第3話連対マジック
四月三週目の日曜日。
中山競馬場。
前日の天気は晴れ。本日の天気は曇り、芝良。
涼とアルスは中山で本日五本レースに騎乗する。内、最後の一本がG1クラシックレース皐月賞だ。
三時。
出走全一八頭の馬がパドックに現れる。
先に現れたのは一枠一番の二番人気ナギサボーイ。鞍上はアルス・ローマン。
衆人我関せずといった風体だ。
次に観客の目を引いたのは三枠六番アドミラルネイビー。前走より体重プラス七キロの五〇〇キロちょうどのデカイ馬体。おそらく全頭中一番大きい馬体だ。
観客の誰もがアドミラルネイビーのオッズを確認した。三番人気。競馬新聞にはいくつか◯のマーク。対抗馬とされている。
父はダービー馬、母は英国の二冠馬。
鞍上はベテランの「式豊一郎(しきとよいちろう)」——皐月賞はこれまで六回優勝している。
最後の方に現れたのは七枠一五番ブライアンズハート。黒鹿毛で額にはワンポイントの流星が目立つ。前走弥生賞一着で体重増減なし。
圧倒的一番人気。鞍上は神代涼。
ナギサボーイとともに唯二頭の関東馬である。
さて件の神代厩舎の馬といえば、四枠七番で五番人気のローゼンリッター。桜花賞のエンシンローズとロサプリンセスとは同じバラの血を持つ。
鞍上は栗東の若手三銃士の一人「天照歩稀(あまてるほまれ)」——神代厩舎の中で一番の有望ジョッキーである。
///
「ハート、頑張ろうな……」
涼はブライアンズハートに跨り、その鬣を優しく撫ぜながら呟いた。
『皐月賞、本馬場入場です。一枠一番ナギサボーイ、父系はあのトウショウボーイの系列です。一枠二番——』
『三枠六番アドミラルネイビー。前走スプリングS二着。体重増が吉と出るか』
『四枠七番ローゼンリッター。神代久弘調教師、皐月賞は連覇中。今年もなるか! 鞍上は関西の貴公子天照歩稀』
『七枠一五番ブライアンズハート。デビューからここまで無敗で来ました。父系はブライアンズタイム、母の父はサンデーサイレンス。圧倒的一番人気で鞍上神代涼ジョッキー真価を見せるか』
一八頭のフルゲートで、全馬が体制完了になる。
ガシャっとゲートが開いて各馬が一斉にスタートをする。
が、ブライアンズハートは想定外に出遅れ最後方からのレースとなる。
会場が一斉にどよめき、悲鳴すらも聞こえた。
神代涼が出遅れると大抵凡走になる、とデータがあるのを観客は知っていた。
先行馬のアドミラルネイビーが先頭でペースを作る。ややスロー気味だ。
中盤にローゼンリッターとナギサボーイが位置取る。
最後方一馬身空いてブライアンズハートが追走する。どうやら折り合っているようだった。
1200mを越えて先団が固まって来た。
その時である。
『ここでブライアン、スーッと上がってくる! ロングスパートか!? 先団をなめるように第三コーナーを大外で回る! ローゼンリッターもそれに追走する!』
『先頭アドミラルネイビー第四コーナーを回る! 最後の直線です! 大外からブライアンズハートとローゼンリッター突っ込んでくる! ブライアンか!? リッターか!? さらに内からナギサボーイ爆発!! ブライアン! リッター! ボーイ! 凄まじい叩き合いでゴールインっ!! なんと三頭並んでのゴール! 結果は写真判定にもつれ込みます』
(どうだった?)
(いや、わからない)
(いいところでしたね)
テレビやラジオを通していても三人のジョッキーのやりとりが聞こえる。
///
判定の時間が長い。
ゆうに一〇分は超えている。
涼、アルス、歩稀はそれぞれ調教師の先生のところで話し合いをしている。
涼はちらりと実父「神代久弘(じんだいひさひろ)」調教師の方をみる。
憮然としていて歩稀が話しかけても、んー
だのあーだの心ここに在らずといったところだ。
「先生、どうでしたか」
「アルスくんも涼くんも、まあ成るように成るさ」
藤村師がアルスと涼二人の肩をポンと叩いて労をねぎらった。
数分が過ぎる。
ホワイトボードに着順が書かれ始めていく。そして掲示板にも結果が……。
///
「優しい愛の手のひらで……今日も私は歌おう……」
劇団公演の幕間に咲良の出番がある。
彼女は幕間で歌を唄う。
咲良の本領は歌唱であった。もともと援団に所属していたおかげで腹の底から声が出るし、舞台用のボイストレーニングを欠かしたことは無かった。
テレビ番組でも彼女の歌は披露される。
劇団名から取って「虹の歌姫」と呼ばれていた。
歌い終わりとともに盛大な拍手が巻き起こる。
他方、競馬場ではG1レース皐月賞が施行されている本日、劇団虹の彼方の公演日でもあった。
煌びやかな白銀のドレスを着た咲良を見た観覧客らはその歌声とともに虜になった。
幕間ともう一つ、咲良メインのターンがある。
カーテンコールの時に毎回唄うアメイジング・グレイスだ。
カバー曲だが観客のこれ聞きたさに毎回カーテンコールが起こると言っても過言ではない。
いわば、舞台締めの一曲である。
これらは咲良が事務所社長に直談判した故に成されたコーナーである。
畑中社長も咲良の歌唱力には一目置いているからである。
プロデューサーの春原も舞台の宣伝やテレビ局の広報担当に売り込むに、咲良の歌唱を第一に売り込んでいた。
そんな劇団にも悩みがあった。
それは……咲良が歌唱以外からっきしだということだ。
逆を言うと、舞台の幕間とカーテンコールしか咲良の立てる舞台がないと言うことになる。
よくそれで天下の大事務所……大東京芸能事務所の劇団虹の彼方に所属していけるな、と舞台観覧の常連は言っているとか。
舞台が跳ねて、劇団員たちは各々打ち上げ会の話をしている。そんな中、間寺咲良は皐月賞の結果をスマホで検索していた。
検索エンジンのトップニュースには競馬関係はなかった。
一つだけ見つけた『皐月賞三頭並んでゴール。結果まで一五分』と言う見出しのニュースだった。
咲良は恐る恐る、そのニュースのリンクを踏んだ。
いの一に目に入ったハナ差ゴールの一枚写真に涼を発見して、ひとまず安心する。
次に記事を読み進める。
『確定に一五分。一冠目を制したのは、ハナ差差し切りでゴール板を駆け抜けたブライアンズハート! 鞍上神代涼騎手……奇跡かと思いました、生きた心地がしませんでした』
咲良は思わず歓喜の声をあげそうになったが押しとどめる。
(よかったっ……)
ホッと胸をなでおろした時、楽屋にプロデューサーの春原が入ってきた。
「やあ、みんなお疲れ様。社長が打ち上げ会場に高級旅館を取ってくれたそうだよ」
メンバーはドッと喜び、楽屋引き上げの手を早めた。
その夜、他方千葉県某所の居酒屋では。
「神代さん、おめでとうございまーす!」
「リョー! おめでとうダ」
「あ、ありがとう、天照君にアルス」
「神代君最近調子良いよね。僕も負けていられないけど、今日は僕のおごりだよ」
「式先輩ありがとうございます」
