5.勝手に俺のものにした。
もうダメだ。身体中の水分が出て行って、魂も精神もすっぽ抜けたよう……。
精根尽き果てた。自分のことも、あの人のことも、なにもかも蒸発させて、残ったのは見えていたのは神秘的な青いガラスの上を這う蝸牛の幻想だけ。自然にある色合いだけ。
「あー、もうごはんいらない」
昨夜は義兄さんが来ていて、一生懸命にこしらえたけれど。今夜はもう自分ひとり。自分がいらないならもういらないと、カナは暮れなずむリビングのソファーで水だけをごくごくと飲みほし、横になった。
――いい風だ。この家は、いい風がはいると思って買ったんだ。
気が抜けた身体を横たえているその側で、囁かれているように彼の声が蘇る。昨日、このソファーで彼もこうして横になって、力を抜いてくつろいでいた。
「にいさん……」
まどろみのなか、気付かず呟く夢の入り口で、夕のカリヨンが鳴る。
義兄の耀平と初めて対面した時、カナはまだ大学生。
姉と見合いをした時、彼は三十になろうとしているところだった。
程よい大人の男の空気を漂わせる義兄が、おっとり優しい雰囲気の姉と並ぶと誰もがお似合いと言った。
姉が憧れだったカナが、そんな義兄に憧れるのも容易な流れだったかもしれない。
自分でもなんて『安易に芽生えた気持ち』なんだろうと呆れるほどだった。
しかめっ面で無口な男が、妻に微笑む笑顔は『ずるい』と思う。その笑顔に密かに憧れていた。
でも。それは姉の夫としてであって、決して、自分の夫になって欲しいという願望ではないことをカナはきちんと心得ていた。
姉の夫だから、耀平義兄さんという素敵な夫に見える。
他の誰でもない。姉の美月という女性がいたから、素敵な義兄が現れた。
ふんわりと清純な姉を一目で気に入って『是非、結婚を』と義兄のほうから夢中になったと聞いている。だから素敵な男性が出現した。姉という女性を愛する男の姿が素敵に見えたということ。
ずっと末永く、そんな姉夫妻であって欲しい。可愛い甥っ子も家族になって、このままずっと和やかなファミリーでいられたらいい――と、カナは願っていたが、その奥底で大きな不安が渦巻いていた。たったひとりで案じていた。
何も知らない義兄。
女遊びもせず、亡くなった妻を想い、忘れ形見となった息子のために生きている。
そんな義兄の実直な生き方を見て、カナは何度も苦悩した。
姉の夫ではなくなったのだから、もう自由な生き方が出来るはずなのに。倉重一族を抜けて、もっと自由で新しい人生を彼は歩めたのではないか。
だが義兄は、自分の新しい人生よりも、姉が遺した息子と倉重家で生きていく選択をした。
姉が『跡取り息子』を生んで逝ってしまったので、義兄はその唯一の繋がりで倉重家の男として生きている。
ただ姉が姉のまま逝去しただけなら、カナだってこんなに悩まない。でもカナ以外の誰もが、姉は誰もが知っている姉のままで逝ったと思っている。両親でさえ……。
それが本当に義兄のためなのかどうか、二十代の頃、カナはひとり勝手に苛む時期があった。
姉のバックアップが切れると、学生グループの顧問をしてくれていた講師も『もう面倒はみてあげられない』と解散することになった。
暫くは広島で学友達と作家活動をしていたが、やはりなかなか難しいものだった。
それぞれ散った後、地元に戻るまでの三年は小樽のガラス工房で修行させてもらった。
そして五年前、義兄が『地元でも、ある時代はガラス産業が盛んだった。資材はまだ地元の山に残っている。それを復活させたい』と、父の許しを得てガラス工房を立ち上げた。
その工房で職人として働かせるのかと思ったら、『おまえは作家活動をしろ』と義兄に強く勧められた。
その義兄が与えてくれた制作工場付きの一軒家は、日本海にある実家の近所ではなく、離れた中心都市、西の京と呼ばれる山口に置かれた。
静かにひとりで暮らして専念するように。美月が応援していたのだから、あの頃のような作品を造ってくれ。工房とは違う感性で作成して欲しい。
それが『パトロン』になった義兄の、工房社長からの意向だった。
工芸で生きていきたい身としては願ったり叶ったりの環境だったが、やはり、学友達との苦労を思い出すと『また家族がバックアップする』という状態に戻るのは受け入れがたいものがあった。
そしてそんな義兄の義妹への気遣いが、カナを思った以上に頑なにさせた。
なぜ、ここまでしてくれるのか。
そういいたいけれど、それも言えなかった。言えば、義兄が一番気にしていることに触れてしまう。
姉が妹の作品を売り込むのは、まあ自然であろうに。義兄が売り込むのは、一人娘になってしまった義妹に良くして倉重家で今まで以上に居やすくしておきたいから。と人は囁くだろう。そういう他人の目を、義兄さんは気にしないの? と。
