18.バイバイ、天の邪鬼

 カナの肌を撫でている熱い手が、静かに引いていく。

 ジャケットの下で開いたワンピースの背を、義兄はそっとジッパーをあげて閉めてくれた。


 その彼が我に返ったように、長くなった前髪を額でかき上げ、落ち着こうとしていた。

「とはいえ。いますぐ三日、俺が自由になれるかといえば、それは無理だカナ」

 副社長としてのスケジュールはそうは崩せないということらしい。

 そしてカナも心を落ち着けながら、そっと頷く。

「うん。もういいの。義兄さんに言いたいこと、言えたから」

 そこに落としてしまったボストンバッグとハンドバッグをカナは拾い上げる。

「いいぞ――と言ってくれただけで良かった。わたしのこと、忘れていない。それだけで良かったの」

 そしてカナは笑顔で、愛している人の顔を見上げる。

「ありがとう。耀平兄さん。母と航に会って、帰ります」

 気が済んだ。素直に気持ちは伝えたし、願っていることも告げた。それでも駄目なのだから、もういいだろう――と踏ん切りがつく。

「いまが無理なら、今度は航と一緒に山中湖に来て。一緒に瑠璃空を見に来て」

 ドアノブに手をかける。カナの胸に哀しみが広がっても、目の奥にはもう富士と湖畔が見えていた。

 待て。

 ボストンバッグを持つ手を、男の手が強く握りしめ引き止めた。

 肩越しに振り返ると、髭がない若々しい顔つきになってしまった兄さんの怖い顔。

「変わっていないな。そういう『自己完結』が、勝手に秘密を抱えどうにもならなくなった原因だと俺は思っている。人の話は最後まで聞け」

 そういうと義兄はすぐにデスクへと忙しく戻っていく。戻るとすぐに受話器を手にした。

「副社長室です。部屋をひとつ用意してください。義妹が帰ってきたので今夜はそこに」

 義兄がまだカナをそばに置こうとしてくれていることに気がついたカナは、ホッとしてしまったのか、またボストンバッグを床に落としてしまう。

「でも。お客様のお部屋……」

 社長の娘だからと特別扱いで部屋を用意してくれるのはどうかと、カナはつい気後れをしてしまう。

 それでも義兄は続けた。

「二年ぶりの豊浦です。今夜はゆっくりさせてあげたい。それから大きな作品展で銀賞を取ったので、祝いに今夜のコース料理も準備していただけますか」

 従業員には、姉と一緒にいた時のような丁寧な語り口の義兄だった。副社長でも婿殿という姿勢は従業員にも示し、でもそんな義兄だから信頼されているように感じた。

「ええ、それでかまいません。では、義妹を案内しますのでゆっくりさせてあげてください」

 受け入れてくれたようだった。でも義兄は受話器を置くと、また忙しく書類を束ね、携帯電話を胸ポケットにしまい、分厚いシステム手帳を手に取った。

「案内する。その部屋で待っていてくれ」

 でも。そこで、まさか。二人きりになるとか? 従業員に知れ渡るような場所で? それは父も許さないだろうとカナは躊躇してしまう。

「明日の昼までには三日の調整をする。それまでひとりで待っていられるか」

 カナは目を見開く。『三日の調整をする』? つまりそれは……。

「義兄さん……。ほんとうに。ほんとうにわたしと、三日だけ一緒にいてくれるの」

 動き出した義兄が、そこで忙しくしていた手を止め、カナを見た。

「これで最後なのだろう」

 その言葉が胸に突き刺さる。でも、なにもないよりずっといい。カナは泣きそうになりながら『うん』と頷く。

 なのに。また義兄がニンマリと一瞬笑ったような? なんだかカナも涙が止まってしまい、妙な違和感に首を傾げた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 案内された部屋はツインのスタンダードタイプの部屋だった。

 リゾートホテルはカップルやファミリーが主な客層なので、シングル部屋はない設計になっている。

 全室オーシャンビューにしている部屋の窓は大きく、カナが愛し続けている金春色の海が夕に染まっている。

「見事なお部屋。ほんとうにいいの」

 部屋まで案内してくれた義兄が笑う。

「社長の娘のくせに泊まったことも、ここの料理を食べたこともないだろう。実家を知るための勉強だと思え」

 確かに。お客様優先だと思っていたから、そんなこと思いもつかなかったし、料理長のご馳走は新年会などで食したことがあっても、お客様に出している料理は口にしたことはない。

