ターフより愛を込めて

さいぐう

第1話春のターフで会いましょう

西暦二〇一四年四月某日。

 細身の青年がとある施設の前で何者かに電話をしている。

「もしもし、兄さん? そうそう明日大阪杯。初めてのG2レース頑張るよ。んー何さ、僕にはまだ早いって? ふふー兄さんの記録を塗り替えるよ? じゃあね」

 青年は電話を切ってとある施設に入っていった。

 外周何キロもある大きな施設に多種多様な人が入り浸っていた。本日は日曜日。

 ここは阪神競馬場。

 勝負服というカラフルな服と、その下には安全防具を装着している者たちが競馬場のパドックと言う場所に現れた。

 これまた多彩なカラーの内の一色のヘルメットを被る。

 満十八歳、今年の6月に誕生日を迎えて十九になる青年「神代望(じんだいのぞむ)」は、この職業の先輩である実兄に昨晩電話をしていた。

「兄さん、今日は中山のレースか」

 数十分後招集がかかって、何人か似たような格好をした者たちが、筋骨隆々な馬に跨って地下道へ向かっていった。

 彼らは……競馬騎手ジョッキーである。

 この筋骨隆々な馬はサラブレッドという馬の品種である。

 これから阪神競馬場でG2レース大阪杯が施行される。

 目下の注目は新人ジョッキー神代望が重賞レースデビューすることだ。

 なぜこの者が注目されるのかというと、まず望の実家——神代家は代々馬に関わりのある職を持つ一家であるから。また、彼の実兄はクラシック無冠の天才ジョッキー「神代涼(じんだいりょう)」であるから、いつかは来る兄弟対決に想いを馳せるものもいるのだろう。

 そして神代の名をのし上げたのは涼と望の祖父「神代和尭(じんだいかずたか)」元調教師である。

 和尭はジョッキーの時代に、神業的な手綱捌きで皐月賞一〇番人気の馬を二冠馬にさせてみせた。

 その孫たちは、特に長男・涼はG1初勝利を「ジャパンカップ」で、しかも穴馬の大捲りで勝ってみせた。

 G1デビューの桜花賞も皐月賞もオークスもダービーも菊花賞も秋華賞も連帯はすれど優勝まで届かなかった騎手である。

 続けざまに、有馬記念、翌年の天皇賞春を勝ってみせた。ついたあだ名が「クラシック無冠の天才」だ。これが十九歳から二十歳にかけての時なのだから、神代の人間をとりあえず軸買いしておけば問題ないとまでされた。

 さて神代の兄弟は長男が涼、望は三男であり、間に涼の双子の弟である次男の潤が存在する。

 彼は調教師なため、美浦・藤村厩舎に研修に出ている。なお涼は藤村厩舎に所属しているので、栗東・池川厩舎に所属する望と三兄弟対決もあれやと言われている。

  ///

『さて、阪神第11R大阪杯、出走馬の紹介です。1枠1番サトミクライシス。鞍上は新人神代望ジョッキー。2番シンザダンシング——』

 望は輪乗りしながら、精神一到した。

 兄の重賞デビュー戦はG1クラシック桜花賞で2着だったと聞く。じじ様はシンザン記念で10着だったらしい。

 今自分は、クラシックではないが重賞G2レースの一つに出走する。

 胸の内が最高潮になった時、ゲート入りが始まった。

 奇数番から入るので1枠1番のサトミクライシスは最初に入る。

 8枠18番全てゲートに収まって、スタートの一瞬を待つ。

『さあ、全て収まっていよいよスタートです!! ゲートが開いて……一斉に出ました、いいスタート!』

 実況がボルテージを上げていく。

『先行馬のサトミクライシスがどんどんペースを上げていく! これは大逃げだ! 新人神代望、大逃げ策を打っています!』

 望がある程度クライシスを抑えつつ、それでも手綱は若干緩めで、馬の力だけを、そう馬なりで6ハロン棒を通り過ぎる。

『残り400mの標識を過ぎます! クライシスと後続の差はなんと10馬身ほど! なかなか縮まりません! サトミクライシス、残り200mで更にペースを上げる!! そのままゴールインっ!!』

