11.たやすく風に散る
ひとり、秘密の重みを背負っていた人が逝ってしまった。
墓場まで僕が持っていく、葬ると言っていたのに。
秘密の箱を開けっ放しで、逝ってしまった。
「金子さんのことで、いくつかお聞きしたいことがあります」
「はい」
涙の訳を教えろということなのだろう。うまくかわせなかったカナも、ここで腹をくくった。
「ここではお話をしたくはありません。そちらに伺います」
刑事二人が顔を見合わせた。
「車で来ています。こちらに持ってきますので、我々も同行いたします」
「お願いいたします。それでは、支度をして参りますのでお待ちくださいませ」
カナは淑やかにお辞儀をしてから、足早に家の中へと戻る。
もうすぐ朝食の準備が出来上がるところだったのに、それを放って、カナはベッドルームに入った。
「誰か来ているみたいだな。つい、ゆっくりしてしまった」
ゆっくり眠っていた義兄が、いつものクローゼットで身支度を整えていた。玄関のチャイムを耳にして、慌てて起きたのだろう。
彼の手が、今日も黒いネクタイを手に取ろうとして……。
「義兄さん、今日はこれね」
銀鼠色の下地に、黒に縁取られた空色の四角模様が並ぶ小紋柄のネクタイを選んだ。涼しげな夏のネクタイ、これもカナが泊まりに来た彼のために揃えておいたものだった。
「義兄さんたら、ほんとうにネクタイを選ぶのが下手ね」
カナは昨夜深く愛しあった彼を見上げて笑う。彼も今日は照れくさそうにして、カナの手からネクタイを取った。
「おまえがネクタイを選んでくれた日は、誰からも褒められるよ。これから俺はセンスがいい男といってもらえるかもな」
「いやよ。毎日は選びません。そろそろ義兄さんも自分でその日を感じて選んでよ」
「カナがいれば、考えなくて済むことだろう」
しかめっ面の厳つい顔で仕事ばかりしている人が、穏やかな笑顔になる瞬間が好き。ずるいってずっと思っていた大好きな笑顔の彼が、今日もカナをその胸に抱き寄せる。そして大きな手が、カナの黒髪を優しく撫でる。
ダメ、いま泣いたらダメ。カナは必死で堪える。なのに、義兄さんがいつもと同じキスをする。
――カナ、これからもおまえの天の邪鬼につきあってやるよ。
うっすらと浮かべた涙は、今度こそ嬉し涙だった。
義兄さんの匂い、いつものキスの味、そしてチクッとする口周りの無精髭。カナにだけくれるもの。
「ごめんなさい。義兄さん。お客様なの」
「あ、そうだった。悪い。誰が来たんだ」
カナから義兄の胸を離れる。マリンノートの香りがすうっとカナを追いかけてくるけれど、構わずに支度をする。いつもの日よけ帽子とストール、そしておでかけのバッグ。
昨夜の余韻を引きずりながら、これから二人きりでゆったりとした朝を迎えようとしていたのに、急に義妹がでかけようとしている。その異様さに、やっと義兄の表情が変わった。
「どこへ行くんだ。誰が来たんだ」
「すぐに帰ってきます。心配しないで」
義兄に捕まらないよう、カナはさっと何気ない顔でベッドルームを出た。
待て、カナ!
玄関へ向かうカナの背に、忙しい足音と義兄の声が届く。それも振り払うようにして、カナは玄関で靴を履く。
「お待たせいたしました」
刑事と一緒、玄関先に待機している白い車を急いで目指した。
「カナ! どこへ行く」
玄関を飛び出してきた義兄さんの形相が尋常ではなかった。きっと彼も気がついたのだろう。カナを連れていく男達が警察関係の者だということに。
だがカナは既に年配の男性と共に、後部座席に乗り込んでいた。
「よろしいのですか。……ご主人……ではないですよね……」
「義理の兄です。姉の夫でした」
「お兄さん、でしたか。確か、婿養子さんでしたね」
カナを訪ねるにあたり、警察側もそれなりに人間関係を把握しているようだった。
「いま義兄と言葉を交わしたくありません。刑事さんから、心配しないよう言っていただけますか。それから工房にある溶解炉の火を一度落とすと、原料のガラスが固まってしまい入れ物にしている坩堝(るつぼ)共々、二度と使えなくなるんです。火の番をお願いしますと伝えてください」
「わかりました」
年配の刑事が車から出て行く。息を切らして困惑した様子の義兄にも警察手帳の金バッジを見せ、ひと言ふた言伝えてくれている。
喫驚の様相に変貌した義兄が、我を忘れたように車窓に飛びついてきた。
カナ! どういうことだ!! カナ!
