第7話アスコットの頂

『残念だったな、涼。久坊に負けたのは』

 八島家に戻るのは時間的に不可能なので、函館競馬場近くのホテルをとった。

 電話で逸樹翁と今日のレースについて話をしていた。

 逸樹は甥っ子にあたる涼の父親のことを昔から「久坊」と呼んでいる。

「まあ負けるときもありますよ。函館の馬場も予習出来ましたし良い勉強ですよ」

『それなんだが、なんで藤村がお前さんを函館で騎乗させたと思う?』

「え? そりゃ、サマージョッキーを獲るためでしょう?」

『いや違うな。藤村は先を見据えているんだ――函館競馬場は洋芝だぞ、つまり――』

「あっ……おれに洋芝でのレースを経験させたかった?!」

『やっと分かったか。欧州の芝は特殊でな。これは走ってみないと分からん』

 つまるところ――キングジョージを初めとした欧州遠征の予行演習でもあったわけだ。欧州の芝は踏むと深く沈み込み、走るのにパワーがいる。日本では重馬場でも欧州の基準ではそれほど重くないというのもある。

『どんな感触だった?』

「言われてみれば乗りやすいと言うか何というか……野芝とは違った感じですね」

『アスコットやロンシャンはもっと難しい馬場だぞ。頑張れよ――』

 逸樹翁の言葉を何度も反芻して受話器を置いた。来週末はいよいよレッドローズバロンのデビュー戦だ。負けるわけにはいかない。

 シャワーを浴びて今日の負けを洗い流し、床につくのであった。

 翌週末まで時間は飛ぶ。

 函館競馬場5R――二歳新馬1200m。

 函館の平場に出るのは久々であった。

 レットローズバロンはパドックでいわゆる「鶴首」で歩様の姿を見せていた。これを見た予想家はバロン二重丸を付け、馬券の買い手を煽った。

 結果的に単勝支持率は二番目を推移していた。

 紺地に白のクロスタスキ、紺袖に白の一本輪――ハートの勝負服を着るのは一ヶ月ぶりである。しかしレットローズバロンは読んで字のごとく冠名が入っていない。

 心田オーナーはここぞと決めた馬にハートという冠名を託す。

 一族郎党オーナーの三代目の心田大志の持ち馬の中にハートという冠名が入っている現役馬はおなじみブライアンズハートと、他に五歳牡馬で同厩のシャッフルハートのみだ。シャッフルハートは小さいところの重賞を地道に勝っているオープン馬で主戦騎手はアルス・ローマンだ。ハートの冠名が入っているわりに戦績が地味なのはしょうが無い。この世代は黄金世代と呼ばれていて今年に至るまで古馬の重賞を総なめにするほどなのだ。シャッフルハート自身は朝日杯FSを優勝し最優秀二歳牡馬に選ばれる位なのだ。つまり実力はあるが周りが強すぎる。

 話を戻そう、レットローズバロンにはハートこそ入っていないが、その素質はピカイチである。血統から見ればマックイーンが入っているのでステイヤー気質かもしれない。

 しかも芦毛であるから、将来を望まれる。

 騎手の集合令がかかった。いよいよ本馬場入場だ。

 涼の乗り鞍は今日このレースだけなので、これが終われば一度新冠まで戻って、挨拶をしてから翌日美浦に帰ることとなる。新馬戦素質馬ここ一本の大勝負だった。

 今回は六頭立ての二枠二番。少頭数が吉と出るか凶と出るか、返し馬の中手応えを確かめる。

 少し行きたがるそぶりを見せたであろうか。宥めて落ち着かせる。

 今日にして分かった事だが、どうやらバロンはゲートが嫌いなようだった。

 どうにかこうにか押し込めて、体制が完了する。ゲート内ではやはり落ち着かない様子だった。

 ガシャンと一斉にゲートが開く。

 バロンは驚いたのか少しのけぞってしまった。が、すぐに立て直してスタートする。コンマ五秒ほど遅れただろうか、最後方からのスタートとなってしまい、めい一杯追う涼に応えるようにグングンとスピードを上げるバロン。

 この時点でバロンの勝利は薄れたと競馬場にいる客たちは思った。1200mは短い、一瞬の判断が命取りである。血統的にステイヤーな馬ならなおさらである。

 が、いつの間にやら先頭で先団を引っ張っていて、残り500mとなった。

 更に追う。追撃してくる馬は――いない。バロンが一頭突き出てそのままゴール板を駆け抜けてしまった。

 客は度肝を抜かれた。

「お前はゴールドシップか!!」

 だの。

「おもしろ配合の匂いを感じるぞ!!」

 だの、歓声が上がった。

 ゲート難であることを除けばこの馬は先行逃げ切りなのではないだろうか。

 そう思った涼だった。

 着順指定エリアにて。

「やあやあ、デビュー戦勝ち上がりはブライアンズハートのときを思い出したよ! これでとりあえず一安心だ」

 心田大志オーナーは最大の敬意もって涼とバロンを迎えた。横にいた藤村師も満足げにこう言う。

「ゲートとスタートはともかくも、そのほかの内容は良かったね。落ち着いて対処できたのは君が成長した証拠だ」

「で、神代くんはこれからどうするんだい?」

 心田オーナーが今後の予定を確かめるように聞いてきた。

「とりあえず新冠に行ってブライアンズハートの様子を見てから美浦に戻ります」

「そうか、ブライアンズハートが美浦に戻ったらいよいよ出立だからな」

「はい……ところでオーナー、このことは公表したんですか?」

「宝塚記念が終わったら言うよ。大事になるだろうね」

 その日の阪神競馬場で行われたメインレース、グランプリ宝塚記念は、美浦の國村厩舎所属マジシャンズナイトが勝利で初戴冠となった。涼がそれを知るのは美浦に戻った時だった。

 この年の宝塚記念――。

 出走馬は天皇賞・春組のマジシャンズナイトが内枠、サトミダイバクハツが大外、シンザクロイツがその間となった。春天組はこの三頭だけだった。

 そのほか、安田記念組が三頭、ドバイ遠征組が五頭、以下人気投票上位組だった。

 内G1馬は春天のシンザクロイツ、安田記念のハイウェイスター、ドバイワールドカップ優勝馬で栗東池川厩舎所属の四歳牡馬ブルーオーシャン――鞍上は神代望。

 なかなかメンツが揃った宝塚記念になりそうであった。

 阪神競馬場、芝2200m。

 春のG1レース締めくくりのグランプリ。

 鞍上國村厩舎所属「保井廉(やすいれん)」騎手の大胆な先行策で逃げ切り初G1戴冠を果たしたマジシャンズナイト。保井はインタビューでこう言った。

「主戦の神代先輩の名誉を汚さないように乗れて良かったです。マジシャンは神代先輩のおかげでここまで来られた、後事を託された僕が最後の後押しを出来て良かった」

 保井廉騎手は涼の一つ年下で競馬学校時代に仲が良かった関係がある。國村調教師がマジシャンズナイトを託すなら保井騎手しかいないと、あの春天の後、涼に話していた。涼も快諾して引き継ぎとなった。

 インタビューを見た涼は感極まって潤んでしまった。

 その日の夕方、競馬界にでかいニュースが舞い込んできた。

『無敗の二冠馬ブライアンズハート、電撃渡英発表! キングジョージ六世&クイーンエリザベスステークス出走か!!』

 ついに世間に公表されたブライアンズハートの海外強行遠征プラン。

 今後のローテーションも発表され競馬界は騒然となった。

 キングジョージが終わったら、即、フランスへ渡り凱旋門賞に向け調整、秋はニエル賞から本番凱旋門賞、その後はアメリカへ渡りブリーダーズカップターフに出走、今年最後は古馬挑戦のジャパンカップ――改めて嵐のような遠征プランだと思った。特に十月から十一月がきつい。着地検査の期間も含めればたいした追い切りも出来ないだろう。全てはハートの回復力にかかっている。

 このニュースに激怒したのは栗東の神代厩舎、神代久弘調教師であった。

「くそっ、藤村のやつ! 同世代との勝負はつけたと言うつもりか……。ブライアンズハートのいない菊花賞など勝負する価値もないじゃないか」

 三兄弟の父・久弘と藤村直義調教師は同期で共に神代和尭厩舎で修業していた。久弘が無断でアメリカへ研修に行ってしまって帰国後栗東で厩舎を開いてからは、お互い意識せずとも対峙することになってしまった。

 たちが悪いのは、久弘が、神代和尭の後継者を藤村だと思い込んでいることだ。かつては親友同士だった二人は、久弘の一方的な断絶により、藤村師の弁解もないまま互い違いになってしまった。

 久弘の藤村厩舎に対する思いは、マイナス方面であれ、強いものがある。執着ともとれる。

 目下、ライバル視していた二冠馬ブライアンズハートが三冠レースの最後、菊花賞に出てこないとなると、人気次点のローゼンリッターが必然的に繰り上がりで人気をするだろう。久弘はそれが気に入らなかった。

 ただでさえ皐月賞も日本ダービーもブライアンズハートの二着だったのだ。

 この一連の出来事は二十年前から現在に至るまで、親子親友との確執として週刊誌にいろいろと書かれている。涼や潤が競馬学校に入った時や、望が久弘の紹介で池川厩舎所属になった時など、事があればなにか書かれる始末であった。

 久弘にとってみれば、ブライアンズハートの遠征は出し抜かれたも同じだった。

 久弘の様子がおかしかったのを感じ取った弟子の天照歩稀騎手は気遣いの言葉をかけたが、久弘の次の句がこうである。

「歩稀、菊花賞は絶対に勝つぞ。そしてジャパンカップで決着をつける。いつまでもブライアンズハートにいい顔をさせてはいけない」

 その時の久弘の顔を歩稀は一生忘れないだろう。

 美浦の人間と良好な関係を築いている歩稀はとてもいたたまれない気持ちになった。

 この衝撃発表に良い感情を抱かなかったのは久弘だけではない。

 中央も秋の競馬はブライアンズハートを中心に盛り上げていこうとしていたのだ。表だって批判はしなかったが、裏では相当荒れていることだろう。

 ちなみにだが、馬の海外遠征費用は基本的に全てオーナー持ちである。

 中央が特に支援金を出したり等はしない。数年前までは一〇〇〇万円程度支援していたようだが現在では廃止されている。

 全ての資金をまかなえる者だけが海外遠征出来ると言ってもいい。

 心田は本業ではITインフラ関係の一部上場会社を一族で営んでいる。資金は問題ないのだろう。

 キングジョージは七月末だ。あらかじめ分かっているなら海外馬券の発売も準備できるが、ここで発表されるとどうにもならない。春先に凱旋門挑戦を表明するのとでは訳が違う。

