第9話名手スナイパーキッド

 八月の最初の週末のメインレースを見事勝利し、美浦へ戻ってきた涼に驚きの来訪者が現れた。

(美浦で面倒を見てやってね)

 ああ、確かに、そんな約束をした。しかし、いきなり来られても――困るなあ、と涼。その人物とは。

「遥(はる)ちゃん、ほんといきなりだよね」

 八島遥乃。先月一九歳になったが、高卒の無職である。実家の牧場を手伝っていてもしょうがないからと放逐された遥乃は、以前より約束していた美浦トレセンで働くことになった。が、住むところが決まっていないため、現在、涼の部屋に居候している。

「お姉ちゃんが、早く行けって……」

「七ちゃん……。ともあれ、何故か分からんけど爺ちゃんの伝で藤村厩舎に厩務員で入ることが出来て良かったね」

「うん。大伯父様には感謝しなくちゃ。――それに」

「それに?」

「涼兄さんのお隣さんが、虹の彼方の間寺咲良さんの部屋だったなんて……凄い巡り合わせ……」

 遥乃は虹の彼方のファンであった。特に、咲良の舞台が好きで、咲良が今までに歌った曲のCDアルバムをほとんど所有しているほどだ。そのCDアルバム、遥乃が美浦にやってくるのと同時に引っ越し荷物として、神代マンションの涼の部屋に送り届けられた。カラーボックス一箱分のCDがドサッと、遥乃がやっかいになっている涼の部屋の一室に置かれている。

「ごめん、今日、あいつ仕事でね」

 こんなアクションが起これば直ちに涼の部屋に上がり込む咲良が、来ていないのは朝早くから仕事が入っていたためだ。よって、咲良と遥乃の邂逅はまだ無い。

 朝食を作りながら、他愛ない世間話をする。

「早いとこ、部屋を決めないとね。北棟だったら咲良の部屋の隣が空いてるよ。――おれの部屋の方じゃなくってね。ところで遥ちゃん、自活できる?」

「うん。大丈夫だと思う……」

「これからは、ここで暮らしていくんだし、それに、競馬村の朝は早いからね……まあそれは北海道の牧場も一緒か」

 火曜日、現在時刻は四時三十分。追い切りのため出勤する時間まであと少しだ。朝食をこしらえて、テーブルに着く。

 客人が多いこの部屋にはちゃんと客人用の食器が数枚用意されている。

 遥乃の分を取り分けて、渡す。

「涼兄さんって料理上手いんだね」

「まあね。母さんや婆ちゃんから鍛えられたから」

「……珠樹大伯母様の料理美味しいもんね」

 そう言って、涼が作ったスフレオムレツにフォークを入れて、一口。

「美味しい……」

「そうだろう? これね、白身を先にハンドミキサーで混ぜてから、黄身を入れるといいんだ」

「へええ。私も今度やってみよう……」

「さあて、食べ終わったら、トレセンに行こうか。先生とは面通ししてるから、あとは他のスタッフとだね」

 月曜日に、全休日にもかかわらず和尭の呼び出しで神代マンションに顔を出した藤村師は、電話伝いに和尭から遥乃の紹介を受けた。

 和尭の頼みとあっては断れない藤村直義は二つ返事で遥乃の受け入れを決めた。

「藤村先生って凄いよね……。今年の春のG1ほとんど勝っているんだもん」

「そうかな? えーと、ロサプリンセスの桜花賞・オークス、ブライアンズハートの皐月賞・日本ダービー、レディブラックのヴィクトリアマイル、ハイウェイスターの安田記念――桜花賞以外全部関東の馬場だね……」

 有力馬の関西遠征には積極的だが、勝ちが伴っていない。

 阪神1600を逃げて勝ったロサプリンセス、府中2400を先団を引っ張る形で勝った同馬――案外、ブライアンズハートよりロサプリンセスの方が強いのかも知れない。印象の問題であり、サイレンススズカのように大逃げで勝てばたとえG2、たとえ宝塚だけのG1勝利でも印象に残りやすい。

 極端だが最後方から大外一気で勝つとこれも印象に残る。ディープインパクトがそうだ。

 ブライアンズハートは好位差しの脚質であり、これはどちらかというとシンボリルドルフのような競馬の仕方だ。

 この春の藤村師の戦績のほとんどが涼の鞍上でのことだ。関東に勝ちが多いのもそれだからだろう。

 大阪杯にもマジシャンズナイトで乗っていたが結果は二着。

 天皇賞春はマジシャンズナイトで二着。

 いやそもそも、マジシャンズナイトは國村厩舎の馬であるから、藤村厩舎の戦績には入らない。

 現在、厩舎には超長距離をこなせる馬が在籍していない。

 過去、ステイヤーズSの勝利実績がある母父メジロマックイーン産駒がいたが、その馬も現在は乗馬として乗馬クラブにいるのみである。

「いやあ、なんだかなあ、おれはステイヤーの馬に乗るのが得意だけど、今年は本当に誰もいないなあ」

「やっぱりブライアンズハートは走れないの?」

「うん。……あ、いや、走ってみないと分からないって言った方がまだ良いかな。なにせ3000m級のレースは三歳馬は菊花賞以降じゃないと走れるレースが無いから」

 故に、三歳馬にとって菊花賞とは未知の領域との戦いと言われている。

 走るか走らないか、走ってみないと分からない。菊花賞以前に長距離のレースは無いのだから。特にクラシックディスタンスをこなした馬の扱いは難しい。

 2400のその先があるのか。有馬記念の距離2500までの馬なのか。

「夏の上がり馬がどうなるか分からないね。それによっておれも別の馬で菊花賞に出走できるかもしれないし。というかここまできたら同年同一騎手の牡馬クラシック完全制覇を果たしたいし」

 これが今までクラシック無冠の天才だった者の言うことである。成長ととるか調子に乗っているととるか。

 まあ、そんなことを話していて、トレセンに向かう頃には、5時となっていた。

 トレセンに到着してまず涼は、遥乃の紹介をスタッフたちにした。

 神代家の親戚が増えた。これでまた勝てるぞ。――等々。

 そんな遥乃に与えられて初めての仕事は、三歳牡馬でオープンに上がったばかりの「シンザヴレイブ」の厩務員担当だった。

 そして意外なことを涼は依頼される。

「涼くん、この馬、ステイゴールド産駒だよ。君が鞍上で菊を目指す。シンザのオーナーさんからの直々の依頼だ」

「ええっ!! 神山さんからの!?」

「久しぶりにシンザのお馬に乗るね。デビューもシンザだったし、君は神山オーナーに相当気に入られているよ」

「そ、そうですね……」

「期待されているんだ。それにこの馬、2400で距離が足りなかった馬だからね。行く末はライスシャワーのようなステイヤーに――」

 似ている。小さい漆黒の馬体、かつて鬼が宿りメジロマックイーンの天皇賞春三連覇を阻んだライスシャワーのようだ。

 ステイゴールド産駒の長距離実績はピカイチだ。三冠馬オルフェーヴルと二冠馬ゴールドシップがともに菊花賞を勝っている。そしてフェノーメノが天皇賞春を連覇している。

 そんな中現れたこのシンザヴレイブはオープン特別で逃げ先行10馬身差の圧勝劇を演出した。デビューが三月の三歳新馬と遅めのデビューであり、春のクラシックには間に合わなかった。しかしこの新馬戦負けはしたが未勝利三戦目で勝ち上がりそれから破竹の4連勝でオープン馬となって今に至る。晩成型なのだろうか。少なくとも早熟ではない。

「涼くん、関西の馬場をもう一度シンザの馬で湧かすんだ」

「――はい」

 涼の中にこみ上げてくるものがある。シンザフラッシュの天皇賞春――あれは圧勝だった。京都であげた二つのG1勝利がこのシンザフラッシュの天春連覇だ。その天皇賞春と同じ馬場の菊花賞で、もう一度、G1を――。

「凱旋門の後にブリーダーズカップもあって大変だとは思うけど、菊花賞は今年はイケると思うよ」

「そういえば、今年はBCどこでやるんですか?」

 アメリカで行われるブリーダーズカップの各レースは、毎年馬場は持ち回りで開催され、2017年の去年はカリフォルニア州のデルマー競馬場で開催された。

「今年は、チャーチルダウンズ競馬場だよ」

 チャーチルダウンズ競馬場はケンタッキー州ルイビルにある。

 あの米国最高峰のレース・ケンタッキーダービーが施行される競馬場だ。

「どのレースも楽しみです」

「余裕が出てきたね。フラッシュに乗っていた頃を見ているみたいだ」

「あの頃は無我夢中でしたよ。今は余裕ありまくりです。馬質が上がったからですかね」

「地味なところだけど、馬質が上がったのは君のスケジュールを管理している潤くんのおかげだよ。感謝しないとね」

「そうですね。潤にはいつも迷惑かけて……おれのせいでアイツ、オーナーさんに頭下げてますから」

 潤が各厩舎に掛け合い、そしてオーナーに掛け合い、涼の乗鞍を支えてきた。それに応えきれなかった時は、潤は低頭平身、謝罪の行脚をしていた。

 アニキがすることじゃない――そう言って一人で涼の失態の尻拭いをしてきた。

「先生、涼、……潤の姿がさっきから 見えないんですけど」

 遥乃と会話をしていた吉川尊が、藤村師と涼のもとへやってきた。

「吉川先輩、あーそういえば遥ちゃんの紹介の時もアイツいませんでしたね」

「多分、南厩舎に出向いていると思うけど。涼くんの天皇賞・秋を目指す馬を回してもらうためにね」

「そう言えば、乗鞍無いなあ……天秋」

 スケジュール手帳を開く。今年、古馬王道に乗っていたマジシャンズナイトを降ろされたので、現状、秋古馬王道に古馬の乗鞍が無い。

 ジャパンカップはブライアンズハートの先約があるので、ともかく、天皇賞秋は本当に何も無い。ハイウェイスターは海老原兼次郎騎手に戻るだろうし、レディブラックはエリザベス女王杯だろう。そもそも当馬の主戦は吉川尊騎手だ。

