14.妻がいない婿殿だから


 雪深い中やってきた母を、芹沢親方も驚きつつも歓迎し、暖かいログハウスへとすぐに招いてくれた。


 暖かなリビングのテーブルに落ち着くと、母は悪びれることもなく娘に告げた。

「お父さんと喧嘩して、家出してきたの」

 なんですって? と、驚いたのは眉をひそめたカナだけではない。隣にいる芹沢親方も目を丸くしていた。

「ずうっとあの家で、あの会社と、あの土地と親族に縛られた生活をしてきて、頼れるところがここしか思いつかなかったのよ」

 長年、倉重に従順に仕えていることをうまくやりこなしてきた母とは思えぬ思いきりだった。

 カナは暫く唖然としたまま頭真っ白になっていたが、ようやっと気を戻す。

「な、なにしているのよ。お父さんとお義兄さんになんて言って出てきたの」

「だから家出よ。内緒で出てきたに決まっているじゃない」

「な、内緒って。お父さんはともかく、航まで連れて来ちゃって、お義兄さんがうんと心配しているんじゃないの」

「貴女に言われたくないわね。黙ってひっそり出ていったくせに。カナが小樽にいないと判った時、大騒ぎだったんですからね」

 ぐうの音も出ない。そんな迷惑をかけた娘は黙っていろということらしい。

 もうびっくり仰天。家長の妻として心の底に溜めているものがあっただろうが、そんなことおくびにも出さずにやり除ける社長夫人である母が、そのすべてを放って遠い富士山麓まで来てしまった。

 母と航に、芹沢親方からホットミルクが振る舞われる。

 二人も身体が冷え切っていたのか、それらをすぐに口にして、ホッとした顔を見せた。

「カナちゃん。この牛乳、すごくおいしい。高原の牛乳なんだね」

 顔つきは大人になったと驚かせてくれたのに、甥っ子はおおらかそのもので、無邪気に笑っているだけ。しかしカナはその甥っ子がいることにも胸騒ぎ。カナは呆れながら母に問う。

「で、その家出に、なんで航がいるの」

「人質」

「……ひとじち?」

 頬が引きつった。こんな子供じみたことをするような母ではなかった。

 すると航がちょっと泣きそうな顔になり、俯いた。

「航?」

 久しぶりに見せる愛おしい仕草に、カナは無条件に胸を締め付けられる。

「カナちゃん。帰ってきてよ。カナちゃんがいないと、家がどんどん変わっていく。俺、今の家、嫌だ」

「変わっていくって……?」

「父さんが見合いして結婚するんだ。いままで嫌がっていたけど、祖父ちゃんが、今度は命令だ絶対だって」

「そう、なんだ……」

 いつかそんな日が来るような気がしていた。いつまでも独身にはさせておかないだろうと、覚悟はしていた。娘との結婚を望んでいただろうに、そうでないなら父はビジネスに使おうとするのではないかと思っていた。

 そんな落ち着き払っているカナを見て、甥っ子が憤った。

「カナちゃん、このままでいいのかよ。父さん、好きでもない若い女と政略結婚させられるんだよ」

「倉重の男だもの。それぐらい義兄さんも覚悟しているでしょう」

「俺は嫌だ。祖父ちゃんは、航ははもうすぐ十五歳だから理解できるなんて勝手に言うんだ。俺が理解できる十五歳になっても父さんが独身だったなら、誰かと結婚させるつもりだったんだって」

 その航が、カナを正面に堂々と言い放った。

「カナちゃん。どうしてだよ。どうして父さんと別れちゃったんだよ。俺、父さんとカナちゃんが両親になるなら大歓迎だったのに」

 いちばん責められたくない甥っ子に突きつけられ、カナは押し黙る。

 しかもカナは容易く背を向け、工房へと逃げようとした。

「逃げ癖がついている。どうしようもない」

 母親がいる場でも、芹沢親方はいつもどおりに容赦なく痛い指摘をする。

 それでもカナは青空に小雪が舞う外へと飛び出した。

 こんな気持ちで工房に戻っても、吹き竿のガラスを垂らしていびつなものを造ってしまうに違いない。戻れずに、カナはただ杉林の前で落ち着きなくうろうろしてしまう。

 母が家出なんて、大胆すぎる。そうじゃない、義兄さんがとうとう結婚する。

 覚悟していた。覚悟していて、きっとこうして報告をされたら、心が引きちぎられ生殺しのように生きていくことになるだろうと、その時は苦しんでも受け入れようと決めていた。それは現実になった。

