第16話後編決戦、ジャパンカップ

 10月22日は祝日であった。

 前日、盛大な結婚披露宴が行われ、平日にも関わらず沢山の人が二人の祝福をするために訪れた。

 誰だかぶりに記者会見も執り行われた。テレビも入っていて、さすが伊達にG1騎手、人気舞台歌手ではないなと親族は感心していた。

 そんな祝い事ののち、今週はついに天皇賞秋が施行される。

 今年は「天皇陛下御即位慶祝・第160回天皇賞」というレース名になった。

 こちらもめでたい事である。

 平成最後の天皇賞ジョッキーである涼は、令和初の天皇賞ジョッキーを目指すのである。

 これまでのブライアンズハートの臨戦過程は調教かわりに出た毎日王冠を7割のデキで勝利し、その後の追い切りはそこまで追わず、時計も平凡な物となっていた。

 藤村厩舎はもう一頭有力馬を府中の2000mに送り込む。

 春の王道を皆勤しG1・3勝の実績を残したシンザヴレイブである。

 今回シンザヴレイブには名手・式豊一郎が跨り、当週追いきりにも積極的に乗りに来た。

 シンザヴレイブの追い切り時計はブライアンズハートとは真逆で格別の時計を叩き出していた。

 当然、競馬各紙ではシンザヴレイブのマークが重いものとなっていて、ブライアンズハートは良くて連下扱いだった。

 シンザヴレイブの対抗扱いされているのがイギリス帰りで京都大賞典を勝ったセタグリーングラスである。

 他、天皇賞秋に特別登録している有力馬は、一昨年の有馬記念及び昨年の天皇賞春を勝ったシンザクロイツ。三冠牝馬ロサプリンセス。G2で力を示すサトミダイバクハツ。18年菊花賞馬ローゼンリッター。

 G1馬の数にして5頭。南関東三冠馬のセタグリーングラスを入れると6頭。重賞馬を含めると10頭と天皇賞らしい豪華さであった。

 ブライアンズハートの当週追い切りは主戦騎手の涼が跨ったが、前述の通り軽い調整にとどまるのみだった。

 追い切り後のインタビューでは、記者から終始足元の件を根掘り葉掘り聞かれたが、毎日王冠の内容を見るにハートは完全に復活した、と自信満々に答えた。

 馬房に戻ったブライアンズハートを涼は優しく見守った。ずっと自分一人が乗ってきて、苦楽を共にしてきた。

 初めてクラシックを取らせてもらった馬であるし、ブライアンズハートの父系にとっても意味のあるG1勝利だから思い入れも一入である。

 夢の続きが見られる特別な馬――運命じみたそんな気がした。

「だから……夢の続きを見るために、か」

 ハートの鼻面を撫でる。

 ハートの特徴である凛々しい顔つきはレースの外では全く違う優しい顔つきになっている。

 3歳の頃の黒みが強かった馬体は古馬になってさらに一層強くなっている気がする。

 人は彼のことを「黒鹿毛の挑戦者」と呼ぶようになっていた。

 2歳のホープフルSから3歳春のクラシック二冠で早熟性を示し、夏にはキングジョージを勝ち欧州適性を示した。

 古馬になった今示すべきは成長力。

 ブライアンズハートは古馬になってからまだ一戦しか走っていない。毎日王冠では測れない成長力をG1天皇賞の舞台で示すことができるだろうか。

 追いきりの時計がままならないまま、十月二十七日を迎えた。

 十月二十七日、東京競馬場。天候・曇り。馬場状態・芝ダートともに稍重。

 金曜日から降っていた雨はとりあえず日曜日にはあがったが、馬場がそれほど回復せず稍重での開催になりそうだった。

 第160回天皇賞の有力出走馬は枠順で1枠2番にセタグリーングラス。

 3枠5番にシンザヴレイブ、3枠6番にシンザクロイツ。

 4枠7番にロサプリンセス、同じく4枠8番にローゼンリッター。

 5枠10番にマジシャンズナイト。

 6枠11番にエンシンブレス、6枠12番にエンシンローズ。

 7枠13番にアドミラルネイビー、7枠14番にサトミダイバクハツ、7枠15番にスバル。

 8枠16番フォトンインパクト、8枠17番ミスタードドンパ。

 そして大外8枠18番にブライアンズハートが配された。

 この枠順を見て、涼は腹をくくる事にした。なかなかに大外はキツイ、プランが立てにくくブライアンズハートのような好位差しの馬は先団に取り付くのが難しくなる。

 幸いにして、ハートは出足が良くスタートも上手い、展開次第でどうにかなるかもしれない。

「スタートで脚使いたくないなあ……」

 平場で乗っている時にふと呟く。

 逃げ先行の馬がいい具合に内枠にいるのが本当に怖い。

 幸いにして馬場状態が良くないのがブライアンズハートには分が良かった。

 出走した唯一の東京開催のG1である東京優駿日本ダービーは大雨での開催で馬場は不良よりであった。

 その不良馬場で何馬身も突き抜けた。あの適応力とも言うべきか重馬場適性と言うべきか、その後にヨーロッパで走りきっているので、やはり日本では渋る馬場が得意なのだろう。

 近年、主に東京競馬場はパンパンの良馬場での開催が多く、レースで勝つ馬もそれに適性があった。

 東京10Rが終わり、天皇賞に乗鞍がある騎手たちはその準備に入った。

 G1ではおよそ1年ぶりに袖を通すハートフルカンパニーの勝負服、涼曰くG1専用の特注ムチ。プロテクト用のグローブをはめ、前検量を済ませる。

 検量をパスし、待機所を離れると藤村調教師が声をかけてきた。

「おそらく、テンから速い時計になるだろう、だけどこの馬場状態だ……前は総崩れになるだろうからいつもどおり好位差しで行こう」

 前を争う馬が明らかに多すぎる、いわゆる行った行ったになる可能性が高い。

「ブライアンズハートはスタート上手いですから、出たなりで3~4番手につけたほうが良さそうですね」

 藤村師は内心穏やかではない。一番馬であるブライアンズハートだけ気にかける訳にはいかない。

 春無双したシンザヴレイブや牝馬三冠のロサプリンセスもここに参戦しているのだから。

 しかも3頭とも馬主が違うし、戦法も違うので扱いが難しい。

「まあ、こちらはこちらなりに頑張りますよ。先生もどの馬が勝ってもいいようにしていてくださいね」

 ロサプリンセスは鞍上・吉川尊、シンザヴレイブは前述したように式豊一郎──騎手は一流どころである。涼は一枚劣るか。

 3時を過ぎ、パドックで天皇賞出走馬が周回を始めた。

 パドックの真ん中には、関係者たちが各々自らの馬の事そしてライバルたちの考察をしている。

 18番ゼッケンを着けたブライアンズハートは勝負服の模様のいつものメンコ、真白なシャドーロールを縦に揺らして周回している。少々入れ込み気味かと涼は思った。

(今、何番人気なんだろうなあ……)

