第20話 妖精とナウリア
桟橋に係留されている小型の漁船の上で、今日の仕事を終えた壮年の猟師が漁具の手入れを始める。
ナウリアはそれをちらりと一瞥すると、再びビルター湖の沖合へと目を向けた。
ナウリアがいるのはシルベスタン港の中央からやや西に寄った位置にある、主に漁船が係留されている桟橋だ。
シルベスタン港は、交易船や漁船、軍船などが共用する港であり、区域ごとにその機能が分かれている。
東部には交易港としての機能が集約されていて、倉庫や商人組合の事務所、港湾管理者が詰める事務所や、荷物の運搬や積み下ろしを行う動力車の車庫などが立ち並んでいる。
中央部は主に漁港としての機能があり、冷蔵機能を備えた倉庫や魚市場となる会場、獲れた魚を保存食に加工する工場などが軒を連ねている。
西側は軍港で、こちらは桟橋ではなく岸壁が整備されていて、鋼鉄製の軍艦が十隻ほど停泊している。その中に木造の輸送船があったはずなのだが、今はその姿はない。すでにビルター湖中央にある島ウルトスに向けて出航してしまっているからだ。
時刻はまだ五エルト(午前十時頃)にもなっていない。どんなに早くても船が戻ってくるのは昼過ぎになる。そしてもっと遅くなることも、二度と戻ってこない可能性もある。そのようなところに最愛の妹であり、王女でもあるレフィーニアが同行しているのだ。
「そんなに気を落とすな」
耳元で感情の起伏をあまり感じさせない涼やかな女の声が響く。ナウリアは湖からの風になびく黒髪を左手で押さえると、右肩に目を向けた。
姿は見えないが肩に柔らかい感触がある。そこにネイシスという名の妖精が座っていた。
「お前に落ち度はない。どうせ王女が神託だからと言ってしまえば、お前は王女を止めることはできなかったんだ」
ナウリアは王女が別殿シリーネスから姿を消した後、城内で聞き込みを行い、侍女服姿に変装した王女が城から出たらしいとの情報を得ていた。そのすぐ後にはネイシスから、レフィーニアが港で見つかったこと、そしてカエトスたちとともにウルトスに向かうことを告げられた。その時点ですでにナウリアにできることはほとんどなくなっていたのだが、ナウリアは港にやって来た。
これはレフィーニアの捜索を停止するためだ。
なぜなら王女がウルトスに向かったという情報の出所、すなわちネイシスの存在を明かせないからだ。
ネイシスの存在は秘密であるため、共に王女捜索を行っていたナウリアの部下には説明ができない。そこで軍港で聞き込みを行い、王女が霊獣討伐に同行してしまったらしいとの情報を入手し、それを伝えることで部下の侍女たちを城に戻したのだ。
だからナウリアは港に残っている必要はない。レフィーニアたちが港に戻ってくるときはネイシスが知らせてくれるから、それまでは王城での仕事をこなしていればいい。ナウリアは王女付きの侍女をまとめる役目を担っているため、仕事も多い。むしろこんなところで油を売っていてはいけない立場だ。
しかしナウリアは城に戻る気になれなかった。
レフィーニアはもちろんのこと、妹のミエッカやカエトスが危険にさらされるかもしれず、それを心配せずにはいられない。彼女たちのことが頭から離れないこんな精神状態では、まともに仕事をこなす自信がなかった。
ネイシスが声をかけてきたのは、そんなナウリアの心境を察してのことだった。
「会って間もない方に慰められるとは、情けないですね」
ナウリアは自分の肩に向けて自嘲的な笑みを浮かべた。日々強くあらねばと思っているのに、いざ予想外の出来事に遭遇してしまえばこの様だ。
「未知の脅威に恐れを抱くのは自然のことだ。恥じることはない。それに実際に私の本に、あまりよくない兆候があると出ている。しかし私の見立てでは、お前の妹はかなりの実力者だ。条件さえそろえば霊獣の一匹や二匹など、造作もなく屠って見せるだろう。カエトスがいれば、その可能性はさらに高くなるし、占いのこともすでに伝えてある。きっと何とかする」
妖精がナウリアの肩で身じろぎしながら言った。口調は相変わらず平板だったが、カエトスの名を口にしたところには、どことなく得意げな響きがあった。
「あなたはカエトス殿を信頼しているんですね」
「うむ。信頼するに足る実力を持っているから、当然のことだ」
妖精はさらに大きく身じろぎをした。肩の感触からして足を組んでいるらしい。その寛いだ様子と、桟橋に当たって弾ける不規則な波の音がナウリアの不安を和らげていく。
気が動転していて忘れてしまっていたことが、ふと頭に思い浮かんできた。ナウリアは気を紛らわせる意味を込めて尋ねてみた。
