第5話夏への扉
翌月曜日。匿名掲示板での「神代一家で買うスレッド」は祭りが起こっていた。
『あの馬場と流れからロングスパートに持っていった神代兄とブライアン頭おかしい』これは褒め言葉であると注釈がついていた。
『神代三男のミスタードドンパは距離持たなそうだから切ろうかと思ったけど、しっかり掲示板まで来てて笑うわ』
『神代父厩舎のローゼンリッターが二着、フォトンインパクトが六着、成績良すぎ。長男とブライアンいなけりゃダービー獲ってただろ』
『と言うか間接的に神代のワンツーだったじゃん』
『>>1000ならブライアン三冠』
等々――。
その他の書き込みは、来たる秋の菊花賞に向けての激励が多かった。
これらの掲示板の存在は認知はしているものの、絶対に目にしないと決めている涼には預かり知らない話であった。
ダービーの記念写真を写真立てに入れて、まじまじと見つめる涼のその様は気持ち悪いの一言だ。
顔がめい一杯緩んでいる。
重賞記念写真の数はこれでかなりのものになった。
その中の一つ、シンザフラッシュのジャパンカップは、一番の思い出だった。
「そういえば、畑中社長に電話した方がいいのかな」
シンザフラッシュと再会すると言うテレビ企画が延期にこそなったが、まだ生きているはずだ。
昨日ぶりにスマートフォンの電源を入れる。
待ち受け画面のメールアプリアイコンには数百もの通知が表示されていた。
畑中社長で検索をかける。
すると、四時頃のログ、ダービーが終わった直後にメールをくれたようだった。
内容を見る。
『ありがとな、儲けさせてもらったぜ。それはともかく、例の企画、シンザフラッシュの繋養先と連絡をとった。八月あたりにロケに来ても良いそうだ。お前も夏は札幌や函館とかに行くだろう? 返信求む』
案の定、企画は生きていた。
「えーと、土日でなければ大丈夫ですっと。送信!」
以外にも返信は早かった。
『そうか! じゃあ八月になったら一度うちの事務所に来てくれ。あ、お前の休みの日で良いからな』
「ははは、社長携帯を手元に置いておいたのかな」
あまりにもの速攻の返信に、思わず笑みがこぼれた涼だった。
改めて、自分がダービージョッキーの仲間入りを果たしたことの嬉しさと感慨に耽る涼は、今年このまま行けばリーディング獲れるのではと言う調子の良いことまで思うようになった。
もちろん、上には上がいるのでしっかり勝たないとリーディングジョッキーなどそう簡単には獲れない。
と、涼が皮算用していたその時、涼の部屋の玄関がダーンと勢いよく開いた。
「アニキ! トレセンに来てくれ! 安田記念の出走馬を見て欲しいんだ!」
休日返上で働く潤であった。
「あ、ああ、良いけど。なんか忙しないな」
「今までで最高の出来に近いからな!」
「そりゃ楽しみだ」
双子は休日で閉まっている美浦トレセンの藤村厩舎の馬房へ赴いた。
潤が調教担当している五歳牝馬「ハイウェイスター」は、自分の馬房でおもむろに飼い葉を貪っていた。
馬体を見た涼は思わず息をつく。
「この馬前走はなんだっけ?」
「ドバイシーマクラシック。二回目の挑戦にしてようやく一着。藤村厩舎初の海外G1馬だ」
潤は胸を張り戦績をつらつらと言った。
「主戦は確か美浦南・高柳裕司(たかやなぎゆうじ)厩舎の海老原兼次郎(えびはらけんじろう)先輩だよな」
記憶を辿って主戦騎手を思い出した。
ハイウェイスターは海老原騎手でドバイを勝っているらしい。
今回の安田記念は自分の所属厩舎の馬に先約があるため、涼に乗り替わることになったそうだ。
「ちなみに高柳厩舎は何を出すんだ?」
南調教馬場はあまり行かないので情報が掴めない、と涼。
「逃げに定評のある短距離番長、バーンマイハート。牡馬六歳。前走京王杯スプリングカップ優勝」
そのバーンマイハートに海老原騎手が騎乗するという。
「で、休日だというのにトレセンまで連れて来て結局ハイウェイスターを見せるだけ?」
「いや、ただ単に俺が担当した馬を見て欲しくて」
「……明日でいいじゃん」
「あと、ダービー獲って浮かれてる誰かを現実に戻したくて」
「明日でいいじゃん……」
漫談でもしているのか、そんな双子をハイウェイスターは物憂げな顔で見ていた。
その後双子は定食屋に移動して、話の続きをしていた。
「毎日働くのもいいけど、たまには息抜きしろよ。早死にするぜ?」
「アニキよりは働いてないけどなあ」
「バーカ、おれたちの職は裏方が一番仕事してんだよ。お前さ、今年いつ休んだよ? お前が借りてる部屋の生活感の無さったらないぞ」
潤が借りているマンションの部屋は殺風景どころか、人が暮らしている痕跡が無に等しかった。
それもそのはず、潤は偶にしか部屋に帰らない。一日を厩舎で終えてしまっているのだ。
「いつ……いつだったかなあ……。確か去年の阪神ジュベナイルに向けて気を張ってた頃から帰ってない……」
それを聞いた涼は呆然とした。
阪神ジュベナイルは十二月の二歳牝馬G1だ。そこに馬を出すため気を張っていたらしい潤は少なくとも、そのレースより一ヶ月前くらいまでは帰っていないだろう。結局、当レースは負けてしまったのだが、クラシックレースに間に合わせるため、オープン(アネモネステークスなど)を走らせたりして桜花賞に臨もうとした。
が、結果は知っての通り、同厩のロサプリンセスが桜花賞優勝だ。
潤の担当馬はオープンでも勝ちきれなかった。
「それはともかく、あのくらいの出来だと安田記念より宝塚記念の方がいいと思うんだよなあ」
「ああっ!?」
潤は物凄い目で涼を睨みつけた。
それに気づかないのか天然なのか、涼はどうともせずこう続ける。
「賞金足りてるだろ? 安田回避して宝塚行こうぜ? 馬主さんもどっちでも良いって言ってるだろ? おれは乗らないけど」
「だめ! 絶対安田記念! ここは安牌で絶対勝ちに行くんだからな!」
「でもさあ、ドバイの優勝馬だから人気すると思うぜ?」
「今が一番良い時だから、安田記念を……というかドバイ以降安田記念ターゲットで調整したんだから、ここしか無い訳!」
ハイウェイスターは去年の安田記念を勝っているから連覇したいんだ、と潤。
涼は、そう、と言って残っていた炭酸飲料を飲み干した。
「確実に獲れるという勝算があるわけだ」
「そうそう、あの出来を見たろう? アニキに明日から調教で乗ってもらうのが楽しみだよ」
潤はニコニコしながらホットケーキを口に入れた。
潤がここまで自信があるのは、何年か前の二歳未勝利以来だ。あの時も涼に騎乗依頼をしていた。そして勝ち上がっていた。
「ちなみにハイウェイスターは重賞何勝してるんだ?」
待ってましたとばかりに潤はフォークを置いて、身を乗り出して言う。
「G1に限って言や、四歳安田記念、同じく四歳天皇賞秋、そして今年五歳ドバイシーマクラシックだな!!」
「遅咲きの大輪ってやつか。全部、鞍上海老原先輩?」
「ああ」
「あー……」と言って涼はうな垂れた。
期待が自分に寄せられているのが手に取るようにわかるのだ。海外G1を優勝した馬に跨るのは初めてだし、それも日本凱旋レースで、と言うのはもうプレッシャーが並みではない。
「しっかりしろ、古馬は神代、だろ」
「よう言うわ、こう言うプレッシャーはグランプリだけにして欲しいもんだな」
「神代涼の有馬・宝塚の成績ぃ〜シンザフラッシュの成績のみぃ」
「もっと結果を出してからプレッシャーという言葉を使え」そう潤は言った。
ぐうの音も出ない涼であったがなんとか言い返す。
「いやいや! シンザフラッシュの最後の有馬記念はやばかったぜ? あからさまにマークされたからな」
秋古馬三冠どころか、グランドスラムがかかった最後のレースなのだ。
単勝支持率も一番上で全ての期待がかかっていた、涼の中でも一・二を争う胃の痛いレースだった。
「もう随分昔に思えるな、二〇一四年だったっけ? あれさ、アニキは初めてリーディングジョッキー獲ったのに、話題になったのはクラシックレースを席巻した望だったっていう」
「あれ以来、リーディングは望に負けてばかりだからなんとも言えない気持ちだ」
数多いる中央ジョッキーの中で、涼の立ち位置は若手ホープの最前線だ。毎年、十位から二十位あたりを望と争っている。二人とも腕が良いことには違いない。
「で、今年は何勝中?」
調教師リーディング上位の藤村直義(ふじむらなおよし)を師に仰ぐ潤が問う。
