第8話二人の絆
「はあ、やっと美浦に戻ってきた……」
「じゃあ僕は南棟だからこれで。オツカレサマ」
羽田空港では、涼目当ての競馬ファン(大体女性)が大挙してやってきていた。今回の偉業に、競馬界は活気づいたようで、この秋の凱旋門賞挑戦馬が新たに発表された。
宝塚記念馬マジシャンズナイト――フォア賞から凱旋門へ。
マジシャンズナイトはクラブ馬である。クラブの方針で春までにG1を勝ったら秋以降はフランスや香港に遠征の案が持ち上がる。
彼の血統は、父系ダンシングブレーヴ――コマンダーインチーフの流れを汲んでいる良血である。走らせるなら欧州だろう。実際、毎年馬場が重い傾向にある宝塚記念を先行して勝っている。
「よっこいしょっと……はあ今日はエレベーター使おう……」
エレベーターで自分の部屋の階まで上がる。部屋の玄関前まで来た時である。
隣の部屋の玄関が勢いよく開いて、人影が涼の名前を大声で呼んだ。
「涼くん!!! 待ってましたよ!! 良かったあ、私今日仕事休みで」
「さ、咲良あ?」
ガバッと咲良は恥も外聞もなく涼に抱きついた。涼は受け止めようとするが少し仰け反る。
ドサドサっと荷物が床に散乱した。
「私、この間の深夜、舞台の楽日で疲れて寝ちゃってたんですよ。録画してたんですけど、朝起きたら涼くんとブライアンズハートのニュースやってて、勝ったんだあ! って感激しちゃって……」
涼を抱きしめながら次々とまくし立てる咲良。
「痛いっ、痛い、咲良っ、落ち着いて」
涼の言葉に改めて心を落ち着けて、二人は向き直る。涼のどこか精神的に成長したような顔つきに咲良はポッと顔が火照った。目のやり場がない。涼は怪訝な顔をする。
「おれが勝ったんじゃなくて、勝ったのはあくまでハートだからな」
「わ……分かってますよ。でも涼くんだって……」
「咲良の言いたいことも分かるけど、競馬の主役は競走馬たちだよ」
「ところで……」と涼が付け足す。
「いつまでこうやってくっついてるんだよ」
普通に会話しているが、この二人玄関先で、主に咲良が涼に引っ付いている。怪しい場面だ。咲良は慌てて離れる。
「えっと……えっと、実家から何かありました?」
突拍子もなく変なことを咲良は聞いた。
「どっちの実家よ。おれの実家は何も言ってきてないぞ、"まだな"」
「流石に私の実家から涼くんに何かあるわけないじゃないですか……」
まだ落ち着かない咲良の様子を感じ取ったのか、涼は意味深なことを言う。
「流真との約束果たしたし、流真とは何かあるかもなあ」
「え、流と何か約束したんですか?」
咲良のために勝て、そう言った約束をしたのは言わないでおこうと涼は心の中で思った。
「まあ、ね」
「ずるいですよ。男だけで、しかも私に内緒なんて」
「そんなことより、外暑いから、おれ部屋に入るからな」
「あ、ちょっ、待ってください」
涼について咲良が部屋に入っていく。八月になったばかりの空は、ギラギラと照っていて蝉の鳴き声も併せてとても暑苦しい。早く部屋に入ってエアコンをつけたいところだと涼は呟く。
「はい、これ」
「なんですか?」
涼がとある写真を懐から出し、咲良に渡した。
「お土産、悩んだけどこれが一番良いと思って」
「あっ、これ……キングジョージのゴール写真……」
アスコット競馬場から引き揚げる際に、現地の記者から戴いたらしいこの写真の被写体は、グリーンベルトを背景にとてもよく映えていて、流石プロが撮影した一枚だと、受け取った当時涼は思った。勿論、被写体とは涼込みでの事ではなくてブライアンズハート単体での事であると涼は考えている。
写真に写るブライアンズハートは、海外遠征用にハートフルの勝負服と同じ模様のメンコを着用していて、逆に騎手である涼と一体感が生まれている。
写真は外ラチから撮られているため、内ラチ側に並びかけているロビンソンはハートに被って見えない。
「良く映ってますね。格好いいです」
「だろー、ハート格好いいよなあ」
「え?」
「へ?」
お互い顔を見合わせる。咲良はまた顔を真っ赤にして俯いてしまった。何か察した涼は面倒くさそうに取り繕う。
「競馬は馬が主役だからな」
「そう……ですよね。普通に考えて」
咲良がもじもじしている中、涼はスーツケースをひっくり返し、着替えと勝負服を洗濯機に持っていき放り込む。馬具を片付け、和尭のステッキを口取り写真などが並べられているサイドボードに飾った。
もう一枚のキングジョージの写真、アーサーとの握手の場面を切り取られた写真を新しく買った写真立てに入れて飾る。目をつぶればフラッシュバックするあの時の場面。アーサー・アディントン騎手は立派な英国紳士だった。次に会う日までに更に強くならねばと涼は胸に誓う。
「はあ、スーツ姿も疲れるねえ」
ロンドンを発った時から、リクルートスーツ姿である。
普段着慣れない服故に、羽田空港に降り立った瞬間からマスコミにカメラを向けられた。当たり前である、服がどうこうより、日本産馬および日本調教馬として初めてKG6&QESを勝利したのだ。そりゃあカメラを向けられても仕方ないだろう。クラシックディスタンス(2400m)の欧州G1レースを勝つのは歴史的なことで、日本ではサンクルー大賞を勝ったエルコンドルパサーしかいない。続く凱旋門賞ではさらなる期待を向けられることだ。
部屋着に着替えて、荷物の整理をするためリビングへ向かう。
リビングでは勝手に上がり込んでいる咲良が、件のゴール写真にスマートフォンのカメラを向けていた。
「何してんの」
「携帯に入れようと思いまして」
「ずいぶんとアナログなやり方だな」
そんな咲良を放っておいて、涼は荷物の山を崩していく。勝負服その他を洗っている洗濯機が回り続ける。
「あの、テレビの企画のこと覚えてますか?」
