第8話 真夜中の邂逅
どこからともなく虫の音が聞こえ、少し冷たい風が肌を撫でる。
時刻は十一エルト(午後十時頃)の手前。静けさと暗闇に包まれた兵部省の敷地内の北東付近にカエトスは身を潜めていた。
すぐ脇には敷地を区切る石塀とそれに沿って植えられた木々があり、少し離れたところには三階建ての建造物が何棟も立ち並んでいる。明かりが灯っている部屋は片手で数えるほどしかない。親衛隊の宿舎よりもかなり大きいことから、一般兵卒用の宿舎だろうか。
親衛隊の宿舎は十エルト半(午後九時ごろ)を過ぎた辺りには、足音や話し声などの生活音がぱったりと収まっていた。どうやら宿舎内は就寝時刻が決まっているらしく、それはどこも同じようだ。
カエトスがこんなところにいる理由は無論、イルミストリアに指示された時刻までにユリストア神殿に向かい、侍女長ナウリアと接触するため。仮眠をとっていたカエトスはネイシスに起こされた後、物置の窓からこっそりと外に脱け出し、敷地内の各所に焚かれた篝火を回避しここまでやって来たのだ。
物置の寝台には、カエトス自身が寝ていると見せかける細工を施してはいるが、それも直接手で触れられては露見してしまう。目的を果たした後は、速やかに撤収しなければならない。
カエトスはそんな焦りを抱えながら眼前にそびえる崖を見上げた。内郭と中郭を隔てる断崖だ。月が雲に隠れているために薄らとしか見えないが、その圧倒的な存在感は微塵も減じてはいない。ユリストア神殿に行くにはこれを越えなければならないのだ。
「こっちに人気はない。いけるぞ」
右肩に立つネイシスが耳元で囁いた。彼女の役目はカエトスの背後の監視だ。
カエトスはそれに頷くと、左手に持った木材を夜闇にかざした。
この角材は物置に積み重ねられていた椅子の脚をもぎ取ったもので、長さは三十レイトース(約三十六センチメートル)強。表面には様々な角度や深さの切れ込み、大小の穴や窪みがある。カエトスが背嚢に忍び込ませていた小刀を使って加工した跡だ。小刀の刃渡りは人差し指程度しかなかったため、没収の対象から外れたらしい。
これを何のために作ったのかといえば、それは源霊に呼びかけるためだ。カエトスの剣は現在没収されている。その代替品として間に合わせの物を手作りしたというわけだ。
ただし、この角材が源霊に呼びかける力は非常に弱い。カエトスの剣は神鉄と呼ばれる特殊な金属製で、その名の通りそこには神の力が宿り、神の一部ともいえる格を持っている。そのため源霊へ呼びかける力も非常に強力なのだが、この角材はただの木。その力は神鉄の足元にも及ばない。
「剣を呼べればよかったんだがな」
「仕方ないさ。周りに誰がいるかわかったもんじゃないし」
心なしかすまなさそうに言うネイシスに、カエトスは元気づけるように答えた。
没収されてしまったカエトスの剣を構成する神鉄はネイシスが作ったものであり、そこに宿る力も彼女のもの。そのためネイシスは剣を自分の体の一部として認識でき、自分の意思で呼び寄せることもできるのだ。
ではなぜ剣を呼ばないのか。
カエトスが口にしたように、ネイシスは剣を呼び寄せることはできるが、現在の周りの状況がさっぱりわからない。剣に目がついているわけではないため、誰かが監視していたとしてもそれを察知できないのだ。
しかも剣は、いきなりカエトスの手元に現れるのではなく、空中を飛翔してやってくる。つまり、その道中に壁や窓などの障害物があれば、それを突き破ってくるというわけだ。そしてそのような破壊活動を行いつつ剣が向かう先には、親衛隊宿舎を抜け出したカエトスがいる。とてもじゃないが、剣を呼ぶことなどできない。
以上の理由から、カエトスはこの即席の木材を使わざるを得ないのだった。
「それじゃあ行くぞ」
カエトスは見えない物体を殴打するように木材を眼前の空間に走らせた。
虫の音に混じって、ささやかな風切り音が耳に届く。動作が二十数回に達したところで、鮮やかな手つきで逆手に持ち替えた。夜気がぴりっと張り詰める。
カエトスの出した指示に運動エネルギーを司る源霊ミュルスが従った証だ。その内容は『汝が生みし力を我が体に宿せ』。
カエトスは膝を曲げて地面を蹴った。強い加速度とともに、常人ではとても考えられないような高度にまで跳躍するも、それは八十ハルトース(約九十六メートル)はある崖の高さの十分の一にも達していない。
カエトスは上昇速度が弱まったところで木材を順手、逆手と素早く持ち替えた。再度ミュルスが働き、カエトスに力を付与。カエトスはそれと同時に斜面の突起を蹴り、再び跳躍する。
一度目にミュルスへの指示に用いた動作は二十回ほどだったが、二度目は僅か二つの動作でミュルスは応えている。これは一度目の命令時に『二度目以降の実行命令には、最初の指示をそのまま実行しろ』との一文を追加したためだ。これにより木材を逆手に持ち替えるという命令動作だけで、『汝が生みし力を我が体に宿せ』という命令が実行されたのだ。