「数えてない……」
他愛ない兄弟同士の昼食を終えた双子はそれぞれマンションの自室へ帰ることとなった。
霞ヶ浦の湖畔にあるマンションはなんと神代家の経営マンションである。バブル期に始めたマンション経営は、バブルが弾けてから衰退の一途である。そもそも、美浦村に競馬関係以外で新しい人間が入って来ることはあまり無いのかもしれない。そんな事情もあり現在は競馬従事者を中心に部屋を貸している状況にある。涼もしっかりと実家に家賃を払っている。競馬とはなんの関係もない咲良が入居していることが珍しいのだ。
咲良の祖母と母親が一枚噛んでいるのは前述した。
なぜ東京の実家に住ませないのか。いつも涼は疑問に思っていた。
あの甘い陣一さんが自分の目の届かないところに我が子を置くはずがない。
二重の意味でそう高くないマンション南北棟の北三階の角部屋が涼の部屋である。咲良の部屋はその隣で、潤は南棟の四階角部屋である。
霞ヶ浦から吹いてくる風を受けて、みずみずしい空気が辺りを漂う。栗東よりは美味しくないが美浦の水もそこそこだ。
関東の競走馬たちはこの水を飲んで育つ。
直接関係があるかは分からないが、美浦の水で咲良の喉は潤い透き通った声を発することができる。もしかしたら、陣一さんは咲良の舞台歌手としての生命のため美浦においているのかもしれない。涼はそう思うことにした。
北棟三階まで階段で上がる。エレベーターはあるが、極力脚を使う。咲良の部屋の前を通り過ぎる、まさにその時だった。
ドアが開き、ものすごい勢いで咲良が出て来た。涼はギョッとした。
「涼くん! 珍しいお客さんが来てますよ!! ナナちゃんですよ!!」
涼の肩をぐわんぐわんと揺さぶり、感動を伝えようとする。涼は泡を吹いて目を白黒させた。
「咲ちゃん落ち着いて、涼ちゃん死んでる」
咲良の部屋からもう一人の人物が出て来て咲良を落ち着かせる。
「だって10年ぶりですよ!? 懐かしいー!」
頭がガンガンしている涼は状況をうまく掴めないらしい。目の前にいる女性らしき人物が誰なのか当初は判断がつかなかった。しかし、意識がはっきりしてくると、別の意味で目の色を変えた。
「……七ちゃん? いやあ久しぶりだねえ。元気そうだねえ」
「涼ちゃんも元気そう、って言うかダービーおめでとう」
目の前の女性の正体は八島七海――北海道は日高地方に住む涼の再従兄弟だった。
「何をしに美浦くんだりまで?」
「何って……ちょっと込み入った事なんだけど。それよりもまず日高で祭りが起こっちゃってさあ……ブライアンズハートを生産したのはうちの牧場のお隣さんだから。代表して私がお祝いに来たって訳」
涼と咲良は七海の話を真剣に聞いていた。
七海の実家は日高で競走馬生産牧場を営んでいるのは前述した通り、そして涼の祖母珠樹の実家でもある。日高は馬産地として有名で、美浦トレセン藤村厩舎に預けられたブライアンズハートを生産したのも日高の中小規模の牧場だ。
ある時を境に日高は凋落の一途を辿っていた。引き金となったある事件、それは競馬界にとってまさに革命であったのだが、同時に中小経営の牧場の終わりを意味していた。
その中で孤軍奮闘していたのが、さる二〇一三年に息を引き取ったブライアンズタイムだった。
七海の家、つまり「八島ファーム」の繁殖牝馬もブライアンズタイムを付けていた。
今は大手牧場から離された種牡馬たちが日高で食いつないでいる現状である。
ブライアンズハートの両親は決して良い成績で競走馬生を終えた訳ではなかった。父も母も血統を重要視され、また生産者の懇意でその後の馬生が日高で保証されるようになった。
採算度外視、乾坤一擲の種付けで誕生したのがブライアンズハートである。
生まれた牧場での幼名がその血統から「ロマン」と呼ばれていた。
七海はその「お隣さん」の牧場でハートの誕生に立会った。と言うのも、七海の親戚(つまるところ涼か望)が騎乗するかもしれないからだ。
結果的に、ハートに跨る事になって皐月とダービー二冠を制した涼を日高の当地では祀り上げていた、と七海は言った。
「町の役場じゃブライアンズハート号皐月賞優勝の垂れ幕と東京優駿優勝の垂れ幕が早速用意されているんだよ」
涼の部屋に上がり込んだ咲良と七海は話を続ける。
「それでね、涼ちゃん」
七海はやけに真剣な表情になる。
「今年の夏競馬、札幌とかに来る予定あるでしょ? 休みの日にうちに寄ってもらえないかな」
「八島ファームに?」
「珠樹大伯母さまにも言ってあるんだけどね、私の妹……えっと覚えてる?」
「七ちゃんの妹? 確か人見知りの遥乃ちゃんだっけ」
「そう、遥乃(はるの)。高校卒業して今、家の牧場で働いてるんだけど、今度涼ちゃんに会いたいって……」
涼と咲良は顔を見合わせた。
「七ちゃん、話が見えてこないんだけど?」
「あの子、自分からそういうの言わないから私から伝えてって。何ていうのかなこういうの……親戚の出世頭に会いたいとか? うーん、涼ちゃんに憧れてるんだと思うんだけど」
それを聞いた咲良はプッと吹き出した。
「っ……涼くんに憧れるって、本当に競馬関係者ですか?」
「それどういう意味だよ」
涼が横目で睨む。
今年の成績や二〇一四年の成績ならいざ知らず。総計して涼の騎手としての成績は並程度である。
乗る馬乗る馬、ことごとく連対しているのは、個々の馬の資質ではなく涼の腕が未熟で勝ちきれていないと一般世間に思われているので、身内の贔屓目無しには褒められない。
再従兄弟で七海以上に会うことが少ない遥乃が涼に憧れるだろうか。
「遥乃に会ったのっていつだっけ?」
七海でさえ、涼と遥乃が直接会ったのを覚えていないのだ。
「ずっと前の子供の頃だと思うぜ? 遥乃ちゃんは今、十八、九だよな? おれも、人見知りってことだけしか覚えてないけど」
七海は社交的であり、全くの他人である咲良とも幼少期にすぐ仲良くなった。
遥乃は正反対らしく、人見知りで引っ込み思案とのことだ。
「んー、分かった。今年は北海道行きの予定多めに入れておくよ」
で、と涼が続ける。
「今日はうちの実家に泊まるのか?」
「どこでも良いんだけどね。何なら涼ちゃんの部屋でも咲ちゃんの部屋でも良いんだけどさ」
七海はしばらく考えて、世田谷の神代さんちにお世話になると答えた。
七海と別れた咲良と涼は、久しぶりに再会した友人の思い出話を続けるので会った。
翌日、火曜日。六月に入りほのかに夏の香りが漂うようになってきた。春競馬も大詰めということだ。
週末の土日はいよいよ二歳新馬のレース、つまりデビュー戦が始まる。涼は土曜の東京で騎乗予定がある。他厩舎の馬だが、なかなか出来が良い来年が楽しみな一頭だ。
その翌日には同じく東京でG1安田記念が施行される予定であるのは何回も述べた。来月からの夏競馬では九州は小倉に飛んだり、北海道は札幌函館、さらには新潟と息つく間もなく週末に移動を繰り返す。
地味に売れている騎手なので腕前はともかく数多の騎乗依頼が来るのだ。
今月でG1レースが一区切りつき、新馬のレースが開始されるとまた世間の様相も変わってくる。涼が今年のクラシックにてロサとハートに騎乗し結果を残したことによって、藤村厩舎にも恩恵が与えられる。最たるものが、オーナーの信頼だ。つまり大きい結果を残せば自分の愛馬を預けても良いという信頼が生まれる。入厩は大体一歳の九月頃がほとんどなので、今年の藤村厩舎は引く手数多だろう。
「どの仔も調子良いなあ」
新馬戦を前にして追い切りに臨んでいた涼は、今年仕上がった二歳馬を生暖かい眼差しで馬上から見つめている。
今年もハートフルカンパニー社長……心田大志オーナーは藤村厩舎に二歳馬を預けていた。そしてまた涼に騎乗依頼をしている。
二歳牡馬レットローズバロン。
牝系にはバラ一族と紅一族が入っている。
父系はパーソロン系というなんとも珍しい血統になる。バラ一族と紅一族の方にはサンデーサイレンス系の血が共に入っている。
要は良血ということだ。
毎度のことながら、涼はたまたまトレセンに姿を現した心田オーナーにこの馬をいくらで落としたのか聞いてみた。
「日本にいるパーソロン系で一番若い種牡馬と薔薇と紅の血が入った肌馬の掛け合わせだよ。血統的にはステマ配合の昇華型というのかな。血統面で高くついたよ。ブライアンズハートの五倍は出したね」