「ネイシス殿。質問があるんですが、聞いてもよろしいですか?」
「うむ。言える範囲でよければ答えてやるぞ。ただその前に──」
ネイシスは快諾したが、再びナウリアの肩でもぞもぞと動いた。
「あの船にいる男がこっちを見ている。私の姿は誰にも見えないから、今のお前はぶつぶつと独り言を言っているようにしか見えない。おかしな奴と思われてもいいならここで構わないが」
ナウリアは視線を巡らせた。湖面に浮かぶ漁船の上にいる漁師と目が合う。彼は怪訝な眼差しを向けていた。
顔が僅かに紅潮するのを感じつつ、ナウリアは桟橋の先端に向かってゆっくりと歩を進めながら口を開いた。
「……ご指摘ありがとうございました。ではお尋ねします。ネイシス殿はカエトス殿と随分親しいようですけど、付き合いは長いのですか?」
「いいや。出会って一年も経っていない」
「出会ったというと……やはり神域?」
聞いても良いものかと僅かに逡巡したナウリアの問いに、ネイシスもすぐには答えなかった。少しの間を置いて話し出す。
「……それに答える前に一つ確認しておきたい。この国はシルトを信仰しているわけだが、別の神と関わりのある者を迫害したりしないのか?」
起伏に乏しいながらも、警戒が滲む声音だ。妖精が懸念を抱くのはもっともなことだった。国によっては異教徒の存在を認めないと法を定めているところもあるのだ。
ナウリアは桟橋の端で立ち止まり、慎重に言葉を選ぶ。
「このシルベリアでは、異教の信者を排除するような風潮は弱いと思います。シルトの教えが『あるがままを受け入れ、あるがままを返せ』というものですし、向こうに見えるように交易が盛んで他国の人間も頻繁にやって来ますから。私自身も、行儀よく振る舞うのであれば異教の信者ということは気にしません。ただ……それが城の中となると少し事情は変わってきます。シルトに仕える神官を王に戴いているわけですから、やはり他の神に関わりのある者に対しては良い顔はされません。神事を司る神祇庁の方は特にその傾向が強いと思います」
ナウリアは包み隠さずに事実を告げた。体裁を取り繕うだけなら後半部分は黙っているべきだった。この国は危険だとネイシスに判断されて、カエトスとともに逃げ出されては困るからだ。しかし城に出入りする限りはいずれ知られるのだから、隠し通すのは無理だ。
ネイシスがどのような反応を示すか、右肩の感触に意識を集中する。
「ふむ。万全とは言えないが、お前には話してもいいようだな。ただ私のことはあまり吹聴はするなよ」
好意的な妖精の返答に、ナウリアはほっと息をつきつつ頭を下げた。
「ええ。お約束します」
「では教えてやろう。お前が推測しているように私は神域に住んでいて、カエトスとはそこで会った」
「やはり彼は神域帰りですか。ネイシス殿が不思議な力を使えるのも、神に近しい存在だからというわけですね」
「ん。まあ、そのようなものだ」
「それではカエトス殿も、ネイシス殿のような不思議な力は使えるのですか? 神域に行って無事に戻って来た者は神にまつわる能力を手にすると言われていますし」
「いや、カエトス自身は神の力は使えないぞ」
「ではあの剣が、神から授かったものです?」
「それも違う。あれは確かに神鉄を使っているが、剣に加工したのは人間だ。ティアルクに腕のいい鍛冶師がいて、そいつに作ってもらったんだ」
「……よく見つけられましたね。神鉄を加工できる職人は非常に珍しいという話ですが」
ティアルクは鉱山に近いこともあって古くから金属加工が盛んに行われてきた町だ。様々な技術が歴史とともに蓄積され、神業的な腕を持つ職人も多いと聞く。しかしその彼らをもってしても、神鉄の加工は至難の業だという。普通の金属と異なり、単純に熱や力を加えるだけでは加工できないのがその理由らしい。
「うむ、色々苦労させられたがな」
淀みなく話していたネイシスの語調が少々乱れる。きっとティアルクでは、ナウリアの想像もつかないような苦労をしたのだろう。その辺りの話にも興味を引かれたが、今ナウリアが聞きたいのはカエトスのことだ。相槌を打ちながら質問を続ける。
「すると、カエトス殿は神域に辿り着きはしたものの、神から何も授かることができなかったということですか?」
「そうなる。ただ私はカエトスが気に入ったから、こうしてくっついて来ている。それであいつを助けてやっているというわけだ」
「……たしかに彼は普通とはかなり違う方ですし、ネイシス殿が気に入るというのもわかるような気がします」
