第9話 恫喝と威圧と誘惑
柱の合間から見える庭園に、穏やかな朝の日差しが降り注いでいる。大勢の庭師が色とりどりの花々や、緑鮮やかな立ち木の手入れに精を出す様子からは、篝火と歩哨だらけだった昨晩のような物々しさは欠片も感じられない。
カエトスはそれを眺めながら、正殿アルアサークスへと向かう柱廊を歩いていた。
前方には、昨日に引き続きカエトスの監視役となったアネッテが、短く切りそろえた黒髪をなびかせながら颯爽と歩き、その後ろには庶民を体現したような少女ヨハンナが昨日と同じように結い上げたくせ毛を揺らしながら続く。
カエトスの体を包むのは、昨日の一連の出来事で穴だらけになってしまったジャケットにズボンではなく、アネッテたち王女付きの親衛隊ヴァルスティンが着用しているものと同じ紺色の制服だ。元々の形状が男物であるため、カエトスが着たところで違和感はない。
ただアネッテたちとは異なる点がある。一つは腰に吊るしている剣だ。
アネッテたちは主兵装として一般的な長剣を装備している。しかしカエトスは今朝ようやく返却された自分の剣だ。
もう一つは胸元に〝三日月を囲む八星〟の記章がないことだ。
この記章は親衛隊ヴァルスティンに所属することを示すもので、隊員の左胸には例外なく縫い付けられている。
なぜカエトスの制服にないのか。アネッテ曰く、カエトスは正式な隊員ではなく見習いであるために、記章は与えられないとのことだった。
そもそもの入隊の経緯が異常であるため、それも当然だ。しかしカエトスは彼女たちに記章を与えてもいいと思わせるほどの関係を築かなければならない。
それは王女レフィーニアに告げられた手柄を立てろという指示と無関係ではないが、直接の原因は例のイルミストリアにあった。
今朝、イルミストリアの内容を確認したところ、昨日とは違い複数の文章がすでに出現していた。
最も指定時刻の早い記述は、『大陸暦二七〇七年五月十四日、四エルト三十二ルフス(午前九時ころ)の刻、王城アレスノイツ内別殿シリーネスにおいてアルティスティン・レフィーニアの命令を受諾せよ』というものだ。
これは特に問題はない。カエトスに今朝与えられた指示が、別殿シリーネスに向かえというものだったからだ。
どうやらレフィーニア自身がカエトスを呼び出したらしく、そのおかげで昨晩のような苦労をせずに、こうしてアネッテたちに監視されつつも堂々と柱廊を歩いているというわけだ。
問題は王女に関する記述の前に記されていた文章だった。そこにはこうあった。『リースペルト・アネッテ及びアイカイス・ヨハンナとの間に友好関係を構築せよ』と。
(なあ、何で時間と場所が載ってないと思う?)
カエトスが頭の中で問いかけると、右肩で何かがもぞもぞと動いた。そこにいるのは、いつものように姿を消して座っている金髪の小さな女神ネイシスだ。
カエトスの補佐を今日も引き受けてくれた彼女は、昨日と同じく本と時計を所持している。
本の記述はいつ新たに出現するかわからないため、常に持ち歩かなければならないのだが、カエトスにその余裕はない。そこでネイシスが所持することに決めたのだ。
(そうだな。機会があったら、いつでも働きかけろという意味以外には解釈できないとは思うが、何のためなのかがまるでわからん。この女たちもハーレム要員だとか……いや、それはないな)
ネイシスはそう分析しつつも、すぐにそれを否定した。
(お前を好くように仕向けるなら、昨日の時点で何らかの記述が出てるはずなのに、それがない。となると……うむ、やっぱりわからん)
(……だよな。仕方ない、やれるだけやってみるか)
柱廊を歩くのはカエトスたち三人のみと人気はない。話しかけるとしたらここは好機だ。
前を歩くアネッテの後姿を観察しながら、いったいどのように二人の親衛隊員との友好を深めればいいのか、思いを巡らせる。
しかし何を話すべきか、その手掛かりがまるでなかった。アネッテやヨハンナが何を好み、何を嫌うのかがさっぱりわからないのだ。迂闊に話しかけて下がり切っている好感度をさらに落とすことになっては本末転倒だ。
当たり障りのないところで、天気の話題でも振ってみるか。
カエトスがそう考えたところで、、前方にある正殿アルアサークスの扉が開き、何者かが現れた。
彼らが着用してるのは、カエトスたちと同じ形状の制服。しかし色は艶を落とした赤色だ。数は四人。柱廊の右端を歩くカエトス、ヨハンナ、アネッテに向かってきている。
カエトスたちとすれ違う直前、男たちが立ち止まった。前を歩くアネッテは軽く頭を下げてそのまま通り過ぎようとしたが、先頭の男が呼び止める。
「待てよ、アネッテ。そいつだろう? これまで女しかいなかったヴァルスティンに王女殿下が強引に入れたって奴」
口元に愛想笑いを浮かべながら気安く話しかけてきた男の胸元には、三枚の鷲の羽根を重ねた図柄が縫い付けられている。その記章にカエトスは見覚えがあった。それは昨日のことだ。決闘を行ったヴァルヘイムの制服にも同じ記章があったのだ。つまりこの男たちは親衛隊イーグレベットの隊員。
歩みを止めたアネッテが振り返った。それに倣ってカエトスも足を止める。
「耳が早いですね。その通りですが何か?」
アネッテに聞き返された男たちが次々に口を開く。
「いや、是非とも話を伺いたいと思ってね。聞けば貴族の生まれでもないし、士官学校にも行ってないそうじゃないか。なのに親衛隊に抜擢されるなんて、歴史始まって以来の珍事だろ?」
「そうそう。いったいどんな手を使ったのか、是非ともご教授いただきたいね」
「殿下に気に入られるために、何をしたんだよ?」
「おおかた、あれじゃないか? 王女殿下は田舎の出身だし、あっちのほうのお遊びに慣れちゃってんじゃないの? それでお前が夜の遊び相手に選ばれたってな。どうよ、当たってるだろ?」
男たちが品の良さを残しながらも、明らかに卑猥な妄想をしているとわかる下卑た笑みを浮かべる。
不意にネイシスが尋ねてきた。
(カエトス、夜の遊びって何だ?)
