第6話 求婚
「はぁ……! はぁ……!」
抑えきれない乱れた呼吸がカエトスの耳を打つ。
その主はカエトス自身と、周りを固めるミエッカ、そしてその部下であるアネッテとヨハンナだ。
王城アレスノイツは階段状の土地からなり、それらは外側から順に外郭、内郭、中郭と呼ばれている。
カエトスはそのうちの中郭に連れて来られていた。ここには国王の住まいである正殿や、レフィーニアたち王族が暮らす別殿、そしてカエトスが強行侵入したユリストア神殿がある。
先刻カエトスがミエッカと決闘を行った練武場は各省庁が立ち並ぶ内郭にあり、中郭はそこからおよそ八十ハルトース(約九十六メートル)崖を上がった位置にある。その間を移動するための機械仕掛けの昇降機があるらしいのだが、カエトスたちはそれを利用せず、急勾配の階段を延々と上って来たのだ。
(今日は朝からずっと体を酷使してるな。大丈夫か?)
膝に手をついて呼吸を整えるカエトスの頭に、金髪の女神ネイシスの思念が響いた。それとともに、右肩で小さく柔らかいものがもぞもぞと動く。彼女は練武場を出たときから、姿を消したままカエトスの右肩にずっと座っていた。
(……そろそろやばい。汗で火傷はひりひりするし、治療がてらゆっくり休みたいとこだな)
カエトスは練武場での決闘で腕や足に負った火傷をまだ治療していない。そのため流れ出した汗が傷口にしみて仕方ない。服も変えていないため、袖や裾は穴だらけ。まるで浮浪者のような身なりだ。
「ふん。これしきのことで音を上げる奴など、親衛隊ヴァルスティンに相応しくない。殿下に進言して即刻首にしなければな」
カエトスが顔を上げると、腰に手を当てたミエッカが見下ろしていた。
彼女は涼しい顔で不適な笑みを浮かべている。しかしその額からは滝のような汗が流れており、耳にかかる程度に切りそろえられた黒髪が幾筋も張り付いていた。その上、荒い鼻息がカエトスの耳にはっきりと届いている。
ミエッカは大口を開けていないだけで鼻を使って新鮮な空気を貪っていた。カエトスには負けていないと強がっているのだ。
「……部下の一人が死にそうになってますが、それも首ですか?」
カエトスがちらりと目を向ける。
ミエッカの二人の部下のうちヨハンナが、地面に四つん這いの姿勢で手足をぶるぶると震わせていた。息も絶え絶えで、今にも卒倒しそうだ。
「ヨハンナっ! いますぐに呼吸を落ち着かせろっ!」
「そんな……無茶……言わないで……」
「隊長が駆け足なんて言うから、こんなことになってるんじゃないか」
ミエッカの号令にヨハンナは懇願を、アネッテは息を弾ませながら冷静に指摘した。
階段を上るだけではここまで疲れることはない。なのに疲労困憊になっている理由がミエッカの無茶な命令、すなわち走って階段を上れ、だったのだ。
ミエッカ曰く訓練の一環とのことだったが、本音はカエトスに楽をさせたくなかったからに違いない。そのときの彼女の目がまさにそう言っていたからだ。
ただカエトスは監視対象でもあるため、単独で先行させるわけにはいかない。そこで四人が揃って駆け足で階段を踏破する羽目になったというわけだ。
「え、ええい、行くぞっ! 遅れずについて来いっ!」
部下の抗議の視線にさらされたミエッカは、それから逃れるように肩をいからせながら歩き始めた。
階段を上って来たカエトスたちの現在地は中郭の南端中央付近。後ろには階段の出入り口に設けられた警備兵の詰め所があり、そこから延びた石畳の通路が、繊細な彫刻の施された柱廊に向かっている。ミエッカは柱の合間からそこに入ると、右へと向かった。
その先には中郭にある建物の中でも、一際大きな石造建築がある。国王の住まいであり、内郭と昇降機で結ばれている正殿だ。造りは行政庁舎とほぼ同じだが、屋根も全て石で出来ている点が異なる。より神聖な建造物であるという証だ。
置いて行かれてはまずいと、カエトスは疲労の残る体に鞭打って、火傷の痛みを噛み殺しながらミエッカを追った。アネッテがふらつくヨハンナを支えてそれに続く。
柱廊は正殿の手前で直進と左とに分岐していた。ミエッカは淀みない足取りで左折し、正殿を迂回するように弧を描く柱廊を東へと向かう。
(さすが王族というやつは、他の人間どもとは暮らしぶりが違うな)
連なる柱の合間に目を向けるカエトスの右肩でネイシスが身じろぎした。
ユリストア神殿に潜入するときにはそのような余裕はなかったが、改めて見ると中郭に広がる景色は山を造成して作った土地とは思えないものだった。
どのように水源を確保しているのか、そこかしこに広い池があり、時折派手な色合いの魚が跳ねる。池の周りには鮮やかな色合いの花々が咲き誇り、力強く枝葉を伸ばした木々が生い茂ってもいる。そのいずれもが明らかに人の手の入った人工的な配置で、整然と生を謳歌していた。
(一国を治める国王ともなれば、これくらいの設備が必要になるもんさ。俺にとっては場違い過ぎて、居心地が悪いけどな)
一生縁がないと思っていた壮大な光景を前にして、カエトスはやや気後れしていた。明らかにこの場に相応しくないぼろきれのような服を着ていることもそれに拍車をかける。
(私の神域にずかずかと上がり込んできた奴が何を怖気づいているんだ。神の住まいに比べれば、こんなところは鳥の巣と変わらん)
ネイシスの口振りにカエトスは思わず苦笑を漏らした。神であるネイシスにとってみれば、人間の住居の違いなどないに等しいというわけだ。
(そんなことより、ほれ、あの女が先に行ってしまうぞ)
ネイシスの指摘に、カエトスは庭から視線を戻した。
正殿を迂回したミエッカは突き当たりの丁字路を左折するところだった。迷子になってはかなわないと早足で彼女との距離を詰める。
ミエッカはさらに途中の三叉路を直進、ほどなく正殿と同じ建築様式の建物の前に辿り着いた。
正殿ほどではないがかなり大きな建物だ。
入口には両開きの木の大扉、壁面にはガラス窓が整然と並び、壁や柱、屋根を構成する石材は全て真っ白。それらすべてに薄汚れた感じがないどころか、ごく最近建てられたかのような真新しさが漂っている。
扉の脇には、ミエッカの部下と思しき濃紺の制服姿の女が二人立っていて、ミエッカを認めると指先をそろえた右手を額に当てて敬礼した。
ミエッカがそれに答礼しつつ振り返った。
「アネッテとヨハンナはここで待機。貴様は私について来い」
そう言ってじろりとカエトスを睨み付ける。
「ここは殿下の住まいである別殿シリーネスだ。本来なら貴様ごときが立ち入ることなどできないが、殿下が許可されたから通すだけのこと。それを肝に命じておけ」
「し、承知しました」
カエトスは唾を飲み込みながらすぐに答えた。
ぎらつくミエッカの目は、何かしでかしたら即座に抹殺すると言っていた。行動に細心の注意を払わねば、本当に人生に幕を下ろしかねない。
ミエッカは忌々しそうに一つ鼻を鳴らすと、部下が開けた扉をくぐった。
別殿の玄関は、小さな家屋がすっぽり収まりそうな広間になっていた。正面の壁は一面全てガラスで、天井からは精緻な細工の施されたガラスの照明がぶら下がっている。下敷きになれば人間など即死してしまうほどに巨大だ。
シルベリアは他国との交易でかなり儲かっているとカエトスは耳にしていたが、どうやらそれは事実らしい。ガラス製品は、大きくなるほどに製造難度が上がり、それに伴って値段も上がっていくからだ。壁一面のガラスや岩の塊のごとき細工物など、いったいどれだけ値が張るのか想像もつかない。
ただそれもミエッカにとっては見慣れたものなのだろう。ついその価値に思いを馳せてしまうカエトスをよそに、ガラス細工には一瞥もすることなく、進路を示すように敷かれた緑の絨毯を踏み締めながら、すたすたと広間の左奥の廊下へと向かう。
別殿の中央は、敷地の半分はあろうかという広い中庭となっていて、広間から延びる回廊がそれを囲んでいた。
中庭に面した側は玄関広間と同じく一面ガラス張りで、赤や紫の花々と木々の鮮やかな緑が、まるで外にいるような開放感を与える。
ミエッカに先導されながら歩くカエトスの前方から白服の女たちがやって来た。この別殿で働く侍女だ。彼女たちはミエッカを認めると廊下の端に寄って会釈した。
すれ違いざまにそれとなく様子を確認すると、やはりというか当然というか、彼女たちの視線はカエトスに向けられていた。すでに様々な噂が行き交っているのだろう。その目は抑えきれない好奇心に満ちている。
妙な噂が広まらなければいいのだが。
そう危惧しつつ中庭を右に見ながら回廊を進む。突き当たりの扉の脇には、別殿入り口と同じく制服姿の女が二人直立していた。彼女たちの敬礼に答礼しながらミエッカが扉を軽く三度叩いた。ゆっくりと押し開く。
