17.勝手にアナタを愛してる
ガシャン――。
瑠璃の大皿は、その後も二度失敗した。
工房で金槌を振りかざす女の姿はなくならない。
だが、もう自分に課した『半月』がやってきた。
この日が最後。でも三度の失敗は無駄ではなかったとカナは感じていた。
出来はともかく、どうすれば思い通りの色合い風合い、そして模様になるかを三度のうちに掴みかけていた。
制作を始めて半月、いよいよカナは『これが最後』と決めた日を迎える。作品展の締めきりまで、ギリギリだった。
「これで最後だな」
「はい。これで納得できなければ、諦めます」
相棒の勝俣先輩と頷きあう。
彼との息も合ってきて、そして、彼もカナの意図を汲んでくれるようになっていた。そのフィーリングが、徐々に作品の精度を上げてきているのを二人で実感している。割砕いても、それは過去を壊しそれを糧にして生まれ変わるという希望が見えていた。
その気持ちに突き動かされ、カナは腐ることなく、まっさらになって挑み続けていた。
まっさらになって――。
そう。瑠璃の空を割り砕くたびに、カナの心があの頃のように研ぎ澄まされ、無垢になっていく。
ついに最後の吹き竿を、溶解炉にいれガラスを巻き取る。
「行きます」
「おう」
一瞬にしてガラスを操る思いきりと的確な技。思い悩む暇はない。その瞬間はカナだけのものになる。竿を回している者だけが作ることが出来る形。カナが回している竿の先に瑠璃の空が生まれる。
砂がガラスになる。ガラスにするのは『花南』。その時の熱と、花南の手が回したガラスと、花南が作り出した色が生まれ出る。
カナの目には、いま、瑠璃の空しか見えていない。どうして瑠璃の空を作ろうと思ったのか。思わなくていい、考えなくていい。考えなくていい代わりに、カナの手がそれを形にしているのだから。
瑠璃の空は知っている。たくさんの嘘を。霊峰が見張る湖畔で懺悔しても、それはなにも変わらないよ。
―◆・◆・◆・◆・◆―
北海道と同じ気候だから、桜が咲くのも遅い。
五月の連休がやってきて、湖畔の水辺にようやっと花が咲く。
四度目にチャレンジした大皿を、親方との約束通りに展示作品展に出展した。
親方も工房の兄貴達も毎年出展をしている。昨年は大目に見てもらったカナだったが、今年は参加することが出来た。
もう、それだけで。やっとガラスでひとり生きていけると清々しい気持ちになっていた。
あとは、そろそろ義兄に会いに行こうと考えていた。
行く日も決めていた。桜が咲いたが、まだその日ではない。
連休が明けた平日。その時はやってきた。
仕事が終わった工房で、親方が職人を集め、封を切った封書を皆に見せた。
「今年の結果だ」
秋に開かれる展示会、作品展の結果だった。
入賞は狭き門。カナも何度かチャレンジをしたことがある大きな作品展だったが、結果を出したことはない。
親方は何度か入選をしていて、数年前は銀賞をもらっていた。だから親方は挑み続けている。そして弟子達にもそれを信条とさせていた。
賞は、大賞、金賞、銀賞、とあり、あとは奨励賞と審査員特別賞と、入選――という枠になっている。
この工房のエースは当然、芹沢親方だった。
「うちから、銀賞がでた」
兄さんたちとカナは一緒に驚き、でも、その経歴を持つ師匠が目の前にいるので、さすがだと顔を見合わせた。
やっぱり親方は素晴らしい工芸芸術家だったのだと、カナも誇らしくなる。なんとなく流れ着いたとはいえ、そんな職人がいる工房に巡り会えた自分の嗅覚を褒めたくなったほどだった。
「花南の大皿『瑠璃空』が銀賞をとった」
息が止まる。どの音も聞こえなくなった。
カナだけではない。兄貴ふたりも目を大きく見開き、カナではなく親方をただただ見ている。
「それ、ほんとうですか。親方!」
勝俣先輩がまず大声を張り上げ、親方が持っている通知を手にとって眺める。それにつられ、皆がその通知に集まって確かめる。
「え! お、俺も、にゅ、入選している!」
相棒を務めてくれた勝俣先輩も結果を出していた。
あの親方が、いつにない穏やかな微笑みを皆に見せている。