『なんというレースでしょうか!! 本レースが重賞デビューの神代望ジョッキー、大胆不敵な大逃げでG2初制覇です!』

  ///

「流石だなあ、流石我が弟」

「涼くん、今日調教じゃないんですか?」

 神代と表札が立っているマンションの一室で、部屋の主人「神代涼」が先日の大阪杯の録画を見ていた。

 マンションのお隣で、幼馴染、更には芸能事務所「劇団虹の彼方」のアイドル女優「間寺咲良(までらさくら)」が緑茶を淹れながら、愉悦感に浸っている涼に釘を刺した。

「びっくりだよな。デビュー戦で優勝するなんて。おれなんかG1デビューの桜も皐月もオークスもダービーも菊もダメでようやくジャパンカップで優勝だったのに」

 しかも、と続ける。

「おれがジャパンカップで勝った馬と、大阪杯で望が勝ったサトミクライシスは半分兄弟だもんな」

 涼がジャパンカップで勝った馬は「シンザフラッシュ」。サトミクライシスとは母馬を同じにする。

「シンザフラッシュで勝った時、茜さん狂喜乱舞してましたもん。私も嬉しいけど……」

「茜さんがねえ……。まあシンザは神山製作所(かみやませいさくじょ)の冠名で馬主だからな」

 咲良が淹れた緑茶をすすりながら涼はため息をついた。

「で、なんでお前がうちにいるんだよ?」

「ええっ! えーっと……神代のおばさまに頼まれたから?」

「母さんが?」

「涼はクラシックレース前は必ずポカやらかして体重増やすから見張っててね……だそうです」

 そう本日は金曜日。

 日曜日にクラシックレース初戦「桜花賞」を控えていた。

 三歳牝馬の中から桜の女王を決めるこのレース、涼が乗るのは、カワノの冠名を戴いた「カワノサファイア」。毛並みが美しい恵まれた馬体の馬だ。

 父系にブライアンズタイム——タニノギムレットが入っている。

 対して母系はトウカイテイオーが入っている。

 更に今年の桜花賞は先ほど大阪杯を優勝していた望も、何の馬かは涼は調べなかったが出走予定だそうだ。

 後で新聞を見たら騎乗する馬はどうやら「シンザフローラ」神山製作所の馬だ。

「涼くん、頑張って!」

「ええ……咲良に応援されると七割の確率で負けるんだよなあ……」

 内心嬉しい涼くん。

「じゃあ、望くんのためにも頑張らないで」

「サファイアを桜の女王にして上げたいしなあー」

「涼くん!!」

 やるならしっかりやれとでも言いたげな、咲良の目が涼を貫く。

 レース前のいつもの神代涼宅の風景だ。

 験担ぎに咲良がG1のある週の金曜日に料理を作りに来る。が、クラシックレースの前々日は別である。だから涼も疑問符を飛ばしていた。オカルトチックだが本当に咲良が応援するとクラシックは勝てないのだ。

 応援されてしまったものはしょうがないと観念して料理を待つ。そこが甘いから勝てないのかもしれないと心の中で思う。

 ぶっちゃけた話、料理は涼の方が上手いし美味いのだが、涼は咲良にそのことは言わず、出て来る料理を食べるだけだ。

 本日は、ノンカロリー低脂質な手作りオートミールだ。

(やっぱり、おれの方が美味しい……。いや文句は言うまい)

 咲良がまじまじと食事風景を見て来るので、何やら食べ難い。

「自分で作ったんなら自分でも食べろよ。おれだけ食べてたらおかしいからさあ」

 そう言われて、咲良はようやっと自分が作ったオートミールにスプーンを入れる。

「ところで、芸能界でも有名な劇団虹の彼方のアイドル女優が、独身男性の家に入り浸って良いのやら悪いのやら……」

 劇団虹の彼方といえば映画界でもテレビドラマ界でもアイドル界でも覇権を取っている、大東京芸能事務所に所属する劇団だ。

 生まれてから中学まで常に一緒だった涼と咲良にとっては、このやりとりは日常なのだが、一般社会にとってみればあらぬ噂を立てられてもしょうがない関係だ。

(すっぱ抜かれないものか……)

 そもそもなんで競馬ジョッキーの涼と女優の咲良の住まいが隣同士なのか、未だに涼は疑問に思っていた。

「おばあちゃまとお母さんが、涼くんの住んでいるマンションなら大丈夫だ! って」

「おれは警備会社社員か」

 完食した茶碗を流し台に入れ、徐に洗い始める。

 食べてすぐ動くのは、咲良も内心どうかと思っているが、これが長年やっていた涼の習慣なのだと思うことにしている。

「よーし、打ち合わせ行こうっと」

 因みに、現時刻午前4時30分。

「いってらっしゃい、涼くん」

「んーー」

  ///

 クラシックを取れないジンクス。

 十九歳のジャパンカップで初優勝してから翌々年の天皇賞春、宝塚記念、天皇賞秋、ジャパンカップ、有馬記念を一年のうちにやってのけグランドスラムを達成し、その年の最優秀騎手に選ばれた。それが二一歳の時。しかしこの年に弟の望が重賞デビュー戦の大阪杯、翌週の桜花賞、秋の秋華賞と菊花賞を取り華々しいG1デビューを飾ったため、涼の最優秀騎手はあまり報道されなかった。

