19.お嬢様の縁談は困りもの
まだ膨らみはじめたばかりのお腹をつきだしたお嬢様が、玄関でカナを迎えてくれた。
「花南さん、お帰りなさいませ。ああ、ほんとうに良かった。耀平さん、よろしかったですね」
彼女の目の前で、カナは我を忘れて義兄にキスをして抱きついて、義兄は義兄で自ら飛び込んで帰ってきた義妹を抱き返した。
お嬢様の前でぶちゅっとしてしまったのだから、カナはもう顔が燃えるように熱くて気恥ずかしいし、耀平兄も黒髪をかいて照れてばかりいる。
お嬢様の舞は、家の勝手をよく踏まえているようで、ほんとうにこの家の主婦のようにして元住人だったカナをリビングへと案内してくれる。
その時、彼女がちょっと眼差しを伏せ、申し訳なさそうにカナに告げる。
「私の勝手で、花南さんがお住まいだったこちらに暫くおじゃましております。申し訳ありません。ですが和室を貸して頂いております。他のお部屋は触っておりませんからお許しください」
だけどカナは腹立たしくは思わなかった。義兄が『家出娘』と例えてくれたからだろう。お嬢様である彼女も、家の事情に縛られて雁字搦めになっていたところを逃げ出してきたのだと察することが出来た。
「父親や兄弟が責任ある立場だと、家族揃って、それに従って生きていかねばなりません。ですけれど、なかなかそうはいかないものですよね」
静かに返したカナに、舞はホッとしたのか、愛らしい微笑みを浮かべてくれる。
「耀平さんがおっしゃっていたとおりですね。妹さんなら、私の気持ちもわかってくれるはずだから、大丈夫だって……。それで、甘えてしまっていたのですけれど」
リビングのドアが開く。一歩入ったそこでカナは立ち止まる。先ほど、舞が現れた庭への窓が開け放たれていて、白と薄紅色のシャクヤクが見える。蔓薔薇も咲き始めていて、空に向かって伸びて赤い蕾が揺れている。
入ってくる風の匂いもまったく変わっていなかった。
「どうぞ、おくつろぎください」
いつも義兄が足を投げ出して寝転がっていたソファーへと促される。
自分も汗びっしょりかいた夕は、そこでうたた寝をしていたことも思い出す。
そこに座ると、義兄も隣に座ってしまう。しかも肌の温度をかんじるぐらいにぴったりと寄り添ってきたので、カナは密かに頬を熱くしてしまう。
でも舞には気がつかれてしまい、彼女は微笑ましいと言いたそうにクスリとこぼしている。
「耀平さんたら。花南さんがまたいなくなるのではないかと心配しているみたい」
「いや。そんなことはありませんよ」
「素直じゃありませんね。あんなに待っていらっしゃったのに……。お兄様からしっかり捕まえておかないといけませんよ」
いや、参ったな――と義兄は、なんだか舞にはとても弱い様子。親子ほど歳が離れてはいるが、既に対等の関係を築いているようにカナには見えた。本当にこちらのほうが兄妹のように見えてしまう。
そして。カナには新鮮だった。カナが富士で新しい人間関係を築いていたように、義兄も別の世界で新しい人間関係を持ち始めたことに気がついた。
この家で、いつまでも『ふたり』。五年間、ただ時間を過ごしてきた。互いに『絶対に知られるものか』と誓った秘密を隠し持ち、誰も入り込めない二人だけの関係を続けてきた。
二人だけならいい。互いが固く口を閉ざしていれば、ただ平行線の日々を送っていけるから。でも、なにか変化があったり、他人が入り込むとあっという間に二人のバランスが崩れてしまう。そういう砂上の関係だったのだろう。
決して――と、秘密を『門外不出』のようにして互いに抱え、その重みに押しつぶされ、揃って壊した。
決して――と、拒絶していた『他人』が、知り合った人々がいつのまにか『秘密』を包み込んでくれていた。富士で、親方と先輩の目の前でぶちまけられてこそ、『秘密』は終焉へと動き始めるものだったのかもしれない。
もしかして義兄も、この彼女といることで『秘密』の形を変えることが出来たのかも。そんな予感がした。
「この家。なにも変わっていません。わたしがいない間も、義兄が家を空けている間も、舞さんが整えてくれていたのですね」
カナから頭を下げる。『ありがとうございました』と。