中は小さめの広間だった。とは言ってもそれは玄関と比較しての話で、百人程度なら余裕で入れそうな広さがある。
この別殿の特徴なのか、この広間も奥の壁が全てガラス張りだった。それに加えて左右の壁には薄い緑色の布が全周にわたって垂れ下がり、ともすれば無機的になりがちな石造りの空間に柔らかな雰囲気を与えている。一般的なものと比べるとだいぶ規模は大きいが、ここは来客と面会する応接間のようだ。
中央には謁見の間のように赤い絨毯が敷かれていて、その先に木製の重厚な造りの椅子が置かれている。
そこに王女レフィーニアが座していた。謁見の間や練武場で身に付けていた髪留めや腕輪などの装身具を外しており、残っているのは三日月をかたどった銀の首飾りだけだ。
その傍らには、足首まである白いスカートと、袖と襟に薄桃色の刺繍が施された薄手の白シャツを着た若い女がいた。齢はカエトスと同じ二十歳ほど。謁見の間や、決闘のときに同席していた人物だ。
彼女は、背中まである黒髪を首の後ろで簡単にまとめているだけで表情も乏しい。身に付けた服装が質素であることもあって、カエトスがまず抱いた印象は地味な女だった。しかしそれは瞬く間に払拭されてしまう。
白系統の服だったために気付くのが遅れてしまったが、彼女は非常に魅惑的な女性だった。めりはりのある肉感的な肢体から漂う大人の色香は、手と顔しか露出していない服装であってもまるで抑えられていない。
しかも無表情のままカエトスを見つめているその容貌は、希代の名工の手によって作られたかのように整っており、男ならずともつい見惚れてしまうことだろう。
どれほど自制心の強い男であっても脳裏に良からぬ妄想の一つや二つ浮かびそうなほどに彼女は魅力的だった。
しかしそれは彼女の一面でしかない。現に、カエトスは彼女を目にして劣情を抱くことはなかった。
なぜなら立像のように佇む彼女の立ち姿は、触れることを躊躇わせる気高さと、邪な衝動を霧散させる気品に満ち溢れていたからだ。その雰囲気は、事情を知らない人間が見たら、彼女こそが王女だと勘違いしてしまいそうなほどだ。
「遅れまして申し訳ありません。カエトスを連行してきました」
絨毯を進んだミエッカがレフィーニアの前で立ち止まり、直立の姿勢で小さく頭を下げた。カエトスも王女の傍らの女から視線を引き剥がしつつ、ミエッカに倣って一礼する。
「ご苦労さま。それじゃ今から彼と話をします。二人は外に出ていてください」
労いとともに唐突に切り出された王女の一言に、白服の女とミエッカが弾かれたように顔を向けた。
「ま、またご冗談を。このような男と殿下を二人きりにするなど出来るわけがありません。危険過ぎます」
カエトスはミエッカの斜め後ろにいる。そのため表情はわからないが、明らかに顔を引きつらせているとわかる口ぶりだ。それも当然だろう。カエトスがミエッカの立場でも同じ対応をとる。しかしレフィーニアはミエッカの進言を全く聞き入れようとしなかった。
「冗談じゃないです。わたしはこれから彼の能力を聞くの。彼はわたしにだけ話すって言ったんだから、約束は守らないと。だからナウリア姉さまも、ミエッカ姉さまも外で待ってて」
王女の隣りに立つ女の名はナウリアと言うらしい。そして彼女はミエッカ共々王女の姉でもある。
カエトスがそれをしっかりと頭に刻みつける中、ナウリアは眉をひそめながら説教くさい口調で王女をたしなめた。
「殿下。姉と呼ぶのはおやめくださいと何度も申し上げましたでしょう。それでは周りの者に示しがつきません」
「じゃあ彼と二人にして。でないと、これからずっと姉さまって呼ぶから」
まるで駄々をこねる子供のような王女に、ナウリアが困ったような笑みを浮かべる。
「殿下。何故そんなにその男が重要なのですか? 彼のことでわかっていることといえば、名前くらいのもの。それなのに、重臣の方々が殿下の親衛隊に入れることをお認めになられたのも、我々が殿下のお傍にいるからこそなのです。ですが殿下は我々を遠ざけようとなさる。謁見の間のときと言い、練武場のときと言い、少し様子がおかしいです。理由を聞かせてください」
「だから言ったでしょ。彼の力を聞くためって。理由はそれ以外にはないです。わかったら早く出て行って」
レフィーニアはこれ以上の議論を拒絶するように静かに告げた。
応接間が沈黙に包まれる。それを破るようにミエッカが王女に一歩近づいた。しかしナウリアが首を横に振ってそれを制した。無言の二人の視線が交錯する。
「……わかりました。殿下の命に従いましょう」
いかなるやり取りがあったのか、ミエッカは苦渋に塗れた言葉を腹の底から絞り出すように言った。握り締めた両の拳を震わせながら、王女に一礼して背を向ける。カエトスの横を通り出口へと向かう彼女は、何も口にすることはなかった。しかしすれ違いざまにカエトスに向けた燃え盛る炎のような眼光は、口以上に彼女の意思を代弁していた。
背筋を震わせるカエトスの脇を、ナウリアが白いスカートを揺らしながら通り抜ける。
軽く会釈をするナウリアの表情はミエッカと違って柔らかい。微かに笑みさえ浮かべている。しかしその目は欠片も笑っていない。まるで真冬の冷気のような眼差しでカエトスを突き刺すように見つめる。
ナウリアの言わんとしていることも、ミエッカと同じだった。
すなわち、王女にかすり傷一つでも負わせたら殺す、だ。
(あのミエッカだけじゃなくて、ナウリアという女のほうも凄い殺気だな)
(……ああ。寿命が縮みそうだ)
沈黙をもって二人の女をやり過ごしたカエトスは、右肩でもぞもぞと動くネイシスに答えつつ、小さく息をついた。
彼女たちの殺意は、幾度も修羅場を経験しているカエトスの肌を粟立たせるほどに鬼気迫るものがあった。しかも荒事に無縁そうなナウリアからもそれは放たれていた。
ミエッカたちは王女の姉だという。それだけ妹の身を案じているということなのだ。
迂闊な真似は厳に慎もう。
カエトスが自分に言い聞かせていると、扉の閉まる音が聞こえた。
レフィーニアがそれを待って席を立った。直立したままのカエトスへと歩み寄って耳を貸すようにと小さく手招きする。
「姉さまたちが聞き耳を立ててるはずだから、外で話しましょ」
体を屈めたカエトスにそう囁くと、応接間奥のガラス壁に向かった。壁面の一角に設けられたガラス製の扉に手をかけ、物音を立てないようにゆっくりと押し開く。
カエトスはレフィーニアの後を追って扉をくぐった。そこは庭園に張り出すベランダになっていた。木製の柵のずっと向こうには、傾き始めた日差しを浴びるユリストア神殿の姿があり、視界の左端にはカエトスが歩んできた柱廊と、国王の住まいである正殿が見える。
背伸びをする王女の黒髪とスカートを、吹き抜ける風が優しく撫でていく。その背中はカエトスをまるで警戒しておらず、無防備そのものだ。謁見の間や練武場のときと打って変わって随分と寛いでいるように見えた。
「ねえ。平気そうにしてるけど、傷は大丈夫なの?」
くるりと振り返った王女が心配そうに尋ねた。後ろに立っていたカエトスにゆっくりと近づき、恐る恐る穴の開いた袖を覗き込む。そこは肌が一部露出していて、重度の日焼けをしたときのように赤く炎症を起こしていた。
「見た目は痛々しいかと思いますが、たいしたことはありません。あとで冷やしておけば自然と治ります。あの刃に直接は触れていませんので」
そう答えつつカエトスは内心冷や汗をかいていた。目の前で無数に翻る赤い残光が、脳裏に鮮明に蘇る。あの灼熱の刃に少しでも触れていたならば、カエトスはいまここにはいないのだ。改めて思い返しても、よくぞ切り抜けられたものだと我ながら感心してしまう。
まるで自分が痛みを感じているかのように顔をしかめていた王女が顔を上げた。そして申し訳なさそうに目を伏せる。
「……ごめんね。わたしが本当に危険な目に遭ったって証言してあげられれば、あんな決闘なんてしなくて済んだんだけど、言えない事情があったの」
たしかに王女から禊の間での出来事についての言及がなかったことは気になっていた。それがなかったからこそ、カエトスがミエッカに決闘を挑む流れに誘導できたわけでもあるが、事情とはいったいどのようなものだったのだろうか。それを尋ねたい衝動に駆られるが、そこまで踏み込んでいいのかどうかがまだわからない。
カエトスはそう判断すると、王女から一歩離れて頭を下げた。
「王女殿下は、神事に乱入するという暴挙を働いた私を助命しようと尽力してくださいました。如何なる事情があろうともそれは紛れもない事実ですし、殿下の慈悲のおかげで私はこうして生きているのです。ですからどうかご自分をお責めにならないようお願い申し上げます」
