第2話 正義とは何か
まず、初めに語るのは正義についてである。哲学とは、世の中の基本的な謎について考えることなのだが、正義とは何かについて語るのが哲学の基本である。なぜかというと、いちばん基本となる哲学書であるプラトンの「国家」が正義とは何かについて語った書物だからである。
プラトンの「国家」に出てくる人物がいう。「強いことが正義である」と。なるほど、大勢の賛同者を得るであろう。正義とは強いことだと。勝てば正義なのだ。哲学が古代ギリシャで起こってから二千年以上たつ現在でも、こう考える人は大勢いるであろう正義の定義である。で、そんなことで哲学になりはしないのである。プラトンが試みるのは、「強いことが正義である」を論破することなのだ。そうだ。「強いことは正義である」を論破することこそが哲学なのだ。
で、そのプラトンが展開する議論は非常に面白いので興味をもった人はぜひ読んでほしいが、結論をいうと、プラトンは「正しい人のが損をする」として論破する。「正しい人のが損をする」のが現実で、正義とは行うのに困難なものなのだ。不正な人のが得をして、正しい人が損をする。その結果どうなるかというと。
悪人が世界を支配して、善良な市民はみんな悪人に負けてしまうのだ。
これが、プラトンの描いた国家の構造である。だから、これを知った者たちは不正の人になろうとした。ユダヤ人は、正しくある必要なんてない、みんなをだまして支配するのだ、という思想で悪の秘密結社を運営しているといわれる。ユダヤ陰謀説がこれである。本当に、悪いことをして嘘をどんどんついて支配してしまおうということを現実にやっているのである。神は正義だ、神の使徒は正しくあれ、なんてことは子供だましの建前にすぎないのである。
しかし、安心してほしい。現在、建国されているほとんどの国が、不正の国ではなく、正しい国であろうとしている。正義の国であろうとしている。プラトンのいう正しい人になろうとする人たちで政府を運営している。なぜなんだろう。ぼくにはわからない。でも、たぶん、不正の人が支配する国はすごく居心地が悪いんだと思う。日本の歴史を見ても、だましうちや卑怯者の跋扈した戦国時代は民を疲弊させ、その結果、戦争を禁止する江戸幕府ができて太平の世をつくりだしたのだ。諸国争乱の結果、やはり、歴史の必然として、正しい政府が勝ち残っていくものなのである。
ちなみに、これが西洋の正義の定義であり、帝王学の真髄である。で、東洋はどうだったかというと、仏教書のサンユッタ・ニカーヤに正義の定義がある。正義とは、目的に適ったことであると、帝釈天と阿修羅がいう。これが東洋における正義の定義である。ぼくは、目的に適ったことが正しいという意味であるということを小学生の低学年の時に考えついて、それを根拠に生きてきた。偶然、ぼくが小学生の時に考えた正義の定義は、東洋の仏教による正義の定義と同じであった。
みんなは子供の頃、何を正義だと考えただろうか。ネットをやっていて出会った人に、法律が正義だと考えていた人がいた。なるほど、法律が正義だと思って生きてきたんだね。それはそれで現実を生きるのにまちがってはいないだろう。
だが、ちなみに、現代法学の定義によると、H・L・A・ハートの「法の概念・第三版」という本には、法律は正義ではないと書いてある。ぼくの浅い法学の知識だからそういう意見もあるのかくらいに思っていてくれればいいが、ぼくはこう考えている。「法律は正義ではない。法律はただ世の中をうまく動かすためにただそうなっているだけである。」と。
裁判官は「おまえは正義なのか」と聞かれても、人間模様の複雑怪奇な出来事を処理する以上、自分が正義だなどとはいえないのである。ただ、社会をよりうまく動かそうとするだけであり、そうやって世の中を動かしているだけであり、何も自分が正義だなんて思っちゃいないし、法律を正義としても世の中うまく動かないのである。どんな法律にも、不具合のある出来事に遭遇することはあるのだ。
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