12.夫を馬鹿にするな
義兄が既に『DNA鑑定』をしていた。
最初の一行に、それは記されている。
『DNA親子鑑定の結果: 親子関係 否定』
生物学上の親子である可能性: 0%
目眩がした、ほんとうに目眩がして、カナは椅子の上で気を失うようにふらっとしたようだった。
「カナ、しっかりしろ」
おかしい。こんな恐れていたことが起きたら、取り乱すのはお義兄さんであって、宥めるのはカナのほうではなかったのか。
酷な事実を間に挟むようになった現在、動揺しているのはカナで、そんな義妹を案じて、さっと立ち上がり正面の義妹の肩を支えてくれたのは義兄だった。
義兄さんの子じゃなかった。恐れていたことが起きた。
では誰の子? 金子さんの子供? 丸尾って男の子供? それとも、他に姉にまとわりついていた男の子供!?
「美月に男がいると気がついていた」
「……そ、そうなの?」
「だからだよな、カナ。だからその男に会いに行ったんだろう。航の父親かもしれないから、会いに行ったんだろう」
そうよ、そうなのよ。耀平にいさん。少し前なら、そう白状できたかもしれない。
でも。いまは違う。義兄さんの子供ではないと判明しても、父親が誰かということを追及されたら、姉がどのようなことをしてきたか話さなくてはならなくなる。
義兄はここで否応なしに傷つくだろう。たとえ、自分と血の繋がりがないと判っていて甥っ子を育ててきてくれたとしても、姉の裏切りが複数の男と繋がっているだなんて、ましてや航が誰の子かわからないなんて……。知ってはいけない、知られてはいけない!
「カナ。もういいんだ。言ってしまえ。金子という男に会いに行った理由がわかれば、おまえの疑いも晴れるのだろう」
そのために? カナをここから連れ出すために、男として誰にも知られたくなかった秘密を、警察に持ってきてしまった? カナは愕然とする。
いったい、なんだったの? わたしが必死に守ろうとしてきたものは? わたしが守るだなんて、たいそうな傲りだっただけ?
いざという時に『秘密』を明かす覚悟を持っていたのは、義兄さんのほうだったじゃない? わたしがこんなことにならなければ、きっと義兄さんも同じことを誓っていたはず。『俺が墓場まで持っていく。航は俺と美月の子』だと貫く覚悟をしていたはず。
「そうなんだろう。カナ。俺に知られたくないからと、ずっとそうして苦しんできたんだな。今日まで確信が持てなかったし、追及すれば、俺も秘密を明かさなくてはならないから、おまえの苦しみに踏み込めなかった」
「そんな……。じゃあ、義兄さんは……、もう、ずっとずっと前から、苦しんでいたの?」
眼差しを伏せ、彼は俯き黙り込む。
カナの目の前で、腕を組んでじっとしていた義兄だったが、ようやく致し方ないように呟く。
「美月が死ぬ頃には、俺達はもうセックスレスだった」
また唐突な告白。カナはもう、ただ呆然と義兄を見ることしかできない。
「航が生まれる頃は、まあ、新婚だったから疑いようもなく夫婦らしくしていたんだが、航が生まれてから美月が少しずつ変わっていった。いま思えば、だけどな」
「い、いつから。こんな『鑑定をしよう』だなんて考え始めていたの? いつからお姉さんのことを疑っていたの?」
今度は義兄が黙った。
「わたしが小樽にいる間って……。わたしと一緒に暮らす前にはもう、義兄さんは疑っていたんでしょう」
「おまえがなにかを必死に隠していたように。俺も隠していたことがある」
義兄が重い口を開いて、話し始める。
「美月が夜、車で出掛けた時。俺は寝ていた……と言うことになっていたよな」
「うん。隣で寝ていたのに妻が出て行ったことに気がつかなかったと、義兄さん、随分と自分のことを責めていたもんね」
「そうではなかった、実際は……」
『え?』 義兄さんが嘘をついていた? 信じたくない彼が現れそうで、カナは緊張する。
「夫妻の間にあることなので、あからさまには言えないことがあった」
「誰にも……言っていないの?」
重そうに義兄が頷いた。
「特に、カナには言いたくなかった。言えないというよりも、男として知られたくないが正しい」
「寝ていて気がつかなかったわけじゃないってこと?」
もう胸がドキドキしてきた。嫌な予感。まさか義兄さんは、飛び出そうとしていた姉さんを引き止めることができた瞬間があった? それを見逃した? わざと見送ってしまった? そんなことが脳裏に過ぎる。
