8.弱った女は可愛くなる
「お久しぶりです」
あまり手入れされていないボサボサの黒髪、くたびれたスーツ姿。ノーネクタイで、しわが多いワイシャツ。覇気のない垂れた目元で精悍さの欠けらもない男が、そこで微笑んでいる。
そんな男だけれど、カナは邪険にはしなかった。
「お久しぶりです。でも、あの……」
もう二度と会わないと決めたのに。若いカナが戸惑う中、この人が男として大人としてすべて処理してくれた。それが全て終えた時に、彼から言いだしたことだった。
「わかっています。ここには二度ときません。ですが、どうしてもお話しておきたいことがあります」
「なにかあったのですか」
彼が迷わずこくりと頷いた。それだけでカナの血の気がひく。恐ろしくなって背筋が凍る思い。
二度と会わないと言った人が、それでも暗闇に紛れてカナに会いに来た。
その冴えない風貌とはうらはらに、彼の行動は迷いなく迅速だった。
「ここでお待ちしております」
彼がすっと二つ折りにしているメモ用紙を垣根越しに差し出していた。
カナは辺りを見渡し、誰もいないことを確かめてから、急いで庭に出て垣根越しから受け取った。
「では、これで」
多くは語らず、彼が去っていく。
彼を見ていると『人は見た目だけで判断できない』と、いつも思い知らされる。
初めて彼を知った時もそうだった。十三年前、姉を通じて知り合った男性が、十年ぶりにカナを訪ねてきた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
メモ用紙には、待ち合わせの日時と場所が記されていた。
待ち合わせの日時は三通り記されていて、つまり、この日時の都合が良い日に来て欲しいという意味らしい。
待ち合わせ場所は、広島駅――。
なんだろう。今頃。姉さんが亡くなって十年も経つのに。その間、何事もなかったのに。
わざわざ訪ねてきて『何かが起きた』と言うのだから、余程のことなのだろう。
だめだ。もう頭が爆発しそう。だってあの人とまた会うようになるだなんて。いったい、なにが起きたの?
姉の秘密に関わっている男だけに、カナは不安で不安で仕方がない。なのに、誰にも相談が出来ない。
金子という男性は、あのように冴えない姿をしているが、あれは仮の姿。
それを知っている人間もたぶん、カナだけだと思う。あるいは姉が知っているだけかもしれない。
姉が死んだことを伝えると、彼は驚き嘆き悲しんでくれた。
姉と彼のことを姉の大学時代の友人に聞けば、皆がおなじ返答をする。
『あのネクラだよね。お嬢様の美月と釣り合うはずもないのに、つきまとって、美月がきっぱりふった男だよ』――と。
そんな関係が友人知人に知れ渡っていたので、金子氏は姉の告別式に参列することが出来なかった。
不憫に思ったカナが、金子氏に連絡をした。四十九日、姉がお墓に入ってしまう前になんとかしようとしたのだ。義兄と両親がいない隙を狙って、彼を実家の仏間に通すという、大胆なことをやってしまったのもカナだった。しかしこのことについて、カナは後悔はしていない。
その時、姉と最後の別れだからと現れた金子氏の姿を、カナは忘れられない。
人目を忍んできたので喪服ではなかったが、上等な紺のスーツという凛々しい姿で現れたからだった。
髪もきちんと切り揃え、パリッとワイシャツを着こなし、訪問客としての礼儀に仕草も洗練されていた。
通した仏間で正座をし、姉の位牌に焼香する彼の姿は、誰が見ても品格が漂う好青年だった。
お茶も菓子の食べ方も、上流社会で育った人間の仕草だった。
その彼に初めて会ったわけではなかったが、初めて会った印象とあまりにもかけ離れているので、カナはつい彼に聞いてしまった。『あの。本当のお姿を隠していらっしゃったのですか』――と。
彼は笑って、こともなげにいった。『この僕が本当の姿だと? 心外です。これが本当の姿ではないことは、花南さんがいちばん知っているでしょう。僕の本当の姿を守るために、普段みせている無頓着な僕と、最低限の礼儀を弁えた僕がいるだけです』――と。
『せめてご友人として訪ねられるように出来たら、姉も喜んだのかもしれませんけれど』
『まさか。美月はもう人妻ですし、ご主人が喪主なのですから、友人として伺えたとしても僕は行かなかったと思います。それに僕と美月がそうしたんです。美月が僕をうんと嫌ったことにしよう。誰も僕たちが惹かれあっているだなんて思わないほどの関係に見せておこう。僕はストーカー一歩手前のネクラ男、美月はそんな僕を忌み嫌って手痛く突き放したお嬢様。それでいこうと』
カナも、姉からそう聞かされていた。もうこの時点で大勢の人間が金子氏と姉の仮面に騙されていた。
でもこの時、カナは思った。この人はほんとうにお姉さんを大切にしてくれていたんだと。そこまでして姉の本当の姿を守ってくれようとした。なのに、姉は死んでしまった。彼は第一報を届けた時『僕のせいだ』と取り乱した。本性は頭脳明晰で、何事も冷めた目で最善の方向性を打ち出してきただろうドライな彼が、その時だけは……。
