16.瑠璃の空を粉々にして


 云うまでもなく『技』というものは、積み重ねの『鍛練』に他ならない。

 日頃の『訓練』が、いざという時に冷静な判断をさせると他種業でもよく云われること。

 いざというときに発揮できるのは、なんでもない日に真剣に取り組んできた経緯があってこそ。


 ガラスは他の工芸と違い『今日はここまで。保管して明日続きをやろう』ということができない。

 その日に吹いたガラスが冷えたら、そこでもうおしまい。また一から吹いて形を造らないといけない。

 吹き竿に溶解炉のガラスを巻いたら最後、形に成すまで、色合いも型も表現もすべてを練り込んで数時間で仕上げなくてはならない。

 出来かけを置いて、また明日。またあとでは無い。だからこそ、思うとおりの色に、風合いに、形をその瞬間瞬間に仕上げられるのは、常日頃、いかにガラスと向き合って触れてきたかに左右される。


 そんな観点でいうと、芹沢親方は既に卓越されている。彼が吹き竿に思う素材を巻き付けたら、それは数時間後に溜め息がでるような芸術品に仕上がっている。

 この短い間に、思うままにガラスを操って表現できるのは、熟練の勘と技としか言いようがない。

 ガラスを始めて十六年目。カナも職人という域には来たかと思うが、芸術家と言われるには、まだまだだった。

 グラスや生活雑貨などは、女性らしいセンスを生かして器用に造れるようになっても、では創作はというと思うように生産が出来る訳ではない。


 でも。義兄がいうところの『時間をかけすぎるのは非効率』という癖が抜けなくても、山口の工房で造ったものは、ほどんどがすぐに売れた。

 最後にあの家の工場でつくった『金春色の大杯』も、義兄が『いい色合いに、風合いだ』と一発で気に入ってくれ、そのまま本店の店舗に持っていってしまった。

 後で聞くと、義兄の営業でツテのある百貨店の外商さんが買い取ったとのことだった。その外商さんがお得意様に持っていくと、すぐに売れたとか。

 あの日の感覚とはまた異なるものを抱いているが、カナはそれを思い出し、自信を取り戻し、精神が研ぎ澄まされるよう以前の感覚を取り戻そうとしている。


 試作品が出来た。色合いと風合いを親方に見てもらうのは、冷却炉で冷え切る二日後になる。


 


 創作を始めて二日目。冷却炉から試作品を取り出すことになっている前日の夕。

 母がカナに告げた。

「明日、帰るわね」

 工房から帰ってきて、さて着替えて、母と夕食を作ろうとしていた時だった。

 三連休は終わっていたが、母は孫と一緒に遠縁の法事に出掛けているという名目で航を休ませ、湖畔でくつろいでいた。

 航が言ったとおり、学校を休ませても一日二日。ちょうどその時になって『帰る』と言いだした。

 航が駄々をこねたのかと、カナは思ってしまった。

「そう。気が済んだの、お母さん」

 母がこっくりと頷く。そして、冬なのに汗だらけすすけた作業着でいる娘の手を優しく握りしめる。

「カナ。思い切って会いに来て良かったわ」

「わたしも、お母さんが会いに来てくれて嬉しかった」

 その母が目に涙を溜めていう。

「貴女の好きなようにしなさい。もうなにも言わない」

 姉のことで苛んでいたのは自分だけではなく、義兄も母も。そして母も溜めていたものをこの湖畔で吐きだして、様々なものが昇華できたようだった。

「これからの貴女の作品を楽しみにしているわね。頑張りなさい」

 創作を始めた娘の姿を母はじっと見ていてくれた。まだ試作品だというのに、炎に向かって吹き竿を回し、熱いガラスを形にしていく汗まみれの娘を、竿から試作品のガラスを切り離すまでじっと航と一緒に見ていた。

