6.結婚なんていわないで

 もう一度、おまえに跡をつける。

 義兄がつけた跡は、よくあるくちづけの赤い痣と甘噛み。


 にいさん。

 カナもこの時はなにもかもを忘れて、愛してくれた義兄を抱きしめてしまう。


 まだカナの胸元で休んでいる義兄をそっとのけようと、カナは寝そべっていたベットから起きあがろうとする。起こそうとした素肌のままのカラダをまた義兄に押し戻され、カナの頭は再びふんわりとした枕に沈められる。

「カナ。さっきから気になっていたんだが」

 湿っているカナの黒髪を額でかき分けながら、義兄がカナの顔を見つめる。

 じっとそのままカナの鼻先に、義兄の鼻が触れるほど間近でじっとみつめたまま……。

「なにが……きになっ……」

 聞き返そうとした途端にキスをされる。深く奥まで愛されたカナは『んっ』とうめいた。

 でも、もう、それだけで。そうしてアナタが私を深く見つめて、触れてくれるから。今夜は昨夜とは違う。肌の温かみが愛おしく、カナを満たしていく。それはもう女の感覚、昨夜の、何かを削ぎ落とそうと尖っていたカナとは違う。優しくこの人を抱きしめたいと思っている。

 やっと離してくれた義兄がおかしそうに笑った。

「なに、もう。義兄さんたら」

「だってな。おまえの腹が時々鳴るんだよ。笑い出したいのを堪えていた」

 その通りだったので、カナは頬を熱くした。そして今日は義兄の背中をバシバシ叩いた。

「だって朝、食べたきりだったのよ。これからごはんを食べにでかけようとしていたら、義兄さんが勝手にこんなにしちゃったんじゃないっ」

 それに、男と女が事に及んでいる最中のそんな生理現象は、知らないふりをして流して欲しいのに。それをわざわざ口にして笑って、そうして恥ずかしがるカナを見て楽しんでいる。意地悪なお兄さんの顔が憎たらしい!

「悪かった。俺も腹減っている。いまから行くか、そこに。にいさんがご馳走してやる」

 ご馳走してやるのひとことで、カナは黙ってしまった。しかもこういう時に『お兄ちゃん』の顔でいう。おまえ、ここで俺を頼っていいんだぞ。兄ちゃんなんだから、という顔なんだから。悔しいけれど妹ならそりゃ甘えてしまうところ。

「渋い赤ワインもオマケにつけてやる」

「ううん、今夜は白ワインだもん」

 カナも『渋い赤ワインをつけて』と楽しみにしていたのに。まるでおまえの好みはなんでもお見通しと得意げな笑みをみせた兄さんが憎たらしいから、カナもいつもの天の邪鬼、ツンとして見せた。

「あははは。わかったわかった」

 その天の邪鬼も見抜かれていたのか? なんだか義兄はそこでお腹を抱えて笑っている。

 四十のおじさんが素っ裸でお腹を抱えてベッドで笑い転げているだなんて、滑稽すぎる。……滑稽……と言いたいけれど、これまたカナの困ったところ。そんな義兄さんがしかめっ面をといて少年みたいに和んでいる姿がまた愛おしすぎる。

「もう、嫌い。ほんと嫌い」

 愛おしい気持ちを誤魔化すために、そうしてぷっとむくれてそっぽを向くのも天の邪鬼。

 義兄はいつまでも笑っていた。


 

 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 一の坂川は、西の京であるこの街の真ん中に流れている小さな川。

 もうすぐ天然記念物の『源氏ほたる』が飛び交う季節。

 サビエル聖堂の麓からそう離れていないので、カナはいつも古い小道をゆっくり歩いて川沿いのカフェへ向かっている。

 今日は義兄さんも一緒に。クールビズの青いシャツに着替えた彼と並んで歩いていく。

 小さな川の小さな橋を渡ると、そのカフェがある。高いビルなどはいっさい立ち並ばず、ここは町屋の軒並みの雰囲気のまま店舗が並んでる。派手な照明もなく、ほんのりとした灯りに包まれる程度の。

