第26話 避けられぬ罠

 カエトスは依然として取調室に拘束されていた。

 姿勢は先刻クラウスたちの尋問を受けていたときと変わらず椅子に座らされたままで、背後に回された手首は厳重に縛られている。

 ただ変化はあった。

 クラウスとその側近たちが退室した後、警備兵はこの取調室に戻って来ていない。つまり室内にはカエトス一人しかいないのだ。

 逃げ出す絶好の機会だった。手首を縛る縄さえ何とかできれば脱出できる。なのにカエトスは逃げられない状況に陥っていた。

 体が動かないのだ。

 縄を解こうとしても、そもそも手足に力を入れることができなかった。それだけではなく、眼球を動かすことも表情を変えることもできず、瞬きすらできない。肉体のあらゆる部分がカエトスの意思を一切受け付けなかった。

  

 不意に首が持ち上がった。だがこれはカエトスの意思ではなかった。勝手に動いたのだ。首が左右に振られて、凝りをほぐすように回転する。口や瞼が勝手に開閉され、顔がしかめっ面や笑顔、驚いたような表情を作り出す。

 

「上手く動いていますね」


 喉が勝手に震えて、自身の口から女のような口調の言葉が紡がれた。予想はしていたが、それが確信になった瞬間だった。

 カエトスは唯一自由になる行動、すなわち思考の中で唸るように叫んだ。

 

(これが体を操るってことか……!)

(……あのハルンという女の仕業だな)


 怒気を押し込めたネイシスの思念が届く。

 カエトスはネイシスの言葉を思い出していた。

 彼女の話によれば、雷を司る源霊ハルヴァウスの力を使えば、人間の体を操れるとのことだった。そして港でナウリアが襲われたとき、何者かがハルヴァウスの力を行使しており、その現場にはクラウスの侍女ハルンがいた。

 つまりハルンがハルヴァウスの使い手に間違いなく、その力をもってカエトスの体を操っている。いま、カエトスの口から放たれた言葉は、それを利用したものなのだ。

 

「これから王女殿下と対面してもらいます。あなたは一切動かないようお願いしますわ。もっとも指一本どころか、瞼すら動かせないでしょうけど」


 自分の口が自身を嘲弄する。それを為すすべなく見せつけられながら、カエトスは必死に体を動かそうと試みた。

 

(ネイシス、何とかする方法はないか……!)

(……如何ともし難い。お前がハルヴァウスの使い手だったら、僅かでも声を出せれば切り抜けられたかもしれないが、お前にはそれができない。そして私も何とか抜け出そうとしているが、この縄が……!)


 ネイシスが歯軋りが聞こえそうな声で言う。

 カエトスはとにかく全身の全ての部位に意識を向けて、一か所でも動かないか徹底的に探した。しかし彫像になってしまったかのように、どこもかしこも微動だにしない。

 時間だけが無為に過ぎていき、そして何の打開策も見出せないまま、時が来た。

 取調室の扉が開いた。

 先刻までカエトスを見張っていた二人の警備兵が入室し、その後ろに青ローブを着た中肉中背、白髪混じりの男が続く。

 警備兵が入口の横に立ち、青ローブの男が振り返った。彼らの後にはさらに三つの人影があった。

 この王城内でカエトスが最もよく知る人物である、ナウリアとミエッカ、そしてレフィーニアだ。

 

 カエトスの姿を認めたレフィーニアたちがそろって戸惑いの表情を浮かべる。カエトスが椅子に拘束されていることもそうだが、何よりも表情に注意が向いている。

 なぜならカエトスはいま、片頬を僅かに持ち上げ口角を歪めていたからだ。やや俯き加減で三姉妹を睨め上げるその様は、物事をひねた視線で見つめる無法者のような顔つきに見えることだろう。

 もちろんこれはカエトスの意思ではない。勝手に表情が形作られたのだ。

 

 レフィーニアたちが入室したところで、警備兵が静かに扉を閉めた。レフィーニアを中心に、その左右をナウリアとミエッカが固めるように並ぶ。


「刑部卿。カエトス殿が偽りを伝えていたとの話でしたが、それはいかなるものなのですか」


 口火を切ったのはナウリアだった。

 少なくない動揺に揺れる声で尋ねる相手は、青ローブを着た白髪交じりの男だ。しわが目立ち始めた生真面目そうなこの人物が、刑部省を統括する刑部卿らしい。

 ナウリアの問いに、刑部卿が深々と一礼した。

 

