頃になりますか?」
病室の男性たちの目が涼に集まった。涼はいたって冷静に告げる。
「すみません。機密事項でして口外はできないんです」
「そうですよね。すみません、軽はずみに聞いてしまって」
「いえいえ、いいんですよ。ハートのことを気にしてくれる人がいるってわかっただけで、ぼくは嬉しいです」
しばらく病人たちと見舞客を交えて話をしていると、涼のもとに医師がやってきた。
「かかりつけのクリニックからカルテを送ってもらいました。神代さん、端的に言って今日は無茶をしすぎです。これでは目標の弥生賞もクラシックも乗れませんよ」
医師は溜息を吐きながら続ける。
「もう少し慎重にいきましょう。クリニックの先生にも話を通しましたので、今日は帰っていただいて、後日またクリニックに行って下さい」
「はい……」
横で話を聞いていた咲良や潤たちは、少し涼に対して申し訳なく思った。
自分たちが、涼の復帰を後押しするどころか、催促してしまっているのではないか。
茨城へ向かう帰りの電車で、3人は涼に謝罪した。
「アニキ、すまない。俺たち、無意識にアニキを急かしていたのかも知れない」
「ん?」
静かに夜景を眺めていた涼は3人の方へ顔を向ける。
「ごめんなさい。私も、今日のレースにあなたが出るって聞いたら少し、舞い上がっちゃって……。もしかしたら、また大きいレースで勝てるようになるかもって思ったら、落馬恐怖症のことをすっかり……」
「……」
涼は黙って聞いている。その表情はとても落ち着き払っていた。
「今後はボクがクールのコンディションをしっかり見て依頼を持ってくるよ」
「潤、咲良、マックス、心配してくれて本当にありがとう。でも今回のことはおれの独断で、おれが乗りたいと思ったから乗ったまでだよ。お陰で、おれの現状がよおく分かった。弥生賞までに何とか新人年度並みのコンディションまでもっていかないとな」
それと、と涼は続ける。
咲良に向き直り、スッと頭を下げた。
「ごめん。舞台、本当にごめん。月末の楽日まで、日程が山のようにあるんだろうに、心配させちゃって」
「いいんですよ。騎手をやってる涼くんを見てると幸せな気分になれますから。それに! 今日のオズの魔法使い初日、凄い盛況だったんですよ! 芝居下手な私が主演なのに、大入袋が出たんです」
それでですねと言って咲良は持っていたトートバッグからCDケースを取り出して涼に渡した。
ラベルには虹の彼方にフィーチャリング・サクラと書かれていた。
「舞台前に収録しておいた物です。千秋楽で物販に並ぶんですけど一枚貰ってきちゃいました」
「ありがとう……擦り切れるまで聴くよ」
「なんかアニキたちもここまで来たなあって、感慨もひとしおだよ」
潤が車内販売で買ったビールを飲みながら感慨深げに言った。
「潤はどうなんだよ。藍沢、スプリンターズS惜しかったんだってね。労いの言葉でもかけてあげたのか」
涼はニヤリと笑って潤を見やった。
「えっ! 潤くん、岬ちゃんといい仲なんですか?」
「美浦トレセンじゃ有名な話だよ、なあ潤」
「アニキら程じゃないよ」
藍沢岬は昨年、中央の成績と地方の成績合わせて80勝した。女性騎手の年間最多勝であった。
それどころか、そんじゃそこいらの新人男性ジョッキーよりも腕が達者ということになる。
一昨年に30勝しているので、これによって藍沢岬は晴れて減量を解かれたのであった。
昨年初めて出走したスプリンターズSでは追い込んで2着。
逃げたコーセイスピリッツとバーンマイハートを追い込んで、バーンマイハートを競り落としたがコーセイスピリッツには差し届かなかった。
「いい追い込みだった。女性騎手ってーと逃げ馬に乗って勝たせるのが常道って感じだけど、岬は馬群を割って追い込んできた、なんというかアニキの騎乗みたいだった」
「妹弟子みたいなものだからな。おれも初心に立ち還らないとね」
スマートフォンの競馬関係のニュースを見ながら、あることに気づいた。
本日の東京開催の裏の京都開催、メインレース京都記念に岬が出ていたのだ。
「藍沢、京都記念勝ったみたいだな。重賞初勝利か?」
「ええっ! ああっ本当だ! 帰ったらなにかお祝いしないといけねえ」
「ふふっ、潤くんって本当に甲斐甲斐しいですよねー」
「ジュン、クールのことはいいの?」
「え? アニキ? アニキはアニキで置いといて」
「ぞんざい!」
そう言って涼は潤の額を小突いた。潤は呆れた顔をして言い返す。
「あんなあ……アニキはもう美浦だけの騎手じゃねえだろ。これからはマックスと頑張れよ」
そうである。涼はもうフリーのジョッキーでマックス・デ・フィリップスという敏腕をエージェントに迎えているのだ。
来月の3歳新馬セタブルーコートの依頼もマックスによるものだ。
トゥザスターズをつなぎとめたのもマックスのお陰だ。スターナイトRの代表は朝日杯勝利のあと、鞍上をどうしようかと考えたらしい。
翌月、来日したマックスはトゥザスターズのことを望から聞いて、是非とも涼に戻してくれと願い出た。
スターナイトの代表も涼が今までの力を発揮できないかも知れないことを心得ていた。