 激務対策だと鍛えられていた細身の引き締まった体、外回りで灼けた浅黒い肌。いつしか父の代わりに修羅場を乗り切れるやり手の副社長と言われていて、母を婿殿としてエスコートした日には、ご婦人方が『素敵なお婿さん』と羨ましがるのだと聞かされている。

 そんな義兄に目をつける政財界の男も多かった思う。独身のお嬢様がいれば、ぜひ嫁にと望む人も多いことだろう。

 豊浦は、日本海と瀬戸内海の境目。ゆったりとした浅瀬の穏やかな渚に、二つの海がぶつかる。ふたつの海が結ばれるその場所で、白波のラインが沖合へとまっすぐ伸びていく。二つの海が出会う、ひとつになる場所。恋人や新婚さんに人気の場所。白い砂浜に金春色の海、爽やかな空。その鮮やかさを独り占めできるホテルをもつ倉重家。ホテルだけではない。他にも温泉街に料亭を兼ねた小さな隠れ家的旅館に、瀬戸内に面した結婚式場、リゾートマンション等々、様々な事業を推し進めてきた。その地域イチオシの観光グループの跡取り婿となれば、あいている妻の座はどうなのだと皆が気にするのも無理はない。

 ――今度は義妹を狙っている。義兄がそう囁かれることも気にしていたから、カナは敢えて距離を置いたりもしてきた。そして姉の後釜に、役に立たない芸術家肌の義妹など安易に選ばず、『もっと適したオススメの娘を選べ』と思っている者達が多いことも知っていた。カナが義兄に望まれている時は、直系の娘だからと周囲も遠慮していたのだろう。

「花南」

 風が強く木々の枝先に積もった雪が舞う中、苛立つだけのカナの背に親方の声が届く。

「おまえ、やはり兄貴に惚れていたか」

 落ち着かなかった足下を止め、カナは背を向けたまま俯く。

「それか。おまえを立ち止まらせているのは。月に一度、連絡をくれるお母さんから、おまえがどんなところで生まれて、どんな家柄の娘か知れたが、さすがに兄貴とどうこうまではお母さんも話せなかったということか」

「義兄とはもう終わっています」

 密かに深呼吸をして、なんとか騒ぐ胸を収めようとした。いつもどおりにガラスを吹こう。そうして忘れよう。簡単ではないことはわかっているけれど……、そうするしかない……。

 なのに親方が冷たくいう。

「吹けないだろ。今日はもういい」

「いえ、できます」

「アホ。どうせ割って終わるんだろ。ガチ勝負の果てに納得できず割るならいいが、そんな気休めで吹いて最初から失敗作が目に見えているだなんて、ガラスがもったいねえ」

 そのとおりだった。でも、いまガラスを取り上げられたら、手持ち無沙汰になったカナは、こんな千切れて痛い心と否が応にも向き合わなくてはならなくなる。せめて、せめて、吹き竿を手にしてガラスを見ていたい。なのにそれも取り上げられた。

 いきていたくない。もう、いやだ。

 晴れているのに地面と枝先の雪が舞う地吹雪の青空を見上げ、カナはようやっと涙を流していた。

「花南。ひとりの辛さがわかったか」

 親方は離婚をしている。大きな子供もいるらしい。ガラスは、いや工芸や芸術に身を投じる者が定職にしたり収入を得るのは難しい。ガラスに没頭する親方を見ていると、この不器用そうなお父さんが家族に厭きられてしまったのも目に見える。

 奥さんは既に、他の男性と結婚をして、小さかったお子さんは、その男性が父親として育てたとも聞かされていた。

 そんな不器用な親方だからこそかもしれない。花南の『いまなら戻れるかもしれない可能性』を諦めるなと暗に示して戻そうとしているのは、ひとりが弱い生き方だと知っているからかもしれない。

 そう。カナも結局進んでいない。過去を断ち切る。家とのしがらみを捨てる。これで進める、新しく生き直すと思っていたのに、なんにも変わっていない。

「それよりお母さんと甥っ子だが、おまえのアパートでは狭いし底冷えがするだろう。かといってあの様子だと何日も知らぬ土地で宿泊は気疲れするに決まっている。親父さんとの夫婦喧嘩のようだが、うちに泊まってもらえ」