「レフィーニア殿下。そしてナウリア侍女長に、ミエッカ隊長。大切な儀式を控えられているこのようなときにお呼び立てして申し訳ありません。わざわざこのようなところにお越しいただきましたのは、到底看過できない重要な事実を入手したからなのでございます」


 刑部卿はやや芝居がかった仕草で体を起こすと、カエトスとナウリアたち双方が視界に収まる位置に移動した。


「殿下は先日、この男に対し聴取を行われ、そしてそれを兵部卿にお伝えなされました。そのとき、この男は自分の出身地がリタームだと言ったことは覚えておいでのことと思います。その情報が正しいのかどうか、中務省の担当職員が調査していたそうなのですが、実はそのリタームという土地は無人の荒地が広がるばかりで、街など影も形もないということがわかったのです」

 

 刑部卿の言葉に、姉妹が目を瞠った。刑部卿とカエトスとを交互に見やる。

 

「それは……確かなのですか?」

 

 にわかには信じられない。その思いが滲むナウリアの問いに刑部卿が重々しい仕草で頷いた。

 

「はい。中務省の調査によると、現在リタームは隣国エディースミルドの西端部の領土となっておりまして、彼の国の関係者に問い合わせたようです。念のため、複数の筋から確認したとのことですので、間違いないでしょう」

「彼は何と弁明したのですか?」

「自分の出身地はリタームだとの一点張りです」

「くっくっく……」


 カエトスの口から我慢したが抑えきれなかったとでも言いたげな短い笑いが漏れた。明らかに相手を嘲る意図が込められた、神経を逆撫でするものだ。

 刑部卿が険しい顔つきでカエトスを睨み、三姉妹の戸惑いはなお一層深まっていく。

 刑部卿はおほんと一つ咳払いをして続けた。

 

「……このように怪しい点が見つかったために、王城警備隊の手で拘束する運びとなり、刑部省に調査が委ねられたわけなのです。そして我々がこの男の所持品を調べたところ、思いもよらないものが見つかりまして、殿下にお伝えしたかったのは、それについてなのです」


 刑部卿はそう言うと、入り口脇に立つ警備兵に目配せした。警備兵がすっと刑部卿に歩み寄り、白布に包まれた平たいものを手渡す。刑部卿はその布を丁寧に取り払って中身を三姉妹に見せた。

 それは濃紺の表紙を金属で補強された本。啓示する書物イルミストリアだ。


「この男が持っていた本です。これが何なのかについては、中をご覧になればわかります。どうぞ」


 刑部卿はそれを両手に持って恭しく差し出した。

 姉妹は顔を見合わせると、代表してナウリアが本を手に取った。

 

「運命を……手繰り寄せる?」


 分厚い表紙を慎重な手つきでめくったナウリアが、信じ難いといった声を漏らした。妹たちが手元を覗き込む中、刑部卿とカエトスとを見やる。

 

「はい。そこに記されているように、この本は所有者の望みを実現する力があるようなのです。ですが、そのようなことが本当にできるのかどうか、私は疑問でした。皆さまもそう感じておられることでしょう。殿下にお越し願ったのは、この本の力が事実なのかを確かめるためなのです。次のページをめくってみてください」


 刑部卿に促されて、ナウリアがイルミストリアを先へと読み進める。

 

「何だ、このふざけた題名は」


 眉をひそめながら声を上げたのは横からイルミストリアを覗き込んでいたミエッカだ。おそらく〝やさしいハーレムのつくり方〟という表題を目にしたのだろう。


「重要なのはその先です」


 刑部卿が神妙な口調でさらに促す。

 カエトスは必死に念じた。体よ動けと。表題の先を見られたらおしまいだ。せめて口だけでも自由になれば、弁明ができる。しかしそれは無駄な努力だった。ひねた笑みを浮かべたままの表情さえ変えることができず、呼吸すら自分の意思に従ってはくれなかった。

 ナウリアのほっそりとした指が、本のページをめくった。

 

「これは……」

「……私たちの……名前じゃないか」


 ナウリアとミエッカが絶句した。レフィーニアは無言のままイルミストリアを食い入るように見つめる。そこにゆっくりと悲しみが滲み出てきた。

 刑部卿が躊躇いがちに口を開いた。

 

「……これは殿下の私事に関わることです。大変尋ねにくいのですが、どうかお答えいただきたいと存じます。そこに記されている内容は、すでに起きた出来事で間違いないのですね?」