 秋華賞に出るロサプリンセスが中一週で天皇賞に出走するのは少々無茶だ。

 菊花賞出走予定のシンザヴレイブは連闘になるのでなおさら無茶だ。

「サマー2000挑戦中のエンシンブレスが一番有力かなあ。三歳牝馬に天秋かあ……」

「――それよりも何よりも、オークス目標で年初から走り詰め、夏休み無しで秋天挑戦は無謀だぞ」

 厩舎に入ってきた人物は――。

「潤。まあそうだろうね」

 厩舎周りを終えたらしい潤は、ドサッと座って、涼と藤村師に紙の束を渡した。

「難儀だった。アニキに秋天任せる代わりに今秋の古馬王道は全部担当してくれっていう条件が多くて……。ん? 君は……厩舎の新人……にしては時期がおかしいし」

 潤が遥乃を見て、どこかで見たようだと言った。そこへ涼が助け船を出す。

「八島遥乃ちゃんだよ。逸樹大叔父さんとこの」

「八島……ああー、北海道の。七海の妹か」

「やっぱり、お姉ちゃんの方が印象強いんだね……」

「まあまあ……。潤、遥ちゃんは今日からシンザヴレイブの厩務員として藤村厩舎で働くことになったんだ」

「あ、だから今朝早くに、引っ越し業者がマンションに来てたのか」

 納得した潤は次の疑問が浮かぶ。

「北棟って部屋空いてたっけ?」

「空いてるけど、契約はまだだから、おれの部屋に置いてる」

 潤は涼の返答にガクッとうなだれた。お前はバカかとばかりに呆れた目をする。

(お前なあ!! 咲良という者がありながら……)

(だから言ってんだろ、おれと咲良はそんな仲じゃない!)

(じゃあ、どんな仲なんだよ?!)

(夢のつづきを見る幼なじみ?)

 なおのこと潤は呆れた。呆れ尽くして、涼の肩をぽんと叩いて、「アニキはそう言う奴だったな」と言い藤村師と遥乃に向き直った。

「遥乃、厩務員は大変だけど、やることは北海道の牧場の厩舎でやったことと大体同じだ。まあ、わかるよな」

「潤兄さん……私頑張ります」

「そんな名前の馬いたね――ワタシガンバリマス」

「アニキは口を挟むな」

「へーい」

 つまらなさそうに返事をした後、涼は潤から受け取った紙の束を見る。天皇賞秋出走予定馬一覧・美浦――鞍上未定馬――記・神代潤。

 一覧の馬の特徴としたら、毎日王冠や京都大賞典をステップに天皇賞秋へ向かう馬が多かった。涼に突きつけられた条件は、今秋の古馬王道をこの一覧の中の馬で皆勤することだった。

 まず第一の問題――毎日王冠と京都大賞典は日本時間の十月七日・八日に施行されること。その日、涼は地球の裏側で凱旋門賞に出るため、この週末は丸々日本にいない。

 第二の問題、古馬王道の皆勤をブライアンズハート以外で――つまりジャパンカップ出走予定のブライアンズハートに乗ることが出来なくなる。ブライアンズハートは先約であるから、約束を反故には出来ない。

 そんなこんなで、一覧から絞られた馬は二頭だった。

 まず一頭、國村厩舎所属・四歳牡馬アドミラルエヴォル。

 もう一頭、天沢厩舎所属・四歳牡馬ザパイドパイパー。

 國村厩舎はこの秋、マジシャンズナイトで凱旋門賞に挑戦する。日本では、この春地味に天皇賞春に抽選で出走が叶ったアドミラルエヴォルが留守居をすることになったらしい。当馬は、年初の中山金杯を勝っている。重賞はそれだけで、先頃の天皇賞春も着外――シンガリであった。が、期待は相当なもので、天皇賞春は単に距離が長すぎたのが敗因だったとのこと。続く宝塚記念では同厩のマジシャンズナイトに一着を譲るも自身は三着。最後方から追い込んで、逃げるマジシャンを差せずの結果だった。上がり三ハロンはこの馬が一番であった。

 アドミラルエヴォルは、現在夏休み中で秋初戦は天皇賞ぶっつけ本番。その後はジャパンカップには行かずチャレンジCを目標にしているらしい。

 さて、もう一頭のザパイドパイパーであるが、この馬は怪我明けで札幌記念を復帰戦にする予定だという。札幌記念は涼はエンシンブレスに乗るので、このレースには当馬には乗らない。やはり天皇賞秋ぶっつけで挑むという。その後は香港国際競争のどれかに出走するらしい。ザパイドパイパーの勝ち鞍は一昨年の朝日杯FS。その後はクラシックレースに出るも惜敗続きで、遂に暮れのチャレンジカップ後に軽い屈腱炎を発症――放牧治療をすることに。現在帰厩し札幌記念に向けて調整を行っていると聞く。

「うーん……札幌記念でかち合うし、ザパイドパイパーは無いかな。潤、アドミラルエヴォルはどう?」

「良いんじゃないか。國村先生とは交流あるし、春天は一緒に走ってるし、ぴったりだと思うぜ? 話、通しとこうか?」

「いや、おれが直接乗せてくれって頼みに行くよ」

 座っていた椅子から立ち上がると、同じ北厩舎の國村厩舎へ行こうとした。その時、潤が待てと言い振り返る。

「遥乃も連れて行けよ。うちの新顔を紹介しないとな」

「遥ちゃん、行くかい?」

「あ、はいっ……」

 遥乃は潤に促され、涼について行った。

 涼たちが國村厩舎へ向かった後、潤は藍沢岬が今週騎乗する馬の調教に向かうのだった。一部始終を見ていた藤村師は、若者は良いねえと呟いて、自分の仕事に戻っていった。

「國村先生、単刀直入に言います。アドミラルエヴォルに乗せて下さい!」

 涼の懇願に國村師はきょとんとした。よもや涼が直々に頼みに来るとは思わなかったのだ。先のマジシャンズナイトの件があったのだからなおさらだ。

「え、マジシャンじゃなくてかい? エヴォル? あー潤君が回っていたのはこれか」

「天皇賞・秋、絶対に勝ちます」

「君が考える勝算は?」

「エヴォルがシンザフラッシュの全兄の産駒だからです」

 シンザフラッシュには半弟サトミクライシスがいるのは知っての通り、フラッシュには全兄もいて、名をシーファイアという。血統はフラッシュの全兄なのでフラッシュと全く同じ。生年は2008年、クラシック年は2011年、成績はステイヤーズS11年・12年連覇、ダイヤモンドS勝利のみの長距離馬。フラッシュが馬場を選ばず勝ち続けたことから、シーファイアも同様の資質があるだろう。2012年に全弟シンザフラッシュがジャパンカップを勝ち、翌月自身がステイヤーズSを連覇したことから、翌年種牡馬として千歳のスタリオンステーションにスタッドインすることになった。

 今年、ファーストクロップ(1世代目産駒)が古馬になる。その古馬重賞勝利一番手がアドミラルエヴォルだった。

 このアドミラルエヴォルであるが、クラシック年である去年の成績は、父親と同じステイヤーズSの勝利のみ。クラシックレースでは菊花賞が三着、春のレースは不参加とどうしようもないほどの晩成型ステイヤーだった。

 なぜこんなステイヤーが春の天皇賞でシンガリだったのかというと、近年スピード決着が多い天皇賞・春で、アドミラルエヴォルはスピードが備わっていなかったのである。良馬場の京都で上がり37秒台では駄目だろう。勝ち馬のシンザクロイツの上がりが34秒なのだから、引き離される一方である。

 では、と、涼が提案したのは、先行逃げ切り、つまり大逃げ戦法である。

 天皇賞・秋は東京競馬場芝2000m。思い出されるのは98年の天皇賞秋――。

 いや、それはエヴォルには関係のないことだろう。第一、あの馬は随一のスピード性能を持って他の馬を負かしていた。逃げているのではなく、他の馬があの馬のスピードに着いてこられなかったのだ。

「スピードで劣る馬を大逃げさせるというのかい?」

「どうせ、2000mは距離足りない馬なんですから、ゲートさえ出ればハナきって、1200mくらい大逃げして、残り800mでロングスパートに入るんです。血統的にロングスパートは出来る馬だと思っています。天皇賞春では差し追い込みでしたよね、試しに真逆の戦法をとってみませんか?」

 いつもより強気に言う。長距離馬のロングスパート戦には自身と腕が備わっている涼は幾分か勝算がある。本質ステイヤーのシンザフラッシュに乗って秋の天皇賞を勝っているのだから。

 シーファイア産駒アドミラルエヴォル、母は中距離の晩成馬、母父はノーザンダンサー系、牝系は遡ると日本土着の牝系に行き当たる。

 つまりパワー系の血統だ。近年流行しているスピード血統の真逆だ。

 しかし父系がサンデーサイレンスなので、アメリカ系のスピードは一応カバーしている。このシーファイアという種牡馬、母の良いところを引き出す種牡馬らしく、産駒のアドミラルエヴォルは晩成ステイヤーを色濃く受け継いでいる。

 他の産駒の特徴も母親譲りの傾向が強い。と言っても、年間30頭程しか種付けしていないらしく、サンプルが少ない。新種牡馬の年間200頭に比べたら、天と地ほどの差だが、ファーストクロップであるエヴォルが昨年末ステイヤーズSを勝ち、年初に中山金杯を勝った。昨年の二歳新馬も今年に入り順々に勝ち上がりが出てきて、未勝利に姿を見せなくなった。今年の二歳新馬は三世代目で、全弟のシンザフラッシュの産駒の一世代目と遂にかち合うことになる。昨年の二歳馬の勝ち上がり率は悪く、シーファイアは三歳新馬や三歳未勝利で多く勝ち上がっている。やはり晩成傾向なのだろう。ここも、シンザフラッシュの仕上がりの早さとは正反対だ。

 シンザフラッシュの種付け頭数は初年度220頭ほど、無事に血統登録して競走馬になったのは200頭だ。仕上がりと勝ち上がりが尋常ではなく、この夏の新馬戦はほとんどシンザフラッシュ産駒が持っていってしまった。