(口振りからして、子作りのことだな。知ってるだろう?)
(ああ、つがいになった人間がやることか。ということは、この人間の指摘はあながち間違ってもないじゃないか。こいつ、鋭いな)
妙なところにネイシスが関心を示す。
レフィーニアがカエトスに求婚したという事実だけを見るなら、確かに見当はずれというわけではない。が、事実に近いからといってそれを口にしていいかといえば、答えは否だ。明らかな侮辱的発言は王女の親衛隊として看過するわけにはいかない。
眉をひそめたアネッテが一歩前に出ようとした。しかしそれに先んじてカエトスが口火を切る。
「いや、あなたの言っていることは甚だ見当違いです。私が取り立てられたのは実力を証明したからです」
「証明? はん、一体何を証明したのやら。夜の寝技でも見せつけたのか」
カエトスの反論が気に食わなかったのか、男の一人が居丈高な態度で言い返した。周りの男たちの下品な笑みがさらに大きくなる。
カエトスは男を静かに見据えながら淡々と事実を告げた。
「あなた方の隊長であるヴァルヘイム殿に決闘で勝ったんですよ」
「……何だと?」
「隊長に勝った? 馬鹿かお前。そんなことあるわけがない」
「嘘だと思うなら、隊長ご本人に伺ってみたらどうですか。それとも──」
カエトスはそこで言葉を切ると、これまでの丁寧な口調を一変させた。
「お前の目で直接確かめるか?」
その一言で男たちの顔色が変わる。そこにあるのは人畜無害と侮っていたカエトスに対する恐れと狼狽。
カエトスは特別好戦的な性向ではない。実力行使に出るのは最終手段と考えているし、敵を作らないことにも留意している。だが剣を使うことを躊躇しない。必要とあれば命も奪う。現にカエトスがこれまでの人生で手を下した者は、優に三桁に及んでいる。その経験から放たれる真の殺気に男たちは気圧されていた。
「お前たちは王女殿下を侮辱した。ただの軽口だったかもしれないが、俺を取り立ててくれた方への暴言は許さない」
カエトスは男たちを睨み付けながら一歩距離を詰めた。四人の男が揃って後ずさる。そのとき、正殿の方から足音が聞こえた。
カエトスが顔を向けると、四人と同じ制服を着た男が近づいてくるところだった。足を止めて口を開く。
「何をしている」
「た、隊長」
癖のある黒髪に引き締まった長身の男は、親衛隊イーグレベットの隊長ヴァルヘイムだった。助けを求めるように声をかける四人を一瞥し、次いでカエトスに目を向ける。
「貴様か。何があった」
「彼らが王女殿下を侮辱するような発言をしたので、それを諫めていました」
「本当か?」
「は、いえ、その……」
短く問いただすヴァルヘイムに、四人の男はそろって目を逸らす。
カエトスは、ヴァルヘイムが部下の肩を持つのではないかと警戒した。それに備えて対処を頭の中に思い浮かべる。しかしカエトスの思惑と異なる反応が返ってきた。
「どうやら事実らしいな。部下が失礼した」
そう言ってヴァルヘイムはアネッテに対して小さく頭を下げた。四人の男に行くぞと声をかけながら歩き出す。その足がふと止まった。肩越しにカエトスを見やる。
「あまり調子に乗らないことだ。あれが私の本気だと思われても困る」
「覚えておきましょう」
ヴァルヘイムとカエトスの視線がぶつかる。逸らしたのはヴァルヘイムが先だった。そのまま振り返ることなく柱廊を歩み去る。
「見習いが余計な口出しをするんじゃない」
カエトスがイーグレベットの面々の背中を見送っていると、アネッテが苦々しさのこもった声で叱責した。
「はっ、出過ぎた真似でした」
「それとここでは刃傷沙汰は厳禁だ。不用意に殺気を出すな。これは隊長への報告案件になるぞ」
「……申し訳ありません」
カエトスは神妙に謝罪した。
レフィーニアを侮辱した男たちを黙らせるところまでは思惑通りだったが、アネッテの反応を読み違えてしまった。カエトスが内心焦りながら挽回方法を模索していると、アネッテが幾分柔らかい口調で付け加えた。
「だが、隊長には言わずにおいてやろう。まだ一回目だ。それにお前が言わなければ私が言っていた。そのまま殿下への忠義を示し続けるならば、お前を信用するときもくるだろう。その心がけを忘れるな」
そう忠告するとアネッテは歩みを再開した。
(ふむ。結果的には、いい印象を与えられたようだな)
カエトスの右肩でネイシスが身じろぎしながら言う。彼女はカエトスの真意に気付いていた。アネッテやヨハンナとの関係を良好なものにするために、敢えて親衛隊を諫める役を買って出たということに。
(……多分な。ただ、もう少しわかりやすい試練にして欲しいな。これじゃあ上手くいったのかどうかがわからない)
(まったくだ。それも含めて試練なんだろうが、この本を作った神はかなり面倒くさい奴だな)
苛立たしそうにネイシスがカエトスの思いを代弁する。
カエトスはアネッテとヨハンナに聞こえないように密かにため息をつくとアネッテの後を追った。
昨日ミエッカに先導されて進んだのと同じ経路を進むことしばらく、柱廊の先に別殿シリーネスの姿が見えてきた。
入口を守る同僚の敬礼に答礼しながら、アネッテは別殿の扉をくぐった。それにカエトス、ヨハンナも続く。