 ナウリアは強すぎる衝撃に言葉もないようだった。レフィーニアがカエトスを問い詰めるように今にも泣き出しそうな顔を向ける。辛うじてミエッカが絞り出すように答えた。

 

「……確かに、この内容の出来事はあった。姉さまたちも、きっと同じです」

「そうですか……」


 刑部卿は沈痛な面持ちで短く言うと、次いで義憤に顔を歪めた。


「これで確信となりました。この男は、この本の力を使って、恐れ多くもレフィーニア殿下とその姉君を虜にしようとしていたのだと……! 貴様は先刻、これはただの妄想の産物と言っていたな。だがもう言い逃れはできんぞ。全て吐け……!」


 刑部卿がカエトスの髪の毛を鷲づかみにして顔を上向かせた。

 カエトスにとって寝耳に水の話だった。カエトスはそのような弁明をしたことも、本について聴取されたこともなかったからだ。

 カエトスはそれを告げようとした。だが口も喉もカエトスの命令に答えることはなかった。それどころか意思に反して顔面は不敵な笑みを浮かべ、全く意図していないことを喋り始める。


「殿下たちに言質を取られてしまっては仕方ない。認めますよ。その本に書いてあることを実行したとね」


 反省の欠片もない人を食った口調だった。刑部卿の顔面が怒りに紅潮する。

 

「目的は何なのだ。何のためにこのような不埒な真似をした……!」

「目的? そんなのは決まっているだろう。男が女をものにしてやることなど一つしかない。そんなこともわからないとは、お前、その年にもなって童貞か? それとも女よりも男に欲情する奴か?」

「貴様……!」


 嘲弄するカエトスに、刑部卿は歯をくいしばりながら襟首を締め上げた。それに対し、カエトスの体は不遜な態度をより一層強くし、嘲笑を浮かべる。

 

「俺はあちこちで色んな女をものにしてきたが、王族だけはまだだったからな。それを実現できないか本に頼んでみたってわけさ。まったく、ここまではいい感じに騙せたのに、まさかでたらめな出身地を調べやがるとはな。あれだけ遠ければ、ばれやしないと踏んでたんだが。こんなことになるなら、世界の果ての出身だとでも言っておけばよかったぜ」

「その口の利き方を改めんか!」


 やれやれと首を振るカエトスに、刑部卿の怒りが頂点に達した。怒声とともに拳を振りかぶり、カエトスの腹部を殴りつける。

 細身で齢五十に差し掛かろうかという刑部卿の一撃は、外見に反してかなり強烈だった。今のように拘束された状態で受けたなら、一瞬にしろ呼吸が止められるほどだ。しかしカエトスの体はまるで人形のように何の反応も示さなかった。全く表情を変えないまま、襟をつかむ刑部卿に不敵な眼差しを向け続ける。

 

「はっ、これで本気なのか? 情けないじじいだな。おら、もっと殴って見ろよ。お前の拳なんざ全然効かねえからよ」

「減らず口を──」

「刑部卿。少しよろしいですか」


 挑発をやめないカエトスに、刑部卿がさらに拳を振り上げた。それをナウリアの静かな一言が止める。

 刑部卿は感情を露わにした自分を恥じるように頭を下げると一歩下がった。代わってナウリアが進み出てくる。

 

「……カエトス殿。いま言ったことは……全て本当なのですか?」


 カエトスの前に立ったナウリアが、氷雨のように冷たい眼差しで見下ろしながら、感情を感じさせない平板な声で尋ねた。

 カエトスの体が、顔に不敵な笑みを張り付けたまま答える。

 

「ああ、本当だよ」

「これまで私にかけた言葉も全部嘘だったと?」

「あんただけじゃなく、そこの隊長と王女にかけた言葉はすべてあんたたちの性格を考慮して、その都度考えた適当なものだ。男を知らない女は騙すのは簡単だと経験では知っていたが、あんたら三人は中でもだいぶちょろい部類だったよ。何しろ、少しばかり命をかけてやっただけで、ころっと傾いてくれたんだからな。本当にあの本は、いい女を選んでくれたぜ」