結局、マックスの尽力によってトゥザスターズの弥生賞とクラシックは涼で、ということになった。
「トゥザは新馬で惚れたんだ。もしかしたら、もしかするかもって」
もしかしたら——トリプルクラウンを。
そうなれば、外国産馬初の三冠であり、シーザスターズの日本産駒初の三冠ということになる。
それどころかシーザスターズ産駒の日本競馬G1初勝利ということになってしまう。
そうこう話をしているうちに列車は茨城に入り、4人は美浦へ帰っていった。
週が明けて、今週末はいよいよ2019年G1第一弾フェブラリーステークスだ。
涼は今週からリハビリがてらに追い切り参加するようになった。美浦のスタッフは涼の復帰を喜んだ。
フェブラリーステークスに予定がある保井が涼を見舞った。
「先輩、アドミラルトップの背中はどうです?」
「ダート馬は力強いな。こりゃ、フェブラリーS勝つね」
涼は保井の勧めでアドミラルトップの追い切り後、同馬に乗せてもらった。
流石は中央ダートG1完全制覇した馬だけある。今年はどうやらフェブラリーSに出た後ドバイワールドカップを狙っているとのこと。
「招待状は去年貰ってたんですけど、調整が合わなくって。今年も届くことを見越して調整しているんです」
「成る程……。ドバイか」
日本産馬のドバイワールドカップ制覇は2011年のヴィクトワールピサのみである。
涼のデビュー一年前のことだ。
「凄いな、保井。日本人二十三歳でドバイWC、乗鞍ってそうそう無いんじゃないか?」
「そうですかね? 海外の人は若い頃から国外遠征するらしいですけどね」
「まあ、おれがキングジョージ勝ったのニュースになるくらいだもんな」
「いや、それは普通に凄いことです。年齢関係なく。先輩、自分が上手なこと自覚してないんですか?」
「初心に還ってるから」
「そうですか」
アドミラルトップに跨っている涼は、トップのたてがみを撫でた。
「G1馬の背中はやっぱり良いな。保井、フェブラリーもドバイも勝てよ?」
満足したのか下馬して、あとを保井廉に託して美浦南の高柳厩舎へ向かった。
高柳裕司厩舎にはトゥザスターズがいる。
先週、外厩から帰厩したばかりで2週後の報知弥生賞に向けて追い切りが始まっていた。
涼の姿を認めた高柳師は追い切りリストから目を離して涼に向き直った。
「やあ、見学かい? お陰で、トゥザスターズもタモノハイボールもクラシックトライアルに臨めそうだよ」
「タモノハイボールって去年先生が絶賛していた馬ですか。確か、阪神ジュベナイルを——」
涼が言いかけたのを高柳師は勢いよく制止してそれを上回る声で捲し立てた。
「そうっ! 阪神JFの勝ち馬! トゥザスターズと並んで最優秀2歳馬!」
「そ、そうですね。あ、でも阪神ジュベナイルって藍沢乗せてないですよね」
「あいにく、藍沢くんは裏開催に回ってしまったからね。あの時は海老原くんに頼んだよ」
「へえ、流石、海老原先輩」
「チューリップ賞は藍沢くんに頼む予定だよ」
「大変だなあ……」
「おいおい、君にはトゥザで弥生賞を頼もうっていうのに、他人事だね」
涼は慌てて訂正する。
「いえっ! 違いますよ! 弥生賞は得意コースなんで荷が軽いだけです」
「油断は禁物だよ。君の中山の成績は……」
「去年は3割くらいの勝率です」
意外な好成績に高柳師は面食らった。
涼の関東の馬場での成績が格別に良いことは前述した。重賞の勝ち鞍も圧倒的に関東開催の方が多い。先週の共同通信杯だってそうだった。
東京コース中山コースの重賞は買い方はともかく神代涼を勝っておけばまず外れないとまで言われている。
「しっかりと心の病気を落ち着かせて、また昔のような騎乗を期待しているよ」
「任せてください!」
と、そこへ追い切りを終えたトゥザスターズが調教助手を背に乗せて帰ってきた。
調教助手は涼に気がつくと急いで馬から降りて駆け寄った。
「どうもです。トゥザスターズ調子は凄ぶる良いですよ。今の併せ追い切りも先入しましたから!」
調教助手は興奮気味に話す。高柳師がその追い切り時計を見て目を剥く。
6ハロンの追い切りで最後の2ハロンが十二秒、十一秒、と「馬なり」でこの時計を繰り出していた。
調教の僚馬は1000万条件の古馬牡馬であった。
「馬なりで、先入、終い十一秒? いやでも、前半のラップがスローだから逃げ先行の瞬発型なのか? やはり……」
「あの? 先生?」
涼と助手が心配そうに高柳師に声を掛ける。
一人考え込んでいた高柳師はハッと気づいて、この馬はやはり凄いよとトゥザスターズに太鼓判を押した。
「いや、トゥザスターズはやはり凄い馬だよ。弥生賞が楽しみだ」
トゥザの追い切りに感激した高柳師と困惑している助手は次の追い切り馬に取りかかった。
三月の第一週中山開催と阪神開催でそれぞれ皐月賞トライアルと桜花賞トライアルが施行される。
土曜日阪神ではチューリップ賞が、日曜日中山では弥生賞が、それぞれその日のメインレースだ。
トゥザスターズの朝日杯から弥生賞というローテーションはいわゆる王道のローテであり、有力馬がたどる道だ。間に2月一週京都開催のきさらぎ賞を挟む場合があるが、トゥザスターズの場合関東馬なので輸送を加味して出走しないことになっていた。三冠を狙う場合の王道ローテは弥生賞、皐月賞、日本ダービーときて放牧を挟み、秋初戦を神戸新聞杯で迎えるものが多い。