 現時点では凱旋門とBCターフの馬券は発売されるだろうが、キングジョージはまさしく電撃渡英なので無理な可能性が高い。

 涼が美浦に戻ってきて、一息着いた日のことである。

「――なんで機嫌が良いの?」

「そう見えますか? 涼くんのおかげですよ」

「意味が分からない……」

「いえ……正確にはブルーウォーターとコーセイスピリッツのおかげですね」

 後から聞いてみれば、八月の番組企画のプレゼンター争奪戦を馬券配当でやっていたと涼は聞いた。

 その結果は咲良のブルーウォーターとコーセイスピリッツの馬単がピタリ的中で一位の高額配当だった。畑中社長曰く、咲良はコーセイを一着に固定するかと思ったらしいが、咲良は普通にブルーウォーターとコーセイスピリッツだけの馬単の馬券をしっかりと買っていた。馬単とは一着二着の馬をぴったりと予想する馬券の買い方だ。三連単よりは狙いやすいだろう。

 つまり咲良がプレゼンターの座を射止めたのだ。

「つまり? おれがゲストで咲良がプレゼンターとして北海道のスタリオンステーションに行くと。シンザフラッシュに会う、と」

「そうですね。楽しみですね」

「というか、今日月曜日なんだけど、お前仕事無いの?」

 本日月曜日、朝の六時である。

 咲良は仕事のある日は六時には東京へ向けてマンションを出立している。

 この時間帯にのんびりとしているのは珍しい。

「今日、番組収録が午後からなんですよねー」

「にしたって打ち合わせとかないの?」

「無いですね」

 しばし涼は考え込む。そして、ハッと気付く。

「ていうか、なんでおれの部屋に堂々といるんだよ! いつの間に入ってきたんだよ!」

「和尭おじさまに鍵を借りました。快く貸してくれましたよ」

「じいちゃん……」

「そんなことより新聞見ました? スポーツ欄一面ドンッ! ですよ?!」

 朝食を摂る涼の目の前で咲良がバサッと新聞を広げた。見てくれというスポーツ欄には昨日の宝塚記念の結果が小さく、そしてブライアンズハートの遠征が大々的に報じられていた。使われている写真はダービーのゴール写真だ。

「私もびっくりしちゃいましたよ。みんな、菊花賞に行くものだとばかり思ってましたから」

 やはり、と涼は思った。

「おれもそこが引っかかるんだ。おれ個人的には三冠に挑戦したい。でも夢も見てみたい。贅沢な悩みだなあ」

「無敗の二冠馬海外遠征……これはこれで競馬サークルも盛り上がりますよ! ああ、私もフランスに行きたいなあ……」

「観光じゃないぞ」

「分かってますよ。どうぞ良いお土産話でも聞かせてください」

「何でおれが乗りに行くって分かるんだ?」

 鞍上のことは新聞には載っていないし記者会見でも伏せられていた。海外遠征経験の無い涼を乗せるのかと言うエージェントらの文句を躱すためだった。

 こんな有力馬の海外遠征ときたら、有名騎手のエージェントが黙ってはいないだろう。しかし、藤村厩舎は基本的に自厩舎の騎手を優先的に乗せるようにしている。エージェントはそこを分かっているのか藤村厩舎に有名騎手の宣伝をしに来ない。が、この海外遠征は違った。

 新聞記事には鞍上は誰か、やら。

 敏腕エージェント、ブライアンズハートにターゲットオン、だの。

 本気で奪いに来るつもりらしい。

 心田オーナーの意向はあくまで「美浦の神代涼」が最後まで乗ることだ。

 余程のことがなければ乗り代わりはないだろう。

「涼くんイコールブライアンズハート、逆もまた然りですよ。乗り代わったらイメージ戦略ぶち壊しです」

「イメージ戦略ね。流石、芸能人。でも勝負の世界だからな、少しでも勝ちに近づくように確率をつめるんだよ」

 涼とて、いくら心田にお墨付きをもらったとしても、よしんばキングジョージを大敗でもしたら凱旋門ではお払い箱になっているかもしれない。

「その割には、自信がありそうですね」

「モチベは高く持っとかないとな。キングジョージが凱旋門の叩きだとしても、おれ自身は常在本番で行く」

「さすがにキングジョージを叩きレースにすることは無いと思いますけど」

 二人で会話をしていたときだった。

 涼の部屋のドアが勢いよく開いた。

「涼!! 俺ぁ知らねえぞこんなこと!! どういうことだ!!」

 潤がものすごい剣幕でまくし立てた。何気ない会話をしていた涼と咲良は何事だと目を丸くした。

「潤くん、どうしたんですか?」

「まあ大体想像着くけど」

「のんきだなお前ら!! 俺は昨日の記者会見で初めて知ったぞ!!」

「お前ハートの担当じゃないじゃん」

「担当もくそもあるか。俺は藤村先生の一番弟子だぞ。こんな大変な計画、厩舎スタッフ、とくに俺には一番に教えてくれても良かろうなのに!! 俺って信頼されていないのか?!」

 怒ったり、めそめそしたり忙しい潤。涼はあきれた顔で慰めた。

「徹底的な情報封鎖。どこから漏れるともしれない事をやたらめったら言えるかっての。むしろお前は信頼されてる方だぞ。お前以上に信頼しているのがオーナーの方々ってだけだ」

「だよな……先生は俺を信頼してるよな」

「してるしてる」

 落ち着いた潤は、次にこう言った。

「騒いだら腹減った。俺も朝飯もらうぞ」

 涼と咲良は苦笑いしながら、潤のための卓を用意した。

「しかしなあ、キングジョージかあ……美浦の厩舎で挑戦したところあったっけ?」

 潤は食卓のサラダを食べながら考える。

「おれの調べによるとシリウスシンボリまで遡らなきゃならんらしい」

 涼も食卓のサンドイッチを口にしながら言った。

「というか、キングジョージに挑戦した日本馬が歴代で五頭しかいないんだとさ」

 ほら、と、涼は潤にリストを渡す。

「スピードシンボリ、シリウスシンボリ、エアシャカール、ハーツクライ、ディープブリランテ。おいおい有名馬ばっかじゃねえか」

「凱旋門ならもっとサンプルがあるんだけどなあ……BCターフなんて言ったらもっとサンプルが無い」

 日本馬の長い海外遠征の歴史、海外のG1レースを優勝した馬は数えるほどしかいない。フランスのグループ1(G1)レースどころだとシーキングザパールがモーリス・ド・ゲスト賞、タイキシャトルがジャック・ル・マロワ賞を勝っている。最近であるとイスパーン賞でのエイシンヒカリであろうか。どちらもあまり距離が長くないレースである。2400m級レースの参考には出来ない。美浦の馬として参考にするなら、凱旋門賞で惜しくも二着をしたエルコンドルパサーやナカヤマフェスタだろうか。

 エルコンドルパサーの凱旋門賞は涼や潤も良く覚えていた。あの時ほど日本の馬が最も凱旋門の頂に近づいたレースはない。それから美浦の馬の最先着はナカヤマフェスタの二着のみ。以降は栗東の馬、三冠馬オルフェーヴルが二年連続の二着。オルフェーヴル二回目の挑戦が二〇一三年のこと。それ以降は掲示板すらままならない着外決着が続いている。

 欧州競馬で参考にするならエルコンドルパサーやナカヤマフェスタだろう。

 脚質的にはオルフェーヴルやキズナあたりだ。

 しかしながら、前述の馬はエルコンドルパサー以外はすべて父系にサンデーサイレンスを持っている。欧州競馬の適正から言ったらサドラーズウェルズが入っているエルコンドルパサーが有利なのだろう。しかし、近年は右を見ても左を見てもサンデー系の馬であふれている。その中で、欧州の馬場適性があったのはサンデー系のそれもステイゴールド産駒だ。オルフェーヴルやナカヤマフェスタがそれに当たる。その他のサンデー系での掲示板内着順の馬はディープインパクト産駒のキズナのみだ。

 ちなみに、ブライアンズハートの父系ブライアンズタイムの馬でキングジョージや凱旋門に出走した馬はいない。ロベルト系まで遡っても凱旋門賞馬の名前はない。

 母父サンデーサイレンスは欧州の主流血統とは言えず、母母父のトニービンで漸く凱旋門賞優勝を拝むことが出来る。

 それよりも目を引くのはボトムラインのサドラーズギャルだろう。

 押しも押されぬサドラーズウェルズの直仔である彼女は自身の産駒にエルコンドルパサーがいる。

 サドラーズウェルズは欧州の主流血統で、日本のサンデーのごとく、欧州とくに英国にサドラーズウェルズの血を持たない馬は少ないと言われる程だ。

 元を正せばノーザンダンサーの血を持たない馬は存在しない、という意味なのだが。

 サドラーズウェルズ直仔ガリレオが二〇〇〇年代以降その血を爆発的に広めたとされる。日本ではテイエムオペラオーやメイショウサムソンの父として知られるオペラハウスがサドラーズウェルズの直仔として種牡馬をやっていた。

 しかし、サドラーズウェルズ系は日本ではこの二頭以外あまり走っておらず血統面で英国とは逆転現象が起きている。

 日本の軽い馬場に重いサドラーズウェルズは合わなかったのだろう。

 このサドラーズウェルズの血に日本で主流の血を混ぜた結果生まれたのがブライアンズハートである。血統面でみると芝偏重でどんな馬場でもこなせるタイプだが距離は2500mあたりまでというのが現時点での厩舎の見解である。