ステイゴールド産駒の種牡馬は血統表に載っていないが似たり寄ったりの血統でステマの昇華型とするらしい。要はサンデーサイレンスが入っているかどうかということだ。またブライアンズハートにはない現代チックな配合だった。
「この仔どこで生まれたんですか?」
「新冠の八島ファームだよ」
「ええっ!」
涼は驚愕した。
「どうしたんだい?」
「八島ファームは親戚の牧場です」
「ほう、世間は狭いものだね」
二歳新馬レットローズバロンは八月に札幌でデビューの予定だ。
「話とか聞いていなかったのかい?」
レットローズバロンから降りて、心田オーナーに向き直る。心田オーナーはそれとなく神代家のことについて聞いてみた。
「先日、八島の親戚が東京に来ましたけど、ぼくは聞いてないです」
二人が歓談しているところに、藤村直義師が潤を連れ立ってやって来た。
「心田オーナー、涼くん、あまり戻ってこないから心配したよ」
「アニキ、次が詰まってんだよ、次、次」
涼は藤村師に詰め寄り、こう言う。
「先生っ! 何でバロンが八島ファーム産だって教えてくれなかったんですか」
「いや、知っているかと思って。名前が付くまで〇〇の2016って名札にあったろう? 八島ファームの繁殖牝馬を知っているものとばかり……」
「潤は……」
「もちろん知ってたぜ?」
潤は外方を向く。
知らぬは長男ばかりなり。
「日高、盛り上がってそうですね」
半ば呆れ顔で盛況な藤村厩舎と日高のことを想った。
「私も先週、新冠の八島ファームと日進牧場に挨拶に行って来たけれど、地元は本当に盛り上がっているよ」
日進牧場は八島ファームの隣、つまりブライアンズハートを生産した牧場だ。にっしんと読む。ちなみに新冠は「にいかっぷ」だ。
「これで神代涼くんが跨るレットローズバロンが新馬勝ちをしてくれたら上々何だけどね……どうだい?」
「調子いいですよ。安定感はブライアンズハートの方が上でしたけど、この仔もなかなかです、おれの言うことを聞いてくれるんですから」
「そうか! 楽しみにしているよ! いやあ今年の秋競馬は楽しみが多すぎるよ」
上機嫌で心田オーナーは帰って行った。
涼はレットローズバロンを馬房に返し、次の馬ハイウェイスターに跨って調教を続けた。
ハイウェイスターの併せ馬相手は六歳牡馬だった。この六歳牡馬は重賞馬であるがG1は獲っていない。が、三歳から三年連続でG2毎日王冠を勝っている実力実績のある馬だ。今年の天皇賞秋で有終を飾る予定らしくこの併せ馬はそれの調整も兼ねていた。
ハイウェイスターが半馬身後ろ馬なりで走る。十分余力を残している走りだ。1000m走って時計は思い通りのものだった。
「流石、ドバイ帰り……」
あまりの力強い走りに涼は圧倒された。
なんせ海外G1馬に騎乗するのは初めてなのだから。
「牡馬顔負けだなあ、ハートでも勝てなさそうだ」
///
午前の調教があらかた終了し、各員が引き揚げていた時だった。涼が昼食を取りに出ようと、厩舎から出た時突然、その厩舎の中から悲鳴が聞こえた。声の主は藤村厩舎の紅一点騎手「藍沢岬(あいざわみさき)」だった。
なんだなんだと、涼は引き返し様子を見に行った。
去年から新しくなった美浦北の厩舎、真っ先に移動することを許された藤村厩舎の面々は、その新しい厩舎に驚いた。
その新しい厩舎の厩務員休憩室で事件は起こっていた。
「藍沢、どうしたんだ?!」
涼は休憩室の扉をダンッと勢いよく開けた。眼前には、倒れている潤と怯えている藍沢岬。全くもって状況が掴めなかった。
「りょ、涼先輩……潤さんが……潤さんが」
岬は肩で息をしている。動悸がするのだろう。
「落ち着いて、今すぐ藤村先生を呼ぶから」
そう言い、涼は厩舎内調教師専用の住居へすっ飛んで行った。
涼に連れられて現れた藤村師はあらかじめ電話をしておいた救急車を待って、潤の様子を診た。
「息もある、心臓も動いている。意識を失っているだけみたいだけど、素人目はいけない。もうすぐ救急車が来るから安心して」
藤村師は岬を安心させ宥めた。
「藍沢、君が来た時には潤はもう倒れていたのかい?」
涼が優しく聞く。
「いえ……話していたら、目眩がするって言ってその後すぐ倒れたんです……。その時の潤さん、顔が真っ青で……」
岬はゆっくりと言葉を紡ぐ。それに合わせて藤村師や涼も落ち着いて話を聞く。
遠く方でサイレンが聞こえ始める。どうやらトレセンの正門に救急車が到着したようだった。
藤村師は救急隊員を迎えに外へ出て行った。残された涼と岬は潤の介抱をする。
岬がふと膝をつき、その膝に潤の頭を乗せた。そしてヒヤリとした手を額に当てた。
それを見た涼は、「やっぱり」と小さく呟く。
「藍沢は潤と付き合ってたんだな」
いきなりの言葉に岬は慌てふためく。
「えっ! いえ! あのっ! その……」
「いやいや、いいからいいから。先輩として、あとこいつのアニキとして見守ってるから」
涼はトレセン内の風の噂で察しが付いていた。たまに潤がよそよそしい時がある、浮ついている時がある、藍沢岬の名前を出されて慌てる時がある、と。
それとも双子の感か、この二人にそれとなく暖かい空気が流れている事を感じていた。
その介抱の手つきが「いかにも」といった風に涼には見えていた。
二、三分して救急隊員が藤村厩舎へ到着した。容態を確認し、直ちに潤は病院へ運ばれた。その時、血縁者ないし責任者の同乗を求められ、上司の藤村師と双子兄の涼が共に病院へ行くことになった。救急車に乗る際、涼は岬を安心させるように一言こう言った。
「大丈夫だ。潤は大丈夫だよ。おれは双子だから分かる」
救急車内で藤村師が曰く。
「ここ数週、神代の人たち運ばれすぎではないかな」
父・久弘が馬に蹴られ、長男・涼が落馬し、ここに来て潤が倒れたのだ。師は涼の家族を心配するように、寺社の参拝を勧めた。
病院に担ぎ込まれ、またも集中治療室の世話になる神代家の人間。
治療室の前の腰掛に座り、ぐたっとする涼。部屋の前を行ったり来たりして落ち着かない藤村師。
藤村師は危惧しているのだ。
自分の監督不行き届きで、愛弟子である潤に無理をさせてしまったのではないか、と。
三十分は経ったであろうか。
治療室の扉が開き、医師が出て来た。
「先生、弟は大丈夫ですか?」
「お兄さんですね。弟さんは率直に言って過労です」
藤村師はうなだれる。
それを見たのか医師は追求するようにこう言った。
「自律神経が乱れています。栄養も足りていません。おそらく、一ヶ月はまともな食事をしていないと思われます」
ヴィクトリアマイルとダービーの週に共に食事を摂ったのがまともな食事に入るのだろう。そういえばダービー祝賀会の時、潤はあまり食事に手をつけていなかった。
「ああ、昨日も一緒に食べたな……」
かなり乱れた食生活だったのだろう。
「私がついていながら……面目次第もない」
「藤村先生、ぼくは先生を責めませんよ。これは成人している一人の人間の選択の結果です」
「ありがとう。しかし、私はこれ以降己を律しなければいけないな」
「厩務員に連絡して来ます……」
翌日、事の次第を聞いた厩舎の面々は口々にこう言った。
アルス・ローマン曰く。
「ジュンのおかげでビーチもナギサも良い成績を残しているんだヨ。でもジュンは働きすぎだと思う」
吉川尊曰く。
「まあ、物には限度ってもんがあるよね。調教師見習いが自分の調整も出来なかったらしようがないよ」
潤について何も言っていなかったのは藍沢岬だけであった。
見習いが過労で倒れたという噂(事実だが)は厩舎を超えて美浦トレセン南北全体に知れ渡った。
水曜日の午前の調教の時だった。
涼と岬は揃って美浦南の高柳厩舎へ新馬の調教のため訪れていた。
潤が担当しているハイウェイスターの主戦騎手、海老原騎手がいる厩舎である。
海老原は涼たちを見るや否や、すかさず潤の話題を出す。
「やあ、聞いたよ大変だったね。でも安田記念は俺も手を抜かないからね」
馬上からの言葉だった。
涼はバーンマイハートに目をやる。六歳牡馬とは思えないほどの若々しさだ。馬体が輝いている。明らかに短距離馬といった馬体だった。
「海老原先輩、この馬去年スプリンターズステークスに出てました?」
短距離に明るくない涼はバーンマイハートの戦績をあまり理解していない。