ディープインパクトであったりオルフェーヴルであったり、直近の三冠馬はこのローテを辿った。
関東馬としてはシンボリルドルフがダービー後にセントライト記念を勝ち菊花賞に駒を進めた。
高柳師も輸送を極力減らすため弥生賞直行としたりしているため、事がうまく進めば秋はセントライト記念からとなるだろう。
しかし、セントライト記念から菊花賞を勝ったのは直近だとキタサンブラックのみであり、三冠馬でも先述した通りルドルフだけだ。
セントライトからは菊花賞に直結していないように感じる。
弥生賞は皐月賞と同じ舞台だけあって直結しているのだが。
同じ舞台といえばダービートライアルの青葉賞は東京2400というダービーと同じコースなのに未だに青葉賞からのダービー勝ち馬は出ていない。
よく好走はしているのだ。例えば2011年の青葉賞馬はウインバリアシオンであるが、ダービーはオルフェーヴルの2着である。
翌年の青葉賞馬フェノーメノはディープブリランテの2着だ。
つまり相手役なのだ。
話を戻そう。
トゥザスターズは長距離輸送を極力しないで、省エネでクラシック臨もうというのだ。
「菊まで行けたら京都までの往復切符か」
高柳厩舎をあとにした涼は、追い切り騎乗のため國村厩舎へやってきた。
久しぶりにマジシャンズナイトに乗せてもらうのだ。
といっても、調教騎乗だけで、レースには乗らない。
ウッドチップで三頭併せ外目一杯の追い切りを指示された。
マジシャンズナイトもこの春ドバイを目指しており、開けて五歳になった馬体はますますダンシングブレーヴに近づいてきた。
ドバイではシーマクラシックを目標にしているとのこと。
有馬記念のあと放牧に出されて先週帰厩した。
次走は24日の中山記念とのことだ。
「外目追走、一杯!」
6ハロン走り、ラップは速め。
元来逃げ先行脚質なのでラップは普通に速いし僚馬をあっという間に抜き去り先入してみせた。
涼の騎乗も可もなく不可もなかった。
涼がマジシャンズナイトでこういった乗り方をするのは初めてであった。
お手馬だった頃は追い込み一辺倒にしていたのだから。
「うん、まずまずかな。お疲れ様。体の調子も良さそうだね」
「おかげさまで、新人時代並には乗れるようになりました」
「君の新人時代って、デビュー3月の平馬無双の頃かい?」
國村師は茶化すように言った。
「いやいや、あれは必死だったんですよ? 今みたいに余裕なんて無かったですから」
勘定に入りませんと続けた。
しかしながら、マジシャンズナイトは5歳にして遂に本格化かと言えるほどのオーラを持っていた。
これには涼も息をのんだ。
「形容しがたい……」
欧州血統にしては素軽すぎる。去年までとはまるで別馬だ。
これは2着を繰り返す連対マジックマンではない。
「今年のドバイは勝てるよ。去年のハイウェイスターに続こうじゃないか」
「っても、ぼくは乗り役じゃないから関係ないんですけどね」
「またいつかは乗るかもしれないだろう? 第一君を下ろした理由っていうのはブライアンズハートに専念させるためだったからね。戦績からだと君が一番マジシャンに乗っているのだから」
「確かに」
ブライアンズハートから一時的にとはいえ解放されたからには第二のお手馬であったマジシャンズナイトに順番が回ってくるのは必然だろう。
今年の古馬路線はひょっとしたらマジシャンかもしれないなと考えた涼だった。
「あーでも君は今年も有力三歳を持っているんだったね。分身したらどうだい?」
「出来るものならとっくにやってますよ」
二人で笑い合った。
そんな時、涼は坂路で追い切りをやっている國村厩舎の馬に目をやった。
「先生、あの馬は?」
「あの仔は未勝利の三歳馬だ。このまま行くとダービーの頃か初夏頃には勝てると思うんだけどね」
いわゆる晩成馬というものだ。
「血統は父スペシャルウィーク、母父アドマイヤムーン」
「サンデー濃いですね。勝てないのって気性からなのかな」
「気性もあるね。でも虚弱でレースを沢山使えないんだ」
「虚弱……」
非常に納得がゆく。
虚弱馬には乗ったことがあるが、脚をよく故障したり、熱発を起こしたり、体質がそもそも弱かったりとレースの数を使うどころか牧場から戻ってこなかった馬もいるくらいだ。
一般に、濃いインブリードの血統の馬によく現れる体質だ。
一時期同じ血の血量が約18%だと奇跡の血量と呼ばれ、その血を持つ馬は走るとまことしやかに言われていた。18%というと三代前のと四代前に共通の先祖がいるといった感じになる。
最近多いのがノーザンダンサーでこの配合が行われている。
100年ほど昔だとセントサイモンというイギリスの種牡馬のクロスが多かったという。
こういった例は血の袋小路の故やむなく近親で配合した結果生れた血統理論である。
現代日本でもまさに似たような事例が起こり始めている。
サンデーサイレンスの飽和。
サンデー系牝馬をあてがわれたキングマンボ系種牡馬の子供たちの増加。
端的に言うと、サンデー系×キングカメハメハの配合の増加だ。
