第4話東京優駿日本ダービー
話は早いもので、五月も半ば過ぎ。
三週目の日曜日には東京競馬場で優駿牝馬オークス、通称「樫のレース」が施行される予定だ。
が、問題はその前日の土曜日に出来した。
『神代涼、土曜日の最終レースで落馬し進路妨害。オークスを前日に七日間(中央開催2日)の騎乗停止処分が下る』
瞬く間にこの見出し記事が競馬界を越えてあらゆる業界に広まった。
落馬はままある事とは言え、先頭集団にいてそこからの落馬であるから、騎乗馬と引っ括めて後続の進路を妨害していると取られたのだった。
本人は奇跡的に生きている。
馬に蹴られた父親と馬から落ちた長男坊という文句は、その日のうちに競馬界の笑えないジョーク扱いとなった。
病院に搬送された涼は、終始うわ言のように「オークス、オークス」と呟いていた。
実際のところ、打撲傷に右肩脱臼だけで済んだのだが、心の傷とも言うべきか、大舞台前に失態を犯してしまった羞恥心から夜も寝られぬ日を送っていた。
『オークス。ロサプリンセス、鞍上に吉川尊を迎え二冠達成。堂々逃げ切りに場内歓声の渦』
週明け月曜日のスポーツ新聞の見出し記事の文句だった。
ロサプリンセスのオークスはヴィクトリアマイルの恩からか吉川尊騎手が跨り、堂々の二冠目を獲得した。
とあるネット掲示板でのやり取りがあった。
『オークス、あのまま神代兄のクソ騎乗だったら負けてたな。吉川で良かった。いっそ秋華賞も吉川で』
『近年稀に見るクソ騎乗、クソクソアンドクソ。もうブライアンも降りろ』
『VMも皐月も桜も偶然。結局のところ連対しか能がない下手くそ騎手』
いわゆる「神代一家アンチスレッド」である。
代々続くをかさにきて競馬界でやりたい放題の神代家の人間を許さない人間が集まる掲示板だ。
一方、このような掲示板もある。
『ダービー出られるのか? 今年はブライアンにしこたま賭けるって決めてんだから、神代兄は早よ復帰しろ』
『一家の次のレースは? 俺、ダービーの兄弟対決しか知らん』
『アドミラルネイビーで神代父、ミスタードドンパで神代三男、ブライアンズハートで神代長男。次男は安田記念で一頭。みんな頑張れ』
これらの書き込みがある掲示板は通称「神代一家で買うスレッド」である。
他の媒体を見てみると、大体が涼の身を案じるどころか、いの一にハートの騎手選定を勝手に始める始末であった。
しかし某社の新聞だけは違っていた。
『日高で生まれた日高の星ブライアンズハート、鞍上が神代兄でなければならない理由。幼なき日に見た情景、ハートで再現誓う』
ハートの父系曽祖父ブライアンズタイムは日高の宝とされた。
祖父はそんなブライアンズタイムの初年度産駒で三冠馬ナリタブライアンである。
そのナリタブライアンの三冠目、菊花賞を神代涼は現地で見ていたのだ。
当時はまだ幼子の頃であり、涼本人も菊花賞に現地観戦したことはおぼろげな記憶すらもないだろう。
しかし、父親の久弘が言って聞かせて見せた三冠馬を涼は憧れの対象として見た。
種牡馬入り数年後の急死。
「もうブライアンはいないんだよ」父は涼にそう言った。
涼は解らなかっただろう。
でもナリタブライアンの存在は涼の中でずっと消えていない。
それから涼が騎手になるまでに牡馬の三冠馬が二頭でた。
内一頭と一人の主戦騎手は、改めて涼が騎手を志すきっかけになった馬と主戦騎手である。
思い出の中にある一九九四年のナリタブライアンは涼にとって到達すべき頂きなのだ。
話が逸れたが、総括すると、ブライアンズハートには神代涼でなければいけない理由が個人的理由ながら存在するのだ。
さて、東京の病院に検査入院している涼はふてくされていた。