なにひとつ変えられていなければ、荒らされてもいない。そこに他人として入り込んでしまった舞の慎みをカナは感じ取っていた。
「風の匂いがそのままです」
風を懐かしんでいると、カナの目の前に舞がお腹を撫でながら座り、向き合った。
「こちらこそ。この家に置いて頂けて、感謝しております」
こちらも神妙に頭を下げてくれる。その舞が、申し訳なさそうに話し始めた。
「いままで家族には反抗できずに育ってきましたが、常々、私の意志が通らないことが多くてすっかり諦めておりました。でも、結婚だけは……どうしても」
カナの側にいる義兄を、舞が見つめる。
「耀平さんはお写真を見た時から、もちろん頼りがいある男性だとわかっていました。でも、やはり歳が離れすぎていて、どうしてもしっくりしなくて」
舞はその時の切羽詰まる危機感を思い出したのか、涙を浮かべている。余程に強引に、耀平兄と引き合わせられたらしい。
耀平兄と見合いをしたはいいけれど、なにを話して良いかさっぱりわからなかったと、舞は話し始める。
ああ、これが『お父様がいないと、なにも話すことができないお嬢様よ』と母が言っていた時のことなのかなとカナは思い出す。
四十半ばのおじさんと、まだ二十代のお嬢様が、お決まりのように二人きりにされる。
ひとまず、耀平兄がドライブに連れて行ったが、その時の舞の緊張具合は尋常ではなかったと義兄が教えてくれた。
「それで、俺も困り果てて。もうどうせなら、この家のガラス工場でもみせてあげようかと、その場しのぎで客として連れてきたんだ」
すると舞がちょっと恥ずかしそうに笑って教えてくれる。
「そこでヒロさんに出会ったんです。耀平さんから、彼が妹の学生時代からの相棒の『ヒロ』だと紹介された時、彼は冬なのに汗びっしょりになってガラスを吹いていたんです。逞しい腕に、ひたむきな眼差し、瞬く間に形になっていくガラス。嘘偽りない積み重ねが無ければ決して出来ないことです。スーツを着ている男性達がお腹の探り合いをして駆け引きをしている姿をみてきたので、あまり良く思っていません。だから、地道に技術を身につけてきた職人さんの実直な姿に惹かれて、そんなヒロさんに一目惚れしちゃいました」
なんと。お嬢様とヒロを引き合わせたのは、お見合い中の義兄だった。思わぬご縁が生まれたらしい。
「もう、それからはヒロさんに猛アタックの日々でした。そんな私の気持ちを知ってくれた耀平さんが、こちらの家に通ってくることを快く受け入れてくれたのです。家族には、耀平さんに会いに行くことにして、この家までヒロに会いに来たら良いでしょうと……耀平さんが協力してくれたんです」
それがつまり、義兄がお嬢様をこの家に入れることを許した本当の理由ということらしい。彼女の恋を応援するため、婚約するふりをして、彼女を招き入れていたのが『真相』――。
すっかり騙されていたことに腹立たしさはあったが、でも、義兄がそうしてくれなければ、彼女は家に縛られたままのお嫁さんになっていただろうし、義兄も結婚を迫られていただろうし、そしてヒロも……久しぶりの恋に出会って、父親になるという幸せにも出会っていなかっただろう。
義兄もその時を思い出したのか、ちょっと楽しそうに笑った。
「ヒロも最初は困っていたくせに、舞さんの手料理や差し入れをもらっていくうちに、胃袋も心も掴まれてしまったんだろう。ヒロが舞さんを受け入れると、舞さんから家を出てきてしまった。けっこう大胆で驚かされたがね。でも俺もこうなったらとことん協力しようと思って、花嫁修業と称して舞さんを預かることにした。あちらのお母様はもう舞さんの気持ちを知っていたので、駆け落ちをされるぐらいなら、俺の目の届くところで預かってくれた方がいいと言ってくれたので、それで預かることにした」
そして義兄が協力しているうちに、耀平兄でも驚くことが起きた。
「……桜が咲く頃か。子供が出来たとヒロと一緒に報告された時は、さすがに驚かされた」
耀平兄の持ち家で、花嫁修業と称して預かっていたのに。そのお嬢様が、ガラス職人の男に惚れ込んで子供まで出来てしまったら、あちらのお家は大変な騒ぎになるのではとカナは案じてしまう。
「それで、ヒロと舞さんの結婚はお許しが出たの」
