第2話 啓示する書物

 月明かりに照らされる人気のない細い裏通りでカエトスは足を止めた。荒げた息を整えながら口を開く。

 

「ネイシス。ジェシカは……まだ追ってきてるか?」


 カエトスの声に反応して、頭上から音もなく何かが下りてきた。

 眼前でぴたりと静止したのは、袖のない黒のロングドレスを纏った女だ。翼があるわけでも、天上から吊るされているわけでもないのに空中に平然と浮いている。しかも彼女の体は人間よりもずっと小さく、手ですっぽりと包み込めそうなほどの身長しかない。

 月明かりを浴びて煌めく長い金髪を揺らめかせながら、髪と同色の瞳でカエトスを見据える。


「いや、こちらを見失ったようだ。見当たらない」


 ネイシスと呼ばれた小さな少女は、感情を窺えない平板な声と表情で告げると、褐色の素肌を露わにした腕を豊かな胸の前で組んだ。

 その拍子に大きく開いたドレスの胸元に双丘の谷間が形成される。

 胸だけではなく裾にも大胆な切れ込みがあり、太ももを動かすたびに足の付け根まで見えてしまっている。

 大人びた彼女の肢体は世の男の目を釘付けにする魅力に溢れていた。

 

 目を引くのはそれだけではない。

 額には海の底のように深い蒼色の石がはまった金鎖の額冠が存在を主張し、首元では鮮血を凝結させたと見紛うばかりの深紅の宝石をあしらった首飾りが揺れ、左手首には精緻な紋様が刻まれた黄金の腕輪が月光を反射している。

 数々の装身具を身に付けたその姿は、どこぞの王侯貴族もかくやと思わせるほどに豪奢だった。

 しかしそんな派手な格好をしていながら、金色の瞳から窺えるのは浮ついた軽薄さではなく、年経た者だけが持つ落ち着きと深み。それは身に付けた宝石たちの存在を圧するほどの神秘的な光を強く静かに湛えていた。


「……そうか」


 他人が見れば、その魅惑的な容姿と派手に着飾った姿に驚きおののくであろう姿も、カエトスにとっては慣れ親しんだものだ。ネイシスに相槌を返すと、道端に積まれた角材の山に腰を下ろした。膝に肘をつき、組んだ両手に額を預けて大きく息を吐く。

 

「後でちゃんと謝らないとな。皆には……悪いことをした」


 閉じた瞼の裏に映るのは、ジェシカやマイニ、シグネの顔だった。今までは彼女たちの名前とともに笑顔が思い出されていたのに、それが今では怒りと悲しみの表情に変わってしまっていた。

 謝罪したところで許されるとは到底思えなかったが、このまま逃げ続けるわけにはいかない。彼女たちの怒りが落ち着いた頃合いを見計らって、事情を説明しなければならないだろう。

 ネイシスは滑るように空中を移動すると、カエトスの右肩にふわりと降り立った。

 

「謝ったとしても、もう関係の修復は不可能だろう。これからどうする? あの娘たちを口説き落とすのに四か月もかかったんだぞ」


 カエトスは体を起こすと金髪の小人に目を向けた。

 

「時間はあとどれくらいある?」

「服を脱げ。確認してみよう」

 

 ネイシスに促されて、カエトスは炭鉱労働者が好んで着用する厚手のジャケットを脱いだ。薄手のシャツの上からでもわかる、日々の労働と剣術の鍛錬で鍛えられた体が現れる。ジャケットを脇に抱え、シャツの左袖を上腕部までまくり上げた。淡い月光に照らされたそこには、握りこぶしを二回りほど小さくした紫色の奇妙な痣があった。

 

 上着を脱ぐ動作に合わせて空中に退避していたネイシスが、カエトスの左肩に降り立った。そのまましゃがみ込んで、さらりと流れ落ちる金髪を手で押さえながら、上腕の痣に細い指を這わせる。

 

「……ふむ。この感じだと、発動するまであと一月といったところだな。当然ながら、場合によってはもっと早まる」

「もうそれしかないのか。かなりまずいな……。どうすれば──」

「あんた、どうかしたのかね」


 カエトスが小さく唸りながら思考を巡らせようとした矢先、突然背後からしゃがれた男の声がかけられた。

 全く気配を感じなかったカエトスは、慌てて腰を下ろしていた角材から立ち上がって振り向く。

 