「はあ。やっとこの工房から若い奴の名が出て行ったか。長かったなあ」
肩の荷を降ろすように、彼がほっと息を吐いた。
そんな親方は今年は落選してしまったようだ。
まだなんとも反応が出来ないカナを、皆が見ていた。特に親方が、見たことがない優しい眼差しでカナを見つめている。
「花南。兄貴に会いに行け。これで胸を張って兄貴に会えるだろう」
そう。カナはこの日を待っていた。結果が出ても出なくても、この日をガラス職人として再出発の日にしようと思っていた。
お姉さんが協力してくれたわけでもない。お義兄さんが贅沢な環境に整えてくれた工房で培ったのではない。本当にひとりの職人として、厳しい師匠の下で、ガラスに向きえたことを糧に、家族の、家のしがらみのない、ただひとり生きているカナとして歩き出そうと吹き竿を手に取った。その日を迎えたら、お義兄さんに会いに行く――、そう決めていた。
なのに。そこに瑠璃の大輪が咲いてしまった。
「し、信じられません」
でも工房の誰もが、くすりと笑っている。
「女のストイックて奴は恐ろしかったな~」
年長の勝俣先輩が笑うと、そこにいる男たちが笑い出した。
「金槌を振り落として、鬼女だったよな」
「女は後腐れなく別れる――って言葉は本物だと実感」
そこでやっとカナは頬を染めた。自分でも自覚している。時間をかけ、体力を使い切って、やっとの思いで仕上がった大皿を、一目みては迷いなく金槌を振りかざして思いきり割っていた。
その度に過去との決別にも思えた。でも、側で黙って見ていた兄貴達の目には痛々しいだけだったのだろう。そんな思い詰めるカナの鋭い姿から目を逸らしていることを感じていた。
一点を見据えて金槌を振り落とす女が手に入れようとしているもの、その痛々しさがやがて瑠璃空を作り出した。
おめでとう、花南。
そして勝俣先輩も言った。
――行け。いますぐ山口に帰れ。
―◆・◆・◆・◆・◆―
数日後。朝霧がけぶる湖畔のバス停にカナはいた。
白い総レエスのワンピースに、黒いジャケットを羽織り、久しぶりにヒールのあるサンダルを履いて。
綺麗に身支度をしたカナを見送ってくれたのは、勝俣先輩と芹沢親方だった。
でも親方はまた、バス停から遠く離れて見守っているだけ。バスが見えると、勝俣先輩の表情もどこか哀しそうに見えた。
「花南。余計なことは言うまいと思っていたんだけどな」
「はい」
「親方。本当はおまえのことをさ……、女として、その……」
とても言いにくそうだった。そしてカナは俯いた。
そんな素振りはひとつも見せなかった親方だけれど、特別な感情を露わにしたり贔屓だってすることもない親方だけれど。でも女故の、男からの大きな愛情は感じていた。
男の中に、カナのような女盛りがぽつんと入り込んできて、頼りない若さで心配ばかりかけさせたのだろう。見かけとは裏腹に、実は純でまっすぐで繊細で感受性が強い工芸家の親方が、それを感じざるえないのは仕方のないことだったかもしれない。この二年、カナを側で見守って支えてくれたのは、かえって厳しいことばかりを突きつけてくれた親方だったと思っている。
「親方の懐が大きいので、甘えっぱなしでした」
「そんなんじゃねえよ。甘えていたら銀賞なんか取れるもんか」
「甘えて頼りたい。そんなずるい女なんてきっと親方は追い出していたと思います。だから……。もし、親方の気持ちが私に対してそうであるならば……、やはりわたしは、親方の工房で作品を生み出すことでしか応えられなかったと思います。そして、出て行く。親方の気持ちはそこにあると思っています」
大人の男の愛は、けっして囲うことばかりではない。それが身に染みる。もし親方に応えるならば、だから親方の弟子として『銀賞』という結果で応えることだったのだろう。もし、いまのカナと親方が『男と女』で出来ることは、それしかなかった気もする。ガラスを通じての意思疎通。それだけしか。
「……でも。兄貴は結婚してしまうんだろう。自分たちの意志とは関係のない世界にいる男なんだろう。どんなにおまえが気持ちを伝えてもさ、どうにもならなかったら……」
