第33話 婚約からの新たな試練
目を開けるとカエトスは横になっていた。視界に映るのは心を落ち着かせる穏やかな木目の天井。
ゆっくりと体を起こす。いまいるのは、広い室内に一つきりの大きな寝台の上だ。
見覚えのある光景だった。
周りを見渡すと予想通り、繊細な装飾の施された椅子とテーブルがあり、視線を転じれば、大きなガラス窓の向こうに広大な池と庭園が見える。
ここはシルベリアの王女レフィーニアが検査のために滞在していた典薬寮別棟の一室だ。
何があったのか記憶を探ったカエトスはすぐに思い出した。
ユリストア神殿地下の神域にレフィーニアたちを助けに向かい、そこでクラウスたちと戦闘になったことを。そしてそれを退けたところで意識を失ったのだ。
カエトスは体に目を落とした。
前合わせの清潔な白い衣服を着せられていた。前をはだけてみると、上半身の大半を覆っていたはずの紫の網目模様が綺麗に消えており、左上腕に刻まれた薔薇の色も薄れていた。さらに胴体を貫通していた銃創や刺創もなく、体のあちこちにできていた裂傷や打撲傷なども、そのほとんどがなくなっていた。まるでカエトスの記憶が夢であったかのように。
「起きたか」
天井から聞き慣れた女の声が降ってきた。
煌びやかな装身具の数々をまとい、金糸のごとき長髪をなびかせながらカエトスの目の前で静止したのは、黒のロングドレス姿の小さな女神ネイシスだ。
カエトスは早速疑問をぶつけた。
「あれからどうなったんだ? 呪いが後退してるし、傷もなくなってる」
「傷は王女が転嫁の力で移動させて、呪いは王女たちとそこの小さい奴のおかげで後退させられた。ちゃんと礼を言っておけ」
「小さい奴?」
腕を組むネイシスが顎をしゃくると、茶色い毛玉のような生き物が、寝台上のカエトスの膝に飛び乗って来た。転落死するところをカエトスが助けた子犬のラスクだ。短い尻尾を千切れそうなほどに振りながら、前肢をカエトスの胸にかけて必死に顔を寄せてくる。
カエトスはラスクの小さな体を抱えながら尋ねた。
「……何でこいつが関係あるんだ?」
「あの本の根回しが上手くいったらしい。お前が意識を失った後、イリヴァールが出て来て、まあ色々あって王女たちがお前の呪いを解くと言ってくれたんだ。でもあいつらだけじゃ呪いを解けなくて困ってたところに、いきなりこいつがやって来て、そして呪いを後退させたというわけだ」
「……お前に助けられたのか。それに王女たちにも」
カエトスは子犬の毛並みを撫でながら呟いた。ナウリアたちが呪いを解こうとしてくれたことをしっかりと脳裏に刻みつつ、最大の懸念を切り出す。
「王子はどうなったんだ?」
「私は見ていないが、ナウリアたちの話によれば死んだらしい。洞窟の崩落に巻き込まれて圧死だと。こいつが呼び寄せた災厄のせいだろうな」
ネイシスは背中を覆う金髪に右手を突っ込んだ。そこから暗赤色の小さな本を取り出す。
「それは、王子が持ってたイルミストリアか?」
「うむ。題名は〝覇者の道標〟とある。ここからもあれの野心の強さが窺えるな。もっとも、奴の手には余る無謀な夢だったが」
「そうか……」
ネイシスの口調はあくまでも冷淡で突き放すものだった。
しかしカエトスは複雑な心境だった。一歩間違えれば、カエトスがクラウスの立場になっていたのだ。同じようにイルミストリアの指示に従って動いていた者として、微かに憐憫の情が湧く。
「ヴァルヘイムとハルンは?」
「両方とも牢獄で厳重に監視している。ちらっと見てきたが、女の方は鉄の鎖でがんじがらめだったし、男の方はお前の全力の攻撃を食らって瀕死のままだ。どっちも何もできまい」
「それじゃあ、王女たちはもう安全だな」
カエトスは息をついた。
クラウスを憐れむ気持ちはあるものの、やはりレフィーニアたちから危機が遠ざかった安堵のほうが遥かに強かった。クラウスとその腹心さえいなければ、もう危険はない。
「うむ、そういうことだ。……どうした。そんな顔をして。何か気になることでもあるのか?」
ネイシスが暗赤色のイルミストリアを金髪の中にしまいながらカエトスの顔を覗き込む。
カエトスはラスクの頭を撫でていた手を止めて、もう一度息を吐いた。
「いや。俺が王女たちに殺されてないのは、あとで改めて処刑するためかと思ってな」
「それはないんじゃないか? あいつらはそんなことは言ってなかったし、お前がハルンに操られていたことは私が話したから、お前の人格についての誤解は解けたはずだぞ」
「だとしても、俺が三人を口説いてた事実は変わらないんだ。それが許される余地なんてどこにもない。それに処刑するなら、お前に話すわけない」
「言われてみるとそんな気もしてくるが……お前が命懸けで戦うところを見て気が変わったというのはどうなんだ。たしか神域であの姉妹はそういったことを言っていたぞ」
「そんなのは一時の気の迷いかもしれない。王女たちは本の中身も見てるんだ。それと合わせて考えれば、俺の行動なんて全部打算まみれの演出にしか見えない」
一度失われた信頼はそう簡単には戻らないとクラウスは言っていた。王子の主張には容認できない部分が多々あったが、それについてはカエトスも同意見だ。そのうえカエトスには自分本位の目的もあったのだ。レフィーニアたちが心変わりしたと見るのは、あまりにも楽観的に過ぎるだろう。
「ふむ。ならば一度撤退して、時間を置くか?」
「……いや。全部話して謝ろう。その後のことは……またそのときだな」
到底許されるとは思えなかったが、けじめはつけなければならない。それに時間が解決するような問題でもない。カエトスは覚悟を決めつつネイシスに尋ねた。
「王女たちがどこにいるかわかるか?」
「いまは儀式の後始末であちこち走り回ってるぞ。今回の一件は隠蔽するようだから、色々根回しが必要なんだろう。面倒なことが山積みだとナウリアが言っていた」
「……まあ、王子が王女を暗殺しようとして返り討ちに遭ったなんて公表できるわけないしな」