『ですが。やはり迂闊でした。僕は僕の信念で本当の姿を守っていれば、美月のことも守れたでしょうに……悔やまれます』
『いえ……。姉は自分の思うままに生きることが出来たんだと思います。ただ……家族を……』
『花南さん。そのことで花南さんが気に病んではいけません。僕が葬りますから。あなたも他の人々同様に、なにも知らなかったことにして生きていくんですよ』
凛々しい大人の顔で、金子氏はそういうと、『二度と会わない。さようなら』と紺スーツの背をカナに見せ、去っていった。
人は、疎ましいネクラ男がお嬢様に叶わぬ恋をして、こっぴどくふられたと思っている。
だけれど。カナは金子氏を知ってますます思った。ふたりこそお似合いだったんだ、なにもかもが。
それなら、品格がある金子氏と姉が結婚すれば良かったのだと思いたいところだけれど、それが出来るなら姉が頑張って父を説得していたと思う。でも姉は金子氏を夫にとは望まなかった、ひた隠しにすることを望んでいた。
いや、そうではない。彼等は『秘密』を守らねば、生きていけない人々だった。だから金子氏は、それを隠して生きている。姉にも隠すように誓わせていた。
しかし、金子氏のように理知的に理性的にすべてをコントロールして生きていくのは、誰もが出来ることではなく、とても難しいことだったのだと、大人になったカナは思っている。
金子氏とカナは最後の会話をこう交わした。
姉はそれが出来なかったのだろうと――。
「おい。カナ」
天ぷらを揚げている途中だったが、はっとする。気がつくと、すぐそばに耀平義兄がいた。
もうここ数日ずっと、カナの頭の中は古い記憶と金子氏のことでいっぱいで、こんなふうにいつも上の空。義兄が来たことも、まったく気がつかなかった。
「義兄さん。来ていたの」
ほんとうに出張から帰ってきた夫のような顔でそこにいる。彼の持ち家だから、当然、勝手に入ってくる。
「宇部に仕事があったから、ついでに来てみた。この前、お義母さんがおまえに会いに来たんだって」
そうよね、そう聞いたら気になるよね。山口で『社長夫人の集い』という用事で来ることがあっても、そんな予定もないのにに山口まで出ていたと聞いたら、気になるのも当然というもの。それを確かめに来たようだった。
「お母さんが急に来て、わたしも驚いたんだから。航の下宿の話を聞いたら、いろいろと言いたいことがあって来たみたい」
すると、義兄が落ち着かない様子を見せる。対面式のキッチンを出て、ダイニングテーブルへと歩いていく。そこでジャケットを脱いで、ネクタイを緩め、落ち着きなさを誤魔化すようにダイニングの椅子に座った。
対面式のキッチンで料理をしているカナを、しばらく窺っている。そして躊躇いを振り払うようにやっと口を開いた。
「お義母さん。何か言っていたか」
「別に。いつまでもふらふらした芸術家さんをやっていないで、航が来たらちゃんと面倒を見るのよ、困った時に力になれるよう傍にいるのよ。とか、もう私も歳だから、そろそろ楽をさせて……、ぐらいかな」
「そ、そうか」
ほっと大きく息を吐き、義兄さんが安心した顔になる。
きっと。娘さんと一緒に暮らしたい、結婚したいと申し込んだことを勘づかれていないかと案じているのだろう。そう思うと、敵わない母親に詰め寄られて、ついうっかり義兄の申し出を漏らしたことを申し訳なく思った。
「いい匂いだな。なんだ、俺が来る夜じゃなくても、ちゃんと料理しているじゃないか」
「しますよ。たまには。そのたまにはが今夜です。ヒロの友人が鱚(きす)をいっぱい釣ってきたらしくて、お裾分けでもらったの」
「鱚だと」
旬ものが大好きな義兄の目が輝いた。
「ご馳走いたしますよ。だって、おにいさんだもんね」
先日の『にいさんだからご馳走する』のお返しのつもりだった。
「そうか。いい日に来たな。なんだ、やはり俺は呼ばれているんだな」
「おいしいものにはとっても鼻が利きそうだものね。はい、ちょうど出来上がり。準備するから少し待っていてね」
そんないつもの可愛げのない受け答えばかりしながら、カナは出来上がった料理をテーブルへと運んだ。
配膳をしていると義兄が椅子から立ち上がり、背中からカナに優しく抱きついてきた。ネクタイを緩めたように、微笑みも穏やかに緩んだ義兄さんの腕に力がこもる。
「おまえにだって呼ばれている。……来てしまった」
胸がきゅんとした。ほんとうはいつだってそうなっている。でも天の邪鬼はこういわねばならない。
「呼んだ覚えはありません」
「天の邪鬼め」
強く顎を掴まれ、無理遣りに振り向かされ、そのまま唇をふさがれた。いつもの熱い舌先の愛撫と、唇への甘噛み。大好きな人のキスの味。いつものマリンノートの匂いが、カナを包み込む。
「にいさん」
どうしてかな。今日のカナはそんな義兄さんの背に、ぎゅっと抱きついていた。シャツを鷲づかみにして、最後に自分からも彼の唇を深く吸って押し付けた。
きっと不安なんだ、わたし。そう思った。これから起きる変化が、何かを起こしそうで怖い。
このままでいいのに、このままでいたいのに!
