第22話 不可視の追跡者

 右肩に乗っている二つの小さな足が何度か動いた。その主である小さな妖精ネイシスの思念が頭の中に響く。

 

(ナウリア。ここからは声を出さずに会話をするぞ。やってみろ)

(これでよろしいですか?)

(うむ。では、まず岸に戻れ。慌てず自然な動作で、それでいて早くだ)


 ナウリアが早速頭の中で言葉を発すると、ネイシスはすぐさま指示を出した。

 現在地は小型の漁船が停泊している桟橋の先端だ。ナウリアは回れ右をすると、ネイシスの指示に従って岸に向かった。

 ネイシスの態度が変わったのは、ウルトスにいるカエトスと連絡をとると言ってほどなくのことだった。漂う緊迫感に警戒心が刺激される。

 

(何が起きているんです?)

(港のあそこにでかい建物があるだろう。いまは掃除している人間が十人ほどいるところだ。わかるか?)


 依然として姿を消したままのネイシスが、肩の上でもぞもぞと動く。仕草が見えないため言葉のみで判断するしかないが、どうやら指を差しているようだった。

  

 ナウリアは歩みを止めないまま目を凝らした。ネイシスの言う建物は、収穫された魚介類を競りにかける魚市場のことらしい。屋根と柱だけの開放的な施設内を、鉄の容器や柄の長い箒のようなものを持った十人前後の人間が、水をまきながら清掃している。


(あそこには姿を消している人間がさらに五人いる。それが全員こっちを見ていて、近づいてきている。私は奴らには見えていないから、狙いはきっとお前だ。桟橋の入口を封鎖される前に岸に行け)


 ネイシスは紛れもない事実を述べている。それは理解しているが、ナウリアの目に映るのは、朝の一仕事を終えて気だるげな雰囲気に包まれている漁港だけだった。

 

(ネイシス殿。本当に……いるんですか? 全くそれらしい気配はありませんが)

(いる。奴らは人間に見える光だけを操って自分の姿をくらましているんだが、私は人間に見えない光を見ることができるから丸見えだ)


 淡々とした中に刃のような鋭さを秘めたネイシスの声に、ナウリアは否応なく緊張を高めさせられた。それとともに脳裏に不穏な推測がよぎる。

 

(服装などに、ネイシス殿が見た不審者との共通点はありますか?)

(いや、ないな。あの連中は、そこにいる猟師と大差ない格好をしている)


 ネイシスの言う猟師とは、停泊している漁船の上で漁具の手入れをしていた男のことだ。彼は茶系統の地味な服を着ていた。透明化している者も、それと似た服装をしているということなのだろう。


(……では、暗殺者と関係があるかどうかは不明ということですね)


 ナウリアが真っ先に思ったのは、レフィーニアを亡き者にしようと目論む者の一派ではないかということだった。

 もちろん、身代金目当ての人さらいという可能性もある。ナウリアの素性は、服装から王女付きの侍女であると見抜ける者もいるだろうし、王家は身代金を要求する相手としては、かなりの危険は伴うものの最高の相手でもある。成功すれば、巨額の金を手に入れられると夢見る者も当然出てくるだろう。しかしレフィーニアが危険にさらされている今、透明化の技を習得している賊がそう都合よくナウリアの前に出没するだろうか。

 ナウリアはレフィーニアの姉だ。王女をおびき出す餌としては申し分ない。そのような観点から警備が厳重な王女を直接狙うのではなく、搦め手を用いる方針に変えたと、そうは考えられないだろうか。

 

(ナウリア。いまは逃げることに集中しろ。追いつかれたらかなり厄介だ)


 知らずに思考に没頭しかけていたナウリアは、ネイシスの指摘で我に返った。

 今朝ミエッカに言われたように、ナウリアは荒事には向いていない。体を動かすことは苦手ではないし、ミュルスやリヤーラを扱う訓練もしている。しかしそれは日常生活に用いるためのもので、ミエッカのように戦いに使うためではない。もし賊と接近してしまったら、無事に乗り切れるとは到底思えなかった。

 ナウリアは大きく呼吸をして自分を落ち着かせながら、緩んでいた歩調を速めた。

 

(そこから、岸壁の縁に沿って右に向かえ)


 桟橋と岸との接合部に着いたナウリアの正面は、魚市場と冷蔵機能付きの倉庫が立ち並ぶ区画になっている。ネイシスの指示に従って右に曲がり、交易船が多数停泊している港の東側を目指した。

 

(やはりお前が狙いのようだ。奴らがこっちに向かってきている)