 1枠2番のライバル馬セタグリーングラスは英国遠征からずっとブリンカーをつけているようだった。

 シンザヴレイブは春とそう変わらず見える。ローゼンリッターは少しガレているだろうか、心もとなく見えた。

 昨夜、調整ルームで読んだ競馬新聞では1番人気セタグリーングラス、2番人気シンザヴレイブ3番人気ブライアンズハートとなっていた。セタグリーングラスは東京大得意のトニービン——ジャングルポケットの系統なので当然といえば当然である。既に、昨年中山であるが有馬記念を勝っていて並の中央G1馬では対抗できなくなっている。

 シンザヴレイブのことは涼が一番良く知っている。中間の追いきりでブライアンズハートと併せて引けを取らないどころか、食らいついてくる根性持ちだ。

 コレが逃げ粘るとどうにもならない。そして大舞台のステイゴールド産駒という特徴。

 はあ、と一つため息をつく。

「神代、今のところ1勝1敗だな。俺の最大のお手馬セタグリーングラスと、お前の最愛のお手馬ブライアンズハートがようやく戦うんだ。俺はこの日をどれだけ待ち望んだことか」

 腕組みをして突っ立っていると未來が背後から声をかけてきた。

「おれも待ってた。セタグリーングラスとブライアンズハートどっちが強いか決めよう」

 バチバチと火花を散らせていると歩稀と望までやってきた。

「先輩方、僕たちを無視するのは酷いですよ。ローゼンリッターの追い込みに怯まないで下さいよ?」

「そうですよ。兄さん、未來さん、僕のミスタードドンパはマイルだけの馬じゃないってとこを魅せますよ」

「歩稀、望、俺はもちろんお前たちとの勝負もつけるつもりだ。——この秋の盾で」

 未來は後輩の前でそう宣言した。

 静かにメラメラと闘志が湧く。相手にとって不足はない。

 いつになく緊張していると感じた。この緊張の仕方は凱旋門のとき以来だ。

 やがて騎手たちが招集され各馬に散ってゆく。

 パドックを悠々周回していたセタグリーングラスは未來を乗せると途端に臨戦態勢を整えたかのように目つきを変えた。

 一番最後を周回していたブライアンズハートは相棒の涼を見るやいなや、大きく鼻を鳴らす。スイッチを切り替えた合図だ。

 ハートに跨り、馬上からの景色を見た。府中の地下馬道を厩務員に曳かれながら本馬場へ向かう——府中のG1は日本ダービー以来なのでとても新鮮に思えた。

 18頭が本馬場入場し、ターフに解き放たれる。

 すんなりとターフに降ろされたブライアンズハートの返し馬は引っかかり気味であった。

 涼はすぐさま宥めて折り合いをつける。

 これからファンファーレが鳴って、ゲート入りまでの長いようで短い時間を、ハートとの手綱を通した会話で念入りに気を落ち着ける。

 令和元年、最初の特別な天皇賞秋のファンファーレが盛大に演奏された。

 スタンドのボルテージも最高潮だ。府中のこの歓声で入れ込む馬も数多いる。幸い、ハートは気に留めていないようだった。

 奇数馬番が続々とゲートへ入っていく。

 偶数で大外18番のブライアンズハートは一番最後だ。

(いやしかし、馬場がかなり重そうだな……)

 他の馬を見ていると、足元を気にしているような感じが見受けられた。

 そして、どんよりと曇った空から、ポツリポツリといよいよ雨が降り出した。

 11レース直前になって馬場は重に変わったらしい。

 とうとうハートがゲート入りする番になった。これをもって天皇賞秋の発走準備が整う。

『最後に大外——二冠馬ブライアンズハートが収まりまして、第160回天皇賞秋スタートっ!!』

『まずまず揃ったスタートでしたが、さあ、やはりシンザヴレイブ、マジシャンズナイト、ロサプリンセスが行きます。3頭牽制し合いながら、2馬身、3馬身と離していきます。その直後にフォトンインパクトとミスタードドンパ。さてその後ろに二冠馬ブライアンズハート好位置をキープ。1馬身後ろ外側にサトミダイバクハツ、内を突きましてエンシンブレス。その後ろ、3頭固まって外シンザクロイツ、真ん中アドミラルネイビー、最内に今年のダービー馬スバル。その後ろに今日は控えたエンシンローズ』

『最後方に菊花賞馬ローゼンリッターと南関東覇者セタグリーングラスが不気味に前方をマーク』

『先頭は今1000mを通過、時計は58秒1! 前3頭飛ばしています』

『府中の大ケヤキをぐるりと回って、第4コーナーに差し掛かります。前3頭との差はまだ縮まらない! 先頭は4コーナー出口を抜け、さあ、最後の直線! 3頭同時にムチが入った!』

『府中の直線500m! ここからです! さあ来たさあ来た! 二冠馬ブライアンズハートが内を突いて持ったまま上がってきた! 更に後方からローゼンリッターとセタグリーングラスが追い込んでくる! 先頭シンザヴレイブ粘る粘る!! ロサプリンセスとマジシャンズナイトは少し苦しいか!』

