21.わたしが選んだ自由


 その人は、今日も変わらず窯の火を見つめていた。

「おはようございます」

 いつも通りの挨拶をしたはずなのに、大柄な親方がとても驚いて振り返る。

「花南。どうした。もう戻ってきたのか」

 ここを出立したのは一昨日の朝。一日挟んで帰ってきてしまったカナを見て、親方はなにもかもを放って工房口へと向かってくる。

「駄目だったのか」

「いえ。義兄の縁談は破談になっていました」

「そうか。捕まえたか。帰れたのか」

 親方はすぐに笑ってくれた。

「本当の秘密も、姉のことで知っていることを、夫だった義兄に話すことができました」

「そうか」

 そしてカナは、少しだけ躊躇って。そして、深々とお辞儀をする。

「有り難うございました。本当に有り難うございました」

「優しいことなどひとつも言えない男だと、おまえ、よく知っているだろう。礼を言われる筋合いもない」

「だから、です……。だから……、感謝しているんです。初めて家族以外の人に、わたしを見てもらえたから、叱ってくれたから」

 親方も少し黙って俯いた。そしてぼそっとひとこと。

「そんなことしか残してやれないだろうと思ったんだよ」

 カナの目に涙が滲む。

「どうせなら嫌われても残るものがいいだろう。どうしようもない。どうせおまえは実家に返さねばならないと思っていた。最初から最後まで、おまえは兄貴だけだった」

 そして親方の声も、僅かにくぐもっている気がした、本当に気がしただけかもしれないけれど、カナにはそう感じてしまった。

「もういい。そのまま山口に帰れ。実家の工房を守っていけ。それが倉重の娘であるおまえが、いま出来ることだ」

「いえ。ここで残した仕事を片づけてから……。発注分は仕上げてから辞めさせてください」

 親方が黙り込み、そして背を向けてしまう。

「辛いんだよ。辞めると決まった女がまだそこにいるのが。俺だけじゃねえ。兄貴達はそう思っている。奴らにはカナは実家に戻って帰ってこないかもしれないと告げている。リゾートホテル社長の一人娘で、跡取り娘だから帰さなくてはいけない。ここで帰るタイミングは逃してはいけない。突然の別れでも堪えてくれ。会いたい奴は自分から山口に会いに行け。カナはそこにこれからずっといるんだから――と言い聞かせている」

 そんな――。別れはもう、すぐそこに来ていたなんて。

 こんなにお世話になった人達に御礼も言えずに別れるだなんて――。

 いやです。あと一ヶ月、ここにいさせてください――そう叫ぼうとしたら、カナの背後に人影があった。

「カナ」

 義兄が立っていた。出ていく気配を、気付かれていた。そして、カナの後を追いかけてきてくれていた。

 寝起きだっただろうに、義兄は新橋色のネクタイをきちんと締め、いつもの凛々しい黒いスーツ姿だった。

「ほら。迎えが来た。一緒に帰れ」

 初めて義兄と対面しただろうに。まるでもう会ったことがあるような顔で、親方が義兄に微笑んでいた。

 義兄も、親方と目が合うときちんと礼をしてくれる。

「妹が大変お世話になりました。兄の倉重耀平です」

「お兄さんですか。もう、このまま連れて帰ってください」

 耀平兄も驚いた顔を上げた。

「いえ、まだここでの仕事が残っているかと思いますので、最後までこの工房での仕事を全うさせてあげてください」

「お兄さん。あのねですね、」

 親方の目の色が変わった。いつもの厳しい男の顔になって、義兄を見据えている。その男の気迫は、義兄にも通じたのか黙り込んだ。

「迷惑です。花南は迷い猫と一緒だった。はやく連れて帰ってください。懐いた猫から別れを告げられると、もう帰ってこないのかと思うでしょう」

 義兄さんが、カナにも良く見せる困った顔をしている。そう、親方もカナと同じ気質を持っている工芸作家で職人。そういう喩えを多様する人種。それがビジネスマンには通じにくいもの。

