第27話 決別

 王城アレスノイツの中郭は夜の闇に覆われようとしていた。あちこちに建てられた篝火がそれに抗うように、国王の住まう正殿アルアサークスや別殿の数々を炎の明かりで照らしている。

 それぞれの篝火の周りには最低でも五人以上の人影があり、それが中郭のあちこちに百以上も設置されている。レフィーニアが襲われたというカエトスの言葉から、王城警備隊の非番の人間も動員しての厳戒態勢が敷かれていた。

 

 ナウリアはそんな物々しい雰囲気の中を、ミエッカ率いる親衛隊ヴァルスティンの面々に守られながらレフィーニアを先導するように石畳を歩いていた。

 王女の姿を目にした警備兵たちが、慌てて通路の端に寄って姿勢を正す。


 ほどなく二十段ほどの階段に差し掛かった。そこを上がると、ユリストア神殿の威容が目に飛び込んでくる。一切の装飾のない柱や壁からなるその周囲にも多くの篝火が焚かれており、ヴァルスティンの隊員たちが厳重な警戒に当たっていた。

 揺らめく炎の明かりに浮かび上がる神殿の姿は、昼間に見る姿と違い、神秘的でありそして不気味でもあった。それがナウリアの不安を煽り立てる。

 

 心中の動揺を表に出すまいと唇を引き結んでいると、神殿の入口から赤いローブ姿の男が駆け寄ってきた。立ち止まった先頭のミエッカに一礼してナウリアへと声をかける。彼は儀式についての助言を行う神祇庁の職員、神祇官だ。

 

「お戻りになられましたか。急な用件とのことでしたが、一体何があったのですか?」


 そう尋ねる声は少なくない動揺に揺れていた。

 しきたりによれば、儀式のために神殿にこもった神官は、それを終えるまで神殿の外に出てはならないことになっている。此度の王女の行動は明らかにそれに反したものであるため、神祇官が慌てるのも仕方のないことだった。


「それについては儀式を無事に終えた後にお話しします。今は殿下をお連れしましょう」

「そ、そうですね。わかりました。ではこちらへ」

 

 神祇官は若干の未練を滲ませながら言うと、ナウリアたちを先導しながら神殿入り口の巨大な鉄扉へと歩き出した。高さ四ハルトース(約五メートル)ほどの扉は、人間一人が出入りできるほどの隙間が空いており、その脇にはアネッテを始めとした親衛隊員十人ほどが緊張した面持ちで整列している。

 

「ここからは私だけが行く。お前たちはアネッテの指示に従え」

「了解しました」


 ミエッカがナウリアたちの周りを固める部下に告げた。隊列を解く隊員たちを見届けつつ、入口を守るアネッテに目配せする。

 

「殿下、参りましょう」


 ナウリアは後ろのレフィーニアに声をかけると、神祇官の後に続いて扉をくぐった。

 神殿内部は幅も高さも五ハルトース(約六メートル)以上はある広大な廊下になっており、一枚岩を切り出したかのように継ぎ目がない壁に沿って、銀の燭台が等間隔に並んでいる。これは先端に光を司る源霊イルーシオが宿った霊鉄を用いたもので、篝火と違い屋内で使用しても煤や煙の心配がないものだ。ただその明かりは廊下の広さに対して十分とは言えないため、そこかしこに漆黒の闇がわだかまっていた。

 

 神祇官を先頭に、ナウリア、レフィーニア、ミエッカの順に並んで、燭台が放つ冷たい光に照らされながら進む。しばらくすると十字路に差し掛かった。

 神殿の構造そのものは非常に単純で、この十字路が建物全体のほぼ中央にあたり、右へ進めば先日レフィーニアが禊を行った『禊の間』があり、直進すると神殿地下にあるという神域に通じる扉がある。

 

 ナウリアたちは十字路を左に曲がった。さほど歩くことなく、両開きの鉄扉に突き当たる。入口のものほどではないが、それでも一般的な扉よりかなり大きく、同じような扉が左右に二つずつ並んでいる。