カエトスは冷静に常識の壁を破壊していく、ある意味勇者ともいえる人物だ。ナウリアをはじめとした一般的な感覚を持つ者にとって、彼の行動は奇異に映る。しかし人とは感性の異なる存在であれば、枷に捕らわれない生き様がかえって好ましく見えることは何となく想像できた。
カエトスのこれまでの歩みに触れられたことで、彼の人となりへの理解が進むとともに微かな不安がよぎる。
「聞きたいのはそれだけか?」
「いえ、もう一つだけお願いします。神域というのは危険な場所なんですよね?」
「無論だ。神の使いとか神獣とかがうろついているからな」
「それはどのくらい危険なんでしょうか?」
「……そうだな。身近なのを例にすると、いまカエトスたちが討伐に行っている霊獣がいるだろう? 神獣を親鳥に例えた場合、霊獣は生まれたての雛鳥くらいになる」
ナウリアはごくりと喉を鳴らした。
人間は霊獣を討伐するにも、精鋭を二百人以上そろえて挑んでいるというのに、その霊獣が自分で餌すら取れない雛鳥に見えるほどとは、神域とはいったい如何なる環境なのだろうか。それは完全にナウリアの想像を超えていた。
やはり神の領域というのは、人がみだりに足を踏み入れてよい場所ではない。それを強く思い知らされる。だからこそ神域帰りは人々に畏怖されるのだ。
そう思うとともにナウリアの中で、不安がよりはっきりとした形を成す。
「彼は……カエトス殿はそのような危険を冒してまで、なぜ力を求めたんでしょうか? 命を賭してでも成し遂げたい何かがあるのでしょうか」
戦闘に関してナウリアは素人だが、彼の武技をあの領域にまで高めるには想像もつかない過酷な修行が必要だということはわかる。それには強い動機が必要ということも。その動機がカエトスを神域に向かわせる原動力にもなったはずであり、そしてそこに深刻な事情が隠されているとしたら、それは将来ナウリアが共に背負うものになるかもしれない。その事実に自分は耐えられるのだろうか。
などと、あるかどうかもわからないカエトスの過去に一人で思いを馳せるナウリアの耳に、予想とはかけ離れたネイシスの言葉が飛び込んできた。
「私は理由を聞いていないが、多分仕事のためじゃないか?」
「仕事……ですか?」
「うむ。人間の社会では何をするにも金がいるだろう? 神の力を利用すれば、金を稼ぐ方法などいくらでも見つかる。それが目的なんじゃないか?」
ナウリアは妖精の返答に呆気にとられた。日々の生活の糧を得るなどという理由のために、神域にまで足を踏み入れる者がいるのだろうかと。
が、すぐに気付く。カエトスのこれまでの行動を見ると、それもあながち間違ってはいないかもしれないと。カエトスは仕官したいがために王城の最奥にまで忍び込んで来るような人物なのだ。
「……彼ならやりかねないかもしれませんね」
ナウリアは苦笑を浮かべながら、自分の右肩へと目を向けた。
「それでは、彼がきちんと仕事を成し遂げたあかつきには、各部署に働きかけておきます。殿下の一言でもう決定しているようなものですが、やはり周りへの根回しは必要ですからね」
「それは助かる。カエトスも喜ぶだろう」
首筋を小さな柔らかいものが二度三度と叩く。ナウリアの目には依然として姿は見えないが、それはネイシスの手だとすぐにわかる。くすぐったいような愛しいような感覚に心が温かくなる。
緊張がほどよく解けたことで、ナウリアにようやく余裕が生まれてきた。
そこでふと新たな疑問が湧いてきた。というか、それは真っ先に抱いていなければならない疑問だった。本当に平常心を欠いていたのだと反省しつつ、ナウリアは切り出した。
「最後にもう一つだけ聞かせてください。気を悪くされないでいただきたいのですが、ネイシス殿は何故ここに留まっているんですか? 殿下がここにいない以上、あなたがここにいる理由はありません。ウルトスに向かったほうが霊獣討伐の助けになるでしょうし、殿下をお守りする上でもそちらのほうがいいと思うのですが」
ナウリアが思いつく程度のことを、ネイシスが考えていないはずがない。然るべき理由があるのだろうが、ナウリアには当然ながら想像もつかない。そして妖精の返答は予想通りナウリアの思いもよらないものだった。
「それはあれだ。私が移動する速度はあまり速くないからだ。つまり、いまから合流しようとしても間に合わない。だからここにいる。それと、私が力を使うとカエトスの寿命が縮むという問題もある」
「寿命……? それは、カエトス殿の命を吸い取っているということですか?」
「違う。詳しくは話せないが、色んな過程を踏んだ結果としてそうなってしまうんだ」
不穏な一言に思わず聞き返したナウリアに、ネイシスはすぐさま否定した。
