第11話 求婚再び
石畳の左右には色とりどりの花々が咲き誇り、無数に枝分かれする小川が陽光を反射しながら静かに流れている。
カエトスの前には、規則正しく左右に揺れる艶やかな黒髪がある。その主であるナウリアは、凛とした姿勢で黙々と通路を歩いていた。服装は純白の上着にスカートと変わりないが、その上に灰色の外套を一枚羽織っており、左手に書類や金などを入れる黒い革製の小さな鞄を携帯している。
ヴァルスティンの宿舎を出たカエトスとナウリアは、昇降機を利用して内郭から外郭へと降り、王城アレスノイツの城門に向かっているところだった。
(なあカエトス。何でここはこんなにだだっぴろいんだ? しかも建物が何もない)
カエトスの肩に腰かけているネイシスが疑問を思念で伝えてきた。
彼女が指摘したように外郭は非常に広く、内郭とを隔てる崖と城壁との距離は二百ハルトース(約二百四十メートル)近く、東西はおよそ一ティエトース(約千二百メートル)ほどもある。面積でいえば内郭や中郭よりも広い。なのに建物が何もない。あるのは煉瓦で整然と分けられた区画とそこに植えられた花たち、そしてその合間を合流と分岐を繰り返しながら流れる何本もの小川だけだ。しかも昇降機の乗降場と城門とを結ぶ石畳の通路は大きく蛇行しており、道のりは想像以上に長い。
(たぶん防衛上の理由だな)
カエトスはそう答えつつ、その詳細を頭に思い描いた。
通路が蛇行しているのも、小川にいくつも人工的な支流を作っているのも、城壁を乗り越えてきた敵兵の行動を阻害するためのものだろう。そして木々が植えられていないのは、外郭に侵入した敵兵を隠れさせないため。彼らが小川の渡河に手間取る隙に、内郭で待ち構える兵士たちが一斉にそれを攻撃するというわけだ。
(何も考えずに平和を享受していられないとは、難儀なことだな)
(まったくだ)
カエトスの思考を読み取ったネイシスがため息交じりに言う。見た目は平和そのものの光景である庭園が、戦のことを考えて造られている事実にさすがの女神も呆れていた。
カエトスはそれに心の底から同意した。
この城が本来の役目を果たすときなど来なければいいのだが。
そんなことを考えながら歩くことしばらく、ほどなく城門へとたどり着いた。
城門は跳ね橋になっていて、橋を上げることでそれ自体が門を塞ぐ扉になる構造だ。いまはそれは下げられていて、市街地と城とを隔てている堀の上で橋としての役目を担っている。
城門のすぐ手前には木製の柵が横一列に並べられていて、その手前と奥にそれぞれ等間隔に兵士たちが立っていた。
「カエトス殿。こちらへ」
前を歩くナウリアが通路左脇の木造建築へと入って行く。それに続いて中に入ると正面に長机があり、黄色のローブ姿の役人たちが十人ほど座っていた。そしてその倍以上の人間が長机に向かって幾つもの列を成している。趣味の悪い華美な服をまとった、いかにも成金といった服装の中年の男や、小奇麗な服装の女、そこにいるだけで捕縛されそうなほどに薄汚れた格好の痩せた男など、性別も年齢も様々だ。
「城に出入りするときにはこの管理所で所定の手続きを取らなければなりません。覚えておくように」
ナウリアが小声でささやく。
城門を解放しておきながら柵で封鎖していたのは、王城へやって来る市民の出入りを把握する管理所へ誘導するための措置だったようだ。
市民たちが自分の名前と来訪の目的を告げると、役人が机上の帳面に万年筆を走らせ、金属製の札──入城許可証を手渡している。
次々と手続きが進む中、ナウリアは机の右端に座る役人のもとへ歩み寄った。
カエトスは見逃さなかった。ナウリアの来訪に気付いた役人たちが目を丸くして、次いで表情を緩めたのを。市民を相手にした仕事中であるために全員すぐにそれを引っ込めたが、そこには決して小さくはない好意が見て取れた。さらには順番待ちをしている男たち、そして女たちも彼女に目を向けた瞬間、ぽかんと口を開けて見惚れる。やはりナウリアの気品ある容姿と気高い雰囲気は、万人の目を惹きつけずにはいられないものだった。
「こんにちは。外出の手続きをお願いします」
ナウリアは周囲の視線に気づいた風もなく机の前で立ち止まると、鎖につながれた銀製の小さな物体を胸元から引っ張り出した。大きさはシルベリアの通貨の一つであるロウス銀貨と同じほど。五枚の花弁を持つ花の形をしていて、表面に三日月が描かれている。王女付きの侍女であることを示す〝桔梗に三日月〟の記章だ。
「ああ、記章はよろしいですよ。ナウリア様のことを間違うわけがないですから」
役人とナウリアとは顔見知りらしい。慣れた様子で答えると、すらすらと帳面に万年筆を走らせた。一般市民のように外出の理由を尋ねることもない。
この役人も他の者と同じくナウリアに好意を持っている者の一人に違いなかった。その顔には明らかに仕事以上の感情を抱いていると感じさせる満足げな笑みが浮かんでいる。
「帰城は六エルト半(午後一時ごろ)を予定しています」
「わかりました」
帳面に時刻を書き入れた役人がふと目を上げた。その顔に疑念の色が浮かぶ。
「ナウリア様、そちらの男は?」
「私はこういう者です」
カエトスは先ほどナウリアから渡された銀製の記章を上着のポケットから取り出して見せた。
大きさはナウリアの記章と同じほどで、形は八角形だ。表面には〝三日月を囲む星々〟の図柄が刻印されている。親衛隊ヴァルスティンの記章だ。
「お前、ヴァルスティンの一員なのか? あそこには男はいないはずだぞ」
役人の疑いの眼差しがさらに強くなる。
ナウリアは記章を見せるだけで詳細を聞かれなかったことから、カエトスもそのようにことが運ぶと考えたがやはりそこは甘くなかった。
しかしいったいどのように説明すればいいのか。王女の周辺で起きた出来事など一役人が知る由もないし、わざわざ教える必要もない。かと言ってそこに触れずに説明したところで果たして納得させられるだろうか。
カエトスがあれこれ考えていると、ナウリアが助け舟を出した。
「ご心配なく。彼は間違いなくヴァルスティンの隊員です。名はイルエリヤ・カエトス。用向きは私と同じです」
「……そうですか? ナウリア様がそうおっしゃるのでしたら、大丈夫なのでしょう」
役人は愛想笑いを浮かべながら頷いたものの、その目から疑念は晴れない。
いや、これは疑いというよりも羨望や嫉妬に近いようにカエトスは感じた。憧れの女の傍らにどこの誰かもわからない男がいるという事実が気に障ったに違いない。
「カエトス殿、参りますよ」
ナウリアに促されカエトスは踵を返した。男たちの負の感情漂う視線を背中に浴びながら、管理所のもう一方の出入り口から外に出る。
ナウリアはすでに城門に向かって歩き出していた。登城する市民たちとすれ違いながら堀にかかる跳ね橋を渡る。対岸は堀に沿って広い道路が東西に走っている。ナウリアはそこを右へ曲がると歩みを止めないまま、斜め後ろに付き従うカエトスへと目を向けた。上品な仕草で手招きをする。並んで歩け、ということらしい。
(ネイシス、ここからは何が起きてもおかしくない。警戒頼む)
(任せておけ)
カエトスは歩調を速めながらネイシスに呼びかけた。短いながらも力強い返答に思念で礼を伝えつつ、イルミストリアの記述を思い浮かべる。
これから起こる試練の内容はこうだ。
『大陸暦二七〇七年五月十四日、五エルト四十ルフス(午前十一時二十分頃)の刻、王城アレスノイツ兵部省内において、カシトユライネン・ミエッカの指示を受諾し、カシトユライネン・ナウリアをそれに同行させ、これを無傷のまま指示を完遂せよ』
ミエッカからの指示を受けた時点でおそらく試練は始まっている。つまりこれからナウリアが負傷しかねない〝何か〟が起きるはずなのだ。
カエトスは周囲に油断なく注意を向けながら、そしてこれから始まる尋問への覚悟を決めつつ、ナウリアの左側に並んだ。