シルベリア王家にとって恥というのも当然あるが、国家の中枢が動揺していることを漏らすのは害にしかならない。何しろシルベリアを取り囲む周辺国は強国ばかり。隙を見せたら、シルベリアにとって歓迎できない動きを誘発してしまうことだろう。
「じゃあ、しばらく話はできなさそうか」
「……いや、いま来たな。お前が起きたと伝えるついでに呼んで来てやろう」
ネイシスは入口に目を向けると、空中を滑るように飛んで行った。小さい手で難なく扉を押し開いて、隙間から外に出る。
ネイシスの目は障害物の先にあるものを見ることができる。壁越しに王女たちの姿を確認したのだろう。そしてカエトスが心の準備をする間もなく女神は戻って来た。その後ろに三人の女の姿がある。
白の侍女服に身を包んだナウリアに、純白のドレス姿のレフィーニア、そして濃紺の制服を纏ったミエッカだ。
ネイシスが右肩にふわりと降り立つのを横目に、カエトスははだけた衣服を整え、抱えていたラスクを床に置いた。寝台を降りて三人を迎えようとすると、ナウリアが先に声をかける。
「あなたは怪我人なのですから、そのままで結構です」
「……は。わかりました」
カエトスは一つ唾を飲み込みながら答えた。
ナウリアの言葉そのものはカエトスを気遣うものだったが、口調はこの上なく事務的なものだった。表情は硬く友好さの片鱗すら窺えない。そしてそれはレフィーニアとミエッカも同様だ。
やはり心証が改善したなどということはなさそうだった。このままでは謝罪を受け入れてはもらえないだろう。
どう対応すべきか、カエトスは必死に考えながら寝台の上で姿勢を正して三姉妹を待つ。
ただならぬ気配を察したのか、カエトスの元に戻ろうと、寝台に前肢をかけていたラスクがびくっと体を震わせた。姉妹たちを一瞥して、短い四肢をもつれさせながら椅子の下に逃げ込む。
体を縮こまらせる子犬のつぶらな瞳が見守る中、寝台の右側で三姉妹が立ち止まった。三対の視線はどれも硬質で、楽観的要素の欠片すら窺えない。
小さく咳ばらいをした長姉ナウリアが、冷ややかな視線を向けながら口火を切った。
「カエトス殿、怪我の具合はいかがですか。殿下とネイシス殿の手でほとんど完治したとのことですが」
「はい。特に異常はないようです。殿下には本当に感謝の言葉もありません」
カエトスはレフィーニアに神妙に頭を下げて謝意を示した。
一言でも何か反応を示してはくれないかと期待するも、王女は唇を引き結んだまま小さく頷くだけだった。
本当に処刑されるかもしれない。
現実味を帯びてきた最悪の結末にカエトスが内心慄く中、ナウリアが尋問を開始した。
「では健康上の問題はないということで、事情聴取を始めます。先日の取調室でのあなたの証言は、あなたの本心ではないということは聞きました。私たちを弄ぶことが目的ではなかったのだと。ですが、あなたは自分にかけられた呪いを解くために、イルミストリアと呼ばれる神秘の本の指示に従って、私たちを籠絡しようとした。これに間違いありませんね?」
「はい。その通りです」
カエトスはしっかりと頷いた。
その動作が終わる間もなく、ミエッカが刃を思わせる鋭い語調で詰問する。
「それは法的に裁かれる行為ではないかもしれないが、倫理的には問題があることは自覚しているか」
「はい。できる限りのことで償いたいと考えています」
「できる限り……か。ならば私たちがお前に相応の報いを与えたとしても、それを甘んじて受け入れると、そういうことでいいんだな」
ミエッカが向けてくる熾火のような熱い眼光に、カエトスはもう一度唾を飲み込んだ。どう楽観的に解釈しても、命かそれに匹敵するものを代償として要求されそうだった。
ミエッカの瞳の圧力がさらに増し、今まさに罪状を告げようとその唇がぴくりと動く。
するとそのとき、末妹のレフィーニアが声を上げた。
「姉さま、待って。悪いのはカエトスだけじゃないの」
ミエッカの腕を取りながら、ドレスのポケットから何かを取り出す。
カエトスだけでなく、ナウリアやミエッカ、そしてネイシスさえもそれに注視させられた。
レフィーニアが取り出したのは、手のひらに収まりそうな小さな本だった。深緑色の表紙が鈍色の金属で補強されていて、まるで生物のような気配を周囲に放っている。
「それはもしかして……イルミストリアですか?」
カエトスの問いにレフィーニアは小さく頷いた。
まさか王女もイルミストリアを所持していたとは。
突然のレフィーニアの告白に言葉が出ない。それはカエトスだけではなくナウリアたちも同じだった。
姉たちが唖然と妹を見やる中、レフィーニアがおずおずと話し出す。
「本当は、私が神託って言ってたのは、この本に書かれていたことだったの。私がこれに願ったのは、国王にならないことと、生き延びること。それでね、何日か前に、禊の間にやって来る戦士を逃がさずにつかまえて、それを手助けしろって文章が出てきたの。だからカエトスを呼んだのはわたし。姉さまたちが傷ついたのは、わたしがこれに頼ったせいなの。黙ってて……ごめんなさい」
レフィーニアはか細い声で謝ると、申し訳なさそうに目を伏せた。
そこからの二人の姉の反応は素早かった。レフィーニアの頭越しに目配せした彼女たちは、すぐさま妹に声をかける。
「レフィが謝ることなんてない。そんな本を持ってたことには驚いたけど、私たちから見ればそれは神託と同じようなものじゃないか。それにそのことを言わなかったのは、私たちに迷惑をかけたくないからだったんだろう? そんなレフィの優しさを私たちが責めるわけがない。そもそも、レフィがその本に生き延びたいと願ったことと、頭がおかしいとしか思えないカエトスの行動には何の関係もない」
「その通りです。話を聞く限りでは、カエトス殿を呼び寄せたのはあなたではなくその本です。つまり悪いのは、このような鬼畜な欲望を持った人物と、そのようなろくでもない人材を選んだイルミストリアです。レフィは何も悪くありません」
ミエッカは雄々しく、ナウリアはたおやかにそれぞれレフィーニアを慰撫する。
事実を速やかに受けいれ、なおかつ欠片も責めることなく妹の支えになろうとするその姿勢からは、深い愛情がひしひしと伝わって来た。