カナは、眼差しを伏せ、彼を見ないようにした。
いつもはどっしり落ち着いて静かな義兄さんが、あんなに取り乱している。そんな姿を見たら、カナも胸がキリキリ痛くて、痛くて、切り刻まれるようで気が狂ってしまう。
カナ――!
義兄を制して、刑事がカナの隣に戻ってくる。
「行きますよ」
運転席にいる若い刑事が、なかなか車から離れてくれない義兄を気遣いながら、とうとう車を発進させてしまう。
これから署でどうなるかなど、カナにもわからない。
でもきっと、もうお終いなんだと思っている。
月に叢雲、花に風。
花にも風が吹いた。咲いたけれど、すぐに散る。いまから散る。
―◆・◆・◆・◆・◆―
警察での聴取で、倉重花南は、想像以上の追及に遭った。
「金子さんとはどのようなお知り合いでしたか」
突然の別れに哀しみの涙を刑事に見せてしまったが、それでもカナは金子氏との約束を守ろうとした。
「姉が学生時代につきまとわれていたと教えてくれました」
「とても悲しんでいるようにお見受けいたしましたが、お姉さんは金子さんを疎まれていたのですね」
「はい。とてもしつこかった……と」
「では。花南さんは、初めて金子さんとお会いしたのはいつのことでしょうか。今朝、この写真を見ただけで金子さんとおわかりになりましたよね。お姉さんから『嫌な男だ』と、生前の彼をどこで紹介されましたか」
カナは不自然に黙り込んでしまう。どこで出会ったか、ひとり回想していたが、決して言うものかと口をつぐんだ。
金子氏と初めて会ったのは、姉が下宿先に逃げ込んできて、暫くしてからのこと。
姉が突然、荒れた身体で駆け込んできたと思ったら、『いまカナが塞ぎ込んでいて、可哀想なの。そばにいてあげたいの』なんて実家に変な言い訳を繰り返して帰らず、半月ほど居座った時だった。『お姉さん、どういうつもりなの。耀平兄さんが帰りを待っているんじゃないの』と、カナも姉のことに不審を抱く。その時、観念したのか姉が下宿先に金子氏を連れてきた。それが初対面だった。
――『私のセックスパートナー』。その紹介にカナは愕然とした。身体中残っていた水玉のような痣に、縛られた跡。シャワーを浴びている姉の裸を見てしまったが、股の毛は剃られていてとても異様だった。最初は『レイプされた』のではないかと動揺をした。しかし機嫌の良い姉を見ている内にその不安は別の不安にすり替わった。
大学の講義が休講になり、連絡もなく下宿のマンションに帰ると、ゲストルームにずっと籠もっていた姉が暗闇でDVDを観ていた。そこには縄で縛られている裸の女性が映っていて、それは姉だった。そして姉を陵辱している細い目つきの男がいる。金子氏だった。『やめて』とすすり泣きながらも、とろけた眼差しで金子氏を見つめ、肌を上気させ頬も紅潮している女。恍惚と潤んだ目で彼を見つめていて、明らかにそれは快感を味わっている女の顔だった。
それを妹に観られたことを知った姉も覚悟をしたのだろう。『カナにだけ教えておく』と言って、カナのマンションに金子氏を連れてきた。
その時、二人は凹凸をぴたりと合わせたようなちょうど良い性愛を結んだ関係だと教えられる。
刑事の問いにカナの脳裏には在りし日が鮮烈に蘇る。でも言えない。
「どこで初めてお会いしましたか」
「姉から名前だけ聞いていました。最初に本人と会ったのは……、……そう、姉の葬儀です。最後の別れにと訪ねてきましたが、お断りしました」
刑事二人が目を合わせ、意味深に頷きあった。嘘だと見抜かれたとカナも感じ取った。
「どうして泣かれたのですか」
「いつかこのようなことになるではないかと思っていたので、本当にそうなってショックだったのです」
次から次へと嘘をつかねばならない。だが、それも覚悟してきたこと。ここで大嘘つきにならなくてどうする。
刑事も『そうですか』と、ひとまずカナの返答を飲み込んでくれたようだった。
だが。その次にカナは刑事の恐ろしさを知る。
「こちらは広島駅のホテルにある防犯カメラに映っていたものです。先月半ば、金子さんはこちらのホテルに数泊されています」
金子氏と密会をしたホテルだった。しかもそこに金子氏の後に付いていくカナの後ろ姿が映っている。あの日、金子氏に会うためにきちんと着込んでいった藍色のワンピースに白いジャケット。衿につけたガラスのブローチも、捜査で手がかりを探すためか拡大されている。さすがに動揺した。
「それから、これも」
今度は写真だった。そこには見覚えのある『切子グラス』が写っている。
赤、青、緑のお揃いの切子グラス。セットで通販用に作った記憶がある。
「金子さんの自宅に、大事そうに飾られていました。木箱をクローゼットの奥から見つけまして、こちらの工房と作家として貴女の名前がありました」