 シンザフラッシュ産駒同士もかち合うため、勝ち上がりもシンザフラッシュ、未勝利もシンザフラッシュがうごめいている。

 少数精鋭のシーファイアや他のリーディングサイアー級の種牡馬も息を巻いているだろう。

 おそらく、今年のフレッシュサイアーランクは持っていかれる。

「では、試しに、次の二歳新馬でうちの厩舎のシーファイア産駒に乗ってくれるかい? 血統は似たような晩成ステイヤーだ」

「分かりました、次っていつの番組ですか?」

「――週末の新潟開催」

「関屋記念の週ですか……いきなりですね」

「君、関屋記念でスターサフィールに乗るんだろう? 丁度良いじゃないか。新潟芝1600m――考えておくかい? それとも直ぐに返事をするかい?」

 涼は一寸考えて、顔を上げる。

「乗ります。乗って勝って、アドミラルエヴォルに乗ることが出来るのなら」

「そうか。今丁度、追い切りをやっているよ。まあ調整程度だけどね」

 CWコースを見る。黄金の馬体が馬なりで走っていた。涼は双眼鏡を借りてその馬を見る。尾花栗毛が美しい馬体とたてがみは、風に揺れて、まるでブロンドの少女の髪がなびいているようだ。

「んー……牝馬?」

 遠目から双眼鏡越しでもシンボルが見えない。

「そう、牝馬だよ。適正距離は2500から2900ってところかな。まあ一度も走っていないから、血統からの推測だけれど」

「下限2500の牝馬……恐ろしい……」

「脚質は先行向き。ささり癖やや有り。ゲート難」

「いやいや、じゃじゃ馬ですね……」

 とんでもない性質に涼は苦笑するしかない。國村師が脅かす。

「やめるかい?」

「とんでもない! 乗りますよ、乗りますけど……ええいっ! 勝ちます! 勝たせますとも!!」

「その意気だ。頑張ってね」

 それで、と、國村師は続ける。

「涼くんの親戚なんだって? 八島遥乃さん? 八島……新冠の八島ファームの子?」

 終始、國村師と涼のやりとりを見ていた遥乃はビクッとする。

「は、はいっ、八島ファームは私の実家です……。今度、藤村厩舎でお世話になることになりました」

「初めまして。いやあ、八島ファーム産の馬は良いよ! 特に八島育成牧場の馴致がまず良い!」

「お爺ちゃんが、一番力を入れているところですから……」

「だよねえ、みんな従順で良い仔たちだよ」

 國村師はそう言って、とある馬房を指さした。

「あそこの馬房、八島ファーム産の二歳馬だよ」

「あ――この仔、カワノダンサーの16……久しぶりだね」

「今は、カワノシンパシーだよ」

「カワノシンパシー……カワノのオーナーさんから良い名前を貰ったんだね」

「デビューは今年の11月頃。騎手はまだ未定」

 國村師と遥乃の会話に涼は、微笑みながら聞いている。そんな時、不意に國村師が涼に話を振る。

「どう? 涼くん乗ってくれる?」

「へあ?! えーと……クラシック狙いの馬はちょっと――」

 トゥザスターズが頭をよぎる。

「ま、クラシックの頃には廉が乗っていると思うけど」

 國村厩舎所属の保井廉は、クラシックの勝ち鞍はない。

「それはそれで、落ち込みます、保井には申し訳ないですけど」

 保井廉の話をしていたら、丁度、追い切りを終えた当人がやってきた。

「あれ? 涼さん、どうしたんですか? マジシャンの様子見ですか? 凱旋門は僕乗りませんけど」

「保井、紹介するよ、藤村厩舎(うち)の新しい厩務員で、おれの親戚――八島遥乃だ」

「ああ、新人の話ですか。よろしく、八島さん」

 保井は手にはめていたグローブをとり、握手を求める。遥乃は快くその手を取り握手を交す。

「よろしくお願いします……保井騎手のお噂はかねがね……。先の宝塚記念はおめでとうございます」

「いえいえ。涼さんの騎乗経験のおかげですよ」

「連続二着記録更新がかかっている中、テン乗りで勝たせたお前のが凄いと思うけど」

「それを言うなら、このサマーシリーズ、ほぼテンで無双している涼さんも大概ですよ」

 そういえば、と保井が続ける。

「関屋記念、僕も乗鞍あるんですよ。久しぶりに涼さんとレースできますね」

 保井は基本的に、ローカル周りや中央ダートの乗鞍が多い。

 たまに芝のレースに出ることもあるが、その勝率から地方交流G1や中央ダートG1に若手ながら呼ばれる。

「ダート帰りの馬とか?」

「そうですね。クロフネみたいですよね~芝もダートも行けるって」

 保井の言い方からして、本当にクロフネのような素質の馬に乗るのだろう、と考えて少し怖じ気づく涼。

「ちなみに誰の産駒?」

「シンボリクリスエスです」

「!!!!!! はあ……」

「涼さん、彼は彼で優秀ですよ」

 等と意味深な会話を繰り広げる涼と保井に、ついて行けない遥乃。

「ごめんごめん、遥ちゃん。ちょっとダービー今昔してただけだよ」

「とりあえず、涼さんには負けません! 週末が楽しみですね」

「そうだな。おっと追い切りの時間だ。それじゃ、國村先生、週末の番組、絶対勝ちますからね!」

「頑張れ神代涼!」

 そうして、いろいろな思いが混じり合った、新潟開催を迎えた。

 が、まず涼は前日土曜日に小倉開催のフェニックス賞に出なければいけない。レットローズバロンのオープン戦は容易いものだった。ゲートを軽快に出てスルスルと先頭に立つ。そして持ったままゴールイン。前走の出遅れ漫才レースが嘘のようなレースぶりだった。こうしてバロンは危なげなくオープンに昇級できたのだった。しかしこの時から、後に言われる「当代芦毛の怪物」の片鱗が見えていた。

 そして日曜。

 二鞍、二歳新馬と関屋記念。

 二歳新馬は、先の國村厩舎のシーファイア産駒牝馬、名前をゴールドファイア。名前に恥じぬきらびやかな尾花栗毛だ。

 関屋記念はスターサフィール。サクラバクシンオーの孫産駒の牡馬。

 新潟競馬場のコースは長い長い直線が有名である。今回涼が乗るレースが施行されるコースは、1600m外回りだ。向こう正面からスタートして、三角、四角を回ると、ホームストレッチ残り600mの直線だ。コースの最高地点は外回り四コーナーの辺り。3、4コーナーが登りと下り、東京と同じ左回りだ。

「さて、行きますか……」

 二歳新馬のパドック周回が終わり、止まれの号令がかかる。

 騎手は自分の騎乗馬に向かって行く。

 ゴールドファイアに跨がって、一番初めに思ったのが、この馬小さい――だった。

 小さい馬にステイヤーは多いが、この馬、今日の馬体重が420kg――デビュー戦を加味しても、小さい。

「シンザフラッシュは500kgレベルの馬体だったのになあ」

 一抹の不安を抱えながら、コースに降り立つ。

 返しは抜群――というか、返しに入ったとたん馬が変わったようにレースを待ち望んでいるようなそぶりを見せた。レースが好きなところはこの一族の特性だと思った。

 新潟のファンファーレを待って輪乗り――そしてゲートイン。馬番は五番。

 ゲートに続々と馬が入っていく。ちなみにこのレース、牝馬は二頭だけだ。

「さてと、精神一到……」

 体の軸を意識する。人馬一体、呼吸を合わせる。

 ガシャッとゲートが開いて、全馬8頭が一斉にスタートする。

(よし、好スタート!)

 ゲート難と言われたが、彼女の気分が良かったのかピカイチのスタートだ。

 押して押して、ハナを切る。涼にとってほぼ初めての大逃げ戦法。

 単純な逃げならロサプリンセスで経験済みだ。

 単騎の大逃げに場内は騒然とする。

(1000m……57秒くらいか?)

 折り合い十分。

 残り600m、長い直線。まだいける、そう思った。

 残り400m、ステッキを取りだして、一発。反応がない。

(ズブい……もう一発)

 残り300をきって後続が伸びてきた。やっとスイッチが入ったゴールドファイアは何故か内ラチに寄っていく。左ムチで何とか修正しようとする。更に内へ寄る。

 後続が来る。四馬身、三馬身、二馬身――。

 ラチ一杯になったところでゴール。涼は右を見た。半馬身後ろに一頭――どうやら凌いだようだったが。

『当レースは、最後の直線でゴールドファイア号が斜行したことについて審議いたします。お手持ちの勝ち馬投票券はそのままお持ち下さい』

 ///

「申し訳ございません……反省しています」

「神代にしては珍しいが、制裁は制裁だ。過怠金三万円処分を命じる」

 審議のランプが点りはしたものの、降着処分にはならず、騎手に制裁点が与えられることとなった。

「これで今年、今現在、17点か……自己ベスト更新……しゃれにならん。ああっもうっ、次! 次!」

 15時半、メインレース、本馬場入場。

『今日のメインレース、サマーマイル、新潟11R第53回関屋記念G3、本馬場入場です』

 気を取り直して、本日のメインに集中する。

 スターサフィールの返しは上々。涼は保井の騎乗馬をチラリと見た。

 シンボリクリスエスのダート帰り。ぱっと見て、確かに芝でも通用しそうな気がした。ゼッケンに刺繍されている馬名は、サトミストラテジー。

『スターサフィール、前走中京記念では惜しくも二着、しかし今回は万全だ! 鞍上はキングジョージを勝った神代涼!』

『さあ、各馬ゲートインが始まりました。一番人気スターサフィールすんなりゲート入り。全馬順調にゲート入りを進めております』

『さあ、全馬ゲートに入って係員が離れます、体制完了、53回関屋記念スタート!! サトミストラテジー良いスタート、ハナを切ります! 押して二番手にはカイトウランマ、三番手に二番人気グッデイグッバイ、スターサフィールはその後ろ! 好位に付けましたスターサフィール! 各馬第三コーナーを回ります、依然として先頭はサトミストラテジー! おおっと中団から黒の帽子レッツゴーファイト上がっていく!! 先団は第四コーナーを曲がる! 新潟の直線は長いぞ!! スターサフィールまだ4、5番手の位置! サトミストラテジー一杯になったか!?』