全てが『ぼんやり』曖昧なまま、春の霞のように気怠いままでいい。
なにも決めないで。なにも疑問に思わないで。これ以上なんていらない。このままがいい!
カナ? 彼も少し訝しそうにしている。でも、カナが珍しく抱きついて胸の中にいるからと、余計なことは考えまいとばかりに抱き返してくれる。
その日。義兄はまた、この家に泊まってしまった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
どう甘えたいかって、人それぞれだと思う。
カナの場合は、無性に義兄を責めたくなる。
にいさん、にいさん。じっとしていて、今日はわたしから愛したい。
小さい女の子の我が侭を連発するように責め立てて、なのにカナからなにもかもを彼に投げ出すようにして抱きついて、自分から男を愛している。
俺の義妹は、いつもおなじではない。なにをしようと言い出すかわからない。彼はいつもそう言って、ちょっと困った顔をする。そんなお兄さんを、困らせて困らせて、責めて責めて。でも『俺は大丈夫、カナ、こっちに来い』と、なんともない顔でカナをその腕の中に深くきつく受け止めてくれる。
甘えたい時、そんなアナタに会いたい。
彼の額にキスをして、唇を長く愛して。逞しい胸板に吸いつくようなキスをいくつも落とす。
「カナ。どうした。おまえがそんな可愛い女になるなんて」
カナは何も言わない、無言を貫く。でも、心の中でひとり懸命に呟く。
にいさんは、なにも知らなくていいのよ。知ったらだめよ。だから言ったじゃない。わたしじゃない、他の女にしてって。わたしといると、姉さんがいつまでも一緒なの。本当の姉さんとわたしはいつも一緒にいるの。だから……。義兄さんから離れて、小樽に行ったのに。そばにいない方が良いと思って、なるべく『明かされてしまう可能性はなくそう』と、アナタのために離れたのに。
カナの瞳がうっすらと熱く潤んだ。気付かれないように耐えて、彼を優しく長く愛して隠そうとする。
「もういい。カナ……」
優しく彼の手が抱きついて離れないカナを離そうとする、カナはやめなかった。
――でも。嬉しかった。耀平義兄さんに愛されて、嬉しかった。
「もう、やめろ」
強い力で突き放される。カナもそこで彼から離れた。
「カナ、ピルをやめろ」
結婚の次は、俺の子供を――。義兄の強引な本気に、カナは目を見開いて茫然とした。
そうして義兄は、今夜はそれが叶わなくとも、これからは望むようになる。
「わたし、子供なんていらない!」
「どうしてだ。俺の子供だといけないのか」
その問いに、カナはしばらく答えるのを躊躇った。そして……。
「わたし、子育てなんてできない。ガラスがある。うちには航がいるからいいじゃない」
「そうだ。航が跡継ぎだ。なにも心配はない」
この時、カナは妙な違和感を持った。
そちらに気を取られて、抵抗する力を緩めてしまった。
心配ないって……。なにかカナの心を見透かされたような気がした。
「くそ」
俺を馬鹿にしているのかと怒っているし、おまえに愛して欲しいと困っている。
「ご、ごめんなさい」
素直に謝ったら、そんな耀平義兄が無精髭の口元を致し方ないように曲げて、でも微笑んでくれている。
「悪かった」
おまえの気持ちも考えずに急なことを言ったと、義兄はその胸に優しくカナを抱き寄せた。
「おまえ、どこにもいかないよな」
今度は間を置かずにカナは応える。
「いかないよ。ここにいるから」
嘘。ただ彼を欺くために、こんな時だけ躊躇うことなく、カナは約束できないことを吐いた。
汗ばんだ自分の額を、義兄は狂おしそうにカナの額にくっつけて言った。
「いいんだ。おまえが結婚したくないならそれで。どうかしていた。ただ、俺と航と一緒に暮らすことは考えてくれないか」
「わかってる。お母さんも歳だもの。義兄さんも、婿殿として独り立ちも必要だもの……。わかってる」
安心したように、ほてった男の身体の中に、カナをきつく抱きしめてくれた。
その熱い男の皮膚に、カナはまた、嘘をつくようにキスをした。
やっと静かないつものふたりだけの夜に戻った。
義兄が帰った翌日。カナは出掛ける支度をする。
その日は工場が休み。炉の火の番は、ヒロが当番。カナは完全な休みで自由だった。
義兄も昨夜は予定外で来てしまったようだから、今夜も来るということはないだろう。もし来たとしても、休日にカナがどこに出掛けようが自由なのだから、気にもとめないだろう。
カナは新幹線に乗って、『広島駅』へ向かう。
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