感謝の念を込めたカエトスの言葉に、レフィーニアが伏せていた目を持ち上げた。右は黒、左は鮮緑という不思議な眼差しでカエトスを見やる。そこには何かを期待する熱っぽい光のようなものが垣間見えた。そして健康的な艶のある唇が何事かを呟く。それはカエトスに聞き取れないほどの小さな声だった。
(やっぱり間違っていないかも、と言ったな)
唐突にネイシスの声がカエトスの頭に響いた。どうやらネイシスには王女の声が聞こえたらしい。
いったいどういうことなのか。
カエトスがその意味を考えるよりも早く、レフィーニアが本題を切り出した。
「……カエトスがそう言ってくれるならわたしも気にしないことにする。それでね、あなたとしたかった話なんだけど」
「はい。私の能力のことですね」
カエトスが王女の意を汲んで言葉を継ぐも、レフィーニアは首を横に振ってそれを否定した。
「そんなの二人きりになるための口実。もっと大事なことがあるの」
王女はそう言うと、頭二つは高いカエトスの目を見つめて真剣な様子で続けた。
「今からあなたに質問するから、正直に答えて。いい?」
「わかりました」
きっとこれは、王女直属の親衛隊に入隊させるための最終試験のようなものなのだ。つまり返答を誤れば、ここまでの苦労は全て水泡に帰す。
カエトスはそう理解すると、姿勢を正して彼女の問いを待った。
「じゃあ一つめ。あなたは善良な人間?」
(いきなり答えにくいことを聞く娘だな。そんなものは立場でいくらでも変わるだろうに)
レフィーニアの愛らしい唇から紡がれた問いに、肩口に座るネイシスが身じろぎしながら呟いた。
全くもってカエトスも金髪の女神と同意見だった。
いったいどう答えるのが正解なのか。
カエトスはそう迷ったがすぐに思い直した。
レフィーニアが望む答えを返すべきなのだろうが、彼女は正直に答えろと言っていた。腹をくくって思ったことをそのまま口にする。
「私自身は悪人ではないと思っています。ですが、善悪の基準というものは人によってそれぞれであり、相対的なものです。私が善行だと考えて行ったことも、殿下にとっては悪行と映ることもあるでしょう。現に、殿下をお助けしようとした行動も、周りの方には悪事と受け取られましたし」
王女はカエトスの目を片時も離すことなく見つめていた。言葉を吟味するように何度か頷く。短い沈黙の後、再び問いかけた。
「次よ。何か問題が起きて、それを解決する方法が二つある。一つは武力行使。一つは言葉での説得。あなたはどっちを選ぶ?」
「……そうですね。総合的に見て、恒久的に解決できるなら説得です。ただ世の中には言葉が通じない輩がいるのもまた事実です。そういったときには武力を選ぶことになるでしょう」
「そう……。じゃあ次。あなたは優柔不断?」
(それはないな。お前は迷いはするが、決めるのは早い)
カエトスが答えるより早く、ネイシスの囁き声が頭の中に反響する。
「……知人の見立てでは、即決するとよく言われます」
「人見知りはしない?」
(私という神相手に物怖じしなかった図太い人間が、人見知りの訳がない)
「……同じ知人の言ですが、私を図太いと言っていました。私自身も、人見知りはしないほうだと思っています」
さらに口を挟むネイシスに、カエトスの思考が乱れる。たまらず抗議の声を上げた。
(なあ、ちょっと静かにしててくれないか?)
(客観的な意見を述べてやってるんだからいいじゃないか。それに退屈なんだ、私も混ぜろ)
(それはありがたいけど、俺の考えがまとまらないんだよ。あと、そこはくすぐったいからやめてくれ)
ネイシスはカエトスの耳たぶをつかみながら訴えかけていた。二人が思念の会話を交わす最中も、レフィーニアの問いは止まらない。
「狼と羊、あなたはどっちに近い?」
「それは……どういう意味でしょうか?」
予想をしていなかった単語に、カエトスは思わず聞き返した。まさか外見がどちらに似ているかという問いではないだろう。
「自分の性向のこと。狩る方か守られる方か、どっち?」
(霊獣を狩るような人間はどう考えても狼だな)
ネイシスが再び割って入ってくる。
彼女の言う霊獣とは、源霊を操る獣のことだ。
カエトスはティアルクの街の近くに出没していた霊獣を討伐したことがある。ネイシスはそれを言っているのだ。
それと同時に苦い思い出も蘇る。
霊獣討伐はカエトス一人でやったのではない。昨晩カエトスを斬り殺そうとした猟師兼肉屋のジェシカとの共闘の果てに討ったのだ。怒りと悲しみに染まったジェシカの表情と言葉がカエトスの胸を抉る。
カエトスは小さく頭を振ってそれを記憶の底に沈めると、王女の問いに答えた。
「羊に近いとは自分でも思えないので、狼だと思います」
カエトスの返答にレフィーニアが大きく頷いた。どことなく満足そうなその仕草から、どうやら事は順調に進んでいる。カエトスがそう楽観的な判断を下した矢先、レフィーニアは意外な問いかけをしてきた。
「次が最後の質問。わたしのことはどう思う……?」
ふと王女の態度が変化した。
これまではあくまでも事務的な情報収集という雰囲気で、彼女の視線は詰問するようにじっとカエトスを見つめていた。それがベランダの柵や手元などあちこちに移動するようになる。
特に聞きづらい質問でもないのに、一体どうしたのだろうか。
カエトスは戸惑いつつも、率直な感想を告げた。
「それは、私のような者の言葉に耳を傾けてくれたことから、慈悲深く聡明な方だと──」
「そうじゃなくて、その……女としてどう思うかっていうこと。神殿で見たでしょ。わたしの体」
答えるレフィーニアの顔が、はっきりとわかるほどに赤く染まっていく。
年頃の娘が異性に自分の魅力の有無を尋ねるのだ。照れるのも当然だろう。そう理解する一方でそれが王女の口から飛び出したという事実に、カエトスは大いに混乱していた。
なぜそのようなことを聞くのかとまず思ったが、それはすぐさま脇に押しやった。
一体どのような返答が正解なのか、これを導き出すほうが急務だ。場合によっては王女の機嫌を損ねてしまうに違いない。
例えば魅力的だったと答えるとしよう。それに対し予想される反応は二つ。
ひとつは、これから仕えるべき主君に劣情を抱くとは何事かと叱責されての投獄。もうひとつは、好意的に受け取られてのさらなる厚遇だ。
一方、魅力的ではないと答えた場合、これらの反応は逆転するだろう。
主君を罵倒したと罵られ大きく評価を下げるか、欲望を抑える忠義の士と評価されるか、そのどちらかだ。
カエトスは迷った。しかしそれは一瞬のことだった。あまりにも長い沈黙は不自然でありレフィーニアに不信感を与えてしまう。こういったときは己の信条に従うに限る。すなわち嘘はつかない。
カエトスは決意すると、レフィーニアの目を見つめて思いのままを伝えた。
「無礼を承知で言わせていただきます。殿下のお姿は、そのまま抱き締めて自分のものにしてしまいたい衝動に駆られるほどに、とても魅力的でした。それに殿下の瞳はまるで宝石──いえ、それを凌駕するほどに美しくて、叶うなら永遠に見つめていたいと、あのとき私は思いました」
「そ、そう。それなら大丈夫ね」
カエトスを見つめ返していたレフィーニアが頬を赤らめたまま安心したように呟く。
カエトスも内心ほっと息をついた。王女に対する言葉として適切だとはとても思えなかったが、どうやらそれは杞憂だったと。しかしレフィーニアの言葉はそこで終わりではなかった。
彼女は決然と顔を上げると、頬に赤みを残した真剣な表情でいきなりこう言った。
「じゃあわたしの夫になって」
「……は?」
カエトスは思わず間抜けな声を漏らしてしまった。
「あなたはわたしを魅力的と言った。永遠に見つめていたいとも。そ、それに……自分のものにしたいとも。それはつまり伴侶にしたいということでしょ? だからわたしの夫になって」
「しょ、少々お待ちを。恐れながら殿下。その言葉の意味を理解されていますか?」
「もちろん。女から求婚するのははしたいないことかもしれないけど、わたしにはあなたが必要なの。それとも……魅力的って言ったのは嘘なの?」
レフィーニアが眉を寄せてカエトスをじっと見つめる。彼女は顔を赤らめてはいるものの、完全に真面目だった。つまり本気で言っている。
カエトスは慌てて否定した。
「い、いえ、決してそのようなことは。私の本心に間違いありません」
「よかった。じゃあわたしの求婚、受けてくれるわね?」
王女はにっこりと笑いながらカエトスに一歩近づいた。
返答に詰まるカエトスの頭に、不意にネイシスの声が響く。
(カエトス、これだ)
(な、何がだっ?)