ただでさえ、学生時代からカナは恵まれていて、姉の売り込みで『ほぼそれだけで生きていける』工芸職人としての道を歩めたし、時には『工芸家』としてのチャンスにも恵まれていた。
姉が亡くなって、これからは、今度こそは『自分の実力で認めてもらう』と覚悟を持って、小樽へ向かった。
そこで姉の秘密も、何故、姉が亡くなったかも、ひとりでこの秘密の重さに耐えられなくても、誰も知る由もない。遠い北国で暫くは家族と離れ、忌まわしい不安から少しでも離れようと思った。
そして、それは……。アナタを気にしないためでもあったのに……。
なのに、義兄は強引にカナを実家に戻そうとしていた。
初めて西の京に置かれた一軒家に連れてこられた時。『抱いていいか』と義兄が強く望んだあの時。
絶対だめだと後ずさった。
でも心が喜んでいた。だって、兄さんのこと、好きだったから。
だけどそれよりも『大事なこと』があって、カナはどうしてもこの人を拒まなくてはならなかった。
姉さんの秘密を話せば、あるいは……。
いや絶対だめ。姉さんが話してもいいのよと生きているうちに許してくれたとしても、カナはもうこれ以上、この人に傷ついて欲しくないから『墓場に持っていく』と決めていた。
苦しくて、小樽へと遠く離れたのも、義兄さんのためであって、こうして我慢ができなくなるだろうカナのためでもあったのに。
『他の人にして――。小樽へ帰る』
この人はこんな鬼のような怖い顔をするんだと思うほどに黒い眼を見開く義兄に、強く強く手首を掴まれ引っ張り込まれる。
たぶん義兄も相当の覚悟をしていたのだと思う。義妹に『これはレイプ』といわれる覚悟もしていたと思う。そういう強引な抱き方で、カナを裸にして、男の力でカナとひとつになった。
でも。カナの抵抗は途中で失せる……。失せもする、ずっと望んでいた男の人に愛されたから。
『どうして。私じゃないとだめなの』
ことを終えたベッドで、ひとり泣きさざめくカナを、義兄が優しく柔らかに抱きしめてくれる。
『家族だからだ。言っただろ。他の女は信用できない。カナは信用できる。そういう女を抱きたい』
『それって愛人……?』
義兄は迷うことなくすぐさま言った。『義妹だからだ』と……。
他の血は要らない。他の血はこの家には入れない。だから俺の女は義妹が正当だと。
でも。義兄はそれからは、カナを大切にしてくれた。
義妹だから抱いたとか、なにが義兄をそうさせているのかわからないままだから、いまもどうしても素直に『ずっと義兄さんが好きだったの』とも言えない。
いちばんカナを頑なにさせるのは……、姉が遺した秘密。それを知ったら義兄は自由にどこかに飛んでいくと思う。彼がそれを望んでいなくても、彼は消えると思う。
だけど『カナの正当』はそこにある。義兄はほんとうはそうあるべき。秘密を、真実を知って、耀平というひとりの男に戻るべき。
でもそれは……。どんなに正当であっても彼を傷つけることでもあって、それならば、知らないまま彼は倉重と息子と義妹に縛られて生きていけば、いちばん幸せなのかもしれないとも思う。
カナとこの一軒家で男と女として暮らしていくうちに、義兄は少しずつ笑顔を取り戻してくれるようになった。
素直な態度はみせないけれど、カナだってほんとうは幸せ。秘密が知れないよう気を配って、ずうっとこのまま義兄と甥っ子の航と、なにも知らない両親と過ごしていければいい。
それでも。結婚はしてはいけないと、これは最後の砦。もし、カナが女の気持ちを優先させて義兄との幸せを取ったなら、……それがいちばん義兄を傷つけるような気がして。
カナ、わたし、気がつくのが遅かった。
ほんと遅いって、姉さん。覚悟して結婚したはずなのに。
姉の本当の姿を知っているカナは、姉を責める気にもならない。
彼は強引に抱いたくせに、『歳が離れた義妹』と、その次からはとても優しかった。
カナはどちらかというと、学生時代にそういう風変わりな芸大の仲間とお祭りみたいに騒いで過ごしてきたので、性に関してはあっけらかんとしているところがあった。
幾人かの男と寝て、バカバカしいことも、危ないこと一歩手前も、または純粋に求め合って切なく泣くことだってしてきた。
そういう『バカ騒ぎ』みたいないい加減な青春を体験した義妹としては、義兄のセックスはいたく真面目で紳士的と感じた。
そんな義兄も、カナの風変わりな煽りに最初は困り果てていたが、やがてそれが刺激的だったのか、本当は彼に合っていたのか、それが『わたしたちだけが成せるもの』だったのか、いまの義兄は『カナの風変わりな要求』に滅多なことでは驚かない。