 カエトスはそう言って口の端を歪めた。それは侮蔑と悪意に満ちた冷笑だった。

 冷静さを保っていたナウリアの瞳に怒りの炎が灯る。右手を振り上げて、振り下ろそうとしたところで、それを後ろから伸びた手が止めた。ミエッカだ。

 ナウリアが振り返り抗議の声を上げようとすると、それより早くミエッカが鋭く踏み込んできた。

 次の瞬間、カエトスは椅子ごと床に投げ出された。ミエッカの拳がカエトスの頬を打ちのめしたのだ。

 激痛とともに頬が熱くなり、口の中に血の味が広がる。しかしそれでもなお、カエトスの顔は嘲笑を張り付けていた。


「荒事の担当は私って言ったでしょ。姉さんの手はこんな奴を殴るのに使っちゃ駄目」

 

 右拳を眼前に掲げ仁王立ちするミエッカが、椅子に縛られたまま床に転がったカエトスを見下ろす。

 炎のような光を宿すその瞳は、信じていた者に裏切られた怒りと悲しみに染まっていた。

 ミエッカが踵を返した。その背中の向こうにレフィーニアの姿があった。彼女は悲しそうに眉を寄せてじっとカエトスを見ていた。

 入口脇の警備兵二人が床に転がったカエトスを椅子ごと起こす。

 俯けたままの顔からは、これまでの不敵な笑みが消えて完全な無表情になっているのを感じる。すでに為すことを終えたために、体を操るハルンが表情を作るのをやめたのだろう。

 カエトスは伝えたかった。自分の本心を。会話の間中、まるで反応しなかった体にさらに強く念じる。動けと。だが肉体がカエトスの願いを聞き入れることはなかった。

  

 床を映す視界の片隅でナウリアとミエッカが、レフィーニアを気遣うように寄り添う。そこへ刑部卿が遠慮がちに歩み寄った。謝罪の言葉とともに深々と腰を折る。

 

「レフィーニア殿下。そして侍女長殿、隊長殿。確認のためとはいえ、不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」

「いえ。刑部卿に責任はありません。全ては……そこの男が原因ですから」


 そう答えるナウリアの声は、カエトスと初めて言葉を交わしたとき以上に冷たかった。次いで、若干和らげた口調で刑部卿に尋ねる。

 

「それで……この件についてですが、どのように取り扱われますでしょうか」

「全て心得ております。我々臣下一同の願いは、明日の儀式が滞りなく進み、殿下が無事に即位なされることです。この男の処遇は全て極秘裏に行われることでしょう。ことの顛末は、皆様方が落ち着かれた頃合いを見計らってお知らせいたします」


 カエトスを登用したのはレフィーニアだ。カエトスの所業が公になれば当然、王女の名にも傷がつく。そう懸念するナウリアに対し、刑部卿は今後の対応を手際よく述べた。

 ナウリアはこのようなときでも優雅さを損なわない仕草で刑部卿に一礼し、妹に話しかけた。


「殿下、参りましょう。これ以上このようなところにいては明日の儀式に障ります」


 いまだ俯いたままのレフィーニアの肩を抱き締めるように出口へと向かい、後ろにミエッカが続く。

 ふとミエッカの足が止まった。ゆっくりと振り返ったその瞬間、熱風が吹きつけ、取調室の温度が急激に上昇する。

 

「一つ頼みがあります。死罪が言い渡されてもすぐには殺さないでくれますか? この男は……私の手で殺す」

 

 刑部卿に要請するミエッカの声には、凄惨な殺気がこもっていた。室温を上げたのは言うまでもなく、ミエッカが操る源霊リヤーラだ。彼女の怒りに呼応するかのように荒れ狂っている。

 

「……し、承知した。そのように取り計らってみよう」


 答える刑部卿の声は微かに震えていた。額から流れる汗は、温度が上昇したからでもあり、ミエッカの殺気に当てられたためでもあった。


「お願いします。それでは」


 ミエッカが部屋を後にすると、室温が急激に低下した。

 彼女の後ろ姿が見えなくなるのを待ち、ふうと息をついた刑部卿が額の汗を拭いながら警備兵に声をかける。


「では私はクラウス殿下に報告してくる。この男の監視は任せたぞ」


 刑部卿はそう言い残すと、足早に取調室を出て行った。

 警備兵は直立不動でそれを見送ると、外の様子を確認した後、静かに扉を閉めた。その内の一人が項垂れるカエトスに歩み寄り声をかける。

 