「覚えておいてください。花南には湖畔に逃げ場がある。懐いた猫は帰る場所が他にもあるのですよ。二度と放し飼いにしないでくださいよ」

 それは、義兄に言ったつもりで。でも、カナに『いつでも帰ってこい』と言ってくれているのだとわかってしまう。

 そして義兄は、苦々しい顔つきで親方に最後の礼をしてしまう。

「心得ました。本当にお世話になりました。どうぞ山口まで、花南に会いに来てください」

「航にも同じ事を伝えてください。富士の親父がいつでも遊びに来いと言っていたと言ってあげてください」

 それにも義兄は驚いた顔を見せた。そしてカナも……。カナにいつでも来ても良い場所としてくれたように、これから辛い出世の秘密を知ってしまうかもしれない航の逃げ場としても覚えておいて欲しいという気遣いだった。


 カナも観念する。

「親方。お世話になりました」

 でも、ここを旅立った朝のように、もう振り向いてもらえない。


 吹き竿を手にした親方が、溶解炉に先を差し込みガラスを巻き取り、もう仕事を始めようとしている。

 芹沢親方との会話は、それっきりだった。


 夜明けの湖畔を泣きながら帰る。

 義兄も沈痛な面持ちで黙っている。泣く義妹の肩をただ抱き寄せ、アパートまで連れて帰ってくれる。

 その日のうちに、カナはアパートを出て行く支度を始めることになった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 こんな時は、仕事ばかりしている義兄の方が手際がよい。

 すぐに引っ越し業者を手配してくれ、近くにあるホテルの部屋を取り、夜はそこでゆっくり過ごすことになった。


 ホームセンターで荷造りの道具や材料まで、義兄はすぐに揃えてくれた。


 段ボールに、それほどに持ってはいない荷物をまとめる。

 持って帰りたいものだけ詰め、後は処分することにした。


 いつも持ち歩いている仕事用のタブレットでホテルを探していた義兄が、部屋を見渡しながらため息をつく。

「おまえ、ほんとうに質素な暮らしをしていたんだな」

 カナがパソコンも備え付けていないことも、インターネットも繋げていないことにも驚いていた。

 必要最低限の仕事着と、心を和らげる雑貨が少し。きちんと揃えたのは、画材。一眼レフのカメラは元々持っていたものだが、写真が格段に増えた。小さなテーブルを占めているのは、そんなカナのイマジネーションの道具だった。

 その写真束を義兄が手に取り、ひとつしかない椅子に腰を下ろしてじっと眺め始める。

 四季折々、カナがひとりで過ごしていた間に目にしたもの。

「いい写真ばかりだ」

 その中に、ひとつだけ『人』を写したものがある。

 その映っている人物を見て、義兄が嬉しそうに微笑んだ。

「航、いい笑顔だな。山口ではこんな無邪気な顔はしない」

 ワカサギ釣りをした日に、湖や工房で過ごす姿を撮ったものだった。

 まさに父親の顔だった。ほんとうに覚悟をして、父親の気持ちで真剣に真摯に航を育ててきてくれたんだと思うと、やはりカナは泣きそうになってしまう。

「もう、聞くまでもないけれど。航の父親って……」

 金子氏の子供なのか、丸尾という嫌な男の子なのか。それとも見知らぬ男の子なのか。それが怖くて、カナは警察のDNA鑑定の結果を聞かずに家を出ていた。

 写真を見ていた義兄の手が止まる――。

 そうか。このことも話す時が来たのかもしれないと思った。

「美月は丸尾という男とも関係があったんだな。だからおまえは、余計に俺に知られまいと……。もしかして丸尾という男も金子と一緒で、美月が望むことが出来る男だったのか」

「……うん。一度に……その、数人……」

 流石に、丸尾と姉がしたことは乱交的な複数プレイでした――とはあからさまに言えなかった。

「美月のことで、驚くことなどもうない。昨夜、おまえから美月の正体を聞いて、だいたい察した」

 写真束をテーブルに戻し、義兄は持ってきた旅行鞄を開けた。

 そこから、いつか見たような封筒をカナに差し出した。

 でも、もうカナにそんな緊張は与えまいと案じてくれたのか、義兄から言ってしまう。

「金子の子だった。言われなくても、顔つきが似てきている。おまえも一目でわかったんじゃないか」

 やっぱり……! 確かな予感が既にあったので、もう安心はしていたが、それでも確定したことでカナはホッとする。

 改めてその封筒を渡され、カナも受け取る。

 鑑定書の他に、調査書も入っている。

「昨夜、俺が言っていた『金子 忍の調査結果』だ。航の父親だ。調べておいた」

 鑑定書よりも分厚い紙束。カナはそちらを知りたくて、手早く抜き取って開いた。

「結構、厳しい家柄だったようだ。男三人兄弟の次男坊。跡取りに事欠かなかったせいか、その気を見せなかった次男坊は放任していたようだ。三人兄弟揃って、茶道や華道の英才教育を受けていた。たぶん……、美月と同じような生い立ちだったかもな」