 まるで。娘を手放すかのような顔つきだった。でもカナはそんな母の顔を刻みながらも、少しも躊躇うことなくガラスの竿を吹いた。

 祖母と一緒に見守っていた甥っ子も、とても神妙な顔つきだった。

 彼もその日の夜、叔母に言った。『カナちゃんがガラスで生きているって、父さんにちゃんと伝えておくよ』と。『帰ってきて』とは言わなかった。

 家族の誰もが、カナはガラスで生きていくと……手放してくれた。

 そうなってみて、カナは初めて。なかなか聞けなかったことを母に問うた。

「あの、お母さん……。義兄さんのお相手て、どんな方なの」

 聞けば、どんな人でも哀しくなるとわかっていて、でもカナは心を強くしてやっと尋ねていた。

 義兄の結婚を知って、すぐに背を向け外に飛び出した。そんな娘を見て、母も甥っ子も『結婚のことは話題にしない』と話し合ったのか、湖畔に滞在中はカナの前では口にしなかった。

 そこへやっと、カナから触れてみる。そして母がやはり苦笑いをこぼした。

「県会議員のお嬢様よ。二十七歳だったかしらね」

 カナより若かった。そんな、義兄さんと親子ほど歳が離れていてびっくりする。

「お兄様が二人いらっしゃって、こちらはもう元々の一族の会社をそれぞれ引き継がれて経営しているの。末のお嬢様は遅くに生まれた女の子らしくて、とっても可愛がられて育ってきたみたいで、生粋のお嬢様よ」

 それはそれは……と、カナはたじろいだ。自分と比べて……ではなくて、義兄の行く末を案じた。そんな婿殿として倉重にいるだけで、それなりに立場が弱いところにいるのに。これまたお嬢様の婿殿になったら、頭が高そうなお義父様に口うるさそうなお義兄様達を相手にするようになったら、もっと大変ではないかと思った。

 それでもあちら様が乗り気のようで、そこまでして倉重と提携したいということは、金銭的にはこちらが『上』ということか。あちらは一族経営の会社が少なくとも兄と弟で二社あるということ? そして県会議員のお父様のバックアップをしろってこと? 金のバックアップをしてくれたら、様々なツテやネットワークに顔が利くようになるというのが、倉重家のメリット?

「お金目当てなの」

「まあね。でもお父さんは地方でしか顔が利かない経営者という位置づけですから、もっと広い地域に進出するのに人脈やコネが欲しいのでしょう。地元の県会議員となると、内閣と近しい土地柄ですからね。太いパイプになるでしょう」

「それで親子ほど歳が離れた耀平兄さんと? お嬢様がかえって気の毒のような」

「かといって、航が成人してから婚約するといっても、あちらのほうが十歳も年上のお姉様になるし、私としてはこちらのほうが絶対に許せません」

「それなら。お母さんは、耀平兄さんとお嬢様の方がまだマシだというの」

 『まさか。どちらも嫌!』と母が憤った。どちらも嫌だから家出をしてきたんじゃないの! と。

「耀平さんだって最初はとっても嫌がっていたのよ。でもお父さんの面子を気にして、見合いをするだけしたのよ。それがいつのまに、その後どういう交際をしていたのか知らないけれど、あの山口の家に住まわせていたのよ!」

 カナは恐る恐る聞いてみる。

「も、もしかしてお母さんの堪忍袋の緒が切れて家出してきたのは……」

「ええ。そうよ。耀平さんがあの家に女を連れ込んでいたことよ! それを責めたら、お父さんが耀平さんの味方になって『大いに結構。すぐに婚約しよう』なんてはしゃいだから航と一緒に怒って出てきたの!」

 父と夫婦喧嘩だけかと思ったら、お気に入りの婿殿に裏切られた母としての怒りも上乗せになっていたようだった。

「まあ、あのお嬢様ったら。お父様がいらっしゃらないとなにも出来ない、なにも話せない、大人しいだけの箱入り娘かと思っていたら、いつのまにか耀平さんのテリトリーに入り込んでいて、もう悔しいったら。猫でも被っていたのかしら。だとしたら、ますます気に入らないわ!」

 これは、この結婚はお嬢様にとってはあまり良くなさそう――と、カナは妙なところが心配になった。

 喜ばしく思っているのは、互いの男親と兄達だけであって、家族である女達にはとんでもなく迷惑な話のような気がする。

 そのお嬢様も耀平義兄さんを気に入って甘えているのならまだしも……。こんな般若になりかけているお姑さんがいたら大変なこと。しかもちょっと扱いにくい義理の息子ができちゃって、世間知らずでなにもできないお嬢様にはひとたまりもないと思う。