「おうっ、まあ掲示板に入っただけだったがな。でも一昨年とその前で連覇したよ」
あとで調べた事だが、バーンマイハートは三歳で安田記念を制覇、その年のサマースプリントシリーズ制覇、そして前述の通りスプリンターズステークス連覇。まさに短距離の鬼であった。そして夏牡(ナツオトコ)だった。
六歳の今年の出走歴は高松宮記念回避で、スプリングカップのみ。第二戦目が安田記念という事だ。そしておそらくこのままサマーシリーズに挑戦するのだろう。
「で、神代と藍沢は何しに美浦南高柳厩舎まで来たんだっけ?」
「新馬の調教騎乗です」
「藍沢も?」
「はい」
岬は涼の後ろに隠れる。なんせ海老原に会うのは初めてなのだから。なぜ、海老原は藍沢岬のことを知っているのかというと、美浦で唯一、十代女性で重賞を勝ったことがある謂わばホープの一人だからだ。ちなみに、現在は二一歳だ。
「いいなあ藤村先生のところは若い子が多くて」
馬房の目の前で会話をする。馬たちは、なんだこの人たち、とでも思っているのだろうか。
「海老原先輩だってまだ三十前半じゃないですか」
働き盛りの全盛期といったところだ。
「なあ神代よ、俺は昭和生まれだぜ?」
「そうっすね」
海老原は涼の肩に手を置き、しみじみと言う。哀愁が漂っている。
「藍沢となんかは十年も離れてるんだぜ?」
「そうっすね」
それから長々、海老原は立ち話を展開しようとした。それを察した涼は岬と調教馬を連れて退散しようとする。
「藍沢、先輩はこっからが長いんだ。もう行こう」
「は、はいっ」
岬が騎乗する馬と併せる涼の騎乗馬。どちらとも牡馬である。が、涼が騎乗している馬の方が一回りほど小さい。岬の方は三歳牡馬かと見紛う馬体といったところだが、涼の方は見た目体重四三〇キロほどか。
涼の方の馬の名は「トゥザスターズ」、岬の方は「タモノハイボール」。どちらも良血の部類に入る。
師は併せ馬を計測していた時計に目を落とす。師は目を丸くした。
「なんだこのタイムは!! 藍沢くん、一杯に走ってくれって言ったっけ? 神代くん、なんであのペースで併せられたんだい?!」
「どういうことですか?」
岬と二人して疑問符を飛ばす。
「タモノハイボールは一杯に走っていないはずなのにこの時計、それについていく、いや、ピタリと張り付くトゥザスターズ、先月はこの走りをしていなかったはずだが」
「今年は凄いぞー!!!」そう叫んで高柳師は水曜午前の調教を切り上げた。
どこかワクワクしている岬をよそに、涼は今後のことを危惧していた。
木曜日。潤の意識は戻らず、出馬投票を迎えた。最終追い切りを終え、インタビューが迫ってくる。ハイウェイスターの調子や騎手の意気込みなど、いつもの質問ばかりだ。
ハイウェイスターの調子がとても良い事、そして最終追い切りも良すぎるほどの時計を出したため自信いっぱいの回答を返した。
発表された枠順馬番であるが、今回は一五頭立て、ドバイ帰りの本命馬ハイウェイスター二枠三番の黒帽子。対抗馬、短距離番長バーンマイハート六枠十番は緑の帽子。
やはりというべきか、関東馬はこの二頭のみである。
こうして安田記念の準備は整ったのであった。
金曜日。やはり潤は目覚めない。
この日は主に安田記念の打ち合わせが行われた。
涼は初めてレースで乗る馬であるから、至極真面目に作戦内容を隅から隅までメモをとった。
調整室でのことである。
東京競馬場の土曜のレースに騎乗予定のアルス・ローマンと、同日同馬場で新馬戦とその翌日の安田記念を始めとした日曜のレースに騎乗予定の涼が会話をしていた。
「結局ジュンは入院したままだネ」
「しょうがないさ、無理が祟ったんだからな」
半ば諦めの念が見える。死ぬか生きるかの諦めではない。むしろ諦めというより呆れに近い感情かもしれない。
「あれだけ、部屋に帰ったのかーって忠告したのになあ」
「ジュンは治っても、また倒れそうだネ」
「バカは死ななきゃ治らねえ」
このバカ、とは、仕事バカ。つまり仕事中毒は人間が変わらないと治らないという涼の考えであり、想いだ。
「調教師としての目標は和尭じいちゃんだそうだが、おれにはどうしても父さんの生き写しにしか見えねえ」
父・久弘も休日をおして馬の管理をし、そして蹴られ病院送りだった。
まだ見習いであるが、調教師として父と直接対決をしているのは他ならぬ潤だ。涼が考える以上に父親との摩擦はあるのだろう。
そもそも何故、双子は父親を悪しく思っているのか。それは三弟である望が生まれて間もなく、調教師として身を立てた父・久弘が実父・和尭に反抗して単身関西に行き、栗東で厩舎を開いたことに始まる。久弘は三兄弟の養育のほぼ全てを妻である梓と、自身の両親であり子供達の祖父母に丸投げして、仕事一直線になってしまった。梓は事前に栗東で厩舎を開業することを知らされていたようだが、それは自分と子供たちも栗東に連れて行くものだとばかり思っていた。
結果的にせよ、父親に育児放棄されてしまった三兄弟は、事情も知らず関東ですくすく育った。
その内に、父は何頭もの重賞馬を出してきたが、和尭のように競馬の頂点日本ダービーの優勝馬を何頭も排出していない。そもそも一頭もいない。
もう涼が一歳の頃に共に赴いた菊花賞でブライアンを教えてくれた父はいないのだ。
双子が物心ついた頃である。
「なんでお父さんは一緒に住まないの?」
「なんでだろうねえ……お父さんは何を考えているんだろうね」
潤が問うた答えに詰まった母はなんとか言い繕うとしたのを思い出す。
三兄弟と久弘の間にだけわだかまりがあるのではない。事の始まりは、和尭と珠樹が久弘の教育を厳しくしすぎ、久弘の関東での調教師修行時代にも辛く当たったのがそうだろう。和尭にできることは自分=久弘にはできない。父はそう思い込むようになった。
始まりは父と祖父の親子ゲンカからだったのだ。三兄弟はそれに巻き込まれたこととなる。
一番かわいそうなのは、父に呼ばれる形で栗東に行った望だろう。彼は一番父を欲していた。今はいいように打倒関東の神代の手駒として扱われる傀儡なのだろう。
双子が競馬学校に入ってまもなく久弘は、三男望に手紙で念を押した。
「おそらくお前の兄二人はジジイのところに行くだろう。父さんにはお前しかいない。どうか競馬の道を志すなら栗東に来てくれ」
あとで涼が聞いたことだが、望が栗東に来なかったら神代家の戸籍から自分=神代久弘の戸籍を外そうと企んでいたらしい。
そこまで久弘にとって「神代」という名前は重荷であった。
「そんな重荷を今度は潤が背負ってる。正真正銘「関東は美浦の神代厩舎」の調教師になるために。おれは肩代わり出来ないもんかねえ」
「同じ塩基配列を持つ者として、せめて潤を助けてあげたい」そう呟いた。
アルスはそれを聞き漏らさず、こう返す。
「リョーがレースで勝てば最大の兄弟孝行になるヨ」
「ははっ、孝行なんてどこで覚えたんだよ。まだ日本浅いだろ?」
「バカにしちゃあいけないヨ。出稼ぎ労働者として日本の文化は隅々まで勉強してるんだからネ」
「ドイツにもあるの?」
「あるヨ。ドイツ人だって家族を大切にするさ」
「ふーん」
土曜日。
今日は阪神競馬場で重賞鳴尾記念が施行される。このレースは三弟望の騎乗馬が出走する。
栗東・神代厩舎の三歳馬で名を「マーチオブドーン」、クラシックレースに乗れなかった馬だ。というのもこの馬は今年の春の三歳未勝利でようやく勝ち上がりした馬で、賞金を積むため連闘で鳴尾記念までやって来たのだった。もちろん目標は秋の菊花賞に出走することだろう。そのためにはここで勝っておかねばならない。
そのため鞍上は望に乗り替わった。
結果だけ言おう。四コーナーで大外から抜き出て、そのままゴールイン。優勝である。
これによって秋の菊花賞、そのトライアルレース神戸新聞杯でも勝算が出て来た、そう神代久弘は言った。
これで神代厩舎の菊花賞出走予定の馬はローゼンリッター、フォトンインパクト、マーチオブドーンになった。神代厩舎のお家芸と言える多頭だし作戦だ。三頭全部が出走できるとは限らないが……。
同じく土曜日、東京。
東京5R二歳新馬。芝1400m。
トゥザスターズは高柳厩舎のデビュートップバッターだった。