義妹が仕掛けた煽りに乗って、結局、最後は自分が夢中になっている。『俺はこんなんじゃなかった』とぼやいている時がある。
年の差かと義兄はいうが、ただ義兄がそれまで真面目だっただけだとカナは思っている。
そして……。こんな義兄を知って、カナは思う。
姉はこんな義兄との夫婦生活を退屈に思っていたことだろうと。
でも、カナとはこうしてうまくいっている。本当なら、姉だって……姉だって……
カナは首を振った。やっぱり姉と義兄には無理があったとしかいいようがない。
でもカナはこんなに満たされているのに。義兄と五年、最初は噛み合わないこともあったけれど、カナの風変わりな要求でも、義兄は面白がって応えてくれて、最後はふたりで楽しんでいるのに。
だが、やはり姉にとって夫婦生活なんて無理があったんだ……と、最後にカナはため息をついて、終わりにする。
カナ、誰にも言わないで。お願い
大学時代、姉と義兄が夫妻になって一年もしない頃。
突然、山陰の実家にいるはずの姉が広島で学生生活をしているカナのマンションを訪ねてきた。
姉のカラダに異常があった。ところどころ傷めた跡があった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
肌寒くなって目が覚める。
庭の窓を開け放したまま、しばらくうとうと眠ってしまっていたようだった。
けだるく起きあがり、カナはよろめきながらバスルームへと向かう。
熱いシャワーを浴びて、目を覚ます。
そうすると今度は『ああ、食べたい』と食欲を取り戻している。
今日は一の坂川まででかけて、あのカフェで夕飯を取ろう。渋い赤ワインを一杯、つけて……。
やっといつもの『暮らす人』に戻れる。
ガラスのことを忘れて。ただの三十を少し越えた『おひとりさま』の気ままな女に。
突然だった。誰もいないはずなのに、バスルームのドアが開いた。
ドキリとしてびしょ濡れの裸で振り返る。
「に、にいさん」
新橋色のネクタイをしている義兄が立っていた。
「帰らなかったの」
また思い詰めた目で、びしょ濡れで裸になっているカナを見つめている。
その目にカナの胸が騒ぐ――。
「そのつもりだった」
「だったら、どうしたの。なにかあったの」
シャワーのコックを閉めようとすると、義兄はジャケットを放って、襟元のネクタイをもどかしそうにほどく。
「流したんだな、俺の跡を」
なにが言いたいのだろう、なんでそんな仕事の時のような怖い顔をして怒っているのだろうと、カナは顔をしかめる。
「いまじゃないよ。もう汗と一緒に流れたの。朝、そう言ったでしょう」
汗と一緒に兄さんの体液も、私の体液と混ぜて流しきって、そして……。
「その時。おまえは俺を無にしようとしただろう。いや無になっただろう」
驚かされる。カナの感覚を義兄が掴んでいたから。
それならと遠慮なくカナはいう。
「じゃあ、義兄さんと昨夜やったカタツムリごっこのあのべたべたしたのをガラスに映せば良かった? そういう作品を義兄さんの工房に並べるの。私たちのセックスが丸見えの……」
『工房主だぞ、バカにするな』、そう小さく言い捨て、新橋色のネクタイを床に放った義兄が、服を着たままバスルームに踏み込んできた。
まっすぐにカナの裸体にとびついてきて、力強く抱きしめられる。湯が滴り落ちる背に、白いシャツも黒いスラックスもかまわず濡らした義兄が抱きついてくる。
義兄の手が、素肌のカナを掻き抱く。
「や、やめて、よ……」
「俺を煩わしく思って、わざと俺の跡を身体につけて……、それで流しきって、俺の何もかもを無にした時、おまえは最高のガラス職人の顔になっている」
ずぶ濡れのスーツ姿のまま、裸のカナをそうして抱きしめて離してくれない。
「それは許す。俺を無にしても。だから今夜、跡をもう一度つけておく」
だめ、それはだめ。もう女に戻ってしまったわたしを抱かないで。言葉で言わなくても黙っていても、カラダで知られてしまうから。
「カナ、今日はカナだな」
昨夜はガラスを造る女を思って抱いた。今日はやっと俺の義妹のカナ。おまえを抱きたかったんだと、義兄が吐息混じりに囁いて、後ろからカナを抱きしめるだけ。
そしてカナはそんな男を許してしまう。今日こそ、身体の芯からカナという女の性で義兄に抱きついてしまうだろう。
「にいさん。やっぱりずるい」
カナのなにもかもを知っていて、カナの波に合わせて、昨夜も今朝も知らぬ顔。なにもかもわかっていて……。やっぱりアナタは敵わない義兄様。
そうしてなにもかもを、勝手に俺のものにしていくんだから。
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