 でも――と、カナは堪え気を強くする。

「でも。耀平義兄さんがそれで良いと思っているなら、もう仕方が無いじゃない」

「そうかしら。耀平さんはお父さんにいいように使われているだけじゃない。これから気を遣う相手が増えるだけよ」

「そうだけれど……」

 そしてカナは言いたくないことを、自分に言い聞かせるように、そして認めるようにして呟く。

「あの家に女性を住まわせるだなんて……。余程だと思うの……。義兄さんがそれを望んだということがもう、義兄さんの覚悟で望んだことなんだと思う」

 カナという女は忘れた。ここで新しく家庭を作る。そう決意できなければ、あの家に女性を入れることは出来ないと思う。

「せめて……。新しい家で、新しい生活をして欲しかった。わたしはそれだけ」

 さすがにここは涙がこぼれた。そんな娘を母が抱きしめてくれる。

「わかったわ。それは耀平さんにもう一度だけ、お母さんから言ってみるから。まったくその通りだと思うわよ。あちらのお嬢様も、倉重の娘と婿殿が暮らしていた家だと知ったら気分が良くないでしょうしね」

「ううん。もう、いいの。義兄さんにおめでとうと伝えて」

「それでいいの、カナ。本当にいいの。今なら間に合うわよ」

「そこまでされちゃったら、もう首をつっこむ気にもなれないわよ」

 山口の家に住まわせていることが、カナにとってはかなりの決定打だった。それとも義兄はカナにそう思わせるために、カナがそう聞いてから思いを断ち切ってさらにひとりになって新しい人生を歩んでもらうために、わざとしたのだろうか。

「でも。ガラスはちゃんとする。そう伝えて」

 カナ……と、母が泣き崩れてしまった。

「新しいお嫁さんをあまり苛めないで。お母さんも楽しく過ごして。嫌になったらいつでも家出してきて。わたしがいるじゃない。お母さん」

「そうね。ほんとう、ここでの数日間は息が出来たみたいに楽しかった。そうね……そんな場所を娘がこしらえてくれたと思って、お母さんも堪えてみるわ」

 女二人で頷きあう。

「さあ。最後の夕ご飯を作りましょう」

「うん」

 親方の条件通り。母と娘でここ数日は食卓を整えた。親方は久しぶりにおふくろさんの味を堪能したと喜んでいた。

 航も工房の兄貴達に可愛がられ、親方に懐いて、雪の世界を楽しんだようだった。


 


 最後の晩。カナは航の部屋を訪ねる。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 部屋を訪ねると、甥っ子は窓際で夜空を見上げていた。