「ほっほ、すまんすまん。驚かせるつもりはなかったんじゃ」


 そこには杖をついた老人がいた。背はカエトスの半分ほどしかない。茶系統の地味な服を着ていて、真っ白な頭髪とあごひげが月明かりの中でもはっきりと見える。

 しわだらけの顔に人のよさそうな柔和な笑みを浮かべる老人は、手にした杖を左方へと向けた。角材の山に隣接する木造家屋の出入り口から明かりが漏れている。


「わしはここの家の者じゃが、何やら物音がしたもんで確かめに来たのじゃ。盗賊の類かと思ったが、どうやらあんたは違うようだの」

 

 とくに危険な人物ではなさそうだった。カエトスは緊張を解きつつ謝罪を口にした。

 

「ここは爺さんの家だったのか。夜遅くに騒がせて申し訳ない」

「構わん、構わん。盗人じゃなければ、わしは気にせんよ。ところで具合でも悪かったのかね? 何やらうなだれているようだったが──」

 老人の目がすっと細められた。

「あんた、怪我をしてるじゃないか。こっちに来なさい。手当をしてやろう」


 老人は、素早くカエトスに近づくと右腕をつかんでぐいっと引っ張った。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ。これは違うんだ」

「遠慮することはない。わしの家はここじゃ。それにあんたは礼儀正しい人間のようじゃ。そんな人間を放ってはおけん」


 老人は抵抗するカエトスを、年寄りとは思えない力で平然と引きずりながら、開け放ったままの扉を潜った。抵抗虚しく、カエトスもそのまま引き入れられる。

 

「……おぉ」


 内部の光景を目にしたカエトスは思わず声を上げた。

 家屋の中には書物の山と、年月を経た紙が放つ独特の匂いで満ちていた。

 横幅は両手を広げれば手がつきそうなほどに狭い。しかし奥行きがある。左右の壁にはカエトスが手を伸ばしても届かないほどに高い本棚があり、収納されている本は背表紙の文字がかすんでいたり、装丁がぼろぼろだったりと、いずれも古ぼけている。それが延々と奥に続いていた。

 光源は入口のテーブルに置かれた二つのランプの弱々しい明かりのみ。そのため先の様子がわからない。だからこそ、それは暗闇の中に永遠に続く本棚の回廊のように見えた。

 

「あんたはここに座っておれ。わしは包帯と薬を持ってこよう」


 本が山積みにされたテーブルを挟んで、簡素なつくりの椅子が二脚ある。老人はその一つを指差すとランプを一つつかみ、奥に向かおうとした。

 

「爺さん、待ってくれ。気持ちはありがたい。でもこれは怪我じゃないんだ」

「何を言っておる。そんな大穴が開いて…………おらんな」


 テーブル越しにカエトスの左腕を覗き込んだ老人が、じっと目を細めながら低い声で言った。

 

「ほっほ、すまんのう。わしはてっきり腕に穴が開いているもんだとばかり。いかんのう、体のあちこちにガタが来ておる。年はとりたくないもんじゃ」


 老人は苦笑を浮かべると、テーブルにランプを置いた。よっこいせと声を上げながら椅子に腰を下ろす。

 

「しかし怪我じゃないとすると、それは何なのかね? 刺青のようには見えんのじゃが」

「言っても多分信じないと思うぞ」

「それは聞いてみないと何とも言えんのう。秘密にしていると言うのならもう聞かぬし、急いでいると言うのなら引き止めもせぬが」

 

 そう言いつつ、老人は興味津々といった視線をカエトスに向けた。それは立ち去ろうとしていたカエトスを強烈に引き止める。

 腕の痣については、特に隠しているわけでもないが、吹聴するようなことでもない。厚意から招いてくれた老人の問いを無下に断るのもどうかとカエトスが迷っていると、頭上から女の声が降って来た。

 

「カエトス、話してみたらどうだ?」


 声の主は金髪の小人ネイシスだった。老人が声をかけてきた瞬間に姿を消していた彼女は、テーブルの上に音もなく降り立つと、目を丸くして腰を浮かせる老人を尻目にカエトスを見上げる。


