4.愛なんて、無粋


 炉の火は早く入れたい。作業が出来る温度まで引き上げなくてはならないから。

 早朝に火を入れるため、カナの朝は早い。


 望んだとおり、義兄のもので肌がべたついている。

 洗い落とそうとは思わない。それも最初から決めていた。この身体で今日は仕事をすると。

 昨夜の素肌のまま起きあがり、ベッドの縁に腰をかけ、目を覚ます。

 彼はまだ静かに眠っている。そっと出て行こうと立ち上がろうとした。

「もう、火を入れる時間か」

 立ち上がろうとしていたのに、男の手がそっと引き止めた。

「うん。義兄さんはまだ眠っていて。朝食ができたら起こしてあげる」

「うーん……」

 と眠そうに唸って、でも、手を離してくれない。

「義兄さん」

「最近、朝が早く感じる。すぐにカナが逃げていく」

「なにいっているの。離して」

 すこしずつ明るくなってきた窓の側で、カナの白い裸体が徐々にはっきりと浮き上がる。

 毛先があちこち跳ねたままの黒髪に、朝の空気で硬めにふるえる皮膚、そんな起き抜けの姿が――。

 そんな義妹の朝だけの裸体を、義兄はじっと名残惜しそうに見つめている。

 昨夜、変な煽りで義兄を困らせたのはカナだった。でも朝に困らせているのは……。

 なのにすぐ、にやりと無精髭の口元が笑う。

「こっちにこい」

「いや」

 掴んで離さない手をひっぱり、また強引にベッドに、自分の隣へと引き戻そうとしている。かと思ったら、パッとその手を離された。その反動でカナはベッドの下に落ちそうになる。

「に、にいさん!」

「寝る」

 急に真顔になって毛布を被ってしまう。

 もう~、なんなの。この兄さんは! 平然と毛布にくるまった男をカナはバシバシと叩きたくなった。

 いけない。ムキになったらいけない。そんな『本当の兄妹か夫妻みたいになるもんか』と抑えに抑え、やっとベッドを降りる。

 身支度を始める。灼熱の炎を目の前にガラスを吹くので、化粧をしても落ちるから、簡単に肌を保護する手入れをするだけ。

 肩までの髪は結んでしまう。汗を吸い取ってくれるタンクトップと、綿のシャツ、そしてカーゴパンツ。それが仕事のスタイル。

 工場用のエプロンをして、ヒモを腰に一周巻き、前で結ぶ。

 そこまで支度が済んでベッドへと振り返ると、もう義兄はすやすやと再度の眠りについていて、カナはまた腹立たしくなったりした。


 キッチンの勝手口を出ると、義兄が自宅の裏に建てた製作所がある。

 飛び石を渡って炉がある工房にはいる。もう既にむしっとした熱気がこもり始めていた。

 なるべく早く火をいれないと、作業工程のスケジュールがずれていく。特に今日、この気持ちにこのモチベーションに持ち込めた。だからタイミングを逃したくない。とにかく火を入れなくては……。そう急く気持ちで赴いたのに、もう炉には火が見えた。

 炉の火を眺めている男がひとり。頭にタオルを巻いた姿で、カナの気配を知り振り向いた。

   

「おう。火を入れといたぞ」

「ヒロ。ありがとう」

   

 吹き竿にリン紙、ガラスの形を作り出す洋バシにピンサー、パドルなど。もう必要なものが並べられていた。そしてふたりで打ち合わせをする時に使っている長机に、カナのスケッチが開かれている。

「今日で五度目のチャレンジだ。カナ先生が納得できる出来映えだといいけどな」

「ヒロ先生には何度もつきあってもらって申し訳なく思っている」

 互いにワザと『先生』と呼び合って茶化し、笑う。

 でもカナはため息をつく。

 『次はこれを造る』と決めた次作が、思うとおりに出来上がらないこと二ヶ月ほど。何度も彼と制作過程を話し合って、彼にも手伝ってもらっているのに。

 妥協したらそれで終わり。そして妥協した作品だという密かな汚点も作品に残したくない。そんな想いが、ちょっとの違和感で、せっかく出来たのに『ただのガラスの塊を造ってしまった』と粉々に砕いて無にしてきた。

