2.それは夫妻のようで。

 義兄の耀平ようへいは、今年四十三歳になる。

 

 そして、カナとの関係は五年になる。

 時々、『これってただの夫婦みたいだよね』と錯覚することがある。

 でも義兄は月に二~三回、仕事ついでにやってきて、一晩か二晩くつろいで帰っていくので、毎日を共にしている訳ではない。

   

「義兄さん。そろそろお茶でもどう」

「ああ、そうだな」

 ノートパソコンに向かって書類とにらめっこをしていた顔が怖い。眉間に深い皺を刻んで、黒い眼の眼力も怖い。無精髭の口元を曲げて唸っている……。

 そんな近寄りがたい顔になったら、そろそろ『息を抜きましょうのサイン』だった。

 ほっと息を吐いて、ワイシャツの首元を開けている義兄が『ううん』と伸びをする。

「お茶はなににするの」

「菓子はなんだ」

「道場門前の花鼓を買ってあるけど。義兄さんが買ってきてくれた生外郎なまういろうもありますよ」

「じゃあ、抹茶だ」

 仕事柄故か、義兄は地元の菓子や流行のスイーツに詳しいので、甘いものに抵抗がない。営業もするし、接待もするし、接客もするし、逆におもてなしを受けることも多いからだろう。

「お抹茶ね、わかりました」

 キッチンで、萩焼の抹茶茶碗を準備する。和カフェのように、盆のようなトレイに和菓子を添え、抹茶茶碗を置く。

 それを義兄に持っていく。

   

 昼下がりのダイニングテーブルで、二人で向き合い午後のお茶。

   

「この後、晩ご飯のお買い物に行ってくるから」

「わかった」

「義兄さんが好きな蝦蛄しゃこをよく見るようになったから、お酒の肴に。そろそろ冷酒のほうが美味しい季節でしょう。今夜はそうするね」

「そうだな。それいいな」

   

 受け答えも短いが、それで会話が成立している。

   

「夏休みだが。今年は小豆島へ行こうと思っている。俺が勝手に予約をしておくがいいな」

「お任せいたします。小豆島は、航のリクエスト?」

「そうだ。なんだか知らないが、のんびり釣りをしたいんだとよ。車で走ったら一時間で一周してしまう小さな島なんだがな。釣りだなんてすぐに退屈になるのではないかと言ってみたが、航は釣りをするんだと妙に力んでいて、なんだかな」

「お義兄さんを独り占めしたいだけなんじゃない。フェリーで渡るしかない海の島なら、呼び戻されそうな連絡が来ても、おいそれとすぐには帰ることが出来ないから島を選んだのよ」

 初めて息子の気持ちを知ったのか、義兄が大きく目を見開き茫然とした。

「そういうことなのか」

「もちろん、無意識に選んだと思うけれど。そういうことなのかなって、わたしは感じたけれど」

「叔母のおまえがいうのだから、そうかもな。そうだったのか」

 ほら。息子のことになると、口数が多くなる。でも、ここでカナはひっそり微笑んでしまう。

 妻に置いてかれ、息子とふたり。そして倉重の両親と同居で協力があったとはいえ、父子ふたりで生きてきたのだから。義兄がそんな姉の忘れ形見である息子を愛する気持ちに触れると、秘密で締め付けられているカナの心がふっとほぐれる。そしてまた、秘密が苦しめる。

「ほんとに義兄さん、お願いしますね。わたしと航を二人置いて、ひとりだけ山陰の会社に戻ってしまった時の航ったら、ほんとうに可哀想だったんだから。まだ小学三年生だったのよ」

「いや。ほら、なあ。航にとっては、ほら、カナは叔母であって母親に近いというか。おまえ達は仲が良いだろう。カナに任せれば、航もなんとか機嫌が直ったら楽しめるだろうと……」

「航は、滅多に休みを取ることが出来なくて、夜遅くまで働いている『お父さん』とゆっくりしたいんです。何度言えばいいの、義兄さんたら」

「はあ、そうだな。そうだった。わかった、わかった。連絡が入らないよう、お義父さんにしっかりお願いしておくとする」

「わたしからも、父にお願いしておきますね。跡取り孫が望んでいることなら『じいじ』も頑張るだろうから」

 助かる――と、そこは婿養子として面目ない顔に崩れる。

 確かに甥っ子はカナに懐いている。物心つく前に母親に去られてしまったのだから、母親に近い女性と言えば、母の妹、叔母のカナになる。

 それでも女親として育ててきたのは、実家の母だ。それでも航は、若叔母のカナが帰ってくると『カナちゃん、カナちゃん』とずうっと後を追ってくる。

 可愛かった、ほんとうに。叔母としても甥っ子が可愛い。

 だからなのか、義兄はカナに息子の話を良くしてくれる。

   