「この書物の山を見る限り、この人間はかなりの知識を持っているようだ。私たちだけじゃちょっと打開策は出そうにないし、ここは駄目でもともと、この人間に期待するのも悪くはない」


 ネイシスはそう言うと、くるりと向きを変えて腕を組んだ。

 

「人間よ、お前は豊富な知識を持っているのだろう。それを我々に提供せよ」

「たしかにわしは人よりも多くのことを知っていると自負しておる。何しろ、ここにある本はほとんど読破したからの。だが……あんたは何者じゃ? 話に聞く妖精かね?」


 老人はネイシスに顔を寄せながら、しげしげと興味深げに問いかけた。それに対するネイシスの返答は突拍子もないものだった。

 

「私は、お前たち人間の言う神だ」

「何と」


 老人はカエトスの予想通り驚きも露わに目を丸くした。

 次にきっと疑いを口にする。カエトスはそう考えたがそれは外れてしまった。

 

「これはこれは、神さまであらせられましたか。無礼な口を利いてしまい、申し訳ありません」

「よい。私はそんな細かいことは気にしない」


 深々とお辞儀をする老人に、ネイシスが鷹揚に答える。

 あまりにも自然な流れに、カエトスは思わず割って入った。

 

「ちょっと待て。爺さん、疑わないのか? いきなり神だなんて言ってるんだぞ」

「ほっほ。長生きすると、色々なものに巡り合うものでのう、わしは神さまに会ったことがあるのじゃよ。間違いなく存在するものを、疑う必要などないじゃろう」


 老人はしわだらけの顔に深みのある笑みを浮かべると、姿勢を正して問いかけた。

 

「私はゼルエンと申します。神さまのお名前を伺ってもよろしいですかな?」

「うむ。私の名はネイシスだ」

「……はて、聞き覚えのない名ですな。ここには古今の神々の名を網羅している本もあるのじゃが……」

「それは仕方がないこと。私は千年以上人間との関わりがなかった。長い年月の中で記録が失われたのだろう」

「なるほど、左様でございましたか」


 ゼルエンと名乗った老人がふむふむと何度も頷く中、ネイシスがカエトスに向き直った。

 

「カエトス、この人間は神を知っている。我々の事情も容易に呑み込むことだろう」

「それはわかった。でもな……爺さんに話したところで、どうしようもないと思うんだけどな」

「試しに話してみなされ。神さまに頼られるなどという栄誉に授かっているのじゃ。できる限りのことはしてやろう」


 ゼルエンは改めて椅子を指差し、乗り気ではないカエトスに座るように促す。


「まあ、そこまで言うなら」


 たしかにネイシスの言う通り八方塞がりだ。もしかしたらこの老人が光明をもたらしてくれるかもしれない。カエトスは失望しない程度の期待を抱きつつ、椅子に腰を下ろした。脇に抱えた上着を右肩にかけ、右手で左上腕の痣を指差す。


「これは、ある女神の呪いなんだ。花びらの模様になってるのがわかると思うけど、これが全部紫に染まると呪いが発動して俺は死ぬ。魂を女神に奪われてしまうんだ」

「ほう。それは難儀なことじゃのう。わしの知識に期待するというのは、どうやって解呪するかを調べることかの?」


 ゼルエンが眉間にしわを刻みながら、右手であごひげをしごく。

 

「いや、何をすれば解けるのかはわかってる。問題はその方法さ」


 カエトスは首を振ってそう前置くと、本題を切り出した。


「呪いを解くには、他人の愛情が必要なんだ。それも複数で、しかも濁ってないやつ」

「濁りない愛情とな?」

「ああ。女神が言うには、それは独占欲とか嫉妬とか怒りとか打算とか、そういう不純な動機とか感情が混じってない愛情のことらしい」

「何とまあ…………恐ろしいほどの無理難題じゃのぉ……」


 ゼルエンの眉間のしわがさらに深くなった。女神の課した解呪の条件の難しさをすぐに悟ったのだ。

 

「それで俺なりに何とかしようして、ある女と仲良くなるにはなったんだけど、案の定別の女にばれてご破算ってわけだ」

「あんたがうなだれておったのは、浮気が露見したからというわけじゃな」


 ゼルエンが納得したように何度も頷く。


「そういうこと。……まあ、遠からずばれただろうし、そもそも最終的には、他の女を口説いてることも打ち明けなきゃならないわけだし、あのままやってても結果は変わらなかっただろうな……」