 さらさらと流れる一の坂川のせせらぎを側に歩いていると、義兄が川の水面を見て呟いた。

「もうすぐ『ほたる祭』だな。今年もわたるを連れてくる」

「うん。待っているって、航に言っておいてね」

 この小さな川に無数の蛍が舞う季節も目の前。その時になると一の坂川は人で溢れる。それでも静かで柔らかな灯りしかない川沿いだからこそ、蛍の光が幻想的に浮かび上がる。

 甥の航は、その『ほたる祭』を毎年たのしみにして、カナの家に泊まりにやってくる。

「今夜、帰る予定だったんでしょう。航が待っていたんじゃないの」

 なのに。カナの家に戻ってきてしまった。義兄もそこはバツが悪そうに黒髪をかいている。

「帰るよ、おまえと飯を食ったら。航にもお義母さんにも、遅くなるけど帰ると伝えておいた」

「それならいいんだけれど」

 だったら義兄さんは一緒にワインを飲めないじゃない。一時間半ぐらいかかる実家まで車を運転するならば……。

 どうして戻って来ちゃったの。と聞けないまま。

 そして義兄も無口に黙ってしまったまま。


 町屋で古民家も残っている川沿いの通りだけれど、カナがよく来るこのカフェは英国風の庭を思わせる玄関で、店内もイギリス的アンティークの雰囲気。

 休みの午後はここで、お茶をしながらのスケッチをすることも良くある。おひとりさま暮らしの時には、ここでおもいっきり美味しいものを食べるのも、カナの密かな贅沢。

 店は日中の方が空いていて、夜はけっこう客がはいっている。SNSの口コミでやってくる観光客も多いようだった。

 ほのかな街灯の下でひらひらと、そよいでいる柳が見える席に義兄が選んだ。

 メニューを広げたが、カナはもう『今日はコレ』と決めていた。

「ビーフシチューのセットかな」

 そしてメニューで顔をちょっと覆って、ちらっと義兄を見てしまう。

 義兄はゆったりとソファーに座って、穏やかな眼差しで窓辺に見える柳の葉先を見つめている。

「と、赤ワイン」

 小さく呟く。すると窓辺を見ていた義兄が拳で無精髭の口元を押さえて、笑いを堪えているのがわかった。

 それでも『ほらな、やっぱり俺が思ったとおり。おまえ、赤ワインが飲みたかったんだろう。素直じゃない』なんて言い返してこない。その代わり……。

「この天の邪鬼」

 と言って、一度くすりと笑っただけだった。

「じゃあ、俺も同じにする。ワインはなしだな。残念だ」

 私も――。素直になれば言えるのに、そういうことがいちいち言えない。

 オーダーをした後、すぐにカナの前にだけ赤ワインがやってくる。それを義兄にグラスを向けて『いただきます』とご馳走になる。

「おいしい~。はあ、やっとひといき」

 朝食を食べたきり、ずっとガラスに向き合っていてランチも取らなかった。出来上がって、今日の工場の注文分をヒロと造って、夕方はぐったり。やっと感じた空腹を満たそうとしていたら、義兄が予定を狂わせて……。