『スルスル、スルスルとブライアンズハート先頭を捉えます! しかしシンザヴレイブ二枚腰だ! ブライアンムチが入った!』

『ローゼンリッターとセタグリーングラス猛追! シンザヴレイブとブライアンズハートに並ぶか! 並んだ! 並んだ! しかしここでブライアンズハート抜けた抜けた!! ブライアンズハート突き抜けた!! ブライアンズハート、ブライアンズハート、今ゴーーーールイン!!』

『ブライアンズハート大復活! 鞍上お見事! 勝ち時計は1分56秒9!』

 ——歓声の中。涼は人差し指を天に掲げた。雨の中ではあるが、まるでそこだけピンスポットがあたっているように見えた。

 1着ブライアンズハート。1馬身差セタグリーングラス2着。3着は接戦写真判定の末ハナ差でシンザヴレイブ。神代涼、都築未來、式豊一郎の順だった。

「馬場かな、勝因は」

 涼はインタビューで一言そう答えた。

「大外から内に入れるのは中々骨だったけれど、ギリギリまで追い出しを我慢できたから、最後の脚があった」

「元来、重い馬場が得意だから、地の利があった。馬が頑張ったので褒めてあげてください」

 翌日のスポーツ新聞では、重馬場で驚異のタイム、ブライアンズハート復活、という一面トップを飾った。

 週が開けて今週はいよいよ11月に入る。

 G1は地方でJBCが行われるが、例によって例のごとくダートの乗鞍は涼にはない。

 中央ではアルゼンチン共和国杯が行われる。

 1週おいて11月2週目はエリザベス女王杯G1。京都の芝2200mの牝馬限定戦。

 このレースがジャパンオータムインターナショナルの初戦である。

 外国人騎手であるが、早い騎手は今週のアル共から乗りに来る者がいる。今年の最先方は欧州の星アーサー・アディントンが今週来日した。

 来週のマイルCS週ではスナイパーキッドことビリー・マックスウェルが来日する。

 この2人は母国でのお手馬がジャパンオータムインターナショナルに招待された故の来日であり、アーサーのお手馬ロビンソンはジャパンカップに、ビリーのお手馬でケンタッキーダービー馬のスターオブサジタリウスがチャンピオンズCにそれぞれ出馬する予定だ。

 アル共をともにする予定の涼は、休日の月曜日にアーサーの身元引受厩舎である神代久弘厩舎へ飛んだ。

「アーサー久しぶり!」

「やあリョウ、良かった元気そうで安心したよ。一時はどうなることかと思ったけど、割と活躍してるみたいだね」

「いやはや海の向こうまで心配かけまして、ごめん」

「それよりも、天皇賞見たよ。ブライアンズハートやっぱり凄いね」

「あれはインタでも言ったけど、馬場が味方しただけだよ。それ言ったら、ロビンソンなんて凱旋門賞連覇だろ? 格が違うわ」

 神代厩舎の調教師宅で紅茶を飲みながら団らんする二人。家主の久弘は別室でアーサーの乗鞍の調整をしていた。

「それでいて、ジャパンカップ連覇まで狙ってるときたもんだ……まあ、おれとハートが阻むけど」

「おっ、大きく出たね。やっぱり最強馬同士の戦いは盛り上がるよね」

「今年は特にな。海外の名手が例年以上に日本に来るし、招待馬も頑張って集めたみたいだし」

「僕が一番気になってる騎手はデラクール騎手かな。デラクール騎手に変ってペガサスWCターフ、キングジョージ、アイリッシュチャンピオンSを連勝してるムーンライトセレナーデが来るんだからね」

「去年の凱旋門と勢力図は変わらないね。ハート、ロビンソン、セレナーデの3強だ。っていうかデラクール騎手って今年そんなに勝ってたのか」

 フリッツ・デラクールは欧州に拠点を置き、アラブの王族の持ち馬専属ジョッキーでもある。

 世界競馬の中心人物、またの名を「並ぶ者無き名手」この異名を渡欧時に聞いた時、涼は底しれぬ恐怖を感じた。

 近年の主な勝ち鞍だけでも、ドバイミーティング全競争制覇、ロイヤルアスコット制覇、ブリーダーズカップ・クラシック連覇、メルボルンカップをそれぞれ違う馬で3連覇、ザ・ダービーとアイリッシュダービーをそれぞれ連覇。とてもではないが、涼には真似ができない。

 孤高も孤高、遥か頂きはエベレストの山頂か。

 やりすぎ、とも思う。

「正直言うと、日本に来ないでって思う。しかし寄りにも寄ってデラクール騎手は美浦か」

「ビリーも美浦って聞いたよ」

「栗東は僕だけだね」

「乗鞍取られる……マックスには頑張ってもらわないと」

 マックスがエージェントに就いてからというもの、涼の馬質は圧倒的に向上し、現に今のリーディングジョッキーは涼がトップである。このまま行けば年間リーディングを取れるペースである。

「ビリーのエージェントの弟子だっけ? そりゃあ凄腕だろうなあ」

「そうなんだよ。アメリカ人なのに、やけに日本競馬会とパイプあるし。冷静になって考えてみると、マックスって謎が多いよなあ」

 そんなことを言っていると、別室から久弘が出てきて涼に忠告した。

「マックスは俺伝いでこっちのパイプを作った。俺が色々と教えこんだからな」

「そこまで出来る父さんは何者なんだよって」

「さあな。一介の調教師だ」

「アーサー、ほら今シーズンの乗鞍だ。G1想定はどれも1番人気は硬いぞ」

「ありがとうございます。頑張ります」

「いつまでいるんだっけ?」

「グランプリアリマまでだよ。ロビンソンがジャパンカップ勝っても負けてもアリマに出るんだ」

「え、ロビンソン、有馬に登録してるの」

「俺から向こうの調教師に提案してみた。意外と行けるもんだな」

「父さん、何者だよ」

「そういうお前は危機感持てよ。ブライアンズハート舐められてるぞ」

 などと親子が言い争いをしているのをアーサーは笑いながら見ていた。

 涼が帰っていったあと、アーサーは久弘とこんな話をした。

「ヒサヒロさん、ロビンソンをアリマにっていうのは、ブライアンズハートとちゃんと決着をつけさせてあげたいから、でしょう?」

「察しがいいな。日本では、ジャパンカップより有馬記念の方が格が高いし一般国民も注目する大レースだ。この舞台でブライアンズハートは引退だろうから。まあ親心だな」

「別にロビンソンが勝っても良いのでしょう?」

「当たり前だ。俺はむしろロビンソンが勝つところが見たいくらいだ」

 ロビンソン対ブライアンズハートの構図が再び——いや三度繰り返されようとしていた。

  ///

 アルゼンチン共和国杯の結果は、アーサーの騎乗馬が期待通りに優勝。一方、涼の騎乗馬は掲示板確保の4着だった。二人の騎乗馬はジャパンカップへ向かうとのことなので、当然次走は乗り替わりだ。