「航。入ってもいいかな」

「カナちゃん。いいよ」

 じっと紺碧の空を見上げている。

「星が凄いんだな。豊浦の海辺も星が綺麗だと思っていたけれど、ここは流れ星が当たり前のように流れている。ここにいる間、もうたくさん見た」

 そういって甥っ子は窓辺から離れない。

「そうね。これが海抜0メートルの海辺と、1000メートルの差ね」

「1000メートルも高いところに、宇宙に近づいているんだ」

 一緒に見上げたその瞬間にも、ふっと星が流れて消えた。

「凄いな」

「寒いけれど、湖畔に行ってみる? もっと空が近く見えるよ」

「マジで。うん、行く」

 二人で完全防寒に整えて、夜の湖畔に出てみることにした。

 女子供だけでは物騒だと、親方がついてきてくれる。

 工房すぐ目の前の湖岸に降りてみる。岸辺だけ凍った湖を足下に、航が空を見上げて『すっげー』と空に両手を伸ばした。

「カナちゃん。これを見て暮らしていたんだ」

「うん。こんどこれをガラスにしようと思っている」

「そうなんだ。出来たら俺に見せて、メールで送ってよ」

「うん。わかった」

 頑張ってね。カナちゃん。甥っ子の激励、それだけでカナは泣きそうになってしまう。

 親方は、また別れの夜を過ごす甥っ子と叔母をそっとして離れたところで待っていてくれている。

 凍った湖岸で甥っ子と一緒に星を見上げ、カナは素直な気持ちを彼に告げる。

「航。綺麗な星空をガラスにしようと思っているわけじゃないの」

 さすがに甥っ子が首を傾げた。

「……そういえば。父さんも言っていた。表現は、うわっつらの美しさしか表せないものは逆に美しくない――なんて言っていた。それのこと」

「うん、そんなかんじかな。わたしがね、この星空を見た時、すぐに思い浮かんだことはなんだと思う?」

 わからないと甥っ子は素直に首を振った。

「この星の数ほど嘘をいっぱいついてきた――」

「それをガラスにするんだ」

「まだうまく掴めないんだけれどね」

 『嘘がいっぱいか』と、まだ中学生なのに航はどこか遠い目をして星空を見上げている。

 横顔が、眼差しが、本当に金子さんにそっくり。カナは泣きそうになる。あの人は死んでしまったけれど、ここに残っているんだと強く感じた。

 姉との彼の関係が不適切なものだったとしても、姉も彼も遺していったんだなと思った。

 そんな二人の子供が、星空の下に晒されたからなのか思わぬことを呟いた。

「カナちゃん。お母さんはどうして萩の海に落ちたんだろう」

 零れそうだった涙がぴたりと止まる。そして血の気が引くような寒さが身体を駆け上がった。

 星の数ほど嘘がある。航が感じている嘘は、母の死。そしてそれを知っているはずの大人達が綺麗事しか伝えていないことを察してしまっているという驚きが、カナを密かに震わせた。

「どうしたの、航」

 なるべく平静を心がけ、カナは静かに聞き返してみた。

 星を見つめたままの航も、星空に感化されたように続ける。

「俺と父さんが眠っている家がある豊浦の海より、ずっと離れた萩にどうして向かっていたんだろう」

 萩は遠くはないが、車で走らないと近くはない街だった。夜中に母がそこへひとりで向かい海に落ちた。どうして? もう航は子供ではない。賢ければそれぐらい見通しもつけられるようになる年頃になっていた。

「妹のわたしにも、まだわかっていない」

 本当のこと。だいだいの察しはついていても、だったらどうして金子さんのところに辿り着かず海に落ちたのかは、もう誰にもわからないから。

 それでもいつか。この子なら知る日が来てしまう気がする。

「航。カナ叔母さんがいることを忘れないで」

「うん」

「お願い。お母さんの死はみんなが哀しんだことなの。航ひとりで哀しまないで」

 そしてカナも星空の下、感じた気持ちを甥っ子に素直に伝えようと思う。

 大きくなった航をカナは久しぶりに胸の中に抱きしめる。大きくなった思春期の男の子だから、大人の女性に少し抵抗を感じたのか身体を強ばらせた。それでもカナは抱きしめた。

「男らしくなった航の顔を見て、姉さんが航を遺してくれて良かったと……思った」

「カナちゃん。また会いに来てもいい?」

 子供に戻ったような声が、カナの耳元でくぐもった。しっかりした男にならなくちゃ。彼はもうそれを架している。姉のようになりそうで怖い。だからカナはもう一度しっかり抱きしめた。

「もちろん。航と一緒に暮らそうという約束を破ってごめんね。でも、これからは航にだけはどこにいるかちゃんと知らせるね。まだここにいるから、いつでも会いに来て。叔母さん、もう航をひとりにしないよ」

 本当にごめんね。抱きしめて、彼の黒髪を撫でてカナはひとりで家を出てしまったことを詫びた。

「父さんのこと、もうほんとうにどうでもいいの? 本当に父さん、再婚しちゃうよ」

「うん。もう……ただの妹だから。でも叔母さんであることは変わらないでしょう。ね、航」

「父さんとカナちゃんが良かったって言っただろっ」

 大人ぶっていたけれど、やはりまだ子供だった。カナが泣く前に、航が泣き出してしまった。

 泣いて泣いてどうしようもない少年を、カナはただ湖岸で抱きしめる。

 星の下で晒されるもの。甥っ子もここで少しは綺麗になっただろうか。握りしめていたものを、手放せただろうか。

 親方はただ黙って、叔母と甥っ子の別れを見守ってくれていた。


 翌朝、母と航がバスに乗って御殿場へと向かった。

 二人が無事に豊浦に帰宅したら、間をおかずに義兄が婚約をすることだろう。

 心にどんなに痛みがじくじくと残っても、カナはやっておきたいことがある。

 それを済ませなければ、手放してくれたアナタには会えない。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 コバルトと空色の配分は、なかなか思うように行かなかった。