「シンザフラッシュ再会企画だろ? 明日、大東京芸能事務所に行こうと思ったんだけど」
明日は水曜日で午前中は追い切りの仕事がある。午後からフリーなため、ようやっと畑中社長のもとへ赴けるのだ。
「今月収録だもんな。おれもフラッシュに会えるのを楽しみにしてるよ」
「私、プレゼンターに決まってからシンザフラッシュについて勉強したんですよ!!」
作業の手を止め、咲良の方に顔を向けた。
「ほう。オンファイア産駒という情報以外にどんなことを学んだ?」
「皆勤したクラシック三戦の着順とかですね。皐月賞六着、日本ダービー三着、菊花賞九着。ダービーが馬券になってますね。当時の人気は七番人気でした。中々穴人気があったみたいです」
勉強した結果の情報がまとまっているスマートフォンのメモ帳を開いて確認する。
「これを考えると、シンザフラッシュは府中2400が得意だったんですね。メイクデビューも東京だったみたいですし」
シンザフラッシュが菊花賞の次に走ったジャパンカップは日本ダービーと同じ府中2400というコースだ。当時の人気は、初古馬挑戦の無冠馬でしかも鞍上はテン乗りの新人ジョッキーということで二桁人気だったそうだ。穴どころか大穴だった。
「その時の一番人気馬に跨がっていたのが、今年ロビンソンに乗っているアーサー・アディントン騎手です。当騎手は短期免許で日本に来日中でした」
アーサー・アディントン――英国の若きリーディングジョッキー。純然たる紳士で、英国が誇るスーパースター。新人時代はウイリアム・バートン厩舎専属だったが、現在は関係を維持しつつフリーで世界中を飛び回っている。
今年のドバイワールドカップの優勝騎手。その他、ドバイミーティング、ロイヤルアスコット開催、香港国際競争、凱旋門賞ウィークエンド、ブリーダーズカップ等々――名のある国際招待レースの常連である。そんなアーサー・アディントンが唯一獲れていないのが日本競馬の国際招待レース・ジャパンカップである。一番人気を戴いたレースで涼に大まくりされ負けるほど、当レースに縁が無い。
「それで、もっと調べたら私分かっちゃったんですよ。涼くんも府中コースに適正があるって!」
「そら、関東騎手なんだから当たり前じゃないか?」
「関東どうこうではなくて、成績が主要五場所で府中がずば抜けてるんです。もちろん今年に入るまで府中開催のクラシックは獲れてませんから、それを抜いて平場で考えると、中山の平場勝率が一割弱、中京も一割ちょっと、阪神と京都は無いようなもの、府中平場は驚異の三割です」
「ちなみに府中開催の重賞は調べた?」
涼自身も知らないところである。
「シンザフラッシュだけでジャパンカップ二回、秋の天皇賞一回。その他、G2毎日王冠三回、共同通信杯二回、東スポ2歳S五回、東京新聞杯一回……数えるだけでこんなところです。一八歳のデビューから現在に至るまで毎年府中の重賞を勝ってますよ」
「気持ち悪い戦績だな」
「そして遂に今年、最高峰日本ダービーを優勝してダービージョッキーの仲間入りです」
「府中だけならアーサー・アディントン騎手に比肩しますよ」と咲良が言う。
次いでヴィクトリアマイルと安田記念の制覇だ。これはもう府中王と言ってもいいレベルだ。
「あんまり公表したくないデータだな。これじゃ、おれ関東に引きこもってるジョッキーじゃないか」
「シンザフラッシュの天皇賞春連覇と宝塚記念はどうだったんですか?」
天皇賞・春は京都競馬場3200、宝塚記念は阪神競馬場2200――宝塚はともかく天皇賞春は展開のアヤで二回も勝てるほど甘くないのではないだろうか。
「そうですね……シンザフラッシュの関西馬場での戦績は阪神大賞典、天皇賞春、宝塚記念だけです。こんな大舞台、新人ジョッキーが乗り続けるなんて、20年前じゃあるまいし、あり得ないですよね。要するに、涼くんは大舞台属性持ちなんですよ。関西で勝ち鞍少なくても大舞台で勝つからインパクトあって、関西でも勝ってるイメージは持たれているみたいです」
しかし、いかんせん美浦で大事にされているジョッキー故か、関西の平場では姿を見せない。そもそも、本当に大事にされていたら、新人時代から関西遠征、それも大レースに放り込むだろうか。これは藤村師初め美浦の厩舎が涼を見込んで早い内から鍛えていたと言えるだろう。
それに応えた涼も今や海外G1ジョッキーだ。
しかし涼にも弱みがある。それはシンザフラッシュ以降勝っていない、宝塚記念と有馬記念での勝負弱さだ。宝塚は関西なので先述のデータの通り掲示板すらままならない。中山開催の有馬記念は、年末、実質最後のG1レースで歴史あるグランプリレースという心臓がいくつあっても足りない超大舞台であるがゆえに、シンザフラッシュが勝った二〇一四年以降の戦績は(1-2-0-2)であり、まだサンプルが少ないがシンザフラッシュ以外はほぼ着外決着というデータが残っている。たちの悪いことに、手綱をとった馬の人気は二番人気や三番人気と馬券に絡まなければ競馬ファンから白目をむかれる程人気をしていた馬たちであった。
よって、シンザフラッシュを穴馬で勝たせた実績があるのに、涼に対する関西での評価は「シンザフラッシュに跨がっていただけ」ととられている有様である。
先頃の阪神開催の桜花賞の評価であるが、その後に騎乗停止をいただいてオークスに乗れなかったことを鑑みて、やはりここでも評価は地を這っていた。
神代一家アンチスレでの一コマである。
『結局のところブライアンズハートは誰が乗ってもここまで来たんじゃないかって思うんだが』
『栗東のジョッキーとかフリーのジョッキーだったら皐月賞も危なげなく勝ってただろうな』
『まあでも菊回避で海外に逃げたのは正解だわ。引きこもり長男苦手の京都でブライアンの無様な姿見ないで済むからな。ブライアンだけは強くあってくれ』