「現場にはカエトスと王女以外の人間も大勢いる。そいつらが死にそうになって、王女あたりが助けろとカエトスに要請したら、それを無視できない。だがいちいち人間を助けていたら、そいつらが助かってカエトスが死んだなどということになりかねない。だから下手に頼られないように、私はここにいる。カエトスなら何とかするとも思っているしな」
カエトスへの信頼と、他の人間に対する冷酷さを滲ませるネイシスの口調はあくまでも淡々としていて深刻な状態には聞こえない。しかしそれはナウリアの記憶にある一つの出来事を鮮明に思い出させていた。
「もしかして……昨日の事故のときにネイシス殿は力を使いましたか?」
事故とは、昨日起こった工事現場での壁面崩落のことだ。
恐る恐る尋ねるナウリアの問いに、ネイシスは少しだけ体を震わせて沈黙した。明らかな迷いを感じさせる無言の間が、何よりも雄弁に事実を物語る。
「使ったんですね。そしてカエトス殿の寿命は縮んでしまった」
「……いまの話は聞かなかったことにしてくれるか? あいつは自分の命を削っていることを知られたくないと考えていたんだ。お前が負い目を感じると困るとか言ってな」
「……わかりました。私の胸にしまっておきます」
そう答えたものの、ナウリアにとってはとても忘れられそうにない事実だった。
カエトスは王女の暗殺を目論む者と、自身の抱える問題の二つに命を脅かされている。そして今日はこれから霊獣の脅威にもさらされるのだ。
彼はそれを自分の判断で受け入れたのだろうし、それに対する見返りも得られる。だがそれは本当にカエトスにとって十分と言えるものなのだろうか。ナウリアが嫁になることや、職を得ることが彼の命と釣り合っているとは、とても思えなかった。
「……私が何か力になれればいいんですが」
その思いがふと口をついて出る。するとネイシスが唐突に切り出した。
「カエトスは好きか?」
「突然どうしたんです?」
「いまカエトスの力になりたいと言っただろう。それに関係がある。あいつのことをどう思っているんだ?」
右肩に座っていたネイシスが立ち上がった。姿は依然として見えないが、右耳をつかみながらナウリアの顔を覗き込むようにしているのがわかる。
ネイシスは、これまでの超然とした態度とは打って変わって妙に意気込んでいた。その様子に戸惑いつつ、ナウリアはカエトスの姿を思い浮かべた。
「それは……私だけではなく、殿下や私の友人も助けてくれましたし、最初の印象からは想像できないほどに紳士的でしたし、いざというときに頼りになる方のようですし、何よりも自分のことを省みずに人のために邁進する姿には感銘を受けました」
「つまり、好きということか?」
「そう……ですね。どちらかと言われれば、そういうことになります」
単刀直入に尋ねるネイシスに、ナウリアは言葉を濁しながら答えた。
ネイシスから告げられた事実もあって、ナウリアがカエトスに抱く感情はもう少し好意的なものへと変わっていたが、さすがにそれを赤裸々に口にしてしまうのは気恥ずかしかった。
「そうか。ならばもっと好きになってくれ。そうすれば自然とカエトスの力になれる」
「それは結婚することになるかもしれない方ですから、前向きに検討させていただきます。ですが、それとこれとどういった関係があるんですか?」
「いずれ話すときがくる。いま言えるのは私はお前を応援するということだ。困ったことがあればできる範囲で力になってやろう」
ネイシスはそう言うと、ナウリアの耳を軽く叩いた。
どうやらネイシスは、カエトスとナウリアの関係が進展することを望んでいるらしい。
カエトスを取り巻く新たな事実を聞かされたり、レフィーニアに魔手が忍び寄っているという懸念が依然として晴れなかったりと、不安が全て払拭されることはなかった。しかしネイシスの態度や言葉の端々からは、ナウリアを気遣う雰囲気が伝わってきていた。それがナウリアの心をいくらか軽くさせてもいた。
姿は見えないままだが、ナウリアはネイシスという妖精が気に入り始めていた。
「ではみんなが無事に戻って来たら、お手伝いをお願いします」
「うむ。任せておけ」
力強く答えたネイシスの手がふと離れた。肩の感触からして立ち位置を変えたとわかる。彼女は水平線の彼方に目を向けているようだった。
「どうしました?」
「カエトスが悩んでいる。少し助言してやるからしばし待て」
そう言うとネイシスは微動だにせずに押し黙った。
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