 カエトスはテーブルに肘をつくと、大きく息をついた。

 呪いを解くための努力が水泡に帰したことは確かに精神的にきつい。しかしそれよりも、事情があったとはいえ、シグネとジェシカ、それにマイニの三人を騙していたという事実がカエトスを打ちのめす。彼女たちが好きだというのも紛れもない本心だったから。

 

 マイニは女の鍛冶師ということで忌まれながらも、腐らずくじけず仕事に真剣に取り組む姿が、ジェシカは命に対する高潔な信念と気高い姿勢が、そしてシグネは金を儲けるという行為をしながらも欲望に負けない誠実な心根が、それぞれカエトスにとって魅力的だった。

 

 彼女たちのことは何があっても守ってやりたいと思っていた。しかし結果として傷つけてしまった。それもかなり手酷く。いずれきちんと謝罪しなければならない。一度や二度、刺される覚悟も必要だろう。

 

「な? 爺さんに言っても無駄だっただろう?」


 カエトスは、諦念のこもった沈んだ口調で言った。ゼルエンが難しい顔をして小さく唸る。

 

「うぅ……む。わしはこう見えても、あんたと同じ年頃の娘の知り合いは何人かおる。あんたに紹介してやってもよいのじゃが、仮に口説き落とせたとしても、同じ結末になるじゃろうなぁ。妬心を抱かぬ女など、おそらくこの世界には存在せんからのう」

「ついでにもう一つ。俺が呪い殺されるまであと一月くらいしかない」

「ぬぅ……。残念じゃが、たしかにあんたの言う通り、わしでは力になれぬようじゃ」


 ゼルエンは無念そうに言うと席を立った。包帯を取りに行こうとして手に取ったランプを再び持って、暗闇に覆われた奥へと向かう。

 

「爺さん、どこに行くんだ?」

「少し待っておれ。……はて、この辺りにあったはずなんじゃが……どこだったかのう……」


 二十歩ほど奥に移動したゼルエンは、ランプを上下に動かしながら何かを探し始めた。橙色の光が暗闇の中の本棚を浮かび上がらせる。見たところ、まだまだ奥に本棚が続いているようだった。こんなことはあり得ないが、まるで無限に奥に続いていそうな雰囲気だ。

 

「おお、これじゃこれじゃ」


 ほどなくゼルエンが嬉しそうな声を上げた。すたすたと足早に戻ってくると、テーブルの上に一冊の本を大事そうに置く。

 

「わし自身は力になれなくても、この本ならあんたの役に立つじゃろう」


 それは手の平に収まりそうな小さな本だった。

 ここにある他の本と異なり古ぼけておらず、妙に小奇麗だ。濃紺の分厚い表紙は鉄色の金属で縁が補強されているのだが、錆びや歪み、傷などが一切なく、まるでたった今製本されたような真新しさがある。ただその一方で本からは何十年という時を経たような厳かな雰囲気が漂う。

 気になる点はまだある。表紙に表題や絵など内容を類推させるものが一切ないのだ。放たれる雰囲気と相まって、触れてはならない禁忌の本と警告されているような印象を強く受ける。

 

「これは……?」

「イルミストリアと呼ばれる本じゃ。意味は〝啓示する書物〟。神が作ったと言われる、迷える人間に行く先を示す本じゃ。最初に神の言葉と思しきものが記されておるから読んでやろう」


 老人はそう言うと、おもむろに本を手に取り、補強された表紙をしわだらけの指でゆっくりと開いた。

 

「この本は所有者の未来を照らす光であり、運命を手繰り寄せる見えざる手なり。記される事柄は、所有者が取るべき行動であり、それを遂行できたならば望む未来が手に入るであろう。ただしそれを為せないときには決して避けられぬ災いに見舞われる。その覚悟のある者のみ、この先へと読み進めるがいい」


 厳かな口調で言い終えると、本をぱたりと閉じた。くるりと反転させてカエトスの前に置く。

 

「つまりこの本は、手に取った者の望みを叶えるために必要な行動を指示してくれるというわけじゃ。あんたがこの先を読み進めれば、この本はあんたがいま望むこと、すなわち解呪のために必要な方法を示してくれるじゃろう」