「一発かませる素質はあると思うんだけどな」

 涼がぽつりと呟いた。

「こればっかりは走ってみないと分からんな。ハートは今夜の便で行くのか?」

 相変わらずサラダをつついている潤がハートについて全て知っている涼に聞いた。

「ああ」

「で、お前はどうするんだ? 来月の日本のレースとか色々調整しなきゃいけねえだろ?」

「とりあえず函館記念と中京記念は出る。というか馬をまわされてる」

「だよな。サマー2000とサマーマイルだもんな」

 双子は黙々と朝食を摂る。居心地が悪くなった咲良は、なんとか話題を絞り出そうとする。

「再来月の収録楽しみですね!」

 双子はポカンとして咲良の顔を見る。更に居心地が悪くなる。

 潤が思い出したように涼に対してこう言った。

「収録ってフラッシュの再会企画だろ? 丁度良いタイミングだなあ」

 どういう事だとばかりに涼が食いつく。

「うちで預かる予定の一歳馬にシンザフラッシュの二世代目産駒がいるんだ。美浦にはファーストクロップは俺の知る限りじゃ三カ所の厩舎で確認できてる」

 シンザフラッシュは二〇一四年の有馬記念一杯で引退し、二〇一五年から北海道の大手スタリオンステーションで種牡馬生活を送っている。

 そのファーストクロップ(第一世代産駒)二〇一六年生まれの産駒が二〇一八年、つまり今年二歳馬としてデビューする。

 シンザフラッシュが所属していたのは美浦・國村厩舎なのだが、その産駒たちはどうやら栗東に集まっているらしい。

 シンザフラッシュの成績は素晴らしいものであるのは前述した。その初年度の種付け料は四百万円。かなりの期待を持って迎えられたようだった。

 実際、初年度種付けは満口で終わり、翌年二〇一六年の種付け料は百万上がって五百万円につり上がった。産駒の傾向としたら、父譲りの大きい馬体、比較的おとなしい気性、なにより仕上がりが早く早期のデビューを期待されていた。栗東に集まっているため、新馬戦も関西デビューの産駒が多い。新馬戦が始まって一ヶ月経ったが、初年度産駒二〇〇頭中今月無事にデビューできたのは一五頭ほど。なんと二歳新馬の一レースの出走馬中半分がシンザフラッシュ産駒だったという記録が残っていた。

 二歳新馬のレースが少ないこの時期、丸かぶりするのは少なくない。

 肝心の勝ち上がりであるが、勝ち上がり第一号は安田記念の日の東京開催二歳新馬である。

「シンザフラッシュってそもそも誰の産駒なんですか?」

 涼は咲良の言を聞いてガクッとうなだれた。

「聞いて驚くなよ? オンファイア産駒だ」

 いまいちピンときていない咲良に潤が助け船を出す。懐からスマートフォンを取り出し、オンファイアと検索し画面を咲良に見せた。

「父サンデーサイレンス、母ウインドインハーヘア? あれ? これってどこかで……」

「お前なあ……競馬事に関わってて、これに即答できないって余程だぞ」

 涼が呆れた顔で笑った。

「ブラックタイド、ディープインパクトの全弟だな。この三頭まとめてウインドインハーヘア三兄弟だ」

 潤が補足するように言った。

 咲良は驚愕して、検索画面をまじまじと見た。画面にはオンファイアの画像が映っていた。

「ディープインパクト!? 三冠馬の弟?!」

「あーやっぱそういう印象か。三冠馬の弟か……」

「ブラックタイドとディープインパクトの種付け料が高額化したことによって代替種牡馬のオンファイアに白羽の矢が立ったってわけさ。で生まれたのがオンファイアそっくりの顔をしたシンザフラッシュだ」

 フラッシュに調教騎乗したことがある潤が思い出すように、また懐かしむように言った。

「最初は期待されてなかったよなフラッシュは」

「そうそう。クラシック皆勤したのが褒められる位だったからな。でもジャパンカップで涼が乗ることになって注目されたんだっけか?」

「そのジャパンカップ見てました! 涼くん初めてのG1勝利でしたよね? 覚えてます」

「あのジャパンカップでフラッシュの追い込みが決まったときは気持ちよかったな」

 三歳でのジャパンカップ勝利以後は、春の天皇賞連覇や五歳でのグランドスラム、そして現役最後の有馬記念は半弟サトミクライシスとの壮絶な叩き合いの末同着決着。

「涼と望の兄弟対決って色が強かったけど、馬の方も関係があったんだよな」

「どういうことですか?」

「サトミクライシスとは半兄弟なのは言ったな。父が違うんだけど、フラッシュは父オンファイア。クライシスは父ディープインパクト。兄が弟の産駒に乗って、弟が兄の産駒に乗るっていう面白いことになったんだぜ」

「あのレースって、シンザフラッシュとサトミクライシスが初めてかち合ったんですよね。サトミクライシスは大阪杯を勝った後、凱旋門に行ったんでしたっけ」

「そうだな。凱旋門遠征前に望が降ろされて、人の方の兄弟対決は有馬以前もあったんだけど、完璧なマッチは有馬が初めてで最後だった」

 府中2400mは保たないと言われていたシンザフラッシュは天皇賞春を連覇しているので結局長距離馬なのだが、サトミクライシスは3000m以上では力を発揮できなく、主戦場は2000mから2500mだった。なので春の天皇賞ではかち合わず、宝塚記念はクライシスが遠征準備で回避し、天皇賞秋もジャパンカップも凱旋門賞の関係でクライシスは出走できなかった。

 クライシスは凱旋門賞で六着と着外であった。

 帰国後初のレース有馬記念で人気二位に推され出走することになったサトミクライシスは遂に半兄シンザフラッシュと戦うことになった。

 結果は前述の通り。

 そして翌年、シンザフラッシュは種牡馬入り。サトミクライシスは現役続行で大阪杯からスタートとなった。サトミクライシスが引退したのは二〇一五年のジャパンカップ勝利後である。最終的な勝ち鞍は皐月賞、有馬記念、宝塚記念、ジャパンカップの合計G1四勝だった。大阪杯は一四年一五年ではまだG1に昇格していない。

「そういや、クライシスの産駒預かるのも今年からだったよな」

 涼が思い出したように言った。サトミクライシスのファーストクロップは二〇一七年生まれである。

「面白いことに、クライシスの産駒は美浦に集まってるみたいなんだ」

「潤くんは顔が広いですね」

「んーってことは、クライシスっ仔とフラッシュっ仔、どっち共うちで預かったりするのか?」

「涼、お前がいるから、フラッシュっ仔が藤村厩舎に来るんだぞ。クライシスっ仔とどっちに乗るのか今から見物だなあ」

 ああ、とうなだれる涼。痛いところを突かれたのだ。

「それさあ、おれ騎手として乗る馬選ぶ権利あるから、ほんと辛いんだよな」

「本心は?」

 咲良がそれとなく聞いた。

「クライシスっ仔に乗りたい」

 誰もが乗りたいディープインパクト系列。種牡馬実績が実績だけに、平地芝G1に最も近いのがディープインパクト産駒だ。近年は遂に孫世代が走り始めて実績を残しだしている。

 孫世代を送り出すディープ直仔の種牡馬たちで争いが起こる。かつてのサンデーサイレンスとその産駒種牡馬たちの重賞食い合いのように。歴史は繰り返すのだろうか。

「で、どんな仔たちがいるんだ?」

「俺の情報だと、アドミラルのお馬でクライシス産駒が見た目良いな。後はシンザの馬でフラッシュ産駒の尾花栗毛の仔がかわいい」

「どっちも見た目じゃないですか」

 咲良は呆れたようにツッコミを入れた。

「いやあ見た目って大事よ? 尾花栗毛の仔はなんとセールで二億」

「それ見た目より、シンザフラッシュの競争実績で買ってますよ。産駒デビューしてないのに二億は地雷です」

 無事に生まれたサラブレッドは、無事にデビュー出来るとは限らない。過去にはセール最高額をたたき出した仔馬が結局デビューできず繁殖入りしたケースがある。咲良の言うことも尤もである。