壁一面がガラス張りの玄関広間では、白いスカート姿の女たちが忙しそうに右へ左へと行き交っている。その中に、別殿の雑事を取り仕切る侍女長ナウリアが凛とした姿勢で立っていた。
ナウリアとアネッテが互いに礼を交わす。
「おはようございます。カエトスを連れて来ました」
「ご苦労さまです。ここからは私が彼をお連れ致しましょう。アネッテ殿とヨハンナ殿はこちらでお待ちください」
「了解しました」
振り返ったアネッテが行けと目で促す。カエトスはそれに従いナウリアのもとへ歩み寄った。
「私についてきてください」
ナウリアは素っ気ない口調で言うと、カエトスに背を向けて歩き出した。その後ろに付き従い、玄関広間左奥の廊下へと向かう。やはり昨晩の接触では、ナウリアとの関係は全く好転していないようだ。
内心嘆息するカエトスの頭の中に、ネイシスの声が反響する。
(カエトス、覚えてるか。今日の四番目の記述)
カエトスは今朝何度も読み返した記述を思い浮かべた。
アネッテやヨハンナとの良好な関係を築けというのが一番目で、二番目がレフィーニアからの指示を受諾しろ、三番目にまた別の記述があり、その後にもう一つ文章があった。
その内容は『大陸暦二七〇七年五月十四日、五エルト四十ルフス(午前十一時二十分頃)の刻、王城アレスノイツ兵部省内において、カシトユライネン・ミエッカの指示を受諾し、カシトユライネン・ナウリアをそれに同行させ、これを無傷のまま指示を完遂せよ』というものだ。
(あのミエッカという女が何か命令するんだろうが、それを実行するとき、ナウリアが一緒にいなきゃならないようだ。ここには好き勝手に来られないようだし、今のうちに約束を取り付けてしまえ)
(そうか、今しかないかもしれないんだな)
ネイシスの言う〝ここ〟とは、別殿シリーネスのことだ。
中郭にある別殿は、王族の私的な住居としての側面が強い。それを護衛する親衛隊ヴァルスティンにカエトスは所属することになったわけだが、隊長などの役職でもない限り、自由に行き来することができない。つまりシリーネスで働くナウリアとは、簡単に接触できないのだ。
早速カエトスはかける言葉を模索した。やはりここは昨晩途中で切り上げることになってしまった話題を使うべきだろう。
カエトスがそう判断して前方に目をやると、上品な仕草で歩くナウリアの歩調がふと緩んだ。その背中が近づき、カエトスは彼女のほぼ真横を歩く形になる。
「昨晩の約束、違えていないでしょうね?」
「もちろんです」
前を向いたまま尋ねるナウリアに、カエトスは即答した。彼女の怜悧な眼差しがすっと横に動く。
「……嘘はついていないようですね。もっともあなたに情報を漏らす利点はないので安心してはいましたが。それで昨晩の話の続きですが──」
今まさにカエトスが振ろうとしていた話題を切り出すナウリア。カエトスは無礼とは知りつつも、すかさずそれに飛びついた。
「そのことで一つ提案があります。込み入った話になると思われますので、時間に余裕のあるときにお話しできればと考えています。具体的には、昼頃がよいと思うのですが」
「……たしかにここでは難しいですね。いいでしょう。あなたも休憩時間に入るでしょうし、上手く時間を作ります。それで場所は?」
カエトスの提案にナウリアは一瞬不快そうに眉を寄せたが、すぐにそれを収めると聞き返してきた。答えようとしてカエトスは言葉に詰まる。
「……どこか適当な所はないでしょうか? 王城内の事情にはまだ詳しくないもので」
何しろこの城にやって来てまだ二日目だ。土地勘は皆無と言っていい。機嫌を窺うように尋ねるカエトスに、ナウリアは小さくため息をついた。
「ヴァルスティンの宿舎で落ち合いましょう。そこから場所を変えます」
「わかりました。お手数かけます」
カエトスは礼を言って頭を下げた。それをナウリアが怪訝な眼差しで見やる。
「……どうかしましたか?」
「いえ、何でもありません。参りますよ」
カエトスが声をかけると、ナウリアはすっと目を逸らした。歩調を速めて再びカエトスを先導するように廊下を歩く。
(今のは何だ?)
(……いや、俺もわからない。特に機嫌を損ねるようなことはしてないはず)
ネイシスも気になったのか、今のナウリアの仕草について聞いてきたが、カエトスもその意味は読み取れなかった。嫌悪感や敵意のようなものは感じなかったことから、重大な懸案が発生したわけではないだろう。
(ふむ。ならばそれは放っておくとして、思った以上にすんなりと約束できたじゃないか。あとは王女の話を聞けば一段落だな)
(まあ、そうなんだけどな……)
ネイシスの楽観的な言葉に頷きつつも、カエトスの胸中には別の懸念が生じていた。それを小さな女神に相談しようとしたところで、ナウリアが両開きの扉の前で立ち止まった。左右に親衛隊ヴァルスティンの制服を着た女が立っているそこは、昨日レフィーニアと会談を行った応接間だ。ナウリアを認めた隊員が目礼しながら扉を開ける。
ナウリアに続いて広間へと足を踏み入れると、中は昨日とは雰囲気が変わっていた。壁面に吊るされていた飾り布が薄緑色から水色に変わっていて、若干温度が低くなっているような印象を覚える。