『ようやく、スターサフィール上がってきた!! 神代必死に追う! サフィール先頭に立つか!? ストラテジー粘る! 更に後方からグッデイグッバイも追い上げてくる! スターサフィール並ばない! 一気に抜き去って今ゴールインッ!! 中京記念の借りを返しましたスターサフィール! お見事です!!』

 涼はゴールの瞬間それと分かってガッツポーズをした。ムチをくるくると回してパフォーマンスをする。人気通りの勝利に競馬場は大変盛り上がった。

 その日の帰り際で國村師に鉢合わせた。ゴールドファイアの件だ。

「いや、悪かったね、あの仔は中々頑固でささり癖が大事なところで出てしまった。君が提示した戦法で勝てたから良かったものの……すまない、もし次走も乗る機会があるなら、それまでに対策を講じよう。とりあえず主戦はまだ決めないでおこう」

「あの、じゃじゃ馬乗りならうちの吉川先輩が向いていると思うんですが」

 吉川尊は癖馬レディブラックの主戦である。

「尊くんか……今度話してみよう。涼くんからの紹介だと言ってね」

「はい、よろしくお願いします」

「ああ、それと、君の大逃げ戦法がよく分かった。アドミラルエヴォルに乗ってもらおうと思う」

「! ありがとうございます! 天皇賞秋がんばります!」

 こうして二歳新馬と関屋記念が終わり、涼はシンザフラッシュのテレビ企画の収録のため、そして次の札幌開催のため北海道に飛んだ。

 全休日の月曜日、涼は新千歳で収録隊と待ち合わせしていた。翌日の収録に向けて、支局で最後の打ち合わせをするのだ。

「おーい! 神代くん!」

「山田プロデューサー、遥々どうも」

 山田Pの他、番組制作会社のプロデューサーも帯同していた。

「間寺さんはこの後の便で来る予定だよ」

「そうですか」

 涼とは初対面の制作会社Pが、涼に勝馬投票券のコピーを見せてきた。

「いやしかし、昨日の関屋記念は見事でしたね。神代兄を軸に買えば当たるっていうのは本当なんだ」

 制作会社のPこと、成田健治(なりたけんじ)プロデューサーが、興奮気味に話す。

 勝馬投票券は三連単の1頭軸買いだった。見事的中させている。

(昨日の配当って、割と順当だったような……)

 人気どころで収まったので三連単でも大した配当にはならなかったはずだ。

「でも、ぼくを軸にして買うってことは、割と初めてに近い人なんですか?」

 少し失礼な言い方をしてしまったかと、後悔するが、成田Pは努めて明るく。

「そうなんですよ! 今年の日本ダービーで初めて馬券が当たったんです! まあ馬単なんですけど」

「どちらの馬を?」

「ブライアンの相手にローゼンリッターです」

 悪気なく成田Pが言うが、山田Pが察して制止する。

「成田くん、ローゼンリッターは神代くんの父君の管理馬でブライアンズハートのライバル馬なんだよ? あまり神代くんの前でリッターの話をするのは……」

「ああっ、すみません」

「いいですよ。ローゼンリッターはいい馬ですからね。流石、父の馬です」

 真実だからしょうがない。ローゼンリッターは距離が伸びればブライアンズハートに逆転するのは分かっているのだから。

「離れて暮らしているのに仲が良いんだね。君と父君は」

 山田Pが口を滑らせてしまった。涼は苦笑して頷く。

「巷では、兄弟対決や親子対決なんて言われますけど、家族仲は本当はいいんですよ?」

 少なくとも、父母息子の関係は良いはずだ。祖父と父が関係が悪いだけで。

 久弘は素直でないだけなんだ——そう思っている涼と母・梓。面倒臭い性格は息子の涼に受け継がれている、かもしれない。

 和尭と久弘がかつて喧嘩別れしたことは世間には知れていない。知っているのは藤村師と池川師だけだ。

「でも凄いなあ、家族全員優秀な競馬一家なんて。僕は、親父が神代家のファンで、この企画をテレビ局の山田Pに持って行ったことを親父に話したら意地でも通せなんて言われて……本当に凄い家なんですね」

「あれ? 成田Pまだお若い?」

 何と無く聞いてみた涼。

「四大でたばかりのペーペーですよ。入った制作も小さい会社ですし。学生時代、サークルで映像制作の指揮をとったのを買われてプロデューサーという地位を戴いたんです」

 社会人2年目と聞く。となると、年齢は涼より下の可能性がある。

「成田Pのお父様がうちのファンだなんて……年代的に、祖父のファンですかね」

「僕はあまりピンとこないんですけど、親父が子供の頃、神代和尭さんが二冠馬に乗っていて、それがとてもカッコよかったのだとか」

 その二冠馬とはカゼキリのことだろう。

「でも、ブライアンに乗っている神代さんはとてもかっこいいです。血なんですか?」

「ぼくに聞かれても……。騎乗技術の基礎は祖父から教えてもらったものだからかな」

 子供の頃、母の実家で乗馬を嗜んでいた、その当時、調教師を勇退した祖父・和尭に基礎を教え込まれたのだから、今の神代三兄弟は英才教育の賜物といえよう。

 ちなみに、一番乗馬の才能があったというか、一番上手かったのは潤だ。——と言うのは競馬関係者の間で囁かれている噂である。実際は——やはり潤らしい。

 新千歳のロビーで咲良の到着を待ちながら、番組関係者と話を続ける。

 山田Pも成田Pも他のスタッフも皆競馬が好きだった。涼の口から聞ける競馬界の裏話は、例えば、吉川尊騎手は制裁点をもらうと反省の句を読み始めるとか、藍沢岬騎手は下手な男性騎手よりも上手いとか、ここでしか話せない話もあった。

 数時間後、羽田空港からの便が新千歳に到着した。

 番組関係者を涼は咲良を出迎える。

「すみません! 搭乗前にトラブルがあって遅れちゃいました」

 羽田で少々トラブルがあったようだったが、話に花が咲いた涼たちには知ったことではなかった。問題ないと言って、山田Pは空港に待たせているクルーのバンの運転手に電話をかけた。

「今来たよ。すぐ駐車場に行く。ああ、よろしく」

 さあ行こうか、と山田Pらは空港を後にした。

 翌日、千歳のスタリオンステーションに一行は現れた。

 機材の準備をしている裏で、咲良は涼に耳打ちする。

「やっぱりでかい繋養場ですね……」

 咲良の素直な感想に涼は答える。

「日本で一番じゃないかな? 有名な種牡馬はみんなここに繋養されてるから」

 二人が話をしていると、スタリオンステーションの場長がやって来て、クルーに諸々の説明をする。

 馬にやたらめったら触らないこと。大きな音を立てないこと。必要以外にカメラを回さないこと。フラッシュを焚かないこと。

 説明を受けて、クルーはいよいよ番組の収録準備を始めた。咲良は飴玉を一粒口に入れた。

「のど飴?」

 涼は不思議そうに聞く。

「お母さんが作ってくれた喉に効く特製のど飴です。舞台前はいつも舐めてるんですよ。涼くんもどうぞ」

「サンキュー。咲良の母さんの料理は美味しいからな。うん、飴玉もおいしい」

 涼の言に少し不服そうな咲良。どうしたのか涼は聞いた。

「いえ、別に……私だってできるのに……」

 小声で呟いたが涼は聞いていなかった。

「はい、それでは、撮影に入りたいと思います。打ち合わせ通り、咲良さんがシンザフラッシュの紹介をしながら神代さんとフラッシュが放牧されている放牧地に向かい、放牧地に着いたら神代さんがフラッシュを呼ぶ、といった感じで進めます。よろしくお願いします」

 こうして撮影は始まった。咲良と涼がスタリオンステーションの門を潜り、場長に案内されながら放牧地へ向かう。放牧地には柵ごとに色々な種馬が思い思いのことをしていた。

 そんな中、一番端の方の放牧地までたどり着いた時に、ある馬がいなないた。

「この声、フラッシュです。最後の有馬で聞いた時のままだ」

 カメラは端の放牧地へレンズを向ける。

 咲良と涼は、スタスタとそこへ向かった。人の気配を悟ったのか一頭の馬がゆっくりと涼たちの前へやって来た。

「フラッシュ、おれだよ、久しぶりだね」

 場長に確認を取り、涼はそっとシンザフラッシュの鼻筋を触った。大人しい馬だ。撮影隊はそう思った。

「今年の秋に凱旋門に行くよ。君と話して過去を清算して、君の弟が成し遂げられなかったことを成し遂げるよ……絶対に」

「フラッシュは、神代さんのことを覚えているんですか?」

 咲良が台本通り場長に話を振った。場長は優しい声色でこう言う。

「馬は関係を築いた人間のことを絶対に忘れないと言われています。三年間連れ添った相棒のことは忘れたりはしないでしょう」

「それが証拠に、神代涼さんの気配を感じた時に嘶きましたから」と場長が言う。

「現在シンザフラッシュはどのくらいお仕事をしているんですか?」

 咲良が場長に問う。

「そうですね、今年は満口でブックフルとさせていただきました。産駒の評判もよろしいようで」

「神代さん、あなたから見てシンザフラッシュの産駒はどう見えますか?」

 続いて涼に問う。

「はい、美浦にはフラッシュの産駒はあまりいないのですけれど、競馬場で見るとやはり雄大な馬体が光りますね。まだ二歳だというのに、凄いです」

 咲良が手元の資料をめくって話題を作る。

「実は来年から忙しくなるそうですね」

「はい、ありがたいことに、オーストラリアでシャトルをさせていただけることに相成りました」

 カメラの後ろにカンペが出る。シャトルの説明をして。咲良がすかさずフォローする。

「シャトルとは北半球と南半球の季節逆転を利用した種付けのことです。馬は基本的に春に発情期を迎えます、そのため北半球では3月から5月にかけて種付けを行います。普通なら6月でシーズン終了です。シャトル種牡馬はその後、南半球に出立してあちらの春シーズンにまた種付けを開始します。こうして一年間種付けをするのがシャトル種牡馬の役割です」