 二人が惹かれたのは、そんな似た境遇もあったのだろうか。揃って他界してしまい、もうなんの真相もわからない。

「広島で独り住まい。職を転々としながらも、どこでもそつない社員で重宝されていたようだ。そうなると責任ある立場を任せられるだろう。だがその前に辞めて転職していたようだった」

 すべて『本当の僕を守るためですよ』。久しぶりに、どす黒い本能を完璧に隠しきった、でも優美な笑みを思い出してしまう。

「あとで刑事に聞いたんだが。それでも遺体を引き取りに来た母親と弟は嘆き悲しんで大変だったそうだ。自由気ままに生きる息子だったけれど、困った時はきちんと助けてくれていたと……」

「そ、そうなんだ」

 申し訳なくなりカナは、涙をこぼした。

「航の、ほんとうのお祖母様と叔父様ってことだよね……」

「ああ……。おまえがいない間、その料亭を予約して食事もしてきたよ。最高だった。そしていい店だった。従業員も厳しくしつけているし、母親である女将も素晴らしかった」

 それだけの家柄の次男坊。あの品格が証明される。そして、カナはとても懐かしく思い出している。影のお義兄様だった。どんな生き方をしても、どんなに割り切った顔をみせていても、あの人は姉を愛してくれていたんだと思いたい。そうでなければ、航を守ろうとしなかっただろうし、倉重のことも案じてはくれなかっただろう。

「止めれば、良かった……と何度も思ったの。最後に広島で会った時、丸尾という男の悪さを聞いた時、家族に相談するから無茶はしないでと止めれば良かったと……この二年……」

 影のお義兄様の、あのなんでもやりこなしてくれそうな頼もしさに甘えてしまった。カナは床に伏せ泣き崩れた。

 カナ。耀平兄さんが、背を丸め嗚咽を漏らす義妹を宥めてくれる。

「想う者を『守りたい』と覚悟している男同士として言わせてもらえるなら、彼はやりきったんだと思う。俺ならそう思う。航と彼女の家を守ったと悔いもなかっただろう。若いおまえが家族に相談すると言っても、表沙汰に出来ない事情がある限り、彼は拒否をしたと思う。俺ならそうする」

 でも。カナは後悔している。きっとこれは一生。

「さあ。片づけて、おまえの荷物だけ夕方までに送ってしまおう。今日は、ホテルでゆっくりしよう」

 どうあっても、義妹はまだ悔いていくだろう。それがわかりきっているから、義兄はいつまでも慰めるのが逆効果と思ったのか、カナの周りに集めていたものを一緒に段ボールに詰め込んでくれる。

「うん……。ゆっくりしよう。今夜は湖畔に行こうね」

「ああ。それだけは見て帰らないとな」

 帰ろう。カナも気持ちを切り替える。

 帰ろう。カリヨンの鐘が聞こえるあの家へ。

 帰ったら、シャクヤクの花をあの人に生けよう。お姉さんと一緒に弔おう。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 荷造りを終え、夕には義兄が予約したホテルにチェックインをする。