「え、でも……」

「カナ、おまえもお母さんがいる間は、俺んとこにいろ。お母さんといろいろ話してみろ。甥っ子もおまえにわざわざ会いに来てくれたんだろう。うちなら部屋はあまっているから構わない。そのかわり、夕飯頼む。お母さんと一緒に買い物に行ってこい」

 カナが断る前に、親方は背を向けロッジに戻ってしまった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 母と夕食をつくることになった。親方の車を借りて、村のスーパーまで、母と航と出掛ける。

 湖畔を走ると二人の目が湖と富士山に釘付けになる。

 スーパーに行っても、航は始終ご機嫌で無邪気に元気いっぱいだった。

 富士山を見てはスゲー、湖を見てはスゲー、夕の茜に染まる薔薇色の雪富士を見た母と航は感動して、寒い中ずっと見つめていた。


 母と久しぶりに一緒にキッチンに立って夕食を作った。親方と母と航と四人で暖かい食卓を囲み、富士の夜が更けていく。

 航は疲れたのか、親方が準備した部屋ですぐに眠ってしまった。


「先に休みます。お母さん、ごゆっくり」

 夕食の片づけが終わると、ひとり晩酌をしていた親方は一階奥の自室へと消えていった。

 母に暖かい飲み物を作ってあげる。母と揃って二階へ行き、母に用意された部屋に二人で入った。

 暖かなベッドカバーが掛けてあるベッドと、丸い小さなテーブル、そしてソファー。柔らかい灯りの中、母娘がそこに向き合う。

「甲府と勝沼が近いから、ワインがおいしいのよ」

 ちょっともったいないが、お酒が弱い母には温めてアルコールを飛ばした方が飲みやすいだろうとホットワインにしてあげる。

「ありがとう。カナ」

 寝るまでけっして人前では部屋着姿など見せない母は、まだ来た時そのまま、きちんとおでかけ着姿だった。

 親方は夜になると、間接照明とランプにする。この部屋にもランプを準備してくれていた。ほのかに部屋を照らすガラスのランプ。親方のお手製。ほのかで柔らかい灯りの中、母が俯くと歳を取ったことを感じずにいられなかった。

「あら、おいしい。貴女、意外となんでも作れるのね」

「またそれ。いちおう独り暮らしも初めてではなかったのでなんとかやっています」

 母が静かに笑った。

「そうね。広島の大学、小樽の修行、三十になって家出。それはそれでカナのためになったのではないかと思っているわよ」

「……ほんとに?」

 すると母は銀の持ち手がついたホットグラスを握りしめ、疲れた顔を見せた。

「だってそうでしょう。お父さんの望むとおりに生きたら……美月みたいになると思うもの。可哀想なことをしたと思っている」

 あの母がいとも簡単に涙を流しはじめたので、カナはたじろいだ。

「もっと自由にさせてやりたかったけれど、責任感が強い子で頑張りすぎてしまったのね。いつも言っていたのよあの子にも、嫌なことは嫌といいなさいと。なのに、あの子、お父さんにそっくりだから、自分で自分が許せなかったのでしょう。全部完璧にして……」

 母が泣きながら、初めて娘に言った。

「母さんは、あの夜、美月は壊れて飛び出してしまったんだと思っている。耀平さんはなに言わないけれど、私やお父さんのことを庇って、美月を良い奥さんで娘のままにして守ってくれてきたんだと思う」

 またカナは一年半前に引き戻されたような錯覚に陥った。義兄は夫として感じているものがあった。母は母で感じているものがあった。

 再び『自分はあまりにも子供過ぎた』と、当時の『わたしひとりで背負っていく』という勘違いをする己を、カナはぶん殴りたくなってきた。

「カナ。今日、久しぶりに航の顔を見て、少し困った顔をしていたわね」

 ドキリとする。敵わない鋭い母の視線は、そんなカナの反応をどう思ったのだろう。そしてそれは恐れていたものを引き出した。

「母さんだって気がついているのよ。あの子の側に一番長く居たのは私よ。カナ、知っているのでしょう。お姉さんから、なにか聞かされているのでしょう。美月は、妹の貴女には自分をさらけ出していたような気がするの。貴女が、お姉さんが大好きな妹だったから、歳が離れた可愛い妹に気を許していた気がするのよ」

 大人の姉と、小さな妹。姉はなんでも良くしてくれた。なんでも出来て綺麗で素敵なお姉さんだった。あの日までは……。姉の本性を知っても、カナは嫌いになれなかった。自ら貶めて、傷つけて穢すお姉さんが痛々しいながらも、女として恍惚としていたあの幸せそうな妖艶さも忘れられない。私は完璧なんかじゃないという、彼女の叫びにも見えたから。

