第一章 赤毛の小娘 -5-

 フーリを帰すと、一行は宿を確保し、再び大宰相の市場バーザーレ・ヴァキールに繰り出した。ナーヒードからもらった金貨もあるし、懐は温かい。


 四人で歩いているうちに、気が付くとエルギーザは消えていた。


 あの笑顔を絶やさない青年は、気配を断つことにも長けている。ヒシャームやシャタハートですら気づかないうちに、いつの間にか姿を消しているのだ。相変わらずの早業にアナスは舌を巻いた。


「エルギーザなら……女かしらね」

「やつも好きだからな。おれは茶屋チャイハネにでもいってもう少し軽いものでもつまむ。おまえたちはどうする?」

「あたしは公衆浴場ギャルマーベにでもいくわ。埃っぽいし」

浴槽ハズィーネは汚いから入るなよ……蒸し風呂ハマムだけにしとけよ」

「じゃ、わたしは市場バーザーレで香辛料でも探すよ」


 食べ足りないヒシャームは茶屋チャイハネに出かけ、アナスは公衆浴場ギャルマーベを目指す。ヒシャームが浴槽ハズィーネに入るなと言ったのは、浴槽ハズィーネのお湯が交換されるのは年に数回あるかないかだからだ。蒸し風呂ハマムなら、その心配はない。


 そして、シャタハートは趣味の香辛料の補充に市場バーザーレを冷やかすことに決めた。


「アナスは蒸し風呂ハマムでおしゃべりしだすと止まらないから、ゆっくり見て回れるぞ」

「おれも茶屋チャイハネでケルマーンのじじいどもと水煙管ガリヤーンでも燻らせるかな」

「とっとと行ってこい! 全く、この悪魔デーヴどもめ!」

 

 ヒシャームとシャタハートを追い払うと、アナスは大宰相の市場バーザーレ・ヴァキールの外れへと足を向けた。煉瓦を積み上げられたアーチをくぐると、ドーム状の建築物が立っている。壁面は彩釉タイルが張られており、公衆浴場ギャルマーベの看板がかかっていた。


「その火炎アーテシュ刺繍スザンニ頭布クーフィーヤ、あなたが新しい独立遊撃分隊とやらの隊長ですか」


 入り口で入場料を払っていると、後ろから何か声がした。


「フーリがうるさいから逃げてきたら……こんなところで元凶と出会うとは運が悪いです」

「いきなりね。あたしは全くあなたに見覚えがないのだけれど」

「わたしは軍務官のルーダーベフです。こんな街が混雑している状況で、新しく宿を確保しろとか無茶を言われたので逃げてきたんです……もう三日も蒸し風呂ハマムに入ってないんです。わかりますよね、あなたも!」


 がしっと肩をつかまれると、何かを訴えかけるように叫ばれる。思わずアナスは曖昧に頷いた。逆らってはいけないと、目を見た瞬間に悟ったのだ。


「フーリのやつめ……だってールーダーちゃんなら何とかしてくれるって思ったんですよ~とか好きなこと言ってくれちゃって……ただでさえ増え続ける兵の食料に宿泊の手配を、わたしがどれだけ頑張ってこなしていると思っているんだああ! もう、勝手に増やされた部隊の宿とか知るかああ!」

「ご、ごめんね……?」


 アナスはじりじりと後ずさると……更衣室に逃げ込んだ。だが、ルーダーベフは鼻息荒く回り込んだ。


「いや、ほんと……宿ならいま泊まっているところでいいから……軍で宿代立て替えてくれるだけでいいわよ……」

「まじっすか! 後でやっぱり嘘よごめーんとか言われたって新しく宿とかとれないですよ! もう聞きましたからね! 後で宿も教えてもらいますからね!」


 あ、ついてくるんだ……とアナスは逃げられないことを悟った。


 蒸し風呂ハマムの中に入ると、後ろからしっかりとルーダーベフがついてきた。


「アナスさん珍しい髪と目の色してるっすね……。燃えるような赤い髪と赤い瞳。アーラーンじゃ見かけない感じじゃないですか? それに蒸し風呂ハマムの中にまでつけてくるとか、その首飾りはなんか特別なものなんですか」


 割とぐいぐい来る娘である。女の蒸し風呂ハマムはかしましいとはよく言われるが、ルーダーベフもその手合いのようだ。


「ち、近いよ、ルーダーベフさん……。えっとこれば護符だよ。生まれたときから身に着けているもので、肌身離さず持っていなければならないんだって」


 瑠璃ラピス・ラズリに似た青い石をあしらった首飾りである。蒸し風呂ハマムの湿気を含むと、まるで生きているかのように淡い輝きを放っていた。


「わーきれいですねーアナスさん」


 いきなりルーダーベフの逆側から覗き込む頭があった。思わず身を引いたアナスは、そこに知った顔を見て息を吐いた。


「なんだ……フーリさんじゃないの。驚かせないでよ」

「いえいえ。ルーダーちゃんを追っていたらアナスさんもいてびっくりです」


 どうせルーダーちゃんは公衆浴場ギャルマーベに行くと思っていたから逃げても無駄なんですよーと監察官の娘は言った。軍務官の娘はがっくりと肩を落とした。


「わたしの癒しが……この後ちょっとバラ水ゴレ・モハメッディでも飲んで、精油でマッサージでもしてもらって、殿下とフーリの悪口でも言って寝ようと思っていたのに……」

「最後が最悪ですよ!?」


 フーリが唇を尖らせる。ルーダーベフはその唇を指先でつまむと、軽く引っ張った。


「あんたは殿下の乳母の娘だから大した取り柄もなくても騎士でございってやってられるだろうけれど、わたしみたいな何の後ろ盾もない人間は、必死に働かないと食べていけないんだよ! この三日間こっちはほとんど寝てないんだからね!」

「むぐー、るーだーだん、ひたい、ひたいでふー」


 なんだかんだいってこの二人は仲が良さそうである。アナスはちょっと羨ましかった。イルシュの部族では、先の族長の娘であるアナスは、今の族長から見ると厄介者である。必然的に、部族の中枢からは遠ざけられ、付き従うものもあの三人の若者しかいない。みな、族長の怒りを買うのを恐れ、いつしかアナスとは疎遠になった。フーリとルーダーベフのような関係は、アナスには久しくなかったのだ。


「そういや、軍務官殿、食事は軍から届けられるの? それとも宿で取って後で軍が精算するの?」

「後で精算にしてよーいちいちあなたたちの食事とか用意してられないわ……どうせ籠城するわけではないし、商人にも規制をかけてないからね。物資がなくなることはないはずよ……ばかっ高いけれどね!」


 足もとを見やがって業突く張りどもがああとルーダーベフは呻いた。


「予算が……来年の予算が怖いよー。アナスさん敵の物資集積所でも襲って金銀財宝でも奪ってきてくださらない?」

「あたしは盗賊ドズドか! まあ……いずれにせよ敵が近づいてきているには間違いないわね。金銀財宝は無理だけれど、ミタンの将軍の首くらいならとってきてあげるわよ」

「ミタンの将軍って……今回六将って強い人たちが来ているんですよ? アナスさん」

「あたしは一人じゃないからね。エルギーザは獅子シールに気配を悟らせずに射殺すし、ヒシャームの槍の前に立っていられたものはいない。シャタハートはみんなが動きやすいように図ってくれるし、あたしら四人でだったら何とでもなるわ」

「なによーアナスさん強いんじゃないのよ。でも、クルダのサーラールさまとサルヴェナーズさまのご夫婦には敵わないわよ、きっと」

「サルヴェナーズさまは憧れなんですよー。優しくて淑やかなのに双剣を取ったら無双だなんて、素敵ですよねー」

「あたしはともかく、ヒシャームはサーラール殿が相手でも負けはしないわよ」

「またまたーサーラールさまは王国最強の戦士ですよ。あーもう少し早く生まれていたらなーサルヴェナーズさまの前にわたしがサーラールさまとめぐり逢っていたらわたしにもチャンスが……」

「いや、ないから! フーリには微塵も、欠片もそんなチャンスはないから!」


 ルーダーベフの手刀が、容赦なくフーリの額に叩きつけられた。

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