カエトスは命令の短縮化が上手く機能していることに安堵しつつ、足をかける位置や姿勢制御に細心の注意を払いながら跳躍を繰り返した。それが十回を超えたところで、ようやく崖の頂部に設けられた石塀に手が届いた。右手一本でぶら下がり小声で尋ねる。
「ネイシス、向こうに誰かいるか?」
「いや、誰もいない。早く上がってしまえ」
石塀の上から小さな頭を覗かせたネイシスが、人差し指をくいくいと曲げながらカエトスを促す。
カエトスは腕一本で体を引っ張り上げて塀を乗り越えた。地面に着地し、体を屈めてほっと息をつく。
木材の加工精度が甘ければ源霊が指示に応えないことも当然あり、そうなればカエトスは真っ逆さまに落下する危険があったのだ。
「神殿は……向こうか」
ネイシスが右肩に座るのを横目にカエトスは中郭を見渡した。目の前には無数の柱からなる柱廊があり、柱の合間には夜闇に呑まれた庭園が見える。そのさらに先、中郭の最奥に篝火の明かりを受けてぼんやりと浮かび上がるユリストア神殿が確認できた。
カエトスは細心の注意を払って慎重に歩を進めた。正殿と別殿とを結ぶ柱廊を素早く横切り、真っ黒な水を湛える池の横を走り抜け、庭園のそこかしこに植えられている木々の陰に身を潜めて、巡回する歩哨の目から逃れながら目的地を目指す。そしてようやく神殿の詳細がわかる程度にまで接近できた。距離はおよそ二十五ハルトース(約三十メートル)。神殿を南西側から臨む位置だ。
「……さすがにこの辺りは人が多いな」
カエトスは生垣の下に伏せながら様子を窺った。
設置されている篝火や歩哨の密度がこれまでの道程の倍ほどはある。
通常の警備体制がどの程度かわからないが、カエトスが神殿に侵入した件などを受けて普段より多くなっているものと思われた。この警戒を潜り抜けて、どこかにいるはずのナウリアを発見しなければならないのだ。
「これだけうじゃうじゃいると、透明化したくなるな」
「まったくだ。例の不審者が姿を消してなければ使ってるところだ」
若干忌々しさの滲む声で言うネイシスにカエトスは相槌を打った。
カエトスはミュルスに呼びかける道具と同じ要領で、光を操る源霊イルーシオに指示を出す道具も作れる。そして実際に例の軟禁部屋でそれを製作し、寝台の周りに偽りの光景を〝設置〟してきた。
当然、透明化することも可能であり、それを利用すれば見張りの目を気にすることなく中郭へと続く階段を利用できたのだが、それをわざわざ避けたのは、レフィーニアを暗殺しようとした不審者が透明化の技を使っていたからだ。
仮にカエトスが透明になるところや解除する現場を目撃されでもしたら、カエトスこそが不審者と断じられて即刻処刑されかねない。意のままに透明化の実行と解除ができればその懸念もほとんどなくなるわけだが、所詮はカエトスの手作りの道具。意に反して姿が見えてしまう可能性もある。そのためにその手法は却下となったのだ。
「ネイシス、時間は?」
「あと五ルフス(約十分)を切った。次の予定もあるし、少し急げ」
カエトスの右肩に座るネイシスがもぞもぞと尻を動かしながら、背中を覆う金髪の中から長楕円型の時計を取り出した。盤面の光る数字に目を落とし、金の瞳を神殿へと向ける。
カエトスは焦る心を鎮めつつ、イルミストリアに現れた記述を思い返した。
本はナウリアがいる場所を『神殿付近』と表現していた。つまり彼女は神殿の中ではなく周辺にいるはず。
ならばナウリアはなぜ神殿にやって来るのか。思い当たることと言えば、カエトスが証言した不審者に関係することだ。
彼女はレフィーニアの身を強く案じていた。その想いが高じて、自分自身で不審者の正体をつかもうと神殿にやって来る。となるとナウリアが向かうのは、カエトスが不審者を目撃したと告げた神殿東側。
「なるほど、その可能性は高い。では向こう側だな」
「ああ。行くぞ」
カエトスの思考はネイシスに筒抜けだ。それを読み取ったネイシスに答えると、カエトスは生垣の下から這い出した。伏せたままじりじりと前に進む。
現在地から神殿東側へ行くには、正殿から神殿へと真っ直ぐに北に延びる石畳の通路を横切らなければならない。そこには等間隔に篝火が設置されていて、歩哨も行ったり来たりしている。
カエトスは石畳の近くまで接近すると、篝火の合間に横たわる細長い暗闇を一息に駆け抜けた。通路を渡った先の木陰に回り込んで身を潜める。誰も声を上げていない。見つからずに済んだようだ。
小さく安堵の息を吐きつつ、姿勢を低くしたまま北東へと進む。ユリストア神殿は東側に突出した部分があり、そこが今日の昼間カエトスが侵入した禊の間だ。カエトスはそれを東方向から確認できるところまで移動し、近くの生垣に隠れた。
神殿の周りには威容を演出するかのようにいくつもの篝火が置かれていて、大勢の歩哨が警戒に当たっていた。見える範囲だけでも三十人以上は確認できる。
予想が合っていればこの付近にナウリアはいるはず。
カエトスは慌ただしく視線を走らせた。しかし目に映るのは夜の闇に沈む木々や生垣、篝火に照らされて影絵のように蠢く歩哨たちのみ。ナウリアらしき人影は見当たらない。
もう少し移動してみるか。
カエトスが立ち上がりかけたそのとき、ネイシスが耳元で囁いた。