皐月賞トップ3のジョッキーと先輩ジョッキー式豊一郎が盛大に祝いごとをやっていた。
「いやあ……牡馬クラシック獲れるなんて夢のようです。実感が湧かないですよ」
桜花賞より嬉しいかも、と涼。
「まだまだ、本番は来月だよ」
「トヨさんの言う通りだヨ。まあ僕も今日は負けたけど『次』は絶対勝つから」
次——五月末に施行されるクラシック世代の最高峰のレース。
このレースに出られるだけで、それだけで名誉なことである。
このレースに勝つことができれば、七〇〇〇余頭の同世代馬の頂点に立てる。
ジョッキーも、調教師も、その馬に関わる全ての人が手にしたい栄冠。
その名も『ダービー』。
正式なレース名は『東京優駿』であり、副称は『日本ダービー』である。
東京競馬場、芝2400mにおいて三歳馬の頂点を決めるレース。
2400mという距離は創設当初から変わっていない。
競馬の祭典として広く知れ渡っている。
牡馬中心のレースであるが、例によって例のごとく牝馬も出走可能であるし、牝馬の優勝歴もある。
大きく運が左右するレースだ。
皐月賞が「最も速い馬が勝つ」ならダービーは「最も幸運な馬が勝つ」と言われているとか。
「ともあれ、目先は来週の天皇賞でしょ。式先輩もアルスも天照君も出るんでしょう?」
ほろ酔いながら涼はふと思い出したように言った。
「古馬は神代って言われるくらいですから神代さんも出るんですよね?」
歩稀が冷やトマトを突きながら言う。
涼は一寸考えて、こう言った。
「今のところおれが乗ってる馬で賞金高いのは今年四歳のマジシャンズナイトだから、出られると思う……」
「マジシャンズナイトって確か……」
豊一郎が何かを思い出す。
「そうです。去年のクラシックぜーんぶ二着だった馬です!」
「そうだったね。それも菊で一着入線して降着したんだよね」
それを聞いた涼は、持っていたビールジョッキをダンッとテーブルに置いて、狂ったかのように笑いながら喋り出す。
「あの時は心底自分の巡り合わせを憎みましたよ! まあそりゃあ斜行するように走らせるおれが悪いんですけどね!」
「斜行して降着になったんですか? 進路妨害?」
「ああ。進路妨害だよ」
調べれば去年の菊花賞の映像あるかもねと言って、歩稀に促した。
記録に残っている去年の菊花賞の動画を見つけた歩稀は一部始終を見終わって疑問を持った。
「あの位置にいてどうして斜行するんですか?」
「雨上がりで、最後の直線に水たまりみたいなのがあったっぽいんだよな。マジシャンのやつそういうの嫌いらしくて、勝手に行っちゃったんだ」
それを抑えるのが騎手の腕の見せ所であるからして、涼はまだ甘いのだ。
「マジシャンで天皇賞出られたら良いなあくらいでいますよ。式先輩たちは何に乗る予定ですか?」
「僕は去年の二冠馬のサトミダイバクハツだね」
豊一郎の騎乗馬サトミダイバクハツは皐月とダービーを獲った馬だ。
「僕はナギサの全兄のビーチボーイだヨ」
「僕はシンザクロイツです。去年の有馬で優勝した馬ですね」
歩稀が有馬と口に出したら、涼はズーンと顔色を悪くした。
「ど、どうしました?」
「そのレース、おれマジシャンで連対」
マジシャンズナイトの成績は二歳戦以外、三歳以降は全て二着である。もちろん鞍上は涼だ。
今年の大阪杯も二着。
脅威の連対率を誇る。
「手堅いにもほどがあるヨ」
「神代君は本当に軸だねえ」
「うわあああああ」
酒に弱い涼はその日溺れてしまった。
そして夜が明ける。
///
『マジシャンズナイト、またもや二着に鞍上神代、お手上げ!』
微睡みの中。
「うーん……」
『敗因はなんですか?』
「やめっ……うわああああ!!」
飛び起きる。夢だというのを確認してホッとする。
「んー……おれ打ち上げの後どうしたんだっけ……」
ぽりぽりと頭を掻きながら考える。
その時。
「式騎手とローマン騎手がここまで運んでくれたんですよ。式さん栗東の方なのにここまで来てくれたんですからね」
思考停止。
「うわああああ!! 咲良!? なんでおれの部屋に勝手に!!?」
何度目の驚きだ。
慌てて着衣の確認をする。
ランニングシャツに半ズボン。
いつもの寝間着だ。
泥酔しながらも、着替えはしたようだ。
「神代のおばさまから伝言ですよ。「皐月賞おめでとう」だそうです」
「お、おう」
神代三兄弟の母親は東京に住んでいる。
というか、神代家の本宅が東京都世田谷にあり、現在は母・梓(あずさ)と祖父・和尭と祖母・珠樹(たまき)、そしてお手伝いさんと呼ばれる使用人らが同居している。
神代の人間は長じると、騎手学校へ進学したり調教師の資格の勉強をするため厩舎に弟子入りしたりと、とにかく競馬事に携わる。
涼と望は競馬学校の騎手コース、潤は同じく競馬学校の厩務員コースへ進んだ。
息子たちや夫が日本競馬の最前線で働いているのだから母であり妻である梓は鼻が高い。
「なんで、部屋に入れたんだ?」
「鍵、かかってなかったです」
「不用心ですね」と咲良。
脱ぎ散らかしているはずの服がない。洗濯機の回る音が聞こえるに、目の前の世話焼きが回したのだろうと自己完結する。
「前々から思ってたんだけど、お前、おれの母さんといつ連絡取り合ってるんだ?」
「いえ……梓おばさまが私の携帯にメールくれるんですよ」
「おれには何もくれないのに……」
母が涼に直接連絡事をするのは稀である。
日常生活のほとんど全てを息子の幼馴染である咲良に一任している。
年末で実家に帰った時に祝いの言葉を貰ったグランドスラムの時くらいのものだ。
「そ・れ・よ・り、パーっとお祝いやっちゃいましょう!」
「はあ?」
涼がキョトンとしていると、咲良はダイニングテーブルにかけられている布をヒョイっと翻した。
テーブルには少しだけ豪華な朝食が置かれていた。
涼は目を丸くする。
「クラシック二連勝ですよ!? 無冠の天才の!」
憑き物が取れたかのよにクラシックレースを連勝した。
来たる日本ダービーは頂上決戦になるだろう。今度こそ逃す、ここぞという時に逃す、涼はそう思っていた。
しかし潤ではないが、ツキが回って来たのだろうか。
「もう今年のクラシック残り全部獲っちゃって下さい」
「牡馬三冠の牝馬二冠か。オークス辺りを落としそうな感じはするけど」
一応書いておくが、牝馬三冠の三つ目「秋華賞」はクラシックレースではない。
昔は秋華賞の代わりにエリザベス女王杯が三冠レースに入っていたが、エリ女を四歳以上も出走できるようにするため、三歳牝馬の三冠目に秋華賞が創設された。
比較的新しいレースなのだ。
「クラシック調子いい代わりに、古馬戦線がからっきしだったりするのかね」
古馬は神代の看板も下ろす時なのか。
「連対の鬼が何言ってるんですか。このシルバーコレクター」
再三言うが今年の大阪杯は二着である。
更に言うが今年初G1のレースフェブラリーステークスも二着である。
