第14話スプリングVロード

「え、子供ができた?!」

 涼が藤村厩舎のシンザヴレイブの追い切りを終えた時、僚馬ナギサボーイに乗っていたアルスが唐突に漏らした。

 アルスは昨年の有馬記念の日に籍を入れた。

「おめでとう、アルス。あれ、結婚式ってまだだったよな」

「リョー……先月招待状送ったデショ。今月の高松宮記念の日の夜だよ」

「ええっ、ああ、ごめん、郵便とか咲良に任せてるから、見てなかった」

「まったくもう。サクラさんだってリョーに言ってると思うヨ」

「だろうなあ。まあとりあえずおめでとう。奥さんの名前、えーっと、フィリーネさん! フィリーネさんだ。おめでとうって言っといて」

「適当だナア」

 昨年、クラシック戦線で好走したナギサボーイは全兄のビーチボーイが引退して種牡馬入りしたため、今年の古馬路線でアルス・ローマンを独り占めできる。

 アルスがナギサの首筋を撫でて、宣言した。

「事ここに至って、僕はもう後戻りできない。古馬路線は僕が貰うヨ」

 シンザヴレイブとナギサボーイはずっと一緒に追い切りをしてきた。

 ヴレイブとナギサの癖は涼もアルスも知り尽くしていた。

「手加減はしないぜ? アルス、おれだって矜持があるんだ。それに、古馬路線限定してるとクラシックや裏街道はおれが全部もらうぞ?」

 臨むところだよとアルスは言った。でも、と続ける。

「関東以外の重賞は僕の方が勝率高いんだよ?」

「数字上は、ね。おれはほら雰囲気勝ちする時あるから」

 雰囲気勝ちとは。

「大舞台属性持ち&異能力軸馬馬券絡みは伊達じゃないと言う事カナ?」

「あー……軸馬云々は勝てない時もあるから……」

 などと談笑していると、藤村師がやってきて二人を激励した。

「君たち、さっきの追い切り良かったよ。大阪杯はどちらかが必ず来る」

 それを聞いた涼とアルスは自信を持って、再来週の大阪杯に臨む。しかしアルスには今週高松宮記念が控えている。

「アルス、馬券内頼むよ。君が来ないと包むお金がなくなる」

「リョーのそう言う冗談は好きだけど、この場面で言うのはホントやめて」

 涼は今夜行われるアルス・ローマンの結婚式と披露宴でスピーチをすることになっている。

 そして涼の財布には今現在お金が偶数円の札しかない。

 咲良に頼んで高松宮記念で当ててご祝儀にしようと考えているのだ。

 中京競馬場の控え室でアルスにエールを送って、自らはスタンドに向かう。

 2019年、春のG1第一弾——高松宮記念。

 中京競馬場・芝1200m。

 アルスは藤村厩舎のコーセイスピリッツに乗る。目下、一番人気。秋春スプリント連覇が懸かっている。

 スピリッツの乗り味を知っている涼は、今日のスピリッツの出来栄えに感嘆した。

 強い。そう思った。

 中京競馬のメインレースの時間になった。

 涼はコーセイスピリッツを頭にした三連単馬券を念頭に入れて見守っていた。

 短距離界からバーンマイハートが引退して、コーセイスピリッツの一強と見られている。

 しかしながら馬券の面では安定感のあるバーンマイハートが引退してしまったため確実に頭として買える馬が少なくなっていた。

 コーセイスピリッツは3歳でスプリンターズSを勝った。

 それも短距離番長バーンマイハートを下してのことだ。

 明けて4歳、古馬になったコーセイスピリッツはこの高松宮記念を走った後は、マイルクラスである安田記念に挑戦する算段だ。

「アルス……君の本気、見るぜ」

 春一番のファンファーレが東海の地を駆け抜けた。

 全馬ゲート入り完了。

 一斉にゲートが開いた。

  ///

 東京のとあるホテル。結婚式披露宴会場。

 新郎アルスと新婦フィリーネの披露宴には競馬関係者がずらりと出席していた。

 ドイツ競馬関係者、もちろん中央競馬の関係者、アルスが懇意にしている地方競馬の関係者と錚々たる顔ぶれだった。

 そんな披露宴に咲良と一緒に出席した涼は、記帳の時分厚い祝儀袋を受付に差し出した。

「あ、大丈夫です。奇数ですから」

「そう言う問題なの……?」

 咲良は呆れた。

「いーの、いーの、幸先いい馬券スタートだったからこうやって出せるんだ」

 縁起がいいと続ける涼。

 咲良はドレス、涼は凱旋門賞ウィークエンドの日に着ていたモーニングをそれぞれ着飾っている。

 そういえば、この二人の記帳は一応、連名ではなかった。

「それより、大丈夫ですか? スピーチちゃんと考えてます?」

「大丈夫、大丈夫。正味3分くらいにまとまった文字構成にしてきたから」

 二人の席は友人席だった。同席に潤と藍沢岬が座っている。

 涼は、変な笑いを浮かべて潤を小突いた。

「あ、そーなの。君らそーなの。そういう扱いなの」

「うるせー。アニキだってそうだろうが」

 岬は赤くなって俯いている。

 涼は岬が座っている椅子に手をかけて岬に耳打ちした。と言っても、潤に聞こえるくらいの声で。

「藍沢、潤のやつ最近どう? 同じ南棟だしエージェント替わりだし色々してもらっているだろ?」

「先輩……咲良さんに睨まれてます……」

 岬は背後を指差して忠告した。涼は恐る恐る振り返ると、満面の笑みをした咲良がいた。

「それ、ハラスメントに入りますよ? 涼くんわかってますね?」

「は、はい」

「それなら、とっとと座りましょう」

 咲良にガシッと襟を掴まれ着席させられた。今度は潤がざまあみろといった顔で笑っている。

 それにしても美浦トレセン関係者席と栗東トレセン関係者席がなにやら物々しい雰囲気だ。

 久しぶりに一つ所に集まったのだ、騎手の取り合いでもしているのだろうと、涼はため息をついた。

 中でも、アルスの身元引受け人である藤村調教師は得意げに今日の高松宮記念のことを言った。

「アルスくんは本当に上手いですよ。神代涼とは違った逃げ方だったけれど自分のやり方で見事コーセイスピリッツを勝たせた」

 その言葉に、藤村師の同期で栗東の池川調教師は言う。

「いやー、今日は持ってかれたなあ。直義、君ところは良い人材が集まりすぎなんだよ」

 池川師の愚痴に大いに納得したのは隣に座っていた久弘こと、神代調教師だった。やはり同期である。

「まったくだ。藤村、しばらく吉川を貸せ」

「それは困るよ。吉川くんだって専属とはいかないまでも美浦の馬中心に乗ってくれているんだよ。というか、久弘くんの所には天照くんがいるじゃないか! 秋時くんの所には望くんだっているし」

 同級同期が和気藹々と話しているのを周りの調教師たちが指をくわえて見ている状況だ。

「ああ言う関係もいいかもな」

 調教師たちのそんなやりとりを見ていた涼がポツリと呟く。

 潤も同意して、自分の競馬学校時代の同期たちに思いを馳せた。

 潤の同級は潤以外みんな栗東に行ってしまった。

 涼の騎手課程の同期は、高坂颯斗以外に3人いるが、1人は退学してしまい結局卒業できたのは涼を含めて4人だった。

 颯斗と涼が美浦所属になり、残りの二人は栗東になった。

 馬の質が西高東低となって久しいが、涼の世代の騎手はどちらかというと東高西低だった。

 なんせ同期の栗東組は重賞勝ちが未だにないのだから。それは馬の質も関わってくるのではないかという見方もあるが、根本的に涼と颯斗の腕が騎手課程時代から抜けていたのだ。

 栗東組自体は平年並みの以上の腕前だ。関西のオープン特別や平場ではほぼ勝っていて減量も突破している。

 下の世代に天照歩稀や神代望がいたのが運の尽き。さらに、関西は上の世代の層が厚い。

 手薄とまでは言わないが、新人時代に複数G1乗鞍があった涼や颯斗が普通ではない。

 そうした事があってか、最近は涼、颯斗など関東騎手関連の馬の勝ち鞍が多い。

 関東全体でレベルが上がっているよう涼は感じている。

 最先鋒が自分と颯斗だということを自負している。

 関西に繰り出すようになって自分の評価が今まで以上に分かった。

 案外、神代家の人間扱いされていない事。

 関西の人間は涼個人の力量で馬を任せていた。

 これまで、関東では、神代和尭の孫という勝手についてくる肩書きで騎手をやらされていた。

 現在は個人で評価してもらえてはいるが、新人時代はただ単に「あの神代の人間」だから試しに乗せてみようという理由で平場乗り役を任されていた。

 結果的に、あの三月のデビュー平場連勝があったから涼は今の地位を築いている。

 そうした下積みがあったから、関西では最初から腕を見込まれた。

「アニキは関西でも普通にやっていけそうだな」

「まあ、サトミシーファイアやセタブルーコートで結果出したし、乗り鞍増えるといいなあ」

「肝心のクラシックは先約の関東馬。弥生賞快勝のトゥザスターズ。持ってるなんてもんじゃないよな、アニキは」

 潤は感心するように涼を褒めた。

 いつもなら調子に乗らせる潤の言動だが涼は努めて冷静に切り返した。

「全部が全部うまくいくとは限らないだろ? おれは去年初めてクラシックを勝った若手だから、尊大にはならないんだよ」

「アニキらしくないけど、そういう気持ちも大事だよな」

 涼の心境の変化は潤の中身までも変えようとしている。

「先輩、私、絶対タモノハイボールで桜花賞勝ちますから、先輩も皐月賞絶対勝ってください!」

 岬は先ごろのチューリップ賞でタモノハイボールを1番人気で勝ってみせた。

 チューリップ賞は桜花賞トライアルレースの一つ。中でも王道のローテーションに入っている。

「藍沢、スプリンターズの悔しさを晴らすのは桜花賞しかないぜ?」

 再来週施行される桜花賞には都築未來も乗り役があるらしい。

 涼はフローラステークスでセタブルーコートを上位に持って来させない限りは牝馬クラシック第二戦オークスに出られない。

 タモノハイボールが強いのは知っている。逆に都築未來が乗る馬はどういう馬なのか情報がつかめていない。未來は牡馬クラシックにレットローズバロンで挑むが、牝馬はとんと見当がつかなかった。

 タモノハイボールはハイペースで先行して突き放す、あるいは好位で差す王道の競馬を得意としていた。

 昨年の新馬戦のころにトゥザスターズと追い切りをしていたが、大逃げ逃げ脚質のトゥザスターズと馬体を併せたら抜かせない根性も持っていた。その時は、両馬とも脚色一杯で走って、厩舎の一番時計を記録していた。