「カエトス、いたぞ」
「……どこだ?」
褐色を帯びた細い腕が、神殿裏手を指している。そこにも篝火が焚かれていたが、ネイシスが指すのはその光の届かない暗闇の中だ。
カエトスは目を細めて見たものの、暗いということしかわからなかった。
「神殿を生垣が取り囲んでいるのはわかるな? その裏辺りにしゃがんでいる。陰になってて顔はよく見えないが胸の大きさからして、あの女に違いない」
ネイシスの不意をついた一言に、カエトスはナウリアの肢体を強制的に思い出させられてしまった。
たしかに彼女の胸は大きかった。油断するとついつい目が吸い寄せられてしまうほどに。
カエトスは慌てて雑念を振り払った。今はそれどころではない。
「……何をしてる?」
「様子を窺っているようだな。神殿に近づきたいが歩哨がいてできない、という感じか。どうする。捕まえるか?」
「そうだな。とりあえず組み伏せよう。話しかけて暴れられたら困るし、侍女長じゃない可能性もある。言い訳も思いついた」
カエトスは幾つかの対応をまとめると、手にしたままだった椅子の脚を懐に入れた。生垣に身を隠しながらネイシスが示した場所へと進む。
カエトスの目にも詳細がぼんやりと映り始める。ネイシスの言う通り、生垣を盾に神殿の様子を窺う人影があった。カエトスはその斜め後ろから接近する形になっている。
「動くな」
カエトスは手を伸ばせば届く位置にまで忍び寄ったところで小さく声をかけた。
人影がびくっと体を震わせると同時に、背後から左手を相手の口元に回す。それに遅れることなく右手で相手の右手首をつかんで背中にねじり上げる。必要以上に苦痛を与えないように注意するのも忘れない。
(カエトス、当たりだ)
すでに姿を消しているネイシスの声が頭の中に届く。
カエトスは組み敷いた人影を背中側から覗き込んだ。そこには見覚えのある顔があった。動きやすような全身黒ずくめの服装でありながら、彼女の放つ気品と美貌は健在だった。
レフィーニアに仕える侍女長ナウリアだ。
イルミストリアの指示通りに発見できたことに安堵しつつ、用意していた声をかける。
「申し訳ありません。侍女長殿でしたか。てっきり件の不審者かと思ったもので。手を離しますが、声を出さないでいただけますか?」
ナウリアはあからさまの不審といくばくかの安堵が入り混じった目で、背後から顔を覗き込むカエトスを見返した。少しの間を置いて小さく頷く。それを受けてカエトスはナウリアを解放した。
万が一騒がれたときに備えて注意を向けるが、ナウリアにその様子はなかった。地面に膝をそろえて座り直し、軽く右手首をさすりながら、カエトスをじろりと睨み付ける。
「カエトスと言いましたね。なぜこんなところにいるのですか。あなたはいま、親衛隊の隊舎に軟禁されているはず」
返答如何によっては然るべき対応をとる。暗がりの中でもナウリアの目がそう言っているのがはっきりとわかった。
カエトスはとにかく刺激しないように冷静に穏便に話しかけた。
「それは……悪いとは思ったのですが黙って脱け出してきました。不審者がいたという証拠があれば、私の証言の信憑性が増します。それを自分の手で見つけてやろうと思ったんです。それで、そこまで考えたところで今晩、不審者が現場にやって来て証拠の隠滅を図る可能性に思い当たりまして、居ても立っても居られなくなったというわけです」
ナウリアは一度呆れたように目を丸くすると、険しい表情を浮かべた。
「あなたという人は……今日の神殿でのことといい、もう少し規律というものを重視すべきではないですか?」
「は、ご指摘はもっともで、申し訳ないとは思っています。ただこれも王女殿下の御身を思えばこそのことでありまして。それに、侍女長殿がこの場にいらっしゃる目的も、私と同じなのではないでしょうか?」
カエトスは地面に膝をつき、平身低頭の姿勢で謝罪しつつ、追及をはぐらかす意味を込めて用意していた話題を振った。その一瞬、ナウリアの目が微かに揺れる。
どうやら彼女が不審者の手掛かりを求めてやって来たという予想は当たっている。
カエトスはそう判断すると、矢継ぎ早に話しかけた。
「やはりそうなのですね。そこで一つ提案というか、お願いがあります。見たところ侍女長殿は神殿周辺を調べあぐねているご様子。そこで私があそこを調べて、得られた情報をお伝えしましょう。その代わりに、私がここに来たことを内密にしていただきたいのです。このようなことを頼める立場にないのは重々承知していますが、私の願いは不審者の正体を突き止めて、殿下に恩返しをすること。どうかお願いします」
わざわざ夜遅くに人目を忍んで、歩哨の警戒厳しい神殿にまで足を運んでいることから、ナウリアに強い思い入れがあるのは間違いない。ゆえに、この交換条件に乗ってくれるはず。
その証に、警戒一色だったカエトスを睨む瞳が明らかな迷いに揺れていた。どのように対応すべきかそれを目まぐるしく思案しているのだろう。
カエトスはどう贔屓目に見ても非常に怪しい。そのような人物の言葉を受け入れていいのか、迷うのは当然だ。しかしここは提案に乗ってもらわなければ困る。とても困る。