「まあ確かに」

 涼はなんとなく納得する。

 ふと壁掛け時計に目をやったら、既に時刻は七時を差していた。一時間はこうして話し込んでいたらしい。

「久しぶりの休みだし、おれはのんびりしよーっと」

「良いご身分だな。まあ俺も今日はオフなんだけど……」

「競馬サークルは月曜休みで良いですね。世間一般は月曜はただただ憂鬱な日ですよ?」

 まあ私は憂鬱じゃないですけどと咲良は付け足した。食器を下げておもむろに双子兄弟の分も洗い始める。

 潤は咲良の行動の一部始終を見て、嫌な笑いをした。

「お前ら相変わらずね」

 涼の肩に寄りかかってからかうように、また呆れたように言った。

「何が」

 涼は横目で潤を睨む。

「色々だよ」

 分かってるくせにしらばっくれるなと言いたげな潤に、涼はため息を吐く。

「爺ちゃんもさぞや喜ぶだろうて」

「そういうの無いから、少なくともおれは」

「お前はなくとも、咲良にはあるかもしれないだろ? いい歳なんだから分かってやれよ」

 双子は咲良に聞こえないようにこそこそと話す。

 いい歳といってもこの二人は双子であるから、潤にも言えることだ。

「潤は、藍沢の気持ち分かるのかよ?」

 藤村厩舎で涼の後輩騎手の藍沢岬と潤はお付き合いをしていると、涼は勝手に察していた。実際、岬も否定していない。

「俺はね、いや、俺たちはね、公表してないけどそこら辺分ってるから」

「はあ、何を分かっているのやら。おれには分からないよ」

 分かっているようで分からない素振りをずっとしている。それが潤には理解できなかった。

「だからアニキはバカなの! 見て分からねえの? 俺は咲良が美浦に突然来た時から気づいてたよ」

「それ以上は言うなバカ」

 いよいよ声が大きくなってきて咲良にも聞こえるほどになった。

「? 涼くんは普通にバカですよ?」

 咲良の言に双子はポケーっとする。涼は盛大にため息を吐いた。潤はもういいとばかりに席を立つ。

「何時かは知らなくちゃいけないと時が来るぜ? じゃあ俺は部屋に戻るから。毎日遅いから今日は一日中寝るんだ」

 結局、朝飯食いに来ただけかと呆れた。

「バカって、競馬バカって言いたかったのに……潤くんも忙しないですね」

「ああそう……」

 潤でさえ色々と感づいているのだ。いわんや本人においてをや。

  ///

 何となく、渡英に向けての荷造りをする涼。

 来週も再来週も日本での乗鞍があるのに、である。気持ちはすでにアスコット競馬場のターフの上だ。つまり心ここに在らずだ。

 朝、騒がしくしていた隣人と弟も自分の持ち場に戻って行った。

 ぽつんと一人、部屋で荷造りをしている。何を考えるでもなく、強いて言うならイギリス観光だろうか。

「アスコット競馬場ってロンドンに近いのかなあ……」

 近いと言えば近いが、その実ロンドン中心部から西に36マイル、キロメートルに換算すると約57キロメートルも離れている。

 そもそも観光しに行くわけではい。あくまで仕事の一環である。

「そう言えば、海外遠征って帯同馬は付くのかな」

 遠方の遠征の場合、馬のメンタルやレースの作戦を考えて同じ厩舎の馬が共に連れていかれることもある。ディープインパクトならピカレスクコート、サトノダイヤモンドならサトノノブレスのように基本的には同厩同馬主の馬だ。

 ブライアンズハートは一頭で遠征に行くわけでは無いだろう。

 ふと思い立って新聞を見やる。ブライアンズハートの遠征が取材されているはずだった。

 スポーツ欄の競馬面、ブライアンズハートが大々的に報じられているのは先述した。その中で、スポーツ記者が藤村厩舎に取材を試みている。

 記事によると、ブライアンズハートは同厩舎で同馬主の五歳牡馬シャッフルハートが帯同するようだった。

 シャッフルハートのG1勝ち鞍は朝日杯FSのみと言うのは先述した。主戦騎手はアルス・ローマンだ。

 記事を読み進めると、シャッフルハートはこの遠征でいわゆるラビットになるのではないかと予想されていた。主戦のアルスはラップタイムを正確に走り切ることができる。シャッフルハート自身は先行の脚質だと言う。

 シャッフルハートとアルスが早いペースでラップを刻めば同じく先行馬であるロビンソンを消耗させることができるだろう。前が潰れれば自然と後ろが伸びて来る。中団に控える作戦をとるブライアンズハートもそのロングスパートできる脚を使えば優に届く。

 そもそもラビットは各陣営が有力馬の勝利のためのペースメーカーとして投入される。欧州では普通に実行される作戦なのだが、日本では馴染みがないどころか嫌厭される傾向にある。

 ちなみにシャッフルハートにも欧州馬場の適性があるらしく、洋芝の函館や札幌での重賞勝ち鞍もある。それもハンデを背負ってでの勝ちであるから実力は相当のものだ。

 シャッフルハートはまだ五歳だ。ひょっとしたら本命そっちのけで良い着順を獲ってしまうかもしれない。ロビンソンを突っつく役割とは言え、シャッフルは昨年のカドラン賞をクビ差の二着している、いわばスタミナお化けなのだ。一頭の先行馬を突っつくくらい屁でもないだろう。カドラン賞はフランスギャロが開催する凱旋門賞ウィークエンドのうちの一つで、施行距離はなんと4000mの超超長距離だ。欧州の馬場でしかもその日の馬場の数値は日本で言うところの重馬場――日本馬には途轍もない負担がかかるレースだった。

 それを先行して2番手でのレース、最後は前残りで1番手との接戦叩き合いだった。

 シャッフルハートとブライアンズハートとの違いは、ここにある。

 ブライアンズハートに4000はもっての外、3000でギリギリ保つかどうかと言われているのに対し、シャッフルハートは3000以上でないと本領を発揮できないとされる。基本的に反応が悪いズブい馬なのである。

 ブライアンズハートは逆にキレる馬であると涼は思っている。

「うーん、約2400を600辺りからスパートするとしたら……おれはどうしたら……」

 そう考えたところで、同じく本日休暇中である同僚アルスに電話をする。

「もしもし? アルス、例の件だけど、アルスがシャッフルに乗ってくれるの?」

『どうしたんだい? もちろん僕だけど。あ、もしかして遠征のことが心配なのカイ?』

「まあそんなとこ」

『シャッフルハートの先行でロビンソンを突いて、最後にブライアンズハートが差し切るんだろう? 勝算は十分あると思うケド』

 お気楽な声色でその背後からは更にお気楽なBGMが聞こえる。アルスは一体どこにいるのだろうかと涼は思った。

『ダメだヨ、リョーが弱気じゃ。キングジョージも凱旋門もBCターフもジャパンカップも全部僕たちが優勝するんだって意気込みじゃないとネエ』

「心強い、アルスのそう言う強いところがおれは好きなんだよな」

 はははっ、とお互い笑いながら通話を交わす。

『リョー、サクラさんに言うことだヨ、そう言うのはサ』

「もーアルスまでそんなこと言うのかよ。おれはそんなつもり無いのに」

『本当にそんなつもりが無いのかナ? 僕らが見てるとそんな風には見えないナア』

 神代家が経営するマンションには数多くの美浦トレセン関係者が住んでいる。

 アルスもその一人であるゆえにか、同じ南棟の潤と連れ立って北棟の涼の部屋へやってくることもある。

 たまたま、咲良が上がり込んでいる時に、アルスらも乗り込んできたら、もう囃し立ての始まりである。咲良はそう言う風に見られているのが当然とばかりに平然としているのに反して、涼は嫌気がさすほどその空気中にいるのが耐えられないのだ。

 涼の頭の中は七割が競馬事で満たされている。残り三割は兄弟のことと、父親のことである。涼の身の上はとても一言では話しきれない。

 少なくとも、好きで入った競馬サークル。自分の意思でなった騎手。父と触れ合うためになったとも言える。

 騎手をやっていれば、父は自分を敵なり何なりと見ていてくれる。

 おそらく、現状の涼の心の中に咲良の入る余地はない。

『そうそう、僕はこの遠征……BCターフが終わって日本に帰ってきたら母国から婚約者を呼ぶんだヨ』

「え、結婚するの?」

 涼は驚きのあまり素っ頓狂な声を上げてしまったが、アルスは冷静にまた喋り出す。

『日本の騎手免許を取りにこっちに来る前に約束したんだ。僕が日本のG1を獲ったら結婚して下さいってネ』

 アルス・ローマンは二〇歳で日本の美浦トレセンに来た。母国ドイツでの騎手経験より日本での騎手経験の方が長くなってしまった。そんなアルス、昨年の天皇賞・春をビーチボーイで勝っている。約束は果たしたわけだ。

 そして二十五歳の今年、阪神大賞典をビーチボーイで勝ち、皐月賞ナギサボーイで僅差の三着、とG1制覇とまではいかなくとも善戦はしているし大きいところの重賞も勝っている。とても働き盛りの頃だ。結婚してもおかしくない。

『そうしたら、今年の有馬記念を観に来てくれるって言うんダ。有馬記念を勝って正式に結婚の申し出をするんだヨ』

「君も先のことを考えてるんだなあ。おれなんて目先のことしか考えられないよ……」

 ベランダに出て、ベニヤ板で仕切られている隣の部屋を見つめた。洗い立てのベッドのシーツが風に揺れている。洗剤の淡い香りが鼻をくすぐる。

 今まで考えていることが洗い流されるように、頭の中がスッキリとした。

『リョーはまだそれで良いのかもネ。でもいずれは考える時が誰にでも来るんダ。ま、とにかく遠征ガンバロウ』

「ああ!」

 電話を切る。ベランダから美浦トレセンを眺めた。全休な為か、調教の姿は見られない。

 この電話をもって涼は一つ、心に決めた。

 それが果たされるのは、今週末からの劇団虹の彼方の公演「風と共に去りぬ」が楽日を迎えた後のこととなる。それがキングジョージの翌日だ。涼視点だと新潟開催千直アイビスサマーダッシュの日だ。サマースプリント、コーセイスピリッツでの二戦目であるが――果たして。

 再び電話を取り出し、ある人物に電話をかける。

「もしもし? あのことなんだけど――」

  ///

 八月十五日、函館競馬場。メインレース「函館記念」。

 涼は再び函館の地に立っていた。サマーシリーズの一つ、サマー2000のレースだ。

 美浦・森本秀和(もりもとひでかず)厩舎の三歳牝馬、エンシンブレスはオークスの抽選に漏れた馬である。

 エンシンの馬は基本的に栗東に預託されることが多い。しかしこのエンシンブレスは牝系の繋がりから美浦・森本厩舎に預託された。

 新馬戦は三着、一番人気で迎えた年始の三歳未勝利で悠々一着。条件を挟みオープンに昇格したのがオークスの三週前。クラシック追加登録のちの抽選で惜しくも選外になってしまった。

 陣営が次に見据えたのがこのサマー2000だった。

 それまで主戦騎手だった元栗東で現在フリーの進藤真一(しんどうしんいち)騎手からの乗り替わりが神代涼だ。

 2000で騎乗させたら勝率三割(G1除く)を誇る、涼の腕を見込んで進藤から託された。涼本人はレベルの高い栗東出身の騎手から託されたのだから、感慨も深かった。同時にプレッシャーもあったが、それ以上に涼にのしかかっている別の重圧に比べたら屁でもなかった。

 ゲートに入り、一瞬手のひらを合わせる。最近意識するようになったルーチーンだ。先週の福島開催七夕賞でも、先々週の同馬場ラジオNIKKEI賞でもやった。結果は前者が一着、後者が二着だ。