 エリザベス女王杯当週となり、涼は今週の騎乗馬のリストをマックスから貰っていた。

「エリ女想定、18番人気かカワノツバサ落ちぶれたなあ」

「去年ヴィクトリアマイルで2着、エリ女で10着、今年のヴィクトリアは16着。まあ評価落ちてもしょうがないよネ」

 ジンダイ再生場の出番だね、とマックスが言う。

「枯れた馬を再生した覚えはないぞ」

「あとこれ、香港国際競争の想定。レットローズバロン香港ヴァーズで鞍上未定だったから売り込んでおいた。ブライアンズハートで天皇賞勝っておいて良かったねえ。ハートフルの社長喜んで受けてくれたよ」

「マジか、レットローズバロンまた乗れるのか……」

 トゥザスターズとレットローズバロンのローテ被りが解消されたらしい。

 香港はシャティン競馬場で行われる香港国際競争、その1レース芝2400mの香港ヴァーズに招待されているらしい。

 レットローズバロンは勝ち鞍こそ2000mまでだが、2400mの香港ヴァーズは適距離内だという。

 種牡馬になるために中山2000mのG1を2勝している。次はクラシックディスタンスを試すと。

「まあ要するに、ブライアンズハートとの使い分けね。ハートがジャパンカップ、バロンが香港か。他に香港に行く馬っている?」

「ナギサボーイとアドミラルネイビーが香港カップ、コーセイスピリッツが香港マイル、タモノハイボールも香港マイル、あとはシンザクロイツも香港ヴァーズだね」

「おれが乗れそうなのは無さそうだな」

「そうでもないよ。コーセイスピリッツは鞍上未定だから推しておいた」

「さすが有能。阪神乗鞍予定なくてよかった」

「ほんと、阪神JFにでる有力馬持ってなくて良かったねえ」

「朝日杯もだけど……」

 ここ数年、二才戦でいい馬を貰ってきたが、今年確約している二才は未デビューのテイクミーハイヤーしかいない。

 テイクミーハイヤーは年末の阪神開催新馬戦でデビュー予定である。

 G1を勝ってはいるがまだまだ、20半ばの若手ジョッキーであるから良い馬はそうそう集まらない。これがアーサーやビリーだったら来日するだけで有力馬や素質馬を任せられる。信用度が違う。

 そもそも、二冠馬ブライアンズハートがずっと涼に任されているのは藤村師の助力ゆえだ。

「おれ、香港初めてなんだ。シャティン競馬場楽しみだなあ」

「そのためにはマイルCS勝つんだヨ」

「任せろ、マックス」

 ひとまずエリ女である。18番人気のカワノツバサを任された涼は、エリザベス女王杯本番でとんでもない事をしでかした。

『カワノツバサ、逃げる逃げる! もうカメラでは追いきれません。最大に引いています』

 クィーンスプマンテばりの大逃げをかましたのである。

 というのも、作戦時点で逃げることは決まっていて、ゲートを出たなりに行こうという作戦だった。

 結果、とんでもないロケットスタートを決めてしまい、さらに、本馬の手応えがあまりに良すぎたため、涼は抑える事を余りせず行かせてしまった。

 1000mの通過が57秒。その次に先団が通過した時計が1分2秒。全くもってありえないドスローである。一頭以外は。

 直線向いて誰にも突かれなかったカワノツバサがぐんぐん伸びてゆく。

 番手を走っていたアーサーの騎乗馬がもの凄い末脚で追い上げてくるが、時すでに遅し、カワノツバサはゴール板を一番手で駆け抜けた。クビ差にアーサーの騎乗馬だった。

 馬券的には18人気——1人気——17人気、ととんでもなく荒れた展開になった。

 ウィン5のみならずこのレースだけで100万馬券が成立してしまった。その日、京都の電車が止まったのは笑えない話である。

 週が明けて、スポーツ紙の見出しは、「大荒れエリザベス女王杯!」だった。

 関西馬であるカワノツバサが輸送なしで挑んだエリ女は今にして思えば、勝てる要素が詰められていた。

 1週前追い切り絶好時計、体重増減なし、前走府中牝馬Sは上がりの時計が全体で2位、着順は7着。布石はあった。

 11月中旬の時点で、涼の今年中央勝利数が159勝、関東リーディングでは文句なく1位、全国リーディングでも2位の天照歩稀を20勝分突き放して独走中である。

 今週の乗鞍はマイルチャンピオンシップ、馬はアドミラルエヴォル。去年の秋天馬である。

 一年越しの先約ということだ。

 今週からビリー・マックスウェルが来日する予定である。

 国際色豊かな今年の秋競馬は、まさに今週から本格化といったところ。

 そういえば、先日、アメリカで行われたブリーダーズカップで、ビリーはターフをはじめとした6つのレースを勝ったらしい。

 メインのブリーダーズカップクラシックは、名手フリッツ・デラクール騎手に持っていかれた。

 デラクール騎手はジャパンカップ週からの来日で有馬記念までの免許だそうだ。

 ビリーはスターオブサジタリウスが東京大賞典を想定しているというのでそれまでいるという。

 各人、マイルチャンピオンシップの想定馬が出そろった火曜日の朝。

 本日は追い切りの予定がないため遅い朝食を摂っている。久しぶりに咲良と二人での朝食だ。

 そんな時、玄関でインターホンが鳴った。

「はーい、どなたですかー……ってビリー!」

「グッモーニン、リョウ。そしてサクラさん! 挨拶回りに来たよ」

 玄関先には昨日来日したビリー・マックスウェルご本人が立っていた。ビリーの身元引き受けは美浦・國村厩舎であるため、このマンションの潤の部屋に間借りすることになった。朝っぱらから挨拶に来たのだと言う。

