2.それは夫妻のようで。
義兄の
そして、カナとの関係は五年になる。
時々、『これってただの夫婦みたいだよね』と錯覚することがある。
でも義兄は月に二~三回、仕事ついでにやってきて、一晩か二晩くつろいで帰っていくので、毎日を共にしている訳ではない。
「義兄さん。そろそろお茶でもどう」
「ああ、そうだな」
ノートパソコンに向かって書類とにらめっこをしていた顔が怖い。眉間に深い皺を刻んで、黒い眼の眼力も怖い。無精髭の口元を曲げて唸っている……。
そんな近寄りがたい顔になったら、そろそろ『息を抜きましょうのサイン』だった。
ほっと息を吐いて、ワイシャツの首元を開けている義兄が『ううん』と伸びをする。
「お茶はなににするの」
「菓子はなんだ」
「道場門前の花鼓を買ってあるけど。義兄さんが買ってきてくれた
「じゃあ、抹茶だ」
仕事柄故か、義兄は地元の菓子や流行のスイーツに詳しいので、甘いものに抵抗がない。営業もするし、接待もするし、接客もするし、逆におもてなしを受けることも多いからだろう。
「お抹茶ね、わかりました」
キッチンで、萩焼の抹茶茶碗を準備する。和カフェのように、盆のようなトレイに和菓子を添え、抹茶茶碗を置く。
それを義兄に持っていく。
昼下がりのダイニングテーブルで、二人で向き合い午後のお茶。
「この後、晩ご飯のお買い物に行ってくるから」
「わかった」
「義兄さんが好きな
「そうだな。それいいな」
受け答えも短いが、それで会話が成立している。
「夏休みだが。今年は小豆島へ行こうと思っている。俺が勝手に予約をしておくがいいな」
「お任せいたします。小豆島は、航のリクエスト?」
「そうだ。なんだか知らないが、のんびり釣りをしたいんだとよ。車で走ったら一時間で一周してしまう小さな島なんだがな。釣りだなんてすぐに退屈になるのではないかと言ってみたが、航は釣りをするんだと妙に力んでいて、なんだかな」
「お義兄さんを独り占めしたいだけなんじゃない。フェリーで渡るしかない海の島なら、呼び戻されそうな連絡が来ても、おいそれとすぐには帰ることが出来ないから島を選んだのよ」
初めて息子の気持ちを知ったのか、義兄が大きく目を見開き茫然とした。
「そういうことなのか」
「もちろん、無意識に選んだと思うけれど。そういうことなのかなって、わたしは感じたけれど」
「叔母のおまえがいうのだから、そうかもな。そうだったのか」
ほら。息子のことになると、口数が多くなる。でも、ここでカナはひっそり微笑んでしまう。
妻に置いてかれ、息子とふたり。そして倉重の両親と同居で協力があったとはいえ、父子ふたりで生きてきたのだから。義兄がそんな姉の忘れ形見である息子を愛する気持ちに触れると、秘密で締め付けられているカナの心がふっとほぐれる。そしてまた、秘密が苦しめる。
「ほんとに義兄さん、お願いしますね。わたしと航を二人置いて、ひとりだけ山陰の会社に戻ってしまった時の航ったら、ほんとうに可哀想だったんだから。まだ小学三年生だったのよ」
「いや。ほら、なあ。航にとっては、ほら、カナは叔母であって母親に近いというか。おまえ達は仲が良いだろう。カナに任せれば、航もなんとか機嫌が直ったら楽しめるだろうと……」
「航は、滅多に休みを取ることが出来なくて、夜遅くまで働いている『お父さん』とゆっくりしたいんです。何度言えばいいの、義兄さんたら」
「はあ、そうだな。そうだった。わかった、わかった。連絡が入らないよう、お義父さんにしっかりお願いしておくとする」
「わたしからも、父にお願いしておきますね。跡取り孫が望んでいることなら『じいじ』も頑張るだろうから」
助かる――と、そこは婿養子として面目ない顔に崩れる。
確かに甥っ子はカナに懐いている。物心つく前に母親に去られてしまったのだから、母親に近い女性と言えば、母の妹、叔母のカナになる。