先輩が朝霧の中に隠れてしまいそうな親方をちらりと見ながら言った。
「親方は待っている。きっと。帰って来いよ。別に親方に応えろっていっているんじゃねえよ。俺達の工房に帰ってこいって言っているんだよ。また無くして、どこかに流れていくなんてすんなよ。よそに逃げたら二度と会ってやらないからな!」
カナは笑った。
「わかっています。もう流れるだなんて……弱いことは致しません」
旅支度の女の背後に、緑色のバスが停車する。
勝俣先輩もカナを見て笑ってくれる。
「それとなく聞いていたけれど。おまえ、ほんとにお嬢様なんだな。見違えた」
今日のカナは、山口を出て行く時に着ていた『おでかけ着』姿だった。
黒髪を綺麗に毛先まで整え、母に似ていると言われている和風の顔立ちにメイクアップをして、そして、懐かしいトワレをまとった。上質の洋服に、ハイクラスのハンドバッグとボストンバッグを持って。黒の華奢なサンダルを素足に履いている。
ガラス職人という暮らしをしているカナにお洒落着が活躍する機会は少なかったが、それでも義兄と出かける時にはそれ相応に見えるよう気を配ってはいた。上等のスーツが似合うお兄さんの義理妹として心がけ、機会は少なくともクローゼットにはおでかけ着を揃えていた。
山口の家を出て行く時も、カナは倉重の娘で、彼の女として出て行った。持ってきたお洒落着はこれだけ。以後、上質な洋服を買うことはなかった。
二年ぶりに女の姿に整え、カナは湖畔を出て行く。
「気を付けてな」
「行ってきます」
バスのステップに、黒いサンダルのヒールがかつんと鳴る。その時、カナは声をかけてくれなかった親方を探した。
深くたちこめてきた霧に隠され、もう親方の姿はどこにもみあたらなかった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
どんなに朝早く出ても、本州の最西端にたどり着くのは夕方になる。
こちらはもう初夏の気配。日も長くなり、夕刻になっても爽やかな空だった。
下関で新幹線を降り、バスに乗り換える。ゆったりとした日本海の田舎町を走るバスの揺れに身を任せる。
帰宅途中の高校生がなにげなく開けた窓から、潮の香りがした。
高原の湖畔に二年もいたカナには、鮮烈な薫りだった。そしてとても懐かしい、生まれ故郷の匂い。
そこに代々資産を構えていると言っても、カナが生まれた町はほんとうに田舎だった。
しかし田舎だからこそ、美しい海がある。そこで非日常的な時間を過ごせるホテル。贅沢なひとときに焦がれてやってくるリピーター客が多いと聞く。それを資源にして、倉重家は財を成してきた。
父と義兄の本拠地は、海辺のリゾートホテルにある。ホテルの裏に構えている事務所がグループの本家本元『本社』だった。
ただお嬢様であるだけのカナは、父と義兄の会社を訪れることは滅多になかった。
周りの関係者と顔を合わせることも、年に一度、父が開く新年会での顔合わせぐらいだった。
父を支えるブレーンとなる重役さん達は、カナのことは『家を出た工芸に勤しむお嬢様』として、実家の家業には疎い気ままな娘さんだから居ても居なくても良い程度の愛想の良さで接してくれるぐらいだった。
潮の香と、白浜に優しく響くさざ波。久しぶりに見る金春色の海を見て、カナはただ微笑むことができる。
でも、目の前に、白くそびえ立つリゾートホテル。夕刻でチェックインする為に到着した宿泊客や観光客がガラス張りのロビーへと入っていく姿がみえる。
表玄関を避け、カナは裏口へ向かう。そこが倉重観光グループの本社事務所の入り口になるから。
古い鉄筋の事務所は、表側の優雅な白いホテルとは裏腹に古びていた。
ひさしぶりに事務所の扉を開け、薄暗い廊下を歩く。一番最初の光が漏れているドアを開けるとそこが一般事務室だった。
滅多に来ない娘が、しかも家を出ていた娘が、そのドアを開ける。