高松宮記念は三着である。
手堅いにもほどがあるが、馬は悪くないのかもしれない。ジョッキーの力不足で勝ちきれていないのかもしれない。
それが証拠に、フェブラリーステークスを終えた涼の騎乗馬は騎手を変えて翌月の重賞マーチステークスを勝っている。
乗り替わった騎手はベテランであり、数多くの重賞馬に跨ってきた記録がある。
古馬に神代涼を乗せるのは良いし、神代涼の手綱捌きで勝ち負けできるところまで持っていけるのも良い、勝てるかは別として。
馬券を外さないと言う奇妙な力を持っているので重宝がられる。
「で、料理どうです? 美味しい?」
「ええ……まあ」
涼の好物、ピザトースト二枚。
普段は制限していて滅多に食べないが、この日のトーストは本当に美味しかった。
が、素直ではない涼は普通に美味しいと一言が言えなかった。
「レース明けの私の料理だからジンクスは関係ないですねっ」
「そのことなんだけど、お前がらみのジンクスで大抵連対なのを考えると、もしかして咲良が応援してくれるから馬券外さないのかもな」
そっぽを向きながら呟いた。
「やり方を変えればもしかしたらダービー獲れるかもしれないな」
「要は直前に応援されて気負うから力が入って負けるんだ。水曜日くらいに応援されたら負けないかもな。前哨戦レースみたいに」
「じゃあ、ダービーの週は水曜日に潤くんも呼んで料理会しましょうよ」
「潤は料理上手いから、いいかもな」
ここでふと涼はカレンダーを見る。
そう言えば、と前置き咲良に向き直る。
「昨日、虹の彼方の公演だったよな。どうだった?」
咲良は胸を張ってこう言った。
「涼くんに言われるまでもなく大盛況でしたよ」
「そう、良かった。大人気のハートが走る皐月賞の観客動員に負けたらしょうがないもんな」
「箱の規模を考えて下さい! そっちは一〇万人も入るでしょ!」
皐月賞としては例年になく盛況であったらしい。
ダービーがどうなるか想像に難くない。
「咲良のカーテンコール目当てもいるんだもんな。生憎おれは仕事柄見たことないけど」
「それなんですけどね。ダービーの国歌独唱を私がやるかもしれないんです」
「話きてるの?」
「はい。中央競馬から直々に」
「涼くんに私の歌聞いてもらえますね」と咲良が言う。
虹の彼方はスケジュールがシビアな為、相当前から話をしておかないと、予定が取れないと言われる。
東京優駿の国歌独唱も今年に入って早々来た話なのだろう。
そんなこんなで、四月の第四週、天皇賞春ウィークが始まった。
結局、涼が天皇賞で騎乗する馬は美浦北の厩舎、國村厩舎(くにむらきゅうしゃ)所属のマジシャンズナイトとなりそうであった。
併せのタイムが好調で、先輩馬を悠に追い抜いてしまった。
魔法使いの夜の名の通り、まるで魔法がかかったみたいに調教で良いタイムを出しまくった。
「國村先生、今こんな調子で本番大丈夫ですかね……」
調教を傍目から見ていた涼が國村調教師に対して呟く。
「ちょっと出来が良すぎるな。ピークを今にしたらやばいから後は抑えめかな」
「はあ、そうですか」
一抹の不安を残す涼を尻目に、潤が馬房から何食わぬ顔で調教馬を連れて来た。
「はい、アニキはこっち。俺は六月デビュー馬の一番星目指してるんだからな」
「よーしここは弟のためにひと肌脱ぐか」
「おうおう一肌も二肌も脱いでくれ。まだまだアニキは若駒の信用が無いんだからな」
火曜から木曜まで新馬中心の調教の手綱を取った涼だったが、気がかりのマジシャンは結局天皇賞本番まで一杯に走らないことになった。
そして迎えた天皇賞春。
京都競馬場の芝3200m。
馬場は今朝の雨が影響してか稍重。
マジシャンにとって超絶不利の馬場にして、枠順が大外一八番。
もうお前は勝つな、と言わんばかりの巡り合わせであった。
有利なのは距離適性だけであった。
降着はしたものの菊3000mを悠々一着入線しているのだから頷ける。
それこそ斜行さえしなければ今頃は……。
しかしよく乗り替わらなかったと、涼は思った。
ところで、人気であるが、現在一番人気はビーチボーイ。去年の天皇賞春の優勝馬である。
式豊一郎のサトミダイバクハツは菊花賞以来の3000m級のレースであるから人気は割と抑えめであった。
マジシャンだが一八頭中の一〇番人気でオッズはなんと二〇倍台。
勝てば恐ろしいこととなる。
有馬記念覇者シンザクロイツは道悪が得意とされているので上の方の人気だ。
本馬場入場して、明らかに馬場を嫌がっているのが馬上からでも伝わってくる。
(嫌なのは一瞬だ、耐えてくれ)
若干ゲートに入るのを嫌がったものの、入った後は大人しくなった。
ゲートが開いて、一斉スタート。
マジシャンは驚くほどすんなりと出てくれた。
先団の前方で引っ張るような形となったが、これもマジシャンの得意の先行策の一環だ。
例年になくハイペースであると悟ったのは涼や歩稀ら前方に位置する者たちだった。
シンザクロイツが前方マジシャンズナイトを徹底マークする。
1000m通過が一分少々。
2000m通過で少しタイムが上がる。
位置取りは依然マジシャンが先行していてそれをクロイツが半馬身でマークする形だ。
それより後方も変わりなく差はないも同然だ。
馬群が固まったまま、ラスト直線となる。
ここで抜け出したのがクロイツであった。
マジシャンもムチを入れ加速する。
だがどうにもクロイツに離されていく。
溜めていたクロイツが道悪鬼の末脚を発揮した。
マジシャンは一杯だ。
クロイツとの差は一馬身。
そのままゴール板を駆け抜ける。
掲示板には三分一三秒〇。
着順の一番上にはシンザクロイツの馬番五番。その下に一八番。着差は一馬身。
「うん。マジシャンにしてはよくできたレースだったよ。道悪だったしね」
レース後、涼は國村調教師と話していた。
「心なしかお客さんの自分を見る目がおっかなかった気がしますね」
「そりゃそうだ。一〇番人気馬を連対に持っていくんだからな」
今回ばかりは神代を軸にはできないとされていたからである。
外から観客の声援「アマテルバンザーイ」と声が上がっているのが聞こえる。
インタビューが涼のところへやってくる。
「神代ジョッキー、今回のマジシャンズナイトはいかがでしたか?」
「馬場の状況が祟りましたかね。稍重ですと彼の持ち味が活かせませんから。後はぼくの力不足です」
「マジシャンズナイトはこれで六回連続の二着ですが、次に向けて一言お願いします」
「まあ手堅く行こうと思います。神代のせいで二位になったより、今日の様に神代が二位に持ってきたと言える様なレースを心がけたいです。もちろん優勝も狙っていますけどね」
「そうですか、ありがとうございました。神代涼ジョッキーでした」
「ありがとうございました」
六回連続……と脳内で反芻した。
三歳以降なら連対率一〇〇パーセントである。
「シルバーコレクターか……」