「お祝いって言ってくれたのに。勉強だと思えって、相変わらず厳しいお兄さん」

 義兄が、今度は声をたてて笑った。

「おまえこそ、生意気なままだな」

 しかもいつまでも笑っているので、カナは久しぶりにむくれてみた。

 そんなカナを見た義兄の目が急に切なく陰る。

「こんなに笑ったのも、久しぶりだ」

 そうなの? カナはなにも言えず、義兄を見上げたまま。

 そんな静かにしているカナを、義兄さんが見下ろす。

「カナがいちばん面白いからな」

「面白いって……」

 義兄さんの意地悪な言い方もぜんぜん変わっていないじゃない。言おうとしたら、もう目の前には義兄さんがカナを面白そうに覗き込んでいる。しかもそのまま、また……唇を塞がれる。

 『んっ』。にいさん……。カナも素直にうめいた。

 カナの頭を大きな手で引き寄せ、身をかがめた義兄はまた長くカナの唇を何度も吸って離してくれない。

 夕凪が見える静かな部屋に、くちづけの音だけが小さく聞こえる。

 そして、カナもやめられない。やめられないのに……。

 もうだめ。どうして。にいさん。もうすぐ結婚する人がいるのに……。

 でもこれから三日。兄さんはその人を裏切る。そう……いつか、姉さんがこの人を裏切ったように。

「や、やっぱり、ダメ――」

 『裏切りの哀しさと、その後の連鎖』に苦しんできたのに。それをまた繰り返すのかとカナは我に返り、つい義兄の胸を突き放した。

 それでも義兄は離れていこうとするカナの腕を掴んで、胸の中に戻してしまう。

 強く抱きしめられ、カナはまた、いつかのような霞に囚われた気怠い気分になる。曖昧にいい加減なままに流れていこうとしたあの日のような、ズルイ甘み。

 大きな手がカナの頬を撫で、静かに見下ろしている。

「待ってろ。明日の昼には迎えに来る」

 もう怖い顔に戻っていて、でも、またカナの耳元にキスをして彼が離れていく。

 カナが緩めてしまったネクタイを締め直し、義兄さんの横顔が変わる。気持ちを切り替えたのか、颯爽と部屋を出て行った。

 カナも……。彼の唇が触れた耳元に手を触れ、ほっとひと息ついた。

 気持ちを伝えたかった。なにも思い残しがないように。そう思って、思い切っていちばんに義兄さんに会いに来た。

 でも……。迷いも生まれた。まだ結婚していないとはいえ、婚約者を裏切るようなことをさせていいのだろうか。

「あの空だけ、一緒に見たい」

 航も見たあの星空を。兄さんにも見ておいて欲しい。わたしの瑠璃空を見る前に、本物を見て欲しい。

 それだけのことを願うのも、もう駄目なのかもしれない。もう遅すぎたのかもしれない。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 実家のホテルがこれほど素晴らしいとは――。