正面には豪奢な椅子に座る王女レフィーニアの姿がある。袖や裾、襟元の形が異なるものの、彼女は昨日と変わらない真っ白なドレス姿だった。首元を飾る三日月の首飾りも同じだ。
その向かって右隣には、親衛隊長ミエッカが熾火のようにくすぶる気配を纏いながら付き従っている。
ナウリアは赤い絨毯を踏みしめながら真っ直ぐに進み、そのまま王女の左隣へと進んだ。カエトスはレフィーニアの正面で立ち止まり、腰を曲げて一礼する。
「カエトス、ただいま参りました」
二人の姉を左右に侍らせたレフィーニアが寛いだ様子で微笑を浮かべた。
「ご苦労さま。昨日はよく休めた? ちゃんと配慮するようにミエッカ姉さまに伝えていたんだけど」
「はっ──」
炎のようなミエッカの視線が顔を上げたカエトスに突き刺さった。それは言っていた。余計なことを口にするなと。おそらく王女はカエトスが物置に押し込められたことを知らないのだ。
「それはもう、隊長殿や隊員の方には、過分なほどに良くしていただきました」
(ほこりまみれの物置だったがな)
まるでカエトスの内心を代弁するかのようなネイシスの言葉が頭の中に響く。
「ですから申し上げましたでしょう。この男を虐待などしていないと。それと姉さまと呼ぶのはおやめください」
「そうみたいね。昨日の様子からして、夜中に暗殺でもしちゃいそうだったから心配してたの」
「そ、そんな野蛮な真似をこの私がするはずがないでしょう。殿下は冗談がお上手でいらっしゃる」
ミエッカの苦言をさらりと受け流した王女は、隣に立つ姉をじっと見つめていた。二人の視線がぶつかり合い、そしてミエッカのほうから逸らしてしまう。その動揺ぶりからして、実行はしなかったものの考えたらしい。
「……まあいいです。それじゃあ、姉さまたちは外で待ってて。少しカエトスと二人で話したいから」
しばらく姉の顔を見上げていたレフィーニアが唐突に切り出した。その言葉に、二人の姉は昨日と同じように激しく反応した。
「殿下、またですか!?」
ミエッカが声を張り上げ、ナウリアはレフィーニアとカエトスを険しい表情で交互に見やる。
一方の王女はといえば、肝が太いのか慣れているのか、姉の剣幕には全く動じていなかった。平然と広間の扉を指差す。
「うん。カエトスが危なくないってもうわかったからいいでしょ。それに今回はすぐ済むし、終わったら呼ぶから、さあ早く」
ぎりぎりと歯を食いしばるミエッカがカエトスを睨み付けた。その場で斬り殺されそうな殺気に、カエトスは急いでミエッカを宥めた。
「わかっています、決して何もしません、ですから安心して下さい」
「……では終わり次第すぐにお声をかけて下さい……!」
「後で聞かせてもらいますからね」
ミエッカは押し殺した声で言うと、床を踏み鳴らしながら扉へと向かった。同じく出口へ向かうナウリアがすれ違いざまにカエトスに耳打ちする。それはまるで喉元に突きつけられた氷の短剣のような声だった。
カエトスが背筋を震わせていると、背後で扉がばたんと閉まった。腰を浮かせながらそれを見届けたレフィーニアが、カエトスに手招きしながらおもむろに話し出す。
「早速だけど、カエトス。今日の午後に討伐隊を選抜する試験があるんだけど、それに参加してくれる?」
「討伐というと、それは何を討つためのものなんでしょうか」
王女まであと数歩というところまで歩み寄ったカエトスは、予想外の言葉の出現に戸惑いつつ尋ね返した。
「霊獣よ。知ってる?」
「はい。源霊を従えることのできる獣の総称ですね」
「そう。それがね、ビルター湖の真ん中にあるウルトスっていう島に住み着いたらしくて困ってるの。そこはミュルスの霊域があって、大勢の人がそこでミュルスを扱うための訓練をするんだけど、その霊獣のせいで訓練ができないでいるんだって」
レフィーニアの口にした霊域とは、源霊の密度が非常に高い土地のことだ。
ここシルベリアでは、高い割合でミュルスを扱える人間に遭遇する。そしてそれは社会活動にとって必要不可欠なものとなっている。しかし源霊へ呼びかける能力は、先天的に備わっていることはほとんどない。そこでそれを身につけさせるための訓練が必要となるわけだが、それを行うのに最も適した土地が、源霊が集まる霊域。そのような重要な場所に霊獣という脅威が住み着いたとなれば一大事だ。
「それを討伐するための人員を選ぶというわけですか」
「うん。その試験で霊獣と戦える実力があるかどうかを見極めるの。合格すれば、そのまま討伐隊に参加することになるわ。きっと危ない目に遭うと思うけど……行ってくれる?」
レフィーニアが遠慮がちな口調ながら、熱い眼差しをカエトスに注ぐ。
カエトスは昨日の話を思い出していた。レフィーニアは手柄を立てるための場所を用意すると言っていた。これがその舞台なのだ。
試験に合格し、霊獣との戦いで何らかの功績を残すことを王女は望んでいる。カエトスを見つめるレフィーニアの濃褐色と鮮緑の瞳には、カエトスを危険にさらすことへの葛藤と、それを乗り越えてくれるという期待が痛いほどに込められていた。
(ネイシス、王女の命令ってこれか?)