地元で採用されている人がほとんどで、長年勤続してくれている年配男性に、長くパートで通ってくれている主婦、そして地元の新卒採用なのか若い女性が制服姿で事務仕事をしていた。
その若い女性が、入ってきたカナを訝しそうに眺めながら『いらっしゃいませ』と挨拶をしてくれる。
「いかがされましたか」
どのようなご用件でと明るい笑顔で迎えてくれる。
「あの……」
娘ですと告げようとしたら、事務所の奥で構えていた年配男性が驚いた顔でこちらに気がついた。
「お、お嬢様!」
男性の声に、事務所にいる誰もが驚き、物珍しそうな視線がカナに集中した。
「ご無沙汰しております。突然に訪ねまして申し訳ありません。あの、」
奥から見覚えのあるその男性が、デスクをかき分けるようにして駆けつけてくる。
「いやー、山梨におると聞いちょったんですが」
「はい。思うところあって帰って参りました」
懐かしい方言に思わず微笑んでしまう。そして見覚えのある事務男性もにこりと笑ってくれる。
「ガラスの修行は如何ですかいな」
どうやら、従業員には家出娘のことは『自由気ままな修行の旅に出た』ということになっているらしい。
「おかげさまで。皆様がこちらを支えてくださっているので、自由気ままに修行をさせてもらい申し訳ないぐらいですが、常日頃、感謝しております」
ああ、社長の娘という性が出てしまう。姉に教わったことだった。従業員に尊大になってはいけない、彼等あってこその我が家だと覚えておきなさい。いつも感謝を忘れないように――と。
事務所がざわついていた。滅多に来ない社長の娘が、自由気ままで地元には居着かないガラス職人の娘が、急にやっていたという好奇の目があちこちに散らばっている。
「あ、お父様ですね」
「いえ。義兄はおりますか」
途端に。古株らしい男性の表情が曇った。
この人は家の事情を知り尽くしている人だと悟った。他の従業員でもどれだけ知っていることか。
「お父様は広島へでかけとりますが、副社長が留守を預かっておりまして、お部屋におりますよ。どうぞ」
事務所の外へと案内される。
ひんやりとした古い廊下をでると、二階の階段まで案内された。
「お部屋。知っちょりますよね」
「はい」
婿殿と、残された娘の関係。それを知っているだろうおじ様が、『お嬢様からお訪ねください』と二人きりになれるよう気遣ってくれたようだった。
義兄も従業員が義妹を案内したら、副社長の顔でいなければならなくなるだろうから。家族水入らず、義兄妹同士でごゆっくりということらしい。
「ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をすると、そんな時になって、心を許してくれたかのように事務おじ様がため息をついた。
「お兄さん。疲れちょるようです。昨年、年末にお見合いしちょってからですよ……。大事にしてあげてくんさい。これからここのホテルを守ってくれにゃあいかんお人ですから」
今度は彼がお辞儀をして去っていった。
お見合いをしてから疲れている? カナが感じたとおりに、気疲ればかりする縁談だったのだろうかと、やはり心配になってしまう。
静かな階段を上がると、踊り場で開け放たれている窓からホテルのプライベートビーチが見える。夕の波打ち際を楽しんでいる宿泊客の楽しげな声が響いている。
潮の香も入ってきて、徐々にカナの身体の奥から熱が広がっていく気がした。生まれた時から知っている匂いがそうさせる。
これから義兄にお願いしようかどうか迷っていたことがある。ずっと……。再会したら、お願いしよう。これが最後だから。でも……彼はもうわたしのことは妹としてしか見てくれないだろう。やはり言わないでおこうか。そう迷っていたけれど、吹っ切れた。
これが最後だから。もう天の邪鬼はしない。
カナは階段を上がってすぐ脇にある『副社長室』の前に立った。祖父が会社を作ったために、昭和の佇まいのまま。
ここはカナの父親が、前社長の祖父が存命だった頃に副社長を務めていた時に使っていた部屋で、いまは義兄が使っている。
勇気を出して。
ドアをノックした。
はい。どうぞ。