こちらも結果から言うと、見事一着。デビュー戦勝利である。一〇頭立ての中、七番人気と中々の穴であった。その勝ちっぷりはとても彼の馬の孫ではなかった。まずとても良いスタートを切る、その後先頭に位置取り、ノーステッキで持ったまま逃げてゴール板を駆け抜けた。あの小さい馬体のどこにそんな力があるのか全くもって疑問だったが、最終追い切りでの高柳師の驚きぶりを見るに、必然的に勝って、それも物凄い力を持っているのを誇示したということだろう。そう思うことにした涼であった。
そして日曜日。結局、潤は意識が戻らず安田記念を迎えてしまった。
東京競馬場。曇り。芝、ダート、共に稍重。メインレース第十一レース安田記念の前第一〇レース由比ヶ浜特別を完勝し、勢いに乗った涼は、安田記念に向けて意気込む。
勝負服を急いで着替えて、招集を待つ。
号令がかかり、騎手たちは一目散に自分の騎乗馬へ走って行く。その中にはもちろん海老原兼次郎騎手、そして天皇賞春を共にした式豊一郎騎手や天照歩稀騎手が混じっていた。
本馬場入場である。
馬番の若いハイウェイスターが登場すると歓声が巻き起こる。なんせ断然の一番人気だからだ。
十番のバーンマイハートが登場する。出来上がりは上々のようだ。
一五頭立ての全馬が出てきて各自返し馬に入る。ハイウェイスターはやる気満々といった感じだった。
今回の安田記念出走馬のメンツ中G1馬はハイウェイスターとバーンマイハート、そして栗東・式知秀厩舎(しきともひできゅうしゃ)の七歳牝馬「コスモス」だけだった。そのコスモスの勝ち鞍はオークスである。つまり約四年はG1勝利から遠ざかっていたことになる。そんな経緯から人気はあまりしていなかった。
近年まれに見るメンツの揃わない安田記念となった。
春に聞く最後の東京のG1ファンファーレが鳴り響く。いよいよ枠入りだ。
二枠三番ハイウェイスター黒帽子、六枠十番バーンマイハート緑帽子、そして七枠一三番コスモス橙帽子、それぞれがゲートに入っていく。
東京十一レース安田記念は、芝の1600mで争われる。
一瞬の静寂。
係員がゲートから離れる。
ヨーイ。
一斉にゲートが開く。
各馬は揃ったスタートを見せる。馬場が稍重なせいかどれか一頭が突き出るということはなく、先団は団子状態になる。ハイウェイスターは先頭に近い位置にいて先頭のバーンマイハートほか二頭を徹底マークしていた。
先団はそのまま四コーナーを回り直線に入る。一気にばらけ、ハイウェイスターは内目を驀進する。マークして脚を溜めていたため、その末脚が爆発する。一馬身先の二頭を抜き去り、先頭のバーンマイハートを捉える。コスモスは遥か後方にいる、届かないはずだ。
実況が叫ぶ。「抜き去るか! 抜き去るか! 差した! 差した! ハイウェイスター! ゴールイン!!」そう刹那に聞こえた。
相変わらず、レース後の涼は放心状態になる。自分が勝ったのか負けたのかはっきりと解っているのか。
レースの終わったターフでハイウェイスターが抜き去った馬に乗っていた式豊一郎が寄ってきて、涼に声かけをする。
「神代くん! 勝ったのは君だよ!」
「はっ!! あ、式先輩。え、おれ?」
「君だ。ほらウィニングラン」
同じくバーンマイハートの海老原も涼を労う。
式・海老原両騎手に促され、ホームストレッチへ向かう。
『ダービーに続き神代騎手G1連勝! ハイウェイスターは一番人気に応えました!!』
場内が歓喜の渦に飲み込まれる。涼は手を振って歓声に応えた。
『神代! よくやった!!』観客の声援を聞いて改めて自分がこのハイウェイスターを勝たせたのだと思った。
検量室に戻った時だった。そこにいたのは……。
「涼! ありがとうな」
「潤!? 大丈夫なのか?!」
今朝早くに意識を取り戻したらしい潤は車椅子で府中にやってきていた。間に合ったのだった。しかし。
「お、おまえー……心配させやがって……もう今日は帰れ!! 表彰式は先生が登壇するって言ってたから」
「わるいなあ、いやほんと」
「どの口がいうか!! 藍沢にも謝っとけよ?」
「おうおう」
顔面くしゃくしゃにしながら涼は潤を怒鳴りつけた。泣いたのは久しぶりだった。
さして自分の現状を問題視していない潤は笑いながら東京競馬場をあとにしていった。兄の心弟知らずとはこのことだった。
///
「潤くんが無事でよかったよ」
表彰式を終えた藤村師と涼は引き揚げの準備をしながら潤のことを話していた。大方、涼が潤に文句を言う形だが。
「生きてるのが不思議ですよまったく。先生からも言ってやってくださいよ、たまには帰宅しろって」
「いつも言ってるんだけどね……」
藤村師は苦笑しながら作業をすすめた。涼はため息をついて同じく撤退作業を進める。
「それでねえ、涼くん」
「はい?」
「宝塚に出たいかい?」
唐突に降って沸いた。
宝塚といっても歌劇団ではなく――六月最終週に阪神競馬場で施行される春競馬最後のG1「グランプリ宝塚記念」である。
涼は目を丸くして藤村師に向き直る。
「予定馬回してくれるんですか?」
「涼くんが出たいと言うならほかの厩舎にも便宜をはかってもいいよ」
「今年はロサとハートに集中したいので、今回は遠慮しておきます」
「意外だなあ。前の涼くんなら飛びついてくるのに」
「マジシャンズナイトで懲りました」
先の天皇賞春の惨敗を思い出す涼。あれ以降古馬戦線から一歩引こうと思っていたのだった。ヴィクトリアマイルと安田記念は緊急的なもので、本来なら出ていないレースだった。それに――言っては難だが、涼はグランプリを怖がっている。シンザフラッシュの呪いと言うべきか、完璧なレースを新米のころにやってしまったため、どうやってもシンザフラッシュを超えられないと疑心暗鬼に陥っていたのだ。
昨年の有馬記念でも見て取れる。あれも腰が引けたまま乗って連対だった。いや連対にもっていけただけでも良しと見られるのだろうか。
それでもなんとかグランプリを獲れるだろうとかすかな望みを懸けて有力馬を回してもらっていたが結果はいつも勝ちきれないイマイチ騎手の最先方であった。
それもこれもシンザフラッシュのグランドスラムが招いたことである。
あの時は運も展開も何もかも涼に向いていた。そういえば、オペラオーはそのような感じの蔑称があったなと涼は思い出した。今はもう使われていないらしいが。涼もその蔑称は嫌いであった。
「フラッシュの囲い込みのことかい? 気に病んでいるのは」
藤村師は核心を突いたようなことを言った。
「勝ちすぎるのも如何なものですねえ」
核心を突かれたがなんとか誤魔化そうとする。
引き揚げ支度が整った涼は、一足先に東京競馬場を後にすることとなった。
帰りがけのことである。ふと、世田谷の実家に寄ってみようと思った。
実家の門構えで立ち止まる。あたりはすっかり夕焼けで赤く染まっていた。
入るか入るまいか、悩んでいると後ろから聞き慣れた声がした。
「坊ちゃん、どうしたんですか? 入らないんですか?」
文じいであった。
「あ、いや、入るよ。ただいま」
「はい、お帰りなさい」
文じいは、なぜ涼が玄関先で突っ立っていたのか聞いた。
「勝ったのに威勢よく入ってこないなんて珍しい。どうかしたんですかいな?」
「何て言うか、何て言うのかなあ……自信が無くなったのかなあ」
「ははあ、思うに――安田記念を勝って宝塚記念を打診されたんですな?」
「文じいは鋭いねえ」
「何年坊ちゃんのお世話をしているとお思いですか。それにこう言うのは初めてではないのです。和さんも一時迷ったときがありましてねえ」
文じいはしみじみと和尭との思い出を吐露した。
その昔、神代和尭ジョッキーはスランプになっていた時があったのだ。
「じいちゃんがねえ……天皇盾とか?」
「まあそんなところです」
そんな話をしていると、いつの間にか居間に座り込んで夕方のニュース番組を見ていた。母・梓は涼から今日使った勝負服を受け取り急いで洗濯機へ飛んでいった。祖母・珠樹は夕食の支度をしている。祖父・和尭はというと囲碁打ちの集まりで夕食まで帰らないそうだ。ああなんと懐かしい実家のいつもの風景か。
ニュース番組は今日の事件や東証株価の動向、そして各種スポーツの結果等々を報道していた。涼はそれらをただぼーっと見ている。競馬のニュースになった。春の東京〆のG1安田記念はドバイ帰りの牝馬ハイウェイスターが優勝、鞍上神代涼騎手好調、とのことだった。
「はて、好調?」と疑問符を飛ばす。
「涼、安田記念の表彰式に潤の姿が見えなかったけど……どうしてたのかしらあの子は」