 人心地ついたカナを見て、義兄は静かに笑っているだけ……。

 でも急にいつものあの顔で、カナに尋ねる。

「五回目の出来はどうだったんだ」

 もう工房主のシビアな眼差し。

「うまくいったと思っています。明後日、冷却後の出来で色合いなどを確かめてみないとまだわかりませんけれど」

「そうか。先月みせてもらったスケッチの中にあった、あの青い大杯か。確かサイズは人の頭より大きいものだったな」

 『そうです』と、部下のように返答すると、今度は義兄が社長の顔で唸る。

「あの大きさだと造るおまえは大変だろうが、あれが出来たら良い商品だな。たのしみだ」

「豊浦の海のような色合いがでているといいけれど……」

 形よりもそこがこだわりで、もう四度も出来上がりをたたき割ってきた……。あれは辛い。でも失敗作は残さない。陶芸家と同じ心構え。

 そうなったら嫌だなと悪い方向を思って、ワインを飲みながらカナはため息をそっと落とした。

 店内はいつも古い洋楽がかけられている。これもお気に入りで――。するとよく知っている曲が耳に入ってきた。

 【 Joanna / ジョアンナ 】。

 《Kool & The Gang / クール&ザ・ギャング》の曲が。

 ワイングラスを傾けながら、カナはその音を探すように宙をみつめる。とても好きな曲。

 あ、これ好き! と、普通なら恋人にはしゃいで言うことも、カナはすぐに躊躇ってしまう。

 すると義兄がなにか思い出したようにぽつりと言った。

「カナ、これ好きだったな」

 また。言わなくても見透かされていて……。今度は泣きたくなる。カナはワインを多めに煽る。

「懐かしいな。カナが俺の部屋から最初に持っていった曲だ」

「え、そうだった?」

 確かに。姉と義兄の新婚新居にお邪魔した時、義兄が持ってきたいろいろなコレクションを物色させてもらって楽しんだ記憶がある。

 音楽に映画に、書籍。男の兄弟がなく、姉妹で過ごしてきたカナには『新しいお兄さん』が持ってきたものが新鮮で仕方がなかった。

 でもどれを最初に持っていったかなんて……、覚えていない。

「もしかして。私がジョアンナを好きになったのは……」

 義兄さんが聴いていたから?

「おまえが持っていくもの、俺が好きなものばかりだったな。おまえが気に入って広島の下宿に持っていってしまって、それでもいいかと思うほど喜んでくれて」

 帰省した時にちゃんと返却はしたが、確かに長期間借りっぱなしだったことが多い。

 カナはグラスを置いて、その曲を聴き入る。

 テーブルに何気なく置いていた手のひらに、義兄の手が触れた。

「この歌詞……」

 知っている。でも、言わないで。

 男性の溢れる恋心が切なく熱烈に綴られた歌詞だって。知っている。

 義兄も黙っている。言えば、天の邪鬼は『嫌い』と言わなくてはならない。

 だけれど、義兄の手がさっと退いていく。向かいの彼を見ると、またあの思い詰めた目。

 その思い詰めた目で、彼が重そうに口を開く。

「カナ……。航のことなんだが」

 あれ。いつもの息子の話? またカナがドキドキしながら『イヤ、嫌い』と素直になれない嫌な態度をしなくちゃいけないことではなくて、少しホッとする。

「航がどうしたの」

 でも。義兄の思い詰めた顔は緩まない。

「まだ先の話だが、地元の中学を卒業したら、この街に出そうと思っている。お義父さんもお義母さんも航の学力のために賛成してくれている」

「ああ。良いと思うけど」

 こちらの地方では珍しくはない話。余裕がある家庭なら、過疎化が進んでいる地元の学校よりも、この県庁所在地の都市にある高校へと送り出すのはよく聞く話。

「すぐそこの、私学の進学クラスが有名じゃない」

「公立を狙っている。総理大臣が出た学校な」

「狙うわね~」

 そここそ、県内随一の名門公立校だった。地方は公立高校の方が名門であることが多く、この地域でもそうだった。

「だが、寮に出すのではなく。カナのところに下宿させようと思っている」

「もちろん。航もそのつもりで、義兄さんと、うちのお父さんとお母さんが賛成しているなら、わたしも協力しますよ」

 なんだ。やっぱり、息子の話。いつもの義兄さんの話。カナも緊張が解けてくる。義兄が男の顔をして思い詰めている時が……、いちばん怖い。押し迫るようなことを言いだして、一気にこの関係が崩れるようなことはして欲しくない。

 そう。わたしもずるい。素っ気ないふりをして、天の邪鬼に素直になれなくても、ずっとこのまま、義兄と義妹のままでいいから、義兄さんが通って愛してくれればそれがいちばん良いと曖昧に濁し続けている。

「そうなんだ。航がこっちに来るのね。航が高校生なんて、なんか信じられない」

 でも楽しみと、だんだんと大人っぽい少年の顔になってきた甥っ子を愛おしく思い描く。

 なのに、義兄さんはまだあの顔――。妙に力んでいて、そしてうつむいて。仕事の時のような怖い顔を通り越して、泣き出すのではないかと思わせるほどの……。

「耀平にいさん?」

 やっと義兄がカナを見て言う。

「航がカナの家に住むなら、俺もこっちを本宅にしようかと思っている」

 え……? 三人で住む??