散々な言われようである。
もっと言うと、京都開催・天皇賞春でマジシャンズナイトが二着したのが褒められる位なのだ。
最早、神代一家アンチスレというより涼個人のアンチスレ化していた。
望は普通に優秀であるし、調教師の卵として潤も普通に優秀であるからだ。
涼自身、新人時代は人気薄の馬を持ってくる騎手としてその手の方に重宝にされていた。人気する馬に乗せてもらえるようになってから評価が変わったのだ。関東では相変わらず人気ジョッキーで結果も伴っている。関東の重賞で神代涼の馬を馬券に絡めないのはおかしいと言えるほどだ。
が、関西に行くと、まず一番に消し、馬自身が強い場合はヒモ扱いだ。ヒモはヒモとして実際マジシャンズナイトは二着になっているので、相応の評価と言える。
「なんで関西馬場は駄目なんでしょうね」
「おれも知りたいよ。……普通に考えて、経験数と慣れの問題だと思うけど」
涼のスケジュールを管理する藤村師や潤が意図的に関西へ遠征させないのだ。
「フリーになれば関西に行けるのかな」
「フリーになりたいんですか?」
「ブライアンズハートが今年中に負けたら、来年フリーに移行しようと思い始めてる。思い始めてる段階だからな?」
「アディントン騎手に会って考えを改めたよ。上手くなるには東西問わず国籍問わず、いろんな馬に乗らなきゃいけないんだってな。先生に恩義はあるけど、恩を返すにはやっぱり出世しなきゃ駄目なんだ」荷物を整理し終えた涼は、冷蔵庫からスポーツドリンクを取りだしてテーブルにつき、一休みした。海外遠征で得たものがあったようだった。
いつになく真剣な涼の顔に、咲良は息をのむ。
「で、畑中社長は何か言ってたか?」
「え、えーと、これで再会企画番組の旨味が増すぞーって」
「社長らしいや」
「そういえば、涼くん。あの時の電話ってなんだったんですか?」
「あの時って……イギリスに行く前の? あれは、まあ、勝ったらお祝いしようぜって意味だったんだけど」
「留守録に入ってて、何だったのかなあって」
「安田記念のお祝いしたがってただろ? 今だと色々趣旨が変わりそうだけど」
何かして欲しいこととかあるのか、と涼が咲良に聞いた。
「今月、咲良の誕生日だろ?」
咲良は八月七日が誕生日である。子供の頃はよく夏休みに誕生日会をしたものだと思い返す。
「シンザフラッシュのプレゼンターになれただけで私は満足です。でももっと言うなら、久しぶりに涼くんとどこかに遊びに行きたいですね」
咲良も舞台公演という大仕事を終えた翌週である。何か涼と一緒に打ち上げのようなことをしたいのであった。
「うーん、そう言われても、おれとスケジュールが合う日なんてシンザフラッシュの番組の収録日前後位じゃないか? となると北海道遠征か」
なかなか慌ただしいと思う涼に咲良が一案を提示する。
「じゃあ明日の番組打ち合わせの後とかどうですか?」
明日の午後の打ち合わせを東京で終えた後、どこかで食事しようと言うのだ。東京でなら実家に呼ばれているからついでに実家でお祝いを、と涼は提案したが咲良は却下した。
「お父さんや流がうるさいから……」
と、咲良は言ったが、その後小声で「二人っきりが良い」と呟いた。勿論涼には聞こえないほどの小さい声で。
「まあいいや、どこかレストラン予約しておくよ」
「はいっ」
満面の笑みで応えて、そのまま自室に戻っていった咲良をみて、涼はある一つの懸念を思い出した。
それは、競馬学校を卒業して、記念すべきデビューレースの週に陣一から言われたことだった。涼はそれを今日まで一度も忘れたことがない。陣一と交した約束を守るため、いつかは突き放さなければならない。
///
「涼くん、デビューおめでとう」
「陣一おじさん、ありがとうございます! おれ頑張ります」
「うん、頑張ってくれよ? ところで一つ私と約束をしてはくれないだろうか。君を大人だと見込んでのことなんだが」
「なんですか?」
「実は、咲良の事なんだけれどね。君も薄々感付いているだろう? もし何時かあの子が君を選んだら、申し訳ないけれどその時は突き放してくれないかな? 君の仕事は命を伴う大事な仕事だ、もしもの時の覚悟があの子に備わっているとは思えないんだ」
「……」
「大学に行きながら芸能活動なんぞしているが、まだまだ子供の域を出ない。覚悟のないまま君を選んだら、君も咲良も、二人とも不幸なことになる。私は世の中の子供たちが不幸になるのを見ていられない質でね。あの子には普通の幸せを全うしてもらいたいんだよ。どうか君には分かってもらいたい」
「陣一さん……はい、分かりました。おれも身近な幼なじみが不幸になるのは耐えがたいですから」
「ありがとう。君の気持ちも聞かずにこんな約束を一方的に押しつけてしまって、申し訳ない。デビュー戦の馬券は君の乗る馬を買わせてもらうよ」
『――中山1R三歳未勝利、勝ったのはシンザベストワンス! 鞍上お見事! 今期新人ジョッキー最速勝利です!』
///
「――おい、身が入ってないぞ。大丈夫かよ」
「……っ潤……あ、いや、考え事してた」
「追い切り中に何考えてんだよ。今、涼が乗ってんのは藤村厩舎期待の二歳馬レットローズバロンだぞ? 壊したらどうする」
難しい顔をしながら流して騎乗していた涼を見て、心配したのか潤が駆け寄ってきて、檄を飛ばした。今週からレットローズバロンの担当が潤に変わった。
レットローズバロンは新馬を快勝し次走はOPレースに出走予定であった。
来週の番組である、小倉開催のフェニックス賞だ。
ちなみにその翌日は新潟開催のサマーマイルシリーズ関屋記念G3にスターサフィールで挑む予定だ。
「聞いたか? いや、一番に涼に話がいってなきゃおかしいんだが、コーセイスピリッツのアイビスSD――」