洗濯をし終えた母が居間にやってきて涼を現実に戻した。
「あいつ、火曜日に過労で倒れてずっと寝込んでたんだよ。それで今日やっと意識を取り戻したんだ。表彰式に出たいって言ってたけど無理矢理帰した」
それを聞いた母は絶句してこう言う。
「もう! 涼! あなたお兄ちゃんでしょう!! なんでちゃんと見ててあげないのよ。倒れるまで仕事するってお父さんじゃあるまいし。馬鹿なことするんだから……」
「お兄ちゃんって……。おれたちもう二十五なんだよ? 自分のことは自分で片付けろって母さんいつも言ってるじゃんか」
「ああっ、こんなことじゃ望も心配だわ」
「望は大丈夫だよ。あっそれより、良い話があるかもね」
今週起こったことをふと思い出す。
「良い話? お母さんはあなたたちが無事ならそれで良いのよ?」
「もっと良い話だよ。潤のやつ付き合ってる娘がいるらしいんだ」
ピクっと母が反応する。兄心で勝手に潤の秘密を暴露しようとする涼に対して、夕食の支度を終えた祖母が老婆心で止めに入る。
「涼、男の秘密は本人が明かさないと意味がないんだよ。それ以上は本人に言わせてあげなさい」
「はーい」
面白くなさそうに袱台上の饅頭を手に取り口にする。粒あんであった。
「そうそう、七海が何日か前に泊まりに来たけど、あんたを八島ファームに呼んでるんだって?」
ああそういえば、と思い出す。
「七ちゃん……の妹、遥乃ちゃんだっけ、おれに会いたいんだってさ」
「遥乃ねえ……あの子いつもあんたと話そうとして、七海にとられてるって感じだったからねえ」
「何それ、ばあちゃん、どういう意味?」
聞いてないとばかりに食いつく。
珠樹はふふっと笑って、桐箪笥からアルバムを取り出した。
「ほれ、この写真。本当は三兄弟と七海と遥乃が並んで撮るはずだったのに、涼が隣だったからか遥乃が下がっちまったやつだよ」
「あの子は本当に引っ込み思案でねえ」そう言って写真を涼に手渡した。
「それ、北海道に行くときに持って行ってやんな」
話のネタにでもしろと言うことだろうか、と思う涼。こう言うところは察しが悪い男だなと母と祖母は互いに目配せしていた。
しばらくして和尭が帰宅する。
和尭はまたもや宴会を始めようとしたが涼が制止する。
「安田記念どうだった?」
これは順位の話ではない。
「ぴったりはまった感じ……かな」
乗り方の反省というべきか。
「まあ確かに折り合ってはいたようだな。ところで――」
「文さんから聞いたぞ。宝塚、断ったんだってな」
「耳が早いことで」
涼は夕食の味噌汁を飲みながらぼやく。
和尭は、ふむ、と言って珠樹特製の筑前煮の里芋を口に入れた。
「そんなに怖いのか?」
ギクリとした。
「こ、こわい。もし宝塚で騎乗依頼があるとしたらハイウェイスターが有力だけど、何よりマジシャンと走るのが怖い。もしおれの騎乗以外でG1勝ち負けしたらと思うと……」
マジシャンズナイトを降ろされたのは前述した。その理由は勝ちきれないことからだった。
「それは涼、傲慢ではないか? じいちゃんから見てお前は未練がましくない男だと思っていたが……」
「未練なんてないよ。自分が惨めで情けないだけだよ」
それを聞いた和尭は呆れかえった。最早かける言葉すらないが、なんとか言葉を探す。
「お前、それでよくダービーの重圧に勝ったな。今日の安田記念もそうだ。どういう精神をしとるんだか、おれには全くわからん」
涼は話をそらしたくて、例のテレビ企画の話を振る。シンザフラッシュとの再会企画だ。話し始めは、和尭が元より反対していた企画でもあって、頭に血が上っていたようだが、しばらくして冷静になってくる。そしてこう言った。
「フラッシュに会って聞いてみると良い。自分はどうすれば良いのか彼が教えてくれるだろう。発端が彼だからな。お前は馬との対話が必要だ」
「馬との対話……」
「シンザフラッシュの存在が心に引っかかるのなら、もう一度会って話してくるんだ」
「うん……」
シンザフラッシュ――当馬は輝かしい記録を残して、大手のスタッドに招かれた。千歳に隣接する繋養地にて種牡馬の仕事をしながら余生を送っているそうだ。
畑中のメールにはそう書かれていた。
涼が最後にシンザフラッシュに乗ったのは二〇一四年の有馬記念だ。グランドスラムの最後がかかったレースを勝利し、そのレース一杯で引退することが決まっていた。
引退式でのフラッシュの姿は、ほかのどの馬よりも輝いて見えたと、涼は記憶している。
シンザフラッシュの生涯戦績は勝ちレースのみ書くと、新馬~オープン~シンザン記念~ジャパンカップ~有馬記念~阪神大賞典~天皇賞春~阪神大賞典~天皇賞春~宝塚記念~天皇賞秋~ジャパンカップ~有馬記念の二十二戦十三勝、内G1八勝。芝のG1最多勝である。生涯二十二戦の内八戦目のジャパンカップから涼が騎乗している。
その時の穴馬大まくりが涼の初G1勝利であった。
三冠レースすべてに出走し、どれも凡走。菊花賞後、ジャパンカップに挑戦すると陣営が決めたとき、あまりの重圧に騎手が逃げ出した。そして当時、G3やG2等を勝ち頭角を現しつつあった藤村厩舎の若手騎手「神代涼」に白羽の矢が立った。
ジャパンカップの必勝を言われ誰も乗りたがらなかったフラッシュに、無謀か世間知らずか馬鹿なのか博打屋なのか、二つ返事で快諾した涼は、結果的にせよ今に通じる大胆なロングスパート戦法で勝ってしまったのだ。
東京2400は保たないと競馬ファンの誰もが思っていて、陣営ですら大博打の扱いだったシンザフラッシュのジャパンカップ強行軍。それを劇的に勝ってしまった。
初の古馬戦を物ともしない、先輩馬たちを軽くあしらってしまった。
四歳時の成績は阪神大賞典と天皇賞春だけであったが、涼にとってはどちらも初勝利である。
問題は翌年五歳の頃だった。
文字通りダークホースとして初戦の阪神大賞典からマークが始まった。
連覇をかけた春の天皇賞では何とか差しきるも、次の宝塚では徹底的にマークされた。厩舎を同じくする馬たちの包囲網にあい、打倒シンザフラッシュの旗印(横断幕)が掲げられた。結果は無理矢理馬群をこじ開けハナ差差しきりだ。ここで春は三戦全勝、秋古馬三冠とグランドスラムをかけて、鞍上を涼のまま夏を越した。
迎えた秋初戦、天皇賞。人気はまだ抑えめの三番人気。馬券師たちもまだフラッシュと涼の可能性に疑問を持っていたときだ。ここでは距離関係もあってか前方に位置取りし終始前で競馬をした。ラストの直線で抜け出し、悠々一着ゴールイン。
一番人気を飛ばし、二番人気を馬群に沈め、三番人気のシンザフラッシュまずは一冠――実況は当時そう叫んでいた。
クラシックレースの仇でもとるようにフラッシュの快進撃は続く。
二冠目、あの大まくりしたジャパンカップ。ドンピシャリ、涼の騎乗がはまり、横綱相撲で圧勝。誰もが呆れかえって、フラッシュの勝因より他馬の敗因を考え出した。
二〇一四年無敗で迎えた最終戦、中山グランプリこと「有馬記念」。
もう識者も観念したのかシンザフラッシュは人気投票ダントツの一位。当日のオッズも一倍台を推移。
対抗馬はその年の大阪杯勝利馬サトミクライシスで鞍上は新人神代望。
因縁の兄弟対決の幕が開く。
シンザフラッシュ対サトミクライシス――奇しくも同じ母馬から生まれた半兄弟馬だった。鞍上だけではなく馬同士も兄弟である。
サトミクライシスの当年の成績は大阪杯のみ。それもそのはず、他の古馬王道路線はすべてフラッシュが勝ってきたのだから当然である。大阪杯の鞍上は望であったがそれ以降は別の関西栗東所属のジョッキーだった。
この有馬記念で鞍上が望に戻ってきて、ここに頂上決戦が始まるのであった。
午後三時半過ぎの発走時刻になる。奇数馬番で内枠のシンザフラッシュは真っ先に枠入りした。サトミクライシスは偶数番で外枠であった。
流石、その年の〆のG1レースだけある。フルゲート一六頭、どの馬も重賞馬だった。
レース展開は、春の大阪杯のようにサトミクライシスが大逃げを打つ。対してシンザフラッシュは最後方で足を溜めていた。2500mを大逃げようとするのだからサトミクライシスは並大抵のスタミナは持ち合わせていない。それこそフラッシュが息を入れる終盤まで保つ長い脚とスタミナを持っている、涼はそう睨んでいた。