祈るように言葉を待つこと数ヴァイン。ナウリアがおもむろに口を開いた。
「……あなたはずいぶんと賢しい頭をお持ちなのですね。いいでしょう、その取引に応じます。ただ、こちらにも条件があります」
カエトスがほっと息をつく間もなくナウリアは続けた。
「まずこの私に対して絶対に嘘をつかないこと。それと、私がここにいたことを他言しないこと。もしそれを破った場合、あなたを社会的に抹殺します」
「ま、抹殺……?」
優雅な容貌に似合わない不穏な単語に、カエトスの背中に冷たいものが走った。
ナウリアが小さく頷きながら、あの冷たい眼差しでカエトスを見つめる。
「あなたに襲われたとあちこちに吹聴して回ります。そうなればあなたに待っているのは極刑のみ。それが嫌ならくれぐれも──」
「わかりました、従います、だからそれだけはやめてください」
カエトスは地面にこすり付けんばかりに頭を下げながら、即座に条件を受け入れた。
(血はつながっていないと言っていたが、この女、間違いなく王女の姉だな。脅し方がそっくりだ)
(……まったくだ)
呆れを含んだ声で言うネイシスに、カエトスは内心冷や汗をかきながら同意した。
下げたままの後頭部に早速ナウリアが命ずる。
「よろしい。ではカエトス殿、早く調べてください。あまり長居するわけにはいきませんから」
ナウリアの視線は生垣の合間に見える神殿へと向けられていた。
神殿と生垣との距離はおよそ十五ハルトース(約十八メートル)。そこを定期的に歩哨が行き来しているため、悟られずに近づくのは不可能だ。
最前の方法は透明化することだが、源霊イルーシオに呼びかける道具は物置に置いてきたし、そもそもナウリアの目の前で透明化を披露などしたら、別の理由で即座に処刑される。
となると方法は一つしかない。
(ネイシス、頼めるか?)
(そうくると思ったから、もう調べてある)
右肩の小さな感触が少し前に消えていたのだが、ネイシスは先を読んで動いていたようだ。
(さすが気が利くな。それでどうだった?)
(足跡らしきものはあるが、多すぎてよくわからない。どうも、最近大勢の人間がこの辺りを歩いたようだ。どれが奴のものか判別がつかないし、目立った物証もない)
「……カエトス殿。聞いているのですか?」
「失礼。たった今調べ終わりました。手がかりはないようです」
怪訝そうに眉をひそめるナウリアに答えると、その顔はみるみる疑いの色に染まっていった。
「……あなたは何もしてないですよね。なのに、なぜわかったんです? どのように調べたのですか」
出まかせを言っているのではないのか。ナウリアの目は明らかにそう言っていた。
カエトスは疑念を払拭するべく、慌てて弁明する。
「これは王女殿下にもお教えたことなんですが、なるべく知られたくないのです。どうか内密に」
ナウリアはじっとカエトスから視線を外さないまま、目で先を促す。それを承諾と受け取りカエトスは続けた。
「実は妖精に頼んで見てきてもらいました」
「妖精ですって?」
「そこにいます。侍女長殿の左側」
カエトスが指を差すと、その延長戦を辿るようにナウリアの視線が動く。そしてそれを見た瞬間、息を呑んだ。
暗闇に褐色の肌の小さな腕が浮かんでいた。ネイシスの腕だ。ナウリアの髪の毛を一房握って、くいくいっと引っ張っている。そして顔に恐怖を滲ませたナウリアがまじまじと見つめる中、ふっとかき消える。
「いまは腕だけ見えていましたが、ちゃんと全身があります。それで妖精の話によれば、最近大勢の人間があの辺りを歩いたようで、足跡はあるもののどれが不審者のものかわからないとのことです。心当たりは?」
カエトスに尋ねられて、ナウリアの顔からようやく驚きが消えた。気を取り直すように一度深呼吸して口を開く。
「……数日前に一斉に神殿周りの清掃を行いました。きっとそれでしょう」
「なるほど。その他にも、不審者につながる物などがないか調べたようですが、特に見当たらなかったようです」
「そうですか……」
そう言ってナウリアは目を伏せた。もう一度息をゆっくり吐いてから、険しい表情でじっと考え込む。
この場で有力な証拠が見つかることに賭けてはいなかったが、それでも不審者につながる何かが見つかること期待していたのだろう。彼女の声音にはそこはかとない失望が漂っていた。
(カエトス、そろそろサイアットとやらに行く時間だぞ。早くこの女から場所を聞き出してしまえ)
ネイシスが冷静そのものの声で急かしてきた。
そう。ナウリアとの会話には別の目的もあったのだ。
しかしどうやって王子の住まいの話題に持って行けばいいのか。いきなり切り出せば不審がられる。自然な流れで会話を持って行かなければ──。
「残念ですが仕方ありません。妖精がいるのは事実のようですし、あなたもどうやら嘘はついていないようです。見つかる前に戻りましょう」
カエトスの考えがまとまる前に、ナウリアは立ち上がろうとする。
まずい。このまま戻られてはサイアットの場所を聞きだせない。
「……どうしました? 戻りますよ」
膝をついたナウリアが首を傾げた。動こうとしないカエトスに眉をひそめる。