 別荘地とホテル街は、工房とは反対の湖岸にある。


「どうも駄目だな。同業者のせいか、いろいろ気になってしまう」

 夕食はホテル内にあるレイクビューのレストランで、懐石料理を戴いた。

 ウェイターが来ては、その仕草を見届け。料理が来ては、ひとつひとつゆっくりと味わい、味付けに飾り付けを気にしている。

 その度に眉間に皺が刻まれるので、カナは呆れながら笑った。

「もう義兄さん、やめてよ。顔が怖いんだから。仕事の時の顔になっているよ」

「あ、そうか。つい」

 自分でも自覚があるのか、刻まれた眉間の皺を指先で伸ばした仕草をしたので、カナはもう笑ってしまった。

 そんなカナを見て、やっと義兄も穏やかな微笑みを見せてくれる。

「少しは元気になったようだな」

 親方との突然の別れ。そして金子さんへの後悔。義兄と再会したからこその精算ではあったけれど、やはり精算は哀しくて重いものだった。

 でも。もう、その憑き物はなくなったのだと、ようやっとそう思えた気がした。

 静かなレストランで、ゆったり食事をしている宿泊客ばかり。義兄が選んだだけあって、この辺りではグレード高いホテル。そこの懐石料理は、やはり最高だった。

 このような目利きが、義兄は優れている。自分がその質を保つ責任を父と背負っているからなのだろう。そして父の目利きも間違いなかった。義兄は、品質を見極める能力がある。そこを買っているのだろう。芸術家の気質にはいちいち驚くぐらい思考傾向は異なるが、造り出されたものに関する質への目利きは抜群だった。きっと画廊などの経営者にも向いているのではないかとカナはよく思う。

 そんな義兄さんが選んだホテルでの時間は、それまで質素に孤独に暮らしてきたカナをほぐしてくれる。

「カナ、帰ったらな……」

 食事も揃って終わろうしている時、義兄さんが姿勢を改めてカナを見つめている。

 でも、その続きをなかなか言おうとしてくれない。そこに思い詰めたように緊張している彼がいた。ああ、『あの時と一緒、同じ顔をしている』とカナまで緊張してしまう。

 一の坂川のカフェで彼が『一緒に暮らそう、結婚をしないか』と申し出たあの時と同じ空気。

「いいよ。航と暮らす準備をしても」

「いや、そうではなくて――」

 ちょっと照れた顔を見せたが、でも今夜の義兄はカナから目を逸らさない。思い詰めた眼差しで、じっとカナの目線を離さない。逆にカナが、気詰まりをして逸らしてしまった。

 なにを言おうとしているかわかっていた。そしてカナも、自分からはなかなか言い出せないし、聞きにくい。

 そこへ、食後の珈琲が運ばれてきてしまった。

 タイミングを逃した義兄が、ちょっとがっくりした様子で珈琲カップを傾ける。

 なのに。またカナを見つめて――。

 あの厳つい義兄さんが、満ち足りた笑みをこぼした。もう『そのことは言うまい』と決めたのか、力みがとれた自然な微笑みで。

「ここは珈琲よりも、カナの『お抹茶』が欲しいところだな。また作ってくれるだろう」

 いつかあった日常。萩焼とお抹茶。道場門前の和菓子。兄さんの好物は、生外郎。それがいま欲しいと言ってくれた。

 もうそれだけで――。

 カナも彼を見つめて、微笑んだ。

「うん。帰ったら、お抹茶。点ててあげるね」

 そこから取り戻そう。きっとまた、あの日のように、ふたり揃ってお気に入りのものに囲まれて暮らしていける。

 ――結婚しよう。そう言われるよりもずっと、カナは嬉しい。そんな大好きな人からのささやかな望みが、いままでずっとあったものが、これからもまた続けられる。

 そんな『これからも一緒にいよう』という、さり気ない彼の気持ちが嬉しくて、ようやっとカナの心はあの家へと帰ろうとしている。心が西へと歩き始めた。


 


 食事が終わり、部屋へと戻ろうとする。

 『おいしかった』と素直な笑みをみせるようになった義妹を見て、義兄も安心したようだった。

「さあ、いこう」

 綺麗なホテルの中で、黒いスーツ姿の義兄は颯爽としていた。地方から出てきた男でも見劣りがしない。そんな義兄がカナの腰を抱き寄せて、エレベーターへとエスコートしてくれる。