現代日本競馬では、この血統にあてがわれる第三の種牡馬、繁殖牝馬が多く輸入されている。
直近で活躍しだしたのはノーザンダンサー系種牡馬ハービンジャーだ。
これまでも多く異系の種牡馬を導入してきた大手牧場だったが、ことごとく失敗してきた。
というのも、サンデー直仔の種牡馬との活躍期が同じだからだ。それは現代でもそうである。
現代日本では、サンデーを活かしつつ異系の血を入れるというのが主流である。
サンデーが血統に入っていないキングカメハメハ産駒の種牡馬も活躍し始めた。
ルーラーシップやロードカナロアである。
特にルーラーシップは母系がダイナカール・エアグルーヴと続く由緒ある血統で、当該馬の近親にはアドマイヤグルーヴを経たドゥラメンテ等がいる。
ルーラーシップから見たらドゥラメンテは姉の産駒、つまり甥っ子ということになる。
とにかく、今日本に必要とされている種牡馬の話をした。
國村厩舎に預託されているこの未勝利馬は血統面からくる虚弱体質でレースを使えないでいる。
それは近親配合によるもので、その配合は苦肉の策によるものだったかもしれないということだ。
今後、サンデーのインブリードは増えてくるだろう。
「勝てるといいですね」
「君、乗る?」
「え、あ、遠慮しておきます。まだ万全じゃないですし」
こうして追い切りの一日を終えて、涼は自宅に戻ってきた。
久しぶりに追い切りに乗ると、感覚を掴んだのかいつもの動悸がやってこなかった。
レースというプレッシャーが無いからであろうか。
今日の状態を一日の終わりに日記に書くためにメモをとった。
午後からは、フリーである。
布団を干し、部屋の掃除をする。冷蔵庫を開けたとき食材が無いことに気づき、夕食の買い出しが必要になった。
適当に夕食のレシピを決め、スーパーで食材を調達する。
自活を始めて早七年。
家事の姿が板についてきた。
しかし、最近は二人分の食材を調達している。
言うべくもないが生活者が一人増えたためである。
「我ながら、おれのこういう面は女性はどう思っているんだろうな」
自分のことは全て自分で片づけてしまう。独身男性の究極のスタイルだ。
最近、咲良を甘やかしている気がする。
しかし、自分の日常スタイルに咲良を巻き込むわけにはいかないし、悩ましいところだった。
いつまでも、このような生活はだめだと思っている。
お互いが助け合うと陣一に宣言したからには、個人スタイルで生活するわけにはいかない。
そこは咲良も分かっているようで、要所要所で家事をやっている。
絶望的に咲良と涼の日常が違うのだ。
咲良は平日は舞台稽古やテレビ収録があり、土日は公演がある。
涼は平日追い切りで朝早くに出て行ってしまう。土日は無論、本業の競馬開催のレース出走だ。
「これも甲斐性ってね」
出来のいい人参を2本手に取りながら呟いた。今夜は野菜カレーだ。
帰宅の道中、見覚えのある人間が美浦トレセンの門前でウロウロしているのを見た。
その人物はサングラスをかけているが、日本人のようで、涼にとってもどこかで見たような人物だった。
怪しんだ涼はその人物に声をかけた。
「あの、美浦トレセンになにか御用ですか?」
人物は振り向くと、サングラスを取って素顔を晒した。
「あ、あなたは……ミスターK?!」
凱旋門で出会った、欧州の競馬アドバイザー、自称ミスターKその人だった。
「神代涼君、元気そうで何よりだ。どうだい? ブライアンズハートのその後は?」
「その後って……アドバイザーなら知っているでしょう。屈腱炎で復帰の見通しも立っていないですよ」
涼は嫌味ったらしく言った。
ミスターKは手を顎に当てて考える素振りをした後、納得したようにこう告げる。
「日進ステーブルに行ったよ。あの調子だと宝塚あたりが復帰なのではないかな? 心田大志という人物が選びそうな舞台であると思うよ」
いやに訳知り顔なミスターKは今度はハートの復帰を予言してみせた。
「というか、あなた、なんで日本にいるんですか?」
「いや、凱旋門であんな事があってその後すぐに、渦中の人物がフリー転身したと聞いて、俄然興味が湧いたんだ。で、久しぶりに日本に帰ってみれば、その人物が落馬恐怖症を負いながら、また有力馬でクラシックに挑むんだって噂を聞いてね。しかも今度は欧州血統の馬だそうじゃないか、シーザスターズはまだ日本のクラシックホースを出していない。これが成功すれば、僕の欧州での仕事も増えると思って景気付けに来たんだよ」
「要するに、トゥザスターズでへぐるなって事ですね?」
「ダンシングブレーヴ直系のマジシャンズナイトも出来れば」
マジシャンズナイトの乗り役の行方まで知っているのかと嘆息した涼だった。
「なぜ、そこまで欧州に拘りがあるんですか? 日本人なら日本在来血統や、今日本で繁栄している血統を重要視すると思うのですが」
「スターナイトレーシングの代表と同じ価値観かな。ヘイルトゥリーズンの薄め液を見出して牧場に還元する、その一端を担っているのが僕の仕事。その点、ブライアンズハートは使いにくい血統だな」
そこは涼も同意だった。
いくら競走馬として優れていても、種牡馬として付けられる牝馬が限られるなら費用対効果から見て敬遠するだろう。