しかしカエトスはそう感嘆しつつも気が気ではなかった。
妹への思いやりに満ち溢れていたその言葉の中には、カエトスを容赦なく非難する刃がはっきりと仕込まれていたからだ。
せっかくレフィーニアがカエトスの肩を持ってくれたというのに、姉二人がカエトスに対して苛烈な罰を課そうとする意欲は毛ほども衰えていない。そう判断するに十分な鋭さがナウリアたちの言葉にはあった。
雰囲気から察したのか、今にも刑を宣告しそうなナウリアの腕にレフィーニアがすがりついた。
「待って、姉さま。カエトスを殺さないで。わたしも謝るから許してあげて」
「……レフィ」
妹の愛称を呼ぶナウリアの目が一瞬だけ細まった。何かを悟ったように小さく息をつきながら、もう一人の妹へと視線を移す。
「ミエッカ。ちょっと来て」
名を呼ばれた次女は無言のまま渋い顔で頷き、窓際に向かうナウリアの後に続いた。
カエトスの右肩にいるネイシスが、それを目で追いながら耳元で囁く。
「王女が本を持っていたとは思わなかったが、いまはそれよりもこの雲行きだな。王女はお前の味方らしいが、姉の方はお前が懸念していた通り許す気はなさそうだ。もし死ねと言われたらどうする? 逃げるなら、もちろん協力するぞ」
「……い、一応、万が一のときに備えててくれ」
カエトスはからからになった喉から辛うじて声を絞り出した。
逃げたとしても問題の先送りにしかならないと承知しているが、ナウリアたちをどのように説得したらいいのか、まるで妙案が浮かばなかった。死ぬわけにはいかない以上、残された手段は逃走しかない。
そこまで考えたところで、カエトスはもう一つ打開策があることを思いついた。
「ネイシス、聞くの忘れてたけど、俺のほうのイルミストリアはまだ機能してるのか? なんか災厄は収まってるみたいだし、本に何か出てたりしないか?」
「今日の朝の時点では何も出ていなかったんだが……一応調べてみるか」
ネイシスは期待を感じさせない声音で言いながら、背中の金髪の中に右手を突っ込んだ。取り出したのは暗赤色ではなく濃紺色の本。カエトスのイルミストリアだ。ぺらぺらとめくって中に目を通す。
「ちなみに災厄が収まっているのは、お前は知らずに本の指示を達成していたからみたいだぞ。お前が神域でやったことがそのまま書いてある。とは言っても、相変わらずいい加減な内容だったがな」
「……だろうな」
すでにイルミストリアに具体的な対策を求めるだけ無駄とカエトスは悟っていた。しかしそれでも頼らざるを得ないほどの窮地にカエトスはいるのだ。僅かでも指針のようなものを示してくれと願いながらネイシスの反応を待っていると、氷のような冷たい声で名を呼ばれた。
「カエトス殿」
反射的に伸びた背筋をゆっくりと旋回させると、窓際に行っていたナウリアたちが戻ってくるところだった。頼みのネイシスが本を調べ終える暇すらない早さだ。
三姉妹は再び寝台の右側に横一列に並んだ。
カエトスはそれと正対するように座り直しながら、彼女たちの様子をそれとなく窺う。相も変わらず三人とも表情が硬い。カエトスの赦免を要求していたはずの王女ですら顔つきが険しい。
死刑を宣告される死刑囚の気持ちとはこのようなものなのだろうか。彼女たちから漂う緊張感はそれを思わせるに十分な鋭さを伴っていた。
もう結論は覆らないだろう。
そして、半ば諦念に支配されつつあるカエトスを見下ろすナウリアが、いよいよ口を開いた。
「あなたに対する裁定が決定しましたのでお伝えします。これは私たち姉妹の総意です。速やかにかつ誠実に履行していただきます。よろしいですね」
カエトスは目を閉じると、無言のまま頷いた。
数呼吸の間を置いて、ナウリアが静かに宣告する。
「ではお伝えします。カエトス殿。あなたには今後の人生を捧げていただきます」
やはり懸念は現実のものとなってしまったか。
カエトスは小さく息をつくと、おもむろに布団にこすり付けるように頭を下げた。
「先ほど何でもすると言った身であり、私のこれまでの言動が許されないということも重々承知しています。ですがどうか命だけは助けていただけないでしょうか。私にはどうしてもやらなければならないことがあるのです。それを為すまでは死ぬわけには──」
「ちょっと待て。誰が殺すなんて言った」
カエトスは伏せた姿勢のまま顔だけを上げた。ミエッカが不愉快そうに眉をひそめて睨み付けていた。
「……今の侍女長殿の言葉は、私を処刑するという意味なのでは……?」
「馬鹿、そうじゃない。これは私たちの……お、夫になれという意味だっ」
険しい表情のまま答えるミエッカの頬がみるみる赤く染まっていった。
カエトスは一瞬ミエッカが何を言っているのか理解できなかった。何度か目を瞬かせて、ようやくその意味が頭の中に染み込んでいく。
「それはつまり……お三方が私の嫁になると……?」
「不服ですか?」
半信半疑で恐る恐る尋ねたカエトスを、ナウリアが冷たい目で見据える。
「い、いえ。決してそのようなことはありません。ただ、とても正気の発言とは思えなかったもので──ぐぉ」
「一番正気を欠いているお前に言われたくはないっ、このっ、このっ……!」
寝台に飛び乗ったミエッカが、獲物に襲いかかる獣のようにカエトスの首を絞め上げてきた。
カエトスはそれを両手で防ぎながら必死に言葉を紡いだ。
「お、仰る通り、私はどう見てもろくでなしですっ。私が女ならこんな男と付き合うのは願い下げです。隊長殿をはじめ、皆さんに相応しいとはとても思えないんですが、ほ、本当にそれでいいんですか?」
「よくはないっ。私だってもっとまともな男と一緒になるものだと思っていた。でも、それでもお前がいいと思ってしまったんだ……って、何を言わせるんだっ……!」
ミエッカはさらに顔を赤くすると、それをごまかすように右手を突き出した。カエトスの防御を潜り抜けたそれが、容赦なく首を絞めてくる。そこにはとても嫁になろうとしているとは思えない力強さと殺気がこめられていた。
カエトスが呼吸だけでも確保しようと歯を食いしばって奮闘していると、ナウリアが静かに語りだした。