ナウリアはそれを一瞥するとおもむろに切り出した。
「今朝、あなたのことについて追加の情報を、殿下からいくつか伺いました。リタームという外国の出身であることや、実家に複雑な事情を抱えていることなどです。そしてそのために、あなたは働き口を求めてシルベリアにやって来た。その真偽を今すぐに見極めることはできませんが、仮にこれが真実だったとしても、私にはあなたの動機や行動について納得できませんでした。理由は次の通りです」
ナウリアの視線が少し高い位置にあるカエトスの目を射抜く。
「あなたは昨日、今回の一連の暴挙を、城に仕官するために引き起こしたと言っていました。家を出て後ろ盾を失ったあなたが生活のためにそれを望むのは一見矛盾はしていません。ですが私はその説明を鵜呑みにはできません。なぜなら、あなたは自分の身分を証明できないからです。そのような人間が城に仕官するのは非常に困難です。素性の知れない人間を城に入れるわけにはいきませんから。それをあなたは当然知っていた、もしくは予測していたはず。なのにあなたは危険を冒してまでわざわざ城に侵入してきた。それはなぜなのか」
ナウリアはそこで言葉を切ると、さらに光を増した瞳をカエトスに向けてきた。
「その理由を私はこう考えました。あなたは狂人の類であり、だからこそあのような暴挙に及べたのだと。周りの方もそのように受け止めたことでしょう。でも違う。あなたは理性と自制心を持った冷静な人間です。にもかかわらず、あなたは城に侵入し、ミエッカを挑発し決闘を挑み、そして軟禁状態なのに抜け出し夜の城を駆け回りさえした。しかもほとんど迷いを抱くことなく。……いいえ、それどころか、昨晩のあなたは自信に満ちているというか、確信のようなものを抱いているようにすら見えました。まるで……何者かに手引きされているかのように」
ナウリアは一切言葉を荒げてはいない。しかしカエトスは身が竦む思いがした。彼女の言葉に込められた殺気じみた迫力に。
「そして私が一番理解できないのは、殿下があなたに執着していることです。あの子が見ず知らずの人間とこれほど積極的に話すところを見たことがありません。しかも私たちを追い出してまで。あなたは理由を知らないかもしれない。でも想像はつくはず。さあ、答えてください。あなたはいったい何者で、真の目的は何なのか。そして殿下はなぜあなたを気にかけるのか。さあ……!」
ナウリアの歩調が緩まった。カエトスを警戒するように半歩離れて、左手の鞄の陰に右手を隠す。カエトスが何か妙な行動をとったら何らかの対抗措置を取るという構えだ。おそらく武器の類を忍ばせているのだろう。
カエトスが本当に王女の暗殺を目論む者であった場合、あからさまな疑いを向けたナウリアはこの場で殺されるかもしれない。彼女はそれを覚悟した上で、このような直接的な尋ね方をしたのだ。
(ふむ。カエトスの行動を見ただけで何らかの誘導の存在に勘付くとは、なかなか鋭いな)
ネイシスの感嘆混じりの平板な声がカエトスの頭の中に響く。
全くもってカエトスも同感だった。しかもナウリアの勘は的を射ている。聡明な彼女に対して迂闊な対応は危険だった。カエトスに対する疑念がいまだ強いこの状態でただの言い訳をしようものなら、もはや回復不可能なほどに信用を失ってしまう。
カエトスは必死に考えた。ナウリアの信用を勝ち取りつつ乗り切るにはどうすればいいのかを。
全くの嘘は駄目だ。絶対に知られてはならないことを見定めて、それだけは隠し通す。
「どうしました。答えられないのですか?」
ナウリアの放つ気配に刺々しさが加わる。歩みがさらに遅くなり、鞄をつかむ左手に力がこもる。
カエトスは焦燥に駆られながらも急いでまとめ上げた説明を素早く吟味した。どこかに落とし穴がある可能性はあったが、それを検証している余裕がない。カエトスは腹をくくると重々しい口調で話し出した。
「たったあれだけの時間でそこまで見抜かれるとは、侍女長殿の慧眼に感服いたしました。侍女長殿が推測された通り、私はある指針に従って動いていました」
「……それはどのようなものなのですか」
カエトスがあっさりとナウリアの疑念を肯定したためか、彼女の警戒の色が強さを増した。カエトスの仕草や態度の変化を見逃すまいと眼光が鋭くなる。
「実はそこに妖精がかかわってくるのです」
「昨晩のあれ……ですか?」
眉をひそめるナウリアにカエトスは頷き返した。肩の上で小さな女神が身じろぎする。
(……私か?)
(すまない、少しお前のせいにする)
カエトスはネイシスに謝罪しつつ話を続けた。
「はい。彼女はある力を持っていまして、私はそれを頼りに今回の行動を起こしたのです。その力とは、未来を部分的に知ること」
「未来ですって……?」
ナウリアの目が見開かれた。事実なのかと問いただすようにカエトスの目を見つめる。
「驚かれるのも無理はありません。ですがこれは本当のことなのです。私は家を離れた後、各地を転々としていまして、数か月前に流れ着いたのがティアルクでした。これまでそこを拠点に暮らしていたのですが、日雇いの仕事ばかりで収入が安定せず、嫁をもらうこともできないという状況でした。そこで妖精に、王宮に上手く仕官する方法がないかと聞いたところ、未来を占ってやろうと言われたのです」
(ふむ、そういう筋書きか。しかも嘘は言っていない)
カエトスの意図を読み取ったネイシスが感心したように言う。
そう。これは嘘ではない。収入は安定していなかったし、嫁をもらうこともできなかった。人間の仕事についてネイシスと話したときに王宮の仕事について言及したこともあり、冗談交じりに占いの話をしたこともある。
これを聞いた者は、カエトスが苦しい生活を送っていたために妖精に救いを求めたように聞こえることだろう。
だがそれは違う。
不安定ではあったものの、危険な仕事を受けていたために一度の収入は多く困窮はしていなかったし、嫁をもらえなかったのは、複数の愛情を得るために結婚しようにもできなかったからだ。
「その占いに王城に侵入しろと出たわけですか?」
そう尋ねるナウリアの表情からは、心なしか疑いの色が薄れているように見えた。ナウリアは当然カエトスの真の事情など知る由もない。しかし彼女は昨晩、ネイシスの力を直に体験している。カエトスの説明にいくらかの信憑性を感じ取ってくれたのだろう。
「そうです。私に迷いがないように見えたと侍女長殿は仰っていましたが、それは占いの通りに行動しようとしたからでしょう。もちろん、占いにあったからといって神殿という神聖な場所に無断で侵入することなど、正気の沙汰ではないと思われるでしょう。ですが、妖精が我々の常識を超える力を持っていることは、侍女長殿もご存知のはず。現に私は殿下のお目に止まり、こうして親衛隊に抜擢されました。彼女の力が本物であることは説明するまでもないでしょう。……これで納得していただけましたか?」
遠慮がちに尋ねるカエトスを、ナウリアは口を閉ざしたまま真偽を見定めるようにじっと見つめる。それは無言の尋問だった。内心の少なくない動揺を必死に押し隠しながらその視線を受け止めることしばらく、ナウリアがふと表情を緩めた。
「カエトス殿、あなたは運がよかったですね。昨晩の体験がなければここで引き返して、あなたを衛兵に突き出しているところでした」
「ということは──」
「ええ。少々信じ難い話ではありますが、腑に落ちたのも事実です。これから起こることを知っているのなら、あなたの常軌を逸した行動の数々も頷けます。あんなものは、まともな思考の持ち主の所業とは思えませんからね」
カエトスは内心胸を撫で下ろした。そこへナウリアが不意をつくように問いかける。