(うむ。時間的に間違いないな)
カエトスの右肩にある柔らかい感触がもぞもぞと動いた。本の内容と時計を確認しているのだろう。
霊獣はかなり危険な存在だ。実際に対峙したことのあるカエトスは身に染みてそれを知っている。しかしカエトスはそれを討伐した経験があった。酒場でカエトスに斬りかかった猟師のジェシカとともに。しかし彼女と狩猟に赴くことはもう叶わないのだ。
カエトスは蘇る苦い思い出を記憶の奥底に沈めながら、王女の前にひざまずいた。今は振り返らずに進むと決めたのだ。答えは考えるまでもなかった。レフィーニアの目を見つめながら力強く答える。
「殿下の命とあらば、喜んで参加いたしましょう」
「……よかった」
カエトスの声音に安心したのか、レフィーニアの瞳から翳りが消えた。ほっと小さく息をついて椅子の背もたれに体を預ける。
同じくカエトスも知らずに緊張していた体から力を抜いた。昨日の求婚を超える難題を突き付けられるのではないかと危惧していたのだが、何とかカエトスの手に負える難易度に収まったようだ。
カエトスはそう安堵したが、それは少しばかり早かった。
「話はこれでおしまいなんだけど、もう一つすることがあるの」
王女が背もたれに預けていた体を起こした。手振りでカエトスに立ち上がるように促しながら、自身も席を立つ。
レフィーニアの話は姉たちに聞かれても特に問題のない内容だったにもかかわらず、なぜ人払いをしたのか気にはなっていたが、他に目的があったというわけだ。
しかしいったいレフィーニアは何をするつもりなのか。イルミストリアにはこれに関する記述はなかった。この場で判断し最適な応対をしなければならない。
カエトスが直立不動の姿勢で内心身構えていると、不意に柔らかいものが体を包み込んだ。
「……あの、これはいったい何を?」
予想外の事態に、カエトスはそのまま馬鹿正直に尋ねてしまっていた。
鼻孔を華やかな香りがくすぐり、心を波立たせると同時に落ち着かせもする温もりがじんわりと伝わってくる。
レフィーニアはカエトスに体を密着させるようにして抱き着いていた。背中に両腕を回し、心臓の鼓動を確かめるようにカエトスの胸に耳を当てている。
王女は抱き着いたまま、カエトスの顔を見上げた。
「カエトスにはわたしを好きになってもらわないといけないから、そのための愛情表現。男はこうされると喜ぶって本で読んだことがあるんだけど……どうしたの。嬉しくない?」
淡々とした口調で答えるレフィーニア。異性と接することに特別な感慨を抱いていないようにも見える。
しかしよく見れば血色のいい柔らかそうな頬はほのかに赤く染まり、気分を害したように細められた目は落ち着かなげにカエトスの顔と天井とをさまよっている。
かなり恥ずかしいことをしていると自覚しているのに、それを感じさせまいと取り繕っているのだ。
「い、いえ、そんなことはないのですが──」
カエトスはレフィーニアの肩に手をかけて、彼女の女としての誇りを傷つけないように細心の注意を払ってやんわりと押し返しながら、扉へと目を向けた。
あの向こうにはレフィーニアの姉二人がいる。このようなところを見られたら命はない。
それにレフィーニアはまだ幼さの残る顔立ちながら、体はもう大人と言っても差し支えないほどに成長している。あまりにも密着されると、否が応にも女であることを意識させられてしまい、精神的な平静を保てなくなってしまう。
しかし王女にはカエトスの態度が誤って伝わってしまった。
「やっぱり……姉さまみたいに胸が大きくて綺麗な人がいいの? わたしみたいな、根暗な女なんていや?」
不安そうに言うレフィーニアの鮮緑の瞳が怪しく輝き出す。昨日と同じ、焦燥と恐怖とがないまぜになった追い詰められた目だ。
「わたし、カエトスの好みに近づけるように頑張るから、どんな女が好きなのか教えて」
引き離そうとするカエトスに抗うように、体を抱き締める力が徐々に強まっていく。
何と声をかけて宥めるべきか。一つ間違えば、大きく関係を損ねかねない。大急ぎで言葉を模索するカエトスにネイシスが声をかけてきた。
(取り込み中のところ悪いが、その試験とやらに王女が同席するのか聞け)
焦燥に駆られるなか、カエトスが言葉にならない思念だけで理由を問うと、それを読み取ったネイシスが説明を続けた。
(お前が王女の命令を受諾したら、新しい記述が出てきた。どうやら、お前は試験をする場所で王女を守らなければならないらしいぞ。そこに王女がいなければ、守りたくても守れないだろう?)
守ると言う単語に不吉な予感を覚えつつも、カエトスはネイシスに理解した旨を伝え、王女へと意識を戻した。話をしようにもまずは落ち着かせなければならない。急いでまとめた言葉で説得を試みる。
「殿下、私のためにというそのお心遣い、非常に嬉しく思っております。ですが、そのような不安を抱かれることはありません。私が昨日殿下にお伝えしたことをお忘れですか?」
「……昨日?」
「ええ。とても魅力的だとお伝えしたと思いますが」
レフィーニアがはっと目を開く。抱き締める力が緩んだ。カエトスはその隙を逃さず、一気に畳みかけるように言葉を紡いだ。
「たしかに姉君は人を惹きつける容姿をなさっています。ですがそれと比較することに何の意味があるのでしょうか。夜空を彩る星々も、庭に咲き誇る花々も、水面を染める夕日も、どれも形は違いますが美しいでしょう? 人の魅力も同じです。体つきや容姿は様々ですが、そこに優劣はなく、どちらにもそれぞれ良さがあるんです。姉君には姉君の、殿下には殿下だけの魅力があるのですから、無理に何かに合わせようとするのではなく、良いところを伸ばしていけばよろしいのではないでしょうか」
諭すように語りかけるカエトスの話を聞くうちに、王女の瞳の怪しい光が弱まっていく。その視線がすっと横へ移動した。そこには自分の肩をつかむカエトスの手がある。
「……それじゃあ、何でわたしを離そうとしてるの? わたしが魅力的だって言うなら、嬉しいはずでしょ」
「た、たしかに嬉しいのですが──」
そう問いかけられたカエトスは、向けまいとしていた視線をつい下げてしまった。感触から想像はついていたが案の定、カエトスの鍛えられた腹筋にはレフィーニアの双丘が押し付けられており、白いドレスの胸元からは健康的な素肌と胸の谷間が覗いている。
カエトスは吸い寄せられそうになる視線を引き剥がしながら、努めて平静に指摘した。
「殿下の胸が私に密着しておりまして、さすがにこの状態では冷静さを保つのが難しいのです」
「……あ」
王女は自分の胸元に目を落とすと、弾かれたようにカエトスから離れた。はっきりとわかるほどに頬を赤く染めて、胸を守るように両腕を上げる。