思えば、古馬の神代と言われ始めたのはグランドスラム達成からだ。それ以降の重賞レースは全て馬券に絡んできた。
過大評価されているのかもしれない。
シンザフラッシュに乗らせてもらっていたのかもしれない。
フラッシュにとってグランドスラムをとるためのジョッキーは誰でもいい、もしくは本当に腕のいいジョッキーが良かったのかもしれない。
かもしれない、かもしれない、キリがないがフラッシュ以降重賞を獲れなかったのは覆しようがない事実である。
良いところまで行って勝ちきれない。
ゴールドの手前でステイする。
ああ、聞いたことがある。
昔、母に連れられて行った競馬場で見た。
でもあの馬は最後まで諦めなかった。
「おれも諦めなければあの馬みたいに最後には……」と心の声が表に出た。
「暗い顔をしているな。神代、君が人気の無い馬を馬券にまで持っていくのは紛れもなく君の実力だ。ただ僕が思うに、君は古馬になって落ち着いた馬の力を引き出せるという感じだな。後は古馬になっても気性難の仔の扱いか。二歳や三歳馬で勝てなかったのは若駒を扱いきれていなかったんだろう」
「國村先生……」
「それにつけても藤村さんのところのロサとブライアンは大人びてるな。だからこそ馬主さんは主戦に君を選んだのかもしれないが」
「君が思っている以上に、馬主さんや調教師は君のことを知っている」
つまるところ、若い馬は扱いきれず、古馬や三歳秋頃の馬に適性がある、ということらしい。
ロサプリンセスやブライアンズハートは気性も穏やかで年の割に大人しく、だから涼でもクラシックが獲れたのだ。
「つまりだね、腕を磨けば君は本当の天才になれると思うんだ。まだ若いしね」
「君は確か式騎手の無敗三冠を見て、騎手を目指したんだろう? なら式騎手を目標に頑張れば良い」そう言って國村調教師は競馬場を引き揚げて行った。
天皇賞春いっぱいで涼はマジシャンズナイトを降ろされることになった。
國村調教師からの「ブライアンズハートに専念しろ」との激励にも聞こえた。
翌月曜日は、久しぶりに東京の実家に足を運ぶことにした。
「ただいまー」
涼の声を聞くや否や、使用人で涼が「文じい」と呼ぶ、元馬術競技者「綾瀬文雄(あやせふみお)」とその妻で「絹ばあ」と呼ばれる「綾瀬絹代(あやせきぬよ)」が飛び出してきた。
「涼坊ちゃん、お帰りなさい。和さんがお待ちですよ」
「坊っちゃま、まーあ、げっそりになられてねえ。ばあが何か美味しいものお作りしましょうか?」
マジシャン六回連続二着のショックから立ち直れない涼は食事も喉を通らない状況だった。
マジシャンの三歳以降のキャリアを棒に振らせてしまった責任をどうとるか考えていた。
そんなことを、居間にいる祖父・和尭に話したら優しくこう諭された。
「結局、ジョッキーは結果を残さないといけないんだ。が、しかし、良いじゃないか連対率十割。それに桜花賞と皐月賞、やっとクラシックだ、こうして結果を残せばマジシャンの評価も上がるぞ」
「一〇番人気を掲示板に持ってきたんだからな、じいちゃんと同じだぞ涼」と言って和尭は涼の肩をポンポンと叩いた。
「それに久弘がボヤいとったわ。なんでブライアンズハートが関西に来なかったんだってな」
中央競馬の重賞レースの関西関東の勝ち星差は圧倒的に関西——栗東が抜けている。
「関西に声がかかりそうなのは当たり前だ。今は関西の方が環境が良いからな。じいちゃんの時の関東は強かったんだが……」
今はなき関東・神代和尭厩舎はダービー馬を計六頭出した名門厩舎であった。
ちなみに、和尭の息子で三兄弟の父久弘の栗東・神代厩舎にダービー馬は出ていない。
「ところで、母さんは?」
「梓さんなら婆さんと一緒に買い出しだ。涼が帰ると聞いたらご馳走を作るんだと」
「ふーん」
「潤は連れて来なくて良かったのか?」
「あいつ、休み返上で働いてるし」
潤は関東(美浦)の神代厩舎を復活させるために日夜努力している。
「あまり根を詰めないようにと言うんだぞ」
「うん」
じじと孫は仲良く煎餅を齧りながら談笑した。
「和さん、坊ちゃん、テレビ局の方が表にいらしてるんですが……」
文じいが居間に入ってくるや、じじ孫の団欒中に申し訳なさそうに言った。
「テレビ局? どこの奴だ? 何用だ?」
「アイドル番組プロデューサーで、次の企画にアイドルホースに跨る天才騎手というものをやりたいんだそうで」
和尭は持っていた湯のみをダンッと置いてキッと文じいの方を見た。
「一回そういうものを許せば直ぐにこうだ。涼、出る必要はないぞ! お前はやることが山ほどあるのだからな。文さん、追い返しといてくれ」
「はいな」
涼は煎餅をバリっとかじって、和尭に問いただした。
「じいちゃん、いいの?」
「いいんだよ。テレビばかりに出て本業を疎かにすると、それこそ天才の名が泣くぞ」
昼になり、梓と祖母・珠樹が帰ってきて、豪勢な昼食が振る舞われた。
「涼、咲良ちゃんから聞いた?」
「んー? 何を?」
「皐月賞のお祝いよ」
「あー……うん」
天皇賞のことですっかり忘れていた。
そのことを察した珠樹は、孫息子を労わろうとじじの昔話をする。
「爺さんだって盾をとるのに一〇年かかったんだよ。涼はもう三回目を目指してるんでしょう? 凄いことだよ」
無性に恥ずかしくなってきた涼は髪をかきむしりながら言う。
「あーもうっ! ばあちゃんもじいちゃんもおれを甘やかしすぎだよ! 甘やかすと碌な人間にならないだろ?!」
「だって、ねえ、我が一族の二人目の出世頭だよ? 大事にしないとねえ」
「おばあちゃんの言う通りよ、涼。褒められてる時は素直に褒められなさい」
「うー……納得いかねえ」
母自慢の手作りパスタ……ペペロンチーノを口に入れる。
鷹の爪がピリッと辛い。
次に祖母自慢の漬物類。キュウリの浅漬けにらっきょう漬け、沢庵等々、涼が自立するために伝授された神代家秘伝の漬物料理だ。
三兄弟は母と祖母、そして使用人からそれぞれ料理を教え込まれた。
母からは洋食を、祖母からは和食を。
そして使用人からは競馬従事人としての栄養価の高い料理を叩き込まれた。
故に涼は家庭レベルが高いのだ。
「それにしても、気になるわね。テレビの企画」
「梓さん、それは禁句だよ」
先ほど家の玄関先までやってきていたテレビ局員のことを使用人から聞いた母は、ふとそれを口に出したが和尭によって遮られた。
「だって前回は咲良ちゃんのいる劇団虹の彼方と共演でしたよ? それが縁で虹の彼方の公演チケットをタダでもらったんですよ?」
「あれ、タダだったの……。てっきりお金払って買った物かと」
「涼が咲良ちゃんと幼馴染で良かったわあ」
母は皐月賞と同日に公演された舞台に行ってきたらしい。
ああ、だから咲良を通して皐月賞の激励を送ったのか、と納得する涼であった。