「マックスウェルさん、お会いできて光栄です! お噂はかねがね」

「僕も知っていますよ。サクラさんは日本の有名な舞台歌手なんですよね。美人でリョウにはモッタイナイなあ」

「おれも知ってるぞ、君の奥さんはブロードウェイのスターだってね」

 玄関先で笑いながら憎まれ口を叩く二人に咲良は、呆れたように中に入るのを促した。

「Oh! 身重なんだね、実は僕のところも半年前に生まれてね! ハニーにそっくりなかわいい男の子だよ」

「それでか。なんかテンションが去年と違うと思った。おめでとう」

「リョウのところは性別分かってるの?」

「分かるんだろうけど、実際生まれてくるまでの楽しみってことで。予定日1月だから海を超えた同級生だね」

「マックスウェルさんのお子さんとうちの子がいつかどこかの舞台で出会うと面白いですね」

 咲良は朝食の卓の隣にビリーを座らせて、コーヒーを差し出しながら言った。

「いつか日本に連れてくるよ。それか君たちが僕の祖国に来てくれるかな」

「いやあアメリカ競馬は敷居が高くて。それに、おれ、ダート競馬は余り得意じゃないんだ」

「確かに、あなた、ダートのお手馬一頭たりとていまんからね」

 ダート全一のアメリカ競馬で涼が活躍できる要素がない。

 咲良もそれを分かって涼を茶化した。

「その点、君は芝も一流で凄いなあ。こと、ダートに限れば世界一だと思うけど、アメリカ人騎手で世界トップレベルって色々凄い」

「いやいや、褒め過ぎだって。僕自身、スナイパーなんて呼ばれてはいるけどデラクール騎手がケンタッキーに来たら絶対負けるし」

 やはりビリーの中でも、フリッツ・デラクール騎手は別格の扱いだった。

「マイルCS乗るんだっけ。何乗るの?」

「ジュンの口添えあってハイウェイスターに乗ることになったよ」

「ハイウェイスター!? おれが安田勝たせた馬だよ」

「ドバイシーマにヤスダ……今年は勝ち味に薄いらしいけど、僕は勝つよ」

「おれは去年の秋天馬アドミラルエヴォルだよ。まあエヴォルもあれから勝ってないんだけどな」

「相手にとって不足はないね。アーサーは何に乗るのかな」

「さあ……。直近で栗東に強いマイラーって思い当たらないしなあ」

 マイル界は去年までバーンマイハートとコーセイ軍団がしのぎを削っていたが、どちらとも美浦の馬であった。

「アーサーが乗る馬なんだから相当の素質馬なんだろうね」

 ところで、と涼はコーヒーを啜りながら言う。

「ビリー、いつまでいるんだい?」

 釘を差されたのに気づいたビリーは咲良と涼二人を見比べてハハハッと笑った。

「ごめんごめん。気が利かなくて。もう行くよ。今日は午後からリットウに挨拶回りに行くんだ」

「そう。頑張って。この秋いい勝負をしよう」

 ビリーが出ていって、騒々しかった朝の食卓が終わった。ダイニングキッチンで洗い物をする咲良の後ろで涼はバランスボールに乗りながら考え事をしていた。

 ここのところ、ボルトを入れた両足の調子がおかしい。痛いわけではなく、なにか違和感がするのだ。

 年初に無理をして乗ってきたが、ここにきて疲労骨折のような感じがする。

 騎乗に問題があったら一番にマックスに相談するのだが、今の所馬上での違和感はないので黙っている。

 正直に自分に素直になって考えると、あと2鞍——ブライアンズハートのジャパンカップと有馬記念さえ無事乗れればその後はどうなっても構わない、そう思っている。

 しかし、自分に課せられた責任と増える家族のためにまだまだ頑張らなければいけない。

 いつの間にか落馬恐怖症も寛解し、想像以上の回復力に自分でも驚いている。が油断はできない。いつまたトラウマが再発するともしれない。

「もう少し、頑張らないと……」

「? なにか言いました?」

 涼の独り言を聞き取った咲良が振り返る。涼は努めて明るく返した。

「何でもないよ。今年の大きいレースも残り少ないなあって」

「年初はどうなることかと思いましたもの。結局リーディング間近って……無理しないでくださいね?」

「そうだな。ほんと、無理は禁物だ」

 この時、涼はほんの少し察していた。

 自分に残された力があとほんの少しだということを。

  ///

 マイルチャンピオンシップ当日——。

 西日本の天候は金曜日からずっと晴天が続いていた。この日も見事な秋晴れであった。

 アドミラルエヴォルの馬体重は480kgで前走海外のため計測不能。良くもなく、不可もなく、平凡な仕上がりだった。

 というのも、エヴォルの次走・香港カップに向けてのゆるい仕上げということだ。

 ここは勝てたら儲けものという体で出走してきた。

 1番人気といえばビリー・マックスウェルが跨るハイウェイスターである。本馬はこのあと有馬記念で引退するそうだ。

 有馬記念での引退を表明している馬は現在、ブライアンズハートとハイウェイスター、サトミダイバクハツの3頭であり、3頭ともG1馬なので盛大な引退式が催されるのであろう。