「あなたのその性癖は、今でも受け入れられたとは言えません。でも……あの女神に指摘されて思い出させられました。あなたは何度も私たちを助けてくれたことを。しかも……神域では本当に命をかけて。あのときのあなたの姿は、何よりもあなたの本心を表していて、それに心を打たれてしまったんです。あなたの性癖がさほど気にならなくなるほどに。そしてあなたが他の誰かのものになるのが耐えられないほどに。それに男の浮気というものは生来備わっている本能であって、抑制できないものと聞いています。つまり不治の病と同じ。そう考えれば、上手に付き合っていくしかないと諦めもつきます」
達観した顔つきで身も蓋もないことを言う姉に続いて、その隣のレフィーニアが自らの思いを口にする。
「わたしも一緒。全部に納得したわけじゃないけど、欠点がない人なんているわけないし、カエトスは姉さまを大切にしてくれてたし、わたしは姉さまも大好きだから、相手が姉さまたちなら、他の知らない人よりはいいかなって」
カエトスは混乱の極致にあった。体の上にのしかかって首を絞めるミエッカや、寝台の横に佇むナウリア、レフィーニアへと目を泳がせる。その口振りや態度からして、本当に結婚してもいいと考えているようだった。
当初から実現するはずがないと思っていた結末に、これは現実ではなく夢の中の出来事なのではないかとの疑念が湧く。しかし今もミエッカに絞められている首は、はっきりとした痛みを訴えかけてきている。つまり夢ではない。
「カエトス殿、私たちの要求は呑み込めましたね?」
「え、ええ。何とか……」
「では少し補足をしておきます。あなたは私たちの夫になりますが、全員と正式な婚姻を結ぶことは法律上できません。そこで社会的な立場上、レフィが正妻、私たちは妾という形になります」
「表向きはそうなるけど、ちゃ、ちゃんと平等にかまうんだぞ。いいな?」
ナウリアが堅苦しさの抜けきらない事務的な口調で告げ、カエトスの襟をつかむミエッカはまだ頬に赤みが残る顔を背けながら、ちらちらと視線だけをカエトスに向ける。
「よかったな、カエトス。一時はどうなることかと思ったが、ハーレム完成だぞ」
頭上からネイシスの満足げな声が降ってきた。彼女はカエトスがミエッカに襲撃された直後から空中に避難していた。
カエトスはまだ半信半疑ながら、ようやく認め始めていた。これは本当に現実に起きていることなのだと。
目標としていた結末であり、カエトスが望んでいたものでもあるから、これが事実ならば拒絶する理由はない。
「本当に……それでよろしいんですね?」
カエトスは確認のためもう一度尋ねた。その途端、首を絞めるミエッカの手に再び力がこもる。
「だからさっきからそう言っている。まさか……今になって怖気づいたんじゃないだろうな……!」
「あなたは私たちの心を奪おうとして、そしてそれを達成してしまったんです。責任を取らずに逃げようだなんて許しませんから」
荒々しく詰問するミエッカに続いて、ナウリアが静謐ながら有無を言わせない口調で迫り、その傍らのレフィーニアは輝きを増した鮮緑の瞳でカエトスをじっと睨み付ける。それは無言であるにもかかわらず二人の姉よりも強く激しくカエトスに要求していた。結婚しろと。
カエトスは三姉妹を宥めるように目で訴えかけながら弁明した。
「お、お待ちを。そのような意味ではありません」
「じゃあどういう意味なんだ」
「殺されても仕方のない私のことを許していただいただけではなく、受け入れると仰ってくれたんです。正直なところまだ戸惑っている部分はありますが、殿下たちの申し出は謹んでお受けしたいと思います。ただ……お三方は神域で女神に出会ったと聞きました。あれは、このネイシスよりもさらに神らしい性格をしているというか、人に対してかなり冷淡なところがあります。私以外の人間に危害を加えるなと約束していますが、私といることで危険な目に遭うかもしれません。それでも……大丈夫ですか?」
カエトスの抱いていた危惧に、ミエッカは拍子抜けしたように吐息を漏らした。
「何だ。お前はそんなことを気にしていたのか」
「それについてはもう話し合っています。あの女神は確かにあなたの言うように人とは相容れないと、私も強く感じました。危険だということもわかります。でも、その程度のことで引き下がるわけにはいきません」
姉二人の言葉に、レフィーニアが同意するようにうんうんと力強く何度も頷く。
三人からは決意とともに敵愾心のようなものも伝わってきた。それはイリヴァールと対峙したときに何かあったと推察するに十分な強さだった。
ネイシスに何があったのか詳細を聞こうとすると、それより先にカエトスの襟をつかんだままのミエッカがじっと目を覗き込んできた。
「これは後で聞こうと思っていたが、ついでだからここで話せ。お前は何であんな女神と関わっていて、呪われたんだ。お前が愛について説いたのが原因とか言っていたが、あれはどういうことなんだ?」
ミエッカの問いをきっかけにカエトスの脳裏に懐かしく切ない記憶が蘇ってきた。
「それは……少し長い話になりますが」
ミエッカが、いいから話せと視線で促す。それを受けてカエトスは話し出した。
「あの女神イリヴァールとは、このネイシスのように私から神域に出向いたとかそういったことではなく、山中での修業中に偶然出会ったんです」
「……偶然? そんなことがあるのか? 相手は神だぞ」
「それがどうやら本当らしいんです。彼女は暇を持て余していたようで、向こうから声をかけてきましたから。そこで彼女の話相手をしていたら気に入られたらしく、剣舞の修行中だった私に、色々助言をくれたり手伝ってくれたりしてくれるようになったんです。ただ、彼女の愛情表現は、彼女自身が最良と思っているものであって、私や私の周りの人間に対して最良かと言うと、そうとは言えないものが多かったんです。本来なら私が生きているはずのないこの時代にいるのも、彼女の力によるものですから。ちなみに、私が二百年前の人間だということは……?」