議員の大事なお嬢さんが、地位も名誉もない財力もない『職人』と一緒になると言えば、反対されるのが目に見えている。
「義兄さんだって、あちらのお父様に悪く思われて、お仕事に支障がでたりしないの」
「いや。そんなことはどうでもいい――。二人に協力していたら、不思議とそう思えた」
もしかすると。義兄が後で議員の父親に恨まれるかもしれないのに、皆を騙してまで舞に協力したのは……。家に縛られて仮面を被っていた妻が最後に狂ったように飛び出した夜を思い出して、こんな若い彼女にそんな結婚はさせまい、二度とそんな生き方の女性とは一緒になりたくはない、それなら彼女がしたいということを協力してあげよう。そう思ったのではないかとカナは感じてしまっていた。妻にしてあげられなかったことを、舞という縛られているお嬢様に協力することで、あの夜引き止められなかった夫としての贖罪としていたのかもしれない。
「これから、ヒロと舞さんはどうなるの。勘当されるか、そんないざこざになってしまうの」
「それが知れたのがちょうど十日ほど前で、もうあちらの家はひっくりかえったように大騒ぎになっている。俺もその対処に追われていて、やっと豊浦に戻ったところだったんだ。そうしたらカナが帰ってきた」
事務員おじ様が『お兄さんは見合いしてから疲れているようですよ』と言っていた意味もわかった気がする。
「そもそも。あちらが強引に持ち込んできた縁談だ。息子は遊び人なのに、カナの夫にしたいとか。娘には歳が離れた男を無理矢理あてがって、上手くいくとたかがくくった結果がこれだろう。うちの責任ではないといいたいね」
「息子と、わたしの、縁談?」
思わぬことが聞こえてしまい、カナは眉をひそめる。
すると義兄が急に、言いにくそうに補足した。
「本当は、見合いに望まれていたのは婿養子の俺ではなくて、カナ、おまえだったんだ」
「え、わたし?」
びっくり仰天してしまう。するとまた舞が『ごめんなさい』と頭を下げてくれるのだけれど、カナにはまったく事情が見えない。
「長男である兄は結婚しているのですが、次男であるすぐ上の兄はまだ独身です。父が倉重さんと親しくなりたいために、まだお嬢様が独身と知って、それならうちの次男と一緒になればと思いついたのです」
え? それで、そのお見合い話はどうなってしまったの? カナが唖然としていると義兄が続ける。
「まあ、妹の舞さんの前でこういうのはなんだけどな……。その次男の兄さんってやつが、そのう……」
とても言いにくそうで義兄が口ごもった。だが遠慮してくれた義兄の代わりに、身内の舞からはっきりと教えてくれる。
「真ん中の兄は、いわゆる『遊び人』です。でも経営手腕だけは上の兄よりしっかりしているものですから、父もなにも言わず今のところは自由にさせています。でも、女性問題が絶えなくて、妹の私でも呆れるほどなのです」
「あの、それでしたら。そういうお相手にはお困りではないのでは」
敏腕経営者で本来はお坊っちゃま。女性もそんなによりどりみどりなら、そこから選べばいいじゃない。と、カナは思うのだが、側にいる義兄がため息をついた。
「そんなわけないだろ。あの家柄でそんな気質の男なら、遊びの女と妻にする女は使い分けようとするだろう。俺からも断ったんだ。うちの妹は、ガラスのことしか見えていなくて他のことは無頓着だから妻は務まらないと。なのにその彼が『家庭的なものは望んでいない。妻も好きなようにしてもらって結構。それならお互いに好きなことをしてもやっていけるでしょう。芸術家の妻なんていいステイタス』なんて、すっかりカナをもらうつもりの返答で、ちょっとな……、うちのお義父さんも困っていたんだよ。さすがに娘を、そんな環境に嫁がせる気はなかったんだろう。県会議員とのパイプも旨みがあるのはお父さんも俺もわかっているし、あるなら欲しいと思うが、だからといって無くてもやってこられたからな。援助目当てに強引な縁談を持ち込まれて辟易していたんだ。これは絶対に阻止せねばいかんと思っていたらな……」
もしかして。カナは、側にいる義兄を見上げた。すぐに目を逸らされてしまう……。そうして照れるってことは……。舞との見合いは、カナの身代わりになってくれた?