「わ、わたしはカエトスを誘惑しようとしたわけじゃないからっ、そんなに淫乱じゃないからっ!」
「殿下、お声が……!」
カエトスは慌てて王女の口元に手を伸ばした。唇に触れるか触れないかのところで止めながら振り返る。
ミエッカたちが今の王女の声を聞きつけたら確実に乱入してくるだろう。
いつでも王女から離れられるように身構えつつ、扉に目を凝らす。固唾を呑んで見守るも扉が開くことはなかった。カエトスとレフィーニアは顔を見合わせ、お互いに安堵の息を漏らした。
「落ち着かれましたか? 殿下がふしだらな方でないことはよくわかっていますから、どうか安心してください。ただ、こういった場所はどこに人の耳があるのかわかりません。特に姉君があちらにいらっしゃるわけですし、その辺りを留意していただけると大変ありがたいのですが……」
「そ、そうね。カエトスに会える機会はほとんど作れないと思ったから、ちょっと急ぎすぎちゃったかも……。今度はもっと気を付けるわ」
そう言って王女は申し訳なさそうにしながらも小さく笑って見せた。そこには協力していたずらを成功させた子供のような無邪気な連帯感がある。過程は危険極まりなかったが、レフィーニアとの仲を進める一助にはなったようだ。
カエトスも笑い返しながら、心に留めておいた本題を切り出した。
「ところで殿下に一つお伺いしたいことがあるのですが」
「なに?」
「先ほど仰られた試験のことです。そこに殿下は同席されるのでしょうか?」
「その予定はないけど……?」
なぜそんなことを聞くのかと言いたげに首を傾げるレフィーニア。
(ふむ。やはり聞いておいて正解だったな)
ネイシスがカエトスの首筋をぽんぽんと叩く。
全くもってネイシスの言う通りだった。仮にここで確認しなかったとしたら、試験の場に王女はおらず、イルミストリアの指示する試練を達成できなかったかもしれないのだ。
(ほれ、カエトス。何をしてる。今のうちに王女を誘ってしまえ)
ネイシスの一言にカエトスは体を硬直させた。王女を落ち着かせることに頭が一杯で、試験会場に同席させる適当な理由までは考えていなかったのだ。
再び頭を目まぐるしく回転させて、それらしくかつ必要不可欠な理由を考える。しかしカエトスが思いつくよりも早くレフィーニアが声を上げた。
「……そうね、そこにわたしがいたほうがいいかも。だって、そのほうが試験に箔がつくし、そこでカエトスが活躍するのをわたしが直に見れば、カエトスが重用される理由をいちいち説明しなくてもいいし、みんなも納得するだろうし。カエトスもそう思ったんでしょ?」
王女に無邪気に尋ねられて、カエトスは内心安堵しつつ話を合わせた。
「は、はい。その通りです。やはり殿下が同席されるという事実は、重みがありますから」
「じゃあそうする。……ほんとはそういう行事とかってあんまり出たくないんだけど……自分のためだもんね」
自分に言い聞かせるように言うレフィーニアは浮かない顔をしていた。
カエトスは、王女が見知らぬ人間が大勢いるところが嫌いと言っていたのを思い出した。それとともに先刻のナウリアとの会話のときに感じた懸念も蘇る。
(やはりこの娘はなかなか頭が回るな。それでカエトス、もう一つ伝えることがあるんだが……どうした、何か心配なのか?)
カエトスの内心を読み取ったネイシスが淡々とした調子で尋ねる。
(……いや、ちょっと気になることがあってな。後で話すよ。それより、伝えることってなんだ?)
(うむ。これによると、試験をする場所では王女だけではなくミエッカも守らなければならないらしい。こっちも機会を見て確認しておけ)
ネイシスにわかったと伝えようとしたところで、カエトスはそれを呑み込んだ。
「それじゃあ早速姉さまに伝えてくるから、待ってて」
レフィーニアが広間の入口へ歩き出そうとしていたのだ。
カエトスはそれを慌てて制した。
「お、お待ち下さい。私が姉君をここへお呼びしましょう。殿下はこちらでお待ちください」
レフィーニアは一応カエトスの主君としての立場にある。その彼女に客の呼び込みのような真似をさせようものなら、ナウリアとミエッカはいったいどのような反応をするのか、火を見るより明らかだ。
カエトスはぶるっと体を震わせながら、王女の返事を待たずに早足で入口へと向かった。
扉を開けると、そこには険しい顔つきで腕を組むミエッカの姿があった。
「……何の話をしていた」
「それについて殿下からお話があります。こちらへどうぞ」
カエトスは唾をごくりと飲み込みながら答えた。外見だけならば女らしい風貌なのに、滲み出る殺気がたおやかな雰囲気を根こそぎ殺してしまっている。近くにいるだけで寿命が縮む思いだ。
カエトスを一つ睨み付けると、ミエッカは深紅の絨毯上を王女のもとへ向かった。ナウリアも無言でカエトスを一瞥し、その後に続く。
カエトスはレフィーニアと向かい合う姉たちの横で立ち止まり、静かに成り行きを見守る。そしてやはりというか当然というか、カエトスが試験に参加する旨を聞かされたミエッカは、即座に抗議の声を上げながら王女へと詰め寄った。
「レフィ……じゃなくて殿下っ、そんな話、私は聞いていませんっ!」
「うん。だって今日の朝思いついたから」
レフィーニアはミエッカの剣幕にもまったく動じずにしれっと答えた。
「カエトスは実力的には十分候補に挙がるでしょ。だって二人の親衛隊長と決闘して勝ったんだから。試験は腕の立つ人間を集めるためのものなんだから、ちょうどいいと思ったの」
「それは……確かに頭ごなしに否定はできませんが」
悔しそうに口を引き結んだミエッカが隣りに立つカエトスを睨む。その目は明らかに、決闘のときに殺しておけばと言っていた。
「ですが! こんな新人を連れて行ったところで邪魔になるだけです。確かにそれなりの技量があることは認めましょう。しかし今回の任務は多人数が動く戦。連携が重要です。そこに何も知らない人間を入れてしまえば行動に支障をきたすのは必至。そもそもこの男がどの程度ミュルスを使えるかもわかりませんし、私は反対ですっ!」
「だからその適性を調べるために試験をするんでしょ」
「うぐ」
顔色一つ変えないレフィーニアの一言にミエッカは言葉に詰まる。隙ありと見たのか、王女はすかさず言葉を継いだ。
「試験をやって駄目ならいいです。役に立たないのに連れて行けなんて無茶なことは言わない。でもちゃんと結果を出したら連れて行って。強い人が多いほど、怪我をする人も減るはずでしょ?」
真剣な眼差しで姉を見つめるレフィーニア。
ミエッカはなおも抗弁する雰囲気を滲ませたが、王女の意思を覆す言葉が見つからなかったのだろう、諦めたように小さく息を吐いた。
「……承知しました。試験だけは受けさせてやりましょう」
「ありがとう、姉さま。あ、それともう一つ。わたしも試験を見に行くことにしたから、準備をお願い」