 色合いというよりも、カナがイメージする図案どおりにならない。

 だけれど、形は決めた。

「大皿でいきます」

 以前に造った金春の大杯よりも大きいサイズになる。こぢんまりとした世界にしたくない。大きく表現したかった。

 最後のスケッチを親方に見せる。瑠璃色がほとんどの皿に、僅かに空色が流れるデザイン。空の下にある湖を思って描く。そしてアクセントに『煌めきの粉』を入れ込むことにした。

 瑠璃と銀の取り合わせはひと目を引くし、鑑賞客や買い手にも人気がある配色で好まれる。その分、よく使われるものだった。だが、人目を引きやすい『輝き』を用いることは、安易な素材を選んだとして審査員には厳しい眼で見られる。

 その王道的な配色に、敢えて挑む。

「人目を引くものは大勢の支持を得やすいが、その分ライバルも多く、トップを獲得するには大多数を払いのけて駆け上がるほどのエネルギーを生み出さなくてはならない」

「わかっています。ですがこれ以外に造りたいものなど今はありません」

 『花南』という作家の目を、芹沢親方は長くじっと見据えていた。だがカナに揺らぎはない。

「いいだろう。色合いのバランスを見て、分量に気をつけろ」

「半月の間に仕上げます。それで思い通りにならなかったら、今回は諦めます」

「そうだな。だらだら造り直しても、いまはその時ではないということだな。俺も同じようにしている」

 まだ表現に至らぬ技量と判断し、今回はこのテーマは見送るという覚悟も決めた。


 母と航と別れ、義兄との日々を手放し、花南はひとり。炎に向かう。


「花南、俺はいつでもいいぞ」

「コバルトの色被せから始めます」

「了解。でかいサイズだから、花南の力が持たないところは俺をおもいきり頼ってくれ」

「お願いいたします」


 吹き竿に下玉のガラスを巻き取る。

 いつものブローから下玉を造り、上玉まで造る。

 さあ。ここから――。


 義兄さん。わたしが生まれた町の海の色をした大杯を造り出す前の夜。わたしはの中は、義兄さんという男の匂いを求めて女の熱をどろどろと渦巻かせていた。

 貴方にまみれて、翌朝、そのまま貴方をまとわりつかせて、炎に向かった。

 男と女のとろみを削ぎ落として、なにもなくなった時に、あの青色は生まれた。

 いつもそう。わたしの削ぎ落とすは、意地汚さは、義兄さんを愛してしまったことだった。

 だから、嘘がいっぱい生まれてしまった……。


「コバルトを被せます」


 透明な上玉に、瑠璃色になる色ガラスを巻き付ける。

 吹き竿を台においてくるくると回し始める。

 手のひらに収まるグラスではない。なんどもガラスを被せて大玉にしなくてはならない。


 やがて花南の腕から力が落ちてくる。

「花南、交代だ」

 すぐに察してくれた勝俣先輩がカナが持っている吹き竿を手にして、回る作業を交代してくれる。

 相棒に任せる。それまで腕を休め、カナは先輩を頼り全面的に任せる。


「これくらいでいいか。花南」

「はい。成形します」


 大玉になり、いよいよ鉄バシや鋏で成形に入る。

 竿先に切り離す際に必要なくびれを入れ込み、大玉の先端に鉄バシを挿し入れ開け口を造る。

 まだ花瓶のような細長い大玉状態のうちに、模様付けをしてしまう。

 そこで勝俣先輩から吹き竿を返してもらう。いよいよカナの腕のみで成形をする工程になる。

「勝俣さん、酸化銅のスカイブルーをお願いします」

「了解」

 ヒロがそうしてくれていたように、今は湖畔の先輩が竿に色ガラスを巻き付けて、大皿の素になる大玉へと高い位置から垂らしてくれる。

 まだ花瓶のような形の大玉、皿になったらこの辺りになるだろうと予測する位置に、異なる色を模様付けする。

 瑠璃色になるはずの燃える赤玉を回し、ほんの少し空色になるはずの熱いガラスを巻き付け鋏で切る。