割とミーハー気質である母は、有名楽団のコンサートに足を運んだり、出来たばかりの劇場のこけら落としに行ったりと、忙しない。
競馬場には、これらの予定が土日と丸かぶりしているため最近は行っていないとか。
最後に行ったのはスティルインラブの秋華賞だとか。馬券はスティルの単勝一点だったらしい。
母の推し馬というか、父と出会ってから好きになった馬は、史上初の牝馬三冠メジロラモーヌだそうだ。
「ところで涼、お前もう二十五だからそろそろ、いろんな話があってもいいと思うがどうだ?」
「ええ……」
「よく言うよ。爺さんが私と一緒になったのは三十過ぎの癖にねえ」
和尭が孫を心配するように言ったが、祖母珠樹がケチをつける。
涼は呆れたが、ふと思いつく。
「三十過ぎって、つまり伝説の二冠レースの年?」
「そうだ。菊花賞を手土産に結婚したんだぞ。あの時ほどダービーを獲っていればと思ったことか」
和尭は皐月賞一〇番人気の馬を優勝に持ってきて、ダービーは逃せども菊花賞で二冠達成した経歴は前述した通り。ちなみに菊花賞でも人気は下の方だったという。
「あの年は過酷なクラシック戦線だったな。戦後初の三冠馬シンザンを超えろという文句が有名なのは知っているだろう。躍起になってたなあ」
「知ってる。じいちゃんの二冠の年のダービーほど過酷なレースは無いって有名だよ」
「そうだそうだ。あのレース後に骨折したり屈腱炎になった馬が多かったのも、あのダービー馬が打倒カゼキリで当時のレコードペースで飛ばしてたからに思えるな」
和尭の二冠馬はカゼキリという名前だ。
「あのレース、カゼキリは力及ばずブービーだったんだが、今思えばあのペースについて行かなくて良かったな」
人気もそれ程なかったしと付け足す。
カゼキリは菊花賞後有馬記念を走り、優勝している。最初から最後まで鞍上神代和尭でG1勝利数は三つだった。内二つがクラシックレースで、一つがグランプリだ。
「テレビでお前の皐月賞を見たが、最初から最後までかかっているんだか、折り合っているんだか分からん走りだったな」
「ハート、行きたいんだけど行ったらダメだって自分で考えてるんだと思う。先生も言ってたけど落ち着いた賢い馬で、騎手の下手さも分かってると思う」
「馬なりだったか?」
「うん。追ってないよ。それで三頭もつれ込んだんだと思う」
実際のところ叩き合っていたのはローゼンリッターとナギサボーイだけだったということだ。
「じゃあブライアンズハートに信用されていない今、これから自分がどうすればいいか分かるな?」
「……ハートに追いつく。ハートに認められる騎手になる」
「ん。分かればよろしい」
涼は夕食まで実家にいてその日のうちにマンションに帰ってきた。
明日からまた調教の日々だ。
次のG1レースはNHKマイルCだが、涼は予定がない。
土日にレースがあることはあるが、重賞レースの予定は無かった。
弟の応援でもしてやるかと、弟の騎乗馬を新聞やネットニュースで調べた。
〈ロードカナロア産駒の秘蔵っ仔ミスタードドンパ、鞍上に神代望を迎えてNHKマイル準備万端。ダービーも視野〉
「マイルかあ……そういやおれマイルの重賞獲ったこと無かったな」
所属の藤村厩舎は広い範囲で重賞を制している厩舎なのだが、どう言う訳か涼に短距離やマイルの騎乗依頼が来ない。
中長距離の重賞にはこぞって呼ばれるのだが、2000m未満はさっぱりだった。
例外として1600mのクラシックレース桜花賞は重賞デビュー時から皆勤なのだが。
「まさか、おれにも距離適性があったりしてなあ……」
古馬の神代から更にステイヤー乗りの神代ということか。
「いやいや、おれだって幅広く勝ちたいし」と心の中で己にツッコミを入れる。
そんな時、部屋の固定電話のベルが鳴り響く。
ディスプレイには、厩舎、と出ていた。
「はい、涼です。藤村先生? どうしました?」
『もしもし? 涼くん? やっと繋がった、急で悪いんだけど再来週のヴィクトリアマイルに出てくれないかな? 空いているジョッキーが君しかいなくて」
「ヴィクトリアマイル? 確か先生の担当馬で出走予定なのは……四歳牝馬のレディブラックですよね。本来の騎手って吉川尊(きっかわたける)先輩でしたっけ? どうかしました?」
『昨日、尊くんが二週間騎乗停止くらっちゃって、君しかいないんだ』
ヴィクトリアマイルはその名の通り牝馬の1600のマイルレースだ。
「ぼくで良いんですか?」
『もう一度言うけど、君しか予定が空いている騎手がいないんだ』
「はい、分かりました。明日、一番に行きます」
藤村師の歓喜の声を聞いて電話を切る。
「ふう……マイルのことを考えていたらこうだ。どう言う巡り合わせだ」
そうして翌日。早朝の美浦トレセン。
「吉川先輩、どうして騎乗停止なんかに」
厩務作業をしていた吉川のところへ寄っていって、それとなく話を聞く。
「斜行して、馬にぶつかり、落馬事故。おっとあまりの虚しさに一句詠んでしまった」
(反省してるのかな、この人)
「まあとにかく、神代、レディブラックのことは頼んだ」
「任されました。それにしても吉川先輩が斜行なんて珍しいですね。藤村厩舎で一、二を争う綺麗な乗り方をする人なのに」
「彼女は二歳の頃からじゃじゃ馬だからね。何を考えているのか分からないと言うかなんと言うか……」
「そういえばおれレディブラックに乗ったことないですね」
調教でも乗った記憶がない。
そもそもどう言う馬なのか知らなかった。
「ミスプロ系のインブリード」
「ああ、もう。よく芝で走ってくれますね」
「走るぞー。すんごい走る」
吉川は冗談めかすように涼を脅かした。
「あ、ほら馬房から出てきたな」
厩舎の方を振り向いてみたら、青鹿毛の流星が美しい馬が調教へと出てきた。
助手の潤が調教のため騎乗するようだ。
「潤くん、坂路は一杯で頼むよ」
「はい先生」
藤村師と潤が軽くやり取りをして、馬を美浦トレセンの坂路へ連れて行った。
レディブラックは颯爽と坂路を駆け上る。
一部始終を見ていた涼と吉川は、「これはビクトリアMイケるぞ」と思っていた。
「で、なんですけど、先輩は来週のNHKマイルCには出ない予定だったんですか?」
「ああ。幸いそのレースには出ない」
次の土日と、そのまた次の土日の全レースに出られない吉川に替わって藤村厩舎の手が空いている者と他厩舎の手隙の者を集めてなんとか、その日を迎えられる準備が整った。
そして日曜日、東京競馬場のG1レース「NHKマイルカップ」がやってきた。
涼は客席からレースの行方を見守ることにした。
馬券は望の騎乗馬単勝一点張りだ。
変則二冠をかけてダービーを目指しているらしいミスタードドンパはパドックで見た限り、出来が良さそうであった。
五月に入ってにわかに日本ダービーの噂もされ始め、このレースも前哨戦として注目を集めていた。
ある意味、涼の敵情視察である。
(おいあれ、神代兄じゃねえか?)
