第一章 赤毛の小娘 -4-

 ヒシャームは乱暴にアナスの頭を殴り、シャタハートは慌てて王女に詫びていた。エルギーザだけは、にこにこといつもの笑顔を崩さない。


「いや、構わないよ」


 ナーヒードは思わず噴き出した。


 |大宰相の市場(バーザーレ・ヴァキール)を通り抜ける。スパイスや絨毯、銅製品や毛織物、綿織物など様々なものが売られている。


 ナツメヤシの木の下では、瑞々しいオレンジナラングが売られていた。が、一個買おうとして値段を聞いたアナスは、可愛らしい顔をしかめる。


オレンジナラング一個でシチューホレシュが食べれるよ」

「戦争が始まるのでな。軒並み値段が上がっておる」


 ナーヒードは四人を市場バーザーレの料理屋の二階に招き入れた。金貨を払って店を貸し切りにし、周囲を全て配下の騎士に固めさせる。


「好きなものを食べるがよい。それで、報告を頼む」


 アナスとヒシャームは嬉々として料理を頼む。シャタハートは若干の警戒を持ちつつ周囲を見回した。王女と騎士以外の怪しい気配はない。エルギーザは串焼きキャバーブ炭酸水割りヨーグルトドゥーグがあれば満足のようだ。


 ほうれん草のオムレツクークーイチジクのサラダサラーデ・アンジルナスと羊肉のシチューホレシュテ・バーデンジャーン、大量の羊の串焼きキャバーブパンナーン、ライムシロップのかかった菓子ファールーデ、食後のバラ水ゴレ・モハメッディまで頼むと、ようやくアナスは人心地ついた。


「よく食べるものだな」

「配給が少ないのよ。食べれるときに食べとかないと」


 ナーヒードは優雅に傾けていたバラ水ゴレ・モハメッディを噴き出しそうになった。目の前の少女はなかなか面白い。イルシュ伝統の火炎アーテシュ刺繍スザンニを使っているところを見ると、イルシュの族長家に関係はありそうだ。だが、今回イルシュの指揮官は別の男だったと記憶している。凡庸な男であり、印象には残っていない。


「さて、落ち着いたところで、ミタンの様子を聞きたいのたが」


 アナスはちらりとシャタハートを見た。シャタハートは頷くと、流麗な口を開いた。


「二日前の状況です。ミタンの先鋒は六将のスマトラ。聖なる牡牛ヴァリシャの旗が、ダルズィンまで達していました。麾下の軍は八千。後続は同じく六将のバパールとアクランティ。バムに駐屯しています。総指揮官のケーシャヴァはナーマッシャーにあり、軍の総勢は三万八千を数えます」