 扉が閉まって、二人きりになる。

 もうカナはくったりと義兄さんの胸元に頬を埋めてしまった。そんなカナを知って、優しく、でももっとそばにと抱きしめてくれる。

 見上げると、ひたすらカナを見ている黒い目がある。カナも両腕を彼の腰に巻き付け、背伸びをして彼の顎にキスをした。

「髭、なくなっちゃったんだね」

 いつもはざらざらしていても、カナはそこにキスをすることも多かった。だから今夜も、感触が違うそこにそっとキスをする。

 彼も懐かしいところのキスに、ふっと笑みを見せてくれる。なのに、大きな手でカナの黒髪を撫でながら、またおかしそうにクスクスといつまでも笑っている。

「嫌がるやつがいなくなったから、あの後、すぐに剃った。会う人誰もが『急に爽やかな男になった』とか言ったな」

「嫌がるやつって誰よ」

 このざらついた感触をどこで試すのかと言えば、抱く女の肌しかない。あの頃、それを感じることができる女と言えば、この義妹しかいないじゃない――と、カナはむくれた。

「また剃らなくて良さそうだな」

「べつに嫌じゃないもん」

「そりゃあ良かった」

 意地悪く笑ったので、カナは『もう』と唇を尖らせてしまった。

「いいんだぞ。また天の邪鬼になっても」

 背をかがめながら、義兄はその尖った口にキスをする。

 重ねられた唇を、すぐに熱い舌がとろりと愛撫したので、くすぐったくてカナは思わず『あ』と開けてしまった。

 俺の口元までおまえが来いと言わんばかりに、カナの小さな頭を男の大きな手が、強引に引き寄せる。カナから許してしまった熱い舌先が、深く奥までいつまでも愛している。

 息が出来なくても、カナは彼に抱きついて、その深い侵入を許した。

 頬が熱くてもう……。身体の奥にも急激な甘い疼き。

 エレベーターの到着音。それでも離れがたくてずっとふたりで口元を愛しあっていたけれど、なんとかやめることができた。

 でも。部屋にはいるとそうもいかなかった。

 大きくてゆったりしたベッドの前で、義兄からネクタイをほどいて、シャツを脱ぎ始める。

 カナ、来い。

 相変わらずの命令口調。義兄の前に行くと、カナからボウタイブラウスのリボンをほどく。


「今更だが。ほんとうにいいんだな」

 もう迷いはない。

「いいよ。愛している」

 あの義兄がびっくりした顔をした。天の邪鬼が絶対に言わないはずのものを、いきなり言った。

 カナにしてみたら、『いいよ。あなたの子供を産んでもいいよ』と素直に言えない代わりのひと言に過ぎなかっただけなのに。

「俺もだ。カナ、ずうっと前からだ」

「いつから?」

 聞いたのに。義兄さんはそれを誤魔化すようにして、ただ静かに微笑んでいるだけ。

「ねえ、いつから、なの……ねえ……」

 彼がボウタイブラウスのほどけたリボンをつまんで、まだ黙っている。

「もう、ズルイ。ほんとうに兄さんったら、ずうっとズルイ」

 でも。そう言いながら、カナは義兄を両手いっぱいに抱きしめた。

 いいよ、もう。だって、わたしがもうアナタのそばにいたいんだもの。

 だから。カナもそんなことは言わずに隠すことにした。

 ズルイ義兄さんには、内緒。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 湖畔に行こうと約束していたのに。カナはうっかり微睡んでしまっていたようだった。