 それを焼き戻し炉に入れて回し、馴染ませる。同じように煌めきの素になる『雲母』をちりばめる作業に入る。

「つけすぎるなよ。難しい位置に分量だ」

 もうこの段階では、人の手は借りられない。カナの手で大玉に必要な色合いを乗せて行かねばならない。

 大事なアクセントになる『雲母』を慎重につけ、焼き戻し炉で再び焼き付ける。

 細身に細腕の女が、長くて太い吹き竿を手にして休まずに回し続ける。休んだら形が崩れる。でももう男の手は、先輩の手は借りられない。

 だから勝俣先輩が心配そうにそわそわと見守ってくれている。


 大丈夫。出来る。やるよ。


 初めまして。カナちゃん。お姉さんと結婚することになった耀平です。

 まだ三十歳になったばかりの爽やかで好青年だったお義兄さんの微笑み。

 兄貴になるんだから。なんでも頼ってほしい。

 いいよ。持っていけよ。そんなに気に入ったのなら。

 これ。カナちゃんが吹いたガラスなのか。すごいな。

 カナちゃん。美月と最後になにを話した? こんなことになるだなんて。


 泣かないで、お兄さん。お兄さんのせいじゃないよ。


 なにも知らない義兄に、お兄さんのせいで姉が飛び出したんじゃないと教えたかった。

 でもカナも知らなかった。姉と義兄は夫妻生活を破綻させて決裂していた。義兄は最後に姉と交わした言葉を思って、ずっと自分を責めてきたのだろう。


 カナ。帰るぞ。俺と一緒に山口に帰るんだ。


 五年が経ち、小樽に迎えにやってきたお義兄さんは人が変わっていた。

 笑顔を見せない無口で機敏なだけのビジネスマンになっていた。

 その日まで優しい語り口だった『カナちゃん』と呼ぶ、好青年のお義兄さんではなくなっていた。

 でもそれは、年に二回ほど小樽から帰省する度に感じていたことだった。

 カナちゃんと呼んでいた義兄さんが、いつしか徐々に『カナ』と呼ぶようになり、笑顔がなくなり険しい表情が多くなった。そしてカナが話しかけても当たり障りない短い返答しかしてくれなくなった。

 いま思えば、あの頃。既にもう『航が俺の子供ではなかった』と知り、では妻はどこの男といつそうなって俺を裏切ったと怒りに燃えていたのだと思う。

 彼の内側にもどろどろと、どす黒いものが渦巻いて渦巻いて。屈辱に、嫉妬に、後悔。それらに染まった義兄は冷たい人になっていた。

 その冷めた態度で、カナを迎えに来た。

 奪われるようにして、女にさせられた。

 だけれど。義兄さんは、不機嫌なカナをそばにしても、あの家の庭に花を植え、自分の好みのもので部屋を飾り、そしてガラスを吹く妹を見守っていくこと、またカナが造ったガラスを見て目を輝かせてくれるよになって、徐々に懐かしい笑顔を見せてくれるようになった。

 そして。息子の航とカナが一緒にいると、義兄は大声で笑ったりして楽しそうだった。

 彼がほんとうに欲しかったもの。それをわかってくれる家族。それが彼を癒しているのだとわかっていたはずなのに。


「花南、どうした。待ってろ」


 床に置いたリン紙に大玉を置いて、竿を回し形を整えているカナの頬に涙が溢れていた。

 勝俣先輩が急いでタオルを持ってきて、竿を手放せないカナの代わりに拭ってくれた。


「すみません。でも、大丈夫です」


 訝しそうにしながらも、先輩も黙ってそのままのカナに付き合ってくれる。


 開けた口が花開くように大きくなり、やがて皿の形になって咲いた。その形を整えるため、竿を回すのはまたここで先輩にお願いする。

 カナは回る皿の正面に立ち、鉄バシで円形になるよう縁を整えた。


 湖畔に来て初めて。『花南』という作家の作品が久しぶりに出来上がる。

 冷却炉に収め、数日後の出来上がりを待つ。


 