そんな耀平兄を見た舞が笑った。
「お兄様は、妹様の生活を守りたかったみたいですね。倉重さんの方から、花南さんとの縁談のお断りがあったのに、父が引かなかったんです。それだけ倉重さんの財力を当てにしているのでしょう。親類になるためにと次に考え出したのが、耀平さんと末娘の私との縁談だったんです」
では、義兄が見合いを決めたのは……。
わたしの生活を守るため……?
でもまだ飲み込めない。
「でも。母と航は怒って、山梨にいるわたしのところまで家出してきたじゃない。お母さんはほんとうに怒っていたし、航は……航は、お父さんが結婚しちゃうって……泣いたのよ」
「わかっている。航には、山梨から帰ってきてから『本当のことを説明』した」
「本当のこと?」
カナが眉をひそめると、義兄と舞の二人はそれこそ今回の見合いではタッグを組んで乗り切ってきた同志のように顔を見合わせ微笑んだ。
「お義父さんだ。花南を嫁に出すものかと踏ん張ってくれたのも。それから……、ワザとお義母さんを本気で怒らせて、カナのところに行かせたのも」
え? まだわからない。急に父が出てきたので、カナの頭はますます混乱する。
だけれど、たくさんの今までの経緯を聞くよりも、カナの困惑を収めるひと言を義兄が告げる。
「初めてお義父さんに聞かれた。『まだ、花南と結婚する気はあるのか』と――」
息が止まるほど、カナは驚かされる。
いままで知らぬ存ぜぬで、娘と義兄の恋仲に触れなかった父が。そんないざというときになって、踏み込んできていたことに驚きを隠せない。
「迷わず答えた。『あります』と。もう兄貴ではなく、夫として。妹ではなくて妻として。改めて婿になりたいと、お義父さんに言った」
父に『結婚したい』と、もう耀平兄は告げていた。父もちゃんと見ていてくれたし、考えていてくれた。なによりも、兄さんがはっきりとした意志をみせてくれていたなんて……。
「俺にその気があるとわかったら、お義父さんは素早かった。困り果てていた見合いをするよう俺に命じて、お義母さんを反対する立場にさせて怒らせて、そうあれはお義父さんがそれとなく仕向けた『迎え』のつもりだったわけだ」
「あれが、迎え?」
でも、カナもわかってきた。相手側を怒らせずに受けたふりをして、味方を欺きつつも、水面下では自分の思うとおりの結末がやってくるように仕向ける父のやり方が。
「俺の結婚を知って、そこで娘がどう動くのかお義父さんも『これが娘の正念場だ』と、遠い山梨にいるおまえに思いを馳せて落ち着かない日を過ごしていた」
「お、お父さんが……」
仕事で忙しく、あまり触れあいのない父親だった。それでも最低限の親としての愛情はカナには通じている。普段は放任主義の父で、次女のカナには特になにも強制はしなかった。
「お義母さんと航も帰ってきてから真相を知って、それからは、『いま、カナの職人としての正念場だから。余計な知らせをして、やっと集中している邪魔をしない』と決めてくれたんだ」
そして、義兄が微笑む。
「そうしたら。おまえが銀賞を取った。まだお義父さんにもお義母さんにも知らせていないだろう。娘のカナから知らせて欲しいから、俺はわかっていてもまだ言っていない。でも、おまえが帰ってきて驚くのと同時に、いや……やっぱり父親ってすげえなと、お父さんにしてやられた気分だった。もうおまえがお父さんの罠にかかったまんま、本当に帰ってきたのだから。そこがおかしくて」
あ。それで笑っていたんだ――と、カナもやっと理解した。
「俺の中では舞さんとの縁談はとっくに破談で終わった話だった。だから今度は銀賞を取ったおまえのことが気になって気になって……。そうしたら、おまえはまだお父さんが仕掛けたままに『結婚、おめでとう』なんて泣きそうな顔で、飛び込んできたんだからな」