「ああ知ってるよ、千直逃げ切ったんだってな。これでスプリントは単独トップ、キーンランドカップに余裕を持って出馬。流石、短距離乗らせたら当代一の吉川先輩だよな」
「鞍上がアニキに戻ってキーンランドカップなんだが、札幌競馬場の戦績ってどうだったっけ?」
「当レースに限って言えば、新人の年に勝ってる。その次の年は連対してる。十分経験済み」
「札幌は前週にエンシンブレスで札幌記念があるから、どのみち――」そういえば、と、サマージョッキーのランキングが気になった。バロンを厩舎に戻した後、休憩中にスマートフォンでサマージョッキーの途中経過を見る。
「一位神代涼(美浦)、二位天照歩稀(栗東)、三位式豊一郎(栗東)…………マジか」
当たり前である。函館スプリントSで連対して、急遽乗り代わった七夕賞を優勝、函館記念優勝、中京記念二着――涼本人の予想を遥かに超える独走っぷりであった。当の本人は自覚が全くない。それでいて次のシリーズ対象レースに勝つ気でいるのだ。勝つ気でいるのは勝負師として当たり前なことなのだが、あまりに独走すると少し自重してしまうような気が湧いてくる。出る杭は何とやら――。いや、出過ぎたことで最早打たれないか。涼は考えるのをやめ、スマートフォンのブラウザを閉じた。調子に乗ると足下をすくわれるのだ。
「藍沢の言う通り、夏越したらリーディング一位になってしまうかもしれない……」
「やーっとシンザフラッシュに顔向けできるな!」
潤が戯けたように涼の背中をバシンバシンと叩いた。
「いやほんと、マジで」
本当に、今年の春から自分に波が来ているような感覚だ。そう言った場合大体大きいところを続けて勝てる。以前の波がシンザフラッシュでグランドスラムだった。さて、今度の波は欧州二冠か、と身震いした。
「流石に、そう都合良くはいかないよな……うん」
「――それで、話は変わるが、咲良と何か話したか?」
潤のいきなりの問いに涼は面食らう。
「ほんと、いきなり変わったな。何を聞き出したいのか分からないけど……誕生日をレストランで祝ってもらいたいらしい」
それを聞いた潤は心の中でガッツポーズをする。
「それも今日の夕方の話だ」
「うんうん。良い報告が待ち遠しいぜ」
潤の様子を察した涼は難しい顔をする。咲良と潤は結託しているのだろうか。
「いい加減進まないと、見ているこっちがヤキモキするんだよ」
「……お前の思ってるような結果にはならないと思うけど」
「何でだよ? 咲良の気持ち分かってんなら、早いとこケジメつけろよ」
「おれは、ある人と約束してるからな。それに、おれよりマトモな奴他にいるだろ、世界は広いんだからな」
「はあ? 何言ってんだよ。俺は昔っからお前ら二人見てんだぞ? 涼以外に誰が相手を務めるんだよ」
「そもそもおれじゃ駄目なんだ。おれはおれの道を歩く……同じ道に咲良はいない」
強く言葉を発する。その瞳には寸分の迷いもない。潤はそんな涼の顔を見て、お前の考えが分からないとばかりに目をそらす。
「そんな気持ちで今夜食事するのか?」
「ああ」
「馬鹿野郎……期待させておいてその態度じゃ咲良がかわいそうだ」
「しょうがないことなんだ。おれはケリをつけてる。咲良がいつか分かってくれれば……」
「身勝手な奴……」
潤がテーブルに置いてあるスポーツドリンクに手をつけぐいっと一気飲みする。涼は何も言わずに、次の追い切りのため高柳厩舎へ向かっていった。涼の後ろ姿を目で追って潤はため息を吐きただ一言「意気地なしめ」と呟いた。もちろん涼には聞こえていない。
美浦南馬場の高柳厩舎へやってきたのは、涼のもう一頭の有力二歳馬トゥザスターズの追い切りに乗る為だ。
トゥザスターズは新馬の後、函館二歳ステークスを使われていた。その週は涼がサマーシリーズで中京にいたため、当馬には乗っていない。当レースの結果はトゥザスターズの逃げ切り勝ち。キャリア一戦での重賞制覇となった。やはりここも涼の代役として保井廉騎手が乗った。保井騎手の立ち位置が若干明るみに出たレースとなった、とマスコミは騒いだ。一部では、保井が神代涼から奪い取ってでも乗り続けろと言われている。謙虚な保井は固辞し、自分が主戦を務める馬に心血を注ぐと言い切った。曰く「完璧な新馬戦をお手本に函館二歳Sを乗った。神代先輩が乗った新馬戦がなければ勝てなかったかも知れない。今後はお返しする」と。
トゥザスターズは、最近のし上がった牧場系一口馬主クラブ「スターナイトレーシング」の募集馬である。冠名は主に「スター」か「ナイト」を使う。マジシャンズナイトやハイウェイスター、スターサフィールがこのクラブの募集馬として有名である。スターと名が付く馬の共通項は、父馬が「シーザスターズ」ということだ。シーザスターズはケープクロスとアーバンシーの間に生まれた名馬で、現役時デビュー戦こそ負けたもののその後は最後まで一着を譲らなかった。勝ち鞍は2000ギニー、ダービーステークス、母子二代で凱旋門賞優勝するなど、勇名を欲しいままにしている。半兄にはリーディングサイアーで同じく英ダービー馬のガリレオがいる。
シーザスターズは二〇一〇年にアイルランドで種牡馬入りし、初年度からG1馬を出すなど活躍している。ちなみに父系をたどるとノーザンダンサーが出てくる。
スターナイトレーシングの募集馬はこういった種牡馬に日本から繁殖を送って種付けしているため必然、日本で走るには外国産馬=〇外扱いとなる。トゥザスターズも英国で種付けされ英国で生まれた馬だ。
種付けしてそのまま持って帰ってきて、日本で産ませるパターンもある。これはスターよりナイトの方が多い傾向だ。例外として、このクラブ唯一の父内国産馬がいる。コマンダーインチーフの孫産駒であるマジシャンズナイトだ。
マジシャンズナイトはダンシングブレーヴの系統で、やはり欧州由来の血統なのだ。毎年馬場が渋る傾向にある宝塚を逃げて勝つのだからその素質は十分だ。