「ハルン殿。このような結果と相成りましたが、いかがでしょうか」


 するとカエトスの口がまたしても勝手に動いた。


「上々ね。これで王女たちの心はこの男から完全に離れたことでしょう。あとはこの男を始末するだけ。あなた方はその場で待機していてください」

「了解しました」


 二人の警備兵が入口の横に立ち、カエトスを油断なく見張る。


(……してやられたな。このままでは、お前は本が示した試練を達成できない)

(……ああ)


 呼びかけるネイシスの思念にカエトスは力なく答えた。

 イルミストリアは、所有者が望む未来を手にするために試練を課し、それを成し遂げられない場合、所有者に災厄をもたらす。クラウスはこれを知っていた。ゆえにカエトスを確実に殺すための駄目押しの一手として利用したのだ。

 

 これを挽回するのはもう不可能に思えた。

 一度失われた信頼を取り戻すのは至難の業であり、二度と元に戻らないことのほうが多い。だからこそイルミストリアは、ティアルクで知り合った三人の女との関係を修復する道ではなく、レフィーニアたち三姉妹と新たな関係を築くようにカエトスを誘導したのだ。

 だがその道も閉ざされてしまった。

 何もかも諦め、呪いを受け入れて人としての生に幕を下ろしてしまおうか。ふとそんな考えがよぎる。自分の目的のために、女たちにあのような悲しい目をさせるのはもう御免だった。


(カエトス、まだ諦めるのは早い)


 消沈するカエトスの頭の中にネイシスの叱咤が響いた。

 

(お前のやったことは、褒められることじゃないんだろう。だが動機は姉妹を手籠めにしたかったからじゃなくて、呪いを解くためだ。それを王女たちに伝えられれば、まだ望みはあるんじゃないのか)


 相変わらず抑揚に乏しかったが、そこには確かにカエトスを奮い立たせようという願いが込められていた。しかしカエトスの心は沈んだままだった。

 

(動機は確かに違う。でもな……俺がやろうとしてたことは、結局変わりない。本当の理由を知ったところで、心変わりすることは多分ない)

(じゃあ、あの姉妹を見捨てるのか? このままじゃ、王女たちは殺されるぞ)


 ネイシスの鋭い一言が、カエトスの心を埋め尽くしていた諦念に一太刀入れる。


(王子が念入りにお前を殺す算段を立てたのは、お前がいたら王女を殺せないからだろう? そのお前が諦めたら、王女たちを待つ未来は死だけだ。お前はあの姉妹が好きだと言ったじゃないか。どんなことをしても守ってやりたいとも言っていただろう。あれは嘘か?)

 

 その言葉は、ティアルクの町での一件と同じ轍を踏んでしまったがために、周りが見えていなかったことをカエトスに思い出させた。

 たしかにレフィーニアたちを利用しようとしたし、騙してもいた。しかし彼女たちと交流する間に、心の底から助けたいと思うようにもなったのだ。


(……そうだった。どうかしてたな、俺は。嫌われても何をしても、好きな女は助けなきゃな)

(うむ。それでこそ私が見込んだ人間だ。それに誰が嫌っても私はお前の傍にいる)


 女神イリヴァールは、ネイシスは愛情というものを理屈で考え再現しているだけと言っていた。彼女自身、愛情というものがわからないと口にし、カエトスの呪いを解いてやれないことを気に病んでいる。

 しかし今のネイシスの言葉は、誰が何と言おうと愛に溢れていた。でなければ、心にこれだけ強く響くはずがない。

 状況は最悪。全ての予定がぶち壊され、このままでは確実に殺されるだろう。イルミストリアがもたらす災厄がいつどのような形で襲いかかってくるかもわからない。だがネイシスがいるという事実がカエトスを奮い立たせる。彼女の期待を裏切らないためにも、絶対にレフィーニアたちを助けて、そして自分の言葉で事情を説明するのだ。それが理解されないとわかっていても。

 カエトスが決意を固めたそのとき、ネイシスから不穏な一言が寄せられた。

 

(まさか、こんなものがあったのか……)

(どうした? 何があった)

 

 今まで聞いたことのない深刻な思念に不安がかき立てられる。

 カエトスの問いに返ってきたのは、奮い立たせた心を再び折りかねないものだった。

 

(カエトス、私はこれ以上助けてやれない)

(どういうことだ。お前、どこにいるんだ?)

(たぶん神域だ。そこに神を捕える檻があった。くそ、もう中に入れられてる。何とか抜け出してみるが、ここからはお前ひとりで──)


 ネイシスの思念が唐突に途切れた。

 

(ネイシス、ネイシス!)