まして、母父サンデー、母母父トニービン、母母母父サドラーズウェルズ、父系ロベルト(ブライアンズタイム)とくれば、現代日本に繁栄している流行血統ばかりである。
ブライアンズタイムの直系とみれば現代では衰退している分まだマシだが、母父にサンデーサイレンスがいるという状況はドゥラメンテと同じだ。
「僕は種牡馬として見るならブライアンズハートよりマジシャンズナイトの方が価値があると見るね」
マジシャンズナイトの祖先、ダンシングブレーヴは80年代最強のサラブレッドと呼ばれていたが、マリー病という奇病に罹り、後継産駒をあまり出せなかった。
罹患後に日本に輸入され繁養されていたが、欧州時代に種付けした世代からG1馬コマンダーインチーフとホワイトマズルが出て、日本への輸出は早計な判断であった、国家的損失とまで言われた。
コマンダーインチーフも日本に輸入され、そのサイアーラインから生まれたのがマジシャンズナイトである。
ダンシングブレーヴ自身はリファール系であった。リファールの父はノーザンダンサーである。
つまり、マジシャンズナイトは代を経たノーザンダンサー系であるから、日本のサンデー系牝馬やキングマンボ系牝馬に付けられるのだ。
当馬は宝塚記念を勝ち凱旋門賞で逃げて上位入着しているから種牡馬入りは確実だろう。
「欧州競馬の現在の下地はノーザンダンサーが作った。日本競馬はサンデーサイレンスが革命を起こした。僕はそれらの直系をそれぞれ持ち込み、持ち込ませ新たな時代を作る」
「欧州で、という意味ならブライアンズハートの血は貴重だ。キングジョージで結果も出したし欧州の大手スタリオンに話を通したいくらいだ」
逆にマジシャンとトゥザスターズは日本に必要な血だ、と言い切った。
「だから、トゥザスターズのクラシックとブライアンズハートの復帰戦は力を入れてもらわないと困る」
「本当に、ハートを欧州にドナドナするつもりですか?」
「あとG1を三つくらい勝ったら、アイルランドの大手スタリオンに招かれるだろう」
「アイルランド……」
ブライアンズハートは現在、2歳G1ホープフルステークス、春クラシック二冠、KG6&QESと計4つのG1を勝っている。あと3つ勝ったら計7勝で顕彰馬も見えてくる。
普通に考えたら日本で種牡馬入りして、牝馬も引く手あまただろう。普通だったら。
「普通じゃないからこういう種は海外に蒔いたほうがいいんだよ」
ミスターKと立ち話をしていたら、背後からある人物が声をかけてきた。
「なんだ、涼、トレセンの前で立ち話は良くないな」
「じいちゃん?! なんで美浦に来てるんだよ?」
ミスターKが小さく「ゲッ」と言ったのを涼は聞き漏らさなかった。
「ん?」
涼はミスターKの方を見る。和尭もそちらの方をみた。和尭はぴくっと何かアンテナが感じ取ったかのようにミスターKをじろりと睨む。
「あんた、どこかで……いや、絶対俺が知っている人物だ」
「ああ、じいちゃん、この人、おれが凱旋門で会ったミスターKっていう競馬アドバイザーだよ」
「K……お前さん、もしかして活樹じゃねえだろうな?」
ミスターKは尚更ギクリとした。活樹、八島活樹。七海や遥乃の父親で、数年前に失踪した人物だ。和尭にとっては義理の甥にあたる。
涼は驚愕した。
「え、えええ! だって、失踪したって」
ミスターK、いや、八島活樹は観念したように正体を表した。
「おじさん、お久しぶりです」
「何が久しぶりだ。珠樹さんも逸樹も心配しとったんだぞ。七海も遥乃もどれだけ苦労したと思っているんだ」
「それが嫌だったんだよ。八島ファームを継がなきゃいけない? 僕はゴメンだね。僕は行き詰まった日本の馬産より夢がある海外で働きたかったんだ」
活樹の言い分を聞いて、だから海外にこだわりがあったのかと納得する涼だった。
「お前がいなくなっている間に日本の馬産も進歩したわ。海外に拘るのなら、輸入種牡馬や輸入繁殖牝馬で生産すればよかろうものを」
「でも逸樹大叔父さんって内国産に一家言あったような」
涼は横槍を入れる。
基礎牝馬に零細血統をつけるくらい父内国産馬に拘っているのだ。その点は活樹とは対象的だ。
「お前はお前のやり方で牧場をやっていけばいいんだ。新しい八島ファームを作るんだよお前がな」
「……」
活樹は黙ってしまった。
ちょうどその時、トレセンの中から遥乃が出てこようとしていた。
活樹は急いでサングラスをかけて、涼と和尭に別れを告げた。
「いつか、また、いつか日本に帰ってくるよ。それじゃ。あ、涼、ブライアンズハートのことは考えておいてくれ」
活樹は去っていった。
あとに残った涼と和尭は、入れ違いにやってきた遥乃に今の人はと聞かれてはぐらかしたのであった。
「あ、えっと、爺ちゃんなにか用事だったの?」
「いや、お前の様子を見に来たんだ。共同通信杯で無理をしたんだってな」
「う、うん。でも大丈夫だから……」
「咲良さんに迷惑をかけるなよ。お前の体は一つしかないんだからな」
それから、と和尭は続ける。
「いつ、届けを出すんだ? いつまでもこのままではイカンだろう?」