 二日後。冷却炉から大皿を取り出した。

 工房が開く前の早朝に、親方と勝俣先輩と一緒にそれを確かめる。

 両腕いっぱいの皿を取り出して、三人で眺めた。


「うん、すごいな。この大きさだと模様ものびのび描かれている気がする」

 ほぼ瑠璃色に覆われた皿の一端から空色が細く流れ込むように仕上がっていた。その流れに沿うようにキラキラとした細かい銀粉が星のように散らばっている。

 瑠璃の空に流れる湖の空気と星。色合いは美しかった。

 勝俣先輩は感嘆の溜め息をこぼしてくれたが、親方は唸っている。

「花南。どうなんだ」

 達人としての評はせず、親方はカナを険しく見つめて問いただす。

 カナはやっとの思いで造り上げた湖畔の夜空を思う大皿を見つめる。


 そしてカナは。大皿の側に置いてある『金槌』を手に取った。


「駄目です」


 一目見ただけで、その出来を惜しむことなく金槌を振り上げる花南に勝俣先輩が驚き、その腕を止めた。

 だが、今度は先輩の腕を親方が掴んだ。

「勝俣。離せ。俺もそう思う。これは駄目だ」

「ごめんなさい。勝俣さん」


 彼が無くては出来なかった大皿なのに、カナはそれでも大きく腕を振って思いきり大きな瑠璃色の皿へと振り落とした。

 早朝の工房に、ガシャンと湖の氷が割れるような音が響いた。


「花南……。何故……」


 勝俣先輩は哀しそうだった。思いを込めて造ったのではないのか。おまえは真剣に向き合っていたよ――と言いたそうだった。

 それでもカナは答える。

「涙を流して造ったものなど、思いを込めていたどころか、ガラスに毒を混ぜているようなものです。おどろおどろしいままなのです」

 そう言いながら、カナはさらに金槌を振り落とした。

「形成している最中。姉が死んだ日のことを思い出していました。姉が……義兄ではない男のところへ行ったのだろうと思いながら竿を回していました。わたしは姉が選んだ男性を知っていた。航は義兄さんの子供ではなかった。義兄には内緒で、姉のためにその人に会ったりした。彼は姉の死を悲しんでくれたし、航のことも、倉重のことも心配してくれていた。わたしのことも、秘密を持たせてしまった妹のわたしのことも気にかけてくれて、切子のグラスを大事そうに持っていてくれた。わたしたちの為に死んでしまった……。航の父親は倉重を守るために、死んでしまった。その悪い男に会いに行くと知らされていたのに。あの時、わたしがそんなことをしなくてもいいと止めて、もっと早く家族に、義兄さんに相談していれば……」

 うっ。

 粉々に砕けた瑠璃の皿の下に、カナは泣き崩れた。

「私がしたこと全て――。義兄さんを傷つけていた。やつれた義兄の顔、人を信じられなくなって冷たい眼差しになった義兄さん、そして、航とわたしと一緒に過ごしてようやっと笑顔を取り戻してくれたこと。なのに、わたしが、……壊した」

 すべてを吐きだしたわけではないけれど、カナは初めて家族ではない人間の前で吐露していた。

 ほんとうは知らせるべき人に先に告白をしなくてはいけないことだと、必死に黙り込んできたことを、いまになっていとも簡単に。

 親方も勝俣先輩も、唐突に飛び出してきたカナの過去に、ただただ呆然と立ちつくしているだけだった。

 いたたまれず、カナは工房を飛び出した。


 まだ凍っている湖岸へとカナは走る。雪富士が真向かう岸辺に立ちつくした。

 そのまま。気持ちを宥めるように、凍った波打ち際をゆっくりと歩き出す。

 ――花南!

 勝俣先輩が追いかけてきていた。

 かまわず歩いていると、すこし距離を置いた後ろから、彼が静かについてくる。

 もどかしそうな息づかいが聞こえていたが、やがてカナの背に彼の声が届いた。

「どうして花南がここに流れてきたか、やっとわかった。そんな苦しい哀しいことがあったなんて、わからなくて……」

「すみません。みっともない家の事情をぶちまけてしまって」

 答えにくそうにして、先輩が黙ってしまう。それでも一時して、カナにその声をぶつけてくる。

「吐いちまったんだろう。それなら、次はいけるだろう。とことん付き合うから。やめるなよ」

 冬は終わりに近づいている。


 来月には雪解けが始まる。

「やめません。明日、もう一度やります」

 雪混じりの風が吹き上がる湖岸だったが、白いすじ雲が流れる空は澄んでいる。雄大な富士が織りなすものに抱かれている。

 なのに、どうしてだろう。風の音と一緒に、懐かしい『カリヨンの鐘』が聞こえてしまった。

 


 

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