これ以上躊躇している余裕はない。カエトスは意を決して単刀直入に切り出した。
「いえ。私はもう少し調べたいことがありまして、できましたらクラウス王子の住まいの場所を教えていただきたいのですが……」
「王子の……? なぜですか。理由を聞かせてください」
当然ながら、ナウリアは馬鹿正直に答えることはなかった。即座に聞き返してくる。
「これはあくまでも仮定の話として聞いてください」
ここからが賭けだ。吉と出るか凶と出るか。
ナウリアは、レフィーニアのことを常に第一に考えている。ゆえに十中八九成功するはず。しかしクラウスに対して好意的である可能性もないとは言い切れない。
カエトスはナウリアの様子に細心の注意を払いながら話し出した。
「先ほど王女殿下との話の中で、殿下が次期国王の立場にいらっしゃること、それも現国王よりも強い正当性を持っているということを伺いました。そしてクラウス王子は殿下が現れたことで次期国王の座を追われたことも。そこからの推測なのですが、昼間の不審者の目的が王女殿下の暗殺だったとした場合、一番得をするのはクラウス王子になります。ですが不審者の行動は阻止され、王女殿下は無事だった。となると次なる一手を考えるはずです。それも早急に。それがいま、ということです」
カエトスが話す間、厳しい表情でじっとカエトスを見つめていたナウリアは、話が終わると地面に目を落とした。押し黙ったままぴくりとも動かない。
(カエトス、三ルフス(約六分)を切ったぞ)
後頭部を何か小さなものが叩いた。ネイシスによる合図だ。
ナウリアは声をかけられる雰囲気ではなかった。殺気のような鬼気迫る気配が漂っている。
これがどこに向けられているものなのか。カエトスなのかクラウスなのか、それとも別の何かなのか。
カエトスは恐る恐る返答を促す。
「侍女長殿。王子の住まいは──」
「正殿の西側です」
思い詰めた表情のままナウリアが答えた。
「ありがとうございます。それでは私は──」
カエトスは要請に応じてくれたナウリアに一礼しながら、早速行動に移るべく立ち上がった。しかしその足が止まる。ナウリアがカエトスの袖を右手でしっかりと握り締めていた。
「あの……これは?」
「私も行きます。あなたは監視対象なのです。王城内をこんな時間に自由に行動させるわけにはいきません」
カエトスは一人で調べるつもりだった。ナウリアとともに隠密行動をするのはさすがに危険過ぎるからだ。
拒絶を許さない迫力に気圧されながらも、カエトスは何とか抗弁した。
「ですが、侍女長殿はこの場にいることを知られたくないご様子。ここは戻られたほうが──」
「断るのでしたら、あなたをここで破滅させます」
「わかりましたから、服に手をかけるのはやめて下さい……!」
カエトスは慌ててナウリアを制した。ナウリアのたおやかな手指が、黒ずくめの服の胸元を鷲づかみにしていたのだ。それとともに確信してもいた。やはりナウリアは王子の味方ではないのだと。
彼女の目には必死さがある。それは誰かを切に案ずるものであり、ナウリアがそこまで想う相手はただ一人のはず。
(カエトス、安心してる暇はないぞ。あと二ルフス(約四分)だ)
ネイシスが踵でカエトスの肩を叩いて急かす。
カエトスはネイシスに了解した旨を伝えつつ、ナウリアに声をかけた。
「では侍女長殿、先導していただけますか」
ナウリアが硬い表情で頷いて、歩き出そうとする。ところがいきなりつまずいた。生垣に向かって派手に倒れ込みそうになる。
カエトスは咄嗟に手を伸ばした。物音を立てる前にナウリアの腰を支えて事なきを得る。
「……ふう。大丈夫ですか?」
一瞬で全身に冷や汗が噴き出した。心臓が早鐘のように鳴り響く。
カエトスに支えられて姿勢を戻したナウリアが、視線を逸らしながら小声で言う。
「……手を引いてもらえますか? 暗くて歩きにくいんです」
(カエトス、いいから急げ。時間がないぞ)
ネイシスがさらに急かす。ナウリアの移動速度に合わせていたら間に合わないかもしれなかった。
カエトスはナウリアに背を向けると、彼女の左腕を自分の左肩にかけた。手早く右腕も右肩にかけて彼女の体を背負う。
「な、何を……!」
「お叱りは後で受けます。今は少し我慢を」
動揺するナウリアに短く告げつつ、カエトスは瑞々しい弾力を持った太ももを抱えて走り出した。
ナウリアが首にしがみついたことで、背中に当たる温かくて柔らかい二つの豊かな感触がより鮮明に感じられた。そしてほのかな石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。
カエトスはそれをすぐさま頭の片隅に追いやった。イルミストリアの提示した時間に間に合わなければ終わりなのだ。雑念に惑わされている場合ではない。
神殿は中郭の北にある。一方、クラウスの別殿は正殿の西とのこと。南を向いているカエトスの右前方に位置しているはず。
カエトスは可能な限り姿勢を低くしながら、素早く移動した。神殿へやって来たときのように庭園の木々を利用して露出を減らしつつ、丁寧に手入れされた花々の群れの横を駆ける。