「いつって言っても……今の所、おれの方が目処が立っていないっていうか」
「煮えきらんな。そうだ、日本ダービーだ。日本ダービーで勝ったら腹くくりなさい」
日本ダービーと和尭が言ったあと涼は少し違和感を感じた。日本ダービーではない、そんな気がした。涼の中で最も勝ちたいレース。それは――。
「天皇賞・春……」
和尭がかつて祖母・珠樹に対して約束したカゼキリの天皇賞。
自分も天皇賞春をシンザフラッシュぶりに勝って気持ちを決めたい、そんな思いが湧いてきた。
シンザフラッシュ以来勝っていない天皇賞春。今年乗るとしたら、シンザヴレイブだ。
「そうか天皇賞春か。乗る可能性があるのは去年の神戸新聞杯馬か」
「みんなおれを急かすし、咲良も何か期待してるし……今年の春のG1は自分を追い込むよ」
「別に急かしてたりはせんよ。しかし無理はせんようにな。これは婆さんと行った九州旅行の土産だ」
和尭はそう言って鹿児島土産を涼に手渡した。
「旅行なんて行ってたのかよ。九州っていうと、馬産地めぐり?」
馬産の殆どは北日本で行われているが、九州でもそれは小規模ながら行われている。
九州産馬限定のレースもあるほどだ。
「うむ。古い知り合いの牧場に招かれてな。戦前は南九州でも生産は盛んだったんだが、殆どが北海道に移って今はほそぼそと続いている」
二人は涼の部屋に移動して、涼は和尭に緑茶を差し出した。
緑茶の香りを確認したあとズズッと啜る。うまいと一言漏れる。
涼はスーパーで買ってきた食材を冷蔵庫に入れながら、和尭に出す茶請けを探した。ちょうどよくとらやの羊羹が入っていたのでそれを出す。
「はい、羊羹。爺ちゃんの好きなとらやの羊羹だよ」
和尭は羊羹を一口、口に入れてため息を吐いた。
「活樹おじさんのこと? いきなりだったね」
「あの馬鹿は、まず子の親というのを自覚していない。久弘よりもタチが悪い」
「まあ、父さんは良くも悪くもおれたち兄弟や母さんのこと気にかけてるし」
「はて、この事を言うべきか否か」
「おじさん言ってたじゃん。いつか普通に帰ってくるって。待つのもいいんじゃない?」
「下手したら、今の流行血統が死に絶えた時かもしれんぞ」
「帰ってくるだけマシじゃない?」
和尭の言葉に苦笑をもって返す。
「はあ、この話は終いだ。涼、お茶をもう一杯」
「はいはい」
空になった湯呑に緑茶を再び注ぎ入れる。ふと、湯呑を凝視すると茶柱が立っていた。
「九州の話を聞かせてよ。おれ、九州産馬に乗ったことないんだ」
「いいぞ」
それから二人は宵の口まで談笑した。
咲良が仕事から帰ってきて、和尭は邪魔になっては失礼と思い部屋を出ようとした。
「え、もう6時だよ。年寄りが夜にうろつくもんじゃないよ。泊まっていったらいいのに」
「若いもんの邪魔はしたくないしな」
「じゃあ南の潤の部屋でいいよ。今、潤に連絡取るから」
涼は固定電話を取り、潤宅に電話した。2コールで出た潤は、涼からことの次第を聞いて了承した。
「和尭おじさま、今日はゆっくりしてらしてください」
「いやあ悪いなあ。久しぶりに美浦に来て舞い上がってしまうわい」
「あーい、夕食、野菜カレーおまちー」
カレー皿にたんと盛られた野菜カレーに和尭は感心する。
珠樹や梓が作るものとそっくりだからだった。
「涼、それしか食べないのか?」
「あーうん、来月、三歳新馬で牝馬に乗るから斤量きつくて。今から絞るんだ」
「お前たちは梓さんに似たから背が高いんだな。よく騎手になれたものだ」
「今にして思うと、よく騎手課程合格したものだと思うよ」
「178じゃあなあ。同じくらいなのは式くん位のものか。式くんという前例があるからなのか」
コネじゃねえか、と口にしたかったがぐっと堪える。
新人時代どれほどコネ騎手と呼ばれたか、考えるのも嫌になる。
「騎手課程時代よほど努力したんだろうな。でなければ、新人一ヶ月で減量第一段階クリアはとうてい無理だ」
「凄かったですよね。涼くんも望くんも。4月にはG1に乗ってましたから」
「背が高すぎて減量キツかったんだよ。早く楽になりたくて必死だったんだ」
3人は団らんを楽しむ。
和尭は咲良に気を使うことなく、また咲良は和尭に遠慮することなく、会話を交わす。
夜もふけて、和尭は予定通り潤の部屋に行った。
残された涼と咲良は、部屋に戻りくつろぐ。
リビングのソファに座って、シンザフラッシュの口取り写真を眺めながら咲良に何気なくつぶやいた。
「今年の、天皇賞春、勝てたら……」
「? どうかしました? 天皇賞?」
真面目な顔になって咲良に向き直る。咲良は何か察したのか、ジッと涼の迷いのない目を見る。
「一緒に……」
「……」
「なろう」
咲良は感極まって泣きそうになる。しかし、涙をこらえて、うん、と頷く。
ようやっと、涼からその言葉が聞けた。そう咲良が言った。
「今までごめん」
涼は立ち上がって、涙を必死に堪えている咲良を抱き寄せた。
///
『アドミラルトップだ! アドミラルトップ圧勝ゴールイン!!』
フェブラリーSはアドミラルトップの5馬身圧勝をもって幕を閉じた。
その翌々週、3月1日金曜日、アドミラルトップ陣営に予定通りドバイワールドカップの招待状が届いた.