「ですが、やはり疑問も残ります。あなたは確かに外国人ではありますが、武技に秀でています。このようなことをせずとも時間をかけて手順を踏めば、一兵卒には採用されたことでしょう。その上で実績を積み重ねれば安全に昇進して収入を増やせたはずです。なぜ妖精は今このときを選んだのですか?」
やはりナウリアは鋭かった。カエトスの説明では仕官を急ぐ理由について言及していない。そこを的確についてきた。
カエトスは平静を装いつつ急いで理由を探してみたが、余りにも時間が短すぎて結局見つからなかった。この際だから、面倒なところは全部ネイシスに被ってもらうことにする。
「それは妖精もわからないと言っていました。彼女自身、未来の全てを見通しているわけではないようなので……」
歯切れの悪い説明をするカエトスに、再びナウリアがじっと視線を注ぐ。
「……なるほど。万能の力というわけではないのですね。ではもう一つの問いです。レフィ──いえ、殿下があなたに執着する理由はどうですか。心当たりは?」
追及を凌いだものの、ナウリアの尋問はまだ終わらない。
ただこの問いに対する答えをカエトスはすでに見出していた。もちろん、王女がカエトスを婿に迎えようとしているから厚遇しているなどとは話さない。レフィーニアがカエトスに執着する理由は他にもあるのだ。
これも口止めされていたことではあった。しかしナウリアは王女の姉だ。そして妹の身を強く案じている。追及を切り抜けるための手段とは別に、カエトスは伝えるべきだと思っていた。
王女に心中で謝罪しつつ、慎重に話し出す。
「侍女長殿。あなたは昨晩、クラウス王子たちの会話を聞いています。ですからお話ししましょう。ただこれは殿下に口止めをされていたことで、私の独断で話すと決めました。どうか殿下にはご内密に」
声を潜めるカエトスの口調の重さに、ナウリアは神妙な表情で頷いた。視線で先を促す。
「殿下は、昨日の神殿の儀式でご自分が死ぬことを知っていたと仰っていました。何でも神託があったのだとか」
「な──」
ナウリアは声を上げようとして慌てて自分の口元を手で押さえた。カエトスのもとへ一歩近づき、囁くように尋ねる。
「それは本当ですか?」
「はい。そして私が儀式に乱入したことで、それを免れたとも仰っていました。私は今話したように妖精の占いに従って神殿に侵入したわけですが、それが結果として殿下をお救いすることになったようです。殿下が私に声をかけて下さるのは、その辺りの事情があるのだと思います」
「……死ぬはずだった自分を救ったから、ということですね?」
「おそらく。殿下にはまだ妖精の占いについてはお伝えしていませんが、何かを察しているのかもしれません。それに加えて、まだ危機は去っていないとも口にしておられましたから、ご自身を守るために私を傍に置こうとしたのでしょう。それともう一つ、これも口止めされていたのですが……殿下は姉君である侍女長殿や隊長殿に迷惑をかけたくないともお考えです。お二人が積極的に動くことによって万に一つのことがあってはなりません。一方、私ならば何が起きても、さほど心を痛めることはありません。その点も、私にお声をかけた理由なのではないでしょうか」
レフィーニアが本当にこう思っているかは、カエトスにはわからない。カエトスと共にいなければ王女は死んでしまうらしいことから、カエトスの死を望むということはあり得ないだろう。だが数日前まで赤の他人だったのだ。それが犠牲になったとしても、姉の死ほどに悲しみはしないはずだ。
「ちなみに、私自身はそのように思われていたとしても、特別気にしておりません。殿下にお仕えできることは光栄に思っていますし、危険を承知の上で王都にやってきましたから、むしろ望むところであります。もちろん、危険だからこそ、無事に乗り切ったあかつきには相応に報いてもらえるだろうと期待もしていますが」
「……そういうこと……ですか」
ナウリアは、カエトスの言葉の途中から正面に向き直っていた。ゆっくりと歩を進めながらため息のように紡がれた言葉には、無力感に満ちていた。
ナウリアはレフィーニアのことを心の底から案じている。王女のためなら命を投げ出す覚悟をしているのは、彼女の言動を見ていればすぐにわかる。なのに、王女の危機に何もできないどころか、姉である自分ではなく部外者であるカエトスの力を頼りにされ、そのうえ自分の方が王女に心配されているという事実がナウリアを打ちのめしているのだ。
カエトスは肩を落とすナウリアに何か声をかけようとした。しかし姉よりも頼りにされているカエトスが何かを言うことで事態がこじれはしないか。その危惧が脳裏をよぎってしまい躊躇してしまう。
ナウリアが気を落としていたのは、ほんの僅かな間だけだった。一度長く目を閉じ、次にカエトスに声をかけるときには、その瞳には強い光が宿っていた。
「事情はおおむね把握しました。数々の不法行為に及んだあなたに対して思うところは色々ありますが、いまは殿下のことを第一に考えます」
ナウリアはそう言うとカエトスを凛とした黒瞳で見つめた。
「カエトス殿。私は殿下をお守りするためにあなたの能力、とりわけ妖精の力を借りたいと考えています。そこであなたにいま一度お尋ねします。殿下へ忠誠を尽くすとここで誓えますか?」
その言葉はカエトスにとって望んでいたものだった。
これを承諾することで、ナウリアを味方につけられる。そして彼女との関係構築は、最悪な状態であるミエッカとの仲を改善するための助けともなるはずだ。
しかしカエトスは即答できなかった。
カエトスの口にした言葉はそこかしこに小さな偽りの混じったものであり、完全な事実ではない。一方でナウリアの言葉には、ひたすら妹の身を気遣う高潔な精神が宿っている。その対比がカエトスの胸中にある後ろめたさを強く自覚させる。そのためカエトスの口をついて出たのは承諾ではなかった。
「……侍女長殿、誓うと答えるのは簡単なのですが、私がそう言ったとして私を信用されますか? 自分で言うのもどうかと思いますが、私はかなり怪しい人間です。私がそちらの立場ならまず信用しません」
カエトスのこの返答は想定していなかったのか、ナウリアは一瞬目を丸くすると小さく首を傾げた。
「あなたは奇妙な人ですね。余計なことを言わずに誓うと言ってしまえばいいものを、わざわざ不安を煽るなんて。……何か企んでいるのですか?」
「め、滅相もない。何らかの枷を私に課したほうが、ただ口約束を交わすだけよりも安心されるのではないかと思ったまでです」
怪訝な眼差しを向けるナウリアにカエトスは慌てて弁明した。
やはり馬鹿正直に自分の思いなど口にせずに、素直に誓ってしまったほうがよかったかもしれない。そう後悔したものの、もはや後の祭りだ。
ナウリアはどう出るのか。いまの弁明は受け入れられるのか。カエトスがじっと見守るなか、ナウリアは何度か首肯した。
「……なるほど、そのような意味でしたか。あなたはかなり変則的な気遣いをなさる方なのですね。そこまで言うのでしたら、私からあなたに制約を課します。そうですね、もし裏切ったら思いつく限りの手法を用いてあなたを抹殺することにしましょうか」
「そ、それはすでに隊長殿が実行すると宣言しています。お二人に殺されようにも私の命は一つしかないので、できれば他の制約にしていただきたいと……」
あまりに剣呑すぎる提案に、カエトスは恐る恐る翻意を促した。
「そういえばそうでした。では鞭はミエッカに任せることにして、私は飴を差し上げましょう」
「飴……ですか?」
「ええ。人を縛るのは何も脅迫だけではありません。望んでやまないものを褒美として提示すれば、それを獲得するまで裏切ることはないでしょう」
そう言うとナウリアは人差し指を顎に当てて目を伏せた。そこへこれまで沈黙を保ってきたネイシスが唐突に話しかけてきた。
(カエトス、私にいい考えがあるぞ)
(いい考え?)