幸い、誰にも発見されることなくナウリアが指示したと思われる建物に辿り着いた。それを囲む庭園の木陰に身を潜める。
「ここで合ってますか?」
カエトスはナウリアを背中から下ろし、地面にしゃがみ込んだ。庭を挟んだ先にある建物を観察しながら尋ねる。
「ええ。クラウス王子の住むサイアットです」
カエトスと同じく地面に膝をついたナウリアは、乱れた裾や襟元などを整えながら、心なしかむっとした声で答えた。
やはりいきなり背負ったのはまずかったようだ。ここにきて好感度がどんどん下がっている気がする。
ナウリアがハーレム要員だったとして、果たしてこのままで大丈夫なのだろうか。
そんな懸念を抱えつつ、カエトスは目の前に意識を集中させた。
別殿サイアットは、まだ眠ってはいなかった。明かりが漏れているガラス窓が二階に一つある。そう広くはない部屋のようだが、窓には遮光用の布がかかっていて中の様子を窺い知ることはできない。それ以外に窓は十以上あるが、いずれも暗闇に包まれていた。
「それで、これからどうするつもりなのですか?」
ナウリアに尋ねられて、カエトスは言葉に詰まった。
こっそり忍び寄って聞き耳を立てようと思っていたのだが、サイアットの警備は厳重だった。庭には当然のように篝火に照らされた歩哨たちが規律正しく警備に当たっており、またサイアットの屋上にも同様の警備体制が敷かれている。これでは姿を消しでもしない限り、確実に見つかってしまう。
カエトスが焦りながら急いで方法を模索していると、再び後頭部を小突かれた。姿を消したまま追従してきたネイシスだ。
(私が聞いてきてやろう)
(それは助かるんだけどな、お前から内容を聞いたとしてもそれは有効なのか? 本の記述は主語が抜けてるから、何とも言えないんだが、俺が直接聞かなきゃならないような気がするんだ)
(ふむ、それもそうだな。ではこうしよう。私が仲介して会話をお前にも聞こえるようにしてやる。これで問題ないはずだ)
(そんなことできるのか?)
(造作もない)
自信たっぷりに答えるネイシス。
(……ネイシスには世話になりっぱなしだな。呪いが解けたらちゃんと恩返しするからな)
(楽しみにしている。では行ってくる)
その言葉とともに、首筋辺りで微かに空気が流れた。ネイシスが宙を移動した証だ。
ナウリアが焦れたように袖を引っ張る。
「カエトス殿。聞いているのですか?」
「すみません。妖精と打ち合わせをしていました。彼女が、あの中の会話をこちらに伝えてくれるそうです。しばらく待ちましょう」
「会話を……? それはここにいながら、あの中での会話を聞けるということですか?」
「そのようです」
「それを私にも聞こえるようにできませんか?」
ナウリアがずいっとカエトスに体を寄せてきた。その瞳には暗がりでもわかるほどに強い光が宿っている。
(ネイシス、聞こえたか?)
ナウリアの眼光に気圧されそうになりながらカエトスが聞くと、すぐに答えは返ってきた。
(その女の肌に直接触れろ。そうしたらあとはこっちで何とかしてやる)
(……できるのか。神さまってのはすごいな)
本当に可能だとは思っていなかったカエトスはネイシスに感嘆の念を送りつつ、早速それを実行した。
「……これは何の真似でしょうか」
ナウリアがすっと右手を持ち上げた。その目は不審なものを見るように細められている。
カエトスはナウリアの手を甲側からつかんでいた。男とはまるで異なる柔らかい感触が温もりとともに手のひらに伝わってくる。
「体に触れると、声がそちらにも届くそうです。手が嫌でしたら──」
カエトスはナウリアの服装をじっと観察した。露出の少ない衣服であるため、肌に触れられる箇所は限られている。手以外となると残るのは──。
「耳たぶでも触りましょうか?」
「手で構いませんっ」
カエトスがナウリアの耳に目をやると、それから逃れるようにナウリアは体をよじった。次いで非難がましい目を向けながらカエトスをたしなめる。
「まったく……あなたはもう少し遠慮というものを覚えるべきです。いきなり私を組み敷いたことといい、先ほどの一件といい、断りなく女の体に手を触れるとは、礼儀知らずと罵られても仕方ないことなのですよ。その程度のこともご存じないのですか?」
「侍女長殿、少しお声が……」
周りに目を向けながらのカエトスの指摘に、ナウリアははっと口を噤んだ。
いつ歩哨が通りがかっても不思議ではないこの状況で、迂闊な会話は命取りになる。それを察したナウリアはすぐに説教を止めたものの、眉間のしわは残ったままだ。カエトスを責めるようにじっと睨む。
またしても機嫌を損ねてしまったらしい。
カエトスは居心地の悪い視線にさらされながら、とにかく場を修復するために頭を下げた。
「申し訳ありません。何分急いでいたもので、そこまで気が回りませんでした。以後気を付けますので、ここはどうか大目に見ていただけ──」
カエトスは謝罪の口上をぴたりと止めた。
ナウリアの眉間からはしわが消え、その口から感嘆の声が漏れる。
「本当に聞こえてくるとは……」