「セックスレスになったことについては、まあ、そんな深刻に考えるよりかは様子見にしようという心構えだった。俺には実家に兄貴がいるだろう。その兄貴が酒の席で言ったんだ。子育てで忙しくなると夫婦生活が億劫になる女もいる。夫のおまえも婿養子として頑張ろうとして時間がなくて、気がついたらセックスレスになんてなるかもしれないな――なんて、酔った上での笑い話だった。だがその時、まさにその状態だったから、兄貴に見抜かれていたのかとドッキリしたことがある」
「航が生まれてから、お姉さんから興味を示さなくなったの」
義兄が辛そうに『ああ』と俯いた。そしてカナはそんな痛々しい義兄が気の毒になって、目を逸らしたくなる。
しかし『お似合いの夫妻』と言われていた姉夫妻だったが、姉の正体を知っているカナにはしっくりする話だった。
子供を産んで跡取りを得たので、姉は自分の使命はひとまず終えたと思ったのかもしれない。その使命を終えたなら、もう退屈なセックスをしなくていい。望むセックスが出来ないなら無いほうがマシ。そんな姉の気持ちがカナには見えてしまう。
「時々はあったけれどな。航が生まれてからは、ワンシーズンに一回あれば良い方になっていた。しかも、なんかギクシャクして、俺はその気でも美月はつまらなそうにしていた」
ああ、やっぱり――と、カナは目を覆いたくなった。
「それに。妻が忙しい夫に放っておかれて寂しく過ごすとかよく聞くが、美月はそうではなくて、逆に俺がたまに抱くと翌日から暫くは気が立っていたり不機嫌になったりして……」
そこで義兄が黙った。眉間に苦悩の皺を深く刻み、そのままずっと俯いている。
「もう、いいよ。義兄さん。そんなこと、わたしに話さなくても」
だがそんなカナの声を耳にして、生き返ったように義兄が垂れていた頭をあげた。
「いや。話しておく」
意を決したからなのか、義兄はカナが選んだ銀鼠色のネクタイをきゅっと締め直し、いつもの頼もしいお兄さんの顔で真向かった。
「あの夜も、たまに、ほんとうにたまたま、美月と抱き合った夜だった。もう、この女とはダメかもな……。そう思えるもので、俺の頭の中にはうっすらと『離婚』が浮かんでいた」
「離婚? そこまで思い詰めていたの?」
「ああ。この頃から、なんとなく『男がいるかもな』とは思っていた。元々、美月との結婚を望んでいた資産家は他にもいたらしいし、美月は外に出れば本当に良く出来た妻で、倉重の自慢の娘で、誰もが惹かれる女だったから、彼女がその気になれば男のほうがすぐに承知するだろうと思っていたからな」
「それで、あの夜……。なにがあったの?」
「静かに眠っていたのは確かだ。終わった後、美月といつものように一緒に眠っていた。俺も眠っていた。だが、夜中に美月が急に発狂するように飛び起きた」
カナの目の奥で、生々しく姉が蘇る。
――騒ぎにしたいの。したくないの。どっちなの。
夫の子か情夫の子か判らない子供を産もうとしている姉が、真実を隠し通そうとしていると苛む若い妹を見据え、鬼気迫った時の姉の顔。誰もが慕う姉ではなかった。
姉の仮面の名は『可憐』、仮面を外すと『月のあやかし』。自分でもよくわかっていただろう姉が、夫の前で被り続けていた仮面を投げ捨てた瞬間の顔がありありと浮かぶ。カナに見せたあの恐ろしい目の女。
耀平義兄はそのまま続けた。
姉は夫妻のベッドから飛び降りると、切羽詰まったようにクローゼットを開け、とにかく手についた衣服を身につけ部屋を飛び出していったらしい。
もちろん耀平兄も起きあがり『なんのつもりだ』と問うたけれど、苛立っている姉はいっさい答えてくれなかったという。
義兄も、夫妻が睦み合った後に、決まって苛立つ妻に辟易していたから『もう勝手にしろ』と放っておくことにした――。
それがあの夜の真実。
「もう、男のところへ行けばいいと思っていた。航も放って出て行くほどの男ならいっちまえと。そうしたら、美月がそのまま事故を起こし、二度と帰ってこない妻になってしまった」
夫妻関係は既に破綻していた。これはカナにとっては新事実。
姉は仮面を被ったまま、夫にもそつなく接して良妻賢母を確実にこなしていると思っていた。耀平兄さんは愛する妻を亡くして、ひたすら哀しんでいたわけではなかった。妻に裏切られてただ打ちひしがれ、あの夜、放ってしまったことを後悔していた。誰にも言えない姉の正体に苦しんでいたのは、カナだけではなかった!