 ともあれ、今週の一番はどの馬も次に繋がる一番と言うことになりそうだった。

 アドミラルエヴォルの経過は述べたとおり、緩めの仕上げで香港目標。ハイウェイスターも同じく前走からの馬体重維持といったところだ。

 出走馬18頭の中でひときわ目を引くのは、父ロードカナロア母父ダイワメジャーの6歳牡馬アウトバーンである。

 本馬は今年のマイラーズカップと富士S、そしてサマーマイルシリーズを勝っている名マイラーである。

 年齢的に考えて最後にして最高の仕上げで送り込まれたアウトバーンは、ここを勝てばG1初勝利となるし、鞍上の都築未來もマイルチャンピオンシップ初制覇を目指す。

 故に、人気では2番人気の位置にいた。アドミラルエヴォルはその下の下、距離適性を嫌われてか4番人気であった。

 7割の支持率を得ているハイウェイスターが本馬場に現れると、観客はドーッと盛り上がりを見せた。鞍上が鞍上であるためかパドックでもかなりの枚数の横断幕を見た。

 涼とアドミラルエヴォルは芝の感触を確かめるようにキャンターでターフに降りる。エヴォルの身のこなしが少し太めに感じる。

 アウトバーンは絶好の返し馬をし、向こう正面のスタート位置にやってきた。

 秋の京都、ジャパンオータムインターナショナル2戦目のスタートが切られようとしていた。

 3枠6番のアドミラルエヴォル、2枠3番のハイウェイスター、5枠9番のアウトバーン——枠の有利から言ったらエヴォルであるが今日の馬場は外差しが効いているらしい。

 ファンファーレののち、続々とゲートインしていく。アドミラルエヴォルはゲート入りを嫌がる素振りもなく素直に入っていった。一頭、大外枠の馬がゲート入りを嫌がって、5分とスタートが遅れることになった。

 結局、大外枠の馬は目隠しをされようやくゲートに入り、発走準備万端となった。

 ガシャンっとゲートが開くと一気に18頭が飛び出していく。案の定、ゲートを嫌がった大外の馬は出遅れてしまった。アドミラルエヴォルは抜群のスタートを魅せて早々とハナに立つ。しかし、それ以上にハナを主張する馬が2頭いたため3番手に控えた。

 すぐ横にはハイウェイスターがいて、すぐ後ろにはアウトバーンがいる。

 ああ嫌だな、と涼は思った。

 ビリーと未來にマークされているということだ。

 先頭を走る2頭はペースを上げて後続を引き離している。自分はいつ仕掛けるか。この京都の馬場はセオリーというものがあると昔、式豊一郎が言っていたのを涼は思い出した。

 涼はアドミラルエヴォルの力を信じて坂の下りから一気にスパートを掛けた。4コーナーの出口から直線に向くとき少し内ラチ沿いが空いたように見えたのでそこに容赦なく突っ込んだ。

 逃げ馬2頭のリードはもう無い。アドミラルエヴォルの早め先頭に、アウトバーンが末脚を繰り出し追撃する。ハイウェイスターもそれに続く。

 インペタで目一杯追われて走っているアドミラルエヴォル——200m——100m、驚異の粘りをみせたが最後のゴール板でアウトバーンが最後究極の切れ味を魅せた。

 差した、未來はそう確信して、ゴール後にウイニングランを敢行した。

 差されたアドミラルエヴォルと涼は、潔く着順指定エリアに戻ってきて検量した。

「ふう……いつっ、少し無理しすぎたかな」

 足が少し痛むが、我慢して帰り支度をする。本馬場ではアウトバーンの表彰式と引退式が執り行われている。

 着順確定直後、未來がなにか言いたそうに涼を見ていたが、涼はそれに気づかず3着だったビリーと話し込んでいた。

 未來との勝負は現在、二勝二敗である。残りのレース、ジャパンカップ、チャンピオンズカップ、阪神JF、朝日杯FS、有馬記念の五レースだが、チャンピオンズカップには乗る馬が無く阪神JF当週は涼は香港へ行くので勝負はできない。ジャパンカップ朝日杯有馬記念の三戦が残りの勝負レースだ。

「あ、裏のメイン、アーサーが勝ったんだ」

 裏開催のメインレースではアーサー・アディントンが勝利したと速報が流れた。

 今秋の外国人ジョッキーの勝ち星は、アーサーが来日三週目にして14勝、ビリーは一週目だが五勝を挙げた。来週はいよいよ総大将であるとされるフリッツ・デラクール騎手が来日する。

 様々な思いとともにジャパンカップ当週を迎えた。

 涼のエージェントであるマックスは、ビリーに帯同して来日しているエージェントに会いに栗東へ行っていた。マックスにとっては師匠筋の人物である。

 暇な涼は、潤が休み返上で働いている厩舎へ向かった。

 潤は今年いっぱいで、いや、正確には来年の2月いっぱいで調教師見習いの修行を終える。

 3月からいよいよ調教師としてスタートするのだ。

「じゅーん、おれは暇だー」

 藤村厩舎でくつろぐ涼を他所に、潤は慌ただしく動いていた。

 来年開業予定なので、師匠の藤村師から送られる馬のリストと新しく迎え入れる入厩馬のリストを見比べている。

「俺は忙しいぞバカ。兄貴も手伝え」

「どれどれ? うえっ! テイクミーハイヤー、潤のところに転厩予定のなのかよ。デビューは藤村先生だけど……」

「兄貴が話つけてきたって藤村先生が聞いたから、お祝いに俺のところに寄越してくれるって。つーことで、朝日杯の週に藤村厩舎からデビューなので、絶対に勝て、命令だ」

「そこまで言われたら、やるしかねーなあ」

 リストを確認していく双子。リスト内には藤村厩舎のみならず、美浦の有名厩舎の所属馬の名前もあった。潤に対する美浦調教師たちの信頼度が伺える。

 作業を続ける潤を傍目に涼はふと思ったことがあり、それを口に出した。

「ブライアンズハート、最後は潤が見てくれるらしいな。藤村先生から聞いたぞ」

「——ああ、そのことか。先生が俺に課した最後の試験だよ。見事ブライアンズハートを最後のターフに立たせろって」

「ジャパンカップも有馬も一筋縄ではいかないな。なんせ、おれはグランプリ苦手属性ついてるからな」

 潤は涼をじっと見つめて、呆れたようにため息を吐いた。

「自信ありまくりな顔してるけどな」

「そう?」

 すっとぼけた表情でリストの方に視線を戻す。

 潤は涼を叱咤激励するように、またプレッシャーをかけるように一言呟いた。

「騎手選定も先生や心田オーナーから一任されてる、が、まあ十中の八九兄貴で行くけど」

 新馬戦からずっと涼なのでここで変える意義が見当たらない。

「兄貴は随分と自信があるようだけど、ラスト二戦はほんとキツイぞ。凱旋門連覇のロビンソン、今年世界制覇で鞍上は並ぶ者無き名手なムーンライトセレナーデがジャパンカップ2、3番人気なんだからな」