「じゃあ……。お母さんも航ももう。舞さんのことは知っているの」
「山梨から帰ってきてからはな。それまでは航も、この家に余所者は入れたくないと拒絶していたけれどな。カナにも早く本当のことを知らせたいと暫く迷っていたようだが、『ひたむきにガラスに気持ちを映しているカナちゃんを見てしまったから、変に思い悩むことを知らせて邪魔をしたくない』と納得してくれた。カナが創作を始めた姿はかっこよかったと言っていたぞ。でも航にとっても、富士の湖畔に思わず行くことになったのは、良い経験だったみたいだ。あれから妙に落ち着いて受験勉強に取り組むようになったしな」
なにもかもが、カナがひとりで生きていく力を漲らせるために、ただただ見守ってくれていた人々がこうしてカナを生かしてくれることを知る。
「でも……。そんな……。もし、わたしが帰ってこなかったり、もし、わたしが他の男性を選んだりするかもと……思ってくれなかったの」
カナから帰ってくるまで、義兄さんは決してカナには触れようとしなかった。それってズルイとまたカナは懐かしく言いたくなる。
「もう一度、勝手に俺のものにしても良かったのか。迎えに行って、また無理矢理連れ戻して、おまえは俺のものになってくれたのか」
その問いに、カナは迷うことなく『否』と思った。天の邪鬼が働いて『帰らない』と言う可能性も大だったが、カナも同じように思っただろう。帰ったところで、あの時ならば、秘密が真実になった痛みを互いに抱えて、もっと傷つけあっていたに違いない。ただ平行線のなか暮らしてきたそれまでとは違う生活になっていただろうと、容易に想像がつく。
「同じ事の繰り返しだ。おまえはまた、俺の側でただただ時間を費やすだけだっただろう。俺はおまえをこの家でいつまでも囲って、縛って、花南という女が大輪の花を咲かせるかもしれないのに、庭の花のようにこじんまりと咲かせて終わらせていたと思う」
義兄のその言葉に。カナの脳裏に、何故か月見草が浮かんでしまった。
庭のシャクヤクは大輪だけれど庭で守られ縛られている。月見草は、密やかだけれど、自由気ままに好きなところに自生して大きな瑠璃空を仰いでいる。
庭のシャクヤクか、密やかでも自由な月見草か。カナがあの花に惹かれたのは、こういうことだったのかと初めて感じ、そして、義兄にそんなふうに生きて欲しいと縛りを解いてもらっていたことにも気がついてしまう。
そして義兄が、絞り出すような痛々しい声で呻いた。
「勝手に俺のものにした男は、もう、待つしかなかった。おまえと暮らした五年を信じて、きっと俺のところに帰ってきてくれると信じることしか出来なかった。迎えに行こう。何度も思った。もう、おまえに男が出来たかもしれない。眠れない夜があった。でもそれが、義兄という男が縛らなければあっただろう、義妹の女としてのガラス職人としての本来の生き方だったのだろうと、何度も何度も言い聞かせた」
男の悲痛が低く響いた。
舞はそんな義兄を見守ってきてくれたのか、うっすらと涙を浮かべている。
「ヒロさんと一緒に、苦しそうなお兄様を見てきました。ヒロさんもここに一緒に泊まる日もよくあって、そんな時は男同士で気晴らしの晩酌をしていたんですよ」
この家を守ってきてくれたのは。カナの居場所を守ってきてくれたのは……。義兄だけじゃない。舞だけじゃない。
カナは立ち上がる。その足ですぐに工場へ向かった。
ヒロ。ヒロ、ごめん。また同じ事をしちゃったね。
秘密を打ち明けられなくて、学生時代、彼氏だったヒロと別れることになった。