(うむ。この女は褒美をくれるのだろう? ならばこの女自身を要求してしまえ)
ネイシスの突飛過ぎる提案に、カエトスは思わず声に出して反論しかけた。ぎりぎりのところで言葉を呑み込む。
ネイシスはカエトスの動揺などどこ吹く風と受け流しながらさらに続けた。
(このイルミストリアを読む限りどうやらこの女はハーレム要員らしいし、この機会を利用してものにしてしまえばいい)
(いやいや、ちょっと待て。そんなこと言ったら逆効果だ。絶対機嫌を損ねる。彼女はかなり身持ちが堅そうだし、軽薄な男は信用されないだろう。せっかく普通に話せるくらいの関係になってきたんだ。それをぶち壊すような真似は──)
「──になりましょうか」
「……いま何とおっしゃいました?」
ネイシスに滔々と反論していたカエトスは、慎重にナウリアに聞き返した。彼女が何かとてつもないことを口走ったような気がしたのだ。そしてそれは間違いではなかった。
「私があなたの嫁になる、と言ったのです」
(ほう。よかったじゃないか、カエトス。向こうから提案してきたぞ)
淡白なネイシスの言葉が頭の中に響く中、カエトスは隣りを歩くナウリアの顔をまじまじと見つめた。
「……本気ですか?」
「冗談でこんなことが言えるはずないでしょう」
ナウリアは特に表情を変えることなく、平然とカエトスを見つめ返す。
「あなたの動機の根底には生活を安定させたいという願望があるようです。嫁のことに言及したのもそれに関係しているからでしょう。そのなかで私に用意できる最大のものと言えばおのずと絞られます。ですからそれを用意したのです」
カエトスはナウリアの顔を穴が開くほどにじっと見つめた。彼女の言う通り、本気で言っているようにしか見えなかった。
「……不服ですか? あなたのお気に召さないのであれば、別の褒美を探しますが」
ナウリアが微かに眉をひそめた。そこはかとなく気分を害したような不満げな響きが声に乗っている。
機嫌を損ねてはまずいと、カエトスは慌てて褒め言葉を並べ立てた。
「い、いえ、そんなことは全然ありません。侍女長殿は魅力的だと思いますし、落ち着いた雰囲気に心安らぐというか、声も聴いていて心地いいですし、何というか地に足をつけたような安心感を覚えます。あなたのような女性を妻に迎えられるのなら、これほど幸せなことはないでしょう」
「……そうですか。ではあなたの働きに対して差し上げる褒美はこれでよろしいですね?」
ナウリアは驚いたように二度三度と目を瞬かせると、決定事項の確認のような事務的な声で淡々と尋ねた。
カエトスは返答に詰まった。脳裏に蘇るのは、浮気は禁止といったレフィーニアの顔だ。これでは姉妹と同時に婚約したようなものだ。
本の課した試練を分析すれば、このような形になることは予想できた。ネイシスもそう読み取っているし、カエトス自身そう思う。だが、これが露見してしまったら、ティアルクで殺されそうになった以上の惨事に見舞われるのではないか。
そしてそれ以上にカエトスを躊躇わせるのは、ナウリアが何を思って嫁になると言い出したかだ。
彼女はレフィーニアのことを、自分を差し出してもいいと思うほどに案じている。だからろくに信頼関係を築いていないカエトスに対してもこのような提案ができたのだ。
その献身的な姿勢に胸が熱くなると同時に苦しくなる。本当にここで承諾してしまっていいのだろうかと。
ナウリアはいまレフィーニアの危機という苦境にある。そこにつけ込んでいるという意識がどうしても拭えないのだ。
(カエトス、迷うのはわかるが返事は一つしかないだろう? さっさと承諾してしまえ)
カエトスの葛藤を読んだネイシスが淡々とした思念を送りながら、小さな手でカエトスの首筋を叩く。その感触は声の調子とは裏腹に柔らかかった。それが躊躇うカエトスを後押しする。
(……だな。俺にできるのは前に進むことだけだった)
(そういうことだ。何、お前ならきっと何とかする)
(ネイシスがいるしな)
カエトスは腹をくくるとゆっくりと口を開いた。
「はい。異存などあるはずがありません。私の力でどこまでお役に立てるかはわかりませんが、侍女長殿の期待に応えられるよう、全力を尽くすことをここに誓いましょう」
「契約成立ですね。では私はこれからあなたを信用するという前提で動きます」
カエトスの宣言にナウリアは小さく頷いた。実質的に婚約したようなものなのに、カエトスに向ける瞳に浮ついた気配は全くない。あるのは強い覚悟の光。
「早速ですが、妖精の未来を知る能力について聞かせてください。具体的にどのような方法でそれを知るのでしょうか」
「それについてお話ししたいのはやまやまなのですが──」
カエトスはそう言うと周りへ目を向けた。
すでに王城を囲む城壁や堀は見えなくなり、街中へと入っていた。
城門付近は貴族の邸宅が多いことから石造建築が多く、冷たい雰囲気を放っていたが、それが木造建築へと変わり、薄汚れてはいるものの温かみを増してきている。
穀物や色彩豊かな野菜や果物、樽など積んだ動力車の往来が目に見えて増え、通りの両端を行き来する歩行者も増加していた。すでに何人かの人間とすれ違っていたが、いずれも小奇麗な格好をしていることから、シルベリアの守護神シルトを祭る神殿への参拝客かもしれない。
カエトスは少し体を屈めると、ナウリアの耳元で彼らの放つ喧騒に負けない程度の声量で話しかけた。
「ここは人が多いです。あまり人には聞かせたくない話なので、また別の機会を設けていただきたいのですが」
「……ではそのようにしましょう」
ナウリアは少し抗う素振りを見せたものの、すぐに同意した。すれ違う歩行者の視線が自分に集中していることに気付いたのだ。その大半が男であり、そのままよそ見をして人にぶつかったり、隣りを歩く女に頬をつねられていたりしている。さすがにこの状況で秘密の会話は無理だ。
「それともう一つ。いま向かっている工房まではまだ遠いのでしょうか? 試験に遅れるわけにはいかないのです」
「……もしや、殿下の身に何か起きると?」
ナウリアはすぐにカエトスの問いの真意に気付いた。
イルミストリアの記述によれば、カエトスは練武場においてレフィーニアとミエッカを守らなければならない。それをそのまま告げられないため、詳細をぼかしつつ答える。
「妖精の占いでは詳しいところまではわからないのですが、よくない兆候があるようです。遅刻しないほうがいいでしょう」
「わかりました。急ぎましょう」
ナウリアは会話に集中するあまりずいぶんと遅くなっていた歩調を速めると、歩行者の群れの合間を縫うように歩き始めた。
(ネイシス、警戒頼むぞ。人が多くて俺だけじゃ少し手に余る)
(わかっている。いまのところは妙な動きをする奴はいない)
カエトスは前を歩くナウリアの背後にぴったりと付き従いながら、精神を集中した。万が一彼女に襲い掛かる輩がいたときに備えて、いつでも反応できるように体の力を適度に抜きつつも臨戦態勢を維持する。
ふと肉を焼く香ばしい匂いがカエトスの鼻孔をくすぐった。歩行者の多くが果物や野菜、パン、米などの食料品が入った籠をぶら下げているが、明らかに肉体労働者とわかる屈強な体格に薄汚れた作業着を着た男たちも目にする。