カエトスの頭の中では、ネイシスの声が反響するのと同じように、複数の男女が交わす話し声が響いていた。
ナウリアにも同様の現象が起きているのだろう。別殿サイアットへと向けられた眼差しは真剣そのものだ。
カエトスもすぐさま頭を切り替えて、会話に意識を集中させた。
『やはりあの男が妨害者か。しかもあれを切り抜けるとはな』
まず聞こえてきたのは覇気のある男の声。これには聞き覚えがある。クラウスだ。
その口振りは、予想されていたことが起きたと言っているように聞こえた。それを記憶に留めつつさらに耳を傾ける。
次に聞こえてきたのは巖のような低い声。昼間の決闘の相手ヴァルヘイムだ。
『申し訳ありません。確実に殺せたと思ったのですが、模擬剣とはいえまさか素手で止められるとは思いもよらず、不覚を取ってしまいました』
「あなたのことを話しているようですね」
囁くナウリアにカエトスは頷き返した。剣を素手で止めるという言葉から考えられるのはそれしかない。
『よい。これまでのお前の働きを見れば、奴が一枚上手だったということだ。……何が起きたのかわかるか?』
『私やミエッカが操る以外のミュルスの気配は感じませんでした。またそれ以外の源霊が働いてもいないようです。となれば考えられるのは一つ』
『まさか……奴は神域帰りか?』
『その可能性は高いでしょう。源霊以外の力となれば、思い当たるのは神々の力の他にありますまい』
驚きを含んだクラウスの声に、ヴァルヘイムが慇懃な口調で答えた。それを引き継ぐ形で女が話し出す。
『あの男は王女に自分の能力を明かすと言っておりました。その線から情報を入手できるかもしれません』
『ではハルン、それはお前が調べろ』
『承知しました』
艶めいた声の主は、予想通りイルミストリアに記載されていたもう一人の人物ハルンだった。しかし声がわかったところで顔がわからない。カエトスはナウリアに小声で尋ねた。
「侍女長殿。この女はどういった人物ですか?」
「王子付きの侍女長ラムルハーヤ・ハルンです。練武場でクラウス王子と一緒にいた赤い服の女です。あなたも見ているはず」
「あれですか……」
決闘の際にクラウスに付き従っていた女の姿を思い浮かべるも、はっきりとした像は浮かんでこなかった。確かに目にしたが、その風貌の細部までは確認していないのだ。機会を設けて顔だけでも覚えておかなければ。
『ヴァルヘイム、お前には別の仕事を与える。これによれば、事を成就させるためにはあの男の排除が不可欠だ。よってそれを最優先で進める。詳細だが──』
クラウスはそこまで言ったところで、突然言葉を切った。
『何事だ!』
クラウスの声が二重にカエトスの頭の中で反響する。ネイシスが届けるものとは別に、直接耳にも届いたのだ。
(ネイシス、何があった?)
(歩哨に私の姿を見られたかもしれない)
(透明になってなかったのか?)
(そっちに会話を届けるのに集中していたら、少しばかり見えてしまったらしい)
忌々しそうにネイシスが状況を説明する中、明かりのついた窓の外に次々と歩哨が集まってきていた。
彼らの声が微かにカエトスのところにまで聞こえてくる。
(……虫って言ってるのか?)
(まったく失礼な人間どもだ。私のこの姿を害虫か何かと勘違いしたらしい。でかい虫がいたと今も騒いでいる)
人はさらに増えていた。この場に留まっていたら見つかるかもしれない。得られた情報は十分とは言えないが、イルミストリアの指示は達成できたはず。潮時だ。
(ネイシス、俺たちは撤収する。見つかったら言い訳できないからな)
(わかった。私はもうしばらく様子を見てから動く。何かを話そうとしていたから、できればそれを聞いておきたい)
カエトスはネイシスとの会話を終えると、ナウリアへと向き直った。それを待っていたかのようにナウリアが口を開く。
「カエトス殿、何があったんですか?」
「妖精が見つかったようです。虫が出たと騒いでいるのがそれです。ここにも人が来るかもしれないので、戻ったほうがよいでしょう」
ナウリアは未練の滲んだ目を一度サイアットに向けた。
クラウスたちの会話は明らかに何らかの策謀の打ち合わせであり、この先もまだ確実に続いたはずだ。なのに、その機会を手放さなければならないことが心残りなのだ。だがナウリアはわがままを言うこともなく素直に頷いた。
「……わかりました。ではシリーネスに向かいましょう。あそこなら安全に戻れます。案内するので……連れて行っていただけますか?」
ナウリアが言いにくそうに顔を俯かせながら、横目でちらちらとカエトスを見やる。
「もちろん。こちらへどうぞ」
カエトスは屈んだままの姿勢で、ナウリアに背中を向けた。
膝をついてにじり寄る仕草に若干の躊躇いがあったものの、ナウリアはすぐにカエトスに覆いかぶさって来た。
彼女の豊かな胸の感触と石鹸の香りが再びカエトスを襲う。雑念が首をもたげそうになるのをカエトスは意志の力で抑え込んだ。首に腕が回されるのを待って、大腿部を抱え込む。
「シリーネスは正殿の東です。間違えないように」
「了解。では行きます」
カエトスは、耳元で囁くナウリアの吐息を感じながら移動を開始した。