見舞いに来た手隙の虹の彼方メンバーは涼を見るや、同行していた咲良を前に引きずり出し囃し立てる。
「みんな、病院では静かに……」
代表してアンナが一同を静止させる。
「心づくしのお見舞いは嬉しいのですが、どうして女性メンバーだけなのでしょうか? おれの男性ファンって虹の彼方にいないんですかね。いえ、大した意味はありませんが」
メンバーが顔を見合わせる。
黒田凛が一言。
「せやかて、涼はんのファン層は若い女性と神代家贔屓のおじいはん連中だけですやろ」
「若い男性メンバーは式豊一郎騎手ファンが大半やねん」と続ける。さらに。
「そもそも、若い人は競馬に興味ないんと違う?」
「そんなはずは……三冠馬の出る可能性のある年はそんなことはないはず」
「三冠とか気が早いで」
「凛さん手厳しいや」
凛は涼と同い年である。
関西弁の気安さか、歯に衣着せぬ凛の物言いは、涼にとって清々しく思え、事実この二人の会話はいろいろな意味で軽い。
「ところで、ダービーはどうなるんですか」
凛と涼の二人の会話に少し食い気味に咲良が口を挟む。
「大丈夫、大丈夫、騎乗停止は次の土曜までだから、翌日のダービーは予定通り騎乗できそうだ」
そんなことは分かっているとばかりに、涼の胸ぐらを掴んで、憎々しげに声を荒げる。
「体の方ですよ! 打撲に脱臼って、それ後で辛いパターンじゃないですか!!」
「そう、そうね。そう、痛い痛い、けど何とか治すから」
虹の彼方メンバーが帰ったのち、また新たな見舞人が見えた。それはとても珍しい人物だった。
「やあ、涼くん、落馬事故テレビで見たよ。大丈夫だったかい?」
「涼くん、まあ随分と瘦せ細っちゃって。体重制限ってそんなにキツイのねえ」
「やあ、アホ兄貴生きてたのか。残念だなあいよいよ死んだと思ったのに」
この三人、神代家の隣に住む一家、間寺一家である。
家長で咲良の父親・陣一(じんいち)、その妻で咲良の母・菜々子(ななこ)。
そして神代三兄弟を目の敵にしている咲良の弟・流真(りゅうま)だ。
陣一は警察庁次官である。
菜々子は元・外交官僚だった。
流真は警察庁のキャリア官僚だ。
ちなみにこの一家……というか一族は全員東京大学出身である。咲良さえも東大文学部出の才媛である。
この二家のつながりは太平洋戦争よりも前に遡る。
日露戦役以来騎兵連隊に属する神代のご先祖と、建軍以来陸軍の中枢に属する間寺のご先祖、つまり上司と部下の関係であった。
たまたま、大本営がある東京に居を構えていた神代家邸宅と、江戸時代から世田谷に居を構える間寺家邸宅がたまたま隣同士だっただけで、ここまで因縁のある関係になってしまった。
「こら、流真! 真剣に働いている人に向かって何てこと言うんだ! ごめんな涼くん。うちのは何分甘やかしてしまったからこんなことに」
「いいんですよ、陣一おじさん。今おれが生きてるのは偶々良い場所に落ちたからですからね。下手したら死んでましたし」
「アホ兄貴は、生きてたら姉貴も悲しませるし、いっそ競馬辞めたらどうかな?」
「流、お前、よくその性格で警察官僚になれたね」
アホ兄貴、流、と言うお互いのやり取りはもはや恒例行事だった。
流真も本当に涼のことをバカにしている訳ではなく、実のところ嫉妬している、と陣一や菜々子は睨んでいる。
何に対して嫉妬しているのかは、言わずもがな、である。
そもそも、なぜ咲良の弟で長年一緒に成長してきた流真と三兄弟の、特に涼と仲が悪いのかと言うと、まあ第一に関係性なのだが、一番の原因は神代家の親戚にあった。
三兄弟が中学生の頃のある夏の日、北海道の祖母の実家から一人の少女が神代家へやってきた。