 最後尾を歩いていたミエッカが進み出て、神祇官とともに正面の扉を押し開いた。


 内部へと足を踏み入れてまず目に飛び込んでくるのは、円形の部屋の中央に鎮座する女神シルトを象った立像だ。人の二倍ほどの高さのそれは、長い髪にゆったりとしたローブを纏い、慈愛に満ちた微笑を浮かべながら、入室したナウリアたちを迎え入れるように控えめに両腕を持ち上げている。

 その対面には精緻な装飾が施された玉座のような椅子が置かれており、壁際には廊下にあったものと同じ銀の燭台がずらりと並んでいる。

 ここは『神官の間』だ。

 王位を継ぐ神官は、儀式が執り行われるときまでこの部屋で待機し、シルベリアの守護神シルトと対面するときに備えて瞑想を行うことになっている。

 それを始めようとした矢先だ。カエトスについて重大な疑惑が持ち上がったとの報告を受けたのは。


「申し訳ありません。殿下が瞑想に入られる前に、少し話をさせていただけますか?」

「……わかりました。なるべく手短にお願いいたします」


 ナウリアの要請に神祇官はあまりよい顔をしなかったが、反対することなく一礼した。部屋を出て静かに扉を閉める。

 ナウリアは、扉が確実に閉まったのを見届けた後、妹二人へと向き直った。ミエッカは厳しい表情で押し黙り、レフィーニアは思い詰めた表情で石床の一点を見つめている。


「二人とも……大丈夫ですか?」


 躊躇いがちに尋ねるナウリアに、ミエッカが顔を上げた。


「……別に私はあんな奴のことなんか全然気にしてないし、最初から何とも思ってなかったから、衝撃を受けたとかそんなことも全然ないし。そもそも、私はあいつを殺そうとしてたんだから、その理由ができて清々してるとこ。姉さんたちに手を出してた奴なんて、絶対……殺してやるから」


 ミエッカは悔しそうに、そして怒りを押し殺すように低い声で言った。だが何とも思っていなかったというのは嘘に違いなかった。

 確かに昨日までのミエッカはカエトスに対して不快感を露わにしていて、彼を追放するために色々策を練っていたが、その態度はカエトスと稽古を行ってから一変していた。そこでカエトスに対する評価を改める大きな出来事があったのだろう。ナウリアはミエッカが生まれたときから知っている。だからすぐに察しがついた。

 しかしそれは、先刻のカエトスの告白と併せて考えると、カエトスの口車に乗せられたかららしい。だからこそ、ミエッカは激しく怒っていた。レフィーニアの護衛という仕事がなければ、今にもカエトスを殺しに行きかねないほどに。そしてその強さが、カエトスに対して抱いていた感情がどれだけ好意的だったかを物語ってもいた。好意が大きいほどに、裏切られたときの反動は大きいものだからだ。


「姉さんこそ、大丈夫なの?」


 怒気を押し隠すように長めに目を閉じたミエッカが、ナウリアに聞き返す。

 

「……私もあなたと同じです。確かに彼をそれなりに頼りにしていましたけど、異性として意識してなどいませんでしたから。この局面を乗り切るための戦力として活用しようとしていただけで、今は戦力が減ったのが残念だと、そう思っているだけです」


 嘘だった。ミエッカと同じように、ナウリアもカエトスを何とも思っていないなどということはなかった。彼の裏切り行為が本当に許せなかった。腸が煮えくり返るとはこのことなのかと思った。それと同時に悲しかった。

 