 赤ワインが湯気を揺らすホットグラスを握りしめ、カナは心の奥に閉じこめた『願望』を振り絞る。駄目だ絶対に駄目だと言い聞かせてきたものを、洗脳から解くとように……、いま解きはなつ。

 やっと。カナは、初めて、人に。

「姉さん、好きな人がいたよ」

 自ら、秘密の箱を開ける。

 息引いた母の顔がある。でも母は、何かから解きはなたれたかのように泣き崩れた。

「やっぱり……! その人なのね、あの子の……」

 はっきりと言葉でいうには憚ることだったが、カナには通じたのでこっくりと頷く。

「お母さんも感じていたの? 育てていると判ってしまうものだったの?」

「少しずつね。時間をかけて、ね。小さな疑いが一日ひとつずつ降り積もっていくようによ」

 そしてカナはもっと辛いことを告げなければならなかった。

「その人は亡くなりました」

 また母が驚き、今度は目を見開いたまま静止してしまった。開かれたままのつぶらな目から、涙だけが落ちていた。

「どうして!」

「亡くなった時、刑事がわたしを訪ねてきたの。男に刺されて亡くなったの。加害者の男と、刺された彼。双方が倉重に関係するものを持っていたから、警察も倉重が関係していると思って訪ねてきたの」

「まあ、どうしてそんなことが起きたの。倉重が関係して起きた事件だなんて」

「姉さんと彼の関係を知る悪い男に『倉重の娘は男がいて、子供は誰の子か判らないことを社長に言って強請る』と脅されて、その男と彼が……刺し違えて……。彼が先に刺されたらしいけれど、最後に彼も悪い男を刺したそうなの。つまり、彼が悪い男から倉重を守ってくれたの。きっと、離れていても、事実がわからなくても、航が自分の子供と可能性があるなら守ろうと決してくれたんだと思う」

 ああ! そんな悲痛な嗚咽を漏らし、ついに母がテーブルにつっぷしてしまう。

 人に悟られないよう声を殺して泣いている。そんな母を見たくなくて、必死に秘密を守ってきた。なのにカナは自分に架していた『使命』を捨て去り、結局、『これぞ最悪』という状態に自ら陥れている。

 でも……。そうではないんだ。

 どんなに辛くても、知りたい真実がある。それを知ったからこそ、前に進めることもある。

 それを、大人になりきれない、本当の覚悟が出来ない、勘違い、独りよがりなだけだったカナには判らなかったから、家族と離れることになってしまった。

「耀平さんは知っているの?」

「知っているよ。わたしが隠していたから、もの凄く怒ったの。どうして俺に相談をしてくれなかったのかと。倉重を守る男は俺なのに、知らない男が知らないところでカナと一緒に守っていたのかと怒られた」

 それが貴方達が別れた理由なの? 母に言われ、カナは素直に頷いた。

 また母が『ああ。なんてことなの』と顔を覆って泣いた。

「カナ。お母さんも怒っているわよ。どうして相談してくれなかったの」

「非道い秘密だもの。お母さんも義兄さんも、まったく気がついていないと思っていたから。だって……。姉さんが裏切った時、わたし、協力してしまった」

「あの時ね。美月が貴女の下宿に半月ほどいて、帰ってこなかった時ね」

 またカナは静かに頷く。

「まあ、カナ……。あの時、貴女はまだ十八十九。まだ若くて大人にもなりきれていない貴女が、そんなことに巻き込まれていたなんて……。お母さん、気がつかなくて本当にごめんなさい」

 隣に座っているカナの手を、母が久しぶりに握りしめてくれる。カナも涙が出てきた。こんなふうに、子供の時のままお母さんに全てを受け入れてもらって許してもらって、労ってもらえるのが久しぶりで……。

「金子さんというの。国大をトップで卒業していて、家柄もいい人だったみたい。頭が良くてクールで、でも、とても優しい人だった」

 姉と金子氏の性癖に、金子氏の本性。これは隠そうとした。それを隠した上で、なるべく真実に近しい説明になるようカナは心を砕く。

「それ、航と似ているわ。あの子、変なところで割り切りが凄くてクールなの。耀平さんは生真面目な分、人を気遣うところがあるんだけれど、航はけっこうバッサリしているの。でも冷たいふりして、後でちゃんとフォローをしていたりしてね。美月とも耀平さんとも違う気がしていたの」