「ええ、ネイシス殿におおまかな事情は伺っています。あの女神に眠らされてしまったために、あなたは今の時代を生きているのだと」
カエトスはナウリアに頷き返しながら話を続けた。
「彼女がその行動に及んだきっかけは、私の故郷リタームを襲った戦乱です。相手は現在も大国として君臨しているエディースミルドで、戦況は極めて深刻でした。何しろ相手の兵力はこちらの二十倍以上で、しかも援軍が見込めない状況でしたから。彼女は私に逃げるように諭しました。しかし私は領主の一族。領民より早く逃げ出すことなどあってはならないと、それを拒否しました。すると、彼女は私のことを案ずるあまりに私を眠らせたんです。年を取らずに時間だけが経過する眠りによって、私はこうして生き延びることができました。ですがそれは同時に家族を守る機会を奪われることでもあって──」
意図せずに声が詰まってしまった。カエトスの脳裏には姉や弟、両親の姿が浮かぶ。
襟をつかむミエッカの手が緩み、瞳が心配そうに揺れる。
カエトスは小さく息を吸い込んで記憶を押し込めた。
「……目覚めた私は彼女に言いました。もっと相手のことを考えてくれと。あなたの愛は独善的で歪んでいると。しかし女神にはその声は届かず、逆に呪いを課されることになったんです」
「それが……純粋な愛でのみ解けるという呪いの性質につながっているんですね。独善的でない愛があるものなら、証明してみせろと」
ナウリアが気遣わし気に眉を寄せながら言った。
「はい。他にもネイシスが関わったりと色々細かいやり取りはあるんですが、大まかな顛末はこんな感じです」
「あの女神め、そんなことをしてたのか。あんなのに散々馬鹿にされたと思うと、滅茶苦茶腹が立つ……!」
ミエッカがカエトスの襟をぎゅっと握り締めながら顔に決意を漲らせる。そしてカエトスの顔を再び覗き込んだ。
「まあいい。お前と女神との関係はだいたいわかった。あんなのにつきまとわれたり、戦に巻き込まれたりお前も色々大変だったんだな。でもこれからは大船に乗ったつもりでいていいぞ。その呪いは……わ、私たちがきっと解いてやるから」
途中までは勇ましかったものの、最後は顔を赤くしながら照れ臭そうに目を逸らすミエッカ。それをごまかすようにつかんでいた襟を放して寝台の上から降りた。
「ほ、他には何か言っておくことはないのか? 白状するなら今のうちだぞ?」
「それでは一つ。今は呪いを解くことを優先していますが、過去に戻る方法を探している最中でもあるんです。仮にもしそれが見つかったとしたら、過去に戻ることを認めていただきたいんです」
三姉妹がそれぞれ顔を見合わせた。代表してナウリアが尋ねる。
「そんなことができるのですか?」
「それは……わかりません。そんな方法が存在するのかどうかも不明です。ただ私の故郷は、原形を残さないほどに破壊されて、いまは無人の荒野になっています。そこに住んでいた人も家族も……何もかもなくなってしまいました。私が戻ったところで結果は変わらないかもしれませんが、それを阻止できるものならやってみたいんです」
カエトスにとってこれは悲願だった。非業の最期を遂げることになった領民と、そして家族たちを助けたいとの決意は消えることなくカエトスの内に在り続けている。諦めることはできない。
カエトスの決意を感じ取った姉妹はそろって沈黙した。それを破ったのは長姉ナウリアだ。迷いを感じさせる口調で切り出す。
「仮にカエトス殿が過去に戻れたとしましょう。その後、再び私たちのところに戻れるのですか? それなら断る理由はありません。ですが、できないというのなら……カエトス殿には申し訳ないのですが、私は容認できません」
「……わたしも。だって、もしそうなったらそこでお別れってことになるんでしょ? そんなのいやだもん……」
姉に続いて顔を曇らせたレフィーニアが反対の意思を表明した。ミエッカも同情的ながらも賛成はしかねるといった目つきでカエトスを見やる。
「その心配はたぶんいらないぞ」
そう声をかけてきたのはネイシスだった。宙に浮いたままカエトスたちを見下ろす。
「私は過去に戻してはやれないが、現状を維持したまま未来に送ることはできる。カエトスが私を訪ねて来れば私が上手くやってやれるだろう。二百年前の私は神域にこもっていたから、わざわざ探す必要もない」
「そういうことでしたら問題はありません。二人もいいですか?」
「ぜ、絶対に戻ってくるとここで約束するなら、私は別に構わない」
「カエトス。約束……できる?」
確認するナウリアに、ミエッカは腕を組んでそっぽを向きながら答え、レフィーニアが真剣な眼差しでカエトスにぐいっと迫る。
全てが不確定でありはっきりとしたことは何一つ言えない。しかしナウリアたちが向けてくれる想いを前に、あやふやな言葉を返したくはなかった。ゆえにカエトスは迷うことなく答えた。
「わかりました。約束しましょう。必ず戻ってくると」
三姉妹はほっと息をついて頬を緩めると、互いに視線を交わした。難題は超えたと、そう言ってるようだった。
カエトスが処刑の恐怖に戦慄していたのと同じように、彼女たちもカエトスとの会話が上手く運ぶかどうか緊張していたらしい。
じんわりと胸の奥が暖かくなる。自分のような人間に対してそこまで気を張っていたということが、申し訳なくもあり嬉しくもあった。
「カエトス殿。あなたの抱えている問題はこれでおしまいでしょうか」
そう尋ねるナウリアの声には、ようやく柔らかさが戻ってきていた。
もう他には何もない。カエトスはそう言いかけて、はっと口を噤んだ。まだ伝えていないことがあったのだ。それも下手をしたら過去に戻る云々よりも重大なことが。
カエトスは姉妹の様子を窺いながら慎重に切り出した。
「は……いえ、実はもう一つありまして。ここにやって来る前に傷つけてしまった人がいて、結婚する前に彼女たちに一言謝罪をと考えているのですが……」
カエトスが口にした瞬間、同情的だった姉妹の視線が一気に険しくなった。
「それは二股をかけていた相手ということか?」
「……三人なんですが」