「それまで美月は『優等生』として生きていたから、『男の元へ走っていったかもしれない』――なんて、俺しか感じられなかった根拠もないようなことを言って、お義父さんもお義母さんも哀しませたくなかった。何故、どうして、あんないい娘が、奥さんが、夜中に車で出て行ったのか。そのままにしておけばいいと思って、俺だけが知ることは伏せた」
そしてカナもうっすらとわかっていた。『姉さんが夜中に飛び出していったのは、金子さんに会いたかったからだ。身も心も金子さんに向かっていってしまったんだ』。カナだけが知っている本当の姉の姿だと思っていた。でも違った。妹が姉をよく知っているのならば、夫も妻をよく見ていた。
そこまで話した義兄が、今度は本当に刑事のようにカナを険しい眼差しで射ぬく。
「夫がなにも感じなかったと、なにも知らないと馬鹿にするなよ。夫妻には夫妻だけにしかわからないことがある。美月はそれを葬ってしまったんだ」
「……まさか、ほんとうに事故ではなくて、じ……」
自殺? 初めてそう思ってしまった。
「わからない。だが夫としてこれだけは確信している。美月はあの夜、夫に嫌気がさして男の元に突っ走っていた。俺はもうここまではわかっている。俺はもう夫としてとっくに傷ついている。だから遠慮はいらない。言え、カナ。金子という男が美月の男だったんだな」
真っ正面からの追及に、カナは……。それでも口をつぐんだ。
往生際が悪い義妹に、いよいよ義兄が業を煮やす。
「わかった。もういい」
そんな義兄が席を立ってしまう。そして取調室のドアを開けてしまった。
「ありがとうございました」
外で待機していたのか、年配の刑事だけが入ってきた。
その刑事に、義兄は間も置かず伝える。
「息子と金子さんのDNA鑑定をお願いできますか」
「よろしいのですか」
「はい……。これが最後の機会だと思いますので、荼毘に付される前にお願いします」
刑事がため息をついて、カナの前へと戻ってくる。
「花南さん。そちらの鑑定書をいただけますか。お姉さんと金子さんが関係があると知っていて、会いに行かれたのですね。その訳は、もしかして、丸尾に脅されていましたか?」
カナへの疑いが、義兄が持ってきた『鑑定書』が現れた時点で一変していた。
「つきまとわれていたというのは、お姉さんと金子さんが周りから関係を知られないよう作り上げた偽装だったんですね。そして花南さんはお姉さんのいうとおりにしていた。お義兄さんや、ご両親、甥御さんに知られなければ済むことと、金子さんと一緒に黙って隠していただけだったんですね」
それでもカナは黙っていた。
「カナ、いい加減にしろ。俺のことはもういいから。本当のことを言え」
胸に鑑定書を抱きしめて離さないカナから、義兄が取り上げようとする。だけれど、カナは振り払い、鑑定書を渡そうとはしなかった。
ダメよ、義兄さん。今度は金子さんの子じゃないと判ったら、義兄さんが本当に傷つく。航をこれからも息子だって思える?