「わたしも時々、もしかして……とは思っていたの。久しぶりに会って、とても似てきていたからびっくりした」

「耀平さんは、いつ?」

「わたしが小樽にいる間に、誰にも内緒でDNA鑑定をしていた。義兄さんの子じゃなかった」

 母が今度は額を覆って、深いため息を落とした。

「では……。耀平さんはもう何年も私たちに黙って、自分の子供として育ててくれていたの? そんな血の繋がりがない素振りなんてまったく見せもしなかったわよ。本当に航を慈しんで、私と一緒に育ててきたのよ」

 婿殿に酷いことをさせていたと、また母が泣きさざめく。

「金子さんは結婚できるような男性ではなかったの。だからお姉さんも諦めて、耀平義兄さんと生きていく決心をしていたんだと思う。でも……駄目だったみたい」

「亡くなったその方に、どう詫びればいいの。どう……。耀平さんにも、酷いことを強いてしまったわ」

 気に病む母に、カナは……。

「でも、たぶん。俺はこれで良かったんだって……言ってくれると思う。本当にうちのこと心配してくれていたの。自分が悪者になっても守りたいみたいだった。最後に会った時、お父さんもお母さんも、義兄さんも、そして最後に言いにくそうにして航のことも、守ってくださいって言われた」

「そうだったの。ひと目、お会いしたかった……。耀平さんは嫌がるでしょうけれど」

「うん。金子さんに内緒で会ったことも、義兄さんを傷つけてしまったの」

 涙が止まらなくなった。一緒に暮らそうねと深く愛しあった夜の翌日、別れの夜になった。あの日がいまでも昨日のように蘇る。

「花南、こっちにいらっしゃい」

 母がふくよかな身体で、花南を深く抱きしめてくれた。

「お母さん」

 十九歳の時から抱えてきた秘密。その秘密に押しつぶされそうになって必死になっていた日々を、母は受け入れてくれた。

 花はいっしょにいきていく――べきだったのかもしれない。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 世間は三連休。だから、母は航を連れて来てしまったのだろう。

 帰らないだなんて言っているけれど、きっと三連休が終わる頃には気が済んで、航のために帰るに決まっている。


「うん、大丈夫だったよ。新幹線の乗り継ぎも、三島から沼津まで行って御殿場線への乗り換えも出来た。お祖母ちゃん、元気だから」


 早朝。紺碧の夜空に溶け込んでいた湖が、少しずつ明るい色をさしはじめた頃。親方より先に焼き戻し炉の火を入れようとカナは起きる。一階へ下りる前に航の様子を見ようと、ドアの前に立つと微かにそんな声を聞いてしまう。

「わかったよ。父さん。うん、お金も大丈夫。連休が終わるまでにちゃんと連れて帰るよ。あの教育ババ様のお祖母ちゃんが、学校を休ませるなんてことするわけないじゃん……。うん、もしかすると一日二日は今回は特別だよって欠席させるかもしれないけれど、それぐらいだよ。俺もそのころには帰りたくなったとだだこねるからさ」

 ドアに聞き耳を立てていたカナは『まあ』と驚いた。

 母の家出。母は航を味方につけてやってきたと思っているようだが、実は、婿殿と孫がタッグを組んでお祖母ちゃんの我が侭にうまくつきあっているらしい。

 しかも航の大人びた口調! 大人のような考え方! 小さな男の子だったのに、いつのまにか大人を逆手に取っている暗躍にカナは呆気にとられてしまった。

「カナちゃん。父さんの結婚を知って、やっぱり哀しそうだったよ。もう、あんな若い女の人、うちに来なくていいよ。なんで、山口の家に連れて行って花嫁修業なんて名目で住まわせちゃったんだよ」

 見合い相手を、山口の家に……。あの家で花嫁修業?

 愕然とした。義兄さんが結婚することはなんとか受け入れようと思っていたけれど……。もちろん、航が高校生になったらあの家で一緒に暮らすだろうと思っていたけれど。

 カナ以外の女性を入れてしまうだなんて……。

 わかっていたはずなのに、出て行ったのは自分なのに。やっぱり嫌。

 どうして。お義兄さん。義兄さんは平気なの? 他の家を見つけてよ。

 わたし達が愛しあった家で、新しい愛なんて紡がないで……。

 ドアの前で膝を落とし、カナは声を殺して涙を流す。


 ひとりでいきてゆく。これから本当に、ひとりでいきてゆくことになる。


 

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