懐かしい恋しい人の声
カナはドアを開ける。
接客用のテーブルとソファーが揃えてあるゆったりとした部屋に、海が見えるガラス張りの大窓。
デスクの背後には、豊浦の綺麗な海が見える。瀬戸内と日本海がぶつかるところに白波が立ち、まっすぐに沖合に伸びているのも変わらない。白い砂浜に、その白波が、徐々に茜に染まっている。
そんな美しいリゾート仕立ての海が見えるこの副社長室で、その人は大きなデスクで書類を眺めている。
「お久しぶりです。お義兄さん」
深々とお辞儀をする。まだ彼の顔を見ることが出来ない。
「カナ……」
驚きで掠れた声だけが、耳に届いた。
やっと頭をあげ、カナは二年ぶりにその人を見た。
「ただいま帰りました。突然に訪ねまして申し訳ありません」
あのしかめっ面がそこにあった。笑みのない厳つい顔で、呆れたため息をつく。義妹の態度に振りまわされてばかりの呆れ顔。まったく変わっていない。
でも……。無精髭がなくなっていた。髪も少し伸ばした髪型になっていて、あの険しい眼差しが長めの前髪に隠れ気味になっていて、前より若い顔つきになった気がした。
髭がないせい? 髪型が変わったせい? それともやっぱり『若いお嫁さん』を意識して?
なのに。カナを見つめるまっすぐな黒い目が熱っぽく濡れているように見える。いつもドキドキさせられていた大人の色香はそのままで、またカナは暫く男の色気を嗅ぎ取ることもなかったので、急にあてられてクラクラしそうになった。
義兄がゆっくりと木造の大きなデスクから立ち上がった。
「どうした。実家ではなくこっちに先に来たのか」
「うん。お義兄さんにいますぐ伝えたいことがあったから」
「俺に?」
訝しそうに首を傾げている彼に、カナは何度も何度も反芻してきた言葉を告げる。
「ご結婚、おめでとうございます」
そういうと、やはり義兄さんの表情が強ばった。義妹に言われても、なんだか嬉しくなさそうで……。そんなことはわかってはいたけれど、カナは複雑でしかない。
義妹に祝福されてそんな顔をするなら、結婚なんてやめてよ――とも思うし、今更そんなに祝ってくれても遅いと怒っているのだとも思ったりもする。
なのに一時すると、義兄さんが勝ち誇ったように『にんまり』とにやついた。それがどうにも意地悪な笑みで、今度はカナが眉をひそめる。
「うん、ありがとうな」
……やっぱり、結婚する決意は出来ているんだ。さっそく胸に突き刺さったが覚悟はしてきたのでカナも平然せねばと、なんとか堪える。
「カナも、おめでとう」
わたしも? カナははっとした。義兄は、デスクの上に重ねている書類束の隙間から、ひとつの封書を取り出した。
「うちの工房は、全員落選した。けれど、見覚えある作家が『銀賞』を受賞していた」
親方のところに届いていたものと同じ通知。義兄の工房でも参加をして、同じ通知が届いていたようだった。
「おまえにはガラスで生きて欲しかったから、嬉しかった。良かったな。『瑠璃空』がどんな作品かまだわからないが、秋の展示会が開催したら見に行こうと思っている」
「ほんとうに? わたしも義兄さんに一番に見てもらいたくて……」
「それで、会いに来てくれたのか」
違う。もっと違う決意で、もっと違うことをお兄さんに言いたくて来た。でもカナはすぐには伝えられるようなことではなかったので、俯いてしまう。
すると、デスクに立っていた彼がこちらに歩み寄ってくる。
「そんなところに立っていないで、こっちで休んだらどうだ。遠かっただろう。おかえり」
ドアの前に立ちつくしていたカナの背に、懐かしい男の手が優しく触れた。
おかえり。カナ。疲れただろう。そこに座って、休んだらいい。遠くで暮らす妹が帰省して、それを迎えた兄そのものだった。
ふっと見上げると、そこで自分を見つめてくれているのが当たり前だった男の人の眼差しがある。
ネクタイも黒色ではなかった。お洒落に季節を意識したライトグリーンのネクタイで、そう、カナが選ばなくても良くなったのだと思った。それとも、山口の家で新しい彼女が選んでくれているのかも?