 ふう、と説明を終えて息を入れる咲良。涼は凄いですねと反応する。

「フラッシュの現役時代ぼくも夢を見ました。今度はフラッシュの産駒で夢の続きを見たいですね」

 そう言って、柵越しに隣り合わせのフラッシュを見つめる。フラッシュの瞳は澄んでいて、ただ一点、涼のみを見つめている。僕も頑張るから涼も頑張って、そう言っているような瞳だった。

「まずは、シンザフラッシュから力をいただいて、ブライアンズハートで凱旋門賞に行って来ます」

「今年も日本馬が数頭登録されていますが、勝算はありますか?」

 咲良が聞く。涼はやりにくそうに答えを紡ぎ出す。

「勝算はありません。競馬に絶対はありませんから。けれど、ぼく達は精一杯馬を導いてあげるのです」

「楽しみですね。将来的には、シンザフラッシュの産駒で海外に行けることを祈っています」

 この後、咲良がまとめとして色々と発表をしていた。

 涼は、シンザフラッシュに目をやる。他にも何かを伝えたいような目だ。この目を涼は覚えている。あのジャパンカップの時に見たフラッシュの目と同じだ。

 気にするな、飲まれるな、周囲は背景だ。

「ああ……そうか、フラッシュ、君はおれの呪いを解いてくれたんだ」

 フッと胸に落ちた。遠い北海道の地から、競馬場でシンザフラッシュの呪いに苦しんでいた涼を癒したのは他ならぬ当馬だったのだ。こうして再会して、確信した。

 自分を乗り越えて——フラッシュは嘶く。

 カメラは回し終わり、撮影は終わった。

「やさしいなあ、君は。やっぱり」

 撮影が終わったのを感じたのかシンザフラッシュは放牧地の奥の方へ駆けて行ってしまった。

(フラッシュの思っていることが分かった気がする——ありがとう)

撮影が終わり、撮影隊は新千歳近くのホテルで引き上げの準備を行っていた。

 特にやることがない咲良は、千歳まで帯同した涼と何かを話していた。

「へえ、私のファンっているんですね! 演技下手だからいないのかと思いました」

「そこまで遜ると嫌味に聞こえるな。おれのはとこが咲良の大ファンなんだよ。美浦で働くことになって嬉しがっていたけど、おれ的には憧れの芸能人が身近にいると色々とやだな」

 咲良のファンじゃないけどと後付する。

「ところで、私のファンの新人厩務員さんって、神代マンションに住むことになったんですか?」

「ああ。とりあえず、部屋が決まるまで、おれの部屋の使っていない部屋においてるけど」

 咲良はそれを聞いて、疑問符が飛んだ。あれ——? と。

「女の子ですよね?」

「ああ。はとこ。七ちゃんの妹」

 さも問題ないように言う。咲良はそんな涼の態度を見て、ダメですと叫んだ。

「ダメですよ!! いくら親戚でも、年頃の女の子を一人暮らしの男の人の部屋に住まわせるなんて!! いくら意気地なしの涼くんでもダメです!!」

 咲良の喧騒に涼は臆する。しかし納得するところもあるようで。

「確かに、よく考えて見ると、やばいな。よし、咲良、美浦に帰ったら、遥ちゃんのこと頼んだ」

「ええっ!! それはそれで、ダメなんじゃないですか?! 遥乃ちゃんは私のファンなんですよ?」

「普段の咲良を見たら幻滅するかもな、ふふっ……笑うわ」

 込み上げてくる笑いを喉元で堪える。

「笑い事じゃないです……って言うか、私の私生活がダメみたいな言い方しないでください」

「まあまあ、札幌記念が終わったら、世田谷の実家に行って賃貸契約書もらってくるよ」

 そうして、一抹の不安を抱えた咲良と、番組の撮影隊は帰って行った。涼は札幌競馬場の近隣に移動して週末の札幌記念に備えることにした。

 木曜日、出馬投票が美浦と栗東で行われた。

 札幌記念、エンシンブレス、8枠16番。大外枠だった。知らせを受けた涼は、札幌の馬場の状況を先週の開催から推測する。先週エルムSが開催された札幌競馬場は外が伸びる馬場だったらしい。

これはシメたと対策案を講じる涼。

 金曜日、サラブレッドたちが続々と札幌競馬場の厩舎に集まってくる。

 エンシンブレスを見に行ったら、多少ガレてはいたもののカイ食は旺盛だった。これはレース当日にはプラマイゼロ体重になるだろう。森本秀和調教師は、毎年強豪馬が始動し始める札幌記念にしっかりと三歳牝馬であるエンシンブレスを仕上げたのだ。

 三歳には少々酷と思われたこのローテーションもエンシンブレスはしっかりと応えている。

 ここは自分もしっかりしなくては、と涼は襟を正した。

 久しぶりに土曜日に乗鞍が無い日となった。

 札幌競馬場の調整ルームでのんびりと過ごす涼に、同じく乗鞍が無い望と歩稀が絡んでいく。

「涼兄さん、久しぶり」

「涼さん、この三人が同じレースに出るのは久しぶりですね」

 歩稀が言うには、自分と涼がかち合うことは割りとあるが、望まで加わってレースに挑むのはそうそう無いことらしい。

「望、父さん元気?」

「うん。すっかり全快したよ。って言うか、兄さんがキングジョージに行った時、実家に戻ってじいちゃんと話してたみたい」

「えっ? そんなこと聞いてないけど」

「やっぱり自分の子供が大レースに出るのは親として色々心配なんじゃないですかね。神代先生はああ見えて心配性ですから」

 普段栗東で過ごしているだけあって、息子の涼より久弘のことを知っている歩稀。

「僕がローゼンリッターでダービーに出走する時、父が観戦しにきてくれたんですよ。地元の厩舎の厩務作業を放っぽり出してまで」

 今更ながらに言うが、天照歩稀の実家は、金沢競馬の厩務員一家である。歩稀が中央の騎手免許を取った時はたいそう喜んだらしい。

「ところで、君らの騎乗馬って何?」

 すっとぼけたような声が調整ルームに響く。

「兄さん、新聞手に持ってるのに読んでないの?」

「えー、番組欄と運勢と今日は何の日、くらいしか読んでねえ」

「ちなみに涼さんの運勢はどうだったんです?」

「牡羊座のあなた、思わぬ出来事が思わぬ結果を招くかも……だって」

「兄さん、僕は?」

「双子座のあなた、東の方角から吉報があるかも」

 望の運勢を言い終わった後、歩稀の顔を見る涼。感づいた歩稀は首を横に振る。

「僕は運勢とか信じないタチですから」

「そう」

 こうして土曜日が終わり、日曜日となった。

 ピンクの帽子をかぶって、騎手の待機所に訪れた。望は黒い帽子ということは2枠なのだろう。歩稀は青の帽子4枠だろう。

 対応した馬番の馬をパドックで見る。2枠の馬は——マジシャンズナイト!!。

 涼は仰天した。凱旋門賞に挑戦する当馬の叩きが札幌記念とは思わなかったのだ。というか出馬表をよく見ていなかった。すかさず、望に確認する。

「お前、もしかして……」

「もう、兄さんは自分の馬しか見ないんだから。僕がマジシャンを任されたんだよ。まあこのレースだけだけど……」

 望は栗東所属であるが、今年からフリーに移行しているのだ。まだ美浦に留まっている兄とは違い東西どこの馬も乗れる望は重宝されそうだと年初に言われていた。が、やはり見かけるのは関西平場が圧倒的なのでフリー転向した印象を持たれていない。

「もちろん?」

「逃げる」

「やっぱりね。おれは負けないからな」

「僕だって」

「ところで歩稀の馬ってどれ?」

 問われた望はパドック周回している馬番7番の馬を指差す。

「スイープフレイム、スウェプトオーヴァーボード産駒の三歳牡馬。栗東・式智秀(しきともひで)厩舎所属」

「ふーん……スウェプト産駒ってスプリンターのイメージだけどなあ」

「エンドスウィープの隔世遺伝かもね」

 しばらくして、止まれの号令がかかった。本馬場入場の時間になり、騎手らは各自馬に跨ってターフに向かう。引き馬をしている担当厩務員が涼に一言。

「神代さん、一番人気ですよ」

「みたいだね。頑張ります」

 ターフに降ろされた馬達は返し馬に入る。

 エンシンブレスの手応えは程々だ。馬体重は前走比で増減なし。

 札幌記念は2000m、スタンド前のポケットからスタートして右回りで一周するコースを使う。

 高低差はあまり無い平坦な馬場となっている。

 札幌重賞のファンファーレが鳴り響く。

 涼はマジシャンズナイトを見た。宝塚の激走から1ヶ月ほど。少し放牧に出されたのだろう、馬体はふっくらとしていて、遠征に向けて準備中といった感じだ。

 枠入りが始まる。大外のエンシンブレスは最後まで待つ。他の馬がすんなりと枠入りして順調にエンシンブレスの番になった。

 基本的に素直な馬なので、素直に枠入りする。

(一番人気……集中)

 手を合わせて軸を意識する。

 枠入り完了、係員が離れて体制完了。

 スタート。エンシンブレスは前走のように押して中段につける。やがて折り合う。やはりマジシャンズナイトが逃げている。

 スイープフレイムは2番手の位置にいる。

(しかし流れが早いなあ)

 1コーナー、2コーナー、1000mの通過が58秒ジャスト。これは逃げているマジシャンズナイトが刻んでいるラップなので、涼の体感エンシンブレスは60秒ほどだろう。

 向正面に差し掛かり、流れは多少穏やかになる。

 3コーナーを回って、エンシンブレスを外に出そうと、周囲を伺う。斜め前が空いた。4コーナーでその隙間から強引にエンシンブレスを外に出し、結果的に大外回してホームストレッチ。

 外が伸びる馬場。分かっている。エンシンブレスはギアチェンジの機会を伺っている。

 今だ——鞭を入れて加速する。

 マジシャンはまだ先頭。エンシンブレスの背後にいたスイープフレイムも釣られて加速していく。

 マジシャンズナイトが粘るが、エンシンブレスとスイープフレイムが追い込んでくる。

 騎手は目一杯追っている。あと100m。

 5完歩、3完歩、そして1完歩。

 ゴールイン。

 差した。そう思った。

 場内の実況はエンシンブレス有利かと言っている。スイープフレイムは際どいところにいた。マジシャンは確実に差しただろう。決勝はスイープフレイムかエンシンブレスで決まるだろう。

 そそくさと着順指定エリアに行き、自身は検量室に行く。どこのエリアに入るか、担当厩務員は馬をクールダウンさせながら迷っていた。

「ここ勝たないと、世代戦以外のレース全部歩稀に完封されることになるな……」

 マジシャンに騎乗していた望が涼をいたわりにやってきた。

「マジシャンって凄いね! あのラップで前残りしたのはマジシャンズナイトだけだもん」

「それを追い込み馬にしていたバカ野郎が望の目の前にいるぜ?」

「それはそれでクラシックと有馬で2着にきたのは凄いと思う」

「足りなかったのは先行する気概だったんだねえ」

 さてそんなことを話していると、ホワイトボードに着順が書かれていく。

 1着エンシンブレス、2着スイープフレイム、その差3センチ。

 3着マジシャンズナイト、半馬身。

「か、勝った……」

「うーん、捉えた自身あったんですけどね……エンシンブレスの根性が勝ったんですね」

 決勝して、涼と歩稀は握手を交わす。

 そして各々インタビューへ向かった。

 ただ一人が許される勝利ジョッキーへのインタビューは今年で何度目だろうと考える。

 インタビューを終えて、その日の涼がでるレースが全て終わったので引き上げの準備をする。

 なんと濃密な一週間だったであろうか。シンザフラッシュから得たものをレースで活用する。呪いが解けて体が楽になったおかげだろう。

「今日の便で東京行き、その足で世田谷の実家……忙しい忙しい」

「兄さん、今年のワールドオールスタージョッキーズ出るの?」

 帰りの支度の中で望が聞いてきた。

「んー、今年はサマージョッキーに挑戦してるから出ないなあ。来週の札幌だろ? おれ、当地にいるけどレースは出ないな」

 ワールドオールスタージョッキーズとは、中央競馬騎手・地方競馬騎手・海外騎手などが招待される三歳以上1000万下の国際招待レースである。土日二日間で騎手は該当レースを計4戦する。ポイントで勝利騎手が決まる方式になっている。

「もったいないなあ、今年は僕も出るし、何よりドバイワールドカップ勝利騎手のアーサー・アディントン騎手やケンタッキーダービー優勝騎手も来るんだよ。日本ダービーとキングジョージ優勝騎手の兄さんが出ないのは勿体ないなあ」

「アーサーが来るの?! 知らなかった!」

 キングジョージ以降、アーサーとはメールアドレスを交換したので、ワールドワイドなやり取りをしている。呼び方も「アーサー」、「リョウ」と砕けたものになっている。

「話してくれればいいのに……」

「八月最後の開催にドバイWC、ケンタッキーダービーの騎手が集まるのに……」

「おれは間のキーンランドカップ。まあ弟よ、頑張れ」

 そう言って涼は望の背中を押した。望はうん、と頷いてまた帰りの支度をする。

  ///

「ほう……望がワールドスーパージョッキーズに出るのか」

 その夜、世田谷の実家に戻ってきた涼を一番に出迎えた和尭は、件の招待レースについて感慨深げに言った。

「じいちゃん、今はワールドオールスタージョッキーズって言うんだよ」

 望はそのまま栗東に帰ったらしい。涼は賃貸契約書をもらうために実家に寄ったのだ。

「ほれ、契約書。……で、遥乃は今どうしとるんだ?」

「一応、俺の部屋の空いてるところにいてもらってるよ」

「ほうほう」

 和尭がニヤリと笑った。横で話を聞いていた祖母・珠樹が釘をさす。

「爺さん、何を考えてるんだか。涼、一応言っておくけど分別をわきまえなさいね」

「? 分かってるよ」

 涼が不思議がっている時、母・梓が居間に顔を出した。

「お義父さん、お義母さん、涼、夕飯ができましたよ」

「はーい。母さんの料理、久しぶりだなあ」

「母さん的には、早いとこお他所の女の子の料理を美味しそうに食べてもらいたいものだわ」

「それは無理ってものだよ。だっておれ相手いないもん」

 そういって梓が作ったミートソーススパゲティを口にする。

 和尭はそんな涼をみてこう言った。

「じゃあ、遥乃に作って貰えばよかろう」

「いやいや、遥ちゃんにも自分の生活があるんだから」

「ばあちゃんから言わせてもらうと遥乃の面倒は見てもらいたいよ。逸樹から電話があったからねえ。遥乃をよろしくってね」

 家族の団欒は遅くまで続いた。翌朝すぐに涼は美浦に戻ることになった。和尭は意味ありげに「遥乃と仲良くな」と言った。祖父をあしらいながら、また「いってきます」と言って旅立った。

 美浦の自分の部屋に戻ると、自室では遥乃が朝食を作って待っていた。

「ごめんごめん、先に食べてたら良かったのに」

「札幌記念の話とかシンザフラッシュの話聞きたかったから……」

「はい、賃貸契約書。そうかあ……フラッシュの話かあ、相変わらずいい仔だったよ」

「兄さんも、フラッシュの強い子に乗れるといいね……」

 遥乃が作った朝食を食べながら、和気藹々と札幌遠征の思い出話を語る。

「今週末で8月の開催も最後だね。札幌開催も来週までか」

「サマージョッキー……取れそう?」

「うーん、多分、ね。キーンランドカップ頑張らないと」

 その実、サマージョッキーの現在の順位は圧倒的に涼が1位だった。終わるまで、ポイント計算すまいと思っている涼には知らぬ話だ。

「サマーシリーズに出た馬も、ほとんど涼兄さんのお手馬が優勝しそうだね。潤兄さんから聞いたよ」

 涼がほとんどのレースで連対か優勝かをあげているのだから、お手馬がシリーズ優勝圏内にいるのは至極当たり前のことだろう。今年の夏は涼に波が来ていた。その波を引き寄せたのが恐らくキングジョージだろう。

 来月はもう、凱旋門賞ステップのフォア賞とニエル賞が控えている。ブライアンズハートは3歳なのでニエル賞出走予定だ。マジシャンズナイトは4歳以上なのでフォア賞を使うという。

「ジョッキーの間ではサマーシリーズより今週末のワールドオールスターだろうね」

「噂になってたよ、日本ダービー優勝ジョッキーがワールドオールスタージョッキーズに出ないのは、自分が果たすべき事をしていないって……。望兄さんも煽りを食らっちゃってて……」

「ねえ……そのこと気になってたんだよ。望が謂れのない言動を受けないかって」

 兄の代わりに出るだけ、だの、関西の平場王が関東以北で勝てるわけがないだの、気にするだけキリがない。そもそも望だって東京で勝っている。今年NHKマイルカップを勝っているのだから。

 そんな望への心配を他所に二人は優雅に朝食を摂り、全休日の月曜日を過ごすことになった。

 と言っても、遥乃は厩務員なので、これから朝カイのため厩舎に行かなければならない。涼は遥乃を見送った後、トレーニングルームで汗をかくことにした。

 特注の乗馬マシーンにモンキー乗りをして、騎乗の感覚をつかむ。ところで、この乗馬マシーンはナリタブライアンの日本ダービーの時のゼッケンが装着されている。そして勿論、白のシャドーロールもついている。

 日頃、体力トレーニングに余念がないが涼は、ほぼ毎日この乗馬マシーンに乗っている。

 それも仕様がない。涼は騎手に相応しくないほどの長身で、そのまま適正体重以下まで絞っているのだから。普段から50キロを目安に体重管理をしている。178cmの成人男性の体重でこれでは、いつ体調を崩してもおかしくない。それでも体調を崩さないのは母や祖母から習った栄養満点の料理のお陰だろう。

 しかしあまりトレーニングをし過ぎても良くない。筋肉が付きすぎると体重が増えてしまうからだ。

 ふと、トレーニングルームの窓から、外の景色を見る。

 太陽がギラギラと照りつけていて、今にも沸騰しそうな気候だ。こんな中で走る馬のことを考えると可哀想になってくる。寒い中もそうだが、暑いのはそれ以上だ。

 札幌記念のパドックで馬たちはそれなりに発汗していた。

 8月を耐えれば9月は残暑レベルで、今のような酷暑はないだろう。

 それよりも何よりも、9月はいよいよフランスでステップレースなのだから、日本のことなど構っていられなくなりそうだと、涼は思う。

 シンザフラッシュと会話をして、自分が為すべきことが分かった。

 肩の荷も降りたところで、ここは勝たなければならない。

「ふう……今年は本当に暑いなあ」

 例年よりも早くに梅雨明けした今年は、馬にとって——いや人にとっても最悪なコンディションだ。

 エアコンをかけている部屋にいても、ほのかに汗ばむ。

 9月のフランスはどんな気候なのだろうか。そればかり気になる。

 8月も最終週に入り、鳴いているセミの声もいつの間にかミンミンゼミからひぐらしに変わっていた。

 今週末のキーンランドカップで一応、涼のサマーシリーズは終わりを迎える。正確には9月の一週と二週目にシリーズラストのレースがあるのだが、涼は、特には乗鞍がない。

 最終のレース如何にしてシリーズの優勝馬とジョッキーが決まるのだが、このまま行くとスプリントはコーセイスピリッツ、マイルはスターサフィール、2000はエンシンブレス、と遥乃が言う通り涼のお手馬で決まりそうなものだった。そしてサマージョッキーは圧倒的大差で美浦・神代涼に決まるというニュースが先刻流れていた。