 二〇一八年現在二五歳で、騎手歴六年。未だにクラシックレース——桜花賞・皐月賞・東京優駿・優駿牝馬・菊花賞を取っていない。

 最高が東京優駿日本ダービーの連帯つまり2着だ。それもクビ差の、である。

 馬券師や予想家連中はクラシックレースに涼が騎乗する馬が出ると、必ずといっていいほどいわゆる軸にする。

 三連単や三連複が絡む馬券では、だいたい3番目くらいの人気だ。だが決して1着にはなれない。掲示板の上位に絡むレースが大概だ。

 そんな涼に大事件が起こるのだが……。

 事は二〇一七年の二歳新馬戦まで遡る。

 美浦・藤村厩舎。

「じゃあ、ロサプリンセスとブライアンズハートだね。涼君の今年の新馬戦初日は」

「ブライアンズハート? ナリタブライアンの孫!? ぼく乗りたかったんですよブライアンの直系血統の馬に!!」

「ロサもブライアンも馬主さん直々の指名だからね、私も頑張る、君も頑張れ」

「はいっ!!」

 涼はこの時、来年以降自分がとんでもない目に遭う元凶とも言える一頭の馬に出会った。

 馬体は二歳牡馬にしてはしっかりとしていて、いかにも走りそうな馬であった。

 なんせ血統はあのブライアンズタイムを父系直系に持ち、母父はサンデーサイレンス、さらに母母父はトニービンという、まさに近代日本競馬の完成形とも言える超超良血馬であった。

 が、逆に危惧されていることもある。

 ブライアン、サンデー、トニービン、全ての大種牡馬の血が入っているので、現状日本で有利な血を持つ、例えばサンデー系牝馬にはつけられないということだ。まあ現時点で種牡馬入りするのかはわからないが。

「やあーアニキ、これから調教かい?」

「潤、お前も新馬の調教だろ?」

 涼の双子の弟「神代潤(じんだいじゅん)」はこの美浦で研修を終えを藤村厩舎の調教助手をしている。

 西、つまり栗東の神代厩舎は双子兄弟の父親が開業している厩舎なので、美浦・藤村厩舎はあまり関係がない。

 潤の調教師としての成績は、初年度に新馬戦を1着、ホープフルステークスを1着と上々過ぎるくらいであった。

「セリ市で格安だったみたいだな。アニキの乗る馬……なんだっけ、えーと、ブライアンズタイム」

「ブライアンズハート」

「そうそう、ハートハート。で、そのブライアンの落札価格、いくらだったと思う?」

「1億は、いってなさそうだな。ディープが7000万だっけ、それよりも……」

「低い」

 涼はあっけにとられてしまった。

「6000万」

「まだ」

「5000万」

「まだまだ」

「……1000万」

「もう少し」

 この時点であのテイエムオペラオーより低いことになる。

「ひえええ……」

 考えるのをやめた。

「血統良すぎなのになあ」

「二歳の馬体が完成されすぎている。伸びが見込めない。ヘイルトゥリーズンのクロスでノーザンダンサーのクロス……理由づけはいくらでもある。買ってくれただけ儲けもんってわけだ」

 ただ、と潤は付け足す。

「主戦騎手がアニキじゃ、クラシック戦線は無理さねえ」

「うぐっ、やってみないと分かんないだろ」

「冗談だよ、アニキだってクラシックでも連帯してるじゃないか。ツキがそろそろ回ってくるよ」

 と、そんなこんながあって、ブライアンズハートは周囲の期待を裏切り新馬戦快勝、続く年末のホープフルステークスも快勝と二歳の年を駆け抜け、ついに鞍上を涼のままに二〇一八年の三歳を迎えた。

 ロサプリンセスは目標を桜花賞に定め、三歳初戦をチューリップ賞に決めた。

 対してブライアンズハートは、ホープフルステークスから弥生賞、皐月賞と決まった。

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