第17話 東洋哲学における無意識
西洋で無意識について最初に言及したのは、十九世紀のシェリングであると、ユングがいってることはすでに述べた。しかし、無意識の起源が仏教哲学やインド哲学にまでさかのぼれることはよく知られている。
インド古代哲学のウパニシャッドに、これは無意識のことではないかという記述がある。紀元前800年頃に書かれたとされる「ブリハッド・ウパニシャッド」にこうある。
「一切の存在の中に居住し、一切の存在とは別のものであり、一切の存在が知ることなく、一切の存在を肉身とし、一切の存在を内部から制御するもの、それがあなたのアートマン(真我)であり、不死の、内部の抑制者であります。」
これはおそらく、無意識について記述しているであろう。
ぼくの知っているいちばんの無意識の起源はこれであるが、他にも無意識について言及している可能性があるものについても言及しておこう。
起源前400年頃に仏教の開祖ゴータマ・シッダルタは、「無明」というものに言及している。これは原始仏典の「阿含経」に書かれている。無明は、六個の感覚器が、六個の識覚を消した時に、なお残る人の識覚である。
このゴータマ・シッダルタの「無明」は、無意識についての言及だとは、認めるには少し確信できない書き方がされている。だから、ゴータマ・シッダルタの「無明」は、無意識ではないのかもしれない。
さらに、以前述べた四世紀インドの「解深密経」について再び述べる。西暦四世紀頃にインドで成立した仏典「解深密経」(けじんみっきょう)に、広慧という仏僧が、阿陀那識、または、阿頼耶識と名付けた概念が登場する。「言説不随覚の知」、「不可覚知」という記述があり、無意識についての記述と思われる。感覚できない知というのは無意識のことだとしてよいだろう。
そして、四世紀のインドのヴァスバンドゥが「唯識三十偈」で「末那識」「阿頼耶識」という概念を述べている。これは、無意識であると解釈することもできる可能性がある。
八世紀のインドの哲学者シャンカラは「ウパデーシャ・サーハスリー」で、潜在意識ということばを使い、無意識について述べている。八世紀のシャンカラになると、もう疑う余地のない無意識についての記述である。
人の知覚できる世界、意識の世界において、その外の世界が存在すると考える根拠はなんだろうか。西田幾多郎の「善の研究」を読んでいる時にぼくが思いついたのだが、人の意識は自我の主体の内側だけで意思が決定されるのではない。ヒトの意識は、意識の内側だけで決まるのではない。ヒトの意識は、意識の外側から志向される要素と、意識の内側から志向されう要素の統合によって発現するのである。
つまり、無意識に当たる神経の興奮が原因で発現する意思の要素は必ず存在する。ヒトの一回の意思決定には、無意識からの発動する神経による影響が存在する。
無意識の領域の神経の興奮が、意識にのぼる意思の発現の原因となる。
意識によってとらえられない世界のことをカントは「物自体」と呼んだ。意識によってとらえられない存在を、朱子は「理」と呼んだ。意識によってとらえられない存在をゴータマ・シッダルタは「無明」と呼んだ。
このように、ドイツ大陸哲学と呼ばれ、哲学のコペルニクス的転回といわれたカントの「物自体は認識できない」という思想は、東洋哲学に散見することができる。ゴータマ・シッダルタや朱子によって、ドイツ大陸哲学と呼ばれる思想は、仏教、儒教にすでに同様の発想が、西洋哲学とは異なる表現によって述べられていた。
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