 一週前ではあるが、タモノハイボールの予想印は二重丸、ど本命であった。

 競馬関係者たちがそれぞれ会話をしていると、いよいよ披露宴が始まるのか、ホテルの従業員たちが慌ただしく動き始めた。

 司会者がマイク前に立ち、披露宴の開始を告げる。会場が暗くなり、入場口にスポットライトが当たる。

 司会者が新郎新婦のご登場と言った。

 扉がバッと開かれて、煌びやかなドレスを身にまとった新婦と、ピシッと整った白いタキシードを着た新郎が腕を組んで現れた。

 周囲は目出度く向かえるように拍手をする。

 涼はアルスを祝福する傍、新婦のドレスに見惚れている咲良をちらりと見た。

 ふーん、と何か納得したような表情をする涼。

 新郎新婦が主役席に到着した後、新郎であるアルスが挨拶をした。

 流石に5年も日本にいると日本語もまともになってくる。それ以前に、ドイツから日本に来た時点で本邦の言語を普通に話していた。

 日本で通年免許を取得するにあたり、日本語の読み書き会話は必須条件である。

 涼が二〇歳の時に同い年のアルスがドイツからやってきた。

 ドイツでは正味1年弱しか騎手をやっていなかった。なぜ日本を目指したのか聞くと、賞金が他国に比べて高かったからだという。

 アルスの本国の実家は貧しく、兄弟が下に5人もいてアルスが惣領らしい。両親は亡く、アルスが本国にお金を送金して面倒を見ている。

 長兄のアルスがレースに勝利するたび、本国の兄弟たちは自慢をするのだという。

 末の妹が今年十五歳になるらしい。

 今日の披露宴はその5人の弟妹も招かれている。

 先ほど記帳の際、アルスの末の妹が涼に握手を求めてきた。

 昨年のキングジョージの勝利を祝ってもらった。あのレースは欧州ではちょっとしたショックになっているらしく、極東島国の馬二頭にしてやられたレースだという。

 アルスが御するシャッフルハートがペースを作り、最後にきっちり差すブライアンズハートのチームプレイは弟妹たちにはとても格好良く見えたらしい。

 年頃だという末の妹は涼のファンだとアルスが言った。

「この度は、わたくしたちの新たなるスタートに立ち会っていただき誠にありがとうございます。騎手になって6年経ちました、昨年の凱旋門賞ウィークエンドで目標にしていたカドラン賞も勝たせていただきました。今後一層の繁栄がありますよう、これからは夫婦二人三脚で頑張っていこうと思います」

 再び拍手が湧いた。

 新郎の挨拶が終わり、新婦の両親への挨拶が始まる。

 新婦フィリーネはとても美しゲルマン人といったところで、涼は見惚れてしまった。だらしない顔をしている涼を認めた咲良は、きっちり涼の左ほほを抓る。

「続きまして、新郎のご友人であり同僚でもあられる、神代涼様にお言葉を頂戴したいと思います。神代様どうぞ」

 指名されて、颯爽とマイクの前に歩いていく涼。

「アルスくん、フィリーネさん、この度はご結婚誠におめでとうございます。そしてこの場をお借りして本日の高松宮記念の勝利おめでとう。思えば、アルスくんに初めて出会ったのは12年の桜花賞でした。ぼくは藤村先生の馬で、アルスくんは池川先生の馬でそれぞれ出走しました。結果は散々でしたが、ぼくたちは健闘をたたえ合いました。その後すぐ、アルスくんは拠点を藤村厩舎に移して活動を再開しましたね。あの時、アルスくんはぼくに言いました。僕と世界で戦おう。昨年キングジョージという偉大なレースをアルスくんのおかげで勝利させて貰いました。ぼくたちの夢は叶いましたね。フィリーネさん、アルスくんはとても誠実な男性です。優しくて、のんびり屋でおおよそ騎手に向かない性格なのに日本に来てから物凄い数の勝ちを積み上げました。偏に彼の努力の賜物だと思います。一人前になってフィリーネさんと結婚すると言っていましたが、ぼくから見てもう十分尊敬に値するトップジョッキーです。努力家で頑張り屋なアルスくんは少し頑張りすぎる面を持っているのでフィリーネさんがしっかりと手綱を握ってコントロールしてあげてください。長くなりましたが、二人の旅路の始まりを祝して挨拶に返させていただきます。二人ともおめでとう!」

 拍手喝采となった。

 その後も、トレセン関係者のスピーチなどがありようやく食事が振る舞われた。

 ドイツ料理、日本料理の和洋折衷といった感じのコースは普段食べないものが出てきてとても珍しかった。

 涼は、ワインのボトルを手に取り、ホスト席へ向かった。

「やあご両人。一杯どう?」

「ありがとう、リョー」

「ありがとうございます」

 アルスとフィリーネのグラスに赤ワインが注がれていく。二人の分を注ぎ終わったあと自分のグラスに注ぐ。涼はそれぞれカチンと乾杯をした。

「結婚もそうだけどご懐妊もめでたいね」

「私たち早く子供が欲しかったんです。こんなに早く授かるなんて、神様に感謝したいです」

 フィリーネは敬虔なクリスチャンである。

「予定日は年末らしいんダ。有馬記念の日だといいナア」

 幸せそうな二人の姿を見てこちらも嬉しくなりそうな涼だった。

「そういえば来週ダネー」

「ん? なにが?」

 アルスが思い出したように涼に耳打ちした。

「ドバイワールドカップデーだよ。マジシャンズナイト、ドバイターフに出るんでショ! ノゾムの鞍上で!」

「んあ、そういや、望と國村先生の姿が見えないのは、来週がドバイだからか!」

「マッタク……自分のお手馬なのに」

「いやいや、マジシャンがドバイ行ったのは知ってたよ。来週だって失念してた」

 年に一度のドバイのお祭――ドバイワールドカップデー。

 行われるレースは、G2ゴドルフィンマイルを皮切りに、ドバイゴールドカップG2、UAEダービーG2、アル・クオーツ・スプリントG1、ドバイゴールデンシャヒーンG1、ドバイターフG1、ドバイシーマクラシックG1。そしてメインレース、世界最高峰の賞金を誇るレース――ドバイワールドカップG1だ。

 マジシャンズナイトはこの内、1800mのドバイターフに出走する。

 当初、シーマクラシックとの両睨みであったらしいが、シーマクラシックに凱旋門賞馬ロビンソンが出走を表明したので、マジシャンズナイトはターフにということになった。

 正直、ターフの方が、メンツが揃っていて、レベルが高いのだが。

 ドバイターフを優勝した日本馬といえば、アドマイヤムーンを筆頭にジャスタウェイなど名だたる名馬がいる。

 マジシャンは去年の凱旋門からJC、有馬と走り抜き、年初のクラブ発表によりドバイ直行となっていた。

「そういえば、アドミラルトップがワールドカップに出るな。ってことは保井もあっちに行ってるのか」

 フェブラリーS勝ち馬アドミラルトップは実績を買われて、ドバイから狙い通り招待が来ていた。

 日本のダート馬の総大将としてワールドカップに出走する。

 鞍上は若手の保井廉。

「楽しみだネ。当日は応援しないと」

「おれも望を応援しないとな。キングジョージのお返しだ」

 ホスト席から離れて、自分の卓に戻る。すると、卓にある人物がやってきた。

「神山オーナー! えーっとアルスのお手馬だったシンザの馬っていうと、シンザベストマッチ! マイルCS勝ち馬!」

「アルスくんにはお世話になったからね。君にも。シンザヴレイブの大阪杯楽しみにしているよ。それが言いたくてね」

 シンザの冠名で有名な神山隆盛(かみやまりゅうせい)オーナーは神山製作所の代表取締役社長であり、劇団虹の彼方の神山茜の父親でもある。

 馬主会の会長も歴任している、名うてのオーナーだ。

 涼にとっては、デビュー戦で勝たせてもらい、同年JC勝ち、後々グランドスラム達成のシンザフラッシュの乗り役に指名された恩義あるオーナーということになる。

 シンザとして馬主を始めてから四十年になるらしい。

 自身が経営する、神山製作所は主にコンピューターのメインフレームを手がける一部上場大企業であるから、その資産は相当なものになる。

「ああ、でも大阪杯は今日の主役であるところのアルスくんのナギサボーイが一番人気だったか。やらずは無しだからな?」

 神山オーナーはそう言って涼の頭をポンポンと叩いて行ってしまった。

「神山オーナーはアニキを一番信頼してっからなあ。期待度半端ねえな」

 一部始終を見ていた潤が呟いた。

「藤村厩舎2頭出しで、1,2番人気独占。大阪杯を勝てば2週連続G1勝利となる……我が師匠ながら凄い。乗り役も自前の弟子たち」

「でも、シンザヴレイブって目標天皇賞ですよね。大阪杯って叩きなんじゃないんですか?」

 咲良が気にかかっていたことを指摘した。潤はそれに頷く。

「ヴレイブは、な。大阪杯はあくまでもナギサがメイチの勝負なんだ。着拾いで十分と考えているんだが、まあアニキは勝ちに行くだろうな。神山オーナーのお墨付きもあるし」

「当たり前だ。勝ちに行かない競馬は八百長だろう」

 振る舞われた食事を口にしながら、仕事の話をする潤と涼。岬と咲良は半ば呆れていた。

 披露宴が終わり、一時解散となったが、涼は二次会の幹事として予約を入れていた都内の料亭に電話をかけていた。

 引き出物を小脇に抱えて、料亭に到着時刻を言う。現在時刻は20時。料亭までは30分ほどの道程。アルスの支度を待ちながらふと物思いに耽る。

「天皇賞春。ここを勝って、おれも……」

 春の古馬王道路線をシンザヴレイブで挑む。

3歳でステイヤーズSを勝ったシンザヴレイブは人気することだろう。現時点で、大阪杯の人気予想が2番人気である。1番人気はナギサボーイというのは前述した。

 ナギサボーイの全兄ビーチボーイは天皇賞春を勝った馬だが、全弟のナギサは1600m~2500mまでの馬だとされている。

 大阪杯は適鞍という状況で挑むこととなり、対抗馬のシンザヴレイブは長距離で力を発揮する馬が故に人気で嫌われているという状況だ。

 負ける訳にはいかない。そう思った。そう言い聞かせる。

 まだ万全に騎乗ができるわけではない。まして、天皇賞春という長丁場をボルトの入った足が耐えてくれるだろうか。

 自分だけの問題ではない。もう咲良に心配はかけさせられない。

 涼は料亭への電話を終えて、イヤホンでスマートフォンに入っている音楽を聴く。

 虹の彼方に。

 咲良からもらったCDをPCにリッピングしてデータをスマートフォンに入れた。一ヶ月間ずっとヘビーローテーションしていて、もう再生回数は500回を超えていた。

 どこか落ち着く曲調と歌声の所為か、いつまでも聴いていられた。

 これを聴くと、心安らかになり心の病気も忘れていられる。追い切りの朝には必ず聴いている。

「おーい、リョーお待たせ! みんなもう向かってるノ?」

 と、逡巡していたら、アルスが帰り支度を終えて式場であるホテルから出てきた。

「ああ、二次会は騎手しかいないからみんなさっさか行ったよ。どんな会にせよ飲めるのはいいんだろうね」

「リョーだって飲む方デショ」

「こりゃまたその通り」

「僕が美浦まで担いでいくのは嫌だからネ?」

「流石に幹事だからそこまで飲めないよ。ハッハッハッ!」

「なんでそんなにテンション高いノ……」

 妙にテンションの高い涼に伴われて、アルスは都内の料亭にやってきた。

 その晩、美浦の騎手の殆どと、アルスに関わりがある栗東の騎手が遅くまで飲み明かした。

 飲まないと言っていた涼は、結局、生ビールをジョッキで5杯、清酒を徳利2本、注がれるままに飲んだ。

 てっぺん越えて深夜3時――涼とアルスは長距離タクシーに乗って、東京駅から一路茨城美浦へ帰っていった。到着する頃には朝日がすっかり昇っていて、美浦の神代マンションの玄関には二人の女性が仁王立ちで長距離タクシーを待ち受けた。