 燃ゆる夕凪が、夜色の帯を含み始める。その頃、部屋に運ばれてきたフルコースの料理は最高だった。

 星が瞬く紺碧の空とさざ波の部屋。そこでゆっくりくつろぐ宵。

 再会する為の緊張と旅の疲れも手伝って、ベッドに横になるとすぐに微睡みがきた。


 朝、純度が高い天然石のように輝いている海。アクアマリン色の朝に感嘆し、カナは起きてすぐにスケッチブックを開いた。

 持っていたカメラで、見慣れていたはずの故郷の海を何枚も撮影する。

 午前は、海に夢中になって過ごした。いつのまにか時計の針が昼時を指そうとしている。

 ――義兄さん、あれから一度も来ない。

 やはりダメだったのかな。

 それも覚悟してきたカナだった。そして『これで良かったのかもしれない』と瞼を閉じ、少しばかり安堵していた。

 義兄さんは、彼女に返さなくてはいけない。忙しい人なのだから、もう……。我が侭は充分に聞いてもらった。

 ドアからノックが突然聞こえ、カナは我に返る。

 気持ちの整理がつきかけたというのに、開けたドアから今日も黒いスーツ姿の義兄が現れた。

「待たせたな」

 見覚えのあるネクタイをしてくれている。いつか、カナが『今日は空が綺麗よ』と選んだ金春色、新橋色のネクタイ。

 カナは知る。義兄さんは、自分でちゃんと自分でネクタイを選んでいる。昨日のライトグリーンのネクタイも、この季節の新緑を思って選んでいたと思いたい。

「お義兄さん。ほんとうに大丈夫なの」

「ああ。なんとかな。今日の夕にはお義父さんも帰ってくる」

「お父さんには……わたしのこと……」

 いいや――と、義兄は首を振る。

「いいんだ、もう」

 どういうわけか、義兄も清々しく微笑んだのでカナは不思議に思った。

 お父さんに強く言われたお見合いだったはずなのに。その家業に有利なお嫁さんをないがしろにするような、義妹との旅に出たと知られたら、副社長としても息子としても父に面目ないことになるのでは?

 もちろん、その全てはカナが引き金で、義兄を誘惑してしまったのだけれど。でも義兄は『それでいいんだ』と、なにもかもを捨ててもいいような顔でいることで案じた。

「あの、わたしの我が侭だっただけ。やっぱりお義兄さんもう、」

 お仕事に戻って。彼女のところに戻って。そう言おうとしたら、義兄が急に昨日から度々見せていた意地悪い笑みをニンマリとカナに見せる。

「俺はカナの願いの為に、必死になって先方に頭を下げて三日を確保した。おまえも俺のいうことをひとつ、聞いてくれないか」

「え、お義兄さんのお願い?」

「それでお互い様としようじゃないか。それならおまえも気に病まないだろう」

 では。その取引となる願いはなんなのか。

「ヒロに謝ってくれないか」

「え、ヒロに……?」

「そうだ。おまえ、ヒロにはなにも言わずに出て行っただろう。引き止められるのが辛くて会わずに別れたのだろうが、ヒロはもの凄く怒っていたぞ。それでもおまえと俺の関係を見守ってきてくれた男だから、そこはなんとか堪えてくれた。でもな、おまえが出て行って、その先で見つけた工房で違う相棒と組んだ作品が銀賞を取ったと知った時に、もう我慢できなかったみたいで荒れていて困っている」

「そ、そうなの……」

 そして義兄は、またもや意味深な勝ち誇った笑みでカナを高いところから得意げに見下ろしている。

 なんだか。言っていることと、その妙な笑みが、合致していないように思えるのは気のせい?

「ヒロに謝ってくれ。おまえが行きたいところに俺が一緒に出掛けるのはそれからだ」

「わ、わかりました」

 確かに。ヒロには申し訳ないことをした。それはカナもわかっているから、ごもっともだと受け入れざる得なかった。

「支度は出来ているな。すぐに行くぞ」

 身支度を済ませて待っていたカナの側には、僅かな荷物しか詰めなかったボストンバッグ。それを義兄から手に取った。

「行くぞ」

 カナよりも、義兄さんの方がすっかりその気。部屋のキーを彼から手に取り、ふたり一緒に海の部屋を出た。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 だけれど。カナはこの時になって初めて『義兄の魂胆』に気付き始める。

 ヒロに会いに行くということは、彼がいる工場がある『山口の家』へ行くということでは? そこには彼女がいるはず……! まさか婚約者に紹介されるのでは?


