第4話 世界人類の幸せにために

 何が目的かである。性欲が目的などと勝手に決められては困るのである。性欲が目的でない人はたくさんいる。では、みんな、何が目的なのだろうか。それぞれ好き勝手に目的をもっていることだろう。

 で、現在、最も大多数に支持されている目的は、キリスト教の目的なのである。キリスト教の目的は、「世界を幸せにすること」であるらしい。なんでも、マタイ福音書のここに書いてあるとか、別の福音書のここに書いてあるとか、面倒くさい説明がされるので、ぼくはよく理解していない。「愛」が目的なのである。

 西洋の愛の起源は、プラトンの「饗宴」と聖書だとだいたいわかるものの、東洋の愛の起源は、漢字の愛の起源にさかのぼる。始皇帝の制定した隷書体では、明確に「愛」の字がある。これは性欲ではなく、慈愛を示す。古くは、「むせぶ心」が愛であったという説が有力である。少なくとも、東洋の愛の漢字が示しているのは性欲ではなく、慈愛である。西洋も、エロスではなく、聖書の説く愛は、慈愛である。

 いやいや、聖書の説いているのは神の愛と神への愛だとかいう熱心なキリスト教徒もいるかもしれないが、ぼくはその説は相手にしないです。ごめんなさい。

 で、「世界を幸せにすること」がキリスト教の目的であり、愛の目的なのだが、ぼくは悩んだ結果、これを「世界人類を幸せにすること」にちょっと変えた。

 ぼくは蚊を殺すのである。だから、蚊の幸せに貢献できる虫愛ずる姫君ではない。

 「神が宇宙の究極目的だ」といったのはデカルトであるが、ぼくはこれをよしとはしない。だが、キリスト教の熱心な信者は、本気で「神が宇宙の究極目的」で、神の裁きで死後、天国に生まれ変わることを目的としているので、ぼくはこのような神学的な目的は、よしとしない。ぼくはそんなことは目的にしていない。

 人それぞれである。みんなの自由だ。信教の自由は保障されている。少なくても、ショーペンハウエルは、「我々の現存在が宇宙の究極目的であるはずがない」ということは指摘してくれている。

 宇宙の究極目的が何であるにせよ、ぼくは「世界人類を幸せにすること」を目的にすることをまあ、他に目的がなければそうしておけば何事も平穏無事にすすむんじゃないかなあと思っている。

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