 去年の凱旋門賞上位三頭が今年のジャパンカップ人気上位である。地元のブライアンズハートが雪辱を果たすため一番人気に支持されている状況だ。

 ブライアンズハートの秋天からの経過は順調そのもので、前走の疲れも見せずやる気満々、途中の追切時計も上々の上がり調子だった。

 先週、美浦Wで追いきった時の終いの時計が11秒5。当週追い切りを行う明日は軽く流す程度だろう。これは潤の裁量で決まる。

「三強だけじゃないな。東京得意のジャンポケ産駒セタグリーングラスは適鞍で挑んでくるし、父さんのローゼンリッターも怖い。そして——藤村先生のシンザヴレイブも」

 他にジャパンカップに出走登録している有力馬は今年のダービー馬スバル、鞍上はビリー・マックスウェル。

 欧州のチャンプと日本のチャンプが再び、いや、四度目の対決に報道各社は色々と囃し立てた。

 涼の謎の自信も週末の枠順発表で崩れ落ちるのだった。

 ブライアンズハート、18頭立ての8枠18番。天皇賞秋と同じ枠だが2000mと2400mは勝手が違う。

 東京2400mはダービーのコースと同様だが、ブライアンズハートはダービーでは1枠1番であったため、このコースの大外枠は初めてである。さらに、スタンド前スタートなので、入れ込みにも注意しなければならない。

 しかし救いの神はあった。

 なんとこの一週間、晴れた日が一度もなかった。競馬開催前日の金曜日の関東の天気は土砂降りも土砂降り、一ヶ月分の降水量が一日で降ってしまい、いくら水はけが良い府中でも吐き出せないほどの馬場となってしまった。

 当然、土曜日の府中は不良馬場、天候はもちろん雨。明日の天気予報は、曇り時々小雨。

 日本ダービーを重馬場で勝ち、欧州の馬場にも適応したブライアンズハートにはとても良い条件だった。

 普段が軽すぎる府中が重くなったとあれば、切れないのが外国馬である。特に昨年の良馬場でも勝っているロビンソンは怖い存在だろう。金曜日発売の馬券のオッズは2・5倍の一番人気ブライアンズハート、次いで3・0倍のロビンソン。あくまで金曜の段階で、である。当日は違ってくるだろう。

 土曜の夕方府中の調整ルームに入った涼は新聞を眺めて相手を絞ることにした。

 回復する見込みのない馬場から考えると、相手はロビンソン一択か、パワー馬場の経験があるセタグリーングラスか。

「あーやって雨ばかり降ってくれると、せっかくの国際招待レースも台無しだよな」

 隣のソファで同じく競馬新聞を読んでいたローゼンリッター騎乗の歩稀に愚痴をこぼす。

「馬も嫌がりますからね。僕もこんな馬場のジャパンカップは初めてですよ」

「んなこと言って、天照、お前、今年どぶどろの安田勝ってるだろ」

 都築未來が夕食を摂り終えて、二人の間に徐に入ってきた。

「未來さんは不安はないんですか?」

「俺は不安有りまくりだ。でもそこのソイツを倒さなきゃいけないから、セタグリーングラスを信じる」

「相手にとって不足はなし、か。未來、おれもブライアンズハートを信じて乗る。ロビンソンにもセタグリーングラスにも負けない!」

 二人の間に火花が散っている。遠くで見ているシンザヴレイブ騎乗の式豊一郎は、手元のお茶をすすりながら、若手の奮起に悦びを感じていた。

「若いとは良いね。僕ももう少し若かったらあそこに加わるのに……」

「式さんまで加わったら、収拾つかなくなりますから……」

 同じく茶をすすっていた中堅で今週平場に乗る吉川尊と海老原兼次郎が止めに入る。

 土曜の夜はこうして過ぎていった。

 翌日——東京競馬場には、雨だというのに10万人の観客が押し寄せた。

 ジャパンオータムインターナショナルのメインレースといえるジャパンカップで、今まさに世界最強が決まるというから、競馬ファンは一目見ようと訪れたのだ。

 めったに参戦しない凱旋門賞馬、昨年の勝ち馬であり欧州最強馬ロビンソンと欧州の星アーサー・アディントン。

 グレイテストチャンプ、昨年の二冠馬にして天皇賞馬、日本総大将ブライアンズハートと東方の光神代涼。

 緑の怪物、昨年の有馬記念覇者、南関東三冠馬セタグリーングラスと若き獅子都築未來。

 覚醒した勇者、春古馬三冠馬シンザヴレイブと天才式豊一郎。

 菊の王子、ヴィクトワールに花束をローゼンリッターと関西の貴公子天照歩稀。

 古豪の二冠馬、古馬の栄誉をこの地で、サトミダイバクハツとスナイパーキッドビリー・マックスウェル。

 そして——世界を股にかける怪物牝馬、ムーンライトセレナーデ、これに跨るは、並ぶ者無き名手フリッツ・デラクール。

 役者が揃い踏みした近年稀に見る超豪華なジャパンカップが始まろうとしていた。

 今週から有馬記念まで滞在予定のフリッツ・デラクールは、盟友の式豊一郎と談笑していた。

 その世界に入っていけない涼たち若手は、フリッツの神々しいオーラに充てられて目眩を感じた。

 一方、府中のスタンドでは、咲良や陣一、流真、菜々子といった間寺家の面々と、和尭、珠樹、梓、文じい絹ばあといった神代一家が勢揃いして観戦に臨んでいた。本日裏開催に回っている望が来られなかったのが悔しいと和尭は零した。

 久弘はもちろん関係者席に座っている。ローゼンリッターがセタグリーングラスが、宿敵ブライアンズハートを打倒せんとするのを見守っているのだ。

 15時のパドック周回を見ていた藤村師は、ブライアンズハートのことは全て弟子の潤に任せて、自らはシンザヴレイブの陣営にいることにした。式豊一郎と作戦会議をし方針を決める。