「はい、お客さんたち、美浦ですよ。起きてください」

 タクシー運転手が運転席から降りて後部座席のドアを開け二人を叩き起こした。

 二人、特に涼はすっかり眠りこけている。アルスがハッと飛び起きて、運賃を支払った。

 仁王立ちで待ち構えていた女性二人――咲良は、アルスに一言ごめんなさいと言ってから涼をタクシーから引き下ろした。

 完全に寝ぼけている涼は何が起こったのかわからず、咲良に抱えられたまま辺りを見回している。

「あれ……もう美浦? あれぇ」

「もう、バカ」

 咲良に頬を抓られて現実に戻ってくる。

「えっ、あっ、えっと、お代……」

 懐に手を伸ばした涼を静止するように運転手は言った。

「もう頂いております。では」

 タクシーは行ってしまった。

「あなた、何か仰っしゃりたいことある?」

 新妻が朝帰りの夫に詰め寄る。

「い、いや、何も無いヨ」

 うろたえるアルスに咲良が手を差し伸べる。

「フィリーネさん、アルスさんは悪くありませんよ。最後まで付き合わせたこの人が悪いんですから」

 二日酔いでふらつく涼に肩を貸しながら咲良は言う。涼は取り付く島もない。

「さっ、あなた、今週末は大阪杯ですよ! 今日の借りはレースで返しましょう」

 そう言って夫妻は南棟へ消えていった。

 北棟のエントランスでエレベーターを待ちながら、咲良は涼に発破をかける。

「遥ちゃん担当馬初G1のためにも頑張ってくださいね」

「も、目標は天皇賞だしなあ……」

「八百長ですか? 幻滅しますよ」

 エレベーターが一階にやってきて、二人はそれに乗る。

 4階までの短い時間、静寂、咲良が独り言を言う。

「勝ってない大阪杯のウイニングランが見たいなあ……カッコいいんだろうなあ」

 咲良の手が涼の片腕をギュッと握る。いつもステッキを持っている方の腕だ。

 酔いが冷めてきた、涼の頭の中で昨年の大阪杯がプレイバックする。

 マジシャンズナイト、追い込んで差し届かず2着。

 大阪杯がG1に格上げされてから、涼はまだ当レースに勝っていない。G2時代に一回フロック気味に勝っているだけだ。

 何より、阪神のコースが苦手だ。阪神のコースで勝っているG1は桜花賞と宝塚記念だけであり、昨年の桜花賞は馬が強かっただけで、宝塚記念も顕彰馬クラスの馬に乗っていただけなのだ。

 元も子もない話だが。

「……去年、縁遠かったクラシックを貰ったから、今年の目標は関西の競馬場で勝ちつつリーディング狙い……かな」

 咲良に貸してもらっていた肩から離れて、自立する。同時にエレベーターの扉が開いた。

 一歩、外に出て、深呼吸した。

「決めた。おれも春王道を狙う。宝塚も出る。関西の奴らを見返す」

「それでこそ神代涼ですっ」

 月曜日の全休日、それぞれの思いが交錯して、大阪杯、やがては春古馬王道路線への道が開かれる。

  ///

 桜の花が咲き誇る、阪神競馬場。来週には桜花賞が行われるこの競馬場で、古馬王道の第一弾が今、発走の時を待っていた。3月最終日。

 阪神11レース、G1大阪杯。芝の2000m戦。

『今まさに、春の旅路を祝福せんとばかりに、桜の花が18頭の優駿たちを讃えています。1枠1番シンザヴレイブは去年のステイヤーズS勝ち馬。――5枠10番ナギサボーイ、兄は天皇賞馬ビーチボーイ、決め手の末脚は爆発するのでしょうか。――ドバイの便りを胸に母国では俺が俺がと名乗りを上げました。さあ大阪杯を制するのは果たしてどの馬なのでしょうか』

『阪神11レース大阪杯ファンファーレです!』

 歓声を胸に。

『最後に大外枠、ローゼンリッターが入りまして体制完了! スタートしました! ほぼ一線の好スタートですが、まずはシンザヴレイブがハナを切ります。1馬身離れて、サトミダイバクハツ、差がなく3番手紅一点のエンシンローズ。馬群が切れまして4番手にミスタードドンパ。半馬身後ろにシンザクロイツ』

『一番人気のナギサボーイは最後方からの競馬となりました。さあ、先頭シンザヴレイブは1000mを通過、タイムは59秒。それほど縦長の展開とはなっていませんが、シンザヴレイブが速いペースで引っ張っています』

『3コーナーを回って、ローゼンリッターが上がっていく! まだまだ先頭はシンザヴレイブ! 第4コーナーを回りまして、最後の直線! シンザヴレイブ粘る粘る! 内を突いてナギサボーイがやってきた! 更に大外から菊花賞馬ローゼンリッター!!! 前はこの3頭の争いか! 内ナギサボーイ懸命に追う! 外ローゼンリッター! 真ん中シンザヴレイブ! シンザヴレイブ! シンザヴレイブかっ! ゴールインっ!』

『内ナギサボーイ、外ローゼンリッター、真ん中シンザヴレイブ、僅かに! 僅かに、シンザヴレイブ体制有利か』

 場内実況を頼りに、シンザヴレイブ鞍上の神代涼はサムズアップのジェスチャーをする。

 内と外からやってきていたのは分かっていた。2000m仕様のレースを試みてみたが、意外にも大逃げとはならず詰め寄られた。反省点である。

 しかし、それ以上にこみ上げてくるものがあった。

『神代涼ジョッキー、右手を高く掲げ遠くドバイにいる弟、神代望ジョッキーに勝利を報告しているかのようです』

 ターフビジョンの決勝線には僅かに鼻面を出したシンザヴレイブと、その差5センチほどローゼンリッターとナギサボーイの2着争い。

 場内の観客は神代コールをしている。おかえり。待ってた。今年もよろしく。

 涼はそれに応えるようにガッツポーズを繰り返したあと、着順指定エリアへ馬を移動させ、自らは検量室へ向かった。向かう途中、担当厩務員である遥乃とハイタッチを交わした。

 後検量、問題なし。着順確定。

 1着シンザヴレイブ、2着ナギサボーイ、3着ローゼンリッター、4着エンシンローズ、5着ミスタードドンパ。掲示板を4歳馬が埋め尽くす結果となった。

「ええ、ドバイでね、弟が勝ったので、ぼくも頑張らないと、と思いまして。シンザヴレイブのデキはまだまだです。もう少し逃げ馬として安定感がほしいですね。しかし存外の結果でした、はい」