(お前が受けなければならない王女の要請。時間がぴったりだ)
(……嘘だろ)
カエトスは絶句した。
突然のことに頭の中が整理しきれない。まさかイルミストリアが結婚を要求してくるとは夢にも思わなかった。
カエトスは呪いを解くために複数の者からの愛情を得る必要がある。結婚はその枷にしかならないと考えていたために、その可能性を完全に除外していたのだ。
カエトスは結婚することへの拭いきれない不安から、少しでも考える時間を捻出するべく王女に尋ねた。
「そ、その前に聞かせてください。何故私なんですか? 王族の方は、顔を知らない者同士が結婚することもあると言いますが、それでも名前は知っていることでしょう。ですが、殿下は今日まで私の名を知らなかったことと存じます。それなのにいきなり求婚するというのは少々異常ではないかと」
「そんなことない。だってわたし、今日出会う前からカエトスのこと知ってたもの。あなたは神託に出てきた人間だから」
「神託というと……神の言葉?」
「そう。わたしは神さまから話を聞いていた。そして本当なら、今日死ぬはずだった。あのときあなたが禊の間に来なければ」
厳かな口調で言うレフィーニアから笑みが消える。変わって表れたのは微かな恐怖。
カエトスの脳裏に当時のことが蘇った。
レフィーニアはユリストア神殿の禊の間において、開口一番こう言ったのだ。『お前がわたしを殺す者か』と。その意味がいまになってわかった。
「あのときの言葉は、自分が死ぬと知っていたからだったんですね」
レフィーニアは小さく頷くと、訴えかけるような眼差しをカエトスに向けた。
「それでね、わたしの危機はこれからも続くらしいの。それを乗り越えるには、わたしの力だけではできなくて、あなたの力が必要なの。神託にはそうあったから。わたし、まだ死にたくない。だから……結婚して」
一歩二歩と着実に王女が距離を詰めてくる。カエトスを見上げる彼女の黒と鮮緑の瞳は、強い意思に漲っていた。
カエトスは王女の気迫に気圧されじりじりと下がる。
断れる空気ではない。しかもイルミストリアは王女の要求を呑めと指示してもいる。引き受けるしかないのか。しかし一市民同士の結婚でさえも、双方の親族、友人、知人など多くの関係者を巻き込むというのに、それが王女ともなれば、どれほどの範囲に影響を与えるのか想像もつかない。少なくとも国家単位で何らかの反応が起きるだろう。
問題はそれだけではない。カエトス自身が負う責任というものも当然発生する。高度に政治的な駆け引きや軋轢などにさらされることは想像に難くない。そのような大任を遂行できるだろうかとカエトスは自問した。
答えはすぐに出た。
はっきり言って自信がない。ここはやはり結婚だけは回避するべきだろう。
幸い、イルミストリアは王女の要求を呑めとしか指示を出していない。つまり結婚しろとは言っていない。それならば、王女の要求を変えさせたとしても、書物の提示する条件を満たせるはず。
カエトスはそう考え、レフィーニアに慎重に話しかけた。
「殿下。私のような者への身に余るお言葉、大変光栄に存じます。殿下のために私がお役に立てるのなら、喜んで力添え致しましょう。ですが殿下をお守りするだけなら、結婚まではせずともよいのではないでしょうか」
王女は死にたくないと言っている。つまり安全さえ確保できればそれで満足するのではないか。
カエトスはそう分析し提案してみたが、王女は首を横に振った。
「それだけじゃだめ。わたしは国王にもなりたくないの。だから、カエトスにはわたしを助けるだけじゃなくて、国王もやって欲しいの。それには結婚しなくちゃだめ」
「こ……国王ですか?」
予想外の単語の出現に、カエトスの狼狽に拍車がかかる。
王女との結婚により、政治的な責任を負わされるとは思っていたが、まさか国王とは。
レフィーニアが力強く頷きながらすっと一歩距離を詰めた。
さらなる責任の増大に、カエトスは動揺しつつも抗弁を試みた。
「し、しかし、クラウス王子がおられます。王子は殿下よりも年長とお見受けしました。順序からいって、クラウス王子が国王になるのが筋なのでは」
謁見の間で見せたクラウスの存在感は、人の上に立つ者に相応しいものだった。あのような覇気に満ちた男が人の下につく姿がそもそも想像できない。
そしてお世辞にもレフィーニアは国王に相応しい人物には見えない。彼女自身もそれを自覚しているからこそ、国王になりたくないと言っているのだ。
人選に誤りがあるとの意図を滲ませたカエトスの問いに、レフィーニアは小さく首を傾げた。
「……もしかしてカエトスは、よそ者?」
「はい。シルベリアにやって来て半年ほどです」
「だから知らないのね。この国の王になるための条件はね、少し特殊なの。普通は両親の出自とか年齢、性別が重要になるでしょ。でもそれよりも優先される条件があるの。それがシルベリアの守護神シルトに仕える神官であること」
そう言ってレフィーニアは静かに右目を閉じた。カエトスの目に、翠玉のように鮮やかな左の瞳が飛び込んでくる。右瞼が閉ざされたためか、それはまるで瞳自体が発光していると錯覚するほどの、神秘的な輝きを放ち始めた。
「その証がこの瞳。稀に王族にこの目を持つ人間が生まれるんだって。だからわたしはクラウス王子だけじゃなくて、現国王を含めた、この国の誰よりも王位の継承順位が上なの」
カエトスはようやく得心がいった。
まだ若くしかも女であり、外見も雰囲気も人の上に立つ者には見えないレフィーニアが重鎮たちに重んじられ、そしてカエトスの処分を巡ってクラウスが強硬姿勢を貫かなかった理由が気になっていたが、このような事情があったというわけだ。
レフィーニアが左瞼を瞬かせながら、暗い声で呟いた。
「そしてこれのせいで、わたしは田舎からここに引っ張り出された」
「それは──」
カエトスは言いかけて口をつぐむ。イルミストリアを譲ってくれた老人ゼルエンが、レフィーニアは現国王の隠し子だったと言っていたのを思い出したのだ。本人を前にしてはさすがに口に出せなかった。しかし王女には筒抜けだった。
「わたしの素性は知ってるみたいね」
「……は。昨日、小耳に挟みまして」
「別に気にしなくていいわ。この国で知らない人なんてほとんどいないだろうし」
王女は右目を開けると、庭園へと目をやった。その先には正殿がある。
「わたしは今の国王が手を出した、側室でもなかった人の子供なの。わたしはそんなことは知らずに過ごしてきて、それで十分幸せだった。血がつながっていなくても、ナウリア姉さまもミエッカ姉さまもみんな優しくて……なのに、この瞳のことが王宮に伝わって、無理矢理連れて来られて王位継承権一位にさせられたの。そしてわたしはじきに玉座に座らされる。大臣たちは言葉を濁してるけど、たぶん陛下はもうすぐ死んじゃうから」