時刻はすでに昼時だ。参拝客だけではなく、地元の買い物客や食事を摂りに来た労働者たちもこの混雑の原因となっているようだ。
食欲を刺激する匂いがカエトスに空腹であることを思い出させるも、残念ながらそれを満たす余裕はありそうにない。
雑念を払いつつ人混みをかき分けて進むと、ほどなく街並みが変化した。
外壁が木造から石造となり、一つ一つの建物が大きくなってきた。石畳上を行き交う動力車の積み荷が、色鮮やかな食料品から鉄の塊や柱、板などの無機質な色へと変わる。
貴族の邸宅と同じ石造でありながら、真っ黒に汚れている建物には複数の煙突があり、そこから白や黒の煙が立ち上っている。雑踏の中、耳に届くのは規則正しく響く金属同士を打ち付ける音。
この雰囲気にカエトスは覚えがあった。
鉱工業の町として名高いティアルクの鍛冶屋街とそっくりだ。建物の門には工房の名を記した看板がかけられている。ここがミエッカに使いを命じられた工房があるシルタ地区なのだろう。
先刻よりも通行人や動力車が減ったため、カエトスは集中を少し緩めた。周囲に注意を払いつつナウリアの左側に並ぶ。
「侍女長殿。私からもお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「こちらから聞くばかりというのは公平ではありませんね。答えられないこともありますが、どうぞ」
カエトスの要請にナウリアは少し考える素振りを見せた後承諾した。
カエトスには疑問があった。これが的を射たものであるなら、現在の事態を少しでも改善できる可能性がある。そう期待しながら騒音に負けないぎりぎりまで潜めた声で問いかけた。
「殿下が命を狙われるのは、殿下が誰よりも正統性のある国王の資格を持っているからと私は認識しているのですが、間違っていないですよね」
厳しい顔つきのナウリアが小さく頷く。
「犯人がどのような意図を持っているかまではわかりませんが、大きな要因になっているでしょう」
「そこで考えたのですが、殿下を国王にせずに済む方法はないんでしょうか。例えば王位を辞退するなどして、国王に即位しない意思を示せば、殿下の身の回りの諸問題のほとんどが解決すると思うのですが」
レフィーニア自身が国王という立場やそれに付随する役割を忌避しているうえに、そのせいで命の危機に遭っている。王女が国王に固執していない以上、それを放棄するのが最良の選択ではないか。
しかしナウリアは首を振った。
「それはもう試しました。あの子が現王の実子だと知られてしまったときに、私たちの父親が。父は、前中務卿でした。これは国王の補佐として内政全般を指揮する要職です。陛下が重大な決定を行うときに、父を非常に頼りにしていたことから、その影響力の強さがわかることと思います。その父があの子を守るために、八方手を尽くして何とか回避しようとしたのですが、今回ばかりは陛下のご意思を覆すことはできませんでした」
ナウリアはそこで言葉を切った。淡々と口にしてはいるものの、表情は辛そうに歪んでいる。その当時に起きた様々な出来事を思い出しているようだった。
「神官が王となるしきたりがあり、陛下が直々に決定した以上、これを覆せるものはこの国にはいません。それこそ神の言葉でもなければ無理なのです」
わずかな希望を込めて尋ねてみたが、やはりカエトスが思いつく程度のことをレフィーニアを真に案ずる家族が考えないわけがなかった。
二人の間に沈黙が落ちる。
(神の言葉か……)
ナウリアの口にした一言にカエトスは一つ閃いていた。早速ネイシスに確認してみる。
(なあ、ネイシスはシルトっていう神は知ってるのか?)
(名前程度はな。ただ話をしたことはない)
(どこにいるかはわかるか?)
(あの神殿から神域の気配がすると言ったのを覚えているか? いるとしたらそこだ。いなければ私にはわからない。そして多分いまはいないな。私やあの狂った女神みたいに、神域を離れてどこかに出かけているんだろう)
(じゃあ、例えばお前からシルトに働きかけて、都合のいい神託を出してもらうとか、そういうのは無理か)
(うむ。居場所がわからなければどうにもならん)
(……これで王女が国王にならずに済むと思ったんだけど、残念だ)
神の言葉であればレフィーニアが国王になることを阻止できる。ナウリアのその一言からカエトスは『神託の捏造』を思いついたのだが、やはりそう簡単にことは運ばなかった。
カエトス自身が国王としての責任を回避したいというのもあるが、何よりレフィーニアに名目とはいえ国王の肩書きを背負わせるのは非常に気が進まない。見ていていたたまれなくなるのだ。
カエトスが少なからず消沈していると、それを察したネイシスが声をかけてきた。
(カエトス、その案は潰れてよかったと思うぞ)
(何でだ?)
(この本は、王女たちが置かれている状況を利用している節があるとお前も言っていただろう。もしいまのお前の案が実行できたとしたら王女は安全になる。そうなると目的が達成できなくなるかもしれない)
(……そういえば、そうだったな)
カエトスはネイシスに指摘されて思い出した。純粋にレフィーニアを案じた末に思いついた案だったが、それがイルミストリアの目指す結末に合致していない可能性があることを。
(……この本の思惑も考えなきゃならないってのが、本当にもどかしいな)
(まったくだ。ただこれが本当に女どもを危険に誘おうとしているかどうかは、じきにわかるはずだ)
ネイシスがカエトスに警戒を促すように、やや硬質な声で告げる。
斜め前を歩くナウリアが右に曲がった。その先は路地とはいかないまでも、幹線道路よりは道幅が狭かった。動力車が二台ちょうどすれ違える程度で、通行人はカエトスたち以外にいない。
ふと大勢の男たちの声がカエトスの耳を打った。
音の源は道路の右側。目を向けると数十人の男たちが協力して一本の鋼線を引っ張っているところだった。どうやら新たに工房を建設しているらしい。道路にほど近いところに、二十ハルトース(約二十四メートル)はありそうな鉄骨を三本組み合わせたやぐらが立ててあり、その頂部に取り付けられた滑車と鋼線とを使って巨大な石を吊り上げては、積み重ねている。
現在の行程は外壁の建設だ。高さは七ハルトース(約八メートル半)、長さは四十ハルトース(約四十八メートル)はあるだろうか。それは鉄骨によって支えられてて、倒壊を防ぐ措置が取られている。現に崩れそうには見えない。が、まだ屋根がないことから不安定さがあるのも事実。そして今は、何が起きてもおかしくない時間帯だ。
カエトスは外壁や作業者、そしてナウリアに意識を向けながら歩を進めた。
(……何も起きなかったな)
(どうせ起きるなら、身構えてるときに来て欲しいもんだ)
拍子抜けしたように言うネイシスに、カエトスも小さく息をつきながら答えた。
工事現場は何事もなく通過し、そのままさらにしばらく直進したところでナウリアが立ち止まった。
「着きました。ここです」
ナウリアの前にあるのは、身長ほどの高さの石壁とそこに設けられた門だ。右側の壁には『トゥリネアラシン』と刻印された鉄製の看板が壁に埋め込まれている。それが工房の名前のようだ。
ナウリアはカエトスにこちらですと声をかけると、門をくぐって先に進んだ。石板を敷き詰めた小さな広場があり、奥には石造の建屋が二つ並んでいた。