「ありがとうございました。勝利ジョッキーインタビュー、神代涼ジョッキーでした」

 検量室にて。

「リョー! もうっ! してやられたヨ!! 届かないかナア」

「迫ってこられたときは肝が冷えたよ。ナギサ怖すぎる……」

「僕からしたらヴレイブの方が怖いヨ」

「まあでも、春天は任せたヨ? その代り宝塚は貰うから」

「任されよう。んでも、宝塚もやらねえよ」

 お互いの健闘を称える。ナギサボーイはこれから放牧に出されるようだった。

 シンザヴレイブの本番はこれからだ。

 ローゼンリッターに乗っていた、歩稀が拳を握って涼達を見ていた。

「僕だって……」

 翌日、月曜日。なぜか、涼が朝起きたら咲良がそわそわとしていた。どうしたのか聞いてみると、やけにそっぽを向く。

 せっかく、大阪杯勝ったのに、と思う涼を横目に咲良はあることで悩んでいた。

 本日は4月1日。エイプリルフール……ではなく、9日後の4月10日は涼と潤の誕生日である。

 咲良は岬と手を組んで、何かをやろうと企んでいたが、何をやるのか未だに決めていなかった。

 涼と潤はそれぞれ好みのものが違うのだ。

 涼は舞台や映画、オーケストラなどを好む。

 対して、潤は、読書、史跡巡り、博物館美術館巡りを好む。

 共通の好みは競馬位のものだ。

 休日を利用して、岬は遥乃を伴い、咲良と共に東京へ繰り出していた。

「やっぱり、銀座って凄い……」

 遥乃は初めての銀座を緊張しながら歩いていた。

「これが銀ブラ……」

 辺りを見回す遥乃をよそに、ずんずん進んでいく岬。やがて、岬の足はある店の前で止る。

「遥乃ー、咲良さーん、これなんか良いんじゃないですか?」

 その店は銀座の一等地に建つ時計店だった。

 ショウウィンドウには、超高級腕時計が並んでいた。それらを見た咲良と遥乃は溜息を吐いた。

「岬ちゃん、これは流石に高いんじゃないですか?」

「いやいや、こっちじゃないですよ。こっちです、こっち」

 同じショウウィンドウの端っこに競走馬がモチーフの中央競馬公式腕時計が2本並んでいる。それを岬は指さしていた。

「お手頃ですね。あっこの馬ブライアンズハートですよ!」

「ホントだ、フレームが日本ダービーの時の帽子の色ですね」

「馬番の1番と同じ文字が光ってる……」

 これはつまり、昨年の日本ダービーの公式記念腕時計ということだ。

 深緑のベルトに白味がかったフレーム。文字盤の1の字がキラリと光っている。

 ブライアンズハート1枠1番1番人気1着だったゆえか。

 3人は時計店に入り、店員に実物を見せてもらうことにした。

「良いですね、これ」

 岬は時計と同じくらいキラキラした目で記念時計を見つめていた。

「遥ちゃん、一緒に買いません?」

 咲良が遥乃に提案した。

 岬はというと、もう店員に会計とラッピングを頼もうとしている。

「え、咲良姉さん、私もいいの?」

「いいの! 涼くんも贅沢ですよね~、私達からこんないい時計をプレゼントされるなんて」

 会計を済ませようと咲良と遥乃も店員を呼ぶ。

 ラッピングをする前に、メッセージカードを付けないかと店員が提案してきた。

 一寸考えて、二人はそれを辞退した。

「言葉は口から直接伝えます」

店から出て、三人は喫茶店に寄っていた。

 話題はもっぱら、岬の桜花賞挑戦である。

 女性騎手が八大レースの一角に出走するというニュースはまたたく間に世間に知らされた。

 おそらく、当日の阪神競馬場の売上は増すことだろう。

「まあでも、岬ちゃんは重賞自体は勝ってるから気楽ですよね」

「とんでもないですよ。先月のチューリップ賞で二歳女王タモノハイボールを勝たせてるから重圧半端ないですよ。桜花賞直行のシンザン記念馬よりかは幾分マシですけど」

「シンザン記念馬、尾花栗毛が光り輝くゴールドファイア……新馬戦で涼兄さんが乗った馬……」

「え、そうなの? 涼くんが?」

 咲良は素っ頓狂な声を出した。岬は涼関係の馬の登場に頭を抱えて、考え込む。

「遥乃、桜花賞直行ってどう思う?」

「えっと……ゴールドファイアのポテンシャルは高いから、全く問題ないと思う。今の時代は外厩もあるし」

「でもでも、タモノハイボールの方が強そうですよ?」

 咲良はチューリップ賞をテレビ観戦していて、その時の勝ちっぷりも目に焼き付いていた。

 最後方から直線で一気に17頭ごぼう抜きしてしまった。

 阪神ジュベナイルフィリーズのマッチレースとは違う圧巻の競馬だった。

 その末脚は、ブエナビスタの再来とまで言われている。

 トゥザスターズとの併せ馬のときのインパクトがそのまま実戦にでたのだ。

 桜花賞の予想オッズはタモノハイボールが1番人気で1倍台。ゴールドファイアは2番人気でこれまた1倍台。この2頭が抜きん出ている状態だ。

 木曜日に出馬投票があって、週末枠順が決まり前売りが始まると更にハッキリするだろう。

 ところで、そのチューリップ賞であるが、当日は大逃げ馬がいて、馬場は稍重だったという。

 直線向いたところで最後方から先頭まで20馬身はあっただろう。

 それをなで斬りにしてしまった。

 いくら二歳女王といえど、その位置にいたら到底届くはずがない。しかし届いたのだ。

 岬は自信があった。

 涼と一緒にトゥザスターズと追い切りを行ったときに感じたタモノハイボールの大物感。

「はあ……ある意味、先輩がゴールドファイアに乗らなくて良かったかもしれません」

「そういえば、あの人、桜花賞の日どこにいるんだろう」

 涼は阪神競馬場での乗鞍はない予定だ。

 とすると裏開催に回るのだろうか。

「オークス目標の馬につきっきりなの……だから栗東に出張予定だって」

 遥乃が思い出すように言った。その馬とはもちろん、セタブルーコートであり、管理調教師は父の久弘だ。

「オークス……去年出れませんでしたものね」

 咲良は去年の落馬事故騎乗停止を思い出しながら、エスプレッソコーヒーを啜った。

 あの時は立て続けに久弘まで馬に蹴られて病院送りにされていた。

 結局、あの時のお手馬であったロサプリンセスは桜花賞もオークスも秋華賞も勝ち見事三冠牝馬となったのだった。今ではロサプリンセスといえば鞍上吉川尊とイメージされるほど涼の影は薄い。

「中山牝馬S快勝で、ヴィクトリアマイル視界良好って噂ですけど、岬ちゃんなにか聞いてる?」

「いえ、特には。それに吉川先輩レディブラック先約ですし……」

「え、そうなんだ。じゃあ涼くんが乗る確率は?」

 咲良がワクワクしながら岬と遥乃に問いただしたが、特に遥乃の反応が薄かった。

「えーっと、聞いた話だと……ロサの鞍上はもう兄さんには戻らないって」

 それを聞いた咲良はがっくりと落ち込んだ。眼の前のシフォンケーキを一口。コーヒーを一口。

 そしてため息を吐いた。

「ほんとに今年はトゥザとブライアンとヴレイブしかいないんですね」

「私からしたら、十分だと思いますけどね。二冠プラスキングジョージのブライアンズハートに4歳本格化のヴレイブ、無敗でクラシックに挑むトゥザスターズ。万全じゃないですか」

「……そこにおそらくマジシャンズナイトだから牝馬戦線以外は、兄さんの独擅場かも」

「でもあの人病み上がりだから、どこまでできるか分からないし」

 三者三様で涼の事を心配していた。

 後輩である藍沢岬は、潤とのことを合わせて。

 妹分の八島遥乃はシンザヴレイブの担当厩務員として。

 そして咲良は――天皇賞春を何としても勝ってほしくて。

 それぞれがそれぞれの思いを持って、病み上がりの天才騎手のG1戦線本格復帰を待ちわびている。

 そして桜花賞当日の日となった。

 4月7日。阪神競馬場。11レース。

 舞い踊る桜の花びらを背景に、18頭の乙女たちが女王のティアラを奪取せんと時を待っていた。

 単勝支持率1・2倍、1番人気タモノハイボールは鞍上にG1初勝利を狙う藍沢岬が。

 1・9倍の2番人気にゴールドファイア。鞍上は先週ドバイSCを勝った神代望。

 離れて2・5倍の3番人気はクイーンC勝ち馬アクアオーラ、鞍上アルス・ローマン。

 この3頭と三人が三強という構図になっている。

 栗東、神代久弘厩舎のテレビで涼は桜花賞を観戦していた。

 セタブルーコートの追い切りを今朝終え、父親の阪神競馬場への出立を見届けて、手すきの厩舎スタッフと休憩していた時だった。

「涼さん、誰が勝つと思います?」

 スタッフは問うた。涼はうーんと考え込んで一つの答えを出す。

「普通に行ったら、阪神JF再びって感じでタモノハイボール対アクアオーラって感じだと思うけど、おれが思うに二番人気ゴールドファイアこそって感じだ。メイクデビューに乗ったってのもあるけど……。左に刺さる癖が治ってたら要注意だ」

「って、全部関東馬じゃないですか」

「ゴールドファイアに乗っているのは関西の神代望だよ。アイツおれより上手いもん」

 そんな事を聞いて不安に思ったスタッフはセタブルーコートをフローラSで必ず権利を取るよう念を押した。

 涼ははい、と一言、再び目線をテレビに向けた。

 スターターがスタート台に乗っている。いよいよ2019年のクラシック戦線が幕を開ける。

 晴天の下、桜吹雪が乙女たちを見守りながら関西G1ファンファーレが鳴り響き、歓声が沸き起こる。

 馬場は良、この日芝の時計は速めに出ていた。前残り――つまり。

高柳厩舎の期待馬タモノハイボール、國村厩舎の期待馬ゴールドファイア、藤村厩舎の期待馬アクアオーラ――今や関東の三大名門厩舎と呼ばれている厩舎からの期待馬がこうして集結した。

対して、栗東の名門神代厩舎からは五番人気でフィリーズレビュー勝ち馬ピュアストーンが出走する。鞍上は天照歩稀であった。

歩稀はまだ桜花賞を勝てていない。

目下、衆人の目線は中央女性騎手G1初勝利がかかる藍沢岬とタモノハイボールだ。

タモノハイボールは17番、大外枠だったが追い込み気質のため反って良かったりもする。

全馬無事ゲートに入って、1,2,3と心の中で数を数え、次の瞬間ゲートが開き一斉にスタートを切った。

タモノハイボールは想定通り、位置を最後方に下げる。

ゴールドファイアはもちろんハナを切り先頭に立ち馬群を引っ張る。

アクアオーラは控えて後方から3番手の位置。

それぞれの位置で折り合い、先頭前3ハロンを通過した。時計は32秒ジャスト。

縦長の展開ではないのに時計が速すぎる。岬はそう思った。

これでは直線届かないかもしれない。

(藍沢、我慢だ……)

 テレビの前で涼は腕組みをしながら、念を送るようにレースを見守っている。

(ゴールドファイアは外ラチにヨレる。内を捌けば勝てる)

 阪神外回りコースの4コーナーを曲がり、ゴールドファイアは直線に向いた。しかし、望が幾ら左ムチを打ってもゴールドファイアは左によれていく。

 内が空いた。

最後方からイン突きして一気に先頭に並びかけるタモノハイボール、そして大外からアクアオーラが直線一気。

ゴールドファイアはヨレつつも先頭で粘る。

やがて1ハロン棒を通過する。残り100m、勢いのあるアクアオーラとタモノハイボールが目一杯追われていて、ゴールドファイアも必死にもがいている。

ゴール板を駆け抜けた。

刹那。

実況は叫んだ。

『3頭全く同時に突っ込んだ!! これは写真判定です!!』

 掲示板にはレコードの赤い文字が点灯している。1,2,3着は着差が点灯していない。

 4着5着はすでに確定している。

 ゴールドファイア、アクアオーラ、そしてタモノハイボールは着順指定エリアに入ることが出来ず手前でクールダウンしていた。

 ゆうに20分は過ぎたであろう。

 スタンドの観客は誰も動かない。本当ならもう12レースがスタートしている頃だ。

 検量室がざわつき始めた。

 高柳調教師が左手を上げた。

 國村調教師は卒倒した。

 藤村調教師は唖然としている。

 何がどうなったのか、現場にいた岬、望、歩稀はホワイトボードを見やる。

 その3人までもが目を剥いた。

 線上カメラは3頭が全く同じタイミングで決勝線を駆け抜けているのが分かった。

 これは――。

 3頭同時入線。

 史上類を見ない結果となった桜花賞の配当は全てにおいて3通りとなった。

 翌日の新聞スポーツ欄やスポーツ紙、競馬新聞でこのことが大々的に報じられた。

 3頭の桜の女王。レコード決着の壮絶なレース。

 どの言葉でもってしても異常さがわかる内容だった。

 この3頭以外レースに参加していなかったのではないかと言うほど、3頭の存在が大きすぎた。

 美浦でこの新聞を見た涼と潤はなんとも言えない感情を抱いた。

「G1で3頭同着なんて聞いたことないぜ? 涼、今年のクラシックはやばい。皐月賞頑張れよ?」

「あ、ああ。それよりこんな化物とあたるオークスが怖すぎてしょうがない」

「東京中山は涼、お前じゃないと締まらねえ。俺個人の立場から言うと、セタブルーコートを交えた四強というよりは、ブルーコートは挑戦者だ。お前そういうの得意だろ?」

「穴馬か。とにかくフローラSだな」

 神代マンション南棟、神代涼宅での会話だった。

 四人がけのテーブルで向かい合わせに座り、クラシックの作戦を練っていた。

 今年は高柳厩舎からクラシックに挑戦するが、潤はマックスのサポートとして助言をしている。

 マックスは現在、栗東に挨拶回りに行っている。要は営業だ。

 涼がフローラSで権利でも取れば、栗東での評価も上がり、マックスも仕事をしやすくなるだろう。

「皐月賞の心配はしないんですか?」

 咲良が双子に紅茶を出しながら、話に入ってきた。

「弥生賞と同じコースだし、強そうな馬って言ったらレットローズバロンくらいしか思いつかないし……」

「共同通信杯勝った馬はどうなるんです?」

 先ごろ、涼がピンチヒッターで騎乗し勝利したサトミシーファイアは共同通信杯から皐月賞直行となっている。

 鞍上問題は歩稀が乗ることで決着がついた。

 牡馬クラシック戦線は無敗馬トゥザスターズを筆頭に、ホープフルS馬レットローズバロン、共同通信杯馬サトミシーファイア、そしてスプリングS馬にして朝日杯二着スバル、若葉Sを持ったまま圧勝したファイターソウルとそれぞれの路線から有力馬が台頭している。