「航もそれを望んでいる。あいつが受験する時になってこんな事を言うと、きっとカナも戸惑うだろうから、そうなる前に、そろそろ言っておこうとは考えていた。だが、今夜とは思っていなかった」

「ど、どうして……今夜……」

「おまえが好きなものは、俺も好きなものだ。俺が先に好きであっても、おまえも好きになる。そうジョアンナのように」

 そして義兄が、あの眼でカナを、切なく見つめる。

「やっぱりおまえだと思う」

 いや、もう、言わないで……。

 嫌な予感。でもとうとう義兄が言う。

「結婚しないか」

 この感情を抑えるために、平静を保つために持とうとしたワイングラスを倒しそうになる。手が震えている。

 でもカナはその手もテーブルの下にひっこめて、身体全体が震えないよう必死に堪える。

「わかっている。おまえがなかなか俺にすべてを委ねられないことも。俺はおまえの姉の夫だった男だ」

 そんなんじゃないよ。にいさん。違うの、兄さん。

 兄さんが、わたしの前に誰とつきあっていたかなんて……。本当はどうでもいいの。それが例え、姉でも。

 言えたらいいのに、言えない。それを言っても、姉の秘密が結局のところカナが義兄を拒む方に向かわせる。それなら姉の夫だから素直になれないとしておいた方が、義兄にはマシというもの。

「おまえを小樽から勝手に連れ戻した。だから、これで最後にしようと思っている。これでカナに断られたら、おまえを自由にしようと思っている」

 その決意にもカナは驚かされた。

「じ、自由って……?」

「小樽にいた頃、琉球ガラスもやってみたいといっていただろう。あの家を出て沖縄に行きたいなら、それをバックアップする。おまえのパトロンはやめない。だが……」

 この関係は息子と三人で暮らす前に決着をつけておこう。そういうことらしい。

「……わたしが断ったら。沖縄に行くと言ったら、航の下宿はどうなるの」

「俺がこの街で一緒に暮らしてもいいし、ここで子離れ、寮に出してもいいとも思っている」

 つまり。カナがいてもいなくても良いということではないか。

「だが、俺は。おまえを離さない。一緒に暮らしたい」

 やっと彼がひと息つく。いつも静かにどっしり構えている義兄が、冷たい水のコップを急く手で掴んで、ごくごくと飲みほした。

「来年でも良いかと思っていた。だが、いま、この曲を聴いたおまえの嬉しそうな顔を見たら……。だめだった」

 たぶん。カナは青ざめていたのだと思う。義兄はそんなカナを見て、ほんとうに困った顔をしていた。

「そんな顔するなんてな」

「……突然、だったから……」

 それでも。愛しあっているなら、少しでも俺を想っているなら、そんな顔をするもんか。義兄はそうはいわなかったけれど、でも、きっと男として心で思っているはず。

 こんなふうに彼を哀しませたくなかったのに。そしてカナだって……。

 その時、義兄の表情がいつものしかめっ面に戻る。笑う時は柔らかそうな皮膚がカチンと石膏で固められたように。

「ここまで来たから、思い切って聞く」

 その顔で義兄が、こんな時に胸を張って威風堂々とした毅然とした姿でカナに向かってくる。

「おまえ。美月からなにか聞いていることがあるんじゃないか」

 これほど心臓が大きく動いたことはない。ここが義兄が自分の胸元でくつろぐベッドではなくて良かったとどれほど安堵したか。それほどすぐにわかってしまう動きをした。

 なに。どうしてそんなことを聞くの? 義兄さん、なにを思っているの? だけれど、カナも万が一を予測して心の準備はしてきた。だからワイングラスを今度は冷静に手にして笑ってみせる。

「姉さんから聞いているって……どういうことを?」

「わからないから聞いている。妹のおまえしか知らないことが、邪魔をしているような気がしてならない」

 当たっていた。そして驚きを隠せない。なにも知らないと思っていた義兄が、疑念を抱いていたなんて。

 それって、どんな疑念なの? 今度はカナが聞きたい。

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