 副社長、おはようございます。

 うん。暫く留守にする。よろしく頼みましたよ。

 いってらっしゃいませ。


 ゆったりとした朝の時間を楽しむ宿泊客に紛れ、義妹を連れた副社長がそのままフロントへと部屋のキーを返した。

 『お嬢様、いってらっしゃいませ』とも声をかけられ、カナは『素晴らしいお部屋と素敵な時間でした』と御礼を述べ、先を行く義兄を追いかけた。

 裏の事務所に停めてある黒いレクサスに乗り込み、義兄の愛車が発進する。

 ホテルを出ると、長い海岸線を走り始める。

「あの、山口に向かうってことよね?」

「ああ、そうだ」

 黒いハンドルを握って前だけを見ている義兄が、当たり前のように答える。

「えっと。山口の家には、その……」

 花嫁修業という名目で、お見合い相手の彼女を住まわせているんでしょう。と、なかなか聞けない。

「舞さんのことか」

 マイさんというの……。義兄さんが、自分の家に住まわせている女性の名を呼んだだけで、胸が締め付けられて息苦しくなってしまう。

 もうなにも聞きたくなくなって、カナは知らぬ間に俯いて無口なっていたらしい。

 その静かな雰囲気の中、義兄がいつかのように、笑いたくて仕様がない口元を拳で押さえて堪えているのを見てしまう。

「なに。義兄さん。なんか昨日から、久しぶりに会ったのに、わたしのこと笑っていない?」

「うん、笑っている。おまえは面白いなあ、やっぱり面白いなあ。久しぶりに会ったから笑っているんだ。カナだから笑えるんだなあ」

「もう、なんなの!」

 また彼がアハハと楽しそうに運転席で笑い出す。

「ああ、そうだ。去年、一の坂川に『ガラス雑貨店』をオープンさせたんだ」

「え、そうなの」

 笑うだけ笑って、うまく話を逸らされた気がしたが、それはそれでカナは驚いた。

「萩の工房がだいぶ落ち着いたことと、相棒がいなくなったヒロに山口工房の親方をしてもらうことにした。良い頃だと判断して、萩の若い職人を弟子入りさせてな」

 ヒロが親方! しかも弟子をとらせて、あの工場を保っているらしい。

「その山口の工房と直結という形で、観光客が多い一の坂にガラスの土産物店を出店させたんだ。おまえが好きなカフェの側だ」

 すごい。このお義兄さんはそうしてなんなく事業を展開させてしまう。

「一の坂川に、ガラスの雑貨店なんて素敵ね。和風のトンボ玉とかチョーカーに、切子のグラスを置いたら雰囲気あいそう」

「だろう。雑貨を中心にしているから、女性客のウケがいい。なんとかやっている」

 だけれど義兄はそこで黙り込む。義兄さんの向こうに見える金春色の海から、潮の匂いが開けた窓から入ってくる。

「おまえが出て行く頃から計画していたことだ。親方はヒロにする。カナとヒロにそれぞれ弟子をとらせる。そこで若い職人が作った雑貨はそのまま現地である山口で売ると――」

 知らなかった。カナとヒロの将来もきちんと堅実に考えていてくれたことを。カナとヒロはそれよりも、とにかく目の前にある『物作り』に没頭してしまうから、なかなかそんな考えまでに至らない。後回しになってしまう。その手がなかなか届かないところを、こうして職人ではない経営者がきちんと導いてくれている。

 そんな、職人にとってこんなに頼りがいある経営者が側にいたのに……。家族で兄であったがために、カナはその貴重な素晴らしさにも甘えきっていたようだ。

 それも離れてみて、ようやっとわかったこと。

「ヒロは親方としても立派に務めてくれているし、山口の雑貨店の商品も売れ筋を揃えてくれている。店は順調だ。だが、やはりな……。どんなに職人として安定してきても、ヒロは小物ばかり作って、創作をしなくなってしまった」

 え? まさか、ヒロも造れなくなっていた? 彼はほんとうに自分の相棒なのだと感動するとともに、本当に申し訳ないことをしたのだと絶句する。

 なのに。自分も暫くは創作は出来る状態ではなかったのに。行きついた工房で、ヒロではない相棒で、それだけならともかく、そこでようやっと出来た作品で銀賞を取ってしまった。

「そんな……。わたしだって、瑠璃空を作ったのは締めきりギリギリで、それまではなんにも出来なかったのに」

 状態は相棒をなくしたヒロを同じだった。でも、ひとりで先に行ってしまったカナを知り、カナのせいでなにも出来なくなったヒロはどんな気持ちになったか。

 だから。ヒロに謝れ――。自分に精一杯だったとはいえ、彼の気持ちを無碍にしていたことは、本当に詫びなくてはいけない。

「それをしてくれねば。おまえと一緒に俺はでかけられない」

 自分たちだけ、思うとおりの時間を過ごすことは、彼に申し訳ない。義兄は哀しく目を伏せた。それだけ、義兄がヒロの姿を見てきたと言うことだった。

「わかりました。行きます。山口の家へ……」

 その彼女がいるだろうが、もう避けようとは思わなかった。

 ヒロに詫びて、それで帰ろう。

 倉重耀平の妹です――と、挨拶をして、もう終わりにしよう。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 昼下がりの午後。義兄のレクサスは、懐かしい古都の国道を走り始めていた。