――俺だって、いつだって聞ける。そしていつか話してくれたらいいなと待っていた。
大人になってもまだ打ち明けられず、カナは蓋を開けた秘密の箱を抱えたまま、この家を出て行った。
会ったら。サヨナラを言うならば。その秘密を話さなくてはいけない気がして。言えなくて、置き去りにした。
勝手口を出たら、懐かしい工場がある。ドアを開けただけで、その熱気が伝わる工場が。
カナがそのドアを開ける前に、そこが開いて男が現れる。
汗びっしょりで、頭にタオルを巻いている男が。
「舞ちゃん。社長の車が来てるけど……」
妻になる彼女の名を呼ぶヒロの笑顔がそこにあった。だが彼が見たのは、彼女ではなく――。
「……カ、カナ」
「ヒロ――」
暫し呆然としている相棒が、それでも徐々に怒りを露わにした顔に変貌した。
「おまえ。よく俺の前に平気で顔が出せるな!」
途端に怒鳴られたが、カナはヒロへと駆けて、汗まみれの身体に抱きついた。
え、え、ええ???
ヒロがびっくりして、逆に硬直している。
「ヒロ。何度もごめんね。ごめん。学生の時からずっとずっと、何度もごめんね。ほんとうはヒロとお揃いで銀賞を取りたかったよ」
「ま、舞ちゃん。あのな。これはな。俺とコイツはただの同級生で、なんともないから!」
工場へ向かうカナを追って、舞と義兄が後ろにいたようだった。
でも、彼はもう。相棒の帰還よりも、ヒロの目にすぐに映るのは『舞』になっている。
カナはおかしくなって涙顔で笑いながら、ヒロをからかった。
「もう~。なんなのよ。いきなりパパになっているんだもん。でも、ヒロはきっと舞さんみたいな素敵な人を見つけられるって思っていたよ」
「あったりまえだろ。俺、扱いにくい女で苦労してきたもんでね」
ヒロが『おまえのことだよ』とばかりに、カナを睨んだ。つまり、カナという女で苦労した反動ということらしい。カナもぐうの音も出ない。
「お先に。カナ。先に親父になってやった」
ヒロが高らかに笑う。よく知っている天真爛漫な笑い声を聞かせてくれた。
「帰ってこいよ。おまえ、今度は徹底的に俺のアシスタントさせてやる。それで今度は俺が大賞か金賞をとるんだからな」
カナも笑って応える。
「かしこまりました。親方」
もうこの工房では、ヒロには逆らえないとカナは思った。
「ヒロさん、よろしかったですね」
同期生の後ろで黙って見守ってくれていた舞も、微笑んでくれている。そして義兄も。
その義兄とヒロの男同士が、急に神妙な面差しに変わって見つめ合っていた。
「ヒロ。三日ほど留守にする」
いつもの厳ついしかめっ面の義兄さん。でもそれは彼が真剣な時の顔。
そしてヒロはなにもかもわかっているように、微笑み返す。
「わかっていますよ。社長。いってらっしゃい」
そばに来た舞を抱き寄せたヒロが、カナにも滲むような笑みで見送ってくれる。
「カナ。行ってこい。もう秘密はおまえのものだけではない。俺達も一緒に守っていく。航のことだって、守っていける」
それを聞いて、予感はしていたものの、やはりカナは喫驚した。義兄を見ると、彼も静かに頷いただけ。
やはり義兄も、信頼できる人間と重い秘密を分け合うことが出来ていた。
「ほら。積もる話は、おまえがこの家に帰ってきてからな」
「いってらっしゃい。耀平さん、花南さん」
仲睦まじい二人に背を押され、カナはついに義兄と向き合う。
「行くか。カナ」
耀平兄さんから、カナの手を取ってくれる。
「うん。行こう。お兄さん」
瑠璃空を見に行こう。わたしがひとりでいきていたところに、一緒に来て。
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