 まさしく、皐月賞混迷極めるといったところだ。

 それでもトゥザスターズが頭一つ抜けていることは確かなのだが。

「シーファイアはね、あれは東京向き。中山は無理」

 ズブいし、と零す涼に咲良は不安半分安心半分といった心境でお茶請けのチーズケーキを口にした。

 牝馬路線とは裏腹にトゥザスターズの1強ムードになっている牡馬路線。

 その中心にいるトゥザスターズ主戦騎手神代涼は、弥生賞の内容から考えて皐月賞は安泰だと考えていた。

 事実、無敗の弥生賞馬がそのまま皐月賞馬になるケースはある。

 アグネスタキオン、ディープインパクト、シンボリルドルフ。そして去年のブライアンズハート。

 三冠ロードではある意味、皐月賞が一番難しいかもしれないと涼は思っていた。

 中山コースはそれほど難関なコースで、東京・京都のようにはいかない。

 その難しい皐月賞を勝って、次走日本ダービーを勝った馬は思ったほど多くはない。

 つまり春二冠なのだが、近30年で該当するのがトウカイテイオー、ミホノブルボン、ナリタブライアン、サニーブライアン、ネオユニヴァース、ディープインパクト、メイショウサムソン、オルフェーヴル、ドゥラメンテ、ブライアンズハートだ。

 弥生賞からの参戦とすると、ディープインパクトとブライアンズハートのみで、ディープはそのまま無敗の三冠馬となったのは記憶に新しい所。

 ちなみに、弥生賞以外をステップとした二冠馬は、スプリングS組がミホノブルボン、ナリタブライアン、ネオユニヴァース、メイショウサムソン、オルフェーヴルであり、若葉S組がトウカイテイオー、弥生を経由して若葉に出たサニーブライアンだ。ドゥラメンテは共同通信杯から皐月賞の直行組である。

 4月3週の日曜日。中山競馬場。

 スターナイトRの勝負服は黒地に黄色の襷、黒袖に黃の二本輪。

 この勝負服の参戦は一人だけ。

 先週桜花賞を勝ったアルス・ローマンと天照歩稀は今回それぞれ、カワノの勝負服、サトミの勝負服を着ていた。

 涼の中で注目のレットローズバロン、つまりハートフルの勝負服は昨年の有馬記念勝利ジョッキーである都築未來が着ている。

 単勝支持率はトゥザスターズが1・5倍で一番人気。

 レットローズバロンが対抗で2・1倍の二番人気。

 この二頭が支持を集めていて、三人気以降はイマイチの評価となっていた。

「落ち着け……おれ」

 深呼吸をする。

 心臓が脈打ち今にも体の中にあるものを吐き出してしまいそうだ。

 これほど緊張しているのはシンザフラッシュの有馬記念以来ない。

 去年の凱旋門賞はどこか安心していた面があった。それが油断になってしまったのかもしれないが、今思い出すことではない。

 今は目の前の皐月賞に集中するべきだ。

 水曜日の朝に、咲良からお守りをもらっていた。

 去年の日本ダービーの記念腕時計。

 そうか、自分が誕生日だということを忘れていた。

(ありがとう。……天皇賞は必ず、いや、皐月賞も勝つよ)

 その腕時計は調整ルームに置いてきたものの、ルームを出る直前、柏手を打ってきた。

 待機所からパドックを見守る。

 5枠10番、トゥザスターズ。馬体重480kg。前走比プラス4kg。

 父シーザスターズの日本中央競馬クラシック初勝利がかかるこの大一番、トゥザスターズは落ち着き払って周回している。

「先輩の馬やっぱいいですねー」

 歩稀が横から口を出してきた。

 涼はうん、と頷いて、歩稀の騎乗馬サトミシーファイアも褒めた。

「さて、ハナを切れるかな……」

 サトミシーファイアもトゥザスターズも逃げ馬であるから、どちらかが主張する形になるだろう。

(番手……いやキレないから無理矢理にでもいかないと)

 考え込む涼を遠目で見ている都築未來は、心なしか苛ついていた。

 本当だったら、牝馬路線で自分がセタブルーコートにのるはずだったのだ。

 それを調教師の息子だからと涼に取られてしまった。

 そのかわりにレットローズバロンを奪えたのだから、トントンのハズなのだが。

 アイツの鼻を明かすのはここしかない、そう胸に決めていた。

 レットローズバロンは右回りも左回りもできる、距離の融通も利く。

 トゥザスターズに勝つのはこの馬しかいない。そう信じて、今までわざわざ関西から美浦・藤村厩舎まで追い切り騎乗に臨んできたのだ。

 15時半ば、止まれの合図とともに、騎手たちは騎乗馬に散ってゆく。

 大怪我をして、もうまともには騎乗出来ないかもしれなかった涼がこうして大レースの舞台に立とうとしている。

 涼をよく知るファンたちは、やはり不安半分な気持ちで見守っている。

 今は勝てなくても良い。無事に回ってくれば次に繋がる。

 そんな空気だった。

 涼はしかし、勝つ気でいる。そんなのは勝負師として当たり前のことだ。

『先週の桜花賞は史上稀に見る結果となりました。さて牡馬クラシック第一弾皐月賞も果たしてどの馬が戴冠するのでしょうか、本馬場入場です!』

 返し馬は抜群。臨戦態勢良し。

 入れ込んでもいない。

 本日の馬場状態は芝ダートともに稍重。

 欧州血統であるトゥザスターズにはもってこいのコンディションだ。

 涼はレットローズバロンを見やった。

 気性難のバロンを乗りこなしている未來を素直に認めている。

 天皇賞春でシンザヴレイブとセタグリーングラスが対決するかもしれない。この春のG1戦線は神代涼対都築未來の対決が多くなりそうだ。

『1枠1番、サトミシーファイア。鞍上・天照歩稀。共同通信杯からの参戦、粘りにかけます』

『3枠5番、ファイターソウル。鞍上・式豊一郎。前走の末脚は健在か』

『4枠8番、スバル。鞍上・アルス・ローマン。カワノ軍団期待の星、朝日杯の雪辱はなるか』

『5枠10番、1番人気トゥザスターズ。鞍上は神代涼。神代騎手、皐月賞は連覇がかかります』

『8枠18番、レットローズバロン。鞍上は大井からの移籍、都築未來。クラシック初制覇なりますでしょうか。2番人気です』

 ドクン、と脈打つ。

 スターターが台に向かっている。

 一瞬、目を閉じ、胸いっぱいに空気を入れる。

『皐月賞ファンファーレです』

 スターターが旗を振る。ウイナーズサークルから関東G1のファンファーレがターフ中に響き渡った。

 ドッと歓声が巻き起こった後、一斉にして静まり返った。

 大外枠のレットローズバロンが最後にゲートインして体制完了となる。

『レットローズバロン、スムーズに入りました。第79回皐月賞、今スタート!! ぽんと勢いをつけて飛び出していったのは1番のサトミシーファイア、更に押して押して二歳王者トゥザスターズが並びかけます。2頭から馬群開きまして、4番人気スバルは3番手の位置。名手が跨がりますファイターソウルは後方2番手、最後方に二番人気のもう一頭の2歳王者レットローズバロン、前方を虎視眈々と狙っているといった展開で、各馬は1コーナーを回り2コーナーに差し掛かりました』

『さあ、前半の1000mのタイムは、58秒5! 淀みのない展開になりました』

『依然先頭はトゥザスターズ、1馬身後ろにサトミシーファイアといったところ』

 各馬は向正面に差し掛かる。

 先頭を走るトゥザスターズはもうすぐ3コーナーを回ろうとしている。

(このまま……このまま)

 湿っている馬場が容赦なく馬の体力を奪う。

『先頭は4コーナーを回りまして、さあ最後の直線です! トゥザスターズまだムチは入っていない、このまま押し切るか。そして最後方から、来ました! レットローズバロン! 大外をついて上がってきています! 並ぶか並ぶか!! 並んだ!! レットローズバロン併せない! そのまま突き放してゴールインっ!! レットローズバロン、鞍上都築未來お見事! クラシック初制覇です!!』

 白い影が見えた。次の瞬間には抜かされていた。

 芦毛の馬体が悠々と抜き去っていき、堂々とウイニングランをしようとしている。

 検量室に引き揚げようとする涼を他所にトゥザスターズは、その白い影をじっと見つめていて動こうとしない。

 厩務員がやってきて、トゥザスターズは曳かれていく。

 着順指定エリア、2着の枠に入る。

 隣では万歳三唱が行われている。その輪の中には藤村師がいた。

 高柳師がやってきて、涼にねぎらいの言葉をかける。

「こんな日もあるさ。目標はダービーだよ」

「先生……すみません」

 涼の頭の中はまだ呆然としていてまとまりがついていない。

 謝るしか言葉が出ない。

「怪我からの復帰で見事な騎乗だった。少しトゥザの出脚がつかなかっただけだよ」

 スタートのときに余計に脚を使ってしまった。

 だから、最後の坂で力が残っていなかったのだ。

「怪我は……大阪杯を勝っているんで理由にならないですよ……」

「ともかく! 2着! ダービーの出走権は貰ったんだ! それを活かそう。そう落ち込まないで、再来週の春天シンザヴレイブが泣くぞ?」

 春天。

 約束。

 今にも決壊しそうな悔し涙を我慢して、インタビューに答えた。

 翌週の月曜日、4月22日、平成最後の天皇賞ウィーク。

 涼は世田谷の区役所を訪れた後、実家に帰省していた。

「じいちゃん、いよいよだね」

「そうだな。京都の長丁場、一世一代の大勝負だぞ」

 涼と和尭はちゃぶ台を囲んで、競馬新聞を読んでいた。

 昨日のフローラSで涼は皐月賞の憂さ晴らしとばかりにセタブルーコートで圧勝し権利を獲得していた。

 新聞にはそのことと、そして週末の天皇賞春の展望について書かれていた。

 大阪杯勝者シンザヴレイブ。

 昨年の菊花賞馬ローゼンリッター。

 有馬記念馬セタグリーングラス。

 春の淀を舞台に三強が激突。

「菊花賞馬とステイヤーズS勝ち馬、阪神大賞典勝ち馬、相手にとって不足なし、か」

「油断すると、皐月賞のようになりかねんぞ」

「正直、皐月賞は……甘く見てた。未來のやつに足をすくわれるなんて」

「勝ったレットローズバロンは強かったな。ただダービーには繋がらんだろう」

 和尭は茶を啜る。

 皐月賞の結果を受けて、今年のクラシックは群雄割拠となった。

 一時はトゥザスターズの1強に見えた戦線だったが、トゥザスターズが皐月賞2着に破れたことで、評価が落ちた。

「あー、トゥザスターズが府中勝つビジョンが見えねえ……勝つとしたら皐月賞だったんだよー」

「2000と2400はだいぶ違うからな。爺ちゃんが思うに、トゥザスターズは……いや言うのは辞めておこう」

「え、なんだよ。なに? 気になるよ」

「楽しみはとっておけってことだ」

「意味わからねえ……」

 そう言って、涼は再び競馬新聞に目を落とす。

 フローラS、セタブルーコート豪脚一閃圧勝、いざオークスへ。鞍上神代涼は「2000m全然距離足りません。2400いけます」とのこと。期待深まる挑戦者は桜花賞3強に挑む。オークスは5月19日15時40分発走。