「……本当か? それが事実なら、願ってもないんだが……」


 カエトスは本に顔を寄せてじっと観察した。

 紙の匂いが鼻孔をくすぐるとともに、生物が息づいているような生々しい気配が漂ってくる。やはりカエトスが感じた通りただの本ではない。


「どれ、見せてみろ」


 ネイシスがてくてくと本に歩み寄ってテーブルに膝をついた。魅惑的な尻を突き出す四つん這いの姿勢になると、無遠慮な手つきで本をぺたぺたと触る。

 

「……たしかにこれは神が作ったものだな。神鉄に似た雰囲気があるが、それよりもさらに強い。この警告も嘘ではなさそうだ」


 神鉄とは、神が住まう〝神域〟で産出される物質の総称であり、神が振るうとされる様々な超能力を引き出す媒体にもなる神秘の物質だ。その神鉄よりもさらに強い力を感じるとネイシスは言っている。神が作ったという根拠はそこにあるのだろう。

 

 ネイシスは自分の胴体ほどもある濃紺の表紙を片手で軽々とめくった。そのまま数十枚とめくり続けるも、現れたのは何も記されていない真っ白な紙面だ。


「やはり、神である私がめくってもこれは未来を示さないようだ」


 ネイシスは本を閉じると、カエトスを見上げた。ランプの明かりを反射して煌めく金髪が背中に流れ落ちる。

 

「さて、カエトス。どうする? これを使ってみるか?」

「……そうだな」

 

 カエトスは災いに見舞われるという言葉が引っかかっていた。神であるネイシスが太鼓判を押す以上、本は確実に本物だからだ。逡巡するカエトスに、ゼルエンがそれを助長する言葉を投げかける。


「一応伝えておくが、これの以前の持ち主は自分の屋敷で謎の焼死を遂げておる。原因は不明で、焼け跡にはこの本だけが無傷で残っておったそうじゃ」

「……爺さん、脅かすなよ」


 じろりと睨むカエトスの視線を、ゼルエンはにこやかに笑って受け流す。

 

「ほっほ。本を読み進めたあとで文句を言われても困るからのう。さあ、どうするね? それは恩恵を与えるだけではなく、災いをもたらすこともある。決めるのはあんたじゃ」


 カエトスは本に目を落とした。一つ呼吸をしてから、おもむろに手を伸ばす。

 

「ただめくるだけでいいのか?」

「うむ、そのように聞いておる。本が勝手にあんたの思いを汲むそうじゃが……使うかね?」

「ああ。呪いを解く妙案が全然ないし、何もしなければ俺はひと月で死んじまう。だったら、多少危険でも、望みのある方に賭けたほうがいい。せっかく爺さんが持ってきてくれたんだしな」

「うむうむ、よいぞ。やはり若人はこうでなくてはのう」

 

 満足そうに頷くゼルエンから目を離すとカエトスはネイシスが見守る中、濃紺の表紙をゆっくりとめくった。

 大陸東部で広く使われているアルハイ語の文章がまず登場する。これはたったいまゼルエンが朗読した神による警告文だ。そしてその次の紙面をめくった。

 

「……何だ、この表題は」


 ネイシスが開いたときには白紙だったところに、警告文と同じアルハイ語の短い文章が一つ出現していた。どうやらこれは本の表題らしかった。その意外過ぎる内容に、カエトスは二度、三度と読み返した。

 

「ほっほ、これは傑作じゃ。まこと相応しい題名じゃのう」


 紙面を覗き込んだゼルエンが高らかに笑う。次いでカエトスを見守っていたネイシスがそれを読み上げた。

 

「ふむ。『やさしいハーレムのつくり方』か。これ以上ないほどにわかりやすい題名だな」


 厳かな雰囲気を放ち続けるイルミストリアに現れたのは、纏う気配に甚だしく似合わない軽薄な単語だった。


「俺は別にハーレムの主人になりたいわけじゃないぞ」


 本当にこの本はまともに機能するのか。そんな疑念を込めつつカエトスは反論した。それをゼルエンがばっさりと切り捨てる。

 

「しかしじゃ、あんたがどう思っていようが事情を知らない者が見れば、ハーレムを作りたいようにしか見えんぞ? 浮気が露見したと言っておったが、相手の女にそう罵倒されなかったかね?」