それでも女親として育ててきたのは、実家の母だ。それでも航は、若叔母のカナが帰ってくると『カナちゃん、カナちゃん』とずうっと後を追ってくる。
可愛かった、ほんとうに。叔母としても甥っ子が可愛い。
だからなのか、義兄はカナに息子の話を良くしてくれる。
結婚という名のもとでの家庭ではないのに。義兄はここで息子の話をして、夕飯の献立を女と話してくつろいでいる。
それはまるで結婚生活のようで、でも、ここに子供はいないので、大人の男と女がそれらしい生活をしているだけ。
それでも、もうずうっとカナにとって男は義兄だけ。
義兄ももうずうっとこの家に通って、カナとこんな生活をしている。
パトロンがその条件のために望んだ『愛人』――の、つもりだったのに。
こんなふうに、義兄妹であって家族であると、愛人でなくて、やはり家庭みたいな感覚に陥る。
室町時代に栄えたこの古都は、いまでも古い町屋の通りが残っている。殿様のお屋敷跡を少し越えたところの小山に、サビエル聖堂。麓の古い住宅地に、この一軒家がある。
時刻になると丘の聖堂から、カリヨンの鐘の音が聞こえるのも義兄のお気に入り。
抹茶を飲みほした義兄が、リビングのソファーで横になる。
ネクタイを取り去り、ワイシャツのボタンを胸元まで開けて。
五月の風が緑の垣根を抜け、シャクヤクの花を揺らし、蔓バラの薫りをまとって仄かにリビングを包み込む。
「ふう。いい風だ。この家は、いい風がはいると思って買ったんだ」
端から見ると親父臭いはずなのに。いつもはピリッと険しい空気を漂わせている義兄が、少しシワになったワイシャツ姿で長い足を投げ出して伸びをする。そんなくつろぐ姿が、なんだか愛おしくて困ってしまう。
「義兄さんは、相変わらず『ずるい』のね」
小さく呟いた。
「なんだ、またカナの『ずるい』か」
聞こえている。義妹の突きつけたいけど、はっきりとは言いたくないからと小声で言ったそれを、ちゃんと聞いている。
だからって。『俺のどこかずるいのか。なにがずるいのか』とムキになって聞き返してこない。
ああ、そうだ。俺はずるいだろうな。なにせ、おまえを勝手に俺のものにしたから。
それが彼のいつもの返答。認めているからムキにはならない。
―◆・◆・◆・◆・◆―
義兄が訪ねてきた夜の食卓は、少し凝った献立にする。
女ひとり気ままな独り暮らしとは異なる食卓を……。
普段のカナは、制作に没頭してしまうと家事が億劫になる方。義兄はそれも良く心得ていてくれ、そんな時は訪ねてきてもカナをそっとして、自分でなんとかしてくれる。
ただ、夜だけは。ひとり身体を持て余すようなこともあるようで、なんだかそんなところで不機嫌になったりして子供のよう、面倒な人になる。
アナタの方がずうっと大人の男性なのに。全てにおいて、十歳も年下のカナには及ばないことばかりなのに。
身体の関係がご無沙汰になると、イライラいしている義兄がいる。なにを言っても『知らない。どうでもいい』なんてぶっきらぼうに言い捨てて、カナがなにを言っても苛ついて落ち着かない人になって。
それがこじれるとやっかいで、一度、ほんとうにふたり揃って嫌な目に遭ったから、そこはカナも彼の些細な動向を気にするようにしている。
義兄が好きな蝦蛄を茹で、カナが義兄用にと制作した冷酒用の酒器とお猪口を準備する。
夏らしく青と緑が溶けあう色合いの酒器で、義兄もとても気に入ってくれている。
ガラス工芸作家のカナが、義兄の食卓のためにわざわざ造り上げたので、彼がとても喜んでくれたことを思い出す。
今度、義兄はソファーに座って夕刊を眺めている。
お気に入りの風がそよそよと流れていくダイニングテーブルに、酒の肴と冷酒の準備を終えると、義兄は卓についた。
「うん。うまそうだな」
キッチン鋏で蝦蛄の足を落とし殻を剥き、身を取り出して頬張る。そして手酌で汲んだ吟醸酒をひとくち。