平成最後の天皇賞、期待の3頭揃い踏み。長距離を制するのはどの馬か――そう書かれていた。

 昨年のステイヤーズSを勝ち、今年大阪杯を勝ったシンザヴレイブは春の古馬王道を制覇しようと目論んでいる。事実、明け4歳になって調教でも成長した姿を見せていた。

 ゴールデンコンビ、藤村厩舎と神代涼。

 しかし、懸案事項は京都競馬場だということ。

 再三言うが、涼は京都競馬場での勝率は悪い。

 一発狙う力はあるが、一番人気を背負って勝ったことはない。あのシンザフラッシュのときでさえ春天一度目は5番人気、2度めは3番人気だった。そのどちらも勝っている。

 しかし、1番人気を頂いたマジシャンズナイトの菊花賞と春天は2着に負けている。

 今度の春天では人気の上では長距離実績のあるローゼンリッターに持っていかれるだろう。

 大阪杯はG1に昇格して日が浅い。ならば注目するのは昨年のグランプリ覇者セタグリーングラスも人気上位に来るはずだ。それにセタグリーングラスは先月阪神大賞典を勝っている。

 ステップは万全ということだ。

 ローゼンリッターの懸案事項といえば、大阪杯でシンザヴレイブに負けているという所ぐらいか。

 それでも上位人気に足る実績持ちであるから、涼にとっては要注意馬の一頭だ。

 シンザヴレイブに長距離G1実績が無いのが本当に悔しい。

 昨年、神戸新聞杯で権利を得ていながら、本番では乗り替わりがあったにせよ無様に着外となってしまったのだ。その後、ステイヤーズSを勝ったが、今言ってしまえば、あのレースは空き巣同然だった。

「ああ言った手前、皐月以上にプレッシャーがかかるなあ」

「情けない。それでも男か」

 祖父と孫はそれぞれ別の競馬新聞を読みながら、会話をしている。

 孫の泣き言に、祖父は呆れ返った。

 和尭が二の句を言おうとした時、祖母・珠樹が茶の間に入ってきて和尭を制止した。

「よく言うよ。ハヤテが勝つかどうか最後まで落ち着きがなかった人が言うかね」

 和尭はうぐっと唸った。

 涼は興味深気に珠樹の話を聞く。

「でもでも、ハヤテって一番人気だったんでしょ?」

「そりゃあもう、圧倒的だったねえ。長距離は騎手で買う、爺さんは男前だったよ」

「へえ……じいちゃんが。まあじいちゃんの腕前は超一流だったらしいから?」

 涼は横目で和尭を見る。

 和尭はぷいっとそっぽを向いてしまった。珠樹がやれやれと言って、和尭の手元のお茶を淹れかえた。

「予想人気、シンザヴレイブは3人気だって? あんたは中途半端な人気のときに勝つからねえ」

「菊でローゼンリッターに負けてるし……あぁ春天こわい」

「弱音はこの家でだけにしとくんだね。咲良ちゃんの前では言うんじゃないよ」

 珠樹の言葉を胸に、涼は京都での戦術を考えながら美浦に帰っていった。

 涼がいなくなった後、和尭は珠樹に言った。

「大丈夫。あいつはやるよ。婆さんも分かっとるだろう?」

「ええ、分かってますとも。和尭さんの孫なんですから」

  ///

 天皇賞春の最終追い切り――。

 僚馬と6F併せて、馬なり併入。気合十分。

 その日の合同記者会見では涼は宣言した。

「春の盾をとる力は十分にあると思います。平成最後のG1ですから、平成生まれの僕が勝たないといけませんね」

 展開は分かりきっている。

 自分が逃げてペースを作り、セタグリーングラスとローゼンリッターら追い込み勢を完封する。

 記者が二、三質問をして合同記者会見は終わった。

 記者会見の直前には枠順発表もされていて、シンザヴレイブは1枠2番に配された。

 天皇賞にとっては好枠を掴んだと陣営は思った。しかも逃げ馬。

 出さえすれば、すぐに好位置について、インペタで逃げることができる。

 作戦は簡単だ。が故に、涼の騎乗センスが試される。

 金曜日の夕方、京都競馬場へ向かう前に涼はある書類に署名してその書類を、京都行きのカバンの中に忍ばせた。

 出立の時刻に咲良が東京から帰ってきて一時の時間ができる。

「こんな大舞台、凱旋門賞以来だよ」

「私、信じてます。あなたは約束を守ってくれるって」

「約束か。うん。咲良の応援がいい刺激になるよ。じゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃい。無事に帰ってきて」

 東京に出て、新幹線で京都に向かう。

 日が伸びた、夕刻はまだ夕焼けが眩しくて、西に向かう列車は太陽を名残惜しく追いかけているように思えた。

 京都競馬場の調整ルームに入り、貴重品をロッカーに放り込む。

 京都競馬場で涼がよく配される部屋は和室である。

 食堂で新聞を見ながら、土日のレースでの相手馬を探している。

 涼は今週、土日とも京都でそれぞれ5鞍乗る。

 各レースの出走馬の情報を新聞で確認するのも調整ルームでの作業の一つだ。

 例えば、天皇賞春に出走するヴレイブの相手役といえばセタグリーングラスとローゼンリッターなので、この二頭の調教タイムと馬柱を確認する。

 セタグリーングラス、有馬記念から2ヶ月の休み明け阪神大賞典を叩いての出走。中間の追い切りは上々。1週前追い切りはCWで3頭併せでゴール前先入、この日の一番時計。

 調教師の神代久弘師の所見で一年前まで大井を走っていたとは思えない素晴らしい芝馬だとの声が出た。

 ローゼンリッターも神代厩舎、坂路での調教が主であり、1週前は芝コース単走、脚色一杯で6F。最後の1Fは11秒5。

 師の所見は菊花賞から確実に成長している、大阪杯は距離が足りなかった、適距離でもう一度G1をとのことだ。

 つまりヴレイブとの勝負付は菊花賞でも大阪杯でもついていないのだ。

 天皇賞春ですべてが決する。

 前売りが発売されて土曜の昼間、シンザヴレイブに単勝1000万が入ったとの報が競馬ファンに知らされた。

 午前中2鞍に乗っていた涼は薄々異常なムードを感じ取っていた。

 この日、特に注目されたのは同じく京都で乗っていた天照歩稀が12レース中5レース1着、2レース連対をやってのけた事だった。

 この奮闘ぶりをみてローゼンリッターの単勝複勝も大いに売れた。

 結果、土曜の全レースが終わり騎手たちが調整ルームに行く頃にはシンザヴレイブとローゼンリッターの2強の1倍台オッズとなっていた。

 離れて3人気のセタグリーングラスは4倍台のオッズ。

 関東の雄、関西の雄、人馬もろとも二強の一大決戦という構図となってしまった。

 京都競馬場の調整ルームに現れた都築未來は何も言わずに食事をとって自室へ消えていった。

 明日の諸レースに出る騎手たちは、天皇賞春の若手主役騎手2人と1人を見てただひたすら、何事もないように祈っていた。

 日曜日。

 涼はこの日のラスト騎乗を天皇賞春としていた。

 4レースを卒なくこなし、15時を迎えた。

 京都競馬場には、平成最後のG1レースを生観戦しようと全国各地から競馬ファンが押し寄せていた。

 ピーカン晴れのG1日和。

 気温湿度ともに平年並み。寒くもなく暑くもなく。

 しかし、競馬場一帯は異常なほど熱いムードが漂っている。

 天皇賞春のパドック。

 1枠2番シンザヴレイブ、馬体重前走比プラマイゼロ。メイチの仕上げ。

 3枠6番セタグリーングラス、前走比マイナス4kg。メイチの仕上げ。

 6枠11番ローゼンリッター、前走比マイナス2kg。メイチの仕上げ。

 それぞれのパドックでの雰囲気はシンザヴレイブがトモの張りもよく踏み込みも良く落ち着いた感じ、しかし発汗が気になる。セタグリーングラスは少し入れ込み気味。ローゼンリッターは漆黒の馬体が輝いて見えるが少しがれていて、大阪杯からの連戦で馬体重の減りが気になる。

 シンザの勝負服は黒地に赤の鋸歯型、袖は青の無地。

 涼にとってデビュー戦で着た感慨深い服でもあるし、シンザフラッシュの覇道で着ていた服でもある、勝負強い服というイメージがついている。

 待機所で各馬を注視する。もちろんシンザヴレイブはいい出来のはずだ。

 18頭がゆっくり周回する中で、シンザヴレイブを2人曳きしている一人八島遥乃は今まで以上に堂々と馬を曳いていた。

 遥乃にとって三度目のG1パドック。それも天皇賞の舞台である。

 やがて号令がかかって、馬は周回をやめる。騎手たちは騎乗馬に向かってゆく。

 涼は遥乃に目配せして遥乃の中の不安を一掃させた。

『平成31年間で天皇賞春は名勝負もありました、圧倒的レコードもありました。平成最後のG1天皇賞春で新たな時代の幕は開かれるのでしょうか。本馬場入場です』

『平成に現れた若武者を乗せていざ天皇盾へ! シンザヴレイブと神代涼』

『平成の始まりも終わりも地方出身怪物の時代か。グランプリホースセタグリーングラスと都築未來』

『菊の栄冠早遠く、どうしても欲しい春の盾。良血開花か。ローゼンリッターと天照歩稀』

 本馬場入場と返し馬が終わり、発走時刻が近づいてくる。

 涼の鼓動の高鳴りも併せて大きくなる。深呼吸をし、馬上で体の軸を意識して精神を集中させた。

 スタンドから遠く外回り向上面の中程が天皇賞春のスタート地点である。

 京都の芝3200m――日本で行われるグレードワン競争で最長の距離を誇る。

 近年、スピード化が著しい天皇賞春であるが、勝ち馬の傾向としたら一言で言えばサンデー系である。

 ディープインパクトを始めマンハッタンカフェ、スペシャルウィークなどの直仔、そしてその子どもたち……所謂サンデー孫世代も好走が目立つ。

 2011年からずっとサンデー系が勝利しているほどだ。

 涼が乗っていたシンザフラッシュはオンファイア産駒。

 去年の勝ち馬シンザクロイツはダンスインザダーク産駒。

 さて今年の2プラス1強の血統はと言うと、シンザヴレイブはステイゴールド産駒、ローゼンリッターはヴィクトワールピサ産駒、セタグリーングラスはジャングルポケット産駒の母父ダンスインザダーク……と2頭がサンデー直系、1頭がサンデー傍系ということで人気になっている。

 特に、天皇賞春と相性が良いステイゴールド産駒のシンザヴレイブは、更に長距離実績のある牝系――母方にリアルシャダイのクロスがあり、ヘイルトゥリーズンが濃い反面、超長距離がこなせる血統だ。