「ええ、明日連れて帰ります。はい。ひとまず山口の家で落ち着かせますので、ご安心ください」

 もうシャツとスラックス姿になっていた義兄が、電話片手にソファーに落ち着いていた。

 まだ裸のままのカナは、大きなベッドにひとり。そっと乱れた黒髪をかき上げながら、素肌のまま起きあがる。ベッドの端に残っているボウタイブラウスを引き寄せた。

「来週でよろしいですか。はい、ではその時に花南を連れていきます」

 父と話しているのだと気がついた。義兄が電話を切ってひと息ついている。ほっとして、でももう憂い顔ではなく柔らかな笑みを湛えていた。

「耀平にいさん」

 カナが目覚めたことに気がついた。

「起こしてしまったか」

「お父さん?」

 『ああ』と答えた義兄さんは、大理石のテーブルに電話を置くとベッドへと戻ってくる。

 ベッドの上で、ブラウスだけ羽織ってぺたんと座っているカナのそばに来て、彼も腰をかける。

 熱愛の後で気が抜けている義妹の頬を撫でる。

「お義父さんも安心したようだ。おまえが帰ってくると喜んでいた。だが明後日からお義父さんはまた福岡に行かなくてはならなくて、だから、会えるのは来週だ」

 それだけ教えてくれると、義兄はそのままカナの黒髪にキスをした。

「帰ったら、きちんと自分から報告しろよ。ガラス職人として外に出していた以上、ガラス職人としての成果を楽しみにもしていたんだから」

「うん。わかった」

「それから。俺とのことも……。その時に、いいな」

「う、うん」

 それは結婚のご挨拶をする――ということらしい。

 やっぱりそうしなくちゃけいないよね。ケジメというものを。

 またいつまでも、ただの義兄妹でひとつの家に甥っ子と住むようになったら元の木阿弥のような気もする。

 だけれど、そんな義妹の戸惑いは義兄もお見通しで。

「そのうちに――という程度の挨拶だよ。そうすればお互いに縁談なんて来なくなる。婚約程度で良いだろう」

 カナは黙った。

 女が喜ぶところなのに、まったく笑いもせずに強ばった顔をしている義妹を見て、義兄がため息をついた。

 義兄がベッドを立つ。まだ乳房がちらつく薄着の義妹を残して、窓辺に立った。

「だいぶ夜が更けてしまったが、いまから湖畔へつれていってくれないか」

 彼が立っている窓辺にはもうその満天の星が見えていた。

 それでもカナと義兄は、身支度をして夜の湖畔に向かう。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 宇宙の丸みを感じる富士の星空ドーム。静かに揺れる水面に今夜はうっすらと静寂の富士が映っている。

 柔らかな音がする波打ち際で、カナと義兄はそれを見上げていた。

 流れ星が、ひとつ。でも義兄は、息子のようにははしゃがず、ただただ黙って見上げている。でもその眼差しが歓喜に溢れている。

「ほんとうだ。航が言ったとおりだ。当たり前のように流れ星がみられると」

 だけど義兄の眼差しが少し陰る。

「星の数ほど嘘をついた――と、航に言ったそうだな」

「うん。それを思う気持ちで瑠璃空の大皿にしたいと思って」

「カナちゃんは、どんな嘘をついてしまったんだ――と、航に聞かれた。おまえがこの湖畔で二年、その嘘を思って過ごしている姿を見て、それがお父さんと別れた原因なのかと聞かれて驚いた」

 あの話から、大人がなにを思ってそれを言葉にしたのか。それを察する少年の鋭さに驚きつつ。でも、航ならやはりそう気がついてしまったんだな――と、なんとも不自然には思えない叔母としての気持ちが混在した。

 そしてカナも義兄には言っておかねばならないことがある。

「その話をした時にね。『どうしてお母さんは、萩の海で落ちたんだ』と聞かれた。俺とお父さんが寝ている家よりずっと離れた海にどうしていたんだろう――。それが、大人達の嘘だと言いたかったみたい」

 やはり義兄も、驚愕したのか目を見開いたまま静止した。

「そのうちに、わかってしまうと思う。あの子には隠し通せない日が来ると思う」

 幾億もの嘘が散らばる空の下。カナは柔らかな波打ち際に立っている義兄に向かい、彼を見上げ告げた。

「わたしも倉重の娘です。自由に生きて良いと願ってくれるなら、わたしも、あなたと一緒に家を守らせてください」

 自由に生きろと手放してくれた義兄さん。家に縛られるのは俺で良いから、おまえは出て行け。そこでひとりの花南として生きればいい。そう願ってくれた義兄さんだから。

 もう曖昧なままの生活は要らない。霞の中のような暮らしも要らない。家に帰る前にカナを戸惑わせていたのは、その気持ちで帰ってはいけないというものだったのだと気がついた。

 だから――。

「あなたの妻になって、わたしも家と航を守ります」

 泣きそうな義兄の顔がそこにある。この人は滅多にそんな顔をしない。

「花南。なんだ、急に大人になったみたいで」

 抱きしめられたのに、カナは『なにそれ』とやっぱりむくれてしまう。

「もっと……、大人になります」

 といったら、今度は大笑いをされてしまった。

「天の邪鬼じゃないカナは変だ」

 湖畔に、いつもは静かで無口な男の笑い声が響いた。


 瑠璃空の下、この人も、なにかを手放せたみたい――と、カナも笑った。


 翌朝、ふたりは湖畔をあとにし、山口の家へ向かった。

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