 カエトスは必死に小さな女神の名を呼んだ。

 しかしそれ以降カエトスの呼びかけにネイシスが答えることはなかった。



                 ◇



 ネイシスは神の力を宿した黒縄によって拘束されたまま、小さな布袋に押し込められていた。

 おそらくは光を司る源霊イルーシオの力が使われているのだろう。一筋の光すら中には入って来ず、外の様子がまるでわからない。感じ取れるのは袋ごと誰かに運搬されている振動と、布地を透過して伝わってくる雰囲気の変化だ。

 これはネイシスにとって馴染みのある気配だった。なぜなら自分も似たものを内に秘めているのだから。すなわちそれは神々の放つ神気。

 ネイシスは親衛隊の宿舎で捕えられてからすぐに布袋に閉じ込められたため、現在位置はほとんどわからない。ただ透過してくる神気から考えて、今いる場所はユリストア神殿地下にある神域だと思われた。

 

 袋の口が開き、人間の手が差し込まれた。それはネイシスの体を鷲づかみにして持ち上げる。

 手の主はヴァルヘイムという名の人間だった。左手でネイシスをつかみ、右手には黒縄の末端を握っている。

 

 神々の肉体は、源霊たちの力の源である真気によって構成されており、人間には見ることも触ることもできない。それではカエトスと付き合う上で色々不便だったことから、ネイシスは自身の肉体を形作る真気を変化させ、人間にも触れたり見えるようにした。それがネイシスの肉体だ。

 ゆえに人間の肉体とは全く役割が違う。人間の身の回りのもので例えるなら衣服のようなもので、変えようと思えばいつでも変えられる程度のものでしかない。

 しかしこの体を作るきっかけとなったのはカエトスであり、彼が好むと思われる容貌や体型などを自分なりに調べて細かく調整してきたものだ。それをカエトス以外の人間に触れられるのは不愉快極まりなかった。

 

 万全の状態であれば、断りなく体に触れた人間など即座に殺しているところだ。しかしネイシスを拘束する黒縄は神器であり、神の力を封じる能力がある。

 ネイシスは拘束されてからずっと黒縄の束縛から逃れようと努力していたが、それはまるで緩むことはなく外へと力を及ぼすことができないでいた。


 ネイシスは体をつかむヴァルヘイムを一つ睨み付け、辺りを見回した。その肩越しには不遜な笑みをネイシスに向けるクラウスが姿がある。

 二人の人間は地下空間を歩いているところだった。

 王女や王子が住まう別殿が優に四棟は収まりそうなほどに広く、中央には澄んだ水を湛えた泉がある。光源らしいものは何もないが、全体が淡い青光で満たされていて、その光が最も強いのが泉の中心にある岩場だ。そこには岸から石橋がかけられていて、岩場の奥には柱と屋根だけで造られた東屋があった。

 

 クラウスたちの目的地はそこらしい。石橋を渡り終え、無言のまま岩場を進む。

 近づくにつれて東屋の詳細がわかる。その柱には非常に細かい模様が刻まれていた。ネイシスはそれを一目見ただけでその機能を見抜いた。

 

「私をあそこに閉じ込める気か……!」

「さすがは神の使い。即座に悟ったか」


 答えたのはヴァルヘイムの後ろを歩くクラウスだ。

 

「察しの通り、これは神を幽閉する檻だ。わが国の守護神シルトもかつてはここにいたらしい。先代の神官が解放して以来、寄り付いていないようだがな」

 

 東屋には白銀色の光沢を放つ八本の柱があり、表面には細かい模様がびっしりと刻印されている。

 これは神々が用いる文字──神字の一種で、人間の言語と同じく情報を記録する機能を有するが、神々の力を恒久的に物体に宿らせるために使われることもある。

 今の場合の役目は完全に後者であり、その内容を端的に表現するならば『神に関わるあらゆる事象を遮断せよ』だ。

 

 ネイシスは自分を拘束する黒縄とヴァルヘイムの手を振りほどこうともがいた。あの中に入れられてしまってはきっと抜け出せない。だが黒縄は全くびくともしなかった。


「カエトスの話では、奴が死んでしまうとお前は自由に力を使えるようになるらしいな。となれば、お前も殺してしまえば後腐れがなくていいのだが、俺は神の使いに手をかけるほど不信心ではないし、そもそも人間の手で殺せるのかどうかも怪しい。だからお前にはここにいてもらう」