(え、まじ? うわ本当だ。さっきレース出てただろ。何しに来てんだよ)
(弟の応援だろ? それか偵察とか? どちらにせよ暇だなあ)
(今日はもう空きなのか)
何やらチクチクと言葉が背中に突き刺さっている気がする。
関東のG1のファンファーレが鳴り響き、そんな声もかき消されるほど場内の熱気が高まる。
ガシャッとゲートが開く。
(聞きしに勝るスタートだな)
ドドンパの名に違わずスタートが良い。
先行策か、馬番六番のミスタードドンパと八番の牝馬セントエルモノヒが並んで先頭に位置取る。
セントエルモノヒはマーガレットステークス一着馬だ。
馬体重は今日の時点で四八〇キロ。牡馬顔負けだ。
「なんと言うか、何年か振りかの女傑誕生を見ているみたいだ」
そうこうしているうちに馬群は4コーナーを曲がりラスト直線へ。
依然先頭はミスタードドンパとセントエルモノヒ。抜きつ抜かれつの大接戦だ。
後ろは来ない。
二頭並んでゴールイン。
一、二着が当然写真判定となった。
場内がざわめく。
涼はミスタードドンパの単勝馬券を握りしめ、固唾を呑んで見守っていた。
ターフビジョンにゴール時の写真が映された。
ミスタードドンパがハナ差で差し切っている。
同時に掲示板の着順に馬番が点灯されていく。
場内がドッと沸いた。
ミスタードドンパ、NHKマイルカップ優勝、ダービーへの足がかり。そんな文言が今、ネットのニュース速報で報じられているところだろう。
ちなみに涼はミスタードドンパの単勝に一万円賭けていた。最終的なオッズはドドンパの一番人気2・0倍だったらしい。
「あのスピードと馬体併せても垂れない根性は凄いな。東京2400でこれが出来るかってところだな」
配当二万円を貰い帰路につく涼は、ダービーに向けての対策を考えていた。
ブライアンズハートは中段に位置どり最後に追い込むレースを自分の型としている。
今回のミスタードドンパのように先行されてそのままゴールされたら、ハートの末脚で届くかどうか分からなかった。
しかし単純に置き換えられない。今回はマイルレースである。
ダービーは中距離2400であるから、ミスタードドンパのスタミナが持たなければ十分にハートにも勝ち負け出来る要素がある。
帰路途中の夕方、マンション近くの河川敷でのことだった。
咲良が所謂ボイストレーニングを行なっていた。
彼女はダービーで君が代を独唱する。
そのためのトレーニングのようだった。
涼がいることに気がついていない。
涼はしばらく彼女を眺めていた。
「あ、あ、あ、え、い、う、え、お、あ、お、か、け、き、く、け、こ、か、こ」
一音一音が河川敷を越えて向こう岸にまで届いているようだった。
声が透き通っている。
そういえば、過去舞台女優乃至舞台歌手がダービーで君が代を独唱したことがあっただろうか。
オペラ歌手ならいくつか前例がある。
「あたしに涙拭かせて……泣きたい時には泣きましょう……」
これは咲良が好きな歌手の歌だ。
初めて咲良の歌唱を耳にする。
今、聞いているのは自分だけ。
まるで自分だけに用意されたコンサートのようだった。
「みんな手をつないで、生きて行こう……」
歌い終わり、ふうと息を吐く咲良に涼は背後からこう言った。
「ブラーヴァ。流石だな」
「え? きゃっ! りょ、涼くん?!」
心臓が飛び跳ねたのか、手で胸元を抑える咲良。
「いつから聞いてたんですか?」
「ボイトレの辺りから」
顔が真っ赤になってうつむいてしまった。
「声くらいかけてください……」
「ごめん」
しばらく沈黙が続く。
そのうち二人とも耐えきれなくなったのか、同じタイミングで笑い出した。
「およそ十万人の観衆の前でこれじゃダメだぜ?」
「ふふっ、そっちこそ十万人の前で下手騎乗ですね」
マジシャンズナイトの天皇賞がよぎるが、あれはもう過ぎた事だ。
「そういえば、望くんのNHKマイルどうでした?」
「見事優勝、ダービー万端」
「良かった。これでダービーで兄弟対決ですね」
過去、望との兄弟対決や父との親子対決が謳われたことがあったが、競馬の祭典東京優駿日本ダービーでの直接対決は一度もない。
初めてのことだ。
おそらく、望——というかミスタードドンパの池川厩舎は、ドドンパをダービーに出してくる。
騎手は今日と同じく望だろう。
涼もこのままいくとダービー出走馬——ブライアンズハートに騎乗できるだろう。
本当に、何もなければ……。
「深刻な顔しないでくださいよ。私も心配になっちゃいますから」
「そんな真顔だった?」
「それはもう」
「縁起でもないな」
「そうですね」
お互い笑いながらのやりとりをする。
「そうだ、おれ来週のヴィクトリアマイルの騎乗依頼が来たんだ。ダービー前の試しで水曜日に壮行会やろうぜ。潤が担当してる馬だから、潤も呼んでさあ」
「そうですね! 料理、考えておきますね」
「おれのはくれぐれも調整料理で。今回斤量きついからな」
五五キロの斤量なので、今現在だとギリギリになる。鞍などの重さを除けば、五〇切るかどうかだろうか。
///
翌日、毎度のことであるが月曜日は定休日である。
絶賛やる事がない涼。
手元には、スマートフォン。
暇が高じて筋トレをやりながらスマートフォンのゲームをプレイしていた。
その時、ゲームが強制中断されて着信が入る。
登録していない電話番号からだったが、この番号には覚えがあった。
良いところで遮られた恨みを隠して電話に出る。
「はい、神代」