「うまい。カナもどうだ」
「ほかのおかずが出来上がってからね。それを食べて待っていて」
ずるい笑顔をやっとみせてくれる。なにもかもから開放されたような微笑みを。
姉が小さな子供を残して逝ってしまったので、航を育てるためにも、義兄はカナの両親と同居してきた。
そのせいか、婿養子生活の息抜きにここに来ているようにも思えてしまう。
倉重の家のために、姉が亡くなっても頑張ってくれているから、ここでくつろいでくれると、カナもホッとする。
だからここで義兄の好きにさせてやりたいという思いもある。
それに、長年共に作家活動をしてきた同期生が、この家に来る義兄を見ていつもいう。『おまえの兄貴、こっちが本宅の気分なんだよ。顔つきが全然違う』と――。
義兄が好む食卓に献立は、もう知り尽くしている。
彼がどんな情景に雰囲気を好むかも知っている。
だが決して、カナはそれに従っている訳ではない。
夕に灯すキャンドルホルダー。
庭で切ったシャクヤクの花。
町屋で見つけた和菓子。
カナが選んだ萩焼。
それを知って、義兄が『うん、いいな』と微笑む。
そして義兄はそれに癒された顔をする。
逆もある。
義兄がこの家で使おうと揃えた食器。
彼が『旅先でみつけた』と庭に植えた苗木。
いきなり持ち込んできた『赤と黒の金魚に水鉢』。
『これ、珍しいだろう』と見つけてきた調味料。
たまにしがらみで雁字搦めになって、苦しくなって、言い合いをすることもある。
どうしようもなくなって、傷つけあったこともある。
でも、わたしたち。それぞれ選んだものを一緒に気に入ってしまう。
義兄とわたしは、きっとそうだったんだ。
生きていく感性と暮らしていく感覚が、とても似ている。
彼が良いといった作品は売れるし、いまいちだといった作品は売れない。
彼が好きだと言った作品は人から愛されるし、彼があんまりと首をひねった作品は手放されてしまう。
だけど、夫妻にはなれない。
姉の夫だったこの人が、今度は妹と結婚するってどういうことなのだろう。
完全に『他人』だったら良かったのに。素直になれるのに。
でも『他人』だったら、きっと出会っていない
夕食を満足そうに平らげたら、義兄はバスルームで疲れを癒す。
うちの工房の作家用に見つけた家だといいながら、結局、家のなにもかもが義兄の好きなように誂えてある。
ゆったりとしたバスルームで、本宅の気持ちでの長風呂も、この家に来た時の楽しみのようだった。
風呂上がりに、冷えたグラスでのビールを一杯、準備しておく。
今度はカナではなく、同期生の彼が造ったもの。
男が男の疲れを癒す時に使うグラスは、女のカナが造ったものより気持ちが通じたのか、これは義兄も同期生のものを気に入っている。
それで一杯、一日の疲れをほぐしたら。
「先に寝ている」
ベッドルームに消える。
義兄が仕事部屋にしているベッドルームではなく、カナの部屋に。
片づけて、カナもシャワーを浴びる。
今夜の義兄は落ち着いていたなと思いながら……。
でも今夜はカナが欲しい……。オンナの身体の浮き沈みの中、今夜は獣的に男を欲しがっている。
こんな時に限って、あの人、澄ました顔で大人しい。
ちょっと口惜しい。
時々、狼さんになるあの人を期待している自分にもちょっと腹が立つ。
あんなふうに、してくれないの。今夜は。
別に浴びなくてもいいんだけどな。炉の炎に炙られてべったり流したカナの汗の味は、嫌いじゃない。
すぐに欲しい時、義兄はそうする。制作で汗まみれになったカナの身体を羽交い締めにして、甘そうに肌を舐める。
でも今夜はカナが欲しい。あの人の……を。まっさらな肌に残したい気分。そういう気分で待っていた。
その為に、肌はなんの汚れもない『無地』にしておかねばならない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます