第18話 存在論の弁証法

 世界は本当に存在しているのか。

 存在とは何か。

 非在とは何か。

 存在するとはどういうことなのか。

 存在しないとはどういうことなのか。

 いまだにそれは何なのかぼくにはわからないのである。

 そういうことを考えることを存在論という。

 人の数だけ存在論は存在するのだろうが、有名な存在論ではこのような弁証法が使われる。


 「あるというものにはないといい、ないというものにはあるという。」


 このことばは、重要な哲学であり、存在論なのである。

 このことばは、ヒトは存在についていかなる確証も持たないこと、また同じように、ヒトは存在しないことについてもいかなる確証も持たないことを前提としている。

 東洋の哲学者は、長いことこの不二一元論について考えてきた。千八百年もそのことを思索してきたので、いい加減にこの議論は無限後退に陥っているのではないかと思い、まとめておく。この頭の痛くなる東洋の賢者たちの議論は、確かに、誰かに教えてもらわなければ、若者がそれを自分で気づくことはすごいまれなのである。ならば、きっととても重要な哲学概念なのだろう。

 いったい誰がこのようなことを言い始めたのか、いくつか探してみた。

 もちろん、網羅的に探したわけではなく、適当に数冊の哲学書を読んで、そのようなことを書いていると思う箇所を探した。

 さかのぼれるのは、ぼくが知るかぎり、ナーガルジュナである。

 二世紀にインドのナーガルジュナが「中論」で以下のように述べている。


 有と考えれば、常住論者となり、

 無と考えれば、断滅論者となる。

 ゆえに、賢者は、

 存在と非在のどちらにも依拠しない。


 六世紀に中国の慧文が一心三観を主張して、天台宗の始祖となった。一心三観とは、物質が存在するという認識を仮観といい、物質が存在しないという認識を空観といい、仮観と空観を同時に認識することを中観という。これは仏教の悟りのひとつとされることもある。

 八世紀のインドのシャンカラは「ウパデーシャ・サーハスリー」で「不二一元論(アドバイタ)」を述べている。これは「二元を欠く」という哲学で、すべては一様でとらえ、概念を二つにすることを否定するという哲学である。ぼくにはシャンカラの哲学は難解でうまくそしゃくできていないので、伝わらないかもしれないが、謝ることしかできない。

 九世紀の最澄は日本に一心三観の思想を持ち込み、天台宗を日本に導入した。同じ頃の仏僧空海も、その著書「秘密曼荼羅十住心論」で一心三観に言及している。

 十世紀に日本の源信が「往生要集」の中で、「魔界の如と仏界の如とは、一如にして二如なく、平等一相なり。」と述べたのも、東洋哲学に特徴的に見られる仏教中観派の哲学となっている。

 1907年に英語で出版された鈴木大拙「大乗仏教概論」では、ナーガルジュナの「中論」に言及している。これは西洋に紹介された仏教哲学の代表的著書となり広く読まれた。

 二十世紀の田辺元「死の哲学」に、古代ギリシャのパルメニデスがそういっていたとある。しかし、ぼくはパルメニデスを読んだが、そんなことは書いてなかった。この存在論の弁証法がパルメニデスにさかのぼるというのは田辺元のまちがいである。

 2009年の日本のアニメ「化物語」に出てくる忍野メメがいう。

「あるというものにはないといい、ないというものにはあるという」。

 このアニメはかなりの視聴者を得たので、東洋哲学の重要な概念は広く二十一世紀の日本に普及した。

 子供の頃、自分で解けない謎はないと自負していた勘違い坊主だったぼくは、他人に教えてもらうまで、この存在論の弁証法には気づかなかったし、それを知っているものにすごくめためたに言い負かされてしまった。

 知の議論が好きなものは知っておきたいことである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まったくろくな哲学入門書がないよね 木島別弥(旧:へげぞぞ) @tuorua9876

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説