 逆に言うと、距離の融通が利かないともとれる。

 もしかすると昨年カドラン賞を勝ったシャッフルハートよりも長距離が得意なのかもしれない。

 定刻になり、スターターが台に上がり始める。

 大東京芸能事務所のテレビで咲良は虹の彼方メンバーと観戦していた。

 春原一朗はその手にシンザヴレイブの単勝1万円を持っている。

 畑中一樹はシンザヴレイブ1着固定の3連単各5000円。

 間寺咲良は手を胸に当てて祈るように画面を注視している。

 虹の彼方メンバー、とりわけシンザのオーナーの娘である神山茜は戦々恐々としていた。

 その他のメンツは各々、どの馬が勝つか予想しあっている。

 スターターが旗を振った。

 次の瞬間、ウイナーズサークルで関西のG1ファンファーレが鳴り響いた。

 その旋律はターフを駆け巡り、遥か向こうにいた出走馬たちにも聞こえているようだ。

『さあ大外、アドミラルネイビー収まりまして、体制完了。スタートしました。ポンと出ていきましたのは2番シンザヴレイブ、早くも先頭に立ちます。追って2番手にピンクの帽子アドミラルネイビー今日はこの位置から。3番手それほど開いていませんタモノティーガーこの位置』

『それから内を突きまして5番スタチュー、外には15番パッションラヴ』

『少し離れて4番フールオンザヒル。1馬身後ろにジェネレーション。ほとんど差がなく1番サトミニーベルング。このあたりは団子状態』

『3番人気セタグリーングラスは中段内目ここです。虎視眈々と都築未來』

『注目の2番人気ローゼンリッターは最後方です』

『先頭シンザヴレイブは一周目の坂を登って、今降っています』

『大歓声のスタンド前、1000mの通過は1分ジャスト。各馬第1コーナーのカーブへ向かって行きます。依然先頭はシンザヴレイブ。第2コーナーから向正面へ、絶妙な逃げです。馬群は縦長になって、さあ2周目の坂です』

『おおっとローゼンリッター果敢に上がってゆく。先頭とはまだ10馬身はあるぞ』

『3コーナー回りまして4コーナーに差し掛かります。セタグリーングラス、ここで追い出しにかかります』

『第4コーナーを回ってさあ最後の直線、シンザヴレイブまだ先頭、大外からローゼンリッターもやってくる、セタグリーングラス真ん中割って飛び出した』

『まだ粘るシンザヴレイブ、ローゼンリッター、ローゼンリッター、セタグリーングラス! セタグリーングラス! シンザヴレイブ! ローゼンリッター迫る! シンザヴレイブ! ローゼンリッター! 差が詰まらない! シンザヴレイブ今ゴーーーールイン!』

『左手を上げた神代涼! シンザヴレイブ逃げ切りました!』

『1着シンザヴレイブ、2着にローゼンリッター、3着に僅差でセタグリーングラス、4着アドミラルネイビー、5着スタチューの順で入線しております、確定までしばらくお待ち下さい』

『天を仰ぐ神代涼騎手、さあウイニングランです。大観衆が拍手を送っています。1番人気を背負って見事勝利を収めました、シンザヴレイブに惜しみない歓声が送られます』

『シンザヴレイブは大阪杯と天皇賞春を勝ってこれで春古馬二冠達成です。かねてより出走を表明している宝塚記念へは春古馬三冠をかけての出走となりますでしょう』

『勝利ジョッキーインタビューです。神代涼騎手です、おめでとうございます』

『ありがとうございます』

『スタートもよく、中段でも折り合って、最後に逃げ粘りの勝利と、完璧の騎乗のようでしたが、レース中はどのようなことを考えていましたか?』

『とにかく、ハナに立って、ペース刻んで逃げることを第一に考えていました。難しい馬なのでよく折り合ってくれたと思います』

『シンザヴレイブにようやくの長距離G1タイトルです。血統を証明したと言ってもよろしい勝利だと思いますが如何ですか?』

『去年の秋から期待していた馬なんでステイヤーズ勝って、春の大目標は天皇賞だと決まりました。ステイゴールド産駒らしく気性が激しくて、ぼくはステイゴールドの背中を知らないんですけど彼も本気を出せば相当なものだと言うのが産駒から伝わってきます』

『神代騎手はこの天皇賞の勝利でリーディングトップに立ちましたが、これからの意気込みなどをお聞かせ願います』

『去年はリーディング獲れる位置にいてアレでしたから、これからも気を引き締めて行かないといけませんね。油断大敵です』

『ありがとうございます。天皇賞春を勝利した神代涼ジョッキーでした』

  ///

 その夕方、涼は東京へとんぼ返りした。

 大東京芸能事務所で待つ咲良のために、ある物を携えて――。

 午後8時、涼は虹の彼方の事務所へたどり着いた。

 ここに来るのは2度目だ。

 エントランスから劇団部署へ向かう。

 扉を開いたら、虹の彼方のメンバーがクラッカーを鳴らして涼を迎え入れた。

 まず最初に、神山茜に挨拶をする。

「やあ、やったよ茜さん。久しぶりに京都のG1を勝ったよ。神山オーナーには足向けて寝られないね」

「見てましてよ。神代さん見事でしたわ。私からは何も言うことがありません」

 そう言って握手を求める。涼はそれに応じた。

「涼はん、ご本命様がお待ちやで」

 黒田凛が涼を咲良の前に向けさせる。

 咲良は凛に促されて前に出た。

「咲良、約束通り勝ったよ」

「はい……見てました……」

「これ、凄い遅くなったって感じだけど。誕生日のお礼ってことでっ」

 涼は封筒一通と小さな箱を差し出した。

 咲良にはこれが何なのか分かっていた。しかし分からないふりをする。

「開けていいですか?」

「うん」

 まず咲良は小さな箱を開けた。中にはペリドットがあしらわれた指輪が鎮座していた。

「っ! ……封筒は……」

 封筒の中身は先日世田谷区役所でもらってきた婚姻届だった。涼の名前はすでに書かれている。

「受けてくれる?」

「うっ……ばか、断れないの知ってるくせに……」

「ありがとう、咲良。それと今までごめん」

「ひっく……これからは一杯応援しますからねっ!」

「うん。うん」

 虹の彼方メンバーが拍手喝采を送る中、社長の畑中一樹とマネージャーの春原一朗が入ってきた。

「よーう。涼色々とおめでとさん。馬券も嬉しいお前も嬉しい、今日は祝いだ、ドーンとやってこい!」

「俺も仲間に入れてくれ! 神代君、サインをお願いするよ。ありがとうありがとう、馬券の妙味を知ってしまったよ」

 春原はそう言ってコピーされた的中馬券を差し出した。

 普段サインは書かない涼は気を良くしたのかサラサラっとコピー馬券の裏にサインを書いた。

 畑中社長は払戻金から幾らかを宴会幹事に抜擢した春原に渡して、自分はどこかに行ってしまった。

 夜更けて、少し高級な料亭で涼を主役とした宴会が執り行われた。

 もっぱら言われることといえば、咲良と仲良くだとか、無理はせずだとか、体を労れだとか、将来のことを思っての助言が多数だった。

 笑えないことで、涼にとっても凱旋門でやらかしているから耳が痛い話である。

 いつも飲む涼がこの日の宴会は驚くほど飲まなかった。

 というのも、流石に咲良に担がれて美浦に戻るわけにはいかなかったからだ。

 度数が低いビールを2ジョッキ飲むだけにした涼は、いい頃合いで解散を春原に提案した。

 春原が腕時計を見ると、時刻は23時を回っていた。

 茨城行きの終電を逃してしまう。

 虹の彼方メンバーと別れた涼と咲良は東京駅、常磐線のホームに佇んでいた。

「ペリドットの意味分かる? 普通こういうのってダイヤがほとんどだろ?」

「8月の誕生石?」

「うん。で、その宝石の意味は夫婦の幸福なんだってさ」

「実は、父さんも母さんに誕生石の婚約指輪送っててさ。アクアマリンなんだけど、その意味に感動したんだ。だからおれも意味ある物を渡そうかと思って」

 咲良は涼の腕に自分の腕を絡ませてピタッとくっついた。

「あなたがそこまで想ってくれているなら私はそれだけで幸せですよ」

 翌日の午後、咲良と涼は本籍地である世田谷で婚姻届を提出した。

 家族に祝福されて、第二第三の人生がスタートする。

  ///

 5月19日、東京競馬場にて。

 本日は優駿牝馬オークスの開催日。

 5月に入ってから、新元号のお祝いムードもあり、色々な業界が活気だっていた。

 競馬界も同じである。

 5月最初のG1「NHKマイルカップ」は副称として天皇陛下ご即位記念がついた。

 その栄えある、優勝馬と優勝ジョッキーは、昨年の覇者ミスタードドンパの全弟サンシャインパワーと同じく昨年覇者神代望だった。

 その翌週のヴィクトリアマイルには新元号令和記念の副称が付き、勝利したのはなんと8歳馬コスモスだった。

 そして本日、牝馬クラシック二冠目優駿牝馬オークスが施行される。

 副称はつかないが、本日は上皇陛下と上皇后陛下のご臨席となった。

 来週は天皇陛下と皇后陛下がご臨席する天覧競馬との報道が出ていた。

 あらゆる失敗が許されないこの状況下でオークスに臨むのは桜花賞馬2頭タモノハイボールとゴールドファイア、そしてトライアルからの超有力馬セタブルーコートが人気を分け合っていた。

 もう一頭の桜花賞馬アクアオーラはなんと本当に日本ダービー挑戦を表明したのだ。

 ともかくこの晴れの日、上皇陛下の御前で樫の女王となるのはどの馬なのか戦前の予想はタモノハイボールとゴールドファイアの2強扱いとなっている。

 タモノハイボールには鞍上藍沢岬。ゴールドファイアには神代望。

 そしてトライアルからの伏兵セタブルーコートにはおなじみ神代涼。

 同じくトライアルフラワーカップからはハイウェイスターの半妹ディライトスターが鞍上に海老原兼次郎を迎え名乗りを上げていた。

 結局、オークスは神代涼の渾身の騎乗もあり、戦前の評価を覆して豪快な追い込み、5馬身差の大圧勝劇を演じてみせた。

 ウイニングランでスタンド前まできたとき、涼はヘルメットを脱ぎ、上皇陛下上皇后陛下に向かって最敬礼をした。

 拍手が巻き起こった。

 さて日本ダービー当週、本番の前々日、5月24日金曜日の朝のことだった。

「ん? どしたの?」

「い、いえ、なんでもないです、なんでも」

「そう? なんか気持ち悪そうに見えたけど。朝食、おれ何かまずったかな」

 咲良はそれを全力で否定する。

「大丈夫です。ほんと。大丈夫だから……」

「仕事あんまり無理するなよ? 舞台近いんだろうけど」

「はい。涼くんも無理しないでくださいね」

 そうは言うもどこか咲良のことが心配な涼は、咲良のことを再従妹の遥乃に任せて東京競馬場の調整ルームへ発った。

 涼が驚愕の事実を知るのは日本ダービーの後のことである。

 第86回東京優駿日本ダービー。そして令和はじめての天覧競馬。

 競馬場には先週にも増して大歓声が巻き起こっていた。

 皐月賞馬レットローズバロンを筆頭に、皐月賞組、青葉賞組、プリンシパルS組、京都新聞杯組それぞれの路線から2016年生まれの7000余頭の頂点を極めるべく優駿18頭が勢揃いした。