 悠々と周回するヴレイブとそれを引っ張る緊張する遥乃。シンザヴレイブは1枠1番だった。

 パドックの中央でじっと目を閉じて仁王立ちしている者が一人。涼はブライアンズハートの馬体を確認するや瞑想のようなことを始めてしまった。

 500kg丁度の漆黒の馬体、それに映える純白のシャドーロール。今日のハートの調子はすごぶる良さそうだった。

 ジャパンカップにこんな思いで挑むのは初めてだ。シンザフラッシュの時とは違う。1番人気として、総大将として、全てを迎え撃つステージだ。

 15時半——18頭の馬と騎手は本馬場へ繰り出した。

 地下馬道を通って外に出た途端にザーっと雨粒が当たる。バイザーに煩いくらいに吹っかけてとても煩わしい。

 返し馬はどの馬も馬場を嫌がっているように見えたが、ブライアンズハートとロビンソンだけはスイスイと馬場をものともしなかった。

 馬券の締め切り5分前には1人気ブライアンズハート1・5倍、2人気ロビンソン1・8倍——とこの2頭が突き抜けて人気を集めていた。その下は最早団子状態だった。

 陸上自衛隊中央音楽隊がスタンバイしているはずのウイナーズサークルには今日は誰もいなく、生演奏の予定だったファンファーレも天候不順から録音で、と決まっていた。

 それでもこの天気でも、最終的に13万人の観客がこのレースの行方を見定める事となった。

 15時40分、スタンド前。スターターがいよいよスタート台へむかい始めた。

 ヤッケを着たスターターが台に乗る、ぐぐっと台がせり上がっていって頂点に達する。

『昨日まで降り続いた大雨は一旦小雨に落ち着きました、今日ここに集まった世界の優駿は唯一つの栄冠を目指してスタートの時を待っています。さあ、スターターが旗を振ってファンファーレです』

 録音のファンファーレが盛大に鳴り響く。外国競馬にはない風景だ。

『——最後に大外、大本命のブライアンズハートが入りまして、体制完了! 第39回ジャパンカップ、今スタートしました。シンザヴレイブあまり良い出ではありません。ダッシュがついたのは欧州最強ロビンソン、勢いよく飛び出していきました』

『大歓声に送られて第1コーナーを回っていきます。先手を取ったのはロビンソン快調に飛ばします。3馬身ほど空きまして2番手はサトミダイバクハツ。その後ろにはローゼンリッター今日は前に付けました天照歩稀。内を突いてはジェネレーション、外にダービー馬スバル。その後ろにアクアオーラ。少しかかり気味か6番手の位置にアドミラルアース。1馬身空きましてフォトンインパクト。その後ろ、今日はここにいました天皇賞馬ブライアンズハート虎視眈々。少し離れてシンザヴレイブこの位置は苦しいか』

『最後方にセタグリーングラスとムーンライトセレナーデとなりまして、先頭通過最初の1000mは59秒2!』

『先頭は依然としてロビンソン、変わらずサトミダイバクハツがそれに続きます』

 速すぎる——そう思った。

(これじゃ前が保たないぞ、ロビンソンは保つのか?)

 馬場に比べてペースが速すぎる。ただでさえ追走が大変であるのに。

『先団は大ケヤキを回って第3コーナー過ぎ、第4コーナーを回ります! さあロビンソン余裕綽々で直線に出た! 後ろはまだ来ない!』

(前が垂れてきた。行くなら今だ——)

『ブライアンズハートムチが入る! どんどん上がってゆく! 府中の長い直線! ロビンソンを捉えられるのか! ロビンソンはまだ粘る!! 最後方からセタグリーングラスとムーンライトセレナーデが一緒に上がってきた!! 残りあと200m! ロビンソンまだ先頭、馬場の四分どころを通ってブライアンズハート急追! 更に外からセタグリーングラスとムーンライトセレナーデが伸びてくる!』

『ロビンソン、ブライアンズハート、並んだ並んだ、しかし交わせない! 残り100m! セタグリーングラスとムーンライトセレナーデも並んできた、四頭の叩き合い! 並んだままゴールイン!!』

『四頭並んだ状態でゴール、全くわかりません!』

  ///

 ジャパンカップの日の東京は11Rが最終レースである。

 ゆうに一〇分は超えた、まだ着順は確定していない。

 潤と涼は同じ表情を浮かべながら結果を待っていた。

 この長い時間が地獄のように思えた。しかし、係員がホワイトボードに馬番を書いていく。

 一着——一八番、ハナ差二着——六番セタグリーングラス、ハナ差三着——ロビンソン、四着ハナ差ムーンライトセレナーデ。

 潤が歓喜の声を挙げた。涼は放心状態で話すことができない。アーサーがやってきて涼を祝福した。我に返った涼はもみくちゃにされながらインタビューに臨む。

「あの馬場であそこまでの接戦をして、本当にブライアンズハートは強い馬です……。っつ……すみません、ここは本当に勝ちたかった舞台なので、良かったです」

 涙をこらえて言葉を紡ぐ。

 去年の凱旋門賞がフラッシュバックする。あれがあったから、今自分はこの舞台にいる。そんなことを思うと余計に涙が流れる。

「デラクール騎手やアディントン騎手、マックスウェル騎手と一緒にレースができたことを一生の思い出にしたいです」

 インタビューから開放されて、真っ先に涼の許へ飛んできたのは、ムーライトセレナーデに騎乗していたフリッツ・デラクール騎手だった。

「ヤア、トテモグレイトナレースダッタヨ。ウワサニキイタトオリ、【ジャパニーズナンバーワンジョッキー・リョウジンダイ】ダネ。グランプリアリマデモイイレースヲシヨウ」

 フリッツ騎手のたどたどしい日本語も、なぜだか温かみを感じてグッと握手を交わした。

 泥だらけの勝負服姿で写真を撮られる。明日の一面は、涼とアーサーとフリッツが握手を交わしている写真だった。

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