「……された」


 怒りに染まったジェシカの顔が鮮明に蘇ってきた。カエトスはそれ以上何も言えなかった。

 

「ほれ、カエトス。そんなことより先に進め。まだ具体的な指示の部分じゃないぞ」


 ネイシスに促されて、カエトスは暗澹たる気分になりつつも、読み進めた。

 めくった先の紙面にも短い文章が現れていた。それを読んだカエトスは思わず抗議の声を上げた。

 

「ちょっと待て。これのどこが〝やさしい〟んだ?」

「どれどれ。『大陸暦二七〇七年五月十三日、五エルト十三ルフスの刻、シルベリア王都シルベスタンにあるユリストア神殿禊の間において、アルティスティン・レフィーニアを押し倒せ』か。……誰だ、これは?」


 文章を読み上げたネイシスの問いにはゼルエンが答えた。


「アルティスティンといえば王家の姓ですな。そしてレフィーニアは、たしか一年ほど前に見つかった国王の隠し子の名だったはず。王都の騒動がここまで伝わってきましたから覚えておりますぞ」

「なるほど。つまり国王の子を押し倒せというわけか。これはなかなか大変じゃないか?」


 腕を組んで何度か頷いたネイシスが、さして難しいことでもないような軽い口調で言う。


「なかなかどころじゃないっ。相手は王族だぞ。押し倒したら、というか不用意に近づいた時点で殺されかねないぞ」


 王族というのは国内において絶対的な権力を所有する人物たちだ。その周りは厳重に警戒されており、一般人は近づくどころか、姿を見ることさえままならないものと決まっている。それを押し倒せなどという指示は、狂気の沙汰としか思えなかった。


「爺さん、本当にこの通りやらなけりゃならないのか?」

「無論じゃ」

「危険はないのか?」

「ほっほっほ」


 老人は温厚な笑みを浮かべると、次の瞬間きりっと真面目な表情になった。

 

「あるに決まっておるじゃろう」

「おい、爺さんっ」


 カエトスはテーブルに手をついて立ち上がった。

 

「だから、この本は危ないと言ったじゃろう。それにあんたは多少危険でもいいと言ったぞ?」

「ぐ……。た、たしかに言ったけど……これはちょっと危な過ぎだろう」


 平然と指摘するゼルエンに、カエトスは言葉に詰まりつつ腰を下ろした。

 

「だいたい、危なくなるのは本の指示を遂行できなかったときのことじゃないのか」

「そんなに甘いわけがなかろう」


 ゼルエンは重々しい口調で言うと、滔々と語りだした。

 

「よいかね。このイルミストリアという本は所有者が達成すべきことを指示するが、それだけなのじゃ。所有者が遂行できるかどうかなどは一切鑑みることはないし、具体的な手段を示すこともない。また、それを実行した結果、何らかの脅威が発生したり、危険に巻き込まれたとしても、この本は何もせん。全てを所有者自身の力で切り抜けなければならないんじゃ」

「つまり試練を課すようなものか」

「仰る通り、まさに試練ですな」


 腕を組んだネイシスが相槌を打ち、ゼルエンがそれに同意を示した。さらに説明を続ける。

 

「イルミストリアが王女を押し倒せと指示したということは、それは解呪のために必要なこと。一月以内にその呪いを解きたいのならば、やるしかないぞ。それを無事に完遂して生き延びられたなら、次にやるべきことが現れるはずじゃ。そうやって試練を乗り越えていくことで、あんたの望む未来が近づいてくるというわけじゃ」

 

 腰に手を当てたネイシスが足元の本をつま先で小突きながら、金色の瞳でカエトスを見上げた。

 

「今更怖気づいたところで手遅れだぞ、カエトス。ここでお前が逃げてしまうと、お前はこいつが招き寄せる災厄に襲われる。そんなことになって死んでしまったら私が困るし、お前も死ぬわけにはいかないはずだ」


 ネイシスに言われるまでもなくわかっていた。もう引き返せないところに来てしまったのだと。

 

「……だな。進むしかないか」

「ちなみに、望む未来が険しいほどに試練は厳しくなり、それに失敗した時に降りかかる災厄も大きなものになるという話じゃ。くれぐれも気を付けるのじゃぞ」


 カエトスはさらりと重要なことを付け足す老人をじろりと見据えた。

 