 それは芸大の同期生である『徳永浩朗(とくながひろあき)』も良くわかっているので、何度でもつきあってくれる。逆に彼が創作する時は、カナがアシスタントに徹する。

 いま手がけている作品は今日で、五度目のチャレンジ。なかなか思うとおりに仕上がらない。色合いも些細な形状も、カナは納得できず、仕上がっては金槌で割り壊すを繰り返していた。


 だから、昨夜、ついにあんなふうになった。無垢になれなくて、その煩わしさは発散させておきたいと。

 いつも無垢な心で制作できる訳でもない。ちょっとした些細なことが手元を狂わせる。

 無垢になりたい、無垢に。でも人が無垢になるなんて……。


「今日はいけそうだな。俺、わかる。おまえ、すっきりした顔しているもんな」

「そういう言い方やめてよ」

 ヒロはなにもかも知っていて、ガレージに停めてある黒いレクサスを見てにやついている。

「兄貴が来ていて、なにもないはないだろう」

「うるさい」

 だがそこでヒロが真顔になる。

「わかっている。男に愛されてスッキリ、心が満たされて……。じゃないんだよな、おまえは。『野生と賢者は紙一重』。俺もそうだもん」

 そんな同期生の彼が、工場にかけてあるすすけた壁時計を見上げる。

「いけよ。社長に朝飯食わして、見送るんだろ。俺が火を見ているから」

 義兄は父の会社では副社長だが、工房では社長なので職人達はそう呼ぶ。

「わかった。八時には来るから」

「まかせとけ」

 炉に燃えさかる炎に向かう同期生の顔が、職人になる。


 朝食が出来上がったので、まだ眠っているだろう義兄をお越しに向かう。

「義兄さん」

 ドアを開けるともう、クローゼットの前で身支度を整えていた。

 カナの部屋なのに、カナのクローゼットにいつでも着替えられるスーツとネクタイとワイシャツ、ネクタイピンにカフスボタンが揃っている。

「ヒロはもう来ているのか」

「うん。火を入れに来てくれていた。……今日で五度目なの、わたしの」

 へえ、と義兄が意外そうにカナを見下ろした。

「それって、ほんとうに造りたいものなのか。いつまでもこだわるばかりで仕上がらないなら、やめろ。非効率だ」

 創作に非効率と言うとは……。しかし、だからってどんなに創作は縛られずするものだったとしても、商品となるならば排除されて良い精神でもない。

 こんなところ、この人はやはりビジネスマンで社長で、職人を瀬戸際で管理する人なんだなと思う。きっとカナや工房の職人達はこの人に守られて、好きなガラスを造ることができるのだと。

 今日はストライプの織り地がある白いシャツと、相変わらず癖のように『黒いネクタイ』を手にして結ぼうとしている。

 背が高い義兄の傍にいき、カナはクローゼットに手を伸ばした。

「これがいいと思う」

 実家がある豊浦の青い海を思わせる、新橋色のネクタイを差し出した。新橋色、または金春色(こんぱるいろ)。いわゆるターコイズブルー。これからの季節の色。

「……うん、いいかもな」

 はっきりした色合いのものを自分で選ぶのが苦手な義兄。でも、そのネクタイを手にとって黒いネクタイと入れ替える。

 爽やかな新緑の向こうに待っている色。いまなら五月晴れの空を思わす――。

「お、悪くないな」

 ネクタイの結び目を整えながら鏡を見た義兄が嬉しそうに微笑んだ。

「季節の色だからでしょう。秋にその色をしようとしたら、それは落ち着かないでしょ」

「なるほど、ね」

 ネクタイを結び終えた義兄は、次にカフスボタンを選ぶ。今日はターコイズのカフスボタンを選んでくれ、それをワイシャツの袖口につけている。いつかカナがプレゼントしたもの。