 ネイシスの冷静な分析が、波が優しく岸壁を打つ音とともにナウリアの頭の中に響く。何かの間違いではないかとどこかで思っていたが、それは希望的観測に過ぎなかったようだ。

 

(もうすこし進めば人間が増える。そこに紛れ込んで奴らをまくぞ)

(わかりました。あなただけが頼りです)


 妖精の起伏に乏しい平板な声には迷いが感じられない。それに後押しされるようにナウリアはひたすら歩いた。喧騒がだんだんと大きくなり、それに合わせて人間も増えてくる。

 

 シルベスタン港東部には、交易関連の業務を行う中務省の出先機関や、王都シルベスタンの商人たちで結成された組合の事務所、港西部にあるものよりも一回り大きな倉庫が立ち並んでいる。

 あちこちに船に積み込む予定の木箱や樽がいくつも積み重ねられており、その周りには書類束を持って走る港湾管理官や、身振り手振りを交えて船長らしき人物と交渉する商人、忙し気に歩き回るごつい体つきの船員などの姿がある。そんな労働に勤しむ男たちの合間を、荷物を運搬する動力車や、吊り上げ機を搭載した動力車がひっきりなしに行き交う。

 活気に満ちる人の群れの中に入ったナウリアは、それをかき分けるようにして進みながらネイシスに尋ねた。


(どうです? まだ追って来ていますか)

(来ている。が、人間どもが増えて速度が落ちた。今のうちに港を出てしまえ。城に戻って親衛隊の詰め所にでも籠れば、難をしのげるだろう)


 ネイシスの提案は妥当なものだった。味方と合流すれば襲われる心配はなくなるはずだ。

 ナウリアは進路を左へと変えた。方角は北。人混みを抜けて倉庫街の合間の細い通りへ入る。

 風雨にさらされ年季の入った石壁に囲まれた路地は、太陽の光がほとんど差さず薄暗い。いくつかの交差点を直進して路地を抜けると広めの通りに出た。肉の焼ける香ばしい匂いや、香辛料、酒の匂いが漂ってくる。その源は通り沿いに何十軒と立ち並ぶ木造の建物からだ。

 開放された建物の入り口では、胸元を大きく開けたドレス姿の女たちが、通りを歩く背嚢を担いだ男たちに向かって艶やかな笑みを送ったり、媚びた仕草で男の腕をとり、中へと招き入れたりしている。

 

 ここは船員を相手にする宿屋と娼館を兼ねた建物が立ち並ぶ区画だ。真面目を体現したような侍女服を着たナウリアにとって場違いも甚だしい。追跡者をまくどころか返って目を引いてしまう。

 ナウリアは通りを支配する退廃的な空気から逃げるように宿屋街の通りを横断して、真向いの路地に入った。

 

 宿屋は倉庫よりも高さが低いため、その合間の通路はそれほど暗くなかった。進路は変わらず北のまま。真っ直ぐに進めばそのうち港を出て街区に入る。そのあとはシルベスタンの街を巡回している定期動力車を見つければ、安全に王城に辿り着ける。

 ナウリアが今後の行動を思い描いていると、ネイシスが鋭い警告を発した。

 

(ナウリア、この道は駄目だ。正面に人間がいる)


 道幅は三人が並んで通れるほど。その先に目を向けるも誰もいない。ということは姿を消している。

 ナウリアはすぐに停止して振り返った。宿屋街を歩く人間が見えたが、路地を塞ぐ者はいない。そのまま来た道を引き返そうとすると、再びネイシスが制止した。

 

(待て、後ろにもいる。脇道を行け)


 ネイシスの声に緊迫感が増す。

 いけない流れのような気がした。逃げることを優先するあまり、選ぶべき道を間違えたかもしれない。

 ナウリアは募る焦燥を抑え込み、手近な曲がり角を左に曲がった。

 

(よし、この先は誰もいない。そのまま進め。私は少し様子を見てくる)


 ナウリアの肩にあった二つの小さな足の感触が消えた。その途端、まるで親とはぐれた迷子のような心細さに襲われる。

 

(……何を情けないことを!)