 こんもりとした小さな緑の山があちこちにあって、そして、ついにカナの目に、丘の上の緑から見え隠れする『サビエル聖堂』が飛び込んできた。

 あの麓に、大切にしたかったのに、ぞんざいにして壊してしまったなにもかもがある。山口の家がある。

 今頃なら、艶やかなシャクヤクが咲いている頃。もう二年も放っておいてしまった。

 車は古く狭い道に入り始める。懐かしい住宅地の家並み、見覚えのある垣根が奥に見えた。

 その緑の垣根の前に、義兄は車を駐車させる。

 室町時代の薫りの中に、異国のチャペルが見える街。深い緑が溢れる町並みと、そして、古い町屋の色合い。風の匂いが富士とはまったく異なる。空の色も違う。でも、懐かしい!

 車を降りたカナは、すぐに庭に歩み寄る。緑の垣根をそっと覗き込むと、庭もなんにも変わっていなかった。

 大好きだったシャクヤクが大輪の花を咲かせていて、カナはつい微笑んでしまう。

 そんなカナのすぐ後ろで、義兄も微笑んでいた。

「今年も見事に咲いているだろう」

「まったくそのまま」

 どこかで若いお嬢様のために、家の様子のなにもかもが変えられているかもと恐れていた。でも、カナが出て行った時のままの庭だった。

 もうすぐ鉄線花も咲きそうだし、紫陽花の葉も青々と伸びている。

 部屋への上がり口にあった大きな水鉢もそのままで、ちゃんと赤と黒の金魚が泳いでいて、水草も涼しげに水の中でそよいでいる。

 まったくそのまま……。

「なにも変わっていない。……嬉しい」

 ふいに出た言葉だった。でも、それはすぐ後ろで帰ってきたカナを見つめていた義兄にもちゃんと聞こえている。

「本当にそう思ってくれているのか」

 カナの背にぴったりと付き添ってくれている義兄が笑いながら、大きな手で黒髪の頭を撫でてくれる。

 そうして、カナを愛おしそうに慈しんでくれる手が懐かしくて、でももうこの優しい手とも別れなくてはならないのかと思うと切なくなる。

「あ、おかえりなさいませ」

 目の前、金魚の水鉢がある上がり口に女性が出てきた。

 カナは思わず、硬くなる。

 彼女が現れると義兄もさすがに、カナに触れていた手を離し『しゃん』とした。

 家の中から耀平兄を見つけて『おかえりなさいませ』と言うのなら、『マイさん』に違いない。

 しかしカナは、その彼女を一目見てショックを受ける。それまで、やはりこの家はわたしが知っている時のまま、まだわたしが残っているという安堵が心を和らげたが、それが一瞬で吹き飛び、身体中を凍らせる。


 


 ――彼女のお腹が膨らんでいる。

 つまり『妊娠している』。


 


「あ、もしかして。そちら様がいつも耀平さんがお話してくださる妹様ですか」

 お上品な話し方が、まごうなきお嬢様育ちを物語っていた。もう、もう、彼女を見ているだけで、彼女の声を聞くだけで、カナは気が遠くなる。

 兄さんは、義兄さんは、この女性を愛してしまったんだ……。なにもかも遅かった。

「はじめまして。花南さん……ですよね。耀平さんにお世話になっております『岸田 舞』と申します。あの……」

 深々とお辞儀をしてくれ、でも、とても申し訳なさそうに花南を垣根越しに見つめている。

 おっとりとした、すこしふくよかな小柄で愛らしいお嬢様だった。

 義兄と並ぶと、こちらのほうがもしかすると『お歳が離れたご兄妹ですか』と聞きたくなるほど、微笑ましいお二人に見てもらえそう。ツンとした顔ばかりしているカナと違い、彼女は優美な品の良さを滲ませていた。