『おーう、涼、半年ぶりだな。畑中だ』
大東京芸能事務所の社長・畑中一樹からだった。
「社長さん直々に電話だなんて、何かのオファーですか?」
『おうよ。何日か前テレビ局の奴をお前の実家に送ったんだが返答が芳しくなくてな。俺が直接お前に連絡することになった』
祖父が追い返した奴か、と記憶の引き出しを開ける。
『「レジェンドホースと再会」っつう企画なんだが、興味無いか?』
よくあるジョッキーがかつての騎乗馬に会いに行く企画だと説明される。
「あるないで言ったらありますけど……」
はて、自分はレジェンドホースとやらに乗っていただろうかと首を捻る。
『なに馬鹿言ってんだ。シンザフラッシュだよ!』
涼の様子を感じ取った畑中は間髪入れずに対象馬を言う。
「フラッシュですか。おれも会いたいですけど、収録はいつなんですか?」
『五月の最終金曜日だ』
日にちを聞いて、涼は申し訳なさそうに断りの言を伝える。
「すみません。その日は朝からダービーの打ち合わせで午後から調整ルーム入りなので丸一日無理です。せめて春競馬が終わってからになりませんか? おれの一存なんか通らないって分かってますけど」
電話の向こうで畑中が頭を抱えているのがわかる。
溜飲混じりで畑中はあやまりを入れてきた。
『そうだったな、今年はダービーだったんだよな。俺も忘れてたすまん。この企画は延期にしておく。そうだな……八月あたりになったらまた電話する』
「はい、わかりました」
『涼、頑張れよ』
「はい」
『それからうちの事務所にも偶には顔だしてくれ。「虹の奴ら」が会いたがってるからな』
「時間が空きましたら、お邪魔させていただきます。はい、失礼します」
電話を切る。
大東京芸能事務所の社長とは、騎手学校在学中、ジョッキーの卵特集と言う企画でよくしてもらった過去がある。
まだ若手だったのちの虹の彼方メンバーがプレゼンターだった。
当時はまだ「虹の彼方」と言う名前をもらっていない、結成前だったのだろう。
涼は虹の彼方について一家言あるがここでは省略させてもらう。
「さてとっ」そう言ってまたスマートフォンのゲームをしながら筋トレを始めるのであった。
しばらくするとまた着信が入る。
今度は「望」と表示されていた。
何事だと素早くでる。
『兄さん! 大変だよ! 父さんが倒れたんだ!』
「はああ!? 望、一体何があったんだ?」
向こうは相当慌てているようだった。
『分からないよ!! 今、救急車で運ばれたんらしいだけど、意識がないらしいんだよ!』
「らしいって、どう言うことだよ? 一緒じゃなかったのか?」
『うん、僕は休みだったんだけど、父さんは馬房の様子を見てくるってメールをくれたんだ……それっきりで』
「とりあえず落ち着け。じいちゃん達には電話したか?」
『してない……兄さんの名前が履歴の一番上だったから、つい一番初めに兄さんに……』
「だったらすぐこの電話を切って実家につなげろ。俺への連絡はメールでいいから、現状を逐一じいちゃん達に伝えるんだ。潤には俺から言っておく。それじゃあな」
電話を切ると、涼は急いで外出の準備をした。
現在時刻は昼前である。
美浦トレセンで休日返上厩務作業をしていたらしい潤に連絡を取り、後で落ち合う事となった。
「関西……飛行機? 新幹線? えーと……いや待て待てそんなすぐ券取れないぞ」
「涼、落ち着け。美浦出る前から慌てたってしょうがないだろ?」
潤は偶に、双子兄のことを名前で呼ぶ。
それは急を要する時や、一大事の時、そして涼と対等でなければいけない時だ。
「それに藤村先生の息子さんが成田まで送ってくれるそうだから、飛行機で行こう。圏央道ならすぐだ」
「あ、ああ」
藤村師の息子も競馬従事者だ。
その人の車を待って、双子は成田空港へ向かう。
成田に到着すると、真っ先に国内線のチケットを取りに行った。
うまい具合に、昼すぎ一番の関西行きの便で二人分の空席がでたらしい。
それをすかさずとって、発着ロビーへとんでいく。
搭乗したらすぐに離陸した。
涼はトレーニング服のまま出てきた。潤に至っては作業服のままである。
端から見れば、あのコンビは何者だ状態だ。
伊丹に到着してすぐに滋賀県栗東市行きの電車路線を探す。
「涼、東海道本線が栗東通ってるぞ」
「本当だ。よし東海道で行こう」
大阪モノレールと阪急宝塚線を乗り継いで東海道本線に乗り換える。
飛行機で一時間ばかし、陸路で二時間少々で栗東市にたどり着いた。
一三時過ぎに美浦を発ってもう一六時過ぎだ。
「で、どこの病院だって?」
潤が問う。
「え? あ、望から聞いてなかった!!」
「おい!!!」
潤が盛大にツッコむ。
その時、二人のスマートフォンが同時に振動する。
「望からメールだ」
「俺も」
メールのTO欄には二人の名前が並んでいたので、どうやら一斉送信したようだった。
なので内容は同じはずだ。
「滋賀県病院の集中治療室前にいます、と」
「駅から三〇分!? まじか」
「タクシー使おう。一応、二万円が財布に入ってる」
この時ほど心底望に感謝しとことはなかった。
何せ、この二万円はNHKマイルの配当金だからだ。
病院に着くと、受付に飛び込み集中治療室の場所を聞く。
が、まず本人確認を促された。
「神代久弘の子供です。神代涼です」
「同じく神代潤です」
そう言って身分証明書を提示する。
受付の者達が少し色めき立った。
(神代ってあの神代さん!? 目の前の人って無冠の天才の神代兄ジョッキー?)