年季の入った黒くくすんだ石壁と、煙突から立ち上る黒煙など雰囲気は周囲に建っている工房と変わりない。ガラス窓から時折まばゆい光が漏れ、規則正しく繰り返される槌の音が響くところも同じだ。
ナウリアは左側の建屋へと向かった。
大きな製品を搬出するための木製の大扉があるが、今は閉ざされている。ナウリアはその左脇に設けられた小さな扉に歩み寄るとそれを押し開いた。カエトスも油断なく周囲に視線を走らせながらそれに続く。
ふと肩に座っていたネイシスの気配が消えた。
(私は外を警戒しておく。中は任せたぞ)
(頼む)
カエトスはネイシスに礼を言いながら工房に入った。
鉄の焦げる匂いが漂うそこは薄暗く、普通の家屋が数軒は入りそうなほどに広い。右の壁沿いには耐熱煉瓦製の炉が四つ並び、その火口から漏れる真っ赤な光を浴びながら、屈強な半裸の男たちが規則正しく鉄槌を打ち付けている。今まさに鉄を鍛えている最中のようだ。
工房内の雰囲気が、不意にカエトスの記憶を呼び起こす。
カエトスが腕輪を贈った少女マイニの職業は鍛冶師。彼女の家にもこれよりずっと規模は小さいものの工房があり、そこでカエトスはマイニと一緒に思考錯誤しながら剣を造ったのだ。それはいま左腰に差してある。
カエトスは左手で剣の柄を一度握ると、マイニとの思い出を記憶の奥底に押しやった。改めて工房内に視線を走らせる。
この工房には、鉄を鍛える者以外にも数十人という男たちがいた。彼らは皆一つの炉を取り囲み右手をそこへ向けている。その一方で火口に数人の男がいるだけの炉もある。
この違いは何かというと炉の過熱に木炭を使用するか、熱を司る源霊リヤーラの力を使うかという点だ。
男たちが取り囲んでいる炉はリヤーラの力で炉内を加熱し、生み出した熱を制御している。少人数の炉は熱源を木炭に頼り、作業者は熱の制御のみを行っているのだ。
鉄製品を作る上で、炉の温度と製品に混入する不純物の量は、製品の質に大きな影響を与える。そのため高品質の製品を作るときには、炉に燃料を投入せずに済み、さらに温度調節も容易なリヤーラのみで炉を加熱するのだ。
ただこの手法にも欠点がある。それは費用が嵩むことだ。
ひとりの人間が操るリヤーラの力で鉄を熔解させられればいいのだが、実際にはそれはできない。人間の呼びかけで引き出せる源霊の力には限界があり、大勢が力を合わせることでようやく安定した熱源となる。また発生させた熱を一定に保つように指示を出し続けるのも、途切れることのない集中力が必要になる。そのため交代要員も含めた人員を用意しなければならず、その人件費が馬鹿にならないのだ。
一方、燃料を用いた場合、炉の過熱要員は丸々不要となる。作業者は、燃料の投入と発生した熱の制御のみを行えばよいため、少ない人手で作業が進められる。
このように要求される製品の質のよって製作方法を変えるのが一般的だった。
もっとも親衛隊ヴァルスティンの隊長であるミエッカならば、費用の心配など無用だろう。彼女はカエトスとの決闘のときにほとんど一瞬ともいえる速度で、鋼鉄を気化させるほどの熱を生み出し、しかも外部に全く熱を漏らすことなく完璧に制御していた。彼女がいれば炉を取り囲む数十人の男たちの仕事を一人で容易く成し遂げるに違いない。
「もし。親方はいらっしゃいますか?」
カエトスが工房内を観察していると、ナウリアが入り口付近にいた少年に声をかけた。
木炭の詰まった麻袋をてきぱきと台車に乗せている彼は、どさっと置くたびに舞い上がる木炭の粉を浴びているため、袖のない上着から覗く腕も顔も真っ黒だ。
顔見知りなのか、少年はナウリアを見るや、体に似合わない大音声を張り上げた。
「親方ーっ! 銃槍引き取りに来たみたいですよーっ!」
騒音に負けずに響き渡った声に、奥で何人かの青年に身振り手振りを交えて指示を出していた男が顔を上げた。日焼けした太い腕を勢いよく振りながら、大股でこちらに向かってくる。
年齢は四十代後半ほどか。黒髪を短く刈り込んだ筋肉質の大男は、頑固な職人といったいかつい顔立ちをしていた。この人物が工房を取り仕切る親方らしい。
ナウリアの前までやって来た親方は、彼女を目にするや意外そうな声を上げた。
「おや、今日はナウリアさんが引き取りですかい」
「ええ。ミエッカは用事が出来てしまいまして、その代理です」
「なるほど。隊長さんもずいぶんと忙しいようですからなあ。見習いだった頃、しょっちゅうここに遊びに来ては、一人で炉を加熱してくれたのが懐かしいですよ。ま、そのご縁でうちは仕事がもらえて助かってるんですがね。おっと、世間話してる場合じゃねえや。依頼の品はこっちです」
親方は話を切り上げると、真っ黒な腕で入口の横を指し示した。少し離れたところに木箱が積まれている。一抱えほどの大きさが五つ、細長いのが二つの計七つだ。
近寄ったナウリアが木箱を見下ろし、そして親方に目を向ける。
「これ……ですか?」
「そうですよ。そっちが修繕と調整依頼のあった銃槍、こっちが新品の弾丸です。何でも霊獣討伐があるそうで、そっちには在庫を使うから、補充のための新品を納入してくれってことでしたけど……もしかして間違ってますかい?」
ナウリアの戸惑いに気付いた親方が不安げに尋ねる。
ナウリアは鞄から封筒を一つ取り出し、その中から一枚の紙を引っ張り出した。二つ折りになったそれを開いて目を通す。
「……いえ、大丈夫です。合ってますね」
木箱と紙と交互に目をやりながら確認するナウリアの言葉は歯切れが悪い。
「どうかしましたか?」
「私はミエッカに、銃槍十丁、弾丸百発を受け取ると聞いてきたのですが」
何か問題が起きたと察したカエトスの問いに、ナウリアは困ったように眉を寄せた。手元の紙をカエトスに見せる。それは今回の依頼内容が記載された書類だった。
依頼者である親衛隊ヴァルスティンや隊長ミエッカの名前、請負者である工房トゥリネアラシンと親方の名らしきラウタ・ロストルという単語が並び、続いて依頼内容、そして製品の名称と数量が記載されている。
「実際には銃槍二十丁、弾丸一万発だったようです」
たしかに書類にはそのような数字が記載されていた。
硬い口調で言うミエッカに、カエトスは嫌な予感がした。
「ところでナウリアさん、見たところ動力車の手配をしてないようですが、もしかして運ぶのはこの兄ちゃんですかい? こいつはかなり重いですよ」
「ちなみにどのくらいでしょうか?」
「そうですな。木箱自体もそれなりの重さなんで、銃槍はだいたい五十ハルリー(約八十六キログラム)、弾丸のほうは全部で六百ハルリー(約千三十六キログラム)ってとこですかね」
「六百……!」
ナウリアが言葉を失う。
カエトスの予感は的中した。
ナウリアは一人でも可能な仕事と聞かされていたのだろう。しかし実際には一人では到底できないような仕事だったのだ。その目的はカエトスを陥れるためと見て間違いない。
ミエッカはカエトスが試験を受けることに難色を示していた。そこで困難な仕事を課せば、試験に遅刻させられる。一方、試験に参加するために仕事を放り出せば、態度に問題ありとでも理由をつけて、カエトスを追放できるというわけだ。
「敵を騙すにはまず味方からと言いますが、今回は教えて欲しかったですね、ミエッカ……」