 結婚という名のもとでの家庭ではないのに。義兄はここで息子の話をして、夕飯の献立を女と話してくつろいでいる。

 それはまるで結婚生活のようで、でも、ここに子供はいないので、大人の男と女がそれらしい生活をしているだけ。

   

 それでも、もうずうっとカナにとって男は義兄だけ。

 義兄ももうずうっとこの家に通って、カナとこんな生活をしている。

   

 パトロンがその条件のために望んだ『愛人』――の、つもりだったのに。

 こんなふうに、義兄妹であって家族であると、愛人でなくて、やはり家庭みたいな感覚に陥る。

   

 室町時代に栄えたこの古都は、いまでも古い町屋の通りが残っている。殿様のお屋敷跡を少し越えたところの小山に、サビエル聖堂。麓の古い住宅地に、この一軒家がある。

 時刻になると丘の聖堂から、カリヨンの鐘の音が聞こえるのも義兄のお気に入り。

   

 抹茶を飲みほした義兄が、リビングのソファーで横になる。

 ネクタイを取り去り、ワイシャツのボタンを胸元まで開けて。

 五月の風が緑の垣根を抜け、シャクヤクの花を揺らし、蔓バラの薫りをまとって仄かにリビングを包み込む。

「ふう。いい風だ。この家は、いい風がはいると思って買ったんだ」

 端から見ると親父臭いはずなのに。いつもはピリッと険しい空気を漂わせている義兄が、少しシワになったワイシャツ姿で長い足を投げ出して伸びをする。そんなくつろぐ姿が、なんだか愛おしくて困ってしまう。

「義兄さんは、相変わらず『ずるい』のね」

 小さく呟いた。

「なんだ、またカナの『ずるい』か」

 聞こえている。義妹の突きつけたいけど、はっきりとは言いたくないからと小声で言ったそれを、ちゃんと聞いている。

 だからって。『俺のどこかずるいのか。なにがずるいのか』とムキになって聞き返してこない。

 ああ、そうだ。俺はずるいだろうな。なにせ、おまえを勝手に俺のものにしたから。

 それが彼のいつもの返答。認めているからムキにはならない。

 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 義兄が訪ねてきた夜の食卓は、少し凝った献立にする。

 女ひとり気ままな独り暮らしとは異なる食卓を……。

 普段のカナは、制作に没頭してしまうと家事が億劫になる方。義兄はそれも良く心得ていてくれ、そんな時は訪ねてきてもカナをそっとして、自分でなんとかしてくれる。

 ただ、夜だけは。ひとり身体を持て余すようなこともあるようで、なんだかそんなところで不機嫌になったりして子供のよう、面倒な人になる。

 アナタの方がずうっと大人の男性なのに。全てにおいて、十歳も年下のカナには及ばないことばかりなのに。

 身体の関係がご無沙汰になると、イライラいしている義兄がいる。なにを言っても『知らない。どうでもいい』なんてぶっきらぼうに言い捨てて、カナがなにを言っても苛ついて落ち着かない人になって。

 それがこじれるとやっかいで、一度、ほんとうにふたり揃って嫌な目に遭ったから、そこはカナも彼の些細な動向を気にするようにしている。

   

   

 義兄が好きな蝦蛄を茹で、カナが義兄用にと制作した冷酒用の酒器とお猪口を準備する。

 夏らしく青と緑が溶けあう色合いの酒器で、義兄もとても気に入ってくれている。

 ガラス工芸作家のカナが、義兄の食卓のためにわざわざ造り上げたので、彼がとても喜んでくれたことを思い出す。

   