 考え事をしながらトレーニングをしていると、いつの間にか時間が経っていた。

 十一時半、そろそろ昼ごはんの時間だ。

 と、その前に、汗をかいた体を洗い流そうと涼は風呂場へ向かった。

 シャワーの水をダーっと頭からかぶりながら、今考えていることも何もかも洗い流してしまう。風呂場が唯一何も考えなくていい場所だから。

 30度くらいのぬるま湯をひっかむる。ふと、風呂場の鏡に映る自分を見た。前髪が右半分、額が露出するほど短い。そしてその額には縫い傷があった。

 競馬学校時代、落馬して、頭部を負傷——3針縫う大怪我を負ったことがあった。直接の原因は己自身ではなかった。いわゆる貰い事故だが、その落馬事故があってからその傷を負った側の前髪、向かって右側の前髪があまり伸びなくなった。

 自嘲する。あれだけ、騎道作興、百錬自得、人馬一如、と言っているのに、あの時ほど恥ずかしい思いをしたことはなかった。あの時、最初の事故を起こした同期は現在、美浦所属の障害騎手となっている。騎乗が難しい障害競争の騎手は命がけである。同期、保井廉、そして神代涼、この三人が美浦の若手3流派と呼ばれている。

 内訳は、芝王道の神代涼、ダート・交流G1の保井廉、ジャンプG1の高坂颯斗(こうさかはやと)となっている。

 颯斗と涼は仲が良かった。その一年下の保井とも同じだ。

 颯斗が涼を事故に巻き込んでしまったのを、颯斗は後悔して今でも謝っているが、大事ないと涼は颯斗を安心させている。颯斗が中山グランドジャンプを勝利してJ・G1騎手になった時、1番に知らせを受けたのは他ならぬ涼だった。

 その翌々週、勇気をもらった涼が勝ったレースがシンザフラッシュの天皇賞・春だった。

 高坂颯斗は美浦南の厩舎所属なので、普段、そうちょくちょく会うことはない。

 だが、今年は、積極的に南馬場に顔を出すようになったので、会う機会が増えたはずだ。

 颯斗の所属厩舎はおなじみの高柳裕司厩舎だ。そして彼が今、相棒としている馬は、去年の中山大障害を勝利したグランドアドミラルだ。

 落馬をしていた彼も、今では落馬を乗り越えた押しも押されもせぬ名障害ジョッキーだ。

 鏡ごしに自分の額の傷を触る。颯斗のような、尊敬される名手に——。

 シャワーを浴びてさっぱりした涼は、洗面所に置いていた下着とハーフパンツをはく。上半身は裸でスポーツタオルを首から下げている。

 絞るところは絞って、付けるところは付けている肉体は、ある方から見れば華奢に見えるだろう。

 涼にとってこれが限界の体型だ。これ以上絞ると、死ぬ、とは本人の言葉。

 減量騎手時代は本当に辛かったが、正味1ヶ月だけの減量生活だったので、第一段階はなんとか切り抜けた。その後も、勝利を重ねたので、一年以内に全ての段階をクリアして減量が外れた。

 しかしながら、その華奢にも見える肉体のどこに、重賞を、いやG1を連続連対する体力があるのかと一般人の友人からは不思議がられる。騎手とはそう言うものなのだ、と。

 何を思ったか、涼は、上半身裸のままエアコンが効いたリビングに行き、スマートフォンを手にとって高坂颯斗にメールを打った。

『ハヤト、今夜飲みに行かない? おれの奢りで』

 返事は意外とすぐに来た。

『久しぶり、サマーシリーズの祝勝会かい? 是非ともお供するよ』

 ところで——、と続いていた。

『今週末、僕は新潟ジャンプステークスに出るんだ。リョウは次の日のキーンランドカップでしょ? お互い勝利を祈願しないかい?』

『ハヤトのレースを観戦できないのは残念だけど。良いなあ、必勝祈願しようぜ』

 約束をとり、スマートフォンをそっとテーブルの上に置いた。

 その時、誰かが玄関を開けて入って来るのを感じ取った。

「ただいま、兄さん。シンザヴレイブ、カイ食よかったよ……!」

 遥乃は言葉が詰まった。なんせ、涼が上半身裸なのだから。二ヶ月前、八島家へ涼が赴いた時ですら見ていないのだから。まあでも、祖父の逸樹翁や父親の活樹など、風呂上がりは上半身裸なので見慣れてはいるのだが、憧れの人物の一人がこうしているとどうにも印象が崩れる。

 しかしながら遥乃は涼の肉体美に見惚れた。

「おかえり。お疲れ様」

 素知らぬ顔の涼はスポーツドリンクをコップに入れて遥乃に差し出した。

 流石にエアコンで冷えてきたのか、Tシャツを着る涼。我に返った遥乃は、ハッとしてコップを落とさないように掴んだ。

「遥ちゃんは知ってたっけ? 今年中山グランドジャンプを勝った騎手」

「……う、うん、高柳先生のところの高坂騎手、だよね」

「そう、おれと同期で、同期の中で2番目に早くG1獲った騎手」

 1番目は、もちろんジャパンカップの涼だ。先述したとおり、颯斗が初めて勝ったG1は中山グランドジャンプだ。2013年の事だった。

「高坂騎手って凄いよね……。負けても言い訳しないし、勝っても威張らないし……去年の大障害強かったよね。グランドジャンプも勝ったし、J・G1を2連覇って凄い」

 声が上ずっている。遥乃は美浦に来るにあたって、人物関係から何から徹底的に勉強したようだった。

「あ、でも、涼兄さんも凄いよっ……」

「付け足しで言われてもなあ、えへへ。ハヤトが評価されるのはおれも嬉しい」

「涼兄さんは、高坂騎手が大好きなんだね」

「……語弊があるよ。おれは、ハヤトみたいな万人に親しまれる騎手になりたいんだ」

「兄さんは今でも、みんなから好かれてると思う……わ、私だって……兄さんのこと好き、だし」

「おれの周りはアンチだらけだと思ってたから……遥ちゃんだけが味方だよ」

 遥乃の顔がボフッと真っ赤になってしまった。涼は気がつかない。

「こんにちはー、涼くんいますー?」

 間の悪いことに、咲良がノックもせずに部屋に上がり込んで来た。

 咲良はこの空気感に絶句したがすぐさま我に帰り、涼を叱責する。

「何をしてるんですか!!」

「何もしていないけど……」

「ああ……間寺咲良さんっ……」

 同じく我に返った遥乃が咲良を初めて間近で見て、女神にでも出会ったかのような態度をとった。

「あ、あの……私、咲良さんのファンなんですっ……CD全部持ってますっ」

 口が回っていない、その様はまるで熱心な間寺咲良オタクだ。

「あ、ありがとうございます……。ってそんなことじゃないです! 若い女の子が男の人の家に上り込むなんて常識はずれですよ!!」

「咲良が言うか、それを」

 ツッコミを外さない涼。咲良はまくし立てる。

「あっ、これ賃貸契約書ですね?! 私の部屋の隣が空いてますからそこに入りましょう! さあ早くこれを書いて! 保証人は神代のおばさまで良いですね? 書き方分からなかったら教えますよ!!」

「あ、あの、あの」

 咲良に引っ張られ、咲良の部屋に連れて行かれる遥乃。一部始終を見ていた涼だけが現状を色んな意味で理解していない。

 そうしたこうした、すったもんだがあり、遥乃はめでたく咲良の隣の部屋の入居が決まった。その仕事は早いものだった。翌日の火曜日には普通に仕事に行けるレベルの仕事であった。