「そのような事情があったのですか……」
予想はしていたが、王女の抱える事情は複雑だった。
とりわけ、レフィーニアが姉と呼んだ二人が、実姉ではないということと、実の父である国王の余命が幾ばくもないことの二点がカエトスの注意を引く。それをしっかりと記憶に刻み付けつつも、後者については前者よりも重要ではなさそうだともカエトスは思った。
なぜならレフィーニアの口調には、肉親に迫る死を悲嘆するような色がなかったからだ。
王女にとって国王は血縁上の父ではあるものの、育ての親ではない。今まで何の接点もなく、実際に対面してからの期間も短い人間の死を悲しめと言われても難しいだろう。むしろ、家族だと思っていた姉たちと血のつながりがなかったという事実への悲しみのほうが強いはずだ。
カエトスは正殿を眺める王女の背中に話しかけた。
「殿下。一つ気になったのですが、シルベリア国王になるためにそのような条件があるとなると、殿下の夫となる人間も国王にはなれないのでは。仮に私が殿下と契りを結んだとしても、ご期待に添えないのではないでしょうか」
「それは大丈夫。全権委任するから」
振り返った王女の可憐な唇から、またしても思いもよらない言葉が紡がれた。
呆気に取られて目を丸くするカエトスをよそにレフィーニアが説明を続ける。
「名目上はわたしが国王。でも実際の政務は夫、つまりカエトスがやるの」
「……本気ですか?」
恐る恐る尋ねるカエトスに、レフィーニアは迷いの一切ない仕草で頷いた。
「うん。だってわたしに国王なんて無理だもの。あんな、知らない人だらけのところで喋るなんてできるわけない。王宮の中の人に話すだけでもいやなのに、外国人と話さなきゃいけないのよ? 周りの国は全部シルベリアより大きいし、何かとちょっかい出してくるし、外交官とかがいちゃもんをつけに来るし、そこでわたしが応対に失敗したらそれだけで戦争とか起きるかもしれない。そんなことになったら、わたしが指揮を執らなきゃいけないのに、わたしはどう考えても羊だし、臣下が全部狼だったとしても、そんなんで戦に勝てるわけない。羊に率いられた狼の群れは、狼が率いる羊の群れには勝てないもの。戦術の指南書にそう書いてあったわ」
「あの……殿下……?」
カエトスは広間の扉に目を向けながら、早口でまくしたてる王女に声をかけた。よほど国王になりたくないのか、彼女の声量は次第に大きくなっていた。このままでは扉の外で待機していると思われるミエッカやナウリアに会話を聞かれかねない。
しかしレフィーニアはカエトスの言葉にまるで耳を傾けなかった。それどころかカエトスの両腕をつかんでさらに熱を帯びた様子で訴えかける。
「もう考えるだけでお腹が痛くなって吐きそうになるの。想像するだけでも限界なのに、本当に国王になんてなったら、絶対心労で死んじゃう。わたしに国王なんてできないし、なりたくもない。なのに、姉さまも父様もわたしの話なんて聞いてくれなくて、しかもそのせいで殺されそうになってる。もうこんなのいやなのっ、わたしはまだ死にたくないし、国王なんかもなりたくないのっ!」
カエトスは顔を歪めそうになって、辛うじて耐えた。
腕をつかむレフィーニアの手は、ミエッカとの決闘で負った火傷を押さえつけるようにしていた。しかしカエトスの体に走ったのは火傷に触れられたことによる痛みだけではない。レフィーニアの細く華奢な指は、少女とは思えない力でカエトスの腕に食い込んでいたのだ。
「そういうわけだから、わたしと結婚して国王をやって……!」
カエトスは火傷と、王女の指が食い込む痛みを噛み殺しながら、ごくりと喉を鳴らした。
自分を見つめるレフィーニアの神秘的な緑の瞳が、どこか狂的な光を宿しているように感じた。
今まで何も知らなかった少女が突然王宮に連れて来られて、国王になれと言われ、そしてそれが原因で命を狙われる。精神的に追い詰められるのも致し方ないことだった。
王女の期待に応えたい。カエトスはそう思う一方でやはりまだ躊躇があった。
(何を悩む。お前らしくないぞ、カエトス)
レフィーニアに詰め寄られるカエトスの頭に、いつもと変わらない泰然としたネイシスの声が響いた。
(本の記述に王女の提案を受け入れろとあるんだ。早く承諾してしまえ)
(でも国王だぞ国王……! 受ける以上は責任持ってやらなきゃならないんだ。安請け合いできるか。それに国王なんて仕事を任されたら、俺の目的が──)
(呪いを解かなければ、死んでしまうんだ。そうなったら目的どころじゃないだろう)
反論するカエトスを、ネイシスが冷静な口調で諭す。
(それにものは考えようだぞ。お前は複数の女と付き合わなければならない。しかし今の人間の価値観では、それは世間に受け入れられない。現にティアルクでは、お前の行動はあの娘たちに糾弾された)
ネイシスの指摘に、昨晩のジェシカやシグネ、マイニの怒りと悲しみの表情と、胸を締め付ける苦い想いが蘇る。
(その点、国王という人種はそれが容認されたはずだ。お前がこの王女と結婚すれば、実質的な国王になるわけで、大勢の女を侍らせたところで誰からも批判されずに済むだろう。女たちも拒絶反応を見せなくなる。つまりハーレムを作りやすくなるというわけだ)
ネイシスの言う通り、妻を何人も抱えている王は、歴史上も現在も枚挙にいとまがない。強力な権力者だからこそ許される特権だ。
そして王の妻の一人ともなれば、女たちが日陰者と後ろ指をさされることもない。むしろ王に寵愛されることで大貴族や地方領主も一目置く存在となる。市井の男の浮気とは訳が違うのだ
ただそこに真の愛情があるかと問われれば、疑問を抱かざるを得ない。打算と欲望と嫉妬に塗れた、濁った愛情しかないのではないだろうか。
カエトスの迷いを読み取ったネイシスがカエトスの背中を押す。
(そんなものはお前次第じゃないのか? それにこの本を信用するなら、こうすることがハーレムに至る道なわけだ。上手く事が進む重要な要素があるんだろう)
(たしかにそうかもしれないけどな……本当にこれでいいのか……?)
なおもカエトスは悩む。この短い時間で決断するには難しすぎる問題だった。
(そもそも、お前は領主の息子だと言っていたじゃないか。親のやることを見ていたなら国王だって大丈夫だろう? 指示を出す人間が少しばかり増えるだけだ)
カエトスはある国の辺境を治める領主の一族で、父がそこの領主を務めていたことがある。だがそこは今はもう存在しない。時の流れの彼方に消えてしまったのだ。
不意にこみ上げる望郷の念を押し込めて、カエトスは訴えた。
(……あのな、俺んちはシルベリアとは比べ物にならないくらい小さな領主なんだ。経験が多少は生きるだろうけど、そんな簡単なもんじゃないんだぞ?)
