第三章 ラーイェンの悪魔 -1-
ラーイェン。
ケルマーンより南に二十パラサング弱(約百キロメートル強)に位置する小規模な街であるが、旧市街に古い城砦と神殿が遺跡として残っており文化的価値も高い。
その小さな街の城砦と神殿の遺跡に、ミタン王国軍一万が駐留していた。王子ケーシャヴァもまた、神殿の遺跡の中で不機嫌そうにしていた。
「そういう顔は~」
「~やめて欲しいよね」
栗色の巻き毛の顔がそっくりな二人の若者が、ケーシャヴァを揶揄するかのように話していた。
「これでもぼくらは~」
「~きみのように新参の神ではないんだよ」
双子の神は、互いに会話を補いながら話していた。ケーシャヴァがそれを煙たがっているのは明白であった。
「これでも余は
「所詮
「~口が過ぎる小僧だよー」
双子の神は大袈裟に嫌がった。王子は苛立たしげに叫んだ。
「で、イナンナとウトゥはどういう状況なのだ」
「イナンナはハラフワティー・アルドウィー・スーラーとしての~」
「~封印を受けている」
「ウトゥもミフルとしての~」
「~封印を受けている」
「二人の封印はナンナルにとって最も大切だったので~」
「~ぼくらの封印とは効力の桁が違う」
「いい加減普通に喋れぬのか、そなたらは。余も疲れるわ」
双子の神は心外だと言いたげに肩をすくめた。
「ウトゥは
「~イナンナは
「これは全て~」
「~二人の父たる月の神ナンナルの意志」
「ふん、哀れで脆弱な光明神だ。自分の子供を封じなければ王国も築けぬとは。ともあれ、ナーサティヤとダスラよ。そなたらの封印が解けた以上、アーラーンの光明神の加護の一部は消えたのだ。これからの道を示せ」
「ぼくらの力が戻るには~」
「~もう少し時間がかかる」
「だから、アーラーンには~」
「~
「王国がそれに手を掛けている間に~」
「~ぼくたちは
王子は顎に手を当てた。もともと僅か三万八千でアーラーンに侵攻したのは、王国を占領するためではない。かつて狂わされた運命を正すためだ。なればこそ、ババール以下六将を使い捨てにもしたし、今更ここで一万の兵を囮にしても心は痛まない。それに、
王子は双子神を伴って神殿から城砦に戻ると、副官カウムディーを呼び出した。
心労の多そうな苦労人ぽい中年の副官は、王子か不在の間にラーイェンの太守や商人と交渉していたらしく、疲れた顔をしていた。
「殿下、署名をお願いします」
副官は大量の書類を取り出した。ラーイェン太守の権益を認めるだの商人の安全を保証するだの下らない内容であった。
「なんた、要するにラーイェンはこちらに降伏するのか?」
「クルダ部族全滅を聞いて、考えを改めたようでして」
王子は書類を空中に放り投げると、羽ペンを
「その者たちはどうされたのですか」
双子神は見られているのに気がつくと、前に出てきて胸を張った。若者のような外見であるが、所作は幼い。
「ラウムとラハムである。変な口調だが、気にするな。余は明日、この二人を連れて旅立つ予定だ。そなたはラーイェンで待機せよ。ババールが戻ったらその指示に従え」
双子神は首を振って付け加えた。
「エジュダハーと蛇人たちが~」
「~三日後に滝の中より現れる」
「ラーイェンよりマハンに向かう~」
「~蛇人たちに決して手を触れないでよー」
副官はますます混乱した顔で主を見た。ケーシャヴァも初耳の話なので、困ったように双子神に問いかけた。
「そのエジュダハーと蛇人たちとはなんであるか」
双子神は憐れむように王子を見ると、勝ち誇ったように胸を張った。ケーシャヴァは明らかに不快な顔をした。
「エジュダハーは
「~由緒正しき神」
「アーラーンに
「~かの地を支配していたが、
ケーシャヴァはミタンの新しい神である。ゆえに、旧き知識に関しては双子神にはかなわない。旧き知識や伝承に関しては、ババールから伝授されたのである。だから、ババールが側にいないと双子神の発言を抑えられない面があった。
「と、いうことだ。そなたは蛇人に手出しはするでない。エジュダハーがアーラーン王国の軍を駆逐してくれるだろう。無理はしなくてよいぞ」
「しかし、殿下……それはそれとして、このように得体の知れぬ者たちだけを連れて敵地で旅立つとは、危険ではありませぬか」
副官が極めてまっとうな意見を述べた。双子神は見るからに怪しい。なんで王子がこんな怪しい二人組と旅をするのか、副官にはさっぱりわからなかった。
「そなたが気にする必要はない。敵の目は蛇人に集まる。余に危険は及ぶまいよ」
王子から退出するように命じられると、哀れな副官は執務室から退出させられた。どのみち、やることは膨大にある。副官としてみれば遊んでいる暇はないので構わなかったのだが、何か釈然としないものを抱えて彼は首を捻った。
王子ケーシャヴァは、
だが、副官にはどのみち大した力はない。精々、事務処理能力が他の人間より少し優れているだけに過ぎない。せめてババール将軍がいれば、とガウムディーは思った。
「……軍の指揮権はどうするのだろう」
ガウムディーは行政面での補佐であり、本来指揮権はない。だが、王子がいなくなれば、一応一万の軍での最高指揮権は彼になるのである。
「うう……胃が痛い。アジット隊長を呼ぼう……彼に任せれば何とかしてくれる」
アジットはケーシャヴァの下で部隊を指揮する中級指揮官であるが、不屈のアジットと言われ決して諦めない男として知られていた。彼ならばこの難局に相応しい人物である、とガウムディーは思ったのである。
「王子殿下は狂われたか?」
そのアジットは、ガウムディーに呼ばれて明日以降の説明を受けると、一言呟いた。
「声が高い……殿下は千の目を持つ御方だぞ。どこで耳に入るかもわからぬ」
「諫言を聞き入れるのも王者の度量ではありませぬか。かような敵地で単独行動されるとは自殺行為にしかなりませぬ。お止めした方がよいのではありませぬか」
止められるものならとっくに止めておる、と副官は項垂れた。ケーシャヴァは明らかに何らかの計画に従って動いている。それが明かされぬ以上、こちらからは狂ったように見えても仕方がない。だが、王子にずっと仕えていた副官は、王子がババールとずっとこの計画を温めてきたことを知っていた。
「軍人は与えられた命令を遂行するのが仕事だよ、アジット隊長。きみに与えられた任務は、このラーイェンという拠点を護ることだ。ババール将軍が戻るまでは、きみの責任において命令を遂行したまえ。そして、蛇人には決して手を出さぬよう、部下に厳命しておくのだ」
「……それが命令ならば、従いましょう」
アジットは剣を鳴らし、了解の旨を伝えると退出した。
副官は暗闇の中、小さくため息を吐いた。
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