3月2日。中山三歳新馬。ダート1200。
「セタブルーコート、馬体重460キロ。問題なし。おれも問題なし。初心に還る、よし」
図らずも、この中山三歳新馬は涼が初めて勝った新馬戦という舞台である。
戻ってきたのだ。
明日はいよいよ報知杯弥生賞だ。
「しかし、新馬はダート1200で目標がオークスとは。さすが大井由来の万能馬」
パドック周回を見ていて、セタブルーコートの青鹿毛の馬体を見て息を漏らす。
(つなぎもどちらかと言うと芝向きって感じだし。全体的に柔らかいし……)
考えていると、止まれの号令がかかる。
騎手たちは一目散に自分の騎乗馬へ向かっていく。
刹那、担当調教師の父・久弘が涼に一言つぶやいた。
「涼、気負うなよ。馬は大丈夫だ。存分に乗ってこい」
涼は無言で頷いた。
セタブルーコートにまたがり深呼吸をする。気持ちは落ち着いている。
いや、どちらかと言うとデビュー戦の頃の高揚感がある。
中山3R3歳新馬・ダート1200。デビュー戦にして初勝利の思い出深い舞台だ。
キャンターでおろして、返し馬をする。抜群の手応え。
涼はふとスタンドの方を見た。今日は家族が来ている。もちろん、咲良も。
「神代涼、5ヶ月ぶりの本格復帰。馬は関西期待のセタブルーコート。少頭数の絶好枠。これはもらったわ」
「どうかなあ? 両足にボルト入ってるんだろ? 去年みたいな無双ができるかどうか。一応、馬券抑えたけど」
観客席で観客が憂いていた。おそらく涼のファンなのだろうと、近くにいた咲良はそう思うことにした。
咲良の手にはセタブルーコートの単勝馬券が一枚。
共同通信杯のあと、必死にリハビリに励んだのだ。結果はいずれ出るはずだ。
各馬はファンファーレを待って回し馬をしている。
スターターが台に乗って、旗を振る。
録音の新馬戦ファンファーレが鳴った。
全7頭の牡牝混合戦。セタブルーコートは2枠2番。
奇数馬番がゲート入りし終わり、偶数馬番が入っていく。セタブルーコートも収まって体制完了。
スタートの出足はまずまず。
スッと最後方に下がり、先団を眺める。これといった逃げ馬は存在せず、だれもハナを主張しようとしない。3ハロンはかなりのスローペースだろう。残り600m、セタブルーコートは進出を開始していく。涼の得意の捲りだ。
場内がおおおっと歓声が上がる。
電撃の6ハロン戦――正面向いて大外からの一気。涼が追うごとにセタブルーコートは加速していく。ムチはいらない、ただ追えとばかりに後続をどんどん離していく。
ドドドッと蹄音が鳴り響き、砂を巻き上げてセタブルーコートが先頭でゴール板を駆け抜けた。
場内実況は目指すはオークス、まず新馬勝ち上がり、鞍上完全復活と声高らかに宣言した。
「ふう……。疲れた」
検量室に戻ってきて一言。
バレットをかってでた潤はそんな様子の涼を見て安心したのか、涼の背中をバシンと叩いて健闘をたたえた。
久弘が涼を呼び、何を思ったのか、頭をポンポンと叩いてよくやったと言った。
「子供扱いやめろよ」
訳がわからなくなった涼は動揺しながら反抗した。久弘はフッと笑ってセタのオーナーのもとに行ってしまった。
しばらくするとインタビュワーがやってきた。
どのような気持ちで乗ったのか。乗り味はどうだったのか。目標とするオークスに向けて一言。
さすがセタグリーングラスを見出したオーナーの馬だと思った。芝でもいける馬だ。
というより、芝でさらに化けるような感じがした。
次走はオークストライアル・フローラステークスだと宣言し、インタビューを終えた。
その翌日。3月3日、中山競馬場。
今日の乗り鞍は2鞍。6R3歳未勝利と報知杯弥生賞である。
なぜ6Rを入れたかというと、弥生賞と同じコース・芝2000mで行われるため馬場状況を確認する目的からだ。
13時ジャスト。未勝利レースが出走した。
涼の乗り馬は先行脚質。人気は8番人気で全頭中最低人気。
スタートで一気に前へ行く。第1コーナーを回り第2コーナーを回ったところで、ペースを少し落とす。マイペースに持ち込み、1000mの通過ラップは63秒ほど。
インコースにピタリと貼り付いて第3第4コーナーを回る。
短い中山の急坂を一気に駆け上がるために鞭を入れる。
粘れるか。いや、蹄の音が聞こえる。一瞬後ろを見た。1馬身後ろに追込み馬がやってきていた。
目一杯押す。押す。押す。
馬体を併せられる。一瞬馬の行く気が無くなった気がした。
ほんの一瞬、ゴール板で躱された。
確定すればおそらく2着だろう。
勝ち馬に乗っていたのは都築未來だった。それも美浦藤村厩舎のディープブリランテ牡馬だった。
涼の馬は栗東・池川厩舎のマンハッタンカフェ牡馬だったが、牝系由来の晩成血統が災いしたかまだ幼いところを見せていた。
マンハッタンカフェは19年クラシック世代がラストクロップとなる。
結局の今日の中山2000というコースの状況は、前が止まらず、内が伸び、追込み馬たちがようやっと差せるといった感じであり、弥生賞トゥザスターズの枠である2枠4番は絶好の枠となるだろう。
「なんとなく掴めた気がする」
トゥザスターズの逃げなら捕まらない。
その後の、7R以降のレースも前が止まらずに差し追い込みが決まらない結果が多かった。
トゥザスターズ、15時の時点で1番人気、倍率にして1・3倍。
3歳の若駒にして1倍台の人気を背負っている。
あえて涼は人気とオッズを聞かず、無心で待機所に立っていた。
弥生賞には都築未來も乗り役がある。本番はレットローズバロンでくるだろうが、ここで早くも未來との直接対決となった。
パドック周回中、高柳師が涼に指示をしにきた。
「思い切り行ってくれ」
高柳師の鬼気迫った瞳を見て涼は深く頷いた。
やがて止まれの号令。よし、と心の中でスイッチを入れる。
和尭が新しくこしらえたステッキを胸に当てて、精神統一する。
2枠4番、トゥザスターズ、黒の帽子。