 皐月賞で1人気でありながら逃げ切れなかったトゥザスターズは初めて1人気を明け渡し、3人気に甘んじていた。

 1人気は皐月を勝ち、唯一春二冠の権利があるレットローズバロンがあげられた。

 2人気に勝利の枠1枠1番をもぎ取った朝日杯2着馬スバル、3人気はトゥザスターズ、そして4人気に牝馬の参戦アクアオーラが堂々と君臨している。

 有力馬のパドックでの評価はレットローズバロンが究極の仕上げで馬体重マイナス6kg。

 スバルも究極仕上げ、トゥザスターズはなぜか全馬の中で唯一プラスの馬体重、前走比プラス8kg。

 誰もがトゥザスターズは調整失敗と見ていた。

 東京10レース、東京優駿日本ダービーの本馬場入場が始まる。

 まず先に出て来たのは1枠1番スバル。

 1枠2番アクアオーラ。

 2枠3番ゴールドシンディー。京都新聞杯勝ち馬。

 2枠4番サトミシーファイア。

 3枠5番シンザエスポワール。

 3枠6番テュルコワーズ。

 4枠7番スターダストメモリ。青葉賞馬。

 4枠8番カワノエムロード。

 5枠9番レットローズバロン。皐月賞馬。

 5枠10番ファイターソウル。

 6枠11番コーセイバースト。

 6枠12番ホークスアイ。プリンシパルS勝ち馬。

 7枠13番エンメイギク。

 7枠14番トップインパクト。

 7枠15番ウルトラキャプテン。

 8枠16番アドミラルアース。

 8枠17番マジカルフレア。

 8枠18番トゥザスターズ。

 全馬が歓声と共にターフに現れた。

 ピンクの帽子を被った涼は、ただ一点を見つめて集中している。

 逃げ馬にとって、そして日本ダービーにとって最悪の枠を引いてしまった。

 涼は枠順発表のときに頭を抱えた。

 そしてその後すぐに腹を決めた。

 中段待機をとって捲くる。

 トゥザスターズに残された作戦はこれしかなかった。

 今年の国家独唱は日本を代表するテノール歌手から選ばれた。

 君が代が高らかに歌われた。

 スタンド前スタートとなる日本ダービーは観客の声援も君が代もファンファーレも何もかもが間近で聞こえてくる。

 陸上自衛隊のファンファーレに送られて、各馬がゲートインしていく。

 最後にトゥザスターズがゲートに入り、体制が整った。

 刹那。

 ゲートが開いて、18頭が同時にスタートした。

  ///

 涼は頭の中がぼーっとしていた。

 第86回東京優駿はスバル優勝。アクアオーラハナ差の2着。レットローズバロン3馬身離れて3着。

 トゥザスターズはというと、中段待機から3コーナーで捲り始め一度は先頭に近づくも最後の坂で失速し6着。

 初めて着外を経験した。

 検量室に戻ってきて、顔を洗っているときに、ふと涙が混じる。

 温かい涙が溢れてきて、せっかくの朝日杯馬、無敗馬、良血馬をむざむざと無冠に終わらせてしまう。そんな不安がドッと押し寄せてくる。

 今までに感じたことがないプレッシャー。

 もしかしたら、トゥザスターズを降ろされる、そんなことまでが頭をよぎる。

 頭から水を被って、バレットから受け取ったスポーツタオルで頭をかきむしった。

 高柳師は涼に掛ける言葉を探していた。

 スターナイトレーシングの代表は今日のレースを見てある可能性を見出そうとしている。それは。

「神代君、3角捲りを菊花賞でやってみないか? あと、もう少し後ろで脚を溜めて。ミスターシービーになれるかもしれないぞ」

「ミスター……シービー……」

「あの菊花賞を再現するんだ。君を降ろすかどうかは菊花賞を見てから決めることにする」

 首の皮一枚繋がったのか、涼に一筋の光明が見えた。

「この後、トゥザスターズは放牧に出すよう高柳調教師に頼む。日進ステーブルを借りて秋までに更に体を作るつもりだ」

 君も秋までに騎乗センスを上げてくれ、そう言ってスターナイトの代表は去っていった。

「兄さん、あーえっと、なんて言ったら良いんだろう。僕……」

 スバルに騎乗して見事日本ダービー制覇を成し遂げた望がインタビューから帰ってきて、涼を労った。

「いいんだ望。おめでとう。神代家2連チャンだな」

「えへへ……爺ちゃん喜んでくれるかな」

「当たり前だろ。孫がダービーを勝ったんだ。それも息子の厩舎の馬でな」

 スバルは神代久弘厩舎の馬である。

「涼、望、今日はいいレースだったな」

 望の陰から久弘がヒョイと顔を出して、二人の健闘を讃えた。

「父さん。おめでとう」

「ああ。ダービーは時の運だからな。今日ばかりは俺と望に運が回っていた」

「秋は見てろよ? 父さんも望も。驚くくらいのレースを見せてやるから」

「そうでなければ神代の人間じゃない。涼も望も。親父が喜ぶぞ」

 久弘は望と涼の間に立ち、二人の肩をポンと叩く。普段見せない父親の顔をしていた。

 その顔を見た涼は、いつかの映像が脳内にフラッシュバックする。

(涼、見てみろ、あれがナリタブライアンだぞ。三冠馬だぞ)

 1994年の菊花賞。

「秋。やってみせるよ」

 その日の夕方、競馬関連の報道で、ブライアンズハートの復帰が毎日王冠だと言うニュースが流れた。

 毎日王冠から、天皇賞秋、ジャパンカップ、有馬記念を連戦する。秋古馬三冠制覇だ。

 ハートフルカンパニー社長心田大志はその鞍上に神代涼を指名した。

 必然、春をともにしたシンザヴレイブからは降りることになる。なんせ、シンザヴレイブも秋は王道ローテーションを目指しているのだから。

 怪我明けとなるブライアンズハートがどう戦えるのか、競馬サークルは仄かに活気づいた。

 涼はダービーの帰りにエージェントであるマックスから電話をもらい、二つ返事で了承した。

 マックスはもっともっといい馬を持ってくると言って電話を切った。

 美浦に帰ってきて、涼は咲良の様子がおかしいことに気がついた。

 咲良は実は、と言ってあるものを突き出した。

 そのある物をみて涼の目玉は飛び出た。

「え、あっ、えっ、ええっ!!」

「3週目みたいです」

 妊娠検査キットには陽性のラインがくっきりと浮き出ていた。

 驚きを隠せない涼ではあるが、震える手で咲良の両手を包み、ありがとうと一言つぶやいた。

「えーっと、安定期に入ってから実家には連絡したほうがいいのかな」

「菊花賞勝ってからにしましょう! あなたの口ぶりだと菊花賞獲れそうなんでしょう?」

「耳が早いことで。ん、まあそうだけど。そんなに遅くていいの?」

「うちのお父さんのことですから、私が仕事をセーブしだしたら感づいちゃいそうですし、私が言うまで話は切り出しそうに無いですしね。うちのお父さん空気読めるんですよ?」

「じゃあおれも空気読まないと」

 夕食を作っているとき、涼はふと考えた。

 ダイニングテーブルについている咲良が、涼の手際をニコニコしながら見ていたところなので涼が何か考えていることに感づいた。

「アルスのところ、予定日はクリスマス近くなんだってさ。年は跨ぐけど同学年かあ」

「ふふっ、アルスさん言ってましたね、有馬記念が最初の誕生日プレゼントダーって」

「でも」

「でも?」

「有馬を勝つのはおれ」

 咲良はニコリと微笑んで、感慨深げに回顧する。

「シンザフラッシュの呪いはもう無いんですね。ブライアンズハートの夢叶えましょうね」

「ああ」

「そのためには、まず、シンザヴレイブで春を締められたらいいですねー」

「宝塚、久しぶりだなあ。マジシャンズナイトがドバイから帰ってくるし、ナギサボーイもいるし、さすがグランプリだ一筋縄ではいかないな」

「子供のためにも頑張って勝たないとな」

(今度はおれが、子供に三冠馬を見せてやりたいなあ)

 ――ナリタブライアンの子孫で三冠馬を。そのためにはブライアンズハートで秋の古三冠を手に入れる。

 八島活樹の言葉を思い出した。

(ブライアンズハートの血こそ海外で通用する馬作りに必要)

「ほんと、気張らないと」

 夕食どき、インターホンが鳴った。

「やあ、遥ちゃん、今日はありがとう」

 咲良の事を任されていた遥乃が様子を見に来たのか、涼宅を訪ねた。

 事の顛末は知っているようだった。

「咲良姉さんのこと、大事にしてね。あとあと……心配し過ぎも良くないからね?」

 遥乃は我が事のように咲良のことを心配しているが、心配しすぎても咲良に迷惑がかかるのでぐっと堪えている。

 報告については、咲良から固く厳命されているので、家族には言わないつもりだ。

「それとね、今年の夏も北海道に来るのかって、お姉ちゃんから電話があって」

「七ちゃんから。そうだなあ……なるべく咲良のそばに居たいし、今年は小倉に行こうと思ってるんだ」

「虹の彼方が夏に小倉で舞台をやるらしいから」

「分かった。お姉ちゃんに言っておくね」

 それで遥乃は部屋に戻ろうとしたが、涼がそれを静止した。

「北海道出張、望じゃ駄目かな?」

「望兄さん……日本ダービー勝ったから?」

 日本ダービー優勝騎手にWASJ参戦権が与えられるのは去年と同じ。

「それもあるけど。あいつ……いやなんでもない」

 本人のためには言わぬが花である。

「いや、なんだ、望はここの所ずっと七ちゃんと会ってないから会いたいらしい」

 望はそんな事を以前もらしていた。

「うん。分かった。それじゃあ、おやすみなさい。咲良姉さん、お大事にね」

「遥ちゃん、今日はありがと。ナナちゃんによろしく言っておいてね」

 暗い結果が明るいニュースでかき消された。春のクラシックは結局オークスしか勝てなかったが、その分秋に向けての収穫ができた。

 来週から2020年クラシックに向けての新馬戦が始まる。

 競馬の新たなる1年がまたスタートを切るのだ。

 しかし、涼にとっては今年の秋が去年果たせなかった分、大勝負となるのだ。

 まずは6月末の宝塚記念で一区切り。

 夏を越して、無事に秋の競馬に挑もう。そう決心した涼だった。

 その翌週、この春影が薄かった技術調教師次男坊・潤が藤村師から調教を任されている馬が安田記念を勝利した。潤にとってはこのレースは去年に続いての勝利だった。

 ヤネはやはりこの春良いところが無かった式豊一郎が跨がり、見事差し切ってみせた。

 まだまだ若手には譲らない、そんな気迫が見えた騎乗だったのだが、この春のG1戦線を席巻したのは紛れもなく20代の若手騎手であった。

 馬も、人も、しっかりと世代交代がやってくる。潤が技術調教師となって父に張り合うようになったのもそれであろう。

 夏で勝ち上がってくる馬もいる。

 菊花賞、天皇賞秋、後半の大レース、復帰してくる馬に充実期の馬、3歳の上がり馬、すべてがぶつかる秋は注目のレースが目白押しだ。

 おそらく、ブライアンズハートはこの秋が競走馬として最後のシーズンになるだろう。

 家族の夢のために秋は何としても負けられない。

 その先へ夢を続けるために――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る