祖母・珠樹の実家は日高で個人牧場を営んでいる。それも競走馬生産牧場だ。
そこからやってきた少女というのが、珠樹の弟の孫娘——涼ら三兄弟から見たら又従兄弟に当たる——八島七海(やつしまななみ)だった。
親戚故か既に顔見知りであった三兄弟の特に涼は七海に馬のことをよく教わっていた。
側から(流真から)見たらそれが大層仲が良さそうに見えたのだろう。
姉——咲良と仲良くしていながら、親戚の女の子とも「ああしている」なんて、姉が可哀想だとも思ったのだろう。
それから目に見えて涼を軽蔑するようになたのだ。
因みにだが、七海と咲良は親友同士だ。現在でもやり取りをしている。
そんな可愛らしい子どもたちのやりとりを側から見ていた親連中はある意味恐ろしい。
「それで、どうだい? ダービーは出られそうかい? 私もブライアンの馬券を買おうかと思っているのだけど」
今一度言うが、陣一は警察庁次官である。
「大丈夫です。何とか間に合わせますから。何としてもおれはハートに乗らなきゃいけないんです」
涼の瞳にはブライアンズハートしか映っていないように見えた。
競馬に真摯な涼を見ていると、どこか苛立ちを隠せなくなる流真はつい悪態を吐いてしまう。
「所詮、賭け事だろー? そのうち取り締まるからな!」
「はあ?」
などと、意味不明なことを申しており。
「それじゃあ、涼くんお大事に。ダービー楽しみにしてるよ」
「治ってダービーに勝ったらうちにいらっしゃいね。一緒にお祝いしてあげるわ」
「ありがとうございます」
///
翌火曜日。
実質入院していたのは土日月の三日間だけであった。
入院中あまり動かなかったせいか、体の節々が痛い。
何とか美浦トレセンへ戻ってきて、ハートの調教に参加する。
「まあ、不幸中の幸いだね。土曜のレースに出なくていいから、日曜のレースに集中できるんだよ」
藤村師は時計を計測しながら、隣でそれを記録している潤に言った。
追い切りは良いタイムだった。
「先生、ハートが少し行きたがっているみたいなんですが」
涼がハートに跨って戻ってきた。
「皐月でスタート失敗したのも関係があるのかもしれませんね」
潤が言う。
少し考えていた藤村師は、腕組みを解いてこう言った。
「涼くんにはどうにか抑えてもらって、後ろからの競馬を覚えさせようか。この仔は多少揉まれても伸びる差し脚を持っている仔だから」
「馬主さんもクラシック制覇を意識されているようだしね」と続ける。
「そういえば、ぼく馬主さんと話したことないですね……」
ハートを冠名に持つハートフルカンパニーの社長「心田大志(しんでんたいし)」と言う人物がブライアンズハートの馬主である。
暇ができたら馬房に姿を現す人物なのであるが、巡り合わせが悪いのか涼は未だに邂逅していない。
打ち合わせで遭遇していても良いくらいだ。
「心田社長は涼くんを騎手として高く買っているようだよ」
「そうですか? 万年連対野郎のぼくを?」
「そう自分を卑下するのは良くないよ。気持ちを高く持っていないと世の中やっていけないからね」
いまいち首をひねって、涼は最終追い切りに臨むのであった。
水曜日。
この日の夕食は神代涼宅で予定通りパーティーが執り行われた。
パーティーといってもそこにいるのは涼・潤・咲良の幼馴染三人だけだ。
咲良の心づくしの手料理と、双子が手によりをかけて作った母親直伝の栄養料理だ。
「じゃあ、藤村厩舎と涼のダービー制覇を祈願してカンパーイ!」
潤が威勢良くビールジョッキを掲げた。
涼はスポーツドリンク、咲良は実家に余っていた赤ワインをそれぞれ掲げた。