 その仕事の速さは涼が颯斗と飲みに行っている間に行われた。

「で、間寺さんに連れて行かれたと、面白いねえ、リョウの周りは」

「笑うなよ……大変だったんだぜ?」

 酒を酌み交わす二人。

「それよりも、いきなり飲もうだなんて、何か変わったことあったの?」

「いやあ、今年さあ、初めて凱旋門行くだろ? なんか怖いんだよな。このままハートが無敗でいけるのかどうかとか」

 お猪口をことりと置いて、不安を吐露する。

「難しいね。トウカイテイオーやミホノブルボンだって、秋は大変だったんだし」

 颯斗は難しい顔をして、酒に口をつける。

「でもブライアンは、ダービーの後すぐキングジョージを勝ってるから、テイオーやブルボンには当てはまらないかな」

「そうかな」

「だと思う。だけど、ずっと無敗なんてとんでもない名馬でもなければ無理だよ」

 リョウの腕は疑わないよと後付けする。それでも、と続ける。

「ルドルフやディープだって三歳秋で負けたんだ。油断は禁物だよ。特にブライアンは夏にそれほど休んでいないんだからね」

「そうだな。気をつける」

「さ、しけた話はやめにして、祝勝会しようよ」

「……うん、そうだな。乾杯」

 翌朝、藤村厩舎では。

「……お前、お前なあ……人の心の機敏がこうも分からねえのか」

 遥乃と咲良の顛末を聞いた潤は呆れた。

「まあ、アニキは馬、馬、だからしょうがねえか」

「そゆこと」

 笑って言うなと潤は涼を小突く。

「イテテ……じゃあ、おれ、南行ってエヴォルの追い切り乗って来る」

「早く行け、ばか」

 今週から帰厩しているアドミラルエヴォル、涼はその追い切りに参加する。

 帰厩後の時計を任されている。

 復帰直後なので、トロット(速歩)から入り馬体を慣らす。

 國村師からつけられた注文は、2頭併せ、外、馬也、だった。

 外側でのびのび走らせると言う。相方は1000万条件の馬だった。

 相方は一杯こちらは馬なりなので、当然と言って良いのかは判断がつかないが先入は相方だった。

 追い切りを見た國村師は、笑顔でラップタイムを紙に書いていった。

「流石神代の血……見立ては完璧だ。先行で長い脚を使える馬に化けてしまった」

 國村師が感心していると、涼が戻って来て、胸を張った。

「どうです? 馬なりでしたけど、それなりなラップ刻んだと思うのですが」

「いやなんと言うか……君、相馬眼すごいね。私が言うと調教師形無しになってしまうけど」

「そうですかね? まだまだだと思うのですが」

「磨けば凄いことになるよ。将来は調教師を目指していたりはするのかい?」

「将来……まだ先のことと思っています。調教師は弟が近いうちになりますし、おれは多分ずっと騎手をやっているかもしれません」

「言われてみれば、君が調教師というのも違和感があるね。天才は天才のまま騎手生涯を終えて欲しい」

 アドミラルエヴォルの本日の調教は終わった。収穫は十分にあった、天皇賞秋に向けて準備段階に入ったのであった。

 さてお待ちかねの週末。

 ワールドオールスタージョッキーズが開催される土日。涼にとってはキーンランドカップが開催される週末。今週はいつになく盛況であった。

 その理由が外国人騎手の来日だった。

 欧州の奇跡と称される名手アーサー・アディントンはドバイワールドカップ優勝を携えての来日であった。

 もう一人、アメリカはケンタッキーダービーの優勝者でその異名がスナイパーキッドと呼ばれる若者だ。

 何故異名がスナイパーキッドなのかは、日本人の競馬観戦者は誰も分からなかった。

 土曜日の札幌。涼は平場に乗っていた。3歳未勝利と3歳以上500万下のレースである。

 波に乗る涼はそのどちらとも勝利した。これで本日の仕事は終了である。

 仕事を終えた涼はこれからワールドオールスターに出走する望を見舞った。

「緊張してるか?」

「まさか、楽しみだよ。兄さんの代わりじゃないってところを見せつけないとね!」

「その意気だ。応援してるぜ?」

 望の目の前に、グーの形を作った手を出す。望も同じくグーの手を作りそしてグータッチをした。

「じゃあ、おれはトイレに行ってから関係者席に行ってるよ」

「うん。じゃあね、兄さん」

「おう」

 会話をし終えた後、涼はそそくさとトイレに向かった。早めに用を足し、スタンドに向かおうとした時だ。

 何者かに背後から呼び止められた。

「エクスキューズミー、すいません、騎手の待機所はこの先でいいのかな」

 あ、英語、と涼は思った。すかさず返答する。

「はい、そうですよ。この先です」

 英語で返すと、相手は驚いて、さらに日本語でこう言った。

「わあ! 凄い、やはりキングジョージ優勝騎手は違うね。英語も堪能だ。アーサーも認めるはずだね」

 訳がわからない涼は呆然としている。

「ソーリィ、日本語できるよ。僕の名前はビリー・マックスウェル。よろしく、ミスター・ジンダイ」

「ビリー・マックスウェル……って! ケンタッキーダービー優勝騎手の?! 確かおれの一個年上の……狙ったKYダービーは逃さないスナイパーとして有名な……」

「スナイパーキッド、そう呼ばれているね」

 米国人騎手ビリー・マックスウェルは26歳。初めてケンタッキーダービーを勝ったのはデビューした年。それからケンタッキーダービーに乗鞍があれば必ずモノにすると言う偉業を称え、またその名前からキッド、またはスナイパーキッドと呼ばれるようになった。

「ミスター・ジンダイの名前はアメリカにも届いているよ。初めての海外遠征でキングジョージを勝ったツワモノが日本にいるってね。しかもアーサー・アディントンが友人として認めるような人物だ。どんな人かと思ったら……凄い背が高いね」

「ええ、まあ、気にしてるんですけどね。マックスウェルさんも同じくらいじゃないですか?」

「ビリーで良いよ。話し方も砕けて。——僕も背が高くてこの仕事に難儀しているんだ。君もでしょ?」

「では、コホン……リョウって呼んで良いよ。今回のレースおれの弟も出るからよろしく」

「リョウは出ないみたいだね。何で?」

 一寸考える。

「ははん、さては他に集中したいレースがあるんだね」

 そうだろうか。

「当ててみせよう。ズバリ、アークデトリオンフじゃないか?」

 ピクリと反応する。半分正解か。

「正解か。僕もアークに出る予定なんだ。その時はよろしくね」

 ビリーが手を差し出す。涼は快く握手に応じた。

「ちなみに何の馬に乗る予定なの?」

 何気なく聞いた。そして何気なく返答が来た。

「二冠牝馬、ムーンライトセレナーデだよ。もちろん、勝つつもりでいるからね。ブライアンズハートにもロビンソンにも!」

 ムーンライトセレナーデ、追込み馬、ブックメーカーのオッズでロビンソンの次点につけている有力馬。

「おっと、もう時間だ、それじゃあ、アークの時はよろしく。グッバイ」

 その日のワールドオールスタージョッキーズ全2戦は、ビリーとアーサーで分け合い、どちらのレースでも望は2位につけていた。勝負は明日決着する。

 蚊帳の外で涼はキーンランドカップ準備をするのだった。

 そして日曜日。この日の涼の乗鞍は4鞍。2歳未勝利、3歳未勝利ダート、二才新馬、キーンランドカップである。

 キーンランドカップの前のレースはワールドオールスターの第3戦があり、キーンランドカップの後のレースはワールドオールスターの第4戦最終戦がある。間に挟まれたサマーシリーズより、世間の目はワールドオールスタージョッキーズだった。

 今日のレースを1着、3着、1着と調子よく来ていた涼はキーンランドカップの前にワールドオールスター第3戦を見ることにした。

 アーサーが白帽子、ビリーが黒帽子、望が赤帽子。

 スタートの出はビリーが一番良かった。強気に前目にでるビリーを尻目にアーサーは後方待機、望は中段に位置取る。ダート1700mのこのレース、14頭立てのフルゲートで、ビリーが一番人気に乗っている。2番人気アーサー、7番人気が望の馬となっている。やはり関東以北の馬場に嫌われたか、望は人気を落としていた。

 積極的先行策をとったビリーの馬はホームストレッチに入ってギアをチェンジした。

 加速をして、他馬を突き放そうとする。そこに追い込んで来たのは、アーサーの馬と望の馬だった。

 しかし差はほとんど詰まらない。やっとの思いでアーサーの馬が並びかけようとした時、もうすでにゴール板であった。望の馬は3番手か。

 誰が見てもわかる、ビリーの馬が勝った。

 涼は戦慄した。あの積極策をできるメンタルはどこから来るのだろうか。自分には到底無理だ。

 そんな精神状態で、キーンランドカップを迎えた。

 きっと、最終戦を前にしたビリーとアーサーが見ているだろうこのレースは涼は目一杯緊張していた。

 コーセイスピリッツは涼の手では勝っていない。吉川尊の背でアイビスサマーダッシュを勝っていなければ絶望的だっただろう。

 涼はふう、と深呼吸する。

 輪乗りの時まで緊張しているのは久しぶりだ。ファンファーレが鳴ったらもうどうにもならない。

 スプリント戦は一瞬で勝負がつく。一瞬の駆け引きだ。

 キーンランドカップは札幌競馬場1200mで施行される。スタートは向正面のポケットから。

 さて、いよいよファンファーレが鳴る。枠入りが始まり、真ん中の枠を取ったコーセイスピリッツは最初の方に枠入りする。

 さあ、体制完了。スタート。

 先行逃げ馬のコーセイスピリッツは逃げる逃げる。ハナを切って、どんどん驀進していく。

 やがて3コーナー、まだ逃げる。4コーナー、まだ捕まらない。

 大歓声のスタンド前、逃げるコーセイスピリッツが残り200m、いける、今度こそ。そう思った。

 付いて来る他馬は今度はいない。ブルーウォーターはいない。今度こそ。

 気づいたら、ゴール板を持ったまま駆け抜けていた。

 他馬はコーセイスピリッツの快足に屈したのだ。

 勝ったと気づいた涼はガッツポーズをする。ムチをくるっくると器用に回しパフォーマンスをする。

 検量室に帰って来た涼を藤村師と春間オーナーは満面の笑みで迎えた。

 勝利を分かち合い、抱擁する。後検量を促され検量する。問題なし。確定はコーセイスピリッツの優勝となった。その後涼は脇目も振らず、スタンドへ直行した。

 ワールドオールスター最終戦を見るためだ。

 ここまでビリー・マックスウェルが2勝、アーサー・アディントンが1勝と連対1回、神代望が連対2回3着1回。

 ポイントは圧倒的にビリー・マックスウェルだった。

 狙ったレースは逃さない。確実に仕留めるスナイパー。

 最終レースの本馬場入場が開始される。

 望の馬は状態がいい。勝つならここだ。涼はそう解釈した。しかしビリーの馬も。アーサーの馬も抜群の返し馬を見せていた。結局、誰が勝つか分からない。

 八月の札幌開催最終日の最終レースのファンファーレが鳴った。

 体制完了。スタートする。

 今度のビリーの馬は後方待機らしい。アーサーも後方にいる。望は積極的に前目でレースをしていた。

 先団を引っ張るのは6歳牡馬。望はその2馬身後ろにいた。

 各馬は向こう流しに入る。流れは早めで、1000mの通過タイムも56秒と果てしないものだった。

 これでは前が総崩れになってしまう。各馬は3コーナーを回り、徐々に位置取りを上げていく。

 4コーナーを回って最後の直線200m——望の馬が前で頑張っている。そこへ大外から黒い影。

 再びアーサーとビリーの馬だ。またもやこの三人での勝負になりそうだ。

 望は必死に追っている。しかしビリーとアーサーが近づく。

 三頭は並んでゴール板を駆け抜けた。勝負は写真判定に持ち越されることになった。

 涼は急いで検量室前に向かう。望を元気付けるため、そしてビリーとアーサーに一言告げるために。

「望、意地を見せたな」

「悔いはないよ」

 長い写真判定の末、ホワイトボードに着順が書かれていく。

 スタンド前のターフビジョンにも着順が点灯した。

 ——優勝ビリー・マックスウェル。翌日のスポーツ新聞のトップ記事だった。

 その記事にはこんな事が書かれていた。

『神代涼、弟の雪辱誓う。見ていろ凱旋門賞!』

 そんなスポーツ紙の端にこうも書かれていた。『神代涼、サマージョッキー優勝決定』と。

 そして世間は9月に入っていく——。

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