俯いて頭を振っていたミエッカが、さらっと告げた王女の言葉にゆっくりと顔を上げた。
「……いま何と?」
「だから、わたしも試験を見に行くの」
「そのような予定はなかったはずですが」
「これも今朝決めたの。みんなのために危険に挑もうっていう人たちを激励するのって、とても大事なことだと思うんだけど……姉さま、私が見に行ってもいい?」
機嫌を窺うように上目遣いに見つめる王女に、ミエッカはしかめっ面を浮かべそうになってそれを意思の力で抑えつけたような、何とも言えない表情を浮かべた。
王女という立場の人間が動くのだ。それを護衛する親衛隊長ミエッカの仕事が、いまの一言で増えたに違いない。これが立場が下の人間ならば、怒鳴りつけた末に却下したことだろう。しかし妹とはいえ王女。文句を言いたくても言えず、それを受け入れるしかない。ミエッカの声と表情はまさにその思いを表していた。
「……それはもう、殿下が激励してくださるのでしたら、皆が一層奮起することでしょう。それと姉さまと呼ぶのはおやめください」
深々と腰を折って賛意を示すミエッカに、レフィーニアが嬉しそうに一つ手を叩く。
「よかった。じゃあ決定ね。試験は何時からだっけ?」
「六エルト三十ルフスの予定です」
「だって。カエトス、時間になったら練武場に来て」
「承知いたしました。ちなみにその場の殿下の護衛は、隊長殿が務められるのでしょうか」
試験時のミエッカの所在を確認するべくカエトスが切り出すと、体を起こしたミエッカがぎろりとカエトスを睨み付けた。そこにあるのは不審と怒りと苛立ち。
「それが私の務めなんだから当然だ。何だ、私がいると不都合でもあるのか?」
今のカエトスの聞き方は、王女の護衛の状態を下調べしているようにも、ミエッカの実力に疑いを持っているようにも取られかねないものであり、事実ミエッカは明らかにそう受け取っていた。
もう少し言葉をひねるべきだったと後悔しつつ、カエトスはすぐさま弁明した。
「滅相もございません。隊長殿ご自身の目で、私の実力を確認していただけるのか気になった次第です。今のお話を聞いて、ご期待に応えねばという思いを新たに致しました」
「うん。期待してるから頑張って」
レフィーニアがカエトスを見つめる。その目は結果を出して手柄を立てろと強く言っていた。その一方でカエトスにはミエッカの胡乱な眼差しが突き刺さってもいた。どう見ても、カエトスに対する疑念が増していた。
「それじゃカエトス、わたしの用件はこれでおしまいだから、戻っていいです」
「はっ」
もしかして自分は誤った道筋を選んでしまったのではないか。
そんな不安を抱えつつカエトスが王女に辞去の礼を述べようとすると、ミエッカが不機嫌さを隠さない刺々しい口調で告げた。
「カエトス。貴様はこれから兵部省の担当者による尋問がある。アネッテに案内するように伝えてあるから──」
「姉さま、それは昨日わたしが済ませたから、わたしから伝えるわ。後で担当の人をここに呼んで。カエトスは仕事を覚えなきゃいけないんだから、そっちを優先して」
「……殿下がそう仰るなら、そのように致しましょう。ならばカエトスは、今日やる予定だった仕事を繰り上げてこなせ。詳細はアネッテが知っているからそっちから聞け」
レフィーニアに遮られたミエッカは表面上は何の変化もなかった。しかしじりじりと伝わってくる気配はより一層不穏なものへと変化する。
「了解しました。それでは私はこれで失礼致します」
「うん、ナウリア姉さま、お願い」
レフィーニアに促されて、ナウリアがすっと歩み出た。
カエトスはその先導に従って赤い絨毯を進み応接間を後にした。背後で扉が閉まる音を聞きつつ、廊下を進むナウリアの後を追う。ようやく一息つける。カエトスがそう気を抜いた矢先、ナウリアが突然歩調を緩めた。カエトスの横に並んで、歩みを止めないままに鋭い語調で囁く。
「カエトス殿。あなたは殿下に何をしたのですか?」
「な、何のことでしょうか……?」
「殿下は公務全般に対して何かと理由をつけては避けられてきました。なのにあなたが昨日姿を現してからというもの、積極的になられているように見えます。そしてあなたにとても興味を抱いているようにも。あなたは殿下と一体何を──」
「侍女長、ちょっとよろしいですか?」
ナウリアの詰問を止めたのは、背後からの若い女の声だった。足を止めて振り返ると白いスカート姿の侍女が小走りで駆け寄ってくる。
「どうしました?」
「はい。料理長がお呼びです。本日の食材について確認したいことがあるとか……あ、もしかしてまだお話の途中でしたか?」
二人の間の空気に何かを感じたのか、ナウリアとカエトスとを交互に見やった侍女が遠慮がちに尋ねる。
「いえ、もう済みました。私は料理長のところへ行きますから、あなたは彼を玄関へ案内してください」
「はい。ではこちらへどうぞ」
ナウリアに一礼した侍女がカエトスを先導して歩き出す。その後を追おうとしたカエトスの耳に、氷のような声が突き刺さった。
「詳しい話は後でじっくり聞かせてもらいますから」
覚悟しておくようにと、言外に脅迫しているようなそら恐ろしい口調だ。
カエトスは内心冷や汗を流しながらナウリアに目礼すると侍女の後を追った。ほどなく玄関広間に到着する。
アネッテとヨハンナは、別殿の警備にあたっている親衛隊数人とそれぞれ別の場所で雑談をしていた。
カエトスは案内の侍女に礼を述べつつ、アネッテにミエッカからの言葉を伝えた。
「アネッテ殿。私の尋問はなしになったそうです。それで隊長殿から、本日やる予定だった仕事をアネッテ殿から教われと言付かってます」
「なしになった?」
「はい。私のことについては昨日殿下にお話ししたのですが、それを殿下が直々に兵部省の担当者に伝えると」
「そうか。では宿舎に戻るぞ。お前たちも仕事に戻れ」
アネッテが声をかけたのは、カエトスをちらちらと見ながらひそひそと会話をするヨハンナと隊員数人だ。
慌てて話を打ち切ったヨハンナが出口へ向かうアネッテの後を追い、カエトスもそれに続く。別殿シリーネスの扉をくぐり、先頭をアネッテ、後ろをヨハンナに挟まれながら柱廊を歩く。
(……朝からどっと疲れた。これからもこんなのが続くと思うと頭が痛いな)
(それでもとりあえず乗り切ったからいいじゃないか。ここからしばらくは時間が空く。少し緊張を解け)
ぼやくカエトスの首筋をネイシスの小さな腕が二度三度と叩く。
女神に促され、カエトスは新鮮な空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。緊張に凝り固まった体からほどよく力が抜けていく。
(ネイシス、さっき出た文章、読み上げてくれるか?)