ナウリアがここにはいない親衛隊長に恨みがましい言葉をぶつける。
「カエトス殿、これを一人で運ぶのは無理です。ですが人を呼んでいる時間も、動力車を手配する時間もありません。あなたは試験を受けなければなりませんから、これは明日改めて引き取りに来ましょう。霊獣討伐には直接関係ないのですから、急ぐ理由もないはずです」
「いえ、運びましょう」
カエトスはナウリアを提案を迷うことなく断った。
イルミストリアにはミエッカの指示を完遂しろとあった。ここで放り投げるわけにはいかないのだ。
「おいおい、一人でかい? そいつはいくら何でも無理だ。こっちとしては別に今日引き取ってもらわなくてもいいんだぜ」
親方が太い腕を組みながら呆れたように言う。
カエトスは、同じように止めようとするナウリアの前に手をかざしてやんわりと制すると、親方に告げた。
「大丈夫。申し訳ないが、これを全部重ねてしっかり縛ってもらえますか」
「……本当にいいのかい? まあ、そう言うならやってやるけどよ。……おい、手の空いてる奴!」
親方の号令を受けて、いずれも屈強な体躯の青年たちが集まってきた。
「こいつをこの兄ちゃんが運ぶんだと。崩れないように重ねて縛ってくれ」
「……全部まとめてですか?」
「ああ、頼む」
怪訝そうに親方とカエトスを見る青年たち。かなりの重量があるために、わざわざ分けて梱包したものをまとめる意味がわからない。彼らの顔はそう言っていた。
カエトスが頷くと、青年たちは首を傾げつつも作業を始めた。気合いの声を上げながら六人一組で木箱を持ち上げ、慎重に積み重ねていく。
木箱の高さはカエトスの身長ほどになった。青年たちはそこに縄を縦横に二重三重と回して厳重に固定していく。
「カエトス殿、いったいどうするつもりですか?」
「すぐにわかります。少し離れていてください」
カエトスは、若干苛立ちの混じった声で問いただすナウリアに右手を向けると、左手で腰の剣を抜いた。
逆手に持ったそれを順手に持ち替え、鍔を回転させて穴の位置を変更する。頭に思い浮かべた像と同じ軌跡で剣を十回ほど走らせ、そして再度逆手に持ち替えた。右手を木箱に伸ばし、縄をつかんでぐいっと力を込める。
「おお……」
「すげえ……!」
親方と青年たちがそろって声を上げた。
青年が六人がかりで積み上げた木箱をカエトスが片手で全て持ち上げたのだ。
「これは……もしかしてマールカイスの力ですか?」
「ご存知でしたか。侍女長殿の仰る通りです」
親方たちと同じように目を丸くしたナウリアがカエトスに問いかける。
マールカイスとは、物体同士が引きつけ合う力──引力を司る源霊の名だ。
この力は重量が重くなるほどに強くなるもので、物体を持ち上げたときに重さを感じるのは、カエトスたちの周辺で最大の大きさを誇るもの、すなわち大地が物体を引っ張っているためだ。その力を弱めれば当然、物体を持ち上げたときに感じる重さも小さくなる。
カエトスが行ったのがまさにそれで、マールカイスに働きかけて地面が木箱に対して及ぼしている力を弱めさせ、一人では到底持てない重量物を片手で軽々と持ち上げられるようにしたというわけだ。
カエトスはナウリアに答えながら剣を鞘に戻し、木箱を右肩に担いだ。早めに帰城しようという意思を込めて尋ねる。
「他に何か用件はありますか?」
「そ、そうですね。親方、これを。受領証です」
「お、おお、こいつはどうも」
肩に乗せられた木箱の山をぽかんと口を開けながら見ていたナウリアがその一言で我に返った。
ナウリアが差し出した書類を受け取る親方も、動揺を隠しきれない様子だった。ほうとため息をつきながら木箱を眺める。
「こいつがマールカイスの力ですかい。初めて見たが、この兄ちゃんがいれば仕事が随分とはかどりそうですなぁ。ミュルスさんの力は、重いものを持つのにはちょいと工夫が必要ですからな。うちに来てほしいくらいだ」
「彼が首になったらここを紹介しますよ」
「ははっ、そんときは是非ともよろしく」
軽く頭を下げながら気安い笑みを浮かべる親方に、ナウリアも微笑で答えた。踵を返し出口へと向かうナウリアに続いて、カエトスも肩に担いだ木箱が引っかからないように体を屈めて扉をくぐった。背中を伸ばしたところで、左肩にすとんと何かが落下してきた。小さな手が耳をつかむ。外の監視をしていたネイシスだ。
(こっちは特に異常なしだ)
(そうか。中も別に危険なものはなかったし……となるとあとは帰りの道中か)
(うむ、何が起きるかわからん。油断するなよ)
カエトスはネイシスの警告に気を引き締めつつ、早足で歩くナウリアの横に並んだ。工房の門を抜けて道路に出る。それを待っていたかのようにナウリアが話しかけてきた。
「昨日の決闘ではそんな素振りを全然見せませんでしたが、あなたは源霊使いなんですか? しかもマールカイスを扱うなんて。マールカイスの霊域は場所が秘匿されていて、使い手自体がとても珍しいと聞きますが、あなたはどこで訓練を?」
カエトスは詳細を告げるか一瞬迷った。しかしすでに剣舞を間近で見せてしまっているし、試験会場でもおそらく使うことになる。ここで隠す意味はもうないと考え、ありのままを答えた。
「いえ。私はその霊域には行ったことはありません。霊域が秘匿されているという話もいま知りましたし、そもそも私は侍女長殿が思うような源霊使いでもないんです」
「ということは、その剣に何か秘密が?」
「はい。鍔に穴が開いているのがわかりますか? そこに風を通して源霊にだけ聞こえる音を出しているんです」
「……そんな技があるんですね。初めて聞きました」
カエトスの腰に視線を落としながら感嘆の息を漏らすナウリア。
「穴が五つ開いているように見えますが、もしかして五つの源霊全てを扱えるんですか?」
「さすがです。まさにその通りです」
ナウリアは本当に観察力に優れている人物だった。物事の本質を見抜くことに長けている。
そう感心するとともに危惧が膨らむ。
ナウリアはすぐに気付くだろう。カエトスは、光を司る源霊イルーシオも扱えることに。そこから不審者と結び付けられるかもしれない。いや、彼女なら十中八九思い至るはず。
ようやく一定程度の信頼を得たというのに、ここで不信感を与えてはならない。ゆえにカエトスは自分からそのことに言及しようとした。だがその機会は訪れることはなかった。
それが起きたのは、工房に向かうときにも通った工事現場の横を歩いているときだった。
突如、大気を震わせる音が大きく響いたのだ。
カエトスはすぐさま足を止めて顔を上げた。そして目を見開いた。建設途中の石壁が道路側に向かって倒れかかっていた。
道幅はおよそ五ハルトース(約六メートル)に対し、壁の高さは七ハルトース(約八メートル半)。
道路の端に寄ったところで石塊に押し潰される。道路の反対側にも大きな工房があるため、逃げ場もない。しかも四十ハルトース(約四十八メートル)はある石壁のほぼ全てが同時に道路に向かって倒れ込んできている。カエトスとナウリアがいるのはその中間付近。カエトスだけなら、崩落圏外にまでぎりぎり逃げられそうだったが、そんな選択肢は始めから存在しない。木箱を放置すれば、ミエッカの使いを完遂できないし、何よりもナウリアを見捨てるなど論外だ。