(私から見れば、人間なんてどれも大差ない。お前だけはその例外だがな)
ネイシスの声には、どことなく楽しそうな響きがあった。
(そう言ってくれるのは嬉しいんだけどな、俺にはちょっと荷が重い──)
「……から」
頭の中でネイシスと問答していると、カエトスの腕をつかみながら俯いていたレフィーニアが低い声を漏らした。
「あの……いま何と仰いました?」
カエトスは恐る恐る聞き返した。王女の声に不吉な響きを感じ取ったのだ。そしてそれは聞き間違いではなかった。
顔を上げたレフィーニアから容赦ない言葉が告げられる。
「もし断ったら、みんなに今日あったこと話すから。どういう意味か……わかるよね?」
「そ、それはもしかして──」
「神殿でわたしを押し倒したり、胸を揉んだことを話すもん……!」
カエトスは絶句した。
そんなことを暴露されたらおしまいだ。特に親衛隊長ミエッカは、先刻の決闘の比ではないほどに激昂し、如何なる手段を用いてでもカエトスを抹殺することだろう。
(よかったな、カエトス。他の選択肢が全部潰れたじゃないか。迷う手間が省けたぞ)
(そ、そうだな……)
事の重大さを認識しているのか甚だ疑わしいあっけらかんとした口調で言うネイシスに、カエトスは辛うじて相槌を返した。
予想はしていた。王女の提案を回避する方法はないのだと。そしてそれはやはり当たってしまった。
カエトスは一度目を閉じて小さく息を吸い込んだ。
逃れられないのなら立ち向かうしかない。様々な問題を背負い込むことになるだろうが、全部受け止めてやる。
カエトスは覚悟を決めると目を開けた。一歩下がりながら両腕をつかむレフィーニアの手をやんわりと振りほどき、その場で片膝をつく。
「レフィーニア殿下。私などにそこまでお目をかけて下さるとは、身に余る光栄に言葉もありません」
自分を見上げながら口上を述べるカエトスに、王女の顔が期待に綻ぶ。
「それじゃあ──」
「はい。殿下の求婚の申し出、謹んでお受け致します。殿下の御期待に添えるよう、全力を尽くすとお約束しましょう」
「……よかった。きっとそう言ってくれると思ってた」
(脅迫しておいてよく言う。この娘、見た目とは裏腹にずいぶん強かだな)
安堵の笑みを浮かべるレフィーニアにネイシスが遠慮のない感想を漏らす。
(……命を狙われてるんだから、必死にもなるだろう)
可能な限り好意的な解釈をしたものの、カエトスの本心はネイシスと大差なかった。王女に対して抱いた当初の印象は修正しなければならないかもしれない。
カエトスにもう立っていいよと声をかけながら、これまでとは打って変わった軽やかな口調でレフィーニアが切り出した。
「それじゃ早速だけど、今後のことについて話しておくわ。まず、このことはわたしとカエトスだけの秘密。他の誰にも話しちゃ駄目だから。特に姉さまたちには絶対に知られないようにして」
「姉というのは、さきほどまでこの部屋にいた方ですね」
「そう、ナウリア姉さま。もう一人はあなたと決闘したミエッカ姉さま。こんなことが二人の耳に入ったら、あなたはきっと殺されるから、十分気を付けること」
広間の様子を窺うレフィーニアが声を潜めて忠告する。
カエトスはすでに彼女たちの本質を垣間見ていたが、妹から見ても姉二人は容赦のない人物らしい。僅かな失敗が命取りになりかねない。記憶に刻み付けておかねば。
カエトスが真剣に頷くのを見て、王女は話を続けた。
「秘密にしているうちに、あなたは手柄を立てて。それもとびきりの大手柄」
「手柄ですか?」
「うん。わたしはカエトスが神託の人間って知ってるからいいけど、周りの人はそんなことは知らない。私がそう説明したとして、神官の言葉だから表向きはカエトスを認めるとは思う。でも心の底ではきっとあなたを侮る。そしてそんな状態じゃいざ国を動かすときに、きっと不都合が出てくると思うの。だから、誰もが認める手柄を立てて、一目置かれるようになって。特に姉さまたちに評価されるのが重要だから」
王女の言葉に、カエトスはふと思い当たった。
「もしかして、私を親衛隊に入れると仰ったのは布石ですか?」
「そうよ。だって、ただの一市民よりも私の直臣のほうが仕事を振りやすいでしょ」
何気ない調子で答える王女。
カエトスは内心舌を巻いた。彼女を日陰に咲く弱々しい花のような人物などと勝手に思っていたが、それはどうやら間違いらしい。おとなしそうなのは外見だけで実のところその中身は、自分にできる最善を模索し、それを実行する行動力を備えた雑草のような人物なのかもしれない。
「手柄を立てる舞台はわたしが探しておくから、それまでは親衛隊の一員として頑張って働いて、功績を積み重ねておいてね」
「……承知しました。殿下の期待に応えられるよう精進します」
王女が向けてくる希望に満ちた眼差しがカエトスに重圧を課す。
覚悟を決めたはずなのに先に横たわる難題を思うと、不安と迷いの泥濘に思考をからめとられそうになる。
中でも最大の問題は王女の暗殺だ。
レフィーニアにもしものことがあっては、国王を務めるどころか、カエトスの呪いを解くこともままならない。
カエトスは話の区切りと見て、少しでも情報を集めるべく王女に尋ねた。
「殿下、事に臨むにあたって一つお聞きしたいことがあります。殿下の命を狙う者に心当たりはおありですか?」
明るい展望を思い描いていたレフィーニアの緑の瞳にふっと暗い影がよぎった。自分を守るように両腕を体の前に持ち上げると、カエトスに小さく一歩近づきながら庭園のほうへ目を走らせる。
「そんなの……きっとたくさんいる。クラウス王子はその筆頭。わたしのせいで国王になれないんだから。他にも、わたしが国王になって困る人はたくさんいると思う。これまで王子の腰巾着だった人なんかは、自分の立場が危ういって思ってるだろうし、外交とか経済の方針が変わるんじゃないかって心配してる人もいるだろうし」
「そうですか……」
やはり国王ともなれば敵は多い。怪しい者を挙げていってもきりがないのだろう。不審者の手掛かりは別の線から入手するしかなさそうだ。
「……カエトスは神殿の近くで人を見たって言ってたけど、どんな人を見たの?」
視線を戻したレフィーニアが不安そうにカエトスを見上げた。
「それが不審者は透明になっていたようで、私は姿を直接見ていないのです」
「それじゃあ何でカエトスはわかったの?」
「実は、そのことが私の能力に関係しています」
「……そういえば、能力を聞くっていう建前でカエトスに来てもらったのよね。それはどんなものなの?」
レフィーニアがじっとカエトスを見つめながら、詳細を説明するように目で促す。頼りなげに揺れるその瞳には、カエトスの能力に対する期待の光が灯っていた。
レフィーニアのような少女が死の恐怖に怯える様は見ていて辛い。
カエトスは王女を安心させるように微笑を浮かべながら、前もって用意していた言葉を伝えた。
「正確に言うと私自身の能力ではなくて、私に取りついている妖精の力となります。彼女はとても目がよくて、不審者の存在を教えてくれたのは彼女なんです」
「……妖精?」
「はい。姿を消していますが、今もここにいます」
カエトスは右肩を指差した。
目を細めたレフィーニアがじっと凝視するが、当然ながら姿を消しているネイシスを見ることはできない。
(ネイシス、何かやってくれるか?)
(私は神だぞ。妖精ごときと一緒にしないでもらおう)
いつもは超然としているネイシスが珍しく不満そうに訴えかける。
(そう言わずに頼む。シルトを祭る神官の前で、別の神さまがいるとは言わないほうがいいだろう? 余計な軋轢は避けたいんだ)
(この娘は、そんなことを気にしそうには見えないが……そういうことなら、まあよかろう)
(話の早い神さまで助かる)
「ねえ、本当にいるの? そんな気配とか全然しな──」
レフィーニアの焦れたような言葉が途中で止まる。彼女の口は最後の発音の形のままぽかんと開いていて、見開かれた目は自分の眼前に向けられていた。そこには胸元で輝いていたはずの銀の首飾りが、空中にふわふわと浮いていた。
レフィーニアが人差し指で恐る恐る何度かつつく。すると首飾りの先端部分が落下した。小柄な体格のわりに豊かな王女の胸の合間にすとんと収まる。
(ほれ、これでいいだろう)
(……お前、俺の肩に座ったままだよな。どうやったんだ?)