「あと打倒栗東神代厩舎!」
「そういえば、お父さん大丈夫なんですか?」
咲良が生ハムと葉物サラダのフィンガーフードを手に取りひと齧り。そしてふと思い出したように双子に問うた。
「父さん? ああアニキ……コホン、涼と同じ日に退院したらしいぜ? 曰く物凄い回復力だったようだ。きっちり土日には東京競馬場にいるだろうなあ」
「内臓と肋骨をやったのにねえ。我が父ながら凄い」
「それを言ったら、落馬しても割と丈夫な涼くんも大概です」
「ぐうの音も出ねえ」
賑やかな宴は夜遅くまで続いた。
翌日の木曜日。
この日は午前中に調教を済ませ、土日……涼に限っては日曜日のレースの出馬投票の手続きをした。
東京優駿日本ダービーの枠順の発表。
ブライアンズハート一枠一番。最内ということになる。
ハートは新馬戦からここまでなんと無敗できた。
そう言った例は幾らかあるが、実際無敗を通すのは難しい。
海外にはいくつものレースに出走しながら生涯負けずに競走馬生を終えた馬がいるらしい。
ハートの場合、新馬〜ききょうS〜ホープフルS〜弥生賞〜皐月賞……全て一番人気で一着になった。
血統が問題視されたのがどこに行ってしまったのだろうか。
かくも世間とは難儀なものである。
さて、ハートのライバル達であるが、皐月賞組であるアドミラルネイビーとローゼンリッターとナギサボーイはそれぞれ……ネイビー一枠二番、リッター五枠九番、ボーイ二枠四番と言った風にバラける形になった。
NHKマイル一着馬ミスタードドンパは二枠三番。
そして何よりダービーのトライアルレースの一つ「青葉賞」の一着馬が大きく話題を呼んでいた。
青葉賞組はダービーに勝てないというジンクスがある。
しかし今年の青葉賞馬は一味違っていた。
ローゼンリッターと同じ神代厩舎所属でリッターのことを考え、あえて青葉賞に臨んだ馬その名も「フォトンインパクト」。
青葉賞は馬場も距離もダービーと全く同じ
で、他馬より先に東京2400mという距離を走ることになる。
その青葉賞でフォトンインパクトが後続を六馬身もちぎって優勝したのだ。
それも大逃げである。
こんなことがあっていいのだろうか。
新聞各社はダービーについて「フォトンインパクトの大逃げとブライアンの剛脚、雌雄を決するのはどちらか」などという話題で持ちきりであった。
もちろん藤村厩舎陣営はハートに自信がある。
それはあちらも同じであろうが、こちらは二冠がかかっている大事なレースだ、力の入れようは一味違うという意識を持っていた。
フォトンインパクトの父系は察してほしいが、同じ三冠血統として決して負けられない意地の張り合いだった。
それでそのフォトンインパクトの枠順であるが四枠七番。一番接しているのはハートと同じ差し馬ローゼンリッターであろうか。
奇しくも同じ厩舎の馬が近接している。
気になる方もいるかもしれないが、今回の東京優駿日本ダービーは全一八頭の内三頭が関東馬だ。内二頭が藤村厩舎所属である。
さて金曜飛ばして土曜日。
涼は主要人物が出払っている藤村厩舎で厩務作業を行っていた。
ラジオからは土曜の各地のレースが放送されている。
明日ダービーが施行される東京競馬場では現在三歳未勝利が施行されていた。
この後富嶽賞などの条件戦が行われる。
ふと思って厩舎の外に出てみると、空から水滴が。
瞬く間に美浦周辺は大降りとなった。
東京競馬場、府中でも雨が降り出したようだった。
涼は天気予報の放送をしている局にチューニングした。
『昼過ぎから関東各地で降り出した雨は、今夜も降り続け、明日も一日中雨予報でしょう。続いて週間天気です——』