 ナウリアがカエトスに嫁ぐと告げた当初は、カエトスの働きに対する対価として用意できるものが自分自身しかないという極めて冷徹な判断からだった。

 しかし彼と接して、その言動に触れていくうちに本当に結婚してもいいと思ったのだ。カエトスが信頼に足ると感じたから。

 それなのに、女をもののように扱う人間だったなんて。しかも大切な妹たちにまで食指を伸ばしていたとは。

 世間には女たらしと呼ばれる人種がいることは知ってはいた。自分がそんな男に引っかかることなどないと高を括っていたら、この様だ。

 今までカエトスからかけられた言葉は全て嘘。それを信じ込んでいたことが、腹立たしくて情けなくて、そして悲しかった。


 知らずに俯きかけた視線を上げると、ミエッカが気遣わし気な目を向けていた。

 ナウリアがミエッカの本心を察しているように、ミエッカもナウリアの考えていることを推察しているのだろう。

 ナウリアは本心を読み取られないように目を逸らすとレフィーニアの様子を窺った。妹は部屋に入ってから一歩も動かずに床を凝視していた。

 

 レフィーニアは、ナウリアたちがカエトスに心を許す以前から、カエトスを頼りにしていた。それは神託が下っていたからなのだろう。つまり神のお告げだからこそ、無条件にカエトスを信頼していた。なのにそれが裏切られたのだ。これではカエトスだけではなく、神にも裏切られたようなものだった。その衝撃たるや、ナウリアが受けたものとは比較にならないはずだ。どのように声をかけていいか、ナウリアにはすぐに思いつかなかった。

 声をかけあぐねるナウリアに代わって、ミエッカが皮肉気な口調で切り出した。


「それにしてもさ、神さまも案外あてにならないんだね。あんな男の力を借りろなんて言うんだからさ。だってそうでしょ。レフィがあいつを重用したのは神託にあったからなのに、あいつは裏切った。しかもあんな本性を隠していた。これはさ、神さまの目が節穴だったってことじゃない」

「……確かにその通りだけども」


 神に対する言葉としては甚だ不適切ではあったが、ナウリアにはそれを否定する材料がなかった。口にこそ出さないが、考えていることはミエッカと同じだった。しかしレフィーニアは神に仕える神官。神への不信を抱いていいはずがない。

 ナウリアはその芽を摘むべく声をかけようとしたが、先にレフィーニアが顔を上げた。

 

「姉さま、大丈夫。神さまへの気持ちは全然変わってないから」

「……本当に?」


 顔を覗き込むナウリアに、レフィーニアは真剣な面持ちで頷いた。


「きっと神さまも騙されていたの。あの人は神域に行ったことがあるみたいだし、妖精を連れてるし、あんな奇妙な本も持っていたし、だから見抜けなかったの。でももうあんな人忘れた。だから大丈夫……!」


 拳をぎゅっと握り締めて宣言するレフィーニアの言葉には力強さがある。しかしその声は僅かに震えてもいた。

 他人であれば気付かないほどのその違いも、姉妹として暮らしていたナウリアには手に取るようにわかる。レフィーニアは明らかに強がっていた。ミエッカもそれを感じ取ったのだろう。安心させるように王女の肩に手を置く。

 

「私がいる限り、絶対に二人を守ってみせる。大船に乗ったつもりでいていいから」

「そうです。あなたは一人ではありません。私たちがついています」

「……うん」

「では私たちは表に出ています。何かあったらすぐに呼んでください。ミエッカ」


 ナウリアは小さく頷く妹の頭を一度撫でて体を離した。名残惜しそうにしたものの、名を呼ばれたミエッカも踵を返し入口へと向かう。

 

 これからレフィーニアはこの神官の間で瞑想を行わなければならない。そこで神と対話する心構えを再確認し、明日神域へと赴く。

 ナウリアの脳裏に少なくない不安がよぎる。本来なら、いまこのときをもう少し心安らかに過ごせるはずだったのだ。なのに、この場にいることを期待していた人間が来ることはもうない。

 ナウリアは頭を振った。レフィーニアの言う通り、いない人間のことなどもう忘れてしまおう。

 何があっても妹だけは守る。

 ナウリアは静かな決意とともに扉に手をかけた。

 

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