勝負服は黒地に黄色のタスキ、袖は黒地に白の二本輪。スターナイトの、スターの方の勝負服である。ナイトの勝負服は袖が一本輪である。
勝負服とマッチした枠帽子、そしてトゥザスターズの黒いメンコに白い五芒星のマーク。
このメンコは年が明けてクラシックに向けて誂えられた物だ。
『さあ、今年のクラシック戦線を占う、皐月賞トライアル弥生賞。このレース断然の一番人気でトゥザスターズが鞍上・復活の神代涼を迎えてさあ2019年初戦、開幕です』
場内実況が出走馬を次々紹介していく。
最後に外枠18番の未來の馬が紹介されて、各馬の返し馬が終わる。
『実況はラジオジャパン野上竜也アナウンサー、弥生賞です』
『最後に大外ゴールドシンディー、収まりまして、体制完了、スタートしました! ポンと勢いをつけてトゥザスターズ、やはり行きます! 無敗の朝日杯馬、今日はどのようなレースをするのか。3馬身空きましてきさらぎ賞勝ち馬、シンザエスポワール。その内をつきましてエクスペリエンス。1馬身切れてシンザエクレール、コーセイバースト、カワノエムロード、ゴールドシンディー、テュルコワーズ、アドミラルアース、ここは団子です。先頭トゥザスターズ1000mを通過、タイムは59秒6! かなり速いペースです』
淀みないラップ、それどころか殺人的なラップが続く。
『第3コーナーをトゥザスターズ先頭で回ります。後続との差はまだ3馬身、4馬身。ここで18番ゴールドシンディーが仕掛けます。さあ第4コーナーを回って最後の直線です。まだ先頭はトゥザスターズ、持ったまま、まだ鞭を入れません神代。ゴールドシンディー迫ってくる! さらに後方からシンザエスポワール大外一気!』
今だ。そう思って鞭を一発入れた。トゥザスターズは即座に反応して加速していく。
『ようやく鞭が入ったトゥザスターズ! まだ粘る! いや、さらに離していく!! ゴールドシンディー一杯か! シンザエスポワール、ゴールドシンディーを躱してトゥザスターズに迫る、しかしトゥザスターズ今ゴールイン!! 鞍上お見事、クラシックに向けて視界良好!!』
『なんという強さでしょう、トゥザスターズ。昨年とまったく同じ無敗で弥生賞を突破しました』
涼は、ふう、と息を吐く。
新馬戦ぶりに実戦でトゥザスターズにまたがった。
トゥザスターズは涼の騎乗を待ち焦がれていたとばかりに全力疾走したが、まだ余力十分といった出で立ちだ。
息も上がっていなく、疲れを感じさせない。
底知れないトゥザスターズの能力を間近で感じ取った涼は身震いした。
前日の阪神競馬場での桜花賞トライアル・チューリップ賞でタモノハイボールが勝ったことにより、高柳厩舎の期待の2歳馬は期待通りの活躍をした。
着順指定エリアの1着枠にトゥザスターズを入れて、自分は検量質に向かう。
涼の検量をもってレースは確定した。
1着トゥザスターズ。1馬身差の2着シンザエスポワール。4馬身差の3着ゴールドシンディー。アタマ差の4着テュルコワーズ。クビ差の5着シンザエクレール。以上が掲示板の馬だ。
涼はインタビューに囲まれる。
「それでは、トゥザスターズに乗ってこのレース2勝目の神代涼騎手に伺います。今回は想像していた展開でしたか?」
「はい。経済コースを走れたので。ロスなくペースを刻めました」
「レース前、三冠を勝てる馬だと仰られていましたが、弥生賞を勝って決意は固まりましたか?」
「そうですね。三冠、狙えると思います。それだけの器を彼は持っていると思います。とても強い馬です」
「無敗で弥生賞を勝ってクラシックに挑むのは去年のブライアンズハートと同じ展開ですが、去年と違っていると思うことはありますか?」
「ブライアンズハートはクラシックディスタンスでとても強い馬です。これは言い切れます。トゥザスターズは距離の融通が利いてマイルから長距離までこなしてくれる馬です。この馬の速いペースに持ち込めれば何処まででも勝てると思います」
「ありがとございます。ではファンの方に向けて一言お願いします」
涼はスッと真面目な顔つきになる。
「まずこの場を借りて、トゥザスターズをこの舞台に連れてきてくれた恩人の保井騎手と吉川騎手と弟に感謝します。ありがとうございました。クラシックでは良い勝負をしましょう。ファンの皆様へは、大変お待たせしましたと言うか……昨年はお騒がせして申し訳ありませんでした。今年からフリー騎手に転向しましたので、より一層、騎道作興して参ります。本当にありがとうございました」
「ありがとうございました。見事弥生賞を勝ちました神代涼ジョッキーでした」
あの後、未來が涼に何かを言おうと話す機会を伺っていたが、涼はそれに気づかず、引き揚げてしまった。
弥生賞勝利の翌日、マックスが涼の元に息急き切ってやってきてあることを言った。
「クール! シンザヴレイブが次走大阪杯鞍上未定で登録してるよ! 天皇賞春、宝塚も見据えているって!」
「そろそろシンザが来るんじゃないかって思ってた。マックス、おれの名前出しといてよ」
「アイ・アイ・サー」
朝食を拵えていた咲良が涼とマックスの会話に入ってくる。
「天皇賞、乗れそうなんですか?」
「大阪杯次第だな。厩舎は藤村先生だし。アイツは大阪杯セタグリーングラスだし……」
「いえ、そういう意味ではなく……足のボルトのことです。約束、守ってくれるのは嬉しいですけど、いきなり長い距離のレースに乗って大丈夫なのかなあって」
「大丈夫。また波が来ている気がするんだ」
「今、おれのハートは燃えているんだ。シンザヴレイブで春古馬三冠を獲る」そう言って涼はシンザフラッシュとブライアンズハートの口どり写真に向かって祈るように願掛けした。
(フラッシュ、ハート、おれを守っていてくれ)
再び波が訪れて、勝負師の心に火がついた。
2019年クラシック、そして国内古馬王道路線が間近に迫った3月の月曜日だった。
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