そんな……。そんな関わりが一発で判ってしまうようなものなど処分する人だと思っていたカナには意外すぎた。それと同時に、どうあってもわたしを泣かす気か……と思うほどに、実はこの男性に姉妹ともに大事にされていたのだと、常に案じてもらっていたのだという気持ちが沸き上がってしまう。
いわば、もうひとりの『影にいるお義兄様』。そういっても、もう過言ではない。
そんなカナの密かな動揺もお見通しなのか、年配の刑事の説明に割り込むように、若い刑事が険しく突きつけてくる。
「お姉さんの次に、貴女がつきまとわれていたということはありませんか」
「いえ。葬儀の参列をお断りしてから、会ったことも、接触されたこともありません」
「このブローチが貴女の部屋から出てくれば、言い逃れなどできないのですよ!」
若さゆえか、青年刑事の口調は荒かった。だがそこは年配の彼がそっと手で制して諫めてくれる。
「失礼いたしました。あとひとつだけ」
さらに、刑事が差し出したものに、カナは今度は首を傾げた。
「実家のホテルで配布している広告パンフレットですね」
そしてもうひとつ。なにかがプリントされたものも添えられていた。そこには学生時代の姉が写っている。
「金子さんを刺した男が持っていました」
また血の気が引いた。あの厭らしい男のことだろうか。あの男が倉重観光グループのパンフレットと姉の写真を持っていた? やはり金子氏が言ったとおり、どう調べたのかわからないけれど、執拗に姉を捜し当てていたのだ吃驚する。
刺した男が倉重観光グループのホテルパンフレットを。金子氏はカナが作ったグラスを大切に持っていてくれたこと。広島のホテルで金子氏と密会していたところを押さえられたカメラ映像。どうあっても『倉重花南』に繋がってしまっている。
「あの、金子さんを刺した男は……いまは……?」
「刺し違え、というのでしょうかね。こちらは即死でした」
刺し違え!? 即死――。
さらなる驚きに打ちのめされているカナに、刑事が新たな写真を見せる。
「先に刺したのは、丸尾というこの男です。正当防衛だったのかどうかわかりませんが、金子さんがその後にこの男を刺したという目撃証言があります」
「場所は……」
「広島の繁華街、人通りが多い通りの脇にある裏路地でした」
姉のことでやりあったのだと、直ぐにわかった。そして金子氏が、必死になって男を、男を……。忌まわしい者を秘密と一緒に、自らの手で葬ろうとしたのだとカナは思った。また涙が滲みそうになったが、今度は必死に堪える。
「この丸尾という男ですが。よくいるサラリーマンに見えるでしょうが、覚醒剤所持の前科があります。前科にならないトラブルも何件か。トラブルは金銭関係に女性関係様々です。今回は解剖の結果、覚醒剤を常用していたことが判明しました。今回の件は、そんな丸尾が覚醒剤の作用でだいぶ気が立っていて、通りすがりの金子さんを刺したのかと当初は思っていたのですが、このような接点が見つかりましたので、花南さんを訪ねてきた次第です」
「そ、そうでしたか」
「今回のこの件で、まったく無関係とは言い難いというのが私たちの見解です。いかがでしょうか。どのようなご関係だったのでしょうか」
年配の刑事の眼差しが徐々に険しくなる。先輩の様子に同調するように、青年刑事もカナを睨み始めた。
「金子さんと広島のホテルで会われたのは何故か。教えて頂けますか」
やはりカナは黙った。そして都合の良さそうな嘘を探している。姑息と言われても、カナはこれをやりのけてやるという決意で言い訳を探している。
また苛立っている若い刑事がカナに向かってきた。
「金子さんにつきまとわれ鬱陶しく思い、丸尾に殺害を依頼したということはありませんか。金子さんからもなにか脅されていませんでしたか」
そうか。そうしてカナも疑われているのか。初めて、カナを訪ねてきた目的を知った気がした。
そしておののいている。嘘をつくなら、つき続けるのなら、カナはもしかすると『金子氏を殺そうとした首謀者』ともなりうるのだと。
たぶん、カナの顔色は真っ青になっていたのだろう。年配の刑事が静かに言った。
「丸尾のことも存じているように見えますね、私には」
丸尾という男は、確かに、金子氏が見せてくれた厭らしい顔で姉を触っていた男だった。
どこまで嘘をつけばいいのだろう。
嘘の罰というならば、こちらのほうが相応しい。
金子氏の代わりに秘密を背負うのならば、これも致し方ないと思わねばならぬのだろうか。
カナの中に、昨夜とは真逆の新たなる覚悟が芽生える。
姉につきまとっていた男が、今度は妹につきまとっていた。鬱陶しいので、覚醒剤常習犯の男が金を欲しがっていたので、それを報酬として殺害を依頼した。そうすれば、秘密は守られるのだろうか?