受付の後ろでそのような声が聞こえる。
流石トレセンのある街の病院だと感心した二人だった。
落ち着かない受付を制するようにバックから上司らしき人物が現れ、集中治療室の場所を二人に教えた。
集中治療室の前まで来ると、そこにはすでに一家が勢ぞろいしていた。
代表して和尭が双子を労う。
「二人とも美浦から遥々すまんな。久弘のバカは馬房で馬に蹴られおったらしい。心底バカだ。休日出勤までして調教師が蹴られるなんて笑い話にもならんぞ」
「それで、容態は?」
「内臓損傷、肋骨数本。意識が戻らないそうよ」
明らかに顔色が悪い母が、医者から聞いたことをそのまま言った。
「後ろから蹴られたの? まさかそんな誰でも分かる所にいないよな」
「横からだそうだ」
「どちらにせよ迂闊だなあ」
椅子に座って項垂れる一家。
その時、集中治療室から医師が出てきた。
母が駆け寄って、現状を聞く。
「重傷でしたが危機は脱しました。明日には意識が戻るでしょう。ただ痛くて暴れるかもしれませんから注意してください」
一先ず一家は安堵する。
あたりはすっかり夜の闇であった。
和尭が三兄弟に家に帰れと言った。
「お前達は明日から仕事だろう。久弘のことはじいちゃん達に任せて、自分の職務を全うしなさい」
///
翌火曜日、美浦トレセン。
涼と潤はレディブラックの併せ調教騎乗をこなしていた。
和尭の言うように、父親のことは家族に任せて、自分は自分のやるべきことをやる。
藤村師が心配そうに二人を見やるが、なるしかならない状況下、何も言うことができなかった。
そんな心配事を抱えて、水曜日には幼馴染三人で壮行会、そして次の日曜日、つまりヴィクトリアマイルの日になった。
東京競馬場。
涼はこの日は三本騎乗する。
その三本目——メインレース第十一レースがG1ヴィクトリアマイルだ。
で、前二本は三歳未勝利レースと特別レースだが、このレースは結局掲示板に入るのみだった未勝利と二馬身で圧倒勝利した特別と言うレース内容であった。
ヴィクトリアマイル出走馬がパドックにいた時のことである。
「りょ……いや、アニキ、気にするなと言うのはどだい無理な話かもしれないが、このレース、父さんの厩舎の馬が一頭出ている。当たり前だが調教師本人は来ていない。変に意識して足元をすくわれたらそれこそ、アニキにレディを任せた吉川さんが浮かばれない。それを頭に入れて臨んでくれ」
「ああ、大丈夫。仕事は仕事だろ?」
そう言って、涼は出陣していった。
ヴィクトリアマイルの本馬場入場。
優美な誘導馬に導かれて全一六頭の牝馬がターフに現れる。
今回フルゲートに至らなかったのは、最注目馬で大本命馬、G1を三勝している去年のエリ女優勝馬カワノツバサと、一昨年の二歳女王で秋華賞馬であるレディブラックが顔を揃えたため、このレースを回避する馬が続出したのだ。
レディブラック、一枠二番。つまり内枠。
芝は良、一週間快晴が続いたのがどう出るか。
気温は五月にしては高く、六月末並の予報が出ていた。
ほとんどの馬が本馬場入場時でも発汗していた。
そんな中、カワノツバサだけはケロリとしていた。
レディブラックはチャカついている。これが徒となり人気を落としていた。
チャカつくとは、簡単に言うと落ち着いていない様子のことだ。
秋華賞以来のレースでしかも初の古馬との対決に相当緊張しているのだろう。
去年、カワノツバサはヴィクトリアマイルを走っている。
経験している分状況が分かっているのだろう。
レディブラックはゲート入りを少々嫌がった。
(落ち着いて、落ち着いて)
ガシャーンっとゲートが開く。
「おわっ!」
あまりの好スタートに少し仰け反ってしまった。
しかしすぐに持ち直し、折り合う。
なんて素直な仔だと感心した。
位置取りは前方やや後ろの内側。
先輩古馬に包まれる形になってしまった。
さて、大本命馬カワノツバサはと言うと、涼からは見えない。おそらく中段か後方にいるのだろう。
こうなると足音が怖い。
第四コーナーを回り各馬直線に入る。
ここでまず突き出たのは六歳のベテラン馬
ディエムザサン。レディブラックの外目に陣取っていた馬だ。
それに釣られてか内のレイニーが抜け出そうとする。
レディブラックはと言うと、涼が追い始めて一発二発とムチを入れ、まるでターボエンジンでも付いているかのようにラスト200で並び立ちまとめて抜き去って一番にゴール板を駆け抜けて見せた。
ゴールの瞬間、涼は後方を見た。
いわゆる「おいでおいで」なのだが、三馬身は空いていただろうか。そう目測した。三馬身後方には必死に追い上げを見せるカワノツバサの姿が見えた。
確信した。いやするしかなかった。
久しぶりの古馬G1を獲ったかもしれないのだ。
場内放送が聞こえる。
『このレースは審議です。確定までお手元の馬券はそのままお持ちください』
一瞬で自分の熱が引いたような感覚がした。
一着入線したのでウイニングランはする。
ホームストレッチへ到着した時に再び場内放送が流れる。
『カワノツバサ号のホームストレッチでの進路妨害について審議されましたが、妨害しておりカワノツバサ号は三位降着です』
掲示板に確定着順が表示される。
一番上には馬番二番。着差は三馬身。
着順指定エリアへ馬をやり、後検量ののち涼はインタビューに応じた。
「見事ヴィクトリアマイルを制し今年これで三つ目のG1タイトルを獲りました。神代涼ジョッキーです。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「今まで我慢が続く古馬戦線でしたが、ようやくのタイトルです。いかがですか?」
「えーと、グランドスラム以来ですから……そうですね、やっとかと言う気持ちです。厩舎の先輩の代役だったんですけれど、期待に応えることができてよかったです」
「レディブラックは見事なスタートで完璧な位置取りでした。横綱相撲と言えるべきレースについてどう思われますか?」
「思わず戸惑ったんですけれど、すぐに折り合えて、直線も予想外に伸びました。秋華賞からの故障明けでどう走るかと思いましたが
正直彼女に謝りたいですね」
「そうですか、ありがとうございました。神代涼ジョッキーでした」
///
「そういえば、父さんの厩舎の馬って何位だったの?」
帰りがけに涼が潤に聞いた。
「六位だな。発汗も凄かったしパドックでも入れ込んでたみたいだし。しかしアニキの異能力「軸馬馬券絡み」は凄い効力だな」
冗談交じりに潤は涼を褒める。
「異能力じゃないぜ? 最早、体質。って言うか馬券絡みだけじゃなくて今回は優勝だ。貴重だよ? おれの騎乗馬のG1単勝馬券」
「今年に入って三枚目か。三枚とも初優勝っていう。我が兄ながら、今年の運回り異常じゃないか? お参り行け」
「お礼参り?」
「いつか巡り巡って、180度変わらないようにな……まじで」
潤の心配を余所に、涼は来週に来たる優駿牝馬オークスへ向けて力を入れるのだった。
オークスの次はいよいよ東京優駿日本ダービーだ。
ブライアンズハートの併せの時計は段々と良いものになっていき、古馬とも張り合える
レベルに近づいていた。
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