(髪の毛を伸ばして持ち上げただけだ)
神というのは多才なのだと感心しつつカエトスは、妖精を探しているのか、あちこちに視線をさまよわせているレフィーニアに声をかけた。
「これが妖精の力の片鱗です。他にも色々なことができるのですが、決闘のときに私が剣を素手で止めたところは覚えていますか?」
「うん。ヴァルヘイムの剣でしょ?」
「あれは妖精の力で剣の威力を弱めてもらったんです。だから素手で受け止められたんです」
「へぇ、そんなこともできるんだ。それじゃあ、ミエッカ姉さまの剣を折ったのも妖精がやったの?」
「あれは私個人の技。剣舞を使って源霊に呼びかけたんです」
「剣舞?」
「ええ。私の故郷ではエンジエンテと呼んでいた技です。私はミエッカ殿のように源霊に呼びかける能力はありませんが、その代わりに音で源霊を操ることができます。あのときは剣の形をぎざぎざにして、特殊な風切り音が出るようにして、その音で源霊に指示を出したというわけです」
「すごい。そんなことできるなんて初めて聞いた。カエトスは、えっと……エンジエンテ、だっけ? 何でそんな技を使えるの? 私が知らないだけで、使える人は多いの?」
カエトスの説明に感嘆の声を上げるレフィーニア。その黒と緑の瞳からはもう不安は見て取れず、代わりに好奇の色に染まっていた。
「いえ。私の故郷では盛んな武術でしたが、この辺りでは一度も使い手を見かけたことはありません」
「そういえば、カエトスはどこの出身? この国じゃないってさっき言ってたけど」
「……恐れながら、それは求婚される前に確認するべきことではないかと……」
世間話でもするかのような口調で尋ねる王女に、カエトスはつい苦言をこぼした。
王女は拗ねたように少し唇を尖らせて言い返す。
「だって私にとってはそんなこと重要じゃなかったんだもの。でも……そうね、あなたのことを周りに認めさせるなら、それなりの箔が必要だったわ。カエトスは、それなりの血筋なの?」
カエトスはレフィーニアに悟られないように小さく苦笑した。
カエトスに結婚を承諾させるまでの手腕はなかなかのものだったが、その一点に全神経を注いでいたのだろう。その他についての詰めがだいぶ甘い。やはり王女に政治を任せるのは、本人が言っていたようによろしくないかもしれない。
カエトスは再び王女の評価を改めつつ口を開いた。
「シルベリアの北西にエディースミルドがあるのはご存知と思います。そのずっと西のほうにリタームという名の土地がありまして、私はそこの領主の息子です」
エディースミルドとは国の名であり、シルベリアより国土も人口も多い国だ。レフィーニアが口にした、シルベリアと国境を接する大国の一つでもある。
カエトスの説明にレフィーニアは納得したように頷いた。
「本当の貴族だったんだ。だから物腰が粗野じゃないのね」
「本当の、と言われると少し語弊があると思います。私自身には貴族の自覚はありませんし、故郷での暮らし向きも領民と大差ないものでしたから」
「それならわたしと同じ。わたしの家も田舎にあって、周りの人と変わらない暮らしをしてたから。結婚は価値観が合っている方が上手くいくっていうし、その点カエトスは安心ね。……でも何でシルベリアに来たの? カエトスは跡継ぎじゃないの?」
嬉しそうに言いながら王女が何気ない口調で尋ねた。その一言にカエトスの心中では、先刻押し込めたばかりの望郷の念が再び首をもたげる。
「……色々とありまして、私は跡を継ぐことができなかったのです。そこでそのまま故郷に居座るのも居心地が悪いと言いますか、いたたまれないといいますか、少々心苦しかったので、見聞を広める意味を込めて故郷を後にしたというわけです」
「あの……もしかして、思い出したくないことだった……?」
カエトスは取り繕ったつもりだったが、表情に心境の変化が出てしまっていたらしい。
それを敏感に察した王女がおずおずと問いかけた。その顔にあるのは、焦りと狼狽。せっかく求婚が成功したのにご破算になりはしないかと危惧しているのだ。
カエトスは小さく頭を振ると、安心させるようにレフィーニアに微笑みかけた。
「いえ、そんなことはありません。私自身、跡を継げなかったことはそれほど気にしてはいませんから、どうかお気になさらずに」
「……そう? それならいいんだけど」
王女はほっとしたように顔を綻ばせる。
無用な心配を与えずに済んだことにカエトスも安堵してはいたが、それとともにある懸念が生じていた。
「殿下。求婚をお受け致しましたが、私の出身がゆくゆく問題となりませんか? いま申し上げたように私と実家との関係は少々微妙でして、実家の面々を紹介するのは非常に難しいのです。また私はシルベリアの人間でもありません。私のような輩を王家に迎え入れてしまっては、後継者の問題が必ず発生すると思います」
これはレフィーニアの求婚を受ける前に当然尋ねるべきことではあったが、気が動転していてそこまで頭が回らなかったのだ。
ただ今となってはこれを理由に結婚がなかったことにされては困る。やると決めたわけであるし、イルミストリアの指示でもあるからだ。
しかし憂慮するカエトスに対し、レフィーニアは全く意に介することなく平然と答えた。
「それは大丈夫。わたしに子供ができたとして、それが男の子だったとしても国王にはなれないの。わたしの次の国王はクラウス王子か、その他の王子の子供になるわ。わたしの子供に神官の資質がなければの話だけど」
「……なるほど。男系継承の原則は変わらないということですか」
シルベリア王家を始めとした大陸各国の王家は、男子によって受け継がれている。これは男性王族の子である王子のみが国王になる資格を持つことを意味する。
ここで重要なのは、例え王女が男子を産んだとしても、その子は国王にはなれないという点だ。母親が王族であっても父親が王家の血筋でなければ、その子供は王位の継承権を持たないのだ。
しかしレフィーニアは違う。
彼女は現王よりも上位の王位継承者であり、その正当性はシルベリア国内において随一だ。そのためカエトスは、レフィーニアの子すなわち順当にことが運んだ場合、カエトスの子供になる人物にも王位の継承権が与えられるのではないかと危惧したのだ。
仮にそうなってしまった場合、シルベリアの王位を男子のみで継承してきた伝統が途絶えることになる。
つまり男系継承の決まりに則ってみると、現王家であるアルティスティン家がそこで終わり、代わってカエトスの姓であるイルエリヤという名の王家が誕生してしまうというわけだ。
しかしカエトスの懸念は杞憂だった。
神官であるレフィーニアの子は男子であっても、カエトスが父である限り男系継承の原則に則り王位の継承権を持たない。その代わりに国王の息子たちが血を残し、レフィーニアが退位した後には、その息子らが国王を務めるというのだ。
「うん。だからカエトスの血筋はあんまり重要じゃないの。でも……そうね、実家のことは詮索されてもいいようにしておいたほうがいいかな。勘当されたってことにしておく?」
「さすがにそれはまずいと思いますが……」
勘当といえば親子の縁を切ること。つまりは一族からの追放だ。関係を断たれた子はもはや家名を名乗ることは許されず、一切の寄る辺のない天涯孤独の身となる。当然カエトスはイルエリヤの姓を名乗れず、自身が貴族の出身であると主張することもできない。そしてそれはレフィーニアの言う『それなりの血筋』という条件を満たせないことでもある。
難色を示すカエトスに王女は愛らしい童顔をしかめてみせた。
「じゃあどうしよう?」
「そうですね。私の母が側室だったということするのはいかがでしょうか。嫡男ではないことから領主になる目は全くない。このまま実家にいても仕方がないので武者修行の旅に出た、という感じです」
カエトスの提案にレフィーニアは顎に指を当てながら思案した。
「……うん。そういう話なら、ないこともないかな。じゃあそれに決定。カエトスは出自とかを聞かれたらそう答えて。私も周りにそう言っておくから。これでカエトスの出身については大丈夫そうね」
そう言って王女はにっこりと笑った。
ごくごく自然でそれでいて目を離せないいい笑顔に、カエトスはつられて笑い返しそうになって慌てて表情を引き締める。
「殿下。いまお教えした私の技についてなんですが、なるべく内密にお願いします。とくに妖精のくだりがクラウス王子などに知られてしまうと、決闘が無効と言われかねませんので」
「大丈夫。誰かの力を借りちゃだめっていう話はしてなかったから。でも言わないわ。切り札は温存しておかないとね」
ふとレフィーニアの顔から笑みが消えた。代わって現れたのは真剣な眼差し。
「話を戻すけど、不審者が透明だったっていうこと以外には何もわからなかったのよね?」
(どうだ?)