 


やっぱり、ダメだよ。お義兄さん。子供を授かってしまっているなら、どんな我が侭もダメ。わたし、そんなことできない。もうこの人に返さなくちゃ。お腹の赤ちゃんの父親になる人は返さなくちゃ。


 


 最悪だった。なにも変わっていないこの家で。義兄は結局、カナより若い愛らしい女性を愛していた。


 なにも変わっていないと嬉しくなった気持ちも。義妹が懐かしむ微笑みを見て、義兄が優しい手で迎えてくれた柔らかさも。もう全てが急激に色褪せる。


「舞さん。豊浦の本社にいる間の留守を有り難うございました。お加減はいかがですか。あまり無理はしないように」

「ありがとうございます。ヒロさんと職人さん達のお昼ごはんが終わったところです。お台所お借りしました。もうすぐ片づきます。そうしましたら、私も、お店番に戻りますから。どうぞ、お二人でくつろいでください」

「舞さん。ほんとうに店のことはお気になさらず。きちんとスタッフを据えているのですから」

「おじゃまですか。じっとしていられないんです。だって、私。やっとお仕事が出来るんですから。耀平さんには本当に感謝しております」


 どこか他人行儀だけれど、お育ちの良いお嬢様と品格を磨いてきた副社長のお上品カップル故のやり取りにも思えた。

 もうここにはいられない。もうすぐにここから帰ろう。

 カナは呆然と……。まだ膨らみはじめたばかりの小さなお腹を撫でる女性をただただ見てるだけ……。動けなかった。

 その義兄が急に言う。

「彼女はいま遅い反抗期で、カナ同様の『家出娘』だ」

 家出、娘? カナはきょとんとした。お腹が大きい彼女が、家出? 義兄さんと暮らすために家出? 家族に望まれて婚約したのに、家出? なにか辻褄が合わない。

 さらに義兄は、彼女のことをカナにこう紹介する。

「産まれる子供は、ヒロの子だ」

 ――え!

 今度は違う目眩が起きた。

 これが本当の脱力? ふらりとよろめいたカナは、後ろに立っていた義兄さんの腕を掴んで、落ちていきそうな身体をなんとか立たせる。義兄さんもすぐにカナを抱きとめ、支えてくれる。

「カナ? おい、カナ」

 そして。義兄さんが、ずうっとカナを面白そうに笑っていたわけもわかった。

「け、結婚って……う、うそだったの?」

「まあ、そうだな。ただ表向きは彼女と婚約するふりをして、『ヒロに一目惚れしてしまった、一途なお嬢様が駆け落ちをしないよう』、あちらのお母様に頼まれてこっそり預かっているだけだ」

「そ、それって。つまり、カモフラージュ?」

 もう! 義兄さん、最初からそのつもりで、なにも知らないわたしが泣きそうな顔で『一緒にいてお願い、でも、やっぱりダメ、だってお兄さんはもう彼女のものだもの』と揺れているのを見て、楽しんでいたんでしょう!

 そう言いたい。天の邪鬼なら『もう義兄さんなんて、大嫌い!』と、ツンとして彼を困らせてつっぱねなければならない。そんな素直じゃない天の邪鬼が、カナという義妹なのだから。


 


 でも今日のカナは――。

 もう耀平兄さんに、泣きながら抱きついていた。

 


「もう、どこにもいかない。耀平兄さんも、どこにもいかないで」

 新橋色のネクタイに、涙をいっぱいこすりつける。

「カ、カナ。その、うん……嘘ついてここまで連れてきて……悪かった」

「にいさん、兄さん。耀平兄さんと一緒にいる」


 


 バイバイ、天の邪鬼。


 


 人目も憚らず、カナからキスをした。つま先をきゅっと立てて、背が高い義兄さんに『愛している』のキスをする。

 彼も緑の垣根の側で、カナを抱き返してキスを返してくれる。

 丘の上からカリヨンの鐘が鳴る刻。いつも重苦しく哀しく聞こえていた鐘が、こんなに澄んで聞こえたのは初めてだった。


 

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