「どうした」
顔を覗き込まれる。それだけで本当にドキッとする。やっぱりだめだよ……。義兄さんずるい。それだけで義兄さんはあっという間に……。
「兄さん……!」
側に来た彼に、カナから抱きついた。誰が選んだともわからないネクタイの胸元に、ずっと前は素直に飛び込めなかったその胸に。カナから飛び込んで、両手いっぱいに抱きついた。
その途端に、懐かしいマリンノートの匂いがたちこめた。すこしだけ彼の身体の匂いと混じっていて、それはまったく変わってない。そしてその匂いがカナを素直にさせた。
「お願い。お兄さん。三日でいい。わたしのものになって」
は? また、懐かしい反応だった。でもカナは彼に抱きついたまま、義兄の顔を見上げた。
やっぱり困った顔をしている。これから結婚する男が、三日だけとはいえ、婚約者を裏切ることになるのだから。
「兄さんだって、わたしを小樽から無理矢理連れ戻したでしょう。その日に突然。勝手に俺のものにしたでしょう」
「あ、うん。まあ……うん、強引だった……うん」
当時の彼も、冷静ではなかったのか。急に後ろめたいことを思い出したかのように、義兄が言い淀む。
「でもな。カナ、」
「今度は、わたしが勝手にアナタを愛したいの。三日だけ。それで、わたし……ただの妹になるから……。今度こそ、耀平兄さんが航と幸せになるよう、妹として見守れるから……!」
決意してきた最後のお願い。
「三日だけ、わたしと一緒にいて。義兄さんを連れて行きたいところがあるの」
ついに義兄が黙り込んだ。が、彼はすぐにカナに応えてくれた。
「いいぞ。カナ」
顎をぐっと掴まれ、背が高い彼の目線に連れて行かれる。
頼んだのはわたしなのに、義兄さんはまるで捕まえたウサギを支配したかのような冷めた目で、でもニヒルに微笑み見下ろしている。
その顔のまま、彼の唇が落ちてきた。抱きついていた義妹を、今度は義兄が押し倒すように抱きしめ、ドアの横の壁に押し付ける。そのまま唇を押さえつけられ、柔らかく吸われている……。
「に、にい……さ……」
カナも彼のジャケットをぎゅっと握りしめ、深く彼の唇を愛した。
長く深いキスは、熱くなる一方でなかなか止まらない。なにも変わっていない。この人のキスの味も、柔らかさも、痛さも、熱さも、甘さも。
やっと唇が離されると、義兄は息を弾ませたまま、今度はカナの耳元にキスをする。
「どこに連れていってくれるんだ」
その囁きに、カナはもっと崩れ落ちる。兄さんがそれでもカナをしっかりと抱きとめてくれていた。
彼の手も、もうカナの肌を彷徨っている。カナの肌を探してくれている。ジャケットの脇に滑り込んだ手が、白いレエスのワンピースの背に潜り込んで、そっと後ろのジッパーを降ろそうとしていた。
ジャケットの下で密かに開いたワンピースの背。そこに懐かしい男の手が、ついにカナの素肌を探し当て狂おしそうに愛撫する。
まだ愛してくれる。それだけでカナはもう思い残すことはないとさえ思える。
そしてカナも彼のネクタイを少しだけほどいて、男らしい喉仏の下にそっとキスをした。
「本物の瑠璃空を見せてあげる」
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