(私もよく見ていなかったからな。遠かったしそれほど気にもしていなかったし、姿かたちはわからない。こんなことならもう少し注視しておくんだった)
レフィーニアの問いをカエトスはそのままネイシスにぶつけるも、芳しい答えは返ってこなかった。
「申し訳ありません。いま妖精に確認してみましたが、正体につながるような有力な情報はないとのことでした」
頭を下げるカエトスに、レフィーニアは力なく首を横に振った。
「ううん、いいの。見えなかったんだから仕方ないわ。それでこのことで、わたしからもカエトスにお願いがあるの」
「お願い、ですか?」
「うん。あのね、神託のことは誰にも言わないで欲しいの。大臣たちにも姉さまたちにも絶対に。あと、神殿であったことも。カエトスは何か聞かれると思うけど、そのときはわたしに全部話したから、そっちに聞いてって言えばいいわ」
「それは構いませんが……殿下の敵は透明になる能力を持っていると思われます。神託のおかげで危険が迫っていることを把握できるのでしたら、そのことを告げて協力を仰がれるべきではないでしょうか」
王女はどうやら身内に与える情報を自分なりに制限しようとしているようだった。カエトスがありのままを話すことで、神託の存在が悟られるのを避けたいのだろう。
しかし事前に危機を察知できるならば対策を講じたほうがいいはずだ。危険にさらされるのは王女なのであり、彼女自身も死にたくないと言っているのだから。
カエトスはそう考えたのだが、レフィーニアは首を横に振った。
「このことで姉さまに迷惑をかけたくないの。変なことを教えて、姉さまたちが危ない目に遭うのなんていやだから……」
腰の前で組んだレフィーニアの手に力がこもる。
カエトスは見逃さなかった。力を入れる前にその手が震えていたことを。
死ぬのは怖い。姉に助けを求めたい。しかしそれを我慢している。姉を危険にさらさないために。
王女の安全を第一に考えるならば姉には話すべきだろう。しかし王女にとって姉を守ることは、自分の命よりも優先されることなのだ。その気持ちを無視することはできない。
「……承知しました。口外しないと約束いたします」
カエトスの承諾を聞いたレフィーニアが小さく頷いた。強張っていた顔を綻ばせ、濃褐色と鮮やかな緑の瞳を細める。
「あなたが神託の人でよかった。まともそうだし、腕も立つみたいだし、ちゃんと話も聞いてくれるし。まだ出会って間もないけど、わたし、カエトスにとって恥ずかしくないお嫁さんになれるように頑張る。きっと後悔させないから……これからよろしくね、次期国王さま」
「こ、こちらこそ……至らぬ点が多々あると思いますが、お願い致します」
照れ臭そうに頬を赤らめる王女の一言に、カエトスは改めて認識させられた。もはやどうあがいても引き返せない道に踏み込んでしまったことを。
「今日はご苦労さま。もう休んでいいわ」
肩に不可視の巨岩を乗せられたような重圧を覚えるカエトスをよそに、レフィーニアの口調は胸のつかえがとれたように朗らかだった。
カエトスは顔に内心を出さないよう細心の注意を払いながら王女に一礼した。踵を返し、ガラス扉を開けて室内に戻る。
(ひとまずこの試練も乗り切ったな。これでお前は国王になるための準備をしつつ、別の女を口説き落としていけばいい。もう反社会的行動をしなければならないという葛藤に思い悩まなくてもいいというわけだ。よかったじゃないか)
ネイシスが先の展望が見えたかのような楽観的なことを言う。
たしかに彼女にも一理ある。
いずれ国王としての務めを果たさなければならなくなるという点は諸手を挙げて歓迎はできないが、他人様に顔向けできる立場でいられるというのは、利点の一つではある。
とにかく前向きに受け止めよう。後ろ向きでは上手く行くのも行かなくなりかねない。
カエトスがそう決心して扉をくぐろうとしたそのとき、レフィーニアが声をかけてきた。
「あ、そうだ。カエトス、一つ言い忘れてたことがあった」
「何でしょうか?」
足を止めて振り返ったカエトスに思いもよらない一言が浴びせられた。
「浮気は絶対駄目だから」
「……は?」
「結婚前は仕方ないからとやかく言わない。でも、もしそういう関係があるなら、今のうちに清算しておいて。わたし、そこら中に女を作るような人が大嫌いだから」
不快そうに顔を歪めるレフィーニアは、明らかに実父である国王のことに言及していた。
自分が国王の落胤であることによって人生を狂わされたのが、よほど腹に据えかねているらしい。王家の血筋でなければ、神官としての資格を持って生まれることもなかったのだから、そう考えるのも当然だ。
それはともかく。
(ネイシス、話が違うじゃないかっ)
カエトスは、国王になればハーレム作り放題と言っていたネイシスに猛然と抗議した。このままでは呪いを解くために必要な複数の愛情を獲得できない。
これはネイシスも想定外だったのか、珍しくはっきりと動揺の滲む思念で弁明する。
(わ、私に言うな。この本の意図を私なりに汲んでやっただけで、私の責任じゃないぞっ。きっと何とかなるんだろう。……多分)
金髪の女神の最後の一言は、限りなく頼りなかった。
本当にイルミストリアの記述に従うことで、未来は切り拓けるのだろうか。
「……承知しました。殿下にご迷惑をかけないことをお約束します」
「うん。それなら安心」
レフィーニアに取り繕った返答をしつつ、カエトスは疑念を抱えたまま広間を退室した。
廊下に出ると、上下揃いの白服を纏った侍女と、濃紺の制服姿の女戦士が廊下に立っていた。レフィーニアの姉ナウリアとミエッカだ。入室するときにはいた警備の者の姿は見当たらない。
「やっと終わったのか」
「随分と長いお話でしたけど、何を話していたのか教えていただけます?」
カエトスを認めるや否や、威嚇するように腕を組んだミエッカが仏頂面を向け、ナウリアは優雅な立ち姿に柔和な笑みを浮かべて問いかけてきた。
ナウリアの態度にカエトスを侮る気配は微塵もない。まるで賓客をもてなすかのように丁寧な仕草だ。しかしカエトスの背筋には冷たいものが走っていた。
ナウリアの目は、広間を退室するときと同じようにまるで笑っていないのだ。表情は春の日差しを思わせるほどに温かいのに、瞳だけ真冬に取り残されたかのように凍てついており、その落差がさらに恐怖を助長する。
カエトスは動揺を押し殺しつつ口を開いた。
「何をと言われましても私の力のことと、神殿で何を目撃したのかについてご説明申し上げただけです」
レフィーニアに求婚されてそれを受けたなどと言おうものなら、ここで人生に幕を下ろしてしまうことだろう。それだけは秘密にしなければ。
幸い、わざわざ尋ねたということは王女との会話を聞かれてはいない。聞き耳を立てていたのは間違いないだろうが、その一点だけは朗報だ。あとは何とかごまかせば乗り切れる。
カエトスがそう楽観視した矢先、ナウリアの顔から笑みが消えた。カエトスを詰問するように見据えていた目がすっと細まる。
「嘘ですね」
研ぎ澄まされた刃のように鋭い一言に、カエトスは思わず反応しそうになった。
「いえ、決して嘘ではなく──」
「言い訳は無用です」
カエトスの反論はナウリアの一言でばっさりと切り捨てられた。
「あなたは自分の力を説明したと言いましたが、それにしては時間がかかり過ぎでしょう。殿下は利発なお方。あなたの話を理解されるのに、これほど時間がかかるわけがありません。ですから他のことも話していた。そうですね?」
「私は殿下を守る親衛隊の長。殿下をあらゆる危難から守るために、殿下に関わることを全て把握する必要がある」
「おなじく、私は殿下に仕える侍女長。殿下の公私に渡るすべてを取り仕切っています。我々の責任を果たすためにも、あらゆる情報の収集は必須なのです。ですから話してください。殿下と何を話したのかを」
二人の姉がそろってカエトスを睨み付ける。答えなければどんなことをしてでも口を割らせる。二人の目はそう言っていた。
ナウリアたちの言い分はもっともなことであり、それだけレフィーニアを想っている証。心情としては彼女たちに協力したかった。しかしそれはできない相談なのだ。
カエトスは姉たちの視線の圧力にのけ反りそうになりながら、抱える思いとは裏腹なことを口にした。
「申し訳ありません。私の口からは何も申し上げられないのです。殿下にそのように言い付けられましたので。私がお話ししたことを知りたいのでしたら、どうか殿下にお伺いください」
レフィーニアの名の効果は絶大だった。
ミエッカはぎりっと歯を食いしばりながら、鉤爪状に指を曲げた右手を持ち上げたものの、結局は何もしないまま手を下ろす。
ナウリアも、その瞳に正視するのも恐ろしい鬼気迫る光を宿らせながら口を開こうとするも、ぐっと堪えて艶やかな唇を引き結ぶ。
妹のための情報を得たいのに、それをレフィーニア自身に制限され、しかもそれを王女の口からではなく、あからさまに怪しいカエトスから聞かされたのだ。彼女たちのやるせなさは察して余りあった。
「……姉さん、私はこいつを連れて行くから、こっちは頼む」
「ええ。あなたも気を付けて」
ナウリアと頷き合ったミエッカがカエトスの右手首をつかんだ。そのまま引きずるようにして玄関広間に向かって歩き出す。その握力は、内にくすぶる感情をその一点に集中しているかのように凄まじい。
カエトスは苦痛に顔を歪めそうになりながら、ミエッカのあとを追従した。
ミエッカは床を踏み抜きそうな力強い足取りで、すれ違う侍女の視線を気にすることなく突き進み、玄関の扉を勢いよく開けた。外で待機していたアネッテとヨハンナがそれに気付いて顔を向ける。
「私は少し用がある。この男についてはアネッテに任せるから、適当に監視しててくれ。不審な真似をしたら斬っていい。私が許す」
「わかった」
ミエッカは短く答えるアネッテを一瞥すると、背後のカエトスに向き直った。
「聞こえたな? くれぐれも妙なことは考えるなよ」
握っていたカエトスの手首を突き飛ばすように放すと、最後にもう一度カエトスに炎のような眼差しをぶつける。そして廊下を歩いたときと同じように、肩をいからせながら正殿に続く柱廊へと早足で歩み去った。
(ようやく一区切りか。カエトス、ずいぶん疲れてるようだが、大丈夫か?)
(……そろそろまずい。今までの疲れがどっと出てきた)
精神的な緊張から解放されたことで、体に蓄積されていた疲労が思い出したかのようにその存在を主張し始めていた。膝から力が抜けてその場にへたり込みそうになる。
そんなカエトスにアネッテが容赦のない言葉を告げた。
「ではついて来い。内郭に向かう」
「もしかして、上って来た階段を下りるんですか?」
「そうだ。さあ行くぞ」
そう言って颯爽と歩き始めるアネッテ。後ろのヨハンナが小声で「うぇぇ……」と、とてつもなく嫌そうな声を上げる。カエトスも彼女と同じ気持ちだった。
しかしまさか抗議するわけにもいかない。カエトスは体に鞭打つとアネッテの後に続いた。
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