話を戻そう、ただ日本競馬で〇外が走る事が出来るレースは、昔は少なかったが現代はクラシックを初め天皇賞など大レースにも出走出来るようになった。故に、〇外という言葉は形骸化している。同時に〇父という内国産種牡馬の扱いも良いものになってきた。昔から種牡馬を他国からの輸入に頼っていたものが、質の良い内国産種牡馬の産駒が走るようになった事が言えるだろう。
偏に、大種牡馬サンデーサイレンスの恩恵が大きい。彼の後継種牡馬たちは日本に根付いて内国産種牡馬の最先方として数々のG1馬を出している。
サンデーサイレンス自体は海外から輸入した種牡馬である。彼の登場でシンボリルドルフとトウカイテイオー親子やミスターシービー(トウショウボーイ系)、といった内国産種牡馬の先駆けたちが活躍馬を出せなくなってしまった面がある。サンデーサイレンスはスーパーサイアーとして日本の競走馬の歴史を文字通り塗り替えてしまったのだ。
そんな中、涼が主戦を務める、レットローズバロンはギンザグリングラス産駒で立派な内国産種牡馬の産駒。父系をたどると輸入種牡馬のパーソロンに行き着くが――。もう一頭のトゥザスターズが外国産馬、〇外として世界の血統を日本に持ってくるためにスターナイトレーシングが配合を決めた。スターナイトレーシングの真の意図はサンデーの血を持っていない馬を日本に持ってくる事である。牝馬にしろ牡馬にしろサンデーの血を近いところに持っていたら、それぞれ付けられない袋小路が起こる。それを防ぐためサンデー系に相性が良い馬を連れてきて行く末は繁殖入りと算段しているのだ。
シーザスターズはその橋頭堡と言うことになる。仔のトゥザスターズは血統で言えば牝系にミエスクという名牝がいる。更にストームキャットが掛け合わされていて十分の良血馬だ。アーバンシーにミエスクと来たらもう走らないと怒られるような血統である。
「高柳先生、やはり当面の目標は朝日杯FSですか?」
追い切りを終えて、戻ってきた涼に高柳師が労う。涼は気になっていたことを聞いた。
「そうだね。二戦目で重賞を勝てたから少し余裕があるんだ。勝てなかったら2~3戦使ってオープン馬にしないといけないから、朝日杯出走は厳しくなるだろうね。いやはや重賞勝てて良かった」
そうか、今年はあくまで2歳王者を目指しているのか、と逡巡する。見た目早熟には見えないのだが、このトゥザスターズ、地力がある。他の若駒より数段スタート地点が上だ。
正直な話、レットローズバロンとトゥザスターズ、どちらに乗りたいかと言うと、涼は本心はトゥザスターズだろう。レットローズバロンはオーナーの縁で乗るかも知れない、しかし路線が被ったら、涼は恐らくトゥザスターズを選ぶだろう。
「そういえば、涼くん、朝日杯勝った事あったっけ?」
少なくとも高柳師の管理馬での勝ちの経験は無い。
「それが実は、朝日杯……今まで一度も乗ってないんです。ホープフルは二回勝ってるんですけど……」
中山で試行されてたのは二〇一二年までであり、二〇一三年からは阪神開催となっている朝日杯フューチュリティステークスは、阪神芝1600mで行われる2歳王者決定戦である。今まで勝ち鞍どころか乗鞍も無かった。
対して中山で試行されるホープフルステークスは二〇一七年からG1に格上げされ、その二〇一七年と二〇一五年のレースを涼は勝っている。当レースは中山芝2000mという、皐月賞と同じ距離で行われるがあまりG1に格上げされた恩恵は無いようだ。その勝ち馬というのがブライアンズハートである。
ブライアンズハートはホープフルSを勝ちはしたものの、最優秀二歳牡馬を戴くことは無かった。ちなみにではあるが、その年の朝日杯馬はナギサボーイで、最優秀2歳牡馬受賞となった。しかも2歳G1を藤村厩舎が独り占めしたのだから、この世代はとにかくおかしい。
さて、この朝日杯FSを圧勝してクラシックに乗り込んだ馬といえば、ナリタブライアンであろう。なんという。
「君は本当に関東のコースの鬼だね。平場も重賞も関東だと無敵なんじゃないかな」
「褒めすぎです……。いい加減朝日杯勝ちたいですよ」
「ちなみに、まだ勝っていないG1はなんだい?」
「えーっと、フェブラリーS、高松宮記念、大阪杯、NHKマイルC、オークス、スプリンターズS、秋華賞、菊花賞、JBC諸々、エリザベス女王杯、マイルチャンピオンシップ、チャンピオンズC、朝日杯FS、阪神JF……ですかね」
まだまだ若手の部類である。がしかし、八大競走を菊とオークス残して他は勝っているというのは二五歳にしてはできすぎている。
「でも有馬と宝塚はフラッシュ以来勝ててないですから実質未勝利です。なんせ苦手意識がありますからね」
高柳師はカラカラっと笑って、冗談めいた涼の言に突っ込みを入れる。
「でも涼くん、今年はブライアンズハートが有馬で人気投票良いところに行きそうだよね」
「先生、宝塚が終わったばかりなんですよ? もう有馬記念の人気投票の話ですか」
「乗鞍、ありそうだね。美浦の誇りにかけてブライアンズハートを勝たせてあげてくれよ? 凱旋門もBCターフも――全部」
キングジョージでの勝利で、涼の評価は更に上がった。
――大舞台・国際招待レース・海外G1、どれも大きな要素で、堅いメンタルを持っていないとまともに乗ることも出来ない。それを涼はやってのけた。
「みんな、藤村厩舎には期待しているんだ。私も、美浦で一番の実績を誇る藤村厩舎で一時期助手をやっていたからね」
「え、高柳先生は藤村先生のところでも修業してたんですか? いつ頃ですか?」
「君が騎手になる5~6年位前だよ」
「高柳先生って結構お若いんですね」
追い切りのラップタイムを見ながら、淡々と何気ないことを言った。