 クラウスが話す間に東屋へと着いた。

 ヴァルヘイムが立ち止まり、王子が東屋の一角にある扉に手を伸ばす。柱と同じ白銀色のそれは何の支えもないのに柱の間に自立していた。クラウスが取っ手を持って引っ張ると音もなく開く。


「ヴァルヘイム。それをここから投げ入れろ。縄ごとだ」

「は」


 クラウスの指示でヴァルヘイムが、今まで扉があった部分から東屋内部に向かって黒縄ごとネイシスを放り投げた。

 ヴァルヘイムが縄から手を離した直後、これまで鋼鉄のように固化していた黒縄が、本来の柔軟さを取り戻す。同時にネイシスの力を封じていた効果も消え去った。

 その瞬間、ネイシスは扉へと向かって全力で飛翔した。あと一歩で外に出られるというところで、クラウスが扉を元の位置に戻す。ネイシスは構わず力任せに扉を殴りつけた。その余波で大気が激しく震え、岩盤すら一瞬で削り取りそうな暴風が吹き荒れる。

 しかしそれだけだった。風は外部に一切漏れず地面が浸食されることもなく、殴りつけた扉は振動することも破壊されることもなかった。

 

 この東屋は柱と扉しかないように見えるが、実はその間に透明な壁があり、それは神の力に関わるあらゆるものを通さない性質を持っている。神であるネイシスの攻撃はまさにそれに該当しているため、不可視の壁にその全てが阻まれてしまったのだ。

 風が収まった頃合いを見計らってクラウスが口を開いた。

 

「……凄まじいな。それがお前の全力か。しかしこれほどの力をもってしてもそこから出られないとなれば、我が身に危険が及ぶことはないな」

「ここから出せ! さもなければ、お前もお前の一族もことごとく皆殺しにするぞ……!」

「ならば、なおさらお前にはそこにいてもらわなければなるまい。永遠にな」


 なおも扉を殴り恫喝するネイシスに、クラウスはまるで動揺することなく告げると踵を返した。ヴァルヘイムとともに橋へと向かうその途上で姿が消える。ヴァルヘイムがイルーシオの力を使って透明化させたのだ。


「くそ……! カエトス、カエトス……! 聞こえるか!」


 呼びかけるが反応がなかった。

 東屋に放り込まれた直後に、カエトスとの思念のやり取りができなくなっていたことから予測はしていたが、カエトスとのつながりが断たれていた。東屋の能力により、ネイシスが持つ神の力の全てが外界と遮断されたのだ。そしてそれは、カエトスの呪いが野放しになっているということでもあった。

 ただカエトスがすぐに呪いに殺されることはない。ネイシスは不測の事態に備えて、カエトスの体に己の〝停滞〟の力を蓄積させていたからだ。今はそれが解放されて、呪いの抑制を継続しているはずだ。しかしそれはあくまでも応急処置であり、長くはもたない。急いでここから出なければ、カエトスは早晩あの狂った女神の呪いによって死んでしまう。

 

「まさか、シルトが幽閉されていたとは……」


 ネイシスはもう一度扉を殴りつけながら呻いた。

 事情はさっぱりわからないが、シルトは自身が閉じ込められていた場所だったためにこの神域を離れ、そしてそれ以降寄り付かなくなったのだろう。

 ネイシスは長い間自分の神域に引きこもっていたために外界の神々の事情には疎かった。それが仇になった形だった。

 神を幽閉するほどのことだ。少しでも外に興味を持っていればネイシスの耳にも情報が入っていただろう。それを知っていれば、このような事態を回避できたかもしれなかったのに。

 これからカエトスが正念場を迎えるというのに、その手助けができないことが情けなかった。

 だが諦めない。

 たった今カエトスを励ました身としては、これしきのことで挫けるわけにはいかない。

 

 ネイシスは眼前に右手をかざした。全身から迸った不可視の力が黒いドレスと金髪を揺らめかせながらそこに集まっていく。それは限界などないように収斂され、そしてある一点を超えた瞬間、漆黒の球体へと変わった。これは右手に集中させたネイシスの停滞の力が、時間をも停止させる領域に至った証。光がそこを通過できなくなったために起きる現象だ。

 

「カエトス、私が行くまで死ぬなよ……!」


 ネイシスはもっとも信頼する人間の名を呼ぶと、右拳を扉に叩きつけた。

 

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