この日の関東の競馬場の最終レースはどれも稍重の馬場として施行された。
///
昨日の昼過ぎから降り続いていた五月雨はダービーデーのこの日でも止んでいなかった。
この日の午前のレースでの馬場は全て重だった。
ダービー出走馬がパドックに現れた。
『二〇一五年に生を受けた七〇〇〇余頭の頂点を決める日本ダービー、パドックです。一番ブライアンズハート、皐月賞馬です。馬体重490キロ前走プラス10キロ。無敗の二冠を狙います』
『二番アドミラルネイビー、前走皐月賞は五着。巻き返しなるでしょうか。馬体重は500キロ増減なし』
『三番ミスタードドンパ、前走NHKマイルカップ一着、馬体重470キロ増減なし』
『四番ナギサボーイ、前走皐月賞は三着。馬体重は490キロ増減なし』
『——さて次は七番フォトンインパクト、前走青葉賞は驚異的な走りで一着、ダービーに駒を進めてきました。馬体重は510キロ前走プラス4キロ』
『そして九番ローゼンリッター、前走皐月賞は二着、雪辱はなるのでしょうか。馬体重494キロ増減なし』
パドックで次々と出走馬が紹介されていく。
そしていよいよ本馬場入場の時間になった。涼は一つ祈りを捧げてハートに跨った。
本馬場入場した馬達が返し馬に入っていく。
そして、ウイナーズサークルに間寺咲良が立つ。
目の前には一本のマイクと、大観衆。
咲良は君が代を高らかに歌い上げる。
傘を閉じた観衆が咲良の君が代をしみじみと聞いている。
歌い終わりとともに拍手喝采が巻き起こった。
(涼くん……頑張って……)
咲良は心の中で祈っていた。
スターターが旗を振る、いよいよ東京競馬場の生のファンファーレが鳴り響く。
地鳴りのような歓声が競馬場を席巻する。
枠入りが始まり、一枠一番のブライアンズハートが真っ先にゲートインする。
『全国の競馬ファンの皆様、競馬の祭典、東京優駿日本ダービーまもなくスタートです。実況はフガクテレビアナウンサー赤城がお伝えします』
『さあ体制完了! スタートです!! 全馬揃ったいいスタート! さてまず好位につけたのはフォトンインパクト! どんどん後続を突き放していきます! 三馬身離れてアドミラルネイビー、その内を突いてミスタードドンパ、さらに一馬身離れてローゼンリッターとブライアンズハートとナギサボーイが中段を追走。先団は第二コーナーを曲がって向こう正面へ向かいます』
『なんということでしょう! フォトンインパクトが七馬身は放して大逃げをしています! さあここでもう一度見てみましょう。先頭は大逃げフォトンインパクト、そこから七馬身離れてアドミラルネイビー変わらず、半馬身後ろにナギサボーイが出て来ました、少し離れてミスタードドンパ、そのすぐ後ろにローゼンリッターとブライアンズハートが並んでいます。第三コーナー大ケヤキをぐるりと回って、さあ第四コーナー! ここで中段からブライアンズハートがロングスパートに入る!! フォトンインパクトその脚は持つのか!! ブライアンがぐんぐん上がってくる! 鞍上神代! 鞭を一発二発! 押して押してブライアンズハート直線でフォトンインパクトをとらえます! さらに外からローゼンリッターも上がる!! フォトンインパクトやや辛いか!! ブライアン! ブライアン!! フォトンインパクトを抜き去って一馬身! 二馬身! 三馬身つけてゴールイン!! やりました! ブライアンズハート二冠達成!! 無敗のまま秋へ駒を進めます!!』
『一着はブライアンズハート、二着三着は写真判定です、四着はアドミラルネイビー、五着はミスタードドンパでしょうか。確定までお待ちください』