切り抜ける方法はただ一つ。リューリを助けたときのように、崩れる外壁を受け止めるしかない。
しかし圧倒的に時間が足りなかった。カエトスの剣舞は五つの源霊全てに呼びかけられるが、口頭で指示できないため、咄嗟に発動させられない。先刻に引き続き、致命的な弱点が露呈した形だった。
「カエトス、一部だけ止める。お前はそれを吹き飛ばせっ!」
ネイシスが耳元で鋭く指示を出す。
カエトスは迷うことなくすぐに反応した。ネイシスは力を使う気だ。呪いが進行するなどと言っている暇は皆無。いまは生き残ることだけを考える。
カエトスは右肩に担いだ木箱から手を離した。自分の重量を思い出したかのように木箱が真下に落下する。空いた右手で、突然の出来事に体を硬直させているナウリアを抱き寄せた。同時に左手で剣を抜き、親指で鍔を回転、呼びかける対象をマールカイスからミュルスへ変更。すぐさま刃を走らせる。
実行する動作の数は九。剣を突き、薙ぎ払い、切り上げ、回転させる間にも、巨大な石塊がみるみる迫る。ナウリアが体を強張らせてカエトスの右腕をぎゅっとつかむ。
カエトスとナウリアが押し潰されるまで僅かというところで、石塊は前触れなしにぴたりと空中で停止した。ネイシスが石塊を〝停滞〟させたのだ。
停滞の範囲外の石塊が次々と道路に落下し、凄まじい轟音とともに石畳が砕ける。転倒しそうになるほどに地面が揺れ、一瞬で舞い上がった砂埃がカエトスの視界を覆っていく。その中を一つの石塊だけが宙に静止していた。
そして剣舞が完了。カエトスは流水のごとき手さばきで順手から逆手に持ち替えた剣を、宙にある石塊に叩きつけた。
カエトスがミュルスに命じたのは『剣が触れたものに力を付与せよ』。
ネイシスの束縛から解き放たれた石塊が、思い出したように落下を再開する。しかし刃が触れた瞬間、石塊は猛烈な速度で右方へ飛んで行った。
「カエトス、もう一つ!」
ネイシスが警告する。
直前まで石塊によって塞がれていた視界に、黒い光沢を放つ物体が出現していた。石を吊り上げるために用いていた鉄製のやぐらが倒れかかってきていた。
「おおお!」
カエトスは気合いの声を上げると、迫りくる鉄骨を再度剣で殴りつけた。
重く低い音が大気を震わせる。鉄骨は大きく変形しながら左に跳ね飛ばされ、すでに落下していた石塊を砕きながらごろごろと転がり、動きを止めた。
(あとは!)
(今ので終わりだ)
カエトスの視界は舞い上がった砂埃で覆われているため、状況を確認できない。
返ってきた小さな女神の落ち着いた声にカエトスは細く長く息を吐き、緊張を解いた。血の気の引いた全身に一気に血液が流れ込む。かっと熱くなり、冷や汗が背中に溢れた。轟音の余韻が残る耳に、小石がぱらぱらと落ちる小さな音が届く。
(……ネイシスのおかげで助かった。いまのは本当にやばかった)
カエトスの心臓は早鐘のような鼓動を刻んでいた。ネイシスがいなかったらと思うとぞっとする。原型を留めないほどに潰されて死んでいたはずだ。しかしそれに答えるネイシスはかなり不満そうだった。
(礼などいい。事前に気付けなかったのはこっちだ)
(やっぱり前兆はわからなかったのか?)
カエトスは宙に漂う砂埃を、口元に当てた左手で防ぎながら尋ねた。
(うむ。この辺りは常にミュルスとリヤーラが騒いでいたから、源霊の動きからは判別できなかった。ただ、こう都合よくお前が事故に巻き込まれるのは出来過ぎだろう。暗殺の一環と見ておいたほうがいいだろうな)
(だよな……)
先刻、リューリを助けたときと同質の怒りがカエトスの内にこみ上げる。平然と他人を巻き込む首謀者と、そしてカエトス自身に対しての怒りだ。何かが起きると知りながらナウリアをこの場に連れてきたカエトスも同罪だった。
自身が抱える矛盾にぎりっと歯を食いしばっていると、右腕に抱えたナウリアが身じろぎした。自分の足で立つという意思表示と見て取り、腰を支えながら解放する。すると膝からがくんと崩れ落ちた。慌てて体を抱き留める。
「どこかお怪我を?」
「いえ、大丈夫です。ただ、こんな目に遭ったのは初めてで……」
ナウリアはカエトスの胸に体を預けながら、周りに目を向けた。彼女の体は小さく震えていて、顔は青ざめていた。
「……申し訳ありません。私のせいで侍女長殿を巻き込んでしまいました」
「あなたを狙った暗殺……ということですか?」
「その可能性が高そうです」
「……そうですか。でも仮にそうだとしても、あなたが謝る必要はありません。あなたが何かをしたわけではないのですから。むしろ私こそ足手まといになってしまって申し訳ありません。あなた一人ならもっと安全に切り抜けられたでしょうに」
ナウリアはそう言うと顔を伏せた。自分が無用の危機を招いてしまったと悔いているようだった。
もともとこの使いはカエトスが一人で来るはずのものだった。そこに尋問を目的にナウリアが同行してきたという経緯がある。それをナウリアは言っているのだ。
彼女の謙虚な姿勢と、このような事故に遭遇しながら他人を気遣える優しさにカエトスは強く胸を打たれた。後ろめたさと愛しさとがないまぜになった複雑な思いが湧き起こり、ナウリアを抱き留める腕に力が入る。
「それこそ謝る必要などないことです。侍女長殿には何の責もありません。例え私一人だったとしても、逃げる余裕などありませんでしたし、あなたを守るのに体を張るのは当然のことです」
ナウリアが伏せていた顔を上げた。カエトスをまじまじと見つめて、すっと目を逸らした。カエトスの体を柔らかく押し返しながら口を開く。
「……あなたは先に試験に向かいなさい。この場は私が対処しておきますから」
「しかし──」
ナウリアの傍を離れていいものかとカエトスは迷った。自分の足でしっかり立ってはいるものの、その体は小さく震えている。強がっていることがありありと伝わってくる。
「暗殺なのだとしたら、ここにいるよりも人の目があるところのほうが安全でしょう。練武場なら、今は大勢人がいます。それに何かが起きるかもしれないのでしょう? ですから早く」
ナウリアの指摘はもっともだった。狙われているのはカエトスであり、ここから離れることでナウリアは安全になると言える。本が課した試練もこれで乗り越えたはずだった。
そしてカエトスには、次なる試練が待っている。
カエトスが巻き込むことになる人物──レフィーニアとミエッカが試験会場にいるのだ。彼女たちに毛ほどの傷も追わせることなく試練を乗り切らなければならない。
イルミストリアに指示されたからではなく、自分自身の意思と責任において。
いまだ砂埃が立ち込め、崩落の余韻が消えない現場にナウリアを一人残していくのは忍びなかったが、カエトスは決断した。
「わかりました。では私は先に戻ります。侍女長殿、お気をつけて」
「ええ、あなたこそ」
カエトスは剣をかざしてマールカイス、そしてミュルスへと相次いで指示を出した。全身にミュルスの生み出した力が蓄積されるのを感じながら、再び引力の束縛を弱められた木箱を肩に担ぎ上げる。ナウリアを一度振り返り、砂埃と砕けた瓦礫が埋め尽くす道路へと駆け出した。
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