第7話 我思うゆえに我あり

 意識が世界を認識していることについて述べた。それについて論じた有名な哲学者はデカルトである。「我思うゆえに我あり」と「方法序説」に書いてある。100ページちょっとの短い本なので読んでみてほしい。

 で、ぼくが意識しているからぼくは存在するんだ、という理論である「我思うゆえに我あり」だが、当然、これに反論した哲学者もいる。どうぞ、「我思うゆえに我あり」に反論して、論破してもらいたい。できるだろうか。

 では、「我思うゆえに我あり」を論破した哲学者を紹介しよう。スピノザである。

 「我思う」という「我」を、完全に正しくぼくらは認識することができない。ぼくらは自分で自分のことはわかるけど、ぼくらがわかっている自分のことは完全じゃない。ぼくらは完全に自分のことを知ってはいない。だから、我思う我は、我を完全には知らないため、我はあやふやなものであり、我思うからといって我あるとは限らない。我は我とはちょっとちがうものかもしれない。我思うゆえに我とちょっとちがうものがある。これでは、デカルトの「我思うゆえに我あり」も成立しない。これで「我思うゆえに我あり」を論破したぞ。

 中には、我思うゆえに世界ありと思う人もいるかもしれない。その時、考えてほしいのが、眠っている時間である。誰もが眠ると思う。眠ってる時に世界は存在するのか。自分の見ていないところに世界はちゃんと存在しているのだろうか。もちろん、これは存在の根幹が物自体であるというカントの哲学によって否定される。

 西暦四世紀頃にインドで成立した仏典「解深密経」(けじんみっきょう)に、広慧という仏僧が、阿陀那識、または、阿頼耶識と名付けた概念が登場する。「言説不随覚の知」、「不可覚知」という記述があり、これらは無意識の記述といえる。だから、東洋哲学の側に立つと、デカルトの「我思うゆえに我あり」は、「無意識がある」というだけで反駁できてしまう。「我思う」から我が存在するのではなく、無意識の発現によって「我思う」意思が存在することになるからである。

 無意識が最初に登場したのは、インド哲学であると思われるが、最初の出典は定かではない。西洋では、つまり、ヨーロッパでは、ライプニッツが東洋哲学を紹介した時に、初めて無意識を紹介したとされる。ユングは、西洋での無意識の紹介をシェリングであるとしたがまちがっている。

 そんなわけで、無意識が存在することは大昔から知られていた。

 無意識については二十世紀、フロイトやラカンによって盛んに論じられたが、誤謬が多い。フロイトは、父殺しを物語の典型としたが、この説は二十一世紀になっても盛んに論じられていたが、ぼくが千冊の小説を読んで統計をとったところ、父殺しの物語は千作中二作だという統計を得た。父を神や父性ととらえても、父殺しの物語は全体の2%程度しかない。

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