第9話

 自邸に戻った仙月は何をするでもなく、ひたすら武后からの新たな命令を待った。蓬莱宮での緊張と退廃と享楽に比べれば、ここは涙が出るほど退屈だった。


 仙花の一件で父母はやつれ、すっかり老け込んでいたが、まさか妹が姉を陥れた張本人だとは両親とも知らない。しかも、仙花が栄耀の座から転落してその後の消息もわからぬというのに、父親はもう一人の娘に望みをかけ、武后の「配慮」に期待をつないでいた。


 だが新緑の季節になっても音沙汰がなく、さすがに仙月も焦りを覚え始めたころ、やっと宮中からの使者が麗々しい行列を組み、崔の門前に到着した。


「太常卿崔子温のむすめ仙月、聖上の厚恩により貴妃に封じ、さくと宝(注1)、そして礼服を賜う。また別して、かたじけなくも皇后様より下賜品がある。謹んで受けよ。なお、入宮の期日は追って知らせる」


 自邸の正堂で南面した使者を前に、官服に威儀を正した父に合わせ、仙月はこれ以上ないほどの優雅さで拝礼する。

 ついで、赤漆で塗られた貴妃のさく宝璽ほうじの盆、同じく平たい礼服の箱と、つぎに一尺四方になる、黒漆で塗られた皇后下賜の箱が仙月の手から傍らの侍女に渡り、それぞれ脇の書案しょあんの上に落ち着いた。後者の箱は、見た目の割にずっしりと重かった。

 見れば箱の蓋には、向かい合わせになった螺鈿の鳥が、飾り紐を咥えている。あの阮咸と全く同じ、仙月の気に入りの紋様である。彼女は天にも昇る心地となった。


 ――ああ、皇后様は、やはり私のことをよくご存じでいらっしゃる。


 虹色に輝く鳥たちはまるで、御仏のおわす極楽の讃頌さんしょう(注2)を歌っているかのようだった。

 使者達が父に導かれて退出するのを見送り、彼等が廊の向こうに消えるのを待つのももどかしく、彼女は書案に駆け寄った。まず礼服の箱を検分し、満足の吐息を漏らした。

 さらなる期待に胸を膨らませ、黒い箱の蓋を取りその中を覗き込む。そして――。


 

 魂を凍らせる悲鳴が崔家を揺るがした。

 異変を知り表門からとって返した子温が正堂に入ると、部屋の隅で震えている侍女と、書案の脚のもとでうずくまる仙月がいた。娘の瞳孔は限界まで開き、口元を両手で覆っている。かつて宮中の栄華と暗黒を映したその両眼に、いまはただ狂気のみを宿す。


 父親は見た。黒塗りの箱より、同じく黒いものの束があふれ出ているのを。彼は娘と同じようにして覗き込んだ。そしてまた、恐ろしい悲鳴が崔家に響き渡る。


 箱からあふれ出しているのは豊かな毛髪、箱のなかに鎮座しているのは塩漬けの首――かつて子温が盲目的に愛した、そして仙月が憎み蔑んだ、もうひとりの娘の双瞳そうどう、鼻筋、唇。そのすべてが一尺四方の空間に収まっていた。


 

 大唐は長安の月輪げつりんの下、さる高官の邸宅の門前には、血と臭気のこびりついた黒塗りの箱が放り出されていた。邸内の惨劇をよそにみて、螺鈿の鳥は無音の歌をさえずっている。


                                〈 了 〉

***

注1「冊宝」…天子より封録や爵位を賜る文と、その地位を表す宝璽。

注2「讃頌」…歌を作りほめたたえること。

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螺鈿の鳥 結城かおる @blueonion

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