「……爺さん、そういうことは先に言ってもらえるか?」

「ほっほ。すまんのう。だが、仮にそれを告げたとしてもあんたはこの道を選んだはずじゃ。違うかね?」


 ゼルエンは柔和な笑みでカエトスの眼光をどこ吹く風と受け流すと、逆に聞き返してきた。

 カエトスはふうと軽く息を吐いた。確かにその通りだった。もともとカエトスには選択肢はなかった。老人に文句を言うのは筋違いと言うものだ。

 

「大丈夫だ。お前ならできる。私が見込んだ人間だし、神であるこの私が手伝ってやるしな」

「ありがとな。頼りにしてるぞ」


 抑揚に乏しい声で励ましてくれるネイシスの頭を、カエトスは感謝を込めて人差し指で撫でた。ついでテーブルに置かれたイルミストリアを同じ指でとんとんと叩く。

 

「爺さん。この本、買うよ。いくらだ? というか売り物なのか?」

「売り物だが、お代は結構じゃ。あんたにやろう」

「神が作った本なんだろう? 入手するのにかなり苦労したんじゃないのか?」


 眉をひそめるカエトスの問いに、ゼルエンは首を横に振った。

 

「怪しげな本の処分に困った客が、ただ同然で置いていったのじゃ。だからわしの懐はちぃとも痛まん」

「しかしただってのはなぁ……」


 カエトスは潤沢な持ち合わせがあるわけではない。

 シグネたち三人に贈った腕輪と指輪、首飾りは、原石を持ち合わせていたことで随分と安く入手できたのだが、装飾に使った金や銀の材料費や加工料がそれなりにかかったのだ。具体的にどれくらいかといえば、半年は生活に困らない程度の金額だ。それが三人分。ゆえにカエトスの懐は割と冷え込んでいる。しかし、やはりただというのはよろしくない。ただより高い物はないという言葉もある。金が原因のいざこざは避けたいのだ。

 

「ならばこうしよう。あんたが無事に目的を達成できたら、またここに来てくれるかの。そして土産話をわしに聞かせてくれ。あんたのような人間が体験することは、きっとどんな物語よりも面白いものになるじゃろうから、それを代金としてもらおう。この条件でどうかね?」


 渋るカエトスに向かって人差し指を立てたゼルエンが提案をしてきた。

 老人が本好きなのは、周りの本棚に収蔵された膨大な書物の山を見ればわかる。その彼にとって珍しい体験談は何よりの報酬になることだろう。

 一方、カエトスにとっても悪くない話だ。金を失わない代わりに命を失うかもしれないのだ。その見返りに入手した経験談が代金の代わりになるなら、断る理由はない。

 

「そういうことなら……まあいいか。爺さんがそれでいいなら、そうしよう」

「商談成立じゃな」


 にこやかな笑みを浮かべながらゼルエンが右手を差し出す。

 カエトスがしわだらけの手を握って応えていると、本を持ち上げてぺらぺらと一通り目を通していたネイシスが声を上げた。

 

「ほう、この本には時計が付属しているのか。なかなか行き届いているじゃないか」

「時計? そんな本の中に時計が入るわけないだろう」


 カエトスが知る時計というのは、町の中心部にある巨大な時計台や、柱時計や置時計といった家具と同程度の大きさのものだ。それらは振り子の動きを利用して正確な時間を計測するという構造上、ある程度の大きさが必要だった。だからこそ、手のひらに入りそうな小さな本の中に時計があるというネイシスの言葉が信じられなかったのだ。

 

「嘘ではない。ほら、これだ」

 

 ネイシスは裏表紙をめくると、その裏側に埋め込まれていた物体を小さな手で取り上げ、カエトスに放り投げた。


「これが……時計?」


 空中でカエトスが受け取ったものは、硬貨を二回りほど大きくした長楕円状の円盤だった。表面は光沢のない黒色で、そこには六組の数字が二段の文字列となって光っていた。左上の数字が四桁、残る五組の数字は二桁だ。