 七月は二十八日土曜日と中京記念以外、ほぼ関東以北での乗鞍が多い。

 関東は庭だった。

 全頭ゲートインし、係員が離れる。

 ヨーイの合図の後ゲートが一斉に開いた。

 エンシンブレス押して中団に位置取る。

 このレース、エンシンブレスは二番人気だった。重賞馬や古馬のいるメンツの中で、戦績としてはいまいちパッとしない所謂地雷的な人気だったが、この馬のフィジカルは相当のものだと森本師は言う。

 その言葉の通り、エンシンブレスはすぐにテン乗りである鞍上の涼と折り合って、好位に構える形となった。

 1コーナーと2コーナーは出過ぎずに、向正面に差し掛かって徐々に進出していく。三角で馬群から外に出し、四角で先頭に立つ。

 四角からゴール板までは約260m。

 ゴール板に向かって伸びてゆくエンシンブレスに並び立つ他馬はなく、涼が鞭を二発入れて力の限り追う。

 後方から足音が聞こえる。エンシンブレスは一杯だった。半馬身迫られた。

 次の瞬間にはゴール板を駆け抜けていた。差されたかと涼は思った。

 馬をクールダウンさせ、着順を確認しようと、差した馬に騎乗していた式豊一郎にエンシンブレスを寄せる。

「差しました?」

「いや、君だな。多分」

 引き揚げて、着順指定エリアへ向かう。が、着順は分からない。

 ターフビジョンには決勝写真が映されている。

 エンシンブレスがクビ差をしのいでいるようだった。

 着順掲示板にすぐさま、エンシンブレスの馬番が一番上に灯った。

 安心して涼は一番の指定エリアに馬を入れる。

 自らは直ちに、検量室へ向かい体重を計測する。

 問題なく、勝利ジョッキーインタビューに応じることとなった。

 淡々とレース結果を述べる。

 テン乗りなのにすぐ折り合えるくらい馬が優秀なこと。キレが良く粘り強い、また勝負根性旺盛なこと、とても良いレースだったと回顧する。

 インタビュワーも満足して、インタビューを切り上げる。

 特に海外遠征のことは聞かれなかったなと涼は思った。

 それはこのレースに関係ないことだと自己解決した。

「神代くんおめでとう、今の所君がサマージョッキーで一位だよ」

 帰りがけに式豊一郎に呼び止められ、函館の居酒屋に繰り出す運びとなった。

「先輩、気が早いですよ、まだ半分も終わっていないのに」

「それに先輩とは数ポイント差です」と付け加えた。

「CBC賞に君が出ていない分のポイント差だよ。僕はアイビスSDに出ないから、もっと離れると思うよ」

「そうですかね」

「あ、ここの蟹は美味しいよ、はい」

 豊一郎が蟹の足を一本涼に手渡す。

「いただきます」

 一口かぶりつく。美味い。

「先輩、それにしてもよく飲みますね」

「そんなに飲んでるかな?」

「いえ、ペースが速いって意味です」

 食べて飲んで他愛のない会話をする。涼の目の前にいるのは涼が中学生の時に憧れた式豊一郎騎手本人だ。

 豊一郎がビールジョッキを静かにおいて、神妙な顔で涼をみた。

「神代くん、海外遠征するのを機にフリー騎手になってみたらどうかな?」

 美浦所属でもなく、栗東所属でもないフリーの騎手だ。豊一郎がそれだった。

 フリーになれば栗東の馬にも乗る交渉ができるし、海外のレースにも制約なく交渉ができる。フリーランスとは言うが、書類上、美浦所属のままであるし中央競馬会所属のままである。

「うーん、考えたことはありますけど、まだ藤村先生に教わることもありますし、おれにはまだ早いですよ」

「そうかな。実績的にはいつフリーランスになってもおかしくないと思うけど」

「祖父が最後まで関東の馬にしか乗らなかったので、関東に拘るのはそのせいもありますね」

「和尭先生か。懐かしいな。九〇年代前半、僕がフリーになりたての頃、よくしてもらったよ。先生としてはもう定年近かったらしいけどね」

「祖父は藤村先生の自立を見届けて引退しました。同時に父もアメリカから帰ってきて栗東に行っちゃいましたけど」

「久弘さん、普段は君たち兄弟のように穏やかなんだけど、和尭先生と喧嘩別れしたんだよね」

 栗東を活動拠点にするフリー騎手、式豊一郎は度々神代久弘と顔を合わせる。

 久弘は豊一郎に全幅の信頼を寄せているようで、空いた馬を豊一郎に回しているようだ。

 栗東では勉めて明るい調教師のようで、人柄も増し評判もよかった。

 涼にとっては負けず嫌いの苛烈な父親と見ているが。

「父も祖父も頑固ですからね……」

「君や望くんもそうだと思うけど」

「先輩は望のそばにいますからね。それにしても、おれより調教助手の弟の方が頑固一徹ですよ」

 豊一郎がふと考えるそぶりを見せる。活動拠点が栗東なので潤と会う機会がなかなか無いのだ。故に、潤の人となりを図りにくい。

 それにつけて潤が師事する藤村直義厩舎は積極的に関東の騎手を乗せる傾向にある。藤村厩舎に預託する馬主も関東騎手を見込んで預けている。

 豊一郎はじめ関西の騎手が藤村厩舎に接近することもない。これは先代ともいえる和尭の方針に酷似していた。

「いよいよ再来週はキングジョージだね。栗東の競馬関係者も注目してるよ」

 涼は、あえて、父は、とは聞かなかった。

「君はいつアチラに行くんだい?」

「そうですね……中京記念終わったら、その日のうちにヒースロー空港行きの便に乗ろうかと思ってます」

「…………ん? 君はアイビスSD出る予定なんだよね? んんー??」

 豊一郎がうんうんと考え込んでいる。

「今更気付いたんだけど、キングジョージに出た後、とんぼ返りしてもアイビスSDには間に合わないような……。いや、今気がついたんだけど」

 涼はロンドンとの時差を計算した。次の瞬間、顔が一気に青ざめた。

「いや!! えっ! あれ! おれ馬鹿では?! 前日新潟入りとかどうやっても無理じゃん!!」

 馬鹿をさらしたとわめいて、藤村師に急いで連絡を取った。

『アイビスSDに出走予定のコーセイスピリッツに乗るのは初めから君じゃない予定なんだけど。吉川くんだよ。君にキングジョージの予定が立ったときに吉川くんと春間オーナーにお願いしておいたんだけど……あれ言ってなかったかい?』

「寝耳に水です!! いや、改めて考えるとおれが乗るのはどう考えても無理ですけど!!」

『まあ落ち着いて。アイビスサマーダッシュが終わって次のキーンランドカップ如何でサマースプリントチャンピオンが決まるから。正直セントウルSにはシリーズ優勝動向するメンツが集まらなさそうだからね』

 キーンランドカップで君が乗るんだ、と藤村師。予定ではアイビスサマーダッシュで勝ち負けしてポイント加算してキーンランドカップに乗り込むのだそうだ。

『ところで、サマーマイル、高島哲也(たかしまてつや)厩舎のスターサフィールだそうだけど、なにか聞いておくことはあるかい?』

 この人は……と一瞬がくりときたが立て直し、話を続ける。

「おれ、高島先生とあまり面識がなくて、スターサフィールのこともよく知らないんです。七夕賞の週に挨拶に行きましたけど、サフィールは丁度追い切り中でしたし……」

『では、その追い切りを見て感じたことは?』

 スターサフィールは四歳牡馬。三歳夏に上がってきたオープン馬である。主にマイル以下を主戦場とし、マイルでは抜群の安定感を持っている。がしかし、大舞台には弱いためG1は獲っていない。

 G1初舞台を昨年のマイルチャンピオンシップとしたが、絶対王者を前にして二桁着順。以降は小さいところをポツポツと勝っている。晩成型でしかもまだ四歳であるからG1を勝利出来る可能性はある。

 このサマーマイルは秋のマイルチャンピオンシップと香港マイルのたたき台であるそうだ。叩いて良化する馬だという。

「スピードと馬格がありますね。誰の産駒なんですか?」

『誰というと分からないかも知れないが、サクラバクシンオーの孫……かな』

「ああ、だからですか。でもマイルの距離よく保ちますね」

『なんでもダイワメジャー肌馬かららしいよ』

 スプリント血統にマイル血統の掛け合わせという単純なものであるが、少々ノーザンダンサー系が重い。強いて言うとノーザンテーストだが。

「あーなるほど……」

『マイルの経験乏しい君にうってつけだと思うよ』

「おれもそう思います。だっておれバクシンオー地味に好きなんですよ」

 サクラバクシンオーは涼が生まれた頃に活躍していた名スプリンターである。ダイワメジャーは涼が小学生の頃に皐月賞を勝った馬で名マイラーだ。

 サクラバクシンオーの父サクラユタカオー、更にその父はテスコボーイだ。

 テスコボーイの代表産駒といえばトウショウボーイである。アルスが主戦をやっているビーチボーイ・ナギサボーイ全兄弟の祖ということだ。

 現三歳のナギサはともかく古馬のビーチは春の天皇賞の実績があるステイヤーだ。

 で、サクラバクシンオーの父サクラユタカオーは秋の天皇賞の実績がある中距離馬であるが仔のバクシンオーは短距離馬として名をはせた。バクシンオー産駒たちも漏れなくスプリンターとして活躍している。

 同じテスコボーイを祖に持つ馬でもここまで違いが出るのだ。偏に肌馬の存在が大きいと言えよう。

『それじゃあ、納得したところで』

「はい、すみませんでした」

 ため息を吐いて電話を切る。対面の豊一郎は苦笑しながら酒をあおっていた。

 涼はやけになったのか、北海道の地酒を注文し飲みに飲んだのだった。

 そして函館記念の週は終わり、中京記念の週となった。

 前述の通り、レース前最後の追い切りをこなす。

 スターサフィールの4F追い切りは格別のタイムとは言えなかったが、まずまずの時計を持って出馬投票の木曜日を迎えた

 十六頭立てとなり、なんと大外枠引いてしまったスターサフィール陣営はうなだれる。馬場状態は刻一刻と変わるのだが、先週の中京開催ではほとんど外枠の馬は掲示板に来ていなかった。