実際、2000通過してラスト500m――いやその前残り4ハロンでフラッシュがスパートをかけたときも、クライシスは前方で粘っていた。
そしてラストの200m。誰が予想しただろうか、逃げていたクライシスと追い込んできたフラッシュの叩き合い、マッチレースの展開になった。
どちらも引かない。涼も望もめい一杯馬を追っている。先祖代々豪腕と呼ばれる神代の騎乗がどちらも炸裂していた。
両馬並んでゴールイン。三位以下とは六馬身は離れていた。
新人に負けるわけにはいかない涼は、写真判定の結果まで気が気ではなかった。ターフビジョンでも明らかに同着の様相、その写真判定の末、掲示板には同着の文字が点灯された。二十分はゆうに審議をしていただろう。
結果が同着だ。これは有馬記念では史上初のことだった。
涼も望も完璧に務めを果たした。どちらも会心の騎乗だった。
――とこれが、涼の心の奥底にあるシンザフラッシュの最後のレースグランプリ有馬記念だ。
このレース以降、涼はクラシックはおろか古馬のG1を一つも獲れない時期が続いた。望はこれで覚醒したのか翌年の桜花賞を連覇した。
この伝説的レースが呪いとして涼に纏わり付いている。フラッシュの亡霊に憑かれ古馬王道のレースに腰が引けるようになった。勝ちきれないのはこう言うことだった。
先日の天皇賞春、いや、マジシャンズナイトのクラシック以降のレースは馬の力だけで連対に持って行ったのだ。
ではなぜ、今年、ブライアンズハートやロサプリンセスのクラシック、レディブラックのヴィクトリアマイル、ハイウェイスターの安田記念を獲れたのだろうか。
「お前さんが馬に積極的に寄り添おうとしてるんじゃないか?」
元調教師の和尭はそう言った。
「以前も言ったが、特にブライアンズハートに追いつこうとして、結果的に他の馬にも気を遣るようになったとかな」
「それくらいでG1獲れるのかな」
「何事も小さいことからだ。当たり前だが、それ”だけ“やってもタイトルなんぞ獲れんからな」
「まあまずはフラッシュに会ってみろ」和尭はそれだけ言って、夕食を黙々と食べ続けるのだった。
翌朝、すぐに涼は美浦へ戻っていった。
///
いくつもの偶然が重なって、タイトルに結びつく。
涼は月曜の朝、帰ってきて早々ベッドへダイブし天井を眺めながらぼんやりと考えていた。
インターホンがもう何度も鳴っている。客人は想像がつく。
『涼くん! いるのは分かってるんですよ! 出てきなさい!』
咲良だ。
よっこらせ、と重たい体を起こし何とか玄関へ向かう。ああ、もう、うるさい、そう呟いた。
鍵を開け、ドアを少し開いて顔を出す。
「やっと出てきた……。昨日帰ってこなかったから心配してたんですよ? 潤くんも連絡無いし。何やってたんですか? せっかく安田記念勝ったお祝いしたかったのに」
「世話焼きにも程があるだろ……。お前はおれの何なんだっての」
疲れから無意識に悪態を吐いてしまった。口に出した後に、あっと後悔をする。
「何って何でもないです……」
まずいと思った。しかし。
「私がこうやって、涼くんとお祝い事をやるのは、迷惑なことなんですね。大きなお世話だったんですね……」
「どうしたんだよ、柄にもなく落ち込んで」
「中学卒業してからずっと離ればなれだったんですよ? 今時間を取り戻したって良いじゃないですか……」
「おれたちただの幼なじみってだけだろ? 家族じゃあるまいし時間を取り戻すなんて……」
しゃべり出すと止まらないのが涼と咲良の悪い癖である。
咲良は涼の頬を叩いた。涼は訳が分からないといった風に呆然とする。
馬鹿、とだけ言って、咲良は出て行ってしまった。首をかしげた涼は、またベッドに戻るのであった。
しばらくして今度は固定電話が鳴り響いた。
ここ最近、月曜の大切な休日に電話がかかり何かしらの事件が起こる、という日々を送っていた。涼はそれを思っていやな予感を感じた。
出ないわけにはいかないので、四コール程で出る。
「ふぁい……神代です」
不抜けた返事を聞いた電話相手は涼に喝を送る。
『こら! 涼! なに間抜けな返事をしとるんじゃ!』
その声の主は。
「北海道の大叔父さん……何か用ですか?」
電話口の相手は、北海道新冠で牧場を営む涼の大叔父――祖母・珠樹の弟「八島逸樹(やつしまいつき)」であった。
『おう、七海から話は聞いてんな? 早速だがいつこっちに来るんだ?』
「いや、ほんといきなりですね大叔父さん。いつって、まだ分からないですよ」
『来月に来てみねーか? 日高のセールが見れんぞ』
七月に行われる当歳馬(0歳馬)の競り市のことだ。
『うちも良い仔たちを出すからな』
「まあちゃんとスケジュール立ててから行きますよ、はい、それじゃあ」
半ば無理矢理会話を終わらせる。安田記念が終わって、当面予定が空いているのだが、それではという風に気楽に北海道に行けるものではない。
今日は競馬従事者にとって貴重な月曜休日だが、涼は特にやることがない。趣味も仕事も競馬では私生活は当然味気ない物だろう。せめて何か別の趣味があれば、涼の休日も有意義なものとなるだろう。
「はー暇だ。何もすることがない。……トレセンにでも行くか」
結局、競馬関係である。
涼は、少し遅い朝食を済ませると、身なりを整え美浦トレセン藤村厩舎へ向かった。
「んー、涼くん、休みなのにどうしたんだい?」
厩舎の調教師宅から藤村師が出てきた。オフの格好であった。
「いえ、何もすることがなくて、厩舎の様子でも見に行こうかと思いまして」
「そうか、いや、丁度よかった。涼くんに話があったんだよ。明日話そうかと思ったけど、今暇ならいいや」
「話、ですか?」
「うん。実は、サマージョッキーシリーズの挑戦を提案したいんだ」
サマージョッキーシリーズはサマーシリーズの一環で行われる、ポイント制夏のナンバーワン騎手決定シリーズだ。対象レースでの結果でポイントが加点されていき、九月中旬の結果発表までに一番多くのポイントをゲットした騎手がチャンピオンとなる。
「涼くん、経歴に反してそういうタイトル持っていないだろう?」
サマーシリーズ対象のレースに出たことはあるが、それもピンポイントでの騎乗であり、シリーズ通して出たことはなかった。よってタイトルも獲ったことがない。グランドスラム経験騎手にしてリーディングジョッキーの経験もあるのに、これは意外なのではなかろうか。
経歴から言って最早若手の部類には入らない涼である。グランドスラムというタイトルが大きすぎるきらいもあるが、サマーシリーズといったタイトルも獲れば、評価も上がることは間違いない。
もっとも、涼のG1以外の重賞勝率は三割ほど。高すぎる勝率を持っているので、いい加減タイトルホルダーとなっても良いのだ。
「あまりに縁が無かったもので……サマーシリーズっていつからでしたっけ?」
「今月の三週目日曜日サマースプリントの一つ函館スプリントステークスからだよ」
「へえー」
「いるんだよなあ、ウチにも出走できる馬が。君に乗ってほしいなあ」
藤村師の視線が馬房に向く。
一寸考えて涼はあることを思い出す。
「でもおれの短距離成績って無いに等しいですよね。っていうか短距離の依頼これが初めてじゃないですか?」
前述したとおり、涼の騎乗馬は大体が根幹距離だったり3000m以上だったりして、2000m以下はクラシック桜花賞以外は今年のヴィクトリアマイルと昨日の安田記念――つまり1600mが最短だった。短距離馬に乗ったことが無いに等しかった。1600m以下の騎乗の仕方を知らないのだ。
「騎乗方法が分からないなら、バーンマイハート主戦の海老原くんに聞いてみると良いよ」
「成るほど……分かりました、挑戦してみます」
「で、だね。サマーシリーズ出走馬を涼くんにも回してもらえるよう便宜を図っておくから。絶対にチャンピオンになるんだよ?」
「はい!」
というようなことがあり、涼はサマーシリーズの参戦を決めるのだった。
目標ができ俄然やる気が出てきた涼は、早速、体重調整に入った。
翌日――火曜日朝。
「んー来週日曜に函館で、その日のうちに新冠に行くのは無理だよなあ……」
「あ、でも、宝塚出ないから函館スプリントSから二週は予定が空くか……んーどうしよ」
スケジュールと睨み合いをしていた。今週の騎乗予定は無い。来週の函館スプリントSで北海道に行って、その足で新冠の親戚の家に行けるかどうか、ということろだった。