「ほっほ。さすが神さまであらせられますな。仰る通りそれは時計。上の段が大陸暦アルヴィレンテカウスヨレア、下の段がエルトルフスヴァインを表しております」

「なるほど、数字で時刻を表しているのか。針の時計より見やすいけど……この数字がどんどん切り替わってるのは、いったいどういう原理なんだ?」


 数字は、視認するのに不自由はない程度の淡い光の線で描かれていた。そのうち右下の数字が刻一刻と変化している。ゼルエンの説明によればそこはヴァインを表している。だから次々と数字が増えているのだろう。その様子は、まるで統率された小さな蛍の群れが動いているかのようだ。


「これ自体が一つの生物のようなもので、源霊の一つイルーシオに働きかけて数字を表示しているんだ。これは神が作ったものだが、人間の技術でも作れないことはない代物だぞ」

「そうなのか……」


 カエトスの脳裏によぎったのは、行商人であるシグネがこれを見たら、いい商品になると言って喜ぶだろうということだった。

 小型の品物は少ない人手でも大量に運べる。しかもそれが希少価値の高い代物となれば、一度の行商で大きな儲けが期待できるのだ。しかし彼女の笑顔を見ることは、きっともう叶わない。

 暗い気持ちで感傷に浸るカエトスを、ネイシスの声が引き戻す。

 

「そんなことよりもカエトス。ずいぶんのんびりしているが、王都まで移動する時間は足りるのか?」

「何?」

「時計と本を見てみろ」


 カエトスは改めて、小さな時計に目を落とした。

 上段の数字は『二七〇七、〇五、一二』、下段には『一一、一五、七九』と表記されている。つまり現在は『大陸暦二七〇七年五月十二日、十一エルト十五ルフス七十九ヴァイン(午後十時半ごろ)』だ。

 一方、本に記されている日付は『大陸暦二七〇七年五月十三日、五エルト十三ルフス(午前十時二十六分ごろ)』となっている。

 

「本に書かれている日時は、明日の午前中だぞ」

「そうだった……!」


 本に記された指示に注意を向けすぎて、今日の日付を完全に失念していた。

 カエトスは慌てて腰を浮かせると、肩にかけた上着に袖を通した。音もなく空中に浮き上がったネイシスがカエトスの右肩に小さな尻を乗せる。

 

「いかんのう。王都までの定期便が出るのは明日の早朝じゃ。しかも着くのは昼過ぎ。それでは間に合わんぞ」

「走って行くしかないさ」


 カエトスはゼルエンに譲られた本をポケットに突っ込みながら、軽く笑って見せる。

 

「あんた、正気かね? ここから王都までは百二十ティエトース(約百四十四キロメートル)はあるのじゃぞ。一晩中走り続けて、着くかどうか……」

「まだ六エルト(十二時間)ある。足にはけっこう自信があるんだ」


 カエトスは隊商の護衛や盗賊の撃退などを行う仕事柄、一般人と比較してもかなりの健脚だ。夜間の移動という不安材料はあるが、守るのは自分自身だけ。何とかなるだろう。

 出口に向かおうとして、カエトスは足を止めた。

 

「そうだ、爺さん。悪いんだけど、一つ頼まれてくれないか?」

「何じゃ?」

「この紙、もらっていいか?」


 カエトスはテーブルの上にあった紙片を指差した。ゼルエンは頷きながら、無造作に放ってあった万年筆をカエトスに差し出す。

 老人に目礼しながら、カエトスは紙片に筆を走らせた。ジェシカとマイニ、シグネの住所と名前を記す。

 

「ここに住んでる女に伝言して欲しい。後で必ず謝罪に行くと」

 そこまで言ってカエトスはまだ名乗っていなかったことに気付いた。

「すまない。遅れたけど、俺の名は──」

「カエトスじゃろう? 神さまが何度も呼んでおったからわかっておる。あんたの伝言は、わしが責任持って伝えておこう」


 カエトスは差し出した紙片を大事そうに受け取るゼルエンに軽く頭を下げた。

 

「ゼルエン殿、あんたの厚意は忘れない」

「ほっほ。土産話を楽しみにしておるぞ」

 

 カエトスはゼルエンのしわだらけの笑みに背を向けると、出口へと向かった。

 小さなネイシスの手が右耳をつかむ。

 

「強行軍だな」

「ああ。宿に戻って荷物を回収したらすぐ出発だ」


 カエトスは一度大きく息を吸い込むと、夜闇に覆われたティアルクの町へと踏み出した。

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