 データとして、スターサフィールの枠で考える成績は内枠から真ん中までの方が圧倒的に良かった。外枠を引いたレースは大概凡走か良くて掲示板の一番下――五着と言うことになる。

 幸いにして、中京の千六は外枠が有利である。そしてスターサフィール自身も中京千六は500万条件で経験している。

 たとえ外枠が来ない馬場だったとしても、データ上ではスターサフィールが有利なのだ。

 出走馬の鞍上に神代望の名前があった。厩舎は望が所属する池川厩舎だ。

 望が乗る馬もどうやら三歳夏に上がってきた馬だそうだ。

 戦績を見てみると、スターサフィールとは以前同じレースに出走していたようだった。鞍上もしっかり望である。主戦なのだろう。

「はーさぞかし信頼されてんだろうねえ」

 投票を終え、スターサフィールの担当厩務員で同級生の天沢優一(あまさわゆういち)に愚痴をこぼす。

「望くんか。彼のような騎手を天才と言うんだろうね。デビュー年に桜花賞・秋華賞・菊花賞・有馬記念を優勝する騎手なんか聞いたことないものな」

「おれなんかよりよっぽどG1乗鞍あっても良いと思うんだよな」

 涼はデビュー年でクラシック皆勤賞、その後のJCでのシンザフラッシュ大抜擢である。G1乗鞍に恵まれている涼に反して二歳下の望は大レースにあまり顔を出さない。デビュー年のクラシックが異様すぎたのだ。

 涼の考えでは、言い方は悪いが、当時ペーペーの騎手が大レースを勝利しまくったことで干されてしまったのではないかという。

 実際そんなことはなく度々ではあるが秋の天皇賞や宝塚記念・有馬記念などに乗鞍がある。先月の宝塚も望は池川厩舎の馬で出走していた。

 しかしそれ以上に平場での活躍が目立つ。

 関西の平場は望の庭とまで言われている。

 必然的に二歳馬や未勝利馬、条件馬の乗鞍が多いことになる。そしてそれらを勝利に持って行っている。

 たちの悪いことに、望がオープン馬にした馬はその後東西問わずベテラン騎手に乗り変わる事が多い。

 最初から望で通した馬より、未勝利を望が乗り結果如何にせよベテランから離れた馬の主戦になって重賞戦線に出走している馬の方が圧倒的だ。

 要は勝てない馬を勝たせる能力に秀でているのかも知れない。

「栗東じゃ、新馬にはまず望を乗せてみろって言われてるそうだぞ」

「なるほど、それで勝ったらたいした馬で、未勝利何戦して勝ち上がったら望のおかげか」

 望の百倍は恵まれているであろう涼の新馬は、まずもって有力馬を任されるので、大概は馬の力で未勝利になることなく勝っている。

 しかしそこから停滞するので主戦神代涼ではクラシックが勝てなかったのだ。

 故に、涼は藤村厩舎以外ではそれほど信頼されていない。

 調子が良いこのシーズンで漸く顔が広くなってきたのだった。

 どんな馬でも必ず勝ち上がらせる望への信頼感はさぞや凄かろうと涼は思った。

「なあ、平場で勝ちまくって最多勝率上げるのと、大一番で勝って最多獲得賞金獲るのとじゃ優一はどちらが良いと思う?」

「そりゃ個人の価値観で変わるだろ。シーズン安定して活躍して億プレーヤー目指す野球選手と、シーズン毎に三冠王とかのタイトルゲットだけを目指す野球選手くらい違う」

「……金か名誉かってこと?」

「まあね。お前はどっちだ?」

「んーここだけの話、三冠馬のジョッキーになりたかったから名誉かな」

「よく言うわ。どのみち名誉なことだが三冠馬より欧州二冠にBCターフ馬の方が日本競馬界的には偉業だわ」

「お前がクラシックに拘る理由はよく分かる」優一が涼への思いをかみしめながら言った。

 涼にとってクラシックレースとは、大きな権威を持った歴史あるレースでこれを勝てば一人前になれると思っている。三冠達成すればもう一流の域だ。

 涼はそのレースにほとほと縁がなかった。

 しかし今年、初めて桜花賞・皐月賞・日本ダービーを勝つことができたのだ。当然次に見据えるのは牡馬の三冠だろう。ブライアンズハートが海外遠征せず秋に菊花賞を走ったら実現するかもしれないのだ。

 しかしブライアンズハートは欧州最高峰のレースに目を向けた。

 それが良いのか悪いのかは涼にはわからない。

 世間的にはブライアンズハートは菊花賞に行くべきとの世論のほうが強かった。

「オーナーの夢もあるんだ。涼はオーナーの夢を叶えられる存在なんだよ」

 優一がそう言って、涼の気持ちは幾分か引き締まった。

 そして中京記念の開催日を迎えた。

 前日の中京の馬場はやはり外が来ない。

 涼個人としては土曜平場で三勝、日曜平場で一勝だった。

 中京記念のパドックでは、悠々とスターサフィールが周回していた。若干チャカチャカしていたが、すぐに落ち着いた。

 六歳牡馬で池川厩舎所属、神代望鞍上のグッデイグッバイは、漆黒の馬体を輝かせて歩様を見せていた。

 青鹿毛のスターサフィールよりは黒くはない。

 しかし仕上がりはかなりのものだそうだ。スターサフィールを引きながら周回していた優一が言う。

 号令がかかり騎手たちが各馬に散ってゆく。涼は高島調教師に現在のオッズを聞いた。スターサフィールは現在単勝支持率3・0倍の二番人気だそうだ。

 一番人気は池川厩舎のグッデイグッバイだという。

 図らずして、神代兄弟の対決になりそうだった。

 ピンク帽子の八枠一六番スターサフィールの遥か内側にグッデイグッバイと望がいた。赤の帽子三枠六番らしい。

 本馬場入場で各自返し馬に入る。スターサフィールの返しは抜群であった。レース前の最後の追い切りでは抑えめに走っていたらしく、その前である一週前追い切りではとても良い時計を出していた。

 回し馬でゲート入りまで待機する。しばらくすると中京重賞レースのファンファーレが聞こえてきた。いよいよ枠入りだ。

 一番最後にスターサフィールが収まって体制完了になる。ガコッとゲートが開いて、スターサフィールは勢いよく飛び出していく。当馬はスタートが上手く先行できる脚質の持ち主だ。

 このレースも早々と番手に付け最先方をマークする。

 中京千六は展開いらずと言われている。最後に直線で伸びた者が勝者だ。

 スタートしてしばらく走るとすぐに向こう正面となる。そこでスターサフィールは易々と折り合う。スターサフィールの前には一頭しか馬がいない。その一頭は若干逃げ気味にスターサフィールを離している。グッデイグッバイは後ろの方か。

 三コーナーを回りスターサフィールのチェンジ促すよう見せ鞭をする。

 四コーナーを過ぎた頃に、最先方を捉えスターサフィールが先頭になる。ここからゴール板少し前まで坂である。

 スターサフィールはまだ持ったままだ。後ろから後続馬の気配を感じた。

 ようやく追い始めた頃には坂は登り切っていて、後はゴール板までの短い直線だ。

 あと100m。その時、スターサフィールに並びかけてきたのはグッデイグッバイだった。涼はムチを一発入れ力の限り押す。二頭並んでゴール板を駆け抜けたように見えた。

「兄さん! 兄さん! 凄いね!! 僕は坂から滅茶苦茶追ってるのに」

 望がグッデイグッバイと共に寄ってきて、テンション高めに兄を賛辞した。

「望、差したかな?」

「兄さんが凌いでると思うよ」

 いやな予感がした。

 ターフビジョンには線上カメラが映し出された。

 明らかにグッデイグッバイが差していた。なんともいえない表情をした涼は何も言わずに着順指定エリアの二着枠へスターサフィールを入れた。

「まあ、ポイント入ったし良いか。切り替え、切り替え!」

 いつも勝ち負けを引きずる涼は、ここ最近になって多少は割り切れるようになった。

 釈然としない顔をした望は、首を捻りながら一着エリアへ馬を入れた。

 兄さん、と隣の兄を呼ぼうとしたが、涼は望を見やって苦笑をこぼした後、検量室に入っていった。

 そのとき望は思った。長兄は、ブライアンズハートの遠征しか考えていないのだと。

 池川師が望の元へやってきて、労おうとしたが望の様子に少し違和感を覚えた。

「どうした? 望?」

「先生、僕はどうしたら良いんですかね……できるなら兄さんの力になりたいのに」

「神代涼のことは直義君に任せれば良いんじゃいか? 私たちがつけいる隙は無いと思うが……」

 ブライアンズハートと神代涼の事を考えているのは藤村厩舎の者たちだけではなかった。無敗の二冠馬が日本競馬を代表して、まだ誰も為しえていない偉業に挑戦しようというのだ。東西問わずブライアンズハートの力になれないかと調教師たちは思っていた。若手の身分で海外遠征する重圧を少しでも軽くしてあげたいのが調教師や厩務員たちの共通の考えだった。

 しかし、勝負の世界であるから、よその厩舎関係者がそこまで入り込むことはできない。なにせ涼はまだ美浦専属のジョッキーなのだから。

 栗東の池川秋時(いけがわあきとき)調教師自身は、望と涼の違いを確認するために、涼に騎乗依頼をしたことがあった。しかし丁重に断られたのだった。

 涼は美浦ではそれなりに特別な存在らしく、美浦調教師の一声がなければ大抵主戦を下ろされることはないらしい。

 マジシャンズナイトの件は前述したとおり今年のクラシック馬でキングジョージ挑戦を表明しているブライアンズハートに専念するためだった。

 池川師のブライアンズハート評として、ダービー後に声明を出したが、内容としては荒れ馬場でも伸びる末脚は驚異的で欧州向きとのこと。だいたいオーナーの心田と同じだった。