ミエッカの問いに、右手の指を三本立てながら恐る恐る訂正すると、姉妹たちの目つきが一層鋭くなった。数瞬前までの和やかな空気はきれいさっぱりと消え去り、代わりに冷たく刺々しい気配が満ちる。
「い、一応お伝えしておきますが、一線は超えていません。せいぜい手をつなぐ程度で、それ以上の行為には及んでいません」
カエトスの弁明は緊張緩和の役にはまるで立たなかった。
それに一切触れることなくナウリアが氷のような声で問う。
「まだ未練があるのですか?」
カエトスは大きく深呼吸した。体温が変に上がり、喉が渇いて鼓動が早くなる。
適当な言い訳を並べて穏便に乗り切りたい衝動に駆られるが、それはしてはならないこと。ここまできたのだ。もう本心を話してしまおう。そうすれば楽になれる。
カエトスは意を決して口を開いた。
「ないと言えば嘘になります。振られたというか……悪事が露見したのが一週間ほど前のことで、心の整理がついたとは言えませんから。ですが関係を修復しようとは思っていません。そんなことはもう無理だと自覚しています。ただ事情だけは伝えたいんです。謝罪に行くと伝言を頼んでもいたので、その約束を果たすという意味でも一度話ができればと思ってるんですが……」
カエトスの告白を聞いたナウリアとミエッカ、そしてレフィーニアが視線を交わす。言葉を用いない打ち合わせは一瞬のうちに終了した。
「浮気がばれて逃げてきたのなら、わざわざ顔を合わせないほうがお互いのためだと思うがな。私なら、二股──いや三股か。そんなことをしでかした男の顔なんか見たくない。五体ばらばらに切り刻んでから、灰も残さず焼き尽くしてやりたくなるから」
まず口を開いたのはミエッカだった。語調はおとなしいものの、声自体が熱を持っているかのような殺意が滲んている。
続いてナウリアが辛辣さを内包した慇懃な口調で告げる。
「そうですね。相手の方も、不誠実でろくでもない男のことなどさっさと忘れてしまいたいのではないでしょうか。あなたが謝罪に行くことで、より不快にさせてしまうかと。レフィはどう思いますか?」
「わたしは──」
「ちょっと待て。どうしても行かなきゃならないようだぞ」
レフィーニアが答えようとしたところで、宙に浮いていたネイシスが割り込んできた。すーっと高度を下げて王女の眼前で停止する。
「王女よ、お前のイルミストリアを少し見せてくれ」
「……はい、どうぞ」
きょとんと首を傾げるレフィーニアが深緑色の本を差し出した。
ネイシスは、カエトスのイルミストリアを自身の長い金髪で保持しながらそれを受け取ると、自分の体ほどもある表紙をよっこいせとめくる。
「ほう、王女の本は〝遊惰な王妃の生きる道〟というのか」
「ネイシス、今のはどういう意味だ?」
「これを見ろ」
カエトスが声をかけると、深緑の本に目を落としたままのネイシスの金髪が生き物のように蠢いた。保持していた濃紺のイルミストリアをカエトスの眼前で広げる。
「たった今、あいつらの名前が出てきたんだ。どうやらハーレム要員は王女たちだけではなく、ティアルクの女たちも該当しているらしいぞ」
「……ほんとか?」
カエトスは本を手に取って目を通した。その内容に頭を抱えそうになって、辛うじて思いとどまる。イルミストリアに記されていたのは次のような記述だった。
『大陸暦二七〇七年五月十八日、五エルト十五ルフス(午前十時半頃)の刻、ティアルクにあるハンスの酒場にて、ウィステリア・ジェシカ、ウオリスト・シグネ、ピエニメッツァ・マイニとの関係を改善せよ』
確かに先日ティアルクの酒場で別れることになった女たちの名前が記されている。しかし例のごとく、内容は非常に端的かつ簡潔なもので、具体的な手段については何一つ記されていなかった。
いったいどうしろと言うのか。
カエトスが紙面に目を落として懊悩していると、王女が首を傾げた。
「あいつらって、もしかしてカエトスが謝りたいって言ってる人たちのこと?」
「そうだ。おそらくお前たちだけじゃ、カエトスの呪いを解くための愛情が不足しているんだろう。何しろそこに隠れてるラスク以下だったし。だから増員しようとしているんじゃないか?」
「おい、ネイシス……!」
レフィーニアに対してとんでもないことを口走ったネイシスをカエトスは慌ててたしなめた。
しかし時すでに遅し。カエトスは恐る恐るナウリアたちへと目を向けた。姉妹はそろって俯き、肩を落としていた。
「ん? どうしたんだ、項垂れて」
自分の言動の破壊力をまるで理解していないネイシスが不思議そうに呟く。
いち早く立ち直ったミエッカが、勢いよく寝台に飛び乗って来た。
「悪かったなっ、どうせ私は犬以下だっ!」
「お、落ち着いてください……! 私はそんなことは毛ほども思ってません……!」
またもや絞殺されそうになりながら、カエトスはミエッカの両手首をつかんで必死に宥めた。
「……時間です。時間が足りないだけです……!」
「わたしだって、それくらいすぐ追いついてみせるもん……!」
長女と末妹の歯ぎしりでも聞こえてきそうな決意の滲む声が耳に届く中、ネイシスはいつもと変わらない超然とした態度で声をかけた。
「それでどうするんだ? お前たちはカエトスを前の女たちと会わせたくないようだが、それをやってしまうと王女が死ぬぞ」
不穏な一言に、首を絞めるミエッカの手が緩んだ。姉妹とともに宙に浮いているネイシスを見上げる。
「それはどういうことだ?」
「うむ。カエトスはイルミストリアの指示を達成できなければ死ぬという話はしたな? ゆえに前の女と和解しろと出た以上、これを成し遂げないとカエトスは死ぬ」
「それはわかっている。でもその場合死ぬのはカエトスだけで、レフィは関係ないんじゃないのか?」
「たしかにそれはそこで完結するんだが、いまこれを見たら王女のイルミストリアにもカエトスと同じ制約を課すという文章があって、本文にはカエトスと結婚しろとの記述がある。つまり、お前たちがカエトスの行動を阻止してしまうと、イルミストリアの指示を達成できずにカエトスは死んでしまう。すると、カエトスと結婚しなければならない王女も、指示を達成できずに死ぬというわけだ」