「そうか。おまえ、これを使って欲しかったのか」

 急に義兄が意地悪そうに、にやりと微笑んだ。

「え、違うよ。たまたま今日、お天気だから。そんなネクタイをしていたら……」

 素敵だろうなと思って。と、言いそうになって口をつぐんだ。口が裂けても、義兄さん素敵なんて言うものか――と。

 でも。そう思って選んだネクタイに、義兄が感覚で同じ色合いのものをなにも考えずに手に取ってくれたのが……嬉しい。

 そんな使って欲しくて、わざとそのネクタイを選んだ訳ではないのに。そんな下心があったと思われても仕方がない状況に陥っていた。

 ちょっと頬が熱くなって、カナはむくれていた。思わぬ穴に落とされた気分。嬉しいやら、心外やら、黙っていると義兄のふっと柔らかく笑った息が落ちてきた。

「カナ」

 ネクタイをしたばかりの胸に、義兄の大きな手がカナの頭を抱き寄せる。

 そのまま長い腕が、カナの背中を囲んでまた抱きしめてくれる。

 まっさらな白のワイシャツから、彼のいつものトワレの匂い。海と風の、マリンノート。

「毎日、おまえが空や風や緑や季節の花に、旬の食べ物。それを五感で触れることを大事にして暮らしていることわかっている。工芸職人はそんな感覚を持つものが多い」

 下心なんてないと、今日の空気を感じて俺のために選んでくれたとわかっていると言ってくれている。

 ぎゅっと胸のワイシャツを握りしめて、おもいっきり頬を埋めて、昨夜吸いついた胸に抱きつきたい。『義兄さん、好き』て抱きつきたい。でも、出来ない。あんなセックスが出来るのに、裸でない時のこれが出来ない。

 それでも義兄は愛おしそうに、カナの頭を撫で、黒髪にキスをしてくれる。

「朝、洗わなかったのか」

 昨夜、俺が汚したままなのかと、彼が静かに聞いてきた。

「洗わない。今日はこのまま汗をかくの。汗で落とすの」

 彼の胸を突き放し、カナは部屋を出ようとする。義兄のちょっと疲れたようなため息が聞こえた。

 カナもドアを締めて、ため息をつく。

 いいじゃない。アナタの胸に素直に甘えられなくても、今日一日中、アナタでべたついた肌でアナタをずっと傍においていたいと思っているんだから――と。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 今夜は? 帰るの、また来るの。

 今日は湯田温泉で観光協会の会合だ。それが終わったら豊浦に帰る。

 そういって、義兄は出て行った。


「はじめるよ」

「よっしゃ、こい」

 吹き竿は約130センチ、ステンレス製。ガラスの原料を溶かしている『溶解炉』に先を入れ、ガラスを巻き取る。

 とろとろと落ちてしまいそうなオレンジに光るガラスを竿先につけたら、もうこの時から常に回転をさせなくてはならない。

 新聞紙にずっしりと水を吸わせた『リン紙』を片手に、そこに高熱のオレンジのガラスを乗せる。そこで形を整え、ここで吹き竿を口にくわえ、最初のブロー。息を吹き込み、『下玉』を造る。

 また吹き竿を溶解炉に入れ、ガラスを巻き取る。おなじようにリン紙で形を丸く整え、またブロー。『上玉』を造る。

 まだこの時、ヒロは跪いてじっとカナを見守っているだけ。

 軍手に、すすけたカーゴパンツに、すぐに汗でぐっしょりと肌に貼り付くシャツ。汗まみれの顔に、スタイリングなど必要のない湿った髪。そこにカナも男達のようにタオルを巻いて長い吹き竿を構え、炎と熱く溶けるガラスに向かう。

 焼き戻し炉で再加熱をする。始めたばかりの頃は、この焼き戻し炉でのガラスの状態を見極めることが出来ず、冷えすぎてダメにしたり、熱しすぎてガラスが垂れ落ちたりして台無しにしたことも何度も。芸大を含め、ガラスを始めて十四年。いまは炉の中で赤く光るガラスの色や重さを目と手で感じることができる。

 ふたたびブロー、リン紙を使って形を整え、作業台で竿を回して大きなピンセットのような鉄製の洋バシで思う形に創作していく。

 グラスなどを作成する大きさとは異なるため、カナひとりの力では作業ができないこともある。そこでヒロがサポートしてくれる。本来はカナが竿を回すところを、ここでヒロに回してもらい、カナは両手で大きな洋バシを握り、その先で口になるところを丸く整えたり、縁に湾曲をつけたりする。