 逆に、良馬場だった皐月賞では三頭もつれた接戦であった。

 単純に考えて日本では渋る馬場に強いと見る。芝が深い欧州馬場に最適化できれば敵なしであろう。

 逆に考えれば、京都競馬場の菊花賞で、もし良馬場だった場合、勝つ見込みがないと言える。

 そこを考えての欧州遠征だったと言えるように、涼はしっかりと洋芝の感覚を掴んだのであった。

 そして――。

 七月最終週月曜日の成田空港。

「二人とも忘れ物はないか?」

 潤がそう何度も確認するように言った。

「大丈夫だヨ、ジュン」

「おれも――」

 アルスに続いて、自分もと言おうとしたら、潤が遮った。

「バカ、厩舎にステッキ忘れてたぞ。これ、じいちゃんの大事なお下がりだろ?」

 ステッキにはK・Jと刻印されていた。カズタカ・ジンダイの持ち物である証拠だ。今は涼が譲り受けて愛用している。どのレースにもこのムチを使っている。曰く、偉大な祖父の力を借りるためらしい。

「あ、やべっ……これが無きゃおれレースに集中できないんだよな」

「はあ……前途多難だ」

 潤は迂闊な涼を見て頭を抱えた。端から見ている神代一家は、長男の出立に総出で送りに来ているようだ。

「俺のステッキまだ使っとったんか。それそろ新しくしないとガタがきているだろう?」

 和尭が孫を心配するように言う。

「使えるうちはまだ爺ちゃんのを使うよ。だって爺ちゃんはこのステッキを使ってクラシックや天皇賞を勝ったんだから」

「カズタカ先生は本当に凄い騎手だったんだネ」

 その名声を伝え聞くのみのアルス・ローマンは生の神代和尭に会って感動したようだった。

「お義父さん、文じい、絹ばあ、そろそろ時間ですよ」

 梓が搭乗時刻を確認してから、改めて愛息を激励した。

「涼、頑張ってらっしゃい。アルス君も。競馬サークルにいるみんながあなたたちを応援しているわ」

「母さん……」

 父さんも、と涼は言いかけたが母の様子を見て言わないでおこうとした。

 出立の空港には当然のことながら父の姿はなかった。しかし実家の隣人である間寺一家が涼とアルスを見送りに来ていた。

 陣一が一歩前に立ち、涼の手を握って暗示をかけるようにポツリと独り言をつぶやいた。

「陣一さん、今のは?」

 涼が疑問に思いながら聞いた。

「私が仕事に行く時に、毎日、その日の安全を祈って自己暗示をかけているんだよ。願わくば、涼くんに安全にレースに臨んでもらいたいからね。後は咲良の分だよ」

 咲良は「風と共に去りぬ」の公演でこの場所にはいない。

「応援馬券は買えないかもしれないけれど、その楽しみは凱旋門までとっておくよ」

「ありがとうございます。陣一さん」

 陣一に一礼して、今度は流真に向き直る。流真は陣一とは逆に一歩後退った。

「意外だ。流真はおれに興味がないものとばかり思っていたよ」

「いくらバカ兄貴だって、世界に挑戦するんだから、応援しないわけにはいかないじゃんか……」

 そっぽを向いている流真に、涼はやれやれと片手を差し出した。

「勝って帰ってきてやるよ。おれが有名になる前に握手しといていやる」

「ふん」

 またもそっぽを向きながらもその手を取って堅く握手を交わした。

「姉貴のためにも勝てよな」流真はそう耳打ちした。それを聞いた涼は小さく、そして決心するように頷いた。

///

 涼が発って一日が経った。そんなとき世田谷の神代家に意外な人物が訪れた。

 インターホンが鳴り、文じいが出迎える。玄関を開けたら、文じいは仰天した。玄関の前にいた人物とは。

「久坊……」

 玄関の前に立っていたのは、三兄弟の父親で和尭の一人息子、久弘その人であった。

「文じい。親父は?」

 神妙な面持ちの久弘に文じいは、ただ事ではないと思い、直ちに久弘を和尭のいる部屋へ通した。

 騒ぎの原因に気付いたのか、和尭は読み物を閉じドカンと座って久弘を待っていた。

「親父、涼の件なんだが……」

「奇遇だな久弘。俺も涼のことでお前さんと話したかったんだ」

「なら率直に言う。アイツは勝つと思うか?」

 久弘が真剣に和尭を見つめる。その顔は息子たちとそっくりだった。

「キングジョージは勝てるだろう。凱旋門ははっきり言って駄目だと思うが」

「やっぱり親父もそう思うか。いや俺も、今回の遠征は馬の力だけで一つは獲れると思っているんだ。ブライアンズハートは涼には過ぎた馬だ、このままでは御せなくなるぞ」

「ブライアンズハートに乗って何か感じ取ってくれればと思っていたが……やはりまだ半人前だな。若い頃のお前にそっくりだ」

「涼はまだブライアンズハートの声を聞ききっていない、と?」

 久弘の問いに和尭は湯飲みを傾けながら、考える素振りをする。

「レースにただ勝てば良いと思っているよ涼は。G1に負けてばかりだった後遺症か知らんがな」

 湯飲みを置いて、ふと庭先を見る。庭には三兄弟が生まれた時に植えた梅の木が各三本、木立を揺らしていた。涼の木、潤の木、望の木、とそれぞれ立て札が立っている。

 不思議なことに、最後に植えられたはずの望の木が一番成長具合が良かったという。逆に難儀したのが涼の木であった。

 それぞれ成る実も望や潤の木の方が圧倒的に見栄えも良く、漬けるにしても美味しかったそうだ。手間をかけた割には実りが悪い涼の木は毎年最後に開花して、絶好の受粉の時期を逃していたらしい。

「もしローゼンリッターが菊花賞を勝ったら、俺たちもジャパンカップに行くつもりだ。そこでブライアンズハートと決着をつける。少なくとも俺は逃げない」

「そうかい。お前らしくないな」

 一度は逃げた久弘が今度は逃げないと宣言した。和尭は表情を変えずに唯々庭の梅の木を眺めていた。

 久弘はそれだけ言い残して、実家を後にした。

「はあ、まだまだ子供だなあ……」

 和尭のつぶやきが誰に対するものなのか分かる者はいなかった。

///

 水曜日のロンドン。

 ブライアンズハートとシャッフルハートは最終追い切りに臨んでいた。

 馬体を併せての追い切りはどちらが先着するでもなく併入だった。

 といっても悲観的な内容ではなかった。一杯ではなく流しの追い切りなので本当に最終調整といったところだ。

 重要視されているのは一週前、つまり前週の追い切りの時計だった。前週はシャッフルを前に置いて6F一杯、ブライアンズハート先着でラスト1Fの時計が十一秒八という好時計だった。

 この追い切りを受けて、イギリスのブックメーカーでのオッズは一ケタ台を推移するようになった。が、依然として支持率一位は英ダービー馬ロビンソンである。ブライアンズハートはこのまま行くと五番人気に落ち着きそうであった。

「いいネ! ブライアンは今のところ流石って感じだヨ」

「シャッフルも良い時計じゃん」

 ラップタイムをそれぞれ見比べる。

(ハート……もうすぐだよ)ブライアンズハートのたてがみを撫でる。

 二人は厩舎に馬を戻して、一息吐くことにした。

「そういえば、このあと午後から何するんダイ?」

 アルスが昼食にウナギのゼリー寄せという料理を食べながら、今日の予定を涼に聞いた。涼はウナギのゼリー寄せを傍目にみながら、スープカレーをすする。

「調整室に入らない内に観光しようかと……どこが良いかな?」

 涼とアルスは現在ロンドン郊外にいる。出ようと思えばロンドンの町中に行けるだろう。

 遅れて厩舎から戻ってきた藤村師が助言する。

「そうだなあ……大英博物館とかどうかな」

「大英博物館!! 面白そう、行ってきます!!」

 そんなこんなで涼とアルスは二人揃って大英博物館へ繰り出してしまった。残された藤村師はシャッフルハートとブライアンズハートを見比べながら「君たちの主戦は剛毅だねえ」とこぼしたのだった。

「リョー、お土産とかどうするの?」

「えーっと、母さん、爺ちゃん、婆ちゃん、潤に望、あと文じいと絹ばあ。うーん後は咲良とか間寺一家かな」

 指折り数える涼の顔を見てアルスは笑みがこぼれた。涼は怪訝な顔をする。

「なんだよ、笑うとこあった?」

「いや別に……意識を変えたんだナーッテ」

「……ん、まあね」

 なにか理解した涼は、一転キザな笑みを浮かべた。

「でも一番のお土産ってG1勝利なんだよなあ……」

「一番期待されてるやつダネ」

「そうそう」

 博物館内を見学する二人。物珍しい展示物に夢中になっていた涼とアルスは、前から歩いてきた在る人物にぶつかってしまった。

「アウチッ」

「あ、すみません」

「ソーリー、僕も前を見てなかったよ。ん? 君は……」

 178センチ強の涼より少し低い背丈の英国人男性だった。英国人男性は涼を見た途端なにかを思い出すように涼の顔を見続けた。

「あ、あの、おれが何か?」

「あー思い出した! ニッポンのジョッキー、リョウ・ジンダイだ!」

 英国人男性は破顔一笑、涼の肩を掴んで揺さぶった。あまりの感動具合だったらしい。

「KG6&QES、ロビンソンとの対決楽しみにしているよ! シーユー」

 意気よく去って行った英国人男性に、涼はなんだったんだとばかりにその後ろ姿を追うのだった。一部始終を見ていたアルスはこれまた英国人男性に見覚えがあるようで記憶の底をたどっていた。

「知ってる人?」

「あーえーと、どこかで見た気がするんダ。どこだったカナ」

「昔会ったことがあるような」と頭を回転させるアルス。

「世界は狭いな」

 素っ気なく返す涼に、「違うんだヨ、そういう話じゃなく」と延々考えるアルス。仕舞いの果てには展示物を粗方見学し終えるまで考えていたが解決しなかった。あの英国人男性は誰だったのか。それはロンドン時間の土曜日に分かることになる。