「もういいじゃない。航は義兄さんの子よ! 母が育てた倉重の子よ。このまま、このまま、いままで通りでいいじゃない」
髪を振り乱しどこまで足掻くカナを見て、刑事は困惑し、義兄も呆れてカナから離れた。
それでも、義兄の本当の覚悟をカナは知ってしまう。
「おまえがそこまで抵抗する姿を見て、ますます確信した。刑事さん、『丸尾』という男との鑑定もお願いします」
さすがにカナも、狼狽えた。そこまで夫として感じていたことも予想外で、ショックだった。
刑事も困惑している。
「あの、耀平さんそれは……、どのようなつもりなのですか」
「金子さんだけが相手なら、義妹もここで観念しているはずです。それをこんなに抵抗するということは、金子さんも丸尾という男も、妻と関わっていたということだと思います」
「……ということは……。あの、奥様と関係をしていた男達の諍い……ということでよろしいでしょうか」
「はい。私はそう感じました。航の父親がどちらか知りませんが、それを倉重に知らせて脅す脅さないというやり取りがかわされた可能性を強く感じます。倉重で副社長を務めていますが、どのようなことが害を為すかを見てきたつもりです。そのようなことからも家を守り続けてきたので、一家を守る男としてまず予測できるのは、妻が男と関わっていたという事実からどのような危険が起きるかです。まあ、そんなことがまずは頭に浮かびます」
義兄は、婿養子で父の右腕。跡取り婿。副社長として、次期社長としての『感』も研ぎ澄まされている。そして夫だからこそ、感じるものも持っていた。
そんな義兄さんだからこそ、守りたかったのに。義兄さんとの春霞のような生活も、カナが持ち続けてきた盾も粉々に散った。
カナの目から我慢していた涙が、堰を切って流れ始める。
声を上げて泣いた。なにもかも終わってしまう。自分だけが散るのならそれで構わなかったのに、これでは義兄さんの心も散ってしまう。
「花南さん。預からせて頂きますね」
刑事も申し訳なさそうに、カナの胸元から鑑定書を引き抜いて去っていく。
「カナ。帰ろう」
「いや……。もう帰れない」
涙でぐちゃぐちゃになった顔を、彼から背ける。もう目が合わせられない。
なのに、今朝振り払ってきたマリンノートの匂いが鮮烈にカナを包み込む。
「もういいんだ。カナ。帰ろう」
それでも抱きしめてくれる義兄さんの優しさが痛すぎる。抱きついて泣きたいけれど、やっぱり抱きつくことが出来ない。
あの時と一緒だ。小樽に行こうと決意した時と似ている。
触れる手と手が苦しかったり、時々長く見つめてくれる哀しい眼差しにカナは飛びつきたくなったあの時に似ている。
だから、小樽へ行くことを決めた。お義兄さんのことを好きになってはいけない。お義兄さんと抱き合ってはいけない。いつかきっと、わたしが妻の妹であることに苦しむ日がくるだろうから。
そして。わたしもきっと。姉の妹であることで、アナタを傷つける。
今日も同じだ。これから判明する事実を突きつけられた義兄さんは、もうわたしを直視できることはできないだろうから。
―◆・◆・◆・◆・◆―
義兄に連れられ、カナは自宅に戻ることが出来た。
「カナ!」
義兄の車から降りるなり、ガラス工場からヒロが飛び出してきた。
「良かった。帰ってこられたんだ」
「ヒロ……。ごめん、心配かけて。でも、大丈夫だから」
本当かな。大丈夫じゃないよ。カナの心がひとりでそういうが、表では強がった。
ヒロの不安そうな眼差しが痛い。まだ訳も知らないだろうに、カナが警察に行くことになるような事態が起きただけでも大変なことなのだろう。
そんな仕事仲間で同期生の二人が向き合っていると、運転席から降りた義兄は特になにも言うこともなく、すっと玄関に行ってしまった。
「あ、俺……。工場(こうば)にいるからさ……」
社長の様子を知って、気遣ったのだとわかった。ヒロは時々、そうして義兄を男として気遣っている。自分が元カレということは社長も知っているし、カナが望んだ相棒で、自分よりも意思疎通が出来る男として耀平義兄が意識していることは、二人で薄々気がついていた。
「今日はもういいよ。ありがとう、ヒロ」
これから義兄とはもっと大事な話をしなくてはならない。ひとまずヒロには安心してもらい帰ってもらうことにした。
なのに、ヒロはやはりカナを思い詰めた顔で見下ろしている。