 ナウリアは自分を叱咤した。レフィーニアとミエッカの二人が戦いに挑んでいるというのに、長姉である自分が醜態を見せるわけにはいかない。妹たちの顔を思い浮かべながら勇気を奮い立たせ、小走りで路地を進む。

 宿屋街から再び倉庫街に入ったようだった。左右の壁が高くなり、薄暗さが増す。

 不意に左肩に感触。

 

「……っ!」


 無意識に体がびくっと硬直した。反射的に左肩に向かって右手を振るう。それが空中で止まった。手の平に小さな手の感触があった。

 

(落ち着け、私だ)


 ネイシスの冷静な声にナウリアは膝から崩れそうになった。驚かさないでくださいと抗議の声が出かかるがそれをぐっと呑み込む。

 

(そこを左に曲がれ。人間はいたが姿を消していないから、刺客じゃないはずだ)


 ナウリアは心臓が飛び出そうなほどに鼓動が早まっていた。大きく深呼吸をしてネイシスの示した角を左に曲がる。

 言葉通り、路地の途中に男がいた。人数は二人。木箱に座る男と、壁に背を預けている男。港で働く労働者が好んで着用する厚手の上着とズボンを着ている。酒を飲んでいるのか、二人とも手には瓶を持っていた。ナウリアを認めると、会話を止めて怪訝な表情を浮かべる。

 ナウリアの服装は清潔感に満ちていて、薄暗い倉庫街にはまるで似つかわしくない。男たちの顔はまさにそう言っているようだった。

 絡まれてはたまらない。ナウリアは視界の端に彼らの姿を収めつつ、目を合わさないように横を足早に通過する。

 男たちは首を傾げつつも特に声をかけるでもなく、そのままナウリアを通した。

 小さく安堵の息をついてナウリアがさらに進もうとしたそのとき、突然左肩を押された。路地の壁に体を預ける格好になったナウリアの視界の片隅に、光を反射する鈍色の物体が映る。それは直前までナウリアがいた空間を正確に射抜いていた。

 

(走れ!)


 ネイシスの鋭い指示が飛んでくる。

 ナウリアはすぐさま駆け出そうとしてつまずいてしまった。壁に手をついて体を支える。突然のことに体の反応がついていかない。足に力が入らず、背中を冷や汗が伝う。

 ナウリアはいま殺されるところだった。光る物体は短剣の刃であり、あのまま歩いていたら確実に背中から刺し貫かれていた。

 

 つまずいた反動で体が背後に向く。男が鋭い目つきで見据えていた。手にあった酒瓶は姿を消し、代わりに短剣を持っている。右側には、突き出した短剣を今まさに引き戻している男がいた。二人が放つ気配は、荒事に不慣れなナウリアでもはっきりとわかった。殺気だ。

 

 ネイシスの言う通りに逃げなければ。

 ナウリアは足に力を入れて走ろうとした。しかし男たちの反応は速かった。正面の男が素早く短剣を投擲し、右の男が刃を薙ぎ払う。

 殺意に漲るその動作をどちらもナウリアは視認していた。しかし同時に繰り出された攻撃に、どう避けるべきか迷いが生じる。その結果、ナウリアは一瞬完全に止まってしまった。そこに縦に回転する短剣と、側方からの横薙ぎの一撃が迫る。どちらも直撃すれば致命傷は免れない。そうとわかっていてもナウリアにできたのは、顔を背けながら両手をかざすことだけだった。

 

 数瞬後に襲いかかってくるであろう激痛をナウリアが覚悟した瞬間、不可思議なことが起きた。

 投擲された短剣が空中でぴたりと止まったのだ。一瞬の後には、投げつけた男自身へ飛翔し、その胸に深々と突き刺さる。男は見開いた目で自分の胸を見下ろし、柄をつかもうとしてその途中で仰向けに倒れた。

 同じような鈍い音は、もう一度ナウリアの耳を打つ。

 脇に目を向けると、ナウリアを斬りつけようとしていた男も地面に倒れていた。体を痙攣させながら苦しそうに胸をかきむしるが、すぐにぴくりとも動かなくなる。

 茫然とそれを見下ろすナウリアの脳裏に、静かな怒りに満ちた声が響く。

 

(愚か者どもめ。私が守る者に手を出すからこうなる。死んで後悔しろ)

(今のは……ネイシス殿が?)

(そうだ。短剣は投げ返して、こっちの男は心臓を止めてやった。おかげで少し力を使わされてしまった)


 その一言にナウリアは、ネイシスが力を使うとカエトスの寿命が縮むという話を思い出した。

 

(……申し訳ありません。私のせいで──)

(謝ることはない。お前を守るために力を使うのを躊躇うなとカエトスも言っていた。それより移動するぞ。ここは危険だ)


 見えない小さな手が元気づけるようにナウリアの肩を叩く。その感触とカエトスの気遣いに胸が熱くなった。恐怖に縮こまっていた体に活力が戻ってくる。ナウリアはそれに後押しされるように移動を再開させた。

 

(どうやら奴らは、自分たちが見られていることに気付いたな。だから敢えて姿を現していた。悪知恵の働く人間どもだ)