 ロンドン時間、七月二十八日……十五時ジャスト。アスコット競馬場。

 馬番ゼッケン2番をつけたブライアンズハートと5番をつけたシャッフルハートがパドックを周回している。

 ブライアンズハートの前方、つまり馬番1番のロビンソンが鶴首で悠々とパドック周回している。

 騎手が待機する場所で涼はある人物を見て驚愕した。

「あ、あなたは、大英博物館で会った……」

「イエス、僕の名前はアーサー・アディントン。ダービー馬ロビンソンの騎手だよ」

 割と普通な反応の涼に対して、アルスの反応は壮大なものだった。

「アディントンジョッキー! 英国が誇るリーディングジョッキー!! 思い出した……僕がドイツにいた頃、ドイツのレースに乗鞍があって来てくれた人ダ!」

「ニッポンのリーディングジョッキー、リョウ・ジンダイと、ドイツが誇る若手最強ジョッキー、アルス・ローマンだね。こうしてこの場に一緒に立つことが出来て嬉しいよ」

 アーサーが涼とアルスに握手を求めた。二人は快く手を差し出して固く握手を交した。

「アディントンジョッキーはそんなに凄いんですか?」

「バカリョー! この人は凱旋門もドバイワールドカップも勝っている名手なんだヨ!! しかも歳はまだ二十七歳で既にリーディングトップに三年間居座っているんダ」

「でも、おれだってリーディングジョッキー獲ったことあるし……」

「ははっ、シンザフラッシュの年だろう? 覚えていないかい? シンザフラッシュが勝った2014年ジャパンカップに僕も乗鞍があったんだよ」

「ええっ!! 日本に来たことがあるんですか?! おれとニアミスしてたんだ……」

「シンザフラッシュは本当に強かったね。あの馬に乗っている君は輝いて見えたよ。今日のブライアンズハートはどうかな?」

 アーサーはそう言ってブライアンズハートの方へ目を向けた。

 ロビンソンより少し劣る馬体はしかし輸送疲れを感じさせない歩様を見せていて、逆に雄大に見えた。今日の馬体重は500キロ。ダービーより10キロ増という計算になる。これは成長分だと藤村師は言った。

「ニッポンのダービーステークスの噂は聞いているよ。荒れ馬場を無双したみたいだね」

 流石世界のアーサー・アディントンである。日本の競馬をしっかりと熟知しているようだった。それに引き換え涼ときたら、ロビンソンがどういった馬かよく知らなかった。

 エプソムダービー逃げ先行で一〇馬身ちぎった馬だという事しか知らない。

「バートン先生は先行馬の育成に強くてね。僕も先行脚質の馬は好きだ」

「おれは差し追い込みの馬の方が豪快で好きです」

「好き好きだよ。どんな馬でも勝たせるようなジョッキーになりたいね」

「はい」

 しばらくして、騎手の招集がかかった。

 いよいよ本馬場だ。

///

「洋輔兄ちゃん! 起きろよ!! ブライアンと涼さん出てくるぞ」

 日本時間深夜。北海道新冠。役場にて。

 役場のソファに寝そべって仮眠をとっていた日進洋輔は弟の公輔にたたき起こされる。

「公輔静かにして! 洋輔もちゃんと起きて」

 七海が目に隈をつくりながら幼なじみの隣人を叱責する。気が気ではない。七海も貧乏揺すりしながら特大プロジェクターを見つめる。

「……お姉ちゃんも落ち着いて。はいお茶」

「ありがとう遥乃」

 ぐぐっと緑茶を飲み込む。

「いよいよね」

「うん……」

///

 日本時間、深夜。東京都世田谷。神代邸宅。

「お母さん、僕コーヒー作ってくるよ」

「望、俺も分も頼む」

「潤兄さんと僕とお母さん、爺ちゃんも飲む?」

「俺は緑茶でいい」

「分かった。急いで淹れてくるね」

「早くしろよーブライアンもう走っちまうぞ」

「うん」

「和さん、隣の陣一さんたちを連れてきましたよ」

「おう文さんありがとうな。陣一君に菜々子さん、流真くん、夜分遅くにすまんな」

「いえ、呼んでいただいて光栄です。咲良がいないのは申し訳ないですけど」

「良いんですよ間寺さん。咲良ちゃんも舞台の楽日で忙しかったんですし」

「美浦のマンションで観戦しているのを祈るばかりです」

「和尭じいさん、涼の奴は勝つのかな?」

「どうだろうね? 多分勝つだろう。流真くんもそう思ってるだろう?」

「……はい」

///

「リョー、頑張ろう。頑張って、胸張って日本に帰ろう」

「……行こうか、アルス」

 ブライアンズハートはアスコットのターフに放たれるや否や、勢いよく返し馬に入っていった。

『全世界が注目する今年のKG6&QESがやってまいりました。今年は八頭がアスコットの頂に挑戦します。注目すべきは今年のダービーステークス馬ロビンソンと鞍上アーサー・アディントン。そしてニッポンのサムライ二冠馬ブライアンズハートと鞍上リョウ・ジンダイ。ロビンソン逃げ切るか、ブライアンズハートがそれを阻止するか、ロードトゥアーク、重要な一戦が今始まります』

(十数年前――サンデーサイレンス産駒のハーツクライが三着に入ったこのレース、今度はブライアンズタイム系統のハートが走る……。ハート、君の声が聞こえる気がするよ。君は今凄くこのターフを走りたいんだね。隣のロビンソンが気になるかい? おれも気になるよ。どんなレースになるかな。おれは君を勝たせることが出来るかな……いや勝つことよりもまず無事に回る事だけ考えよう)

 ゲート内ブライアンズハートの馬上で手と手を合わせる。精神一到。

『全馬体勢完了――スタートしました! ほぼ一線の好スタート。さあ何が行く――やはりロビンソン行きます、アスコットで逃げを打ちます。そして直ぐ後ろにニッポンの五歳馬シャッフルハートが追走』

 ブライアンズハートは押して五番手に位置取る。ブライアンズハートの先団と、前を行くロビンソンとシャッフルハートとの差は五馬身ほど。

『最初の直線、長い先団になりました。ロビンソンとシャッフルハート相変わらずつかず離れずの位置取り。五馬身後ろに去年の香港ヴァーズ二着馬グランデューク。その後ろ位置取りを上げてニッポンの二冠馬ブライアンズハート、ジンダイが手綱を抑えています』

『最初のコーナーを曲がって、また先の二頭がペースを上げました、名手アディントンどう出るか』

(ここが最低地点スウィンリーボトム……)

『1200を通過、ここから地獄の上り坂です、先頭を行く二頭少し厳しいか?! 後方足を溜めている!』

『先頭ロビンソンとシャッフルハート残り800地点を通過。おっと後方のブライアンズハートが進出していきます! まだ続く上り坂アスコットの頂は遠いぞ!! それに続いてグランデュークも上がっていく!!』

(残り600で並ぶ!)

『ブライアンズハートどんどん上がっていく! ジンダイ手綱を緩めたか? さあ最後の直線!! 最後の坂! 一番先に頂に立つのはどの馬だ?! ロビンソン、シャッフルハート、ブライアンズハート! ブライアンズハート先頭を早くも捕らえる!! しかしロビンソン粘る!! どちらも譲らない!! 意地の張り合いだ!! ブライアン抜け出るか!! ロビンソン差し返す!! 並んだ並んだ並んだ!! マッチレースか!! そのままゴールイン!!』

///

「ハアハア……ハア……」

 めい一杯追ったせいかいつも以上に肩で息をする涼。目の前が少しかすむ。

「ベリーナイス!! グッドレースだったよ!! リョウ・ジンダイ! 勝ったのは君だ!」

「え、でも着順まだ出てないですよ?」

「ノット、僕には分かる」

 暫くして着順が発表される。一着ブライアンズハートJPN、二着ロビンソンGB。その着差ハナ差三センチ。

「や……やった? やったよ!! ハート!! やった!! 君を勝たせることが出来た!!」

 全てが終わり、下馬すると涼の元にアーサー・アディントンがやってきてこう言った。

「まだ終わりじゃない。ロードトゥアーク……本番はアークで!! また会おう」

「はいっ! 次に戦うのが楽しみです。またお会いしましょう」

 口取り写真で絶好のポーズを取るブライアンズハート。自分が勝ったと分かっているのだろうか。とても賢い馬だ。

 ブライアンズハートがキングジョージ六世&クイーンエリザベスステークスを勝った。この世紀のニュースは深夜であるにもかかわらず瞬く間に日本に広まった。

 ロンドン時間の日曜日。涼とアルスは出国の手続きをしていた。藤村師や心田オーナーも一緒だった。

 この一行に空港の客やスタッフも目をむく。

 なんせ昨日キングジョージを歴史的な接戦でモノにしたチームが目の前にいるのだから。

「なんかやりにくいですね」

「いやいやもっと胸を張りなさい。神代くん。ローマンくんも」

 心田はそう言って、自らも胸を張って大股で出国ロビーまで行ってしまった。

 藤村師はほっとしたような、これから始まる厳しいローテーション、今のうちに落ち着いておこうとばかりに安堵した表情を見せていた。

「涼くん、アルスくん、お土産は買ったかい?」

「はい、勿論デス」

「おれも、買いました」

「うん。競馬も何もかも楽しめたようで結構! さあ羽田行きの便がもうすぐ搭乗時間だよ。日本が私たちの帰りを待っているよ」

『はい!』

 ブライアンズハート最終オッズは3・0倍の二番人気だった。意外な人気だったが、それを知らなかった涼はのびのび騎乗したことだろう。

 アルスもまた同じである。シャッフルハートの着順は四着。十分仕事をして自らも勝ち負けの着をとったのだ。

 これは長い戦いの始まりである。

 次走、フランスのフォア賞は九月のロンシャン開催。

 そして十月七日の凱旋門賞。ロビンソンはメイチに仕上げてくるだろう。

 次はどうなるか分からない。

 しかし、勝たなければならない、と涼は心に刻むのだった。

 日本へ向かう飛行機の中で、馬に乗る夢を見た神代涼であった。

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