『勝者にだけ許されたウィニングラン、ブライアンズハートが戻って来ます。ここで神代ジョッキー二冠のVサインでしょうか、天に高々と掲げています』
///
「勝利ジョッキーインタビューです。物凄いロングスパートでした、皐月賞から一段と成長したようにも見えましたがいかがですか」
重馬場のせいで泥だらけになった勝負服のまま涼はインタビューに立った。
放心状態といった感じで目の焦点があっていない気がする。
「え、えーと、馬場が重かったので予定通りの競馬ができるか不安だったのですが、ハートにはそんなこと関係なかったみたいです。馬場の良いところを走ったみたいで、ロングスパートでも脚が持ちました。ぼくもハートに追いつけたみたいで秋が楽しみですね」
「前評判通りの競馬でしたが二冠は意識されていましたか?」
「ハートならできると信じていました。あとはぼくの技量が完全に追いつければブライアンズハートは敵なしだと思います」
「神代ジョッキーは初のダービー制覇です、お爺様はダービー調教師ですが、何か家庭で言われたりなどはありましたか」
「精一杯やれと、お前ならできると、祖父は言っていました」
「今後に向けて一言お願いします」
「はい。ブライアンズハートはまだまだ成長する馬です、秋にはさらに成長して皆様の御前にでると思いますので期待していてください。ぼくもダービージョッキーの名に恥じないよう精進します、はい」
「ありがとうございました、神代涼ジョッキーでした」
インタビューから解放された涼は体の力が一気に抜け、一瞬よろけてしまった。
藤村師の元へ行くと師は馬主である心田大志社長と話していた。
涼に気づいた心田社長は、がっぷり四つで涼を抱きしめた。
「神代くん!! 本当にありがとう!! 君とハートを信じて良かったよ!!」
「く、苦しいです。というか初めまして」
「ああ、そういえば初めてだったね。私がハートフルカンパニー社長の心田だ」
二人はがっしりと握手を交わした。
「菊花賞、頑張ってくれよ? 最期まで信じているからね」
「はいっ!」
「さあもう11Rの準備が必要だろう? 行って来なさい、そしてグッドラック」
そう言って心田社長は帰って行った。
この日の涼の最後のレースが終わる頃、涼のスマートフォンにあるメッセージが送られていた。
『バカ息子、次は負けないぞ。菊花賞は父さんの厩舎が勝つ! とりあえず今はおめでとう』
帰宅途中、このメッセージを見た涼は、苦笑いと同時に素直ではない父に一言心の中でありがとう、と言った。
この日、涼のスマートフォンの通知機能が鳴り止まない時はなかった。
友人らのメールには祝いの声、SNSには不特定多数から賞賛の嵐だった。
昨日からの雨はもうすっかり上がり、夕方の空には虹がかかっていた。
夜は神代家で祝勝会が執り行われた。
参加したのは涼はもちろん、潤、そしてミスタードドンパに騎乗していた望、久しぶりに三兄弟が実家に帰る形となった。
さらにはお隣の間寺一家、陣一、菜々子、咲良、流真も呼ばれた。
不参加なのは父・久弘だけだった。父はダービーが終わってすぐ栗東に引き揚げたと望が言った。
「ほら爺さん、音頭とって」
珠樹が促す。
「わかってる。えー我が孫、神代涼のダービー制覇を祝してここに乾杯!!」
『かんぱーい!!』
「おめでとう涼くん、馬券もありがとう!」
陣一がいの一に涼の元へきて、涼のコップに二杯目のビールを注いだ。
どうやら本当にブライアンズハートの馬券を買っていたようだ。
「ちなみにおいくらですか?」
母・梓が何の気なしに聞いた。
「えーと……ゼロが七つくらいかな……」
陣一は小声で言う。
それを聞き漏らさなかった妻・菜々子は顔面蒼白になる。