「レフィが国王になりたくないと願ったから、カエトス殿と結婚しろとの記述があるというわけですね」
「……ごめんなさい」
ナウリアの一言にレフィーニアがしゅんと体を縮こまらせた。生き延びたいとだけ願っていれば、このような記述が現れることはなかったのにと、王女はそう悔いていた。その頭をナウリアが優しく撫でながら抱き寄せる。
「謝らないで。あなたの気持ちを考えなかった私たちにも責任があるんです」
「姉さんの言う通り、そんなことは気にしないでいい。ただ……そういう事情があるとなると、カエトスを振った女を受け入れるしかないってことか……」
妹に愛情あふれる眼差しを向けたミエッカが、次いで渋面を浮かべる。
「いえ、まだ手はあると思います」
ナウリアはそう言うと妹の頭に置いた手はそのままに口を開いた。
「ネイシス殿。イルミストリアの働き自体を停止させることはできないのでしょうか。カエトス殿とティアルクにいるという女性たちとの関係を再構築するのは、とても困難だと思われます。私たちがカエトス殿を引き留めなかったとしても、本の指示を達成できない可能性はとても高いでしょう。その一方、カエトス殿の呪いはネイシス殿とその子犬がいれば進行を止めておくことができますから、解呪の緊急性は薄れています。その時間の猶予を使って私たちで呪いを解ければ、女性たちとの関係を再構築する必要はなくなって、本の指示に従う意味もなくなると思うのです。いかがでしょうか」
ナウリアの提案に、ネイシスは王女のイルミストリアをぱたんと閉じながら天井を見上げた。しばらく間を置いてナウリアを見下ろす。
「……ふむ。当面の危機は本がもたらす災厄だから、それに絞って対処しようというわけだな。お前たちなら時間をかければ呪いも解けそうだし、試してみる価値はあると思う。ただ、その案の前提となる、本と所有者との関係を絶つ方法を私は知らないんだ。作った神の名がわかれば調べることもできるが、この本にはその類の情報が一切記されていない」
「レフィはどこでこの本を手に入れたんだ? 以前の持ち主からその辺りのことを調べられそうだけど」
ミエッカの問いにナウリアの腕の中でレフィーニアが首を傾げた。
「う~んと……実はね、よく覚えてないの。ここに連れて来られてすぐの頃に、抜け出したことがあったでしょ? そのときに偶然迷い込んだ本屋で見つけたから」
「……そうですか。カエトス殿はいかがですか?」
ナウリアが顔を曇らせながらカエトスを見やる。
「私が入手したのはティアルクの本屋です。つい最近のことなので、場所もこれを譲ってくれた老人も覚えています」
「その老人は、本について詳しいのですか?」
「私やネイシスよりも詳しいと思います。以前からこれについて知っているようでしたから」
「なるほど。その線から調べられそうですね。カエトス殿、その女性たちと接触する時間は、いつ頃と指定されていますか?」
「明日の五エルト(午前十時頃)過ぎです」
「では早速ティアルクに向かいましょう。ミエッカはネルヴェンの用意と護衛の人選を。私は各部署に報告した後、別殿に戻ってレフィの身支度をしておきます。準備が整ったら連絡してください」
「わかった」
「うん」
てきぱきと淀みなく指示を出すナウリアに、ミエッカは寝台から飛び降り、レフィーニアが力強く頷く。
「ち、ちょっと待ってください。これから全員で行くんですか?」
「ええ。明日までにカエトス殿が本と縁を切る方法を見つけ出さなければならなくなりましたから、もしあるとしたら、すぐにでも実行してしまいたいです。カエトス殿も、すでに信頼を失っている方と交渉する手間が省けますし、レフィを助けることにもなります」
「別にお前が昔の女に殺されないか心配してるわけじゃなくて、レフィを守るためについて行くだけだからなっ。親衛隊長として当然のことをしているだけのことだから、妙な勘繰りはするなよっ」
「私は正妻として、カエトスと関係のある人を全部知っていなくちゃいけないから。それとも、知られたら困るの?」
まさかそのようなことはないだろうとカエトスは声をかけたが、ナウリアは即座に否定し、ミエッカが顔を赤らめながら指を突きつけ、レフィーニアが鮮緑の瞳で見つめながら問い詰める。
「い、いえ。そのようなことはありませんが、王宮を留守にしてしまってよろしいのですか? 色々忙しいと思うのですが」
「何日も滞在するわけではありません。用件が済み次第帰って来ます。そのためのネルヴェンです。さあ、レフィ行きましょう。制服を用意させますから、カエトス殿も支度をお願いします」
ナウリアはそう言うと、妹たちとともに颯爽とした足取りで扉へと向かった。取っ手に手をかけながら、くるりと振り返る。
「結婚への障害は自分たちで取り除きます」
「決めた以上は、お前はもう私たちの夫で、これは決定事項だ」
「逃がさないから」
ナウリア、ミエッカ、そしてレフィーニアの順に力強く宣言すると、姉妹は部屋を後にした。
「……行ってしまった」
カエトスは静かに閉まった扉を見つめながら茫然と呟いた。
レフィーニアと姉二人には血のつながりはないということだったが、押しが強いところはそっくりだ。本当の姉妹よりも姉妹らしい。
カエトスはそんな感想を抱きつつ、宙に浮かぶネイシスを見上げた。
彼女は手に持った王女のイルミストリアを眺めて首を傾げていた。あとで返せばいいかなどと呟きながら、それを背中を覆う金髪の中にしまう。
「なあ、本当にこの本との縁は切れるのか?」
「わからん。だが一筋縄ではいかないだろうな。イルミストリアは神が作ったものだ。縁を切れるとしても、ろくでもない条件が課されることだろう。ただ、上手く縁が切れて、王女たちがお前の呪いを解ければ、当面の問題は全部解決だ。過去に行く方法を探すのに本腰を入れられるぞ」
ネイシスの声には起伏に乏しいながら、カエトスを元気づける響きがあった。
ただそれを聞いてもカエトスは心が高揚しない。