 模様入れの時も、ヒロがいないと出来ない。ヒロが違う竿に溶解炉のガラスを巻き付けてきて、今度はそれをカナが回す竿の先にある創作するガラスに垂れ落とすアシストをしてくれる。

「ゆっくり、波形だったな」

「端はわたしが掴んで動かすから」

「わかった。カナの手の流れに合わせる」

 ヒロが高く持ち上げる竿から、水飴のように垂れ落ちてくるガラス。それがカナが回す竿の先にある大玉に落としてくれる。

 それをカナが竿を回して必要な分だけ巻き付け、鋏で切る。

 熱く溶けているガラスは少し冷やされ固まり始めても、まだ布のように柔らかで、ここでカナは思う形に切り整える。

 大きな杯に取り組んでいる。女だてら、長い竿の先に大玉の作品。人間の頭ほどの大きさになると重いし、まだ柔らかいガラスが垂れ落ちて形を崩さないよう常に動かす腕には筋力がいる。

 灼熱の炉の前で何度も何度も回し、外に出しては床に大きく広げたリン紙に置いて形を整え、常に竿を回して、大きな鉄のピンセットや洋バシ、鋏で変化を作る。

 くるくると回している内に、小さかった口が広がり大皿のような形になっていく。

 一時間なんてもんではない、数時間、こうして竿片手に回しっぱなし。

 それでも竿の先で、ガラスが変化を起こす。赤く燃えていた色が、徐々に冷えて青みを増していく。

 そう、今日の空のような色。生まれた街の海のような色。日本海のコバルトブルー、浅瀬のターコイズブルー。義兄さんに勧めた今日のネクタイ、新橋色……、金春色……。

 昨夜、男と激しく抱き合った女がガラスを吹く時――。男に愛され満たされた想いいっぱいに、燃えるガラス玉に吹き込んでいる……なんてわけではない。

 むしろ、激しく抱かれたから、今日は無垢になれる。

 男に愛してもらった。だからって、いまここで彼を想う切なさや、やるせなさや、痛さにときめきなども、溢れ出そうな想いを燃やしてぶつけるものでもない。

 そんな人の生々しい感情をぶつけた物体など、他人に使わせたくない。抑えられない甘やかな情愛と、粘液をぬらぬらと残しながらねっとりと進む蝸牛。それなら、いま竿を回し、青く透き通っていくガラスを一心に見つめるカナは『輝く粘液をまとう蝸牛』を想う。

「くそ。この季節になると暑いな。カナ、水ぐらい飲めよ」

 竿を放せない時間が続いている。それでも今度こそはと気を高め、集中しているカナを案じて、ヒロがミネラルウォーターを差し出してくれる。

「いらない」

 汗びっしょり、カナの頬に伝う。真っ赤な炎の炉の前で、カナはそれだけを見つめている。毛穴という毛穴が開いて、身体中の水分が絞り出される。水のようにさらさらと流れる汗が、昨夜、義兄が愛撫してくれたぬめりを落としていく。わたしの汗と混ざって、ひとつになって。でも冷めて蒸発してなくなっていく。それは蝸牛と同じ、粘液を体液を滲ませた身体で、いつもの顔で進んでいく――。

 そういうなにもかもが『自然の理』だと想うことが、ガラスの存在と繋がっていく。そのガラスに、剥き出しの恋情や愛などを形にするなんて、無粋だ。

 ガラスにはそんな掟があるようにカナには思えて仕方がない。元は岩、そして砂。大地から与えられたもの。それをこんなふうに形に変えるのは人。ガラスは自然の理を見せてくれる。

 しがらみに囚われた人間が思い悩むままガラスに触れると、お粗末なものになってしまう。少なくともカナは……。

 出来上がったガラスは、急激に下がる温度で割れないよう、温度管理をされた冷却炉でゆっくりと冷ます。二、三日かかる。


 五度目のチャレンジを終えた。今度はうまくいく予感がある。

 なにもかもが『理(ことわり)』だとガラスが浄化してくれる。

 あの人とセックスをするのも理。

 それなら。姉の秘密も理と言ってもいいだろうか。

 姉の秘密を隠したまま、義兄に愛されている。その罪さえも。理でいいのだと……。


 まっさらなアナタの白いシャツの胸で、いまはくつろげない。

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