「ちょっとあなた! ゼロ七つって……どこにそんなお金があったの!!?」
「へそくりだよ、へそくり。騎手として買ってる涼くんがダービーで勝てそうになった時に備えてたんだよ」
それを聞いた涼は感激して涙をこぼしてしまった。
「アホ兄貴でも一定の感情はあるんだな! まあ今回ばかしは褒めてやってもいいぜ? 僕も流石にこう言う席ではそうそう酷い悪態は吐かないんだ」
「流がまともなこと言ってら、はははっ」
酒が入ったせいか流真に対して涼は饒舌だった。
咲良がその二人の中に入っていけないので、少しふてくされていた。
それを察したのか、梓と菜々子が今日の国家独唱について話題にあげる。
「咲良ちゃんの君が代、凄かったわ。流石、虹の歌姫ねえ」
「そうよ咲良、あれは語り継がれるわよ」
涼も咲良の君が代に触れる。
「初めてかな、咲良の歌聞いたの、本当に凄いんだな」
咲良がピクリと反応する。
なにやら怒気が見える。
「初めてじゃないです! 昔、涼くんたち兄弟と一緒に歌いました!!」
「ええ……子供の頃なんて覚えてないよ。なあ潤、望」
「俺は覚えてるぞ」
「僕も! 咲良さんの声よく通るんだよね!」
「あ、僕は姉貴の歌知らないや」
流真が口を滑らせる。
「流、仲間だなんて珍しい。おれも今日まで忘れてた」
そんな二人に咲良の雷が落ちる。
怒り続ける咲良に対してさらに涼が油を注ぐ。
「虹の彼方の公演、月曜日にやってくれりゃいいのになあ。そしたら咲良の本気も簡単に見られるのに」
「いくら畑中社長が競馬好きでもそれは無理です!! いいですよ、涼くんに舞台見てもらうのはとっくに諦めてますから」
「あーなんかごめん」
「おうおう二人は仲が良いなあ、じじいに早いとこひ孫を見せてくれよー? なあ涼」
はあなに言ってんだと涼は慌てふためいた。
咲良もつられて赤面してしまう。
その時、陣一が真顔になってこう言った。
「ダメです。騎手としての涼くんはいいけど。咲良が騎手と結婚するのはダメです。危険な仕事、いつどうなるかもわからない相手とのお付き合いは私は許さない」
ですよねー、と涼。
咲良に「なあ」と同意を求めたが、咲良は。
「お父さんは危険な警察官でお母さんと一緒になったくせに……」
「覚悟が必要と言っているんだ。咲良は涼くんがもし万が一の場合があったら気丈に振る舞えるか? つまりはそう言うことだ」
「あなた、お祝いの席でそんなこと言ってないで、今日の主役をちゃんと祝ってあげましょう? ね?」
菜々子が場を制した。
「ところで、涼、今後の予定は?」
梓が確認するように聞いてきた。
「来週、潤の担当馬で安田記念の予定」
「そう。潤、今回は勝てそう?」
今度は潤に確認した。
「うん、調子いいし、なんとかなりそう。アニキにもいい風が吹いてるから、大丈夫」
「望は?」
「僕は土曜に阪神で鳴尾記念の予定だよ」
それらを聞いた和尭は、すくっと立ち上がって、声を張り上げた。
「神代家バンザーイ! 三兄弟バンザーイ! みんな頑張れよ!! じいちゃんは応援することしかできないからな」
まだまだ元気な神代翁はとうとう酔いつぶれて寝てしまった。
珠樹はやれやれと言って、寝室からタオルケットを持ってきて和尭にかけてやった。
「みんな、いいかい? 酒に酔い潰れるじじいにはなっちゃダメだよ」
咲良は思い出した。皐月賞の夜、涼が泥酔して帰ってきたのを。
そうかこの人の孫だな、と実感するのだった。
こうして二〇一八年の日本ダービーは終わった。
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