 今度、義兄はソファーに座って夕刊を眺めている。

 お気に入りの風がそよそよと流れていくダイニングテーブルに、酒の肴と冷酒の準備を終えると、義兄は卓についた。

「うん。うまそうだな」

 キッチン鋏で蝦蛄の足を落とし殻を剥き、身を取り出して頬張る。そして手酌で汲んだ吟醸酒をひとくち。

「うまい。カナもどうだ」

「ほかのおかずが出来上がってからね。それを食べて待っていて」

 ずるい笑顔をやっとみせてくれる。なにもかもから開放されたような微笑みを。

 姉が小さな子供を残して逝ってしまったので、航を育てるためにも、義兄はカナの両親と同居してきた。

 そのせいか、婿養子生活の息抜きにここに来ているようにも思えてしまう。

 倉重の家のために、姉が亡くなっても頑張ってくれているから、ここでくつろいでくれると、カナもホッとする。

 だからここで義兄の好きにさせてやりたいという思いもある。

 それに、長年共に作家活動をしてきた同期生が、この家に来る義兄を見ていつもいう。『おまえの兄貴、こっちが本宅の気分なんだよ。顔つきが全然違う』と――。

 

 義兄が好む食卓に献立は、もう知り尽くしている。

 彼がどんな情景に雰囲気を好むかも知っている。

 だが決して、カナはそれに従っている訳ではない。

   

 夕に灯すキャンドルホルダー。

 庭で切ったシャクヤクの花。

 町屋で見つけた和菓子。

 カナが選んだ萩焼。

   

 それを知って、義兄が『うん、いいな』と微笑む。

 そして義兄はそれに癒された顔をする。

   

 逆もある。

 義兄がこの家で使おうと揃えた食器。

 彼が『旅先でみつけた』と庭に植えた苗木。

 いきなり持ち込んできた『赤と黒の金魚に水鉢』。

 『これ、珍しいだろう』と見つけてきた調味料。

   

 たまにしがらみで雁字搦めになって、苦しくなって、言い合いをすることもある。

 どうしようもなくなって、傷つけあったこともある。

   

 でも、わたしたち。それぞれ選んだものを一緒に気に入ってしまう。

   

 義兄とわたしは、きっとそうだったんだ。

 生きていく感性と暮らしていく感覚が、とても似ている。

 彼が良いといった作品は売れるし、いまいちだといった作品は売れない。

 彼が好きだと言った作品は人から愛されるし、彼があんまりと首をひねった作品は手放されてしまう。

   

 だけど、夫妻にはなれない。

 姉の夫だったこの人が、今度は妹と結婚するってどういうことなのだろう。

 完全に『他人』だったら良かったのに。素直になれるのに。

 でも『他人』だったら、きっと出会っていないえにしだったとも思う。

   

 夕食を満足そうに平らげたら、義兄はバスルームで疲れを癒す。

 うちの工房の作家用に見つけた家だといいながら、結局、家のなにもかもが義兄の好きなように誂えてある。

 ゆったりとしたバスルームで、本宅の気持ちでの長風呂も、この家に来た時の楽しみのようだった。

   

 風呂上がりに、冷えたグラスでのビールを一杯、準備しておく。

 今度はカナではなく、同期生の彼が造ったもの。

 男が男の疲れを癒す時に使うグラスは、女のカナが造ったものより気持ちが通じたのか、これは義兄も同期生のものを気に入っている。

 それで一杯、一日の疲れをほぐしたら。

   

「先に寝ている」

   

 ベッドルームに消える。

 義兄が仕事部屋にしているベッドルームではなく、カナの部屋に。

   

 片づけて、カナもシャワーを浴びる。

 今夜の義兄は落ち着いていたなと思いながら……。

 でも今夜はカナが欲しい……。オンナの身体の浮き沈みの中、今夜は獣的に男を欲しがっている。

   

 こんな時に限って、あの人、澄ました顔で大人しい。

 ちょっと口惜しい。

 時々、狼さんになるあの人を期待している自分にもちょっと腹が立つ。

 

 あんなふうに、してくれないの。今夜は。

   

別に浴びなくてもいいんだけどな。炉の炎に炙られてべったり流したカナの汗の味は、嫌いじゃない。

   

 すぐに欲しい時、義兄はそうする。制作で汗まみれになったカナの身体を羽交い締めにして、甘そうに肌を舐める。

 でも今夜はカナが欲しい。あの人の……を。まっさらな肌に残したい気分。そういう気分で待っていた。

 その為に、肌はなんの汚れもない『無地』にしておかねばならない。


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