「まあね。まだ四十路だし」
「30後半だったんですか……あれ? 騎手やってました?」
「やっていたよ。君たち兄弟のように勝てなかったけれどね」
「へえ」
会話が繋がらない。なんとも言えない空気が流れた。
何かを察した高柳師が身振り手振りで説明する。
「いやいや、君と望くんは化け物だよ?! G1に騎乗するには通算三十一勝が必要なのは知っているだろう? 君はデビュー年の桜花賞にG1初騎乗している、望くんに至っては大阪杯をG1初騎乗初勝利だ。3月初めにデビューしてたった一ヶ月で三十一勝したんだよ? 覚えていないのかい?!」
中央の開催は基本的に土日のみである。一日12Rやって二日で24R、それが4週あるから96R、約3分の1を涼の勝ちが占めている計算になる。
そういえば、デビュー直後の平場の連勝記録を望が持っていたっけ、と思い至る涼であった。
「たしかに、話題になったような……ならなかったような」
「神代の人間だからかオーナーさんが挙って騎乗依頼を出していたんだよ。普通はデビュー直後の騎手にそこまで騎乗依頼来ないからね。それに応える君たちも凄い。神代家凄いよ」
わかりやすく例えると、ドラフト1位新人の二世野球選手が開幕スタメンで一ヶ月間、毎試合猛打賞を取りまくるといったところだろうか。普通に考えて尋常では無い。
「ところでトゥザスターズの次走はどうするんですか?」
「そうだね、オープン入りしたし、三戦目は東スポ2歳ステークスかな」
東京の芝1800mのG3、二歳重賞だ。ここを勝ってクラシックに名乗りを上げる若馬も多い。京都で行われるマイルチャンピオンシップ前日の土曜の東京の重賞競走である。
「結構、間隔が空きますね」
「本当はサウジアラビアロイヤルCの予定でいたんだけど、君が十月七日の凱旋門賞に行くだろう、いや他の騎手でも良いんだけど、スターナイトのオーナーが是非にと」
「……ここまで期待されたら、乗らないわけにはいきませんね」
「頑張ろう、東スポ2歳を勝って朝日杯に乗り込もう。私も初めての二歳G1勝利をこのトゥザスターズで飾りたいからね」
高柳厩舎のエース馬は短距離番長で先頃の安田記念に出走したバーンマイハートである。六歳牡馬バーンマイハートが三歳で安田記念を制しスプリンターズSも勝利したのは先述した。
ちなみに今年の安田記念を終えた当馬は放牧に出され、秋のスプリンターズSを目標にしているそうだ。勿論鞍上は海老原兼次郎騎手だ。
故に高柳師はまだ二歳G1を勝利したことが無かった。
次期厩舎のエースになりそうなこのトゥザスターズで念願の二歳G1奪取に臨むのだ。
そうして調教を終えた涼は直ちに東京へ向かった。
行く先は大東京芸能事務所。東京都中央区に本社ビルがある大手芸能事務所だ。劇団虹の彼方の事務所も統括されて中に入っている。
約束の時間は十四時。涼は美浦から飛ばして、何とか時間前にたどり着いた。
中央区ともなれば銀座や築地、八重洲、日本橋など歴史趣深い街がある。
大東京芸能事務所の本社ビルは日本橋にあった。
十階建てのビルで、自社ビルである。
大東京芸能事務所は、基本的に、テレビタレント、テレビ俳優、映画俳優、舞台俳優、歌手、アニメおよび洋画吹き替えの声優等々が各部署で所属している。虹の彼方は大東京芸能事務所が六年前に結成させた比較的新しい舞台俳優部門のタレント集団である。経営は本部事務所が、舞台の運営や各種公演は子会社となっている(有)劇団虹の彼方が行っている。
「こんにちはー、神代ですけど……」
「神代様ですね。社長から聞き及んでいます。こちらへどうぞ」
涼はインフォメーションで受付嬢に案内され、ビルの二階、会議室へ通された。
会議室には、畑中一樹社長と、虹の彼方のプロデューサー春原一朗とプレゼンターの咲良が、そしてテレビ局のプロデューサーも臨席していた。
「おう、涼、久しぶりだな」
「社長、お久しぶりです。6~7年ぶりくらいですか? 前に会ったのが、おれが騎手学校の頃だから……」
「懐かしいな。虹の彼方立ち上げの頃だな。春原はまだ別担当だったか?」
畑中が思い出をかみしめるように呟いた。
話を振られた春原は、当時のことを思い出す。
「自分は、その頃は営業部係長でしたね。虹の彼方立ち上げと同時に舞台俳優課に転属してきました」
「まあ、昔話もほどほどにして、そろそろ始めないかい、畑中君?」
テレビ局プロデューサー「山田寬治(やまだかんじ)」が、タバコに火をつけながら長々昔話を展開しようとする畑中らに釘を刺した。山田プロデューサーの手元の灰皿には既に4~5本の吸い終わったタバコが転がっていた。
「君が天才・神代涼か。結構普通の人間だな」
「山田君よお、こいつは大物のオーラの欠片もねえ天才だぜ?」
「この青年があのシンザフラッシュに乗っていたなんてなあ。シンザフラッシュはどんな馬だったんだい? 騎手目線で聞かせてくれ」
突然の問いに涼は困惑するが、あの時、有馬を勝った時の記憶をたどる。
「素直な良い子です。一生懸命な面があって、馬体を併せると行きたがって入れ込んでしまうんです。特に、最後の有馬での追い込みはキツかったです。クライシスが大逃げで前残りしているんですけど、フラッシュは3角で勝手にスイッチ入ってしまって、まくり始めてしまうんです。最後の直線200mでクライシスに並びかけて、たたき合う時はもう一杯でした。でも根性あるんですよ、マッチレースして一回も抜かれなかったんですから。ぼくも目一杯追ってましたから、勝つ自信はあったんですけど……結果は、まあ……」
涼が唯一勝った有馬記念。キャリア三年目の快挙だった。
「成るほど成るほど。番組では、その有馬記念と、大穴で大まくりしたジャパンカップのVを流そうと思うんだ」
菊花賞を負けて臨んだジャパンカップ。周囲の意表をつく初G1勝利。
「特にジャパンカップはドラマ性がある。雑草血統がクラシックの敗戦を乗り切って、若き天才に導かれ戴冠――競馬は本当にドラマチックだね」
「ブラッドスポーツ、血の大河たる所以です。フラッシュの父とクライシスの父は全兄弟で、母は同じですからね。そしてぼくも、祖父より以前から続く家業みたいなものです。大昔から続く、終わりの無いドラマです」
「うーん、良いっ! その台詞、本番で言ってくれないか!!」
「は、はあ……」
「山田P、私はなにかありますか?」
終始聞く立場だった咲良がおずおずと挙手して発言する。
「咲良さんはねえ、シンザフラッシュの魅力を余すところなく視聴者に伝えて欲しいんだ。プレゼンターはいわば企画の導き手だからね。フラッシュのこと勉強したんだって? 期待しているよ」
要は、咲良に関しては、心配していないと言うことだ。
当たり前だ。この業界は咲良の方が長いのだから。いくら競馬企画だといっても涼はタレントではないのだ。
番組の打ち合わせは十七時頃まで続いた。結局、収録日は八月十四日となった。火曜日であるが、特別に追い切りの予定を空けられた。この週は小倉でサマースプリントの北九州記念、札幌でサマー2000の札幌記念が施行される。
涼の乗鞍は札幌記念でエンシンブレスだ。つまり北海道入りすると言うことだ。
土曜日も札幌の平場に乗るので、その週は北海道に詰めることとなっている。
山田プロデューサーはそこまで見越して収録日を十四日に持ってきた。
///
打ち合わせの帰途、咲良と涼は約束通り、咲良の誕生日プレゼントという名の食事に向かった。
涼が予約したレストランは、いわゆる、高級ホテルの一流レストランだった。
咲良が何故ここにしたのか聞くと、曰く、父さんが母さんと見合いしたのがこのレストランとのこと。母・梓から耳にたこができるほど何度も聞かされて、覚えてしまったのだという。ここしか知らないともいう。
何を勘違いしたのか、少し緊張する咲良を傍目に、涼はカウンターで予約表を見せる。十八時予約の神代様――。通された席は、東京の夜景が一望できる絶好の席であった。なおさら緊張する咲良。
「いやいや……東京のレストランで夕食なんて何年ぶりだろう。望が大阪杯初めて勝った時以来かな! あ、そうそう、ここフレンチのフルコースだから」
望が初めてG1勝利した時に家族、例のごとく父は欠席であるが、高級料亭の一室を借りて晩餐を開いたのが最後だ。
それ以外の祝い事は全て、実家で行われていた。今年のダービー優勝パーティーも然り。
「母さんは千葉の乗馬クラブを経営してる家の長女だったんだけど、美浦トレセンの調教師会の仲介で、ここで父さんとお見合いしたんだ。昔、母さんに父さんの第一印象聞いたら、何て言ったと思う? 優しいけど少し自分勝手に見えたってさ。母さん、見る目あるねえ」
料理を待つ間に他愛ない会話をする。そのほとんどが涼の独り言になってしまっている。
「父さんは偏屈で頑固だけど、まあ確かに昔は優しかったな。今は何考えてんのかさっぱり分からん」
咲良は心の中で思った。偏屈で頑固なのは涼も同じだと。もっと言うと、この一家の男衆はみんな頑固者だと。咲良を実の姉のように慕う望でさえ変に譲らないところがある。血は争えないのだなあとこの一家を見てつくづく思うのであった。
「望はよくあの偏屈親父と一緒にやってるよ。感心する。それでいて偏屈親父の管理馬で重賞を勝つんだから……」
咲良は、あっ、と思った。
これは、涼は、望に、弟に嫉妬している。長年付き合ってきた幼なじみの内心がこういう時はよく分かる。そうか、涼は父親に認めてもらいたいんだ。
構って欲しいんだ。そういうところは子供の頃のままだと、なんだかホッとする咲良。
子供の頃の涼は、今とは違って、人見知りでお父さん子だった。実際、父親と過ごしたのは正味四年ほどだ。父・久弘は望が生まれた翌年に勝手にアメリカへ研修へ行き、そのまま栗東で厩舎を開業した。なまじ父親と数年ふれあった所為か、父親の出奔の理由が分からず父恋しさに泣いたという。
そして時が経ち、涼は父親と正面から対決するために競馬界に足を踏み入れた。家族の主に母親が猛反対したらしいが、最後は祖父が説き伏せて当人を送り出したそうだ。
人見知りの長男。マイペースな次男。天衣無縫な三男。三者三様な三兄弟で咲良が一番最初に仲良くなったのは、意外にも次男の潤であった。
当時も今も変わらず、マイペースでやんちゃ坊主な潤は咲良にとって、太陽のような存在だった。咲良自身が箱入り娘なせいか、放任主義気味の神代の子供のそれも元気な次男坊は咲良と直ぐに仲良くなった。
その頃の涼と言えば、ナリタブライアンの急逝に悲しんだり、式豊一郎のダービー制覇に感動したりと、もうその頃から馬、馬、馬、であった。
では何故、当時あまり仲良くなかった涼のことを気になりだしたのかというと――。
あれは小学六年の時である。
世に無敗の三冠馬が誕生せんとするとき、齢十二の涼と咲良は学校で同じクラスで席が隣同士になった。最初は潤とクラスが離れたので落胆していた咲良だったが、ある日、ある出来事でそれ以降の運命が変わってしまうのである。
「おい、間寺、お前隣のクラスの神代潤が好きなんだってな! 神代んちって競馬やってんだってな? 幼なじみの間寺もじょーばできんだろ? やってみろよ」
「え、私、馬……乗れない……」
「うるせー、ばじこーえんが寄付? した”これ”に乗ってみろよ」
世田谷のとある小学校には、とある人物の計らいで馬事公苑から寄贈された木馬がある。それも本格的な木馬トレーニングマシンだ。
咲良は近所の伝で乗馬をやっているが体幹をそれほど鍛えていないので未だに上手く乗れていない。いつも落馬するのだ。
「早くやれよ!」
いわゆる、囃し立てのいじめである。
同級生のいじめっ子が咲良を囲んで罵声を浴びせている。まるで馬鹿にしたように、いじめっ子らは木馬トレーニングマシンに跨がり始める。
この木馬、実際に馬事公苑の騎手養成で使われていた物で、基礎トレーニングなしに乗りこなすのは難しい。
当然いじめっ子は無残にも落馬してしまった。
逆ギレ気味に木馬に蹴りを入れる。
「や、やめて、これは潤くんの家の大切な……」
咲良が止めに入るも、突き飛ばされてしまった。その時である。咲良を背後から抱き留めて、倒れないようにおさまえた人物がいた。
「――やめろ。おれのじいちゃんとパパが寄贈した大切な馬に勝手に乗るな。ぶっ飛ばすぞ」
「げっ! 涼っ! お前、先生に呼ばれてたんじゃねえのかよ!!」
「別に、おれはお前らと違って、”もはんてき”な児童だからなー」
人見知りではあるが、大好きな父や祖父が関わったこの木馬を傷つけられるのは腸が煮えくりかえるほど腹立たしいのだ。目が据わっている涼は、いじめっ子の一人で学年のガキ大将の首根っこを掴んで、自らの顔を寄せてこう言った。
「じいちゃんたちの大切な木馬を壊したらただじゃ済まさないぜ?」
そう言い放ち、涼はガキ大将を放り投げてしまった。
いじめっ子たちは涼の危ない雰囲気を感じ取ったのか一目散に逃げていった。
「ふんっ、バーカ。――さてさて、先生からもらった”これ”を木馬に付けるか」
空気の感じが一瞬で変わったのを咲良は感じ取った。
涼は手に持っていた手提げ鞄から、白い物体と紺色の布を取りだして、木馬に装着させた。
「神代……くん、これは?」
普段、涼と会話しない咲良はたどたどしく涼の名を呼ぶ。
「ん、間寺咲良……いたのか。これ、”りっとうとれせん”のいけがわ先生がこの学校に送った、ナリタブライアンのシャドーロールと有馬記念のゼッケンのレプリカ」
なんと言うことか、涼は終始咲良の存在を認識していなかった。
涼はお構いなしに、ナリタブライアン化させた木馬に乗る。
母の実家で乗馬を習っている涼は易々と乗りこなす。体幹がしっかりとしている証拠だ。
「うん、おれはナリタブライアンのジョッキーだ」
「神代くん、乗馬上手だね」
「当たり前、和尭じいちゃんに教わっているんだから」
家が隣同士で、幼なじみの関係なのだが、とことん人と関わらない涼は、咲良のことをフルネームで呼び、咲良も涼のことを神代くんと呼ぶ。
潤のことは気軽に潤くんと呼んでいるのだが、前々から涼の醸し出す雰囲気に慣れない咲良はずっと神代くんだ。
「なに? お前、今の奴らにいじめられてたの?」
ナリタブライアン(木馬)に気分上々モンキー乗りしながら、事の経緯を問う。
「う、うん」
涼の方といえば、咲良とは話はしないものの存在は認識しているので、馬と関わりがあれば普通に話しかけられる。そこまで重篤な人見知りではない。
というか、父が栗東に旅立って早数年が経っているので悲しんでいる暇も無く、いつか父に会うためにとジョッキーになる夢を得てから日々邁進しているのだ。そのおかげか、競馬関連であれば饒舌になれるし、乗馬クラブの仲間とも親しく話している。
「あいつらは馬に敬意をはらっていない。だから乗っても落ちるんだ」
怒気をはらんだ涼の言葉に咲良は聞き入る。
「”至誠をもって騎道作興すべし”……パパが昔言ってた。あいつらはその正反対のことをしている」
ゴール板を駆け抜けた瞬間だろうか、木馬のクビを目一杯押しながらそう言った。子供の騎乗とは思えないほど基本が成った騎乗姿に咲良は見惚れた。
「間寺咲良、お前は?」
「競馬、よく分からないし……。神代くんは分かるの?」
「少しだけ分かる。小さい頃みたこの馬の――子孫に乗ることがおれの夢であり、馬に対する敬意だ」
ナリタブライアン(木馬)のたてがみを撫でながら愛おしげに呟いた。
「ナリタブライアンの子孫に乗って、りっとうとれせんにいるパパに勝つ――そして三冠馬ジョッキーになる」
木馬から降りて、咲良に向き直る。咲良は改めて神代涼という少年を間近で見た。潤によく似ている。しかし、潤と違うところがある。
闘志。そんなものが見えた。
「……その夢、私にも手伝わせて……ください」
「手伝う?」
「夢に向かって真摯な神代くんを見て、神代くんの夢、私も見てみたくなりました。ディープインパクトとかしか知らないけど、競馬の騎手になった神代くんが久弘おじさまと対戦するのを見てみたいです」
約束です、そう言って咲良は小指を立てて差し出した。
いまいち理解できない涼は、分からないながらも、自分もまた小指を出し、指切りげんまんした。
「絶対、久弘おじさまと対決して三冠馬の騎手になって下さいね――涼くん!」
ナリタブライアンが結びつけた二人の夢と絆はここから始まったのだ。
「――咲良、おーい、咲良、聞いてた?」
「えっ、えーと、何ですか?」
「偏屈親父と菊花賞でかち合いたかったなって。でも良いんだ、父さんよりももっと上の世界で競馬ができる今が一番幸せだ。凱旋門、ナリタブライアンの子孫で挑戦できておれは幸せ者だよ」
「ふふっ、そうですね」
「さっ、フルコース、食べようぜ」
「はい」
「咲良」
ふと思い出したように、涼が真面目な顔になる。
「はい?」
「今年も誕生日おめでとう」
滅多に見ない、涼のニヘラとした子供の頃のままのかわいい笑顔。
「はい!」
赤い糸でぐるぐる巻きになっている二人でも、片方はそれを解きたくて、もう片方は自ら絡んでいって――。それでも交わらない二人は、同じ夢を見ている。たとえ、結ばれなくとも、たとえ糸が解けても、虹の向こうで見ているあの馬の夢のつづきを二人は見続ける。
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