(少し待て)
もぞもぞと右肩でネイシスが動く。見えないため何をやっているのかわからないが、きっと背中に背負っている本を開いているのだろう。
(じゃあ読むぞ。『大陸暦二七〇七年五月十四日、七エルト三ルフス(午後二時ごろ)の刻、王城アレスノイツ内兵部省において、アルティスティン・レフィーニアの望む結果を出し、カシトユライネン・ミエッカ、アルティスティン・レフィーニア両名を守れ』とある)
(守れ……か)
イルミストリアに現れた内容を聞いたカエトスの心中に、先刻抱いた懸念が再び形を成す。それはすぐにネイシスにも伝わった。
(そういえば、さっきも何かを心配していたな。何が気になっているんだ?)
カエトスは前方を歩くアネッテに遅れないように注意を払いながらネイシスに問いかけた。
(なあ。まだはっきりはしてないけど、俺は王子に命を狙われる可能性が高いよな)
(昨晩の話からして、あれはお前を指していると考えるのが妥当だろうな)
ネイシスが言及しているのは、ナウリアとともにクラウスとその部下の会話を盗み聞きしたことだ。
(それでその本は、お前がハーレム要員って言った王女たちと俺に対して、今日一緒に行動しろと指示を出している。三人に怪我をさせるなとも)
(うむ)
(これはつまり……俺と一緒にいることで、俺に降りかかる危険に王女たちが巻き込まれるかもしれない……ってことだよな?)
(ふむ。お前が声をかけたことで、ナウリアと王女はお前と一緒にいることになったわけだから、お前が本当に暗殺されそうになるなら、その危険は高いな)
(となると、この本はわざと王女たちを危険に巻き込んで、それを俺が助けるっていう演出を目論んでいる。そう見えないか?)
ナウリアを誘うときにカエトスが抱いた懸念がこれだった。
わざわざ『守れ』とか『無傷で』などと指示を出しているくせに、彼女たちを誘っていることが不自然に思えたのだ。
(それは十分に考えられる。この本が未来を見通す力を持っているのは確実だ。お前の周りに起きることを把握した上で、こういった指示を出したとしてもおかしくはない。お前の手で危地から救い出せば、助けられた方は当然感謝するだろうし、好意を抱きもするだろうからな。ただ、こうも考えられるぞ。もともと王女たちには危険が迫っていて、それに対処するためにお前の近くに身柄を誘導した、とかな。現に王女は先日暗殺されかかっている。お前が神殿に行かなければ王女はいま生きていないはずだ)
ネイシスはカエトスの指摘に対して同意を示しながらも、別の可能性を口にした。そこには事実を述べているだけという淡々とした口調ではあったが、懸念を抱くカエトスの気を紛らわせようという気遣いもほのかに漂う。
しかしそれでもカエトスの心は晴れなかった。それを察したネイシスが短く問う。
(どうする。やめるか?)
(……俺がきついだけならいいんだ。でも、他の人間を巻き込むってのがな……)
苦い感情とともにティアルクの町で出会ったジェシカ、マイニ、シグネの顔が思い浮かぶ。彼女たちも自分の都合に巻き込んでしまい、そして怒らせ悲しませてしまったのだ。同じ轍を二度は踏みたくなかった。
(もともとお前の呪いを解くには、他人を巻き込まずにはいられないんだ。それ自体は何も変わっていない。お前が以前言っていたように、誠意を尽くすしかあるまい。それが伝わるかどうかは甚だ疑問だがな)
(……元気づけたいのか、消沈させたいのかよくわからない激励だな……)
カエトスは思わず苦笑いを浮かべた。
だがネイシスが真に励まそうとしていることはよくわかる。彼女は言葉を選ぶという習慣に馴染んでいないために歯に衣着せぬ物言いになってしまっているだけで、性根はとても優しいのだ。そうでなければ、わざわざカエトスに付き合って呪いを解く手伝いなどするわけがない。
(その本がもう少し詳しく指示するなり、状況を説明するなりしてくれりゃいいのにな。そうすればこんなに悩まずに済むのに)
(これを作った神は底意地が悪いということだ。どうせ、人間が思い悩む姿をどこかから眺めて楽しんでいるんだろう。まったく神というのは、あのイリヴァールといい、ろくな奴がいない)
ネイシスはまるで自分が神ではないかのように憤然と言う。
カエトスはその様子にもう一度苦笑しそうになってそれを呑み込んだ。傍目にはカエトスは会話をしているようには見えない。それがいきなり笑い出せば、気味悪がられてしまう。
カエトスは口元に手を当てて強引に表情を引き締めながらネイシスに語りかけた。
(つまり、お前に出会った俺は、相当運がいいってことだな)
(そういうことだ。だからもっと私を崇め奉ってもいいんだぞ)
(じゃあ後で褒め称えてやるよ)
(うむ。しっかり心を込めてな)
ネイシスのそこはかとなく上機嫌な声を聞きながら、カエトスは内郭へと続く階段を下りた。
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