そのようなことを考えながら美浦トレセンへ向かっていた。
藤村厩舎の前で藤村師と話をしている者がいた。心田オーナーである。
「では、バロンのデビューは大幅に早めて、今月末の函館開催ですね?」
「お願いします先生。僕がみてバロンの調子が良さそうだったので。それに神代涼くんが前の週に函館に行くんですよね、丁度良いです」
「どうもです、心田オーナー」
涼が気兼ねなく挨拶をする。心田オーナーは涼を認めると、すぐに向き直り真っ白な歯を出してニカっと笑いながら涼の肩をポンと叩いた。
「やあ涼くん、ちょうどよかった。今レットローズバロンのデビューについて先生と話をしていたんだよ」
「? 八月予定だったのでは?」
涼が疑問符をとばすが、心田オーナーが自信満々にこう言う。
「今日来てみたらバロンの調子がすごぶる良さそうだったんだ。それで、君が函館スプリントS出るって聞いて、じゃあその次の週の函館開催の二歳新馬に出そうって決めたんだ。どうだい? 乗ってくれるかい?」
それは涼にとって願ったり叶ったりの申し出だ。
「は、はいっ!! じゃあ、藤村先生、おれ来週から今月末まで北海道遠征行ってきて良いですか?」
来週から北海道に詰めて、その間の調教騎乗は潤らに頼みます、といった感じの願い出だった。師はそれを快諾して、チーム藤村厩舎はサマーシリーズに臨むのだった。
「よしっ、今日も仕事頑張るか!」
「その意気だ神代涼!」
涼が意気込み、心田オーナーが檄を飛ばした。みなやる気満々といった感じだ。
///
「あの、涼先輩……潤さんは大丈夫ですか?」
北コースでの調教騎乗を終え、厩舎に引き上げようとしたとき背後から女性が声をかけた。
「んー藍沢か。潤のやつは部屋で休ませてるよ。外出禁止令って言ってな」
救急車で運ばれたっきり藍沢岬は潤と面会していなかった。涼の冗談交じりの言葉に安心感を覚えたのか少し微笑む。
「そうなんですか……ふふっ。先輩がそうおっしゃるのなら潤さんも口出しできませんね」
「だろう?」
馬を引き連れ、岬と談笑しながら厩舎へ戻ってきた。
「ところで、先輩」
岬が思い出したように涼に問いかける。
「ん? どした?」
「今年のリーディング見てますか?」
リーディングサイアーの方ではなく、リーディングジョッキーの方だ。
「見てないなあ。一位は栗東の式先輩だろ?」
式豊一郎はここ数年、それこそ二〇一四年以外は全てリーディング一位に輝いている。傾向としたら、式豊一郎を筆頭に関西の騎手がリーディング上位にいる。美浦の騎手はというと――。
「先輩が関東騎手の中で一位ですよ。それも式先輩の次点です」
「式先輩の次? っつーことは二位ってこと?」
素っ頓狂な声を上げる。納得できていないようだ。
「考えてもみてください、先輩、今年一度も連を外していないじゃないですか。それにクラシック三勝とヴィクトリアマイル、安田記念の優勝。大きいところを勝ちすぎです」
更に岬は続ける。
「このまま行くと夏を越したあたりで一位になりますよ。サマーシリーズ獲れたらもっと確実です」
「ひぇええ……これ意識したら負けるなあ」
重くのしかかる重圧に潰されそうになる。
「先輩は潤さんと違って打たれ弱くてプレッシャーにも弱いですからね。でも頑張ってください」
「潤との評価差がありすぎでは……あいざわさーん……」
「あ、あと、藤村先生のリーディングも良い所ですね。先生のためにも先輩はサマーシリーズ制覇すべきです。それこそ全部獲るつもりで」
「無茶言うなあ。藍沢だって女性騎手年間最多勝タイトル狙えよ」
涼は苦笑しながらも岬を労った。現在、藍沢岬は関西関東の女性騎手の中でトップを走っている。今年こそ重賞は獲ってはいないが要所要所で勝利を挙げ堅調に行っている。
「もちろんです」
そのような談笑をしていると、厩舎から次の調教馬が連れてこられた。今度は坂路一杯だ。
岬と涼の会話にアルス・ローマンと吉川尊が入ってきた。二人も併せ調教をしていたようだ。この者たちがチーム藤村の騎手たちだ。
「神代、藍沢、アルス……うちの若手は有望すぎるだろう。俺も頑張らないとな」
「吉川先輩は二歳戦と短距離手堅いですよねえ。流石、中堅っていったところです」
「まあな。それに短距離は同期の海老原に負けてられないからな」
「キッカワ先輩とエビハラ先輩って同期だったノデスカ!?」
アルスは驚く。
「あれ? アルス先輩は知りませんでしたっけ? 去年のマイルチャンピオンシップで吉川先輩の騎乗馬コーセイトップギアと海老原先輩のバーンマイハートの一騎打ちを知らない?!」
岬が熱く語り出そうとするが、アルスはごめんと一言。
「あの時は帰国してたんダヨ」
代わりに涼が当時を思い出すように語り出した。
「あの時おれはその直前のレースに出てたな。にしてもあのマイルCSは伝説だった。騎手も同期なら馬も同期、まあ当たり前だが関東馬対決、高柳先生は藤村先生の一年先輩……成るべくして成ったマッチレースだった」
結果はコーセイトップギアの勝ち。辛勝と言ったところだ。コーセイトップギアはこのマイルチャンピオンシップ優勝をもって現役引退、短距離界を湧かした優駿の一頭として種牡馬入りを果たした。ここを負けたバーンマイハートは今年のスプリングカップを獲り先日の安田記念二着入りをした。恐らくサマースプリントシリーズを経てスプリンターズステークス挑戦、そしてマイルチャンピオンシップのリベンジを図るのだろう。なんせバーンマイハートはコーセイトップギアがいない今短距離界を引っ張っていく馬なのだから。
アルスは聞く。
「コーセイトップギアって勝ち鞍は何?」
自信満々に岬が言う。
「四歳時に高松宮記念制覇、サマースプリントシリーズを制覇、スプリンターズステークスは二年続けて苦杯を嘗めるも続くマイルチャンピオンシップを四歳五歳で連覇です!」
吉川は胸を張る。
立ち話をしていた騎手たちのもとに藤村師がやってくる。
「こら! 君たち! 立ち話をしていないで、仕事仕事!」
やばいと言って騎手らは担当馬を受け取り各コースに散ってゆく。
その日の調教を終え、涼は自宅に帰宅した。毎度のことだが体力を消耗する馬の騎乗は一日にそうそう何回もできない。やっとノウハウを理解してきた涼は体力の使い方も分かってきた。が、一日の終わりはやはり疲れる。
明日は水曜日。週で一番気が滅入る日だ。
明日に向けて体力を回復せねばならない。
部屋の玄関の前に立ったとき、隣の部屋のドアが開く。咲良が申し訳なさげに出てきた。
「あの……涼くん、怒ってますか?」
疲れているので、話が頭に入ってこない。理解が追いつかなかった。
「……何のことだっけ? おれ疲れてるから、もう休む。そんじゃ」
何か重大なことを忘れている気がしたが、咲良の自分を呼び止める声を聞かずに玄関を閉めてしまった。咲良は、また明日にしようと独り言を呟いて部屋に戻った。
///
翌日、涼は函館スプリントSに出走する馬を紹介してもらった。
「名前はコーセイスピリッツ。コーセイの冠名で三歳牡馬だ。うちの短距離メンツで一番の有力馬だよ」
でかい、ただ一言。まさしく短距離馬――と涼は思った。
「そしてこちらがコーセイの冠名を使うオーナーブリーダー……春間光成(はるまみつなり)オーナーだ」
自ら牧場も経営する馬主で短距離馬を愛するとのこと。
「よろしくお願いするよ、若き天才くん」
「え、あ、いやあ、そんなもんじゃないですよ。まだまだです」
赤面しながら恐縮した。春間オーナーはそれを見て殊更涼を褒めた。
「吉川くんに負けないよう頼む。今年は彼が空いていないからね、神代くんの腕の見せ所だよ」
涼は気合いを入れる。
「でだ、サマーシリーズの他の馬だけど隣の森本秀和(もりもとひでかず)厩舎の馬をまわしてもらえたよ――サマー2000の方だね」
続いてサマーマイルの馬を紹介される。
「サマーマイルは南の高島哲也(たかしまてつや)厩舎の馬だね。全部話は行ってるから、あとは涼くん自身が厩舎に挨拶に行くことだな」
「はいっ!」
さてこれで神代涼のサマーシリーズの準備が整った。今週の騎乗予定はない。来週の函館行きに向けて、まずはコーセイスピリッツの調教に励むのだった。
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