「前から思っていたんだけど。いや、学生の時から感じていたんだけれど。おまえ、ずっと前からひとりで苦しんでいることあるよな」
え? カナは目を見張った。
「俺。若かったから、そこから逃げたんだよな。不機嫌なおまえを持て余して……。もっとつっこんで聞いてあげれば良かったな。めんどくせえ女と思って……さ……」
天の邪鬼で、内にこもってひとりで抱えて、冷たくなる女。ひとりでなんとかしようと、誰にも寄り添わない女。カナはいまもそんな女だった。ヒロはそんな若いカノジョに辟易して、ちょっとした出来心で下級生の女の子と仲良くなった。
彼等に肉体関係があったかどうかは今も判らない。カナも敢えて聞こうとは思わない。でも、当時のカナは『私に疲れてヒロは離れていった』ことが原因とは判っていても、きちんと別れる前に、他の女になびいたと思った。よく話し合わない内に、カナもどうでもよい男と一晩共にしたことから、二人の破局は決定的になった。
姉が平気な顔で航を生んで、なにも知らない義兄さんと両親が嬉しそうにしていた姿を現実に目の当たりにしてから、カナはヒロの前では知らず知らずのうちに荒れていたのだと思う。
でも、ヒロはなにか気がついたのか、姉の死に嘆き悲しむカナを心配して、下宿のマンションに通いに来てくれた。カナが卒業をして実家に帰るまでの短期間だったが、男と女の破局の原因については互いに言及はせずに、なんとなく仲直りをした瞬間だった。
ヒロにとっての『おまえ、あの時から』というのは、きっとお互いのすれ違いが始まった時から感じていたもので、ずっと十年以上判っていて黙って見守ってくれていたことになる。
「カナ。俺だって、いつだって聞ける。そしていつか話してくれたらいいなと待っていた」
「ヒロ……」
「こんなことになるほどの重いものだったなんて」
もっと早くおまえに追及しておけば良かったと、彼の悔いた苦々しい顔を見て、カナも俯いた。
「うん。落ち着いたら、話すね」
「わかった。ほら、いけよ。義兄さんにもちゃんと話せよ。俺に話していいのは、それからだ」
「う、うん……」
ヒロに話すより、話したくない――。そうは思いつつも、ヒロのいう通りなのだろう。一番に告げなくてはいけないのは、義兄さんだ。
先に家の中に入っていった義兄は、日が暮れるリビングのサイドボードに向かって立っている。
支度をしたまま放っていた朝食は片づけられていて、いつも通りの綺麗なダイニングテーブル戻っていた。それでもカナが生けた紫陽花が、心なしか頭をもたげて生気がないように見えてしまう。
無地の青いシャツの背も、夕に染まっている。
左腕から銀色の時計を外し、サイドボードにある腕時計用トレイに、それをジャラリと置いた。
「どちらにせよ、互いに重大な秘密を秘めたまま、一緒に暮らそうとしていた訳だ。大馬鹿だな、俺達は」
背中だけ見せ、義兄は急に喋り出した。振り向いてはくれない。
「いままでおまえがどうして、俺に全てを預けてくれないのか、ようやっとしっくりした」
カナが思い描いていた覚悟を、義兄が先に言ってしまう。
「もういいぞ。カナ。おまえはもう自由だ。勝手に俺のものにしたのだから……。もういいぞ」
秘密が苦しくて義兄さんから離れたのに、彼が強引に連れ戻した。勝手に俺のものにして、カナは秘密の重みに彼の前で耐えなくてはならなくなった。それも俺が架した苦しみ――と義兄は言いたそうだった。
「義兄さん。ありがとう。うんと楽しかった。本当よ」
そしてカナも告げる。
「義兄さんにはこれからも、倉重と航を守ってもらわなくてはいけません。なにも出来ない娘の私が出て行きます。お世話になりました」
今まで通りに微笑むことができなくなるだろう。
これからは、秘密よりももっと重い真実を挟んで、抱き合うことになるだろう。
もう昨夜までのような生活はできない。二人は一緒にそう感じている。
そしてカナは心の中で、砕いた。彼との五年を地面に叩きつけるように砕いた。
だって。そうでしょう。失敗作は残さない。偽りを重ねた上に成り立っていた生活は失敗作と同じ。取り戻さない。
綺麗な金春色の透き通った日々を、カナは義兄と一緒に割り砕いた。
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