いや、倉重の娘が冤罪でも逮捕などとなったら、かえって倉重に傷が付くではないか。
それなら、もう、秘密を明かさなくてはいけないのだろうか。実家に知られないように、義兄に知られないように。この人達にだけ真実を伝える? そんなことおかしい。
どうすればいい?
「知りません」
そこからカナの黙秘が始まる。いっさい答えるのをやめたのだ。
刑事がなにを聞いても黙っていた。
しかしその間、カナの頭の中はとても忙しく様々なことを考えていた。
どのような嘘をつけば、全てから逃れられるのだろう。実家に知られず、義兄に全てを知られず、そしてカナも冤罪にならないようにするにはどうすれば。
カナの黙秘が始まってから、一時間半ぐらい経った頃。年配の刑事がため息をついて外に出て行った。
彼も持久戦に備え、頭を一度冷やしに行ったのだろうか。さて、自分はどうすればいいか。
年配の刑事が戻ってきて、青年刑事にひと言耳打ちの伝言を済ませると、またカナの正面に座る。
「あれからすぐにお義兄さんがこちらに訪ねてきていますね。貴女の聴取が終わるまで待っていると、じっと動かないそうです」
「帰るように言ってください。火のことをお願いしてるのに。本日、工房は定休日で、同僚の職人が来ないので、誰かがあの家にいなくてはいけないんです。休みの日は、職人二人で交代で見ていて、今日は私が一日家にいる予定だったので、同僚は来ないんです。それとも火を落として来てしまったとか言いませんよね!」
火を落としてもかまわない。まずは義妹を先に助けに行く。義兄ならやってしまいそうで、でも、ガラスをそんな粗末にして欲しくないとカナは憤った。
すると、年配の刑事がおかしそうに笑った。
「ガラスのことなら、喋ってくれる。根っからのガラス職人というわけですね。ご安心を。お義兄さんはこちらに来る前に、その職人さんに連絡をして火の番を頼んでからきたそうですから」
「そ、そうでしたか」
ホッとしたカナの顔を見ると、年配の刑事が青年刑事に目配せをした。頷いた若い彼が、聴取している部屋のドアを開けた。
そこに、耀平兄さんが立っている。
既にやつれたように疲労を滲ませる顔で、でも、カナが選んだネクタイをきちんと締めた、いつもの凛々しいスーツ姿でそこにいた。
「どうぞ。耀平さん」
「失礼いたします」
どうして刑事は、彼をここに連れてきたのか。
いま、誰よりも話したくない人を連れてきてしまうのか。
「お義兄さんが、貴女にお話ししたいことがあるそうです」
刑事が席を立ってしまう。
「私どもは外におります。どうぞ、お二人で」
ますますカナは焦った。まだ刑事にじわじわと追及されているほうが良いと思うぐらい、いま義兄と二人きりにされると困る。
それでも構わずに、刑事二人は、カナが犯人であるかどうかなど『もうどうでも良い』とばかりに、カナと耀平の二人だけにして行ってしまった。
背の高い義兄が、上からカナをじっと見下ろした。その眼が鋭く、こんな刑事に追及されたら、絶対に白状してしまうという気迫で攻めてくる。
そんな義兄は、先ほどまで年配刑事が座っていた椅子を引いて、腰を下ろした。
本当に彼が刑事のよう……。
「馬鹿な義妹だ」
『どうして、何故、このようなことになった』と、捲し立てるように追及されると思っていたのに、義兄は呆れているだけでいつもの静かな彼だった。
「俺も馬鹿だった」
そう言いながら、義兄が机の上に、ひとつの書類封筒をカナに差し出した。
カナも首を傾げる。
「見てくれ、それを」
訝しいまま、その封書を手にしてみる。
中から薄い書類が数枚。それを引き出そうとすると、義兄が言った。
「カナ。実は『秘密』が半分こだった――ということらしいな」
義兄さんの言葉と共に書類の項目を見たカナは、驚きのあまり心臓が止まりそうになる。
「い、いつ……、いつこんなことを」
震える声で、今度はカナが義兄に追及する。
義兄が目を逸らし、心苦しそうに呟く。
「おまえが小樽にいる間だ」
それは父子の親子関係を調べた『DNA鑑定書』だった。
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