別殿サイアットで騒ぎが起きたことで、歩哨の配置や密度が変化していた。庭園の各所や、正殿と神殿とを結ぶ通路に立っていた人間の姿が減っている。サイアットに向かったときよりも容易に移動したカエトスは、誰に見咎められることもなく中郭の東側へと辿り着いた。
柱廊を横に見ながら庭木の合間を進むカエトスの目に、別殿シリーネスの姿が映る。入口には親衛隊の人間と思しき人影が立っている。
「北側の庭を通って裏手へ回ってください。勝手口がありますから、そこから中に」
カエトスはナウリアの指示通りに庭園を進んだ。そこは歩哨の目や、別殿内部からの視線を遮る絶妙な位置に植えられた庭木を経由して進める道のようになっていた。ただそれも別殿の裏手に回るまで。勝手口と思しき扉を発見したものの、最後は何の遮蔽物もない芝生の上を進まなければならない。
カエトスは周りに視線を走らせた。人気がないのを確認すると、扉に走り寄り素早く扉を開けて中に体を滑り込ませた。扉を閉めて一息つく。
微かな水音が耳を撫でる。内部は真っ暗だが、窓から差し込む微かな明かりが、石造りのかまどや台を暗闇の中に浮かび上がらせていた。壁にぶら下がっているのは、様々な形の鍋。どうやらここは調理場のようだ。水の音は外部から引き込まれた水道の音らしい。
ナウリアはカエトスの背中から降りると静かに詰め寄って来た。強い光を宿した瞳で頭一つ高いカエトスをじっと見つめる。
「カエトス殿、いま耳にしたことは決して口外しないように。よろしいですね?」
「はい。それはお約束した通り、決して他言はしません。ですが王子の口振りからして、私の予想は的外れではないように感じました。おそらく王子は王女殿下を──」
「その先はやめなさい」
ナウリアが潜めた声で鋭くカエトスを制した。
「王城内はどこに耳があるかわからないんです。迂闊に口走らないように。それについては私のほうで対処しておきます」
ナウリアはそう苦言を呈すると顔を俯かせた。床の一点を見つめながら真剣な表情でじっと黙り込む。今後どのような対応をとるべきか、目まぐるしく考えているのだろう。
カエトスは無言で頭を下げつつ、ナウリアへとかける言葉を考えていた。
おそらくクラウスはレフィーニアを暗殺しようとしている。それを阻止するためにナウリアと協力できるはず。そしてそれはナウリアとの関係を改善するきっかけにもなるだろう。
カエトスは今のうちにその旨を提案しようとしたが、先にナウリアが顔を上げた。
「あなたのおかげで重要な──そして思いもよらない情報を入手することができました。それは助かったと言うべきでしょう。ですが……あなたはいったい──」
ナウリアはそこまで口にしたところで言葉を切った。その目は驚きに丸くなり、すぐに抗議の色に染まる。カエトスがナウリアの口元に素早く手をかざしたのだ。
非難の声を上げようとする気配を察知したカエトスは、機先を制するように素早く警告した。
「お静かに。誰かが近づいてきます」
カエトスの耳は微かな足音を捉えていた。光の届かない屋内へと目を向ける。調理場に来るのかは不明だが、何者かが近づいてきていることは確かだ。
カエトスはゆっくりとナウリアの口元から手を放した。
「私のことについてお話ししたいのはやまやまなのですが、その余裕はなさそうです」
「……そのようですね」
カエトスの視線を追って暗闇に目を凝らしていたナウリアは、残念そうに言うとカエトスへ向き直った。強い光を宿らせた瞳で詰問するように見据える。
「あなたは戻りなさい。詳しい話は明日聞かせてもらいます。いいですか? 絶対に見つからないように。これはあなただけではなく、あなたに目をかけられた殿下にも波及する問題なのです」
カエトスはのけ反りそうになりながら小さく頷いた。
「わ、わかりました。侍女長殿も、どうか私のことは内密に」
ナウリアが誰かに話す可能性は限りなく低いとは知りつつもカエトスは一応念を押した。ナウリアが無言で頷くのを見届けて踵を返す。
カエトスは裏口の扉を少しだけ開けた。外の様子を目と耳で探る。誰もいない。そう判断すると素早く外に躍り出た。手近な立ち木に身を隠しながら金髪の女神に呼びかける。
(ネイシス、そっちはどんな感じだ?)
(警戒度が上がったようだ。もう会話は聞けそうにないから、これから戻る)
(俺も今から戻るところだ。宿舎で合流しよう)
ネイシスから返ってきた承諾の声を聞きながら、カエトスは懐にしまっておいた椅子の脚を取り出した。周囲に用心深く目を走らせつつ移動する。
事態は複雑になりつつあった。
ただ女を口説くだけでは済みそうにない。しかも先刻の会話から察するに、クラウスの矛先がカエトスに向けられそうになっている。
道は想像以上に険しそうだ。しかしもう引き返せない。全てを乗り越えて突き進むしかないのだ。
カエトスは一度気合いを入れるように息を吐くと、加工した椅子の脚を左手に、内郭へと続く崖に身を躍らせた。
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