 忌々しそうにネイシスが言う。彼女が怪しい人間と判断した基準は、姿を消していること。ナウリアをつけ狙う賊は、それに気付き姿を現すことでネイシスの油断を誘ったのだ。


(とにかく人の多い通りに出るぞ。人間の群れに紛れれば、敵はこっちを見失いやすくなる。敵の人数には限りがあるはずだから、包囲されるより早く抜ければ──)


 ネイシスの言葉が途切れた。ナウリアも足を止める。路地の先に行く手を遮るように人間が立っていた。

 数歩先は十字路になっている。ナウリアは素早く進んで、曲がり角の左右を確認した。誰も居ない。まだ包囲されていない。そう希望を抱き、左に曲がろうとしたが、すぐに足を止めさせられる。音もなく男が出現したのだ。その数は三人。まるで空気の中から這い出すように、ゆっくりと歩きながら姿を現す。

 ナウリアはすぐに振り返った。右に曲がった先にも三人の男たちがいた。ナウリアがいまやって来た路地にもご丁寧に三人の男たちの姿がある。四つの進路全てが封鎖されていた。

 ナウリアがどうするべきか結論を出す暇さえ与えずに、男たちは一斉に向かってきた。

 

(突破する! お前は真っ直ぐ走れ! 私が守ってやる!)

(ですが……!)


 ネイシスの言葉は力を使うという宣言に他ならなかった。しかしそれではカエトスの寿命が縮んでしまう。そこまでして自分は生き延びていいのだろうかとの強い迷いが生じる。

 

(いいから、お前は逃げることだけ考えろ。それがカエトスの願いでもある。さあ走れ!)


 小さな手が迷うナウリアの背中を力強く押した。

 ナウリアは決断した。両手でスカートの裾を持ち上げ、駆け出す。


 前方の三人の男がそろって足を止めた。腰から短剣を抜いて構える。が、突然胸を押さえて苦しみだした。膝から崩れ落ちて、呻き声を上げながら体を小刻みに痙攣させる。おそらく妖精の力で心臓を止められたのだ。

 ナウリアは倒れた男を飛び越えてさらに走った。

 

「逃がすな、追え!」

 

 背後で怒声が上がると同時に、鋭い金属音が何度も路地の石壁に反響する。

 どうやら短剣が投げつけられていて、それをネイシスが防いでいるらしかった。それにわずかに遅れて、重いものが倒れる音がナウリアの耳を打つ。

 ナウリアには背後を確認する余裕は欠片もなかった。

 妹のミエッカならば、ネイシスとともに戦うことができるのに、ナウリアにはそのような芸当はできない。

 当然、自分自身の体にミュルスの力を付与して、人間の限界を超えた動きをするなど無理だ。それができれば、もっと容易に逃げられたのに。人には向き不向きがあるとはいえ、それを思うと後悔で一杯になる。

 

 自分の才能のなさに歯噛みしながら駆けていると、不意に背後からの怒声や金属音が止んだ。

 追跡の手が緩んだのか。ナウリアが安堵しかけたそのとき、ネイシスが痛恨の声を上げた。

 

「しまった……!」


 次の瞬間、ナウリアの視界が真っ白に染まった。同時に轟音が耳をつんざく。体の感覚が消えて、自分の姿勢がわからなくなった。一瞬意識が飛んで、ふっとそれが元に戻る。手足が痺れていて、激しい耳鳴りがしていた。後頭部に硬い感触があり、ぼんやりとした青いものが見える。

 ナウリアは仰向けに倒れていた。目に映っていたのは路地の合間から見える青い空。

 天を仰ぐ視界の端に、突如黒い影が映り込む。それは短剣を逆手に構えた男だった。それも一つではなく、最低でも四つ以上。

 ナウリアが倒れたその隙をついて、敵が飛び掛かって来たのだ。

 回避しようにも体がしびれて動かない。

 刃が胸元に迫る。

 駄目だ。かわせない。ほんの一瞬の後には、体重を乗せた刃を突き立てられてしまう。

 そう思った瞬間、父と母、妹たちの顔がナウリアの脳裏をよぎった。そしてもう一つの顔が浮かぶ。それはカエトスの顔だった。

 皆に伝えたいことが頭の中に溢れだす。感情と記憶の奔流は、しかしはっきりとした形になるまでの時間を与えられなかった。鈍色の刃はもうナウリアの胸に吸い込まれようとしていた。

 ナウリアは本能のままに強く思った。

 

(誰か助けて……!)


 そのとき、一陣の風が路地を吹き抜けた。

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