「どうした。やっぱり不安か?」
「いや、それももちろんあるんだけど、俺は俺自身の気持ちに呆れてるというか、うんざりしてるというか……」
カエトスはため息をつくと、小さな女神に本心を打ち明けた。
「このまま本との縁が切れなければいいと思ってる俺もいるんだ。そうすれば、本の指示って名目で王女たちに言い訳して、堂々とシグネたちと接触できる。そしてそのまま上手く仲直りできればいいってな。王女たちと結婚するって言ったばかりなのに。……どうしようもないな、俺は」
俯くカエトスの右肩にネイシスが小さな尻を乗せた。首筋に背中を預けながら淡々と感想を漏らす。
「確かにどうしようもないな。私の少ない経験からでも、ナウリアたちが怒り狂いそうなことは容易に予測できる」
「……それだけで済めばいいけどな」
カエトスの脳裏に凄惨な光景が浮かんだ。その中でカエトスはレフィーニアが行使した神の力と、ミエッカのリヤーラの力を容赦なく浴びせられて瀕死になっていた。
カエトスが背筋を震わせていると、小さな手が元気づけるように頬を撫でてくる。
「ただ、お前はそのどうしようもない願望に従って動いて、そしてそれが実を結んだ。次も上手くいくかはわからないが、今さら矯正もできないだろう? 悩むだけ無駄というものだ。お前はお前のやりたいようにひたすら歩めばいい。この本もそれを後押ししているし、私も手伝おう」
カエトスは右へと顔を向けた。
滝のように流れ落ちる金髪を艶めかしい仕草で押さえるネイシスが、いつも通りのあまり感情を出さない表情で覗き込んでいた。
「……ネイシスには世話をかけてばかりだな。元はと言えば、お前がこうしてこんなところにいるのは、お前んちに押しかけた俺のせいなのに」
「それは気にするなと言ったはずだ。お前と過ごす時間は、神域にいたときよりも何倍も濃密で退屈しない。お前以外の人間にいらついたり腹が立つこともあるが、それ以上に面白いことがたくさんある。私はこれを楽しんでもいるんだぞ」
申し訳なく言うカエトスにネイシスは小さく笑って見せた。
それを目にしたカエトスの脳裏に、これまでにネイシスに助けられた記憶が蘇った。それとともに胸中に強く熱い想いが湧き起こる。
カエトスはネイシスの体を左手でそっとつかむと右前腕に乗せた。そして金色の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「神さまにこういうことを言うのは不遜だとは思うけど、俺はお前も好きだぞ。お前のためならいつでも命を張るし、何でもしてやる。それがせめてもの恩返しだ」
カエトスの告白に、ネイシスは笑みを引っ込めてじっと目を見つめ返した。
何か言おうとして、その視線がすっと右へと動く。そこには椅子の下に避難していたラスクがいた。
短い手足を一所懸命ばたつかせながら自力で寝台をよじ登って、カエトスの膝の中へと駆け寄ってくる。
「お前も好きだって。命の恩人なんだからな」
カエトスがじゃれつくラスクの頭を左手で撫でていると、右腕に乗っているネイシスが静かに腕を組んだ。子犬へと視線を注ぎながら、おもむろに口を開く。
「……私がお前を愛していれば、ラスクみたいに抱き着きたくなったり、心が高揚したり落ち着かない気分になったりするのだろうが、嬉しいと思うだけで、それ以外の感想が出てこない。お前のことは他の何よりも好意的に思っているのに、そして様々な事例と照らし合わせて考えるに、これはきっと愛のはずなのに、やっぱり違うらしい。私がお前を愛せれば、女神の呪いなどさっさと解いてやれるのに、私の愛はどこに行ってしまったのだろうな」
その声は普段と変わらず淡々としていながら、どことなく悲し気な響きを伴っていた。
ネイシスには愛という感情が欠落しているらしく、ネイシスがどれほどカエトスに好意を抱いても、女神にかけられた呪いは寸分も後退することはなかった。
誰にでもあるはずの愛が自分の中にないことが彼女にとっての最大の懸案であり、それをどうにかすることがカエトスと行動を共にしている大きな理由の一つでもある。
カエトスはそこはかとなく表情を曇らせるネイシスの頭を人差し指で優しく撫でた。
「お前みたいな優しい奴が愛を持っていないわけがないんだ。きっと見つかるさ」
慰撫するカエトスの指にゆらゆらと揺らされていたネイシスの首が、右に傾いたところでぴたりと止まった。そして微かに顔を綻ばせる。
「……うむ。やっぱり私はお前のことが好きなんだな。人間に慰められているというのに、全く不快な気分にならない。きっと愛を見つけ出したら、お前のことを思いのままに愛するんだろう」
「それはそれで嬉しいんだけど、そのときは王女たちを説得しないといけないな」
女神の飾らない真っ直ぐな言葉は、カエトスにとってどうにも面映ゆかった。苦笑を浮かべながら答えると、ネイシスはさらに想像もしなかったことを口にした。
「ではそれに備えて、あいつらと仲良くなっておこう。そうすれば私も円滑にハーレム要員になれる」
「……お前も混ざるつもりなのか?」
「駄目か?」
カエトスが目を丸くして尋ねると、ネイシスはなぜ聞き返されるのかまるでわからないと言わんばかりにきょとんとした表情で首を傾げた。
「いや、だってなあ、神さまを侍らせる人間なんて聞いたことないぞ」
「じゃあお前が初めての人間になればいい。お前はそれだけの価値があるんだから。ただそれも、きちんと生き延びたあとの話だがな」
ネイシスは普段通りの何気ない口調で言うと宙へと浮き上がった。金髪を翻しながら視線を部屋の入口へと転じる。
「さあ、カエトス。じきに使いの人間が来る。当面の問題を片付けに行くとしよう」
「そうだな」
自分を愛してくれる存在がいるのだ。前途は多難で先は見通せないが、きっと上手くいくことだろう。
カエトスは寝台から飛び降り、力強く足を踏み出した。
イルミストリアによるやさしいハーレムのつくり方 冬空 @huyuzora
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