「ケーシャヴァはナーマッシャーか」


 ナーヒードの長い睫毛か憂慮を帯びた。


「ケルマーンまでは山あいを抜けてくることになる。大軍の足は遅くなるだろう……。行軍の列は伸びざるを得まい」

「軽騎兵での奇襲を仕掛けやすい状況ではありますが」

「奇襲を仕掛けるのは容易い。が……作戦目標をどこに設定するかはまた別でな」


 一戦してまず叩くか、敵主力兵団が来るまで引き付けるか、一撃で勝敗を決するべく総指揮官の到着を待つか。


 籠城を選択するなら、一戦ひとあてして、さっと戻り、堅く城門を守るのが上策であろう。だが、騎兵中心の兵科構成であるために、それを選択しにくい状況にある。


「とりあえず、そなたらの情報は助かった。そこまで手が回っていないのが現状でな。これで、方策も立てようがある。少ないが、これは褒賞だ」


 ナーヒードは金貨の入った小袋を放った。一介の兵士に対する褒賞としては破格であろう。だが、アナスは、その袋を手に取り、ちょっと考えた。


「ねえ、姫さま。金貨より、あたしたちのお願いを聞いてもらうってのではダメかしら?」


 ナーヒードの翡翠色の瞳に警戒の色が浮かぶ。アナスは慌てて手を振った。


「いえ、そんな大したことではないのよ。あたしたちをイルシュの兵と一緒ではなく、姫さまの指揮下にでも置いてもらえないかなあって」

「……? そんなことは容易いが……イルシュの将は確か族長の息子だろう? 助力をしなくてもよいのか?」

「ルジューワはあたしの従兄弟よ。あたしの父さんの弟の子供があいつ。あたしは先代の長の家系なのよ……あいつにとっては目の上のこぶね」

「なるほど。イルシュの先代の族長キアーのことは聞いたことかある。早逝を父も悼んでおったな。よかろう、そなたらを第一騎兵大隊麾下の独立遊撃分隊として登録しよう。軍務官とイルシュの将にはわたしから話しておく。当面は……フーリ! こっちに来い」


 ナーヒードは控えていた騎士の一人を呼び寄せた。


「はっ、はいっ! お呼びでしょうか、王女殿下」


 精一杯きりっとした顔を作っていたが、基本的に柔らかい顔立ちの少女である。おそらく、宮中からのナーヒードの側近であろう。


「フーリを付けておくから、こちらからの命令伝達は彼女から受けるように。独立遊撃分隊であるから、ある程度の行動の自由は保障するが、街の外に出るときは許可を取るようにな」

わかったわファ・ミダム


 おろおろしているフーリを置き去りにして、ナーヒードは部下の騎士とともに去っていった。これから作戦を立てなければならず、彼女は急いでいたのだ。金貨の袋を返さなくて済んだのは、アナスにとって幸運だった。


「じゃ、フーリもいることだし、とりあえず自己紹介かしら……あたしはイルシュのアナス。この分隊とやらの隊長よ」

「同じくシャタハートだ。アナスの補佐だ」

「ヒシャーム。先駆けは任せてくれ」

「ぼくはエルギーザ。困ったことがあったら言ってね」


 一度に名乗られて、フーリは可哀想なくらいキョロキョロした。それから自分の番だと気づくと、慌てて頭を下げた。


「シャーサバンのフーリです! 刺繍スザンニくらいしかできませんが、よろしくお願いします!」 


 騎士としては何かが違っていた。アナスは一瞬にして残念な子を見るような表情になったが、それでも気を取り直して言った。


「あら、あたしも布仕事は好きよ。この頭布クーフィーヤも、自分で縫ったのよ」

「ほんとですか! 王女殿下の頭布クーフィーヤはわたしが作ったんです!」

「ああ、あの精緻なスマック織……あなた凄いわねあれ」


 王家に相応しい風格のあるスマック織を思い出し、アナスは若干フーリを見直した。あれは確かに職人の仕事であった。


「とりあえず、敵は当面やってこないと思うし、姫さまが方針を決めるにも二、三日かかると思うわ。当座のねぐらだけ決めたら暫く自由行動でいいと思うけれど……フーリ、あたしたちはどこに泊まればいいの?」

「そ、そうですね……第一騎兵大隊は王女殿下直衞の第一小隊以外は宿に分宿していますので、殿下が軍務官に話を通せば宿が決まるはずです!」

「了解、そうしたら、あなたの役目は軍務官から決まった宿の通達を受けてくること。多分、今日はもう間に合わないから、あたしたちはここに泊まるわ。明日、宿が決まったらここに来なさい。誰か一人は残しておくから」


 都合よくナーヒードが客を追い出してくれたので、ここは空いているはずであった。フーリは明らかに年下のはずのアナスにきびきびと命令を下され、気圧されたようになっていたが、何とか気を取り直した。フーリはこの癖のある分隊の監察官なのだ。しっかりしなければ、ナーヒードに申し訳が立たない。


 体の前で両拳を握りしめる不思議なポーズを取りながら、フーリは出